プロローグ
静まり返った病院の個室で、高校生くらいの少女は存在した。
少女は目を開いてはいたが、まるで眠っているのかと錯覚してしまうほどピクリとも動かなかった。一見すると死んでいるのではと思いそうだが、一定のリズムで上下する胸がそれを否定する。
外見だけを判断すれば少女は生者として扱われるだろう。生命活動の一環としての呼吸をゆっくりと繰り返している。看護師の受け答えにか細い声ではあるが返事を返す。病院内の食事に最低限口をつけることだってする。彼女は確かに生きているである。
しかし、少女の目を見れば誰もが思う。彼女の心は死んでしまっていると。
それを裏付けるかのように少女は動かない。日々を病的なまでに白いシーツの上で過ごす。体を横たえ。天井をずっと見つめている。見つめているというよりは目が天井を向いているだけで、飛び込んでくる映像を捉えてはいないだろう。
人形のように動かない少女も排泄行為の時は動き出す。毎日を動かず過ごす彼女の筋肉は少しの動作でも痛みを訴えかけてくる。だが、彼女がその訴えを受け取ることはない。無表情で痛覚の存在を感じさせずにベッドの横に置いてある車椅子に乗り込むのだ。
少女がこの病院にいるのは事故にあったからだ。血だらけの状態で運ばれ治療されたのだ。
少女がこの病院の個室で目を覚ました時、そこにはまだ感情があった。痛みに顔を歪め、看護師の問いかけに笑顔で返すことができた。
人形のように無表情になってしまったのは両足が動かないと知ってから暫くしてだ。
「アイツにとって地に足つけて歩くことは何よりも幸せなことだった」
少女のお見舞いに来た知人が看護師に漏らした言葉だ。
歩けることが少女にとって何よりも幸せなこと。その言葉を聞いた人の良い中年の女性看護師は、歩くことができなくなって落ち込む少女を車椅子に乗せて病院の敷地内を散歩した。
車椅子を押す看護師に全くと言っていいほど悪意はなかった。健常者でなくとも生活ができる、幸せな人生を謳歌できる、と少女に知って欲しくて起こした行動だ。
結果はベッドの上から動かなくるというものだった。
医師や看護師が思っていた以上に少女の幸せは強く、代用やすり替えを行えるものではなかったのだ。むしろ、『地に足つけて歩くこと』がもうできないという現実を叩きつける形になってしまった。
そのことに胸を痛めた医師の一人が少女の両親と相談した。
「義足などはできないでしょうか? あれなら地面に両足をつけて歩くことができるでしょう?」
両親の考えに医師は動き出した。義足なら彼女の幸せを取り戻すことができるのだと。頭の中で少女が嬉しそうに歩き回る想像をしながら。
医師が少女に義足にしてみないか、と彼女の両親と一緒になって提案してみた。しかし、彼女は首を振らなかった。
「私は私自身の足で自由に歩き回りたいだけ。それだけしかいらない」
少女は抑揚のない声音でそれだけを口にする。後は横になって天井を眺めるだけだった。
少女の両親は医師が隣にいるのも構わずに、少女を叱りつけた。
「世の中にはお前と同じような、もしくはより酷い怪我を負う人が沢山いるんだぞ。それでもその人達は絶望から這い上がって普通の人達と同じ社会に復帰していくんだ。努力して、新しい幸せを見つけてだ。お前が今どれだけ辛い状況なのか、父さんも母さんも痛いほど分かる。それでも、心を鬼にしてお前を叱らなくちゃならないんだ。お前に立ち直ってほしいからだ。立ち直って新しい目標を、幸せを見つけてほしいからだ」
両親の心からの説教に少女は天井から目を離す。気だるげな動きでベッドから上体を起こして、首だけを両親へと向けた。
「――知ってるよ」
その言葉を口にした少女は再び眠りの体勢へと戻る。
両親は悲しみながらも、それをおくびもださずに医師と共に部屋を出て行った。その後ろ姿を少女が見ることはなかった。
その一件から両親が少女の元を訪れることはなかった。両親は時間が少女を立ち直らせるだろうと思っていたのだ。
だが、少女を立ち直らせたのは時間ではなかった。看護師でもなく医師でもなく。またカウンセラーでもなかった。
消灯時間を過ぎて暫くしてからのことだ。
少女は暗闇の中で目を開けたまま天井を眺め続けていた。その顔に疲れもなにも浮かんではいない。ただ無表情だけがそこにあった。
そんな少女の病室に侵入してくる者がいた。
部屋の住人が寝ているかもしれないという可能性をこれっぽっちも考えていないのだろう。スライド式のドアがガラガラと音を立てて開いた。
「こんばんわー」
部屋に入ってきた人物は夜中だというのに声のトーンを落とさずに少女に挨拶をした。そして返事を待つことなく、少女のベッドへと近づいてきた。
「酷い怪我で足が動かなくなったって聞いたけど、久しぶりだね」
真上から少女の顔を覗き込んできた人物は底抜けに明るい声を出した。
少女は暗がりに映る人物の顔を見て、ため息を吐き出した。
「面会時間は過ぎていますよ先輩」
「病院に面会時間なんかあるの?」
「なければ入院患者は寝れません」
とぼけた顔をする人物に対して、少女は変わらずの無表情だった。
「ふっふっふーん。今日はゆーちゃんの為に素敵なモノを持ってきたんだよ」
脈絡もなく話し始める人物はどこからか注射器のような物を取り出して、少女の前に突き出した。明かりのない状態では何色の液体が入っているかは分からなかった。そんなことは今の少女には興味のないことだが。
「ゆーちゃんはよかったね。この薬でその足を見事治してあげよう。というわけで……えい!」
少女が何かを言う前に注射器の先端が突き刺さる。そしてみるみる内に詳細の分からない液体が注入されていく。
「な、なにを……?」
相手が何の躊躇いもなく注射器の中身を注入したことに驚いた彼女は声を上げる。
少女が何を注入したのかと問いかけようとすると、相手はぐいっと少女に顔を近づける。鼻と鼻がくっつきそうになるくらいの距離だ。
「なんだろうね? なんだろうね?」
くすくすと笑い声をあげた人物はゆっくりと少女から離れていき、そのまま部屋から出て行った。
呆気にとられた少女の枕の横には電話番号の書かれたメモの切れ端が置いてあった。
数週間後、少女は病室の外にいた。もっと言えば建物の外で携帯電話を使用していた。
「あー、もーしもーし先輩ですか? 電話するのが遅くなってすいません」
電話をする少女の顔には笑顔があった。作り物ではない自然の笑顔だった。
「すっかり元気ですよ。元気に電話中ですよ。おかげで、精密検査なーんかにかけられちゃいましたよ」
けらけらと笑いながら少女は病院の敷地内を歩き回った。事故以来動かすことのできなかった足でしっかりとした調子で。