女番長、八十稲羽を往く   作:女番長

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女番長、ジュネス八十稲羽店に行く

 転校初日、悠は学校帰りにジュネス八十稲羽店に料理の材料を買いに来ていた。

 平日の昼間という時間帯だが、店内にはそこそこだが客がいるようだった。

 八十稲羽には他に主要なスーパーやデパートが無いため、主婦を始めとした年配の買い物客が多い印象を受ける。中には、八十神高校の制服を着ている生徒もいて、若者たちにも人気なスポットと化しているのかもしれない。

 悠は菜々子との〝ハンバーグを一緒に作る〟という約束を守るために、店内の散策は後回しにして、一先ず食料品売り場に足を運ぶことにした。

 店内にはジュネスのCMに使われている曲が流れており、テンポの良い曲調に釣られるかのように、悠の買い物をする足取りも軽やかになっていた。悠は自然と鼻歌を口ずさみながら、ハンバーグに必要な材料を次々に買い物かごに放り込んでいく。

 

「いらっしゃいませー」

 

 悠がデミグラスソースの缶を探して売り場を移動した先で、若い男性の店員が忙しそうに品出しをしながら挨拶をしてきた。その店員は商品棚の中段から下段を中心に品出ししているようで、中腰としゃがみの姿勢を繰り返して地味に辛そうだ。

 なるべく店員の仕事の邪魔にならないように配慮しながら、悠は目当ての商品を上の段から順に効率よく探していく。ほどなくして、デミグラスソースの缶を見つける事が出来たが、それは店員が品出しをしている付近にあった。

 悠が店員に声をかけるべきか悩んでいると、

 

「……って、あれ? 鳴上さん?」

 

 自分の名前を呼ぶ声が足元から聞こえたので、悠は声の主を見下ろすように視線を移した。

 どうやら、声の主は品出し中の男性店員だったらしい。

 そして、悠はその男性店員に確かな覚えがある。

 

「……えっと、花村君だっけ?」

 

 悠は教室での凄惨な光景を思い出しながら、千枝と雪子が呼んでいたように、男性店員の名字を口にした。

 

「おっ、俺の名字! 覚えててくれたんだ?」

 

 悠が自分の名字を覚えていたことが嬉しいのか、花村は笑みを浮かべながら言う。

 花村の笑顔の問いかけに、悠は特に表情を変える事無く疑問に答えた。

 

「うん。里中さんが怒ってて、印象深かったから」

「あー……、あれは忘れてくれるとありがたい」

 

 悠の言葉を受けて、花村は少し表情を暗くしながら呟く。

 どうやら、千枝に虐げられた痛みが忘れられないようだ。

 そんな花村に追い打ちをかけるように、悠は〝今朝〟の話題を提供することにした。

 

「他には、電信柱に自転車で突っ込んだりしてたよね?」

「げっ!? 鳴上さん、あの現場も見てたの!?」

 

 悠の唐突な話題提供に、花村は一転して驚愕の表情を浮かべる。

 かなりリアクションが大きい花村とは逆に、悠は淡々と〝今朝〟の出来事についての感想を、一切のオブラートに包むことなく言葉に出していく。

 

「うん。傍から見てたら、何か物凄く変態みたいだった」

「あ、あはは……もしかして、鳴上さんが見た俺の第一印象って、ソレだったりする?」

「第一印象がソレで、第二印象は里中さんに蹴り飛ばされた時で、第三印象は天城さんに校門で振られた時かな」

「うっわ! 俺の印象、最初から最後まで最悪じゃんかよ!?」

 

 花村は派手に頭を抱えると、悠から受けた悲痛な想いを口にした。

 そんな想いの丈が込められた花村の言葉も気にすることなく、悠は自分でも珍しいと思いながら話題を提供し続ける。クラスメイトでも男子と女子で、しかも今日会ったばかりだというのに、花村は悠にとって妙に話しやすい相手だった。

 

「花村君はジュネスでバイトしてるんだね」

「あ、ああ……つーか、まだちゃんと自己紹介してなかったよな。――俺は花村陽介。実は、鳴上さんの後ろの席に座ってたんだぜ」

「え、そうだったんだ。ごめんね、気付かなかった」

 

 あまりにも素直すぎる悠の感想に、花村陽介――陽介は微妙に言い辛そうに口を開く。

 

「まあ、俺も今朝のアレで結構なダメージを負ってたからな……そんで、ようやく収まったかと思えば、里中から強烈な追い打ちをかけられちまったわけだけど」

「天城さんが言った通り、里中さんの足技は傍から見てても強烈だったよ」

「里中は肉をこよなく愛する獣だからな。……ホント、里中が天城と一緒に並んでると、マジで肉食獣に見えてくるからな」

 

 陽介は呆れた物言いで、千枝の振る舞いに愚痴を零し始める。

 千枝とは教室でも気さくな間柄なのか、遠慮なく斬り込んでいく印象を陽介に感じていると、

 

「店員さーん! ちょっといいかしらー!」

「あっ、はーい! すぐにお伺いしまーす!」

 

 通路の入り口から買い物客が陽介を呼ぶ声が聞こえた。

 陽介は手慣れた様子で買い物客に返事をすると、悠に向き直って苦笑しながら言う。

 

「わりっ、もうちっとだけ臨時のバイトがあるんだわ」

「こっちもごめんなさい。バイト中なのに、花村君の邪魔しちゃったみたいで」

 

 悠が頭を下げようとすると、陽介が慌てた様子で制止させる。

 

「あー、いいって、いいって……そうだ、俺もうすぐ臨時のバイト終わるからさ。よかったら、後で軽く飯食ってかね?」

「ご飯?」

「ジュネスの屋上に、割と広めのフードコートがあるからさ。転校祝いってことで、適当に奢るからどうよ?」

「でも、いいの?」

「何でもかんでも奢ると財布がピンチになるから、ちっとは遠慮してくれな? んじゃ、そういう事でよろしく!」

「あっ、ちょっと……」

 

 そういって、陽介は悠の返事を最後まで聞くことなく、慌ただしい様子で買い物客の対応に向かって行ってしまった。

 売り場の通路に一人取り残されてしまった悠は、とりあえず商品棚から目当てのデミグラスソースの缶を手に取ると、

 

「……まあ、いいか」

 

 クラスメイトとの予定が出来たのは良い事だと思いながら、デミグラスソースの缶を買い物かごに放り込むと、悠はフードコートに淡い期待を抱きながらレジへと歩いて行った。

 

 

 

「わ、わりぃ、鳴上さん! 結構待たせちまったよな!?」

 

 陽介がフードコートに現れたのは、悠がテーブル席について五十分が経過した頃だった。

 

「アルバイトお疲れ様、花村君」

 

 悠は陽介に労いの言葉をかけると、自販機で買っておいたペットボトルのお茶を手渡す。

 

「あ、ああ、サンキュ。なんか、こういう風に女子に労われるのって感動するわ……」

 

 陽介は労いの言葉が相当嬉しかったのか、お茶を胸の前で持ちながら遠くを見ている。

 何か、アルバイトで辛い事があったのだろうか――悠はそんな事をぼんやりと思ったが、深く追及しないでおいた。仮に、辛い事があったとしたら、それを無暗に思い出させるのも悪いと考えたからだ。

 すると、悠の無言を圧力と受け取ったのか、陽介はすぐに我に返ると慌てたように席に座る。二人はお互いにテーブルを挟んで、ちょうど向かい合う形で座る形になった。

 

「改めて、こっちから約束取り付けたのに遅れてゴメンな?」

「強引だったし、時間も聞いてなかったし、一時間ぐらい経ったら帰ろうと思ってたから、別に大丈夫だよ」

「いやいや、それ全然大丈夫じゃねーから! 転校生と初日から険悪なムードとか勘弁だから!」

 

 陽介はテーブルにひれ伏すように額を擦り付ける。

 悠の無表情かつ抑揚があまり無い声音に、怒られていると感じているのだろうか。

 

「花村君、大丈夫だよ。別に怒ってないから」

「ほ、ほんとでございますか?」

「うん。コレが私の素だから」

「それはそれで怖えモンがあるけどな……」

 

 陽介は納得がいかなそうな表情を浮かべているが、悠の言葉を受け入れると嘆息して椅子に浅く座り直した。

 悠から受け取ったペットボトルのお茶を飲むと、そこでようやく一息つく事が出来たのか、陽介は溜息交じりに言う。

 

「なんつーか、鳴上さんには情けないところばっか見られてんな……」

「確かに、今朝のアレから今まで奇跡の連続だったかもね」

「奇跡っつーんなら、もうすこし甘い展開になってほしかったけどな」

「それじゃあ、悪夢の連続?」

「俺にとってはソッチだな。――っと、そろそろ何か頼んでこよっか?」

「オススメとかあるの?」

 

 悠の問いかけに陽介は逡巡すると、言いにくそうに口を開く。

 

「あー……ビフテキとかあるけど、里中以外の女子にはキツイ食い物かもなぁ……」

「ビフテキ?」

 

 悠が聞き返すと、陽介は少し呆れたように言う。

 

「八十稲羽の名産品をビフテキにしようぜって地域で後押ししてっから、ジュネスでも取り入れてみたって感じだな。まあ、ビフテキって選択肢が田舎っぽいっつーか、なんつーか……ってか、女子にビフテキをお勧めするのは流石に無いか。里中じゃあるまいし」

「名産品がビフテキ……」

 

 確かに、名産品がビフテキというのはあまり聞かない気がする。

 陽介が呆れるのにも納得がいく。

 しかし、それが逆に悠の好奇心に火を点けた。

 

「じゃあ、ビフテキにする」

「……え、マジで!? 里中みたいな肉食系っぽく見えないのに!?」

 

 悠の返事が予想外だったのか、陽介は身を乗り出すようにして驚いていた。

 その際に、陽介による千枝への風評被害が出たような気がしたが、悠は特に気にすることなく一度頷くと、

 

「だって、それが花村君のオススメなんでしょう?」

 

 そう言って、悠は無表情から一転して薄く笑みを浮かべた。

 傍から見ていると、あまり変化が感じられない悠の笑みだったが、悠と向かい合う形で座っている陽介には、そんな小さな変化も分かってしまったのだろう。不意打ちの様な形で笑みを向けられた事で、陽介は反射的に顔を赤くして後ろに飛び退くように立ち上がると、バランスを崩してしまい椅子ごと転倒してしまった。

 

「どわぁっ!?」

「は、花村君!?」

 

 悠はテーブルを迂回する形で陽介の傍に駆け寄ると、陽介が背中を擦りながら痛そうに蹲っている。

 

「いってぇ……またドジっちまったぜ……」

「花村君、大丈夫?」

 

 苦悶の声を上げる陽介に駆け寄った悠は、躊躇う事無く陽介に右手を差し出した。

 その右手は家事をしている割には傷一つ無く、少女というよりも女性らしい柔らかさを保持している。年頃の女子高生みたいに伸ばさずに綺麗に切ってある爪先も、それが逆に清純な清潔感を引き出していていた。

 陽介は悠の右手を掴もうとしたが、一瞬思い留まったかのように静止すると、スカートから覗く肉付きの良い太腿はなるべく視界に入れないように心掛けながら、そのまま見上げる形で悠に問いかけた。

 

「……俺が純情なのかもしんねーけどさ」

「えっ?」

「鳴上さんって、もしかして天然……?」

「さあ……?」

 

 陽介の問いかけに、悠は首を小さく傾けるだけだった。

 

 

 

「はいよー、ビフテキ一丁お待ち!」

 

 そう言って、陽介はビフテキが乗った皿を悠の前に置く。

 デパートのフードコートのビフテキ――あまり聞かない並びだが、こうして実際に目の当たりにすると、これが現実であることを悠はようやく実感する事が出来た。

 悠はビフテキから視線を陽介の方に移すと、陽介は六個入りのたこ焼きを購入していたらしく、さっそく爪楊枝でたこ焼きを一つ口に運んでいた。

 

「花村君はたこ焼き?」

「ん? まあ、俺の財布は常にピンチだからな」

「今からでも、ビフテキ分のお金払おうか?」

 

 悠の提案に、陽介は苦笑しながら顔の前で手を振る。

 

「いいって、いいって。さっきも言ったけど、それは俺から鳴上さんへの転校祝いだからさ。ささっ、遠慮しないで一口どうぞ」

 

 陽介の財布がピンチなのは真実なのだろう。ビフテキとたこ焼きという値段の露骨な格差からも、その苦しさは如実に窺い知る事が出来る。

 それでも、陽介は悠への〝転校祝い〟という形を崩す気は無いらしい。気前が良いのか、お節介なのか――おそらくは両方なのだろうが、ここで陽介の好意を無碍に断ろうとするのも、それはそれで野暮だろう。

 

「ありがとう、花村君」

「いいってことよ」

 

 悠は改めて陽介にお礼を言ってから、ナイフとフォークを手に取った。

 左手で持つフォークで肉を差して抑えながら、右手で握るナイフで一口サイズにビフテキをカットしていく……つもりだったのだが、肉が堅いのかナイフの切れ味が悪いのかは定かではないが、いまいち上手く切り進む事が出来ない。

 ビフテキから立ち上る熱と湯気に、悠は息苦しさと若干の汗をかきながら、なんとか一枚のビフテキを数個のサイコロ状に切り終えた。

 

「いただきます」

 

 そう言って、悠はビフテキを口に運んだ。

 一噛み。――固い。

 二噛み。――まだ固い。

 三噛み。――ようやく肉がほぐれてきた感じがする。

 四噛み。――次第に口の中に肉汁が零れ始める。

 五噛み。――サイコロ状の肉を噛み千切り、そのまま肉汁と一緒に咀嚼していく。

 この小さなサイコロ状のビフテキに、まさかの五行程もかかるとは思いもよらなかった悠だった。ビフテキを切り分ける時に感じた疑問は、ナイフの切れ味が悪かったのではなく、肉が固かったという事が正解なのだろう。

 

「かってーだろ、その肉?」

 

 すると、そんな悠の心中を察していたように、陽介が笑いながら言った。

 

「うん。割と固いね」

「だろ? ちゃんと火は通ってんのに、なんか固いっつーか、ゴム噛んでるみたいなんだよな。そのくせに味はそれなりっていうのが、無性に勿体ねえって感じなんだよ」

「もう少し柔らかければ、ジューシー感もあるのにね」

 

 決して不味くは無い……むしろ美味しい部類なのだが、この肉質の固さが違和感としてもあまりに強すぎる。

 肉の固さが邪魔をして、そこから味自体にまで意識が向かない――そんな感じだろうか。

 

「ちなみに、里中のやつはそんなもんお構いなし、って感じにどんどん食ってくけどな」

「へえ、里中さんは顎が強いんだね」

「商店街の〝惣菜大学〟っていう店があって、ビフテキ串っていう食い物が名物なんだけどさ。そのビフテキ串は、いま鳴上さんが食ってるビフテキより固い癖に、里中のやつは〝柔らかジューシー〟とか言いながら食べるくらいだからな」

「ビフテキ串……それはなんというか、ハイカラなネーミングセンスだね」

「えっ? ハイカラ?」

 

 悠がふと零した言葉に陽介が反応するが、悠は小さな声で「なんでもない」と言うと、目先のビフテキの処理に取り掛かる事にした。

 別の一切れをフォークで一刺しして、躊躇いなく口の中に放り込んで咀嚼していく。

 この出来立て熱々の状態を逃してしまえば、肉が冷めてより肉質が固くなってしまう恐れがある。

 そうなってしまえば、里中みたいに自身の顎に絶対の自信を持っているわけではない悠には、いくらなんでもお手上げだ。現在の肉質ですら困難を極めているというのに、これ以上ともなれば心の振り子は〝諦観〟に傾ききってしまう。

 悠としては、そうなってしまうことはもちろん本意ではない。

 普段から自炊をしている為か、料理を残すことはあまり好ましく無いと考えている事も理由の一つだが、それよりもなによりも、陽介が自分の財布の事情も顧みずに、掛け値なしの好意で奢ってくれたビフテキなのだ。

 

(このビフテキは絶対に残せない……っ)

 

 悠が挑まなければならない敵(ビフテキ)はあまりにも強大だ。

 それでも、悠のなけなしの〝根気〟と軟弱な顎を犠牲にすれば、おそらくだがビフテキを完食する事は可能だろう。

 しかし、悠には菜々子と〝夕ご飯にはハンバーグを一緒に作って食べる〟という約束がある。

 ここで無理に死力を尽くして戦ってしまえば、菜々子との約束に致命的な支障が起きる事は想像に難くない。

 悠が守らなければならないモノは二つ。

 一つは、陽介からの〝好意〟。

 一つは、菜々子との〝約束〟。

 どちらかを切り捨てるという選択肢は元より存在していない。

 それは〝勇気〟がどうこうという問題よりも、悠自身が絶対に取るべき選択肢ではないと確信しているからだ。

 

(それなら、今、自分が取るべき選択肢は……〝これ〟だ!)

 

 悠は正面に座る陽介に視線を向けた。

 陽介は既にたこ焼きを食べ終わっており、今はのんびりとした様子でお茶を飲んでいる。 

 しかし、男子高校生の胃袋というものは、昼食にたこ焼き六つで足りるものだろうか。

 ――否、それは否である。

 ましてや、陽介はアルバイト終わりで腹を空かせていたはずだ。たこ焼きを六つ食べたところで、陽介の腹が〝満たされている訳が無い〟のである。

 

「ねえ、花村君」

「うん? どったの、鳴上さん」

 

 悠にはこの勝機を逃すつもりはない。

 今を逃せば、陽介は自分の厳しい財布事情から目を背けて、何か別の食べ物を購入してしまうかもしれないからだ。そうなってしまえば、悠が考え付いた名案も同時に意味が無くなってしまう。

 悠はサイコロ状に切り分けたビフテキの一つに、手持ちのフォークを上方から鋭く突き立てる。

 そのまま陽介目掛けてビフテキを差し出すように腕を伸ばすが、テーブルを挟んで正面に向かい合っている為、二人の距離が微妙に遠かった。

 今は仕方ない事情がある――悠は行儀が悪い事を重々承知しながら、椅子から腰を浮かせてテーブルの上に身を乗り出し、陽介との距離を強引に縮める作戦を取る。

 その一方で、陽介は悠の突然の奇行に呆然としていた。

 フォークが刺さったビフテキを先頭に据えて、悠の極めて無表情に近い顔がゆっくりと近づいてくるのを見ていることしか出来ずに、陽介は思考と動作を停止させてしまっている。

 しかし、悠にはそんな陽介の内心を考慮するだけの余裕は無い。

 今やらなければ勝機は無い――まるで、どこぞの武人のような思考の元に、悠はある言葉を陽介に対して口にした。

 

「あーん」

「……はい?」

 

 悠の渾身の〝あーん〟と、陽介の呆気にとられたような声。

 それをきっかけに、フードコートの和気藹々とした雰囲気を余所に、悠と陽介との間には沈黙と静寂が訪れてしまった。

 

 

 

「ただいま」

 

 悠がジュネスの買い物袋を手に提げて堂島家に帰宅したのは、時計の針が午後三時を示そうかというところだった。

 八十稲羽の散策を兼ねて、陽介が言っていた商店街の方にまで足を運んでみたかった悠だったが、ハンバーグの食材が痛んでは元も子もないのと、事件の影響か警官が睨みを利かせてきて、早々の帰宅を視線で催促してくるのを感じてしまい、下手に刺激するのも得策ではないと帰宅した次第である。

 

「おかえりなさーい!」

 

 悠の声が聞こえたのか、菜々子が元気な声と共に玄関まで駆けてきた。

 

「ただいま、菜々子ちゃん」

「お帰り、悠お姉ちゃん! ……あれ、その買い物袋ってジュネスのだよね?」

 

 悠が手に提げている買い物袋に気が付いたのか、菜々子が首を傾げながら質問する。

 その問いに、悠は薄く笑みを浮かべながら答える。

 

「うん。菜々子ちゃんとハンバーグ作るって約束したからね。学校帰りに、ちょっとジュネスに寄って来たんだ」

「え、本当に一緒にハンバーグ作ってくれるの!?」

「もちろん。今度は、菜々子ちゃんも一緒にジュネスに行こうね」

「うん! 菜々子もジュネス行きたい!」

 

 悠が約束を守ってくれた事を喜ぶ菜々子。

 これだけ無邪気に喜んでくれるなら、ジュネスのフードコートで多少の〝無理〟をして、早々に帰宅した甲斐があったというものである。

 悠はダイニングテーブルに買い物袋を置くと、すぐに冷蔵庫に入れるものとそうでないものとを分類していく。夕飯のハンバーグに使う材料以外にも、1,5ℓの飲み物や菜々子のおやつ、遼太郎の酒のつまみなどを適当に買ってきたため、なかなかの物量がダイニングテーブルを占拠していく。

 

「お姉ちゃん、菜々子もお手伝いするよ」

「そう? それじゃあ、このペットボトルのお茶を冷蔵庫にお願いね」

「うん!」

 

 菜々子の無邪気で健気な姿を見ていると心が洗われる、そんな気がする悠だった。

 二人で買ってきた品物の片づけを進めていると、菜々子がふと思い出したかのような口調で言う。

 

「そういえばお姉ちゃん、事件があったのって知ってる? 菜々子は集団下校だったよ」

「うん、私の学校でも結構な騒ぎになってたし、偶然だけど帰り道に現場にも寄っちゃったよ」

 

 八十稲羽という田舎町で起きた奇怪な事件。

 その事件の異質さは、八十稲羽に来たばかりの悠の記憶にも刻み付けられている。

 アンテナに引っかかった死体……犯人から警察への挑発なのか、それ以外の〝何か〟があったのかは定かではないが、どちらにしろあの事件は〝普通〟ではない――悠はそう考えていた。

 そして、事件の現場に遭遇してしまった時の雰囲気を思い出していると、悠はそこで出会ったある人物の事を思い出す。

 

「……ああ。そういえば、事件の現場に堂島さんがいたよ」

 

 悠の何気ない一言に、菜々子の表情は一転して暗くなった。

 

「……お父さん、またお仕事でお遅くなるのかな」

「……どうだろうね。堂島さん、刑事って仕事だからか、けっこう忙しそうだったし」

「うん……そうだよね……」

 

 悠はこの話題が〝地雷〟だった事に気が付いたが、菜々子の表情が益々暗くなっているのを止める事が出来ないでいた。

 やはり、菜々子は遼太郎が家に帰ってこない事が、子供ながらに寂しいと感じているのだろう。

 堂島家で一緒に暮らし始めたのは昨日からだが、菜々子が非常に聞き分けの良い子供である事は悠にも分かっている。

 昔の自分はどうだっただろうか――悠は、菜々子を見て思わずそんな事を考えてしまう。

 高校生になった今なら親の仕事の忙しさを理解出来ているが、小学生だった頃はきっとそうではなかっただろう。自分一人だけしかいない広い家での食事は、怖さよりも寂しさの方が強かったように思う。

 そして、自分にそんな寂しい気持ちを味あわせる両親に対して、もしかしたら怒りや憎しみのような感情を抱いていたのかもしれない。

 だとすれば、菜々子はどうなのだろうか。

 遼太郎が仕事に奔走して家に帰ってこない事に対して、寂しさ以上に暗い感情を抱いてしまっているのだろうか。

 

(それは、やっぱり良くないよね……)

 

 もしかしたら、自分は菜々子に同情しているのかもしれない。

 昔の自分と似たような境遇の菜々子に対して、吐き気のする様な親近感を抱いているのかもしれない。

 だが、仮にそうだとしても、菜々子が抱えている寂しさを紛らわせてあげたい。

 自分では根本的な解決にはならないかもしれないが、いずれ遼太郎と菜々子との間に〝機会〟が訪れる日が来るまで、出来る限り菜々子と一緒に過ごす時間を持つようにしよう。

 悠は菜々子と一緒に食材を冷蔵庫に入れながら、堂島家での自身の役割について決意を新たにしていた。

 




閲覧、感想ありがとうございます。
ビフテキが固いのは誇張した結果です。
後日、菜々子と一緒に行く時には改良されて〝柔らかジューシー〟になっているでしょう。

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