女番長、八十稲羽を往く   作:女番長

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女番長、八十神高校に行く

 悠は不思議な空間に立っていた。

 辺りには非常に濃い霧が立ち込めており、かろうじて確認できるのは自分の足元ぐらいで、ほんの数メートル先の景色すらおぼろげで捉えようが無い。

 

(…………夢?)

 

 悠が直感的に感じたのは、自分は今、夢の中にいるのではないかという事だった。

 自分で夢であると自覚しながら見ている夢の事を〝明晰夢〟というらしいが、もしかしたらソレに近い現象を体験しているのかもしれない。

 悠も脳のメカニズムまでは詳しく知らないが、〝明晰夢〟はその内容を自分である程度のコントロールが可能である、ということぐらいは雑学として知っていた。

 

(……じゃあ、とりあえず足を動かしてみたり?)

 

 もし、これが俗にいう〝明晰夢〟であるのなら、なかなか起きる現象では無いだろう。

 そう思った悠は、ちょっとした好奇心から右足を前に動かそうと〝意識〟した。

 

(おお、本当に右足が動いた)

 

 その〝意識〟に連動するように右足を前に動かせた事実に、悠は自分の中の好奇心が加速度的に大きくなっているのを実感する。右足を前に動かすことが出来るなら、続いて左足を前に動かすことで、身体を前に進ませる事も可能な筈だ。

 悠は先程と同じ要領で左足を前に動かすと、続いて右足を前に動かし、それを交互に繰り返して〝歩く〟という行為に成功した。

 最初は赤ん坊のように緩慢な動作だったが、悠は夢の中で動くコツを掴んだのか、段々と歩く速度を上げていく。周囲に立ち込める濃い霧が視界を邪魔しているが、足元ぐらいならなんとか見える事も相まって、悠は暗い洞窟で宝探しをしているような気分だった。

 そうして、悠が歩き始めて数十メートルぐらいだろうか、頭に直接響くような〝声〟が聞こえてくる。

 

『真実が知りたいって……?』

 

 突然聞こえてきた声に、悠が思わず歩みを止めると、その〝声〟は更に言葉を告げる。

 

『それなら……捕まえてごらんよ……』

 

 誰の〝声〟なのか皆目見当もつかないが、何故か誘われているような感覚を抱いた悠は、視界の悪い現状にも臆せずに歩みを進めていく。

 すると、悠は行き止まりのような場所に行き着いた。

 そう、これは言うなれば〝扉〟のようなものであり、悠は何故か分からないがその事を理解していた。

 そして、この先に誰かの気配があるという事も、悠は直感的に把握していた。

 悠はその誰かに会おうと〝扉〟に触れると、その意志を受け入れるかのように〝扉〟は中央から段階的に開いていき、先に進めるだけの空間が目の前に出来上がる。

 そのまま歩を進めていくと、悠は濃い霧の中に誰かの人影を見つける事が出来た。

 

『追いかけてくるのは……君か……』

 

 悠は人影の正体を確認しようとするが、生憎の濃い霧がそれを邪魔するかのように立ち込めている。

 その人影が男性か女性かだけでも分かればと思うが、唯一分かっている声音だけではそれも叶わない。

 それでも、なんとか捉えようの無い人影の正体を探ろうとしていると、

 

『ふふふ……やってごらんよ……』

 

 人影の挑発するような声が聞こえると、同時に悠の右手に重みが伝わってくる。

 悠は右手に視線を移すと、いつの間にか見覚えの無い一振りの刀を握っていた。

 刀から伝わるリアルな重みに違和感を覚えるものの、この刀がやけに自分の右手に馴染んでいる事に気が付く。

 

(うわっ、身体が……勝手に動く……!?)

 

 悠は自分の意識とは無関係に刀を両腕で振りかぶると、自然な動作で目の前の人影に斬りかかっていた。

 

『へえ……この霧の中なのに、少しは見えるみたいだね……』

 

 人影は何かを試すように、口調を荒げる事も無く言葉を続けている。

 そのまま無意識に返す刀で斬りつけるが、自分の無意識が起こした行動であるものの、刀を通して手応えがまるで伝わってこないことに、悠は途端に激しい焦燥感に駆られ始めた。

 周囲の濃い霧のように捉えどころの無い人影に、自分は今更ながら恐怖を覚え始めているのだろうか。

 

『なるほど……確かに……面白い素養だ……』

 

 そんな悠の様子を観察でもしているのか、人影は感心したような声音で話し続ける。

 

『でも……簡単には捕まえられないよ……』

 

 無意識に動き始めた悠の身体は、人影から大きく距離を取ると、自然な動作で刀を左手に持ち替え、右手を天に掲げるように上に向ける。

 

『求めているものが〝真実〟なら、尚更ね……』

 

 人影がそう言うと同時に、周囲の濃い霧が更に深くなっていく。

 それにも躊躇わずに、悠は無意識のままに天に掲げた右手で〝何か〟を掴むと、そのまま渾身の力を込めて〝何か〟を握りつぶした。

 

 ――次の瞬間、人影を襲う様に空中から雷が降り注ぐ。

 

『誰だって、見たいものだけを、見たいように見る……そして霧は何処までも深くなる……』

 

 しかし、更に深く濃くなった霧が悠の視界を邪魔しているせいで、悠は人影に雷が命中したかどうかまでは把握出来なかった。

 

『いつか……また会えるのかな……』

 

 自分の足元すらおぼつかなくなる程の濃密な霧に、悠の身体は身動きを取れないでいると、すっかり視認出来なくなってしまった人影が楽しげに言う。

 

『こことは別の場所で……フフ、楽しみにしてるよ……』

 

 その人影の声を最後に、霧はより一層の深まりを見せ、その霧に塗りつぶされるようにして悠の意識も遠くなっていった。

 

 

 

「はっ!?」

 

 悠は毛布を引きはがし、飛び跳ねるように布団から身体を起こした。

 

「…………夢?」

 

 悠はやけに汗ばんだ手の平を見ながら、誰に聞かせるわけでも無く呟く。

 何か悪夢のようなものを見ていたような気がするのだが、まるで頭の中が霧に覆われてしまったかのように、肝心の内容が酷く不鮮明でおぼろげだった。

 それに、さっきまでぐっすりと眠っていた筈なのに、何か重い物を振り回していたかのように、自分の両肩が重く気だるいのも気にかかる。

 

「お姉ちゃん起きてる? ご飯出来てるよー?」

 

 そうしていると、部屋のドアを挟んだ廊下から、菜々子の声が聞こえてきた。

 悠は得体の知れない感覚に戸惑いながらも、気を取り直して廊下の菜々子に返事をする。

 

「う、うん。ちゃんと起きてるよ」

「……? それじゃあ、下で待ってるね」

 

 悠の返答は少し不自然だったが、菜々子は特に気に留めることなく立ち去ったようだ。

 

「あー……とりあえず、今日から学校だったか」

 

 やけに身体は重苦しいものの、転校初日から学校を休むわけにもいかない。

 悠は非常に緩慢な動作で布団から立ち上がると、布団を雑に畳んで部屋の隅に移動させる。

 先に宅急便で送っておいた荷物の中から八十神高校の制服を取り出すと、寝巻のジャージから制服に着替えることにした。

 八十神高校は制服に関しては割と緩い校風らしいが、転校生が初日から自己流全開で教室に入ったら、必要以上に注目を浴びてしまう事になるだろう。

 悠としてもあまり目立ちたくない学校生活を送りたい心積もりの為、スカートの長さも膝下ぐらいに調整して、髪型も三つ編みを二つ結びのお下げに結わえる。前の学校で使っていた馴染みの学生鞄を持ち、部屋に置かれた姿見で上から適当にチェックしていく。

 

「……うん、たぶん大丈夫かな」

 

 特に学校で悪目立ちする要素は無い事を確認し終えると、悠はようやく自室を後にして一階へと降りていく。

 悠が一階に下りると、菜々子が朝食の配膳をしているところだった。

 菜々子は悠に気付くと、子供らしい朗らかな笑みを浮かべてくれる。

 昨日のお風呂場での裸の付き合いが功を奏したのか、菜々子と多少は打ち解ける事が出来ているのを、悠はぼんやりとだが実感していた。

 

「おはよう、悠お姉ちゃん」

「おはよう、菜々子ちゃん。あとゴメンね、今日から料理は私がする約束だったのに」

「ううん、目玉焼きは作り慣れてるから大丈夫だよ」

 

 そう言って、菜々子は皿に乗った目玉焼きをテーブルに並べ終える。

 悠が菜々子に申し訳ない気持ちを抱えたまま椅子に座ると、待っていたと言わんばかりにトースターから焼き上がった食パンが頭を出した。

 せめて、朝食準備のひと手間ぐらいはやっておこう――そう思った悠は、焼きたての食パンをテーブルに置かれた皿に乗せていく。

 菜々子が用意してくれた朝食は、食パンと目玉焼きといった朝食における黄金コンビだった。目玉焼きは特に焦げ付いた様子も無く、朝の食欲を刺激するには十分すぎる献立だ。

 菜々子が椅子に座ると、特に示し合わせたわけでも無いのに、二人の〝いただきます〟の挨拶が綺麗に重なった。

 それを皮切りに、悠は菜々子との初めての朝食に臨んでいく。

 

「菜々子ちゃん、目玉焼き上手だね。焦げも無いし、綺麗に焼けてるよ」

「ホント? ……よかった、悠お姉ちゃんに食べてもらう事を考えてたら、少し緊張しちゃってたから」

「うん、これならすぐにお嫁さんになれるよ」

「お嫁さん?」

「あっ、でも、堂島さんが許してくれそうにないかなぁ……だって――」

 

 ――菜々子ちゃんは可愛いから。

 

 そう言葉を続けようとした悠だったが、遼太郎の名前を出した瞬間、さっきまで明るかった菜々子の表情が暗くなってしまったのを見て、この話題は俗に言う〝地雷〟だったことに気付いた。

 悠は話題の選択に失敗したことに焦ってしまい、フォローしなければならないのに肝心の言葉が上手く口から出ていかない。

 とっさにフォローが利かない自分の伝達力を呪いながら、最後の手段として悠は強制的に話題を切り替える事しか出来なかった。

 

「そ、そうだ! 今度、菜々子ちゃんと一緒にご飯作りたいなぁ!」

「……え? 菜々子と一緒に?」

 

 悠の〝一緒に〟という言葉に反応したのか、菜々子が一転して明るい表情を浮かべる。

 この機を逃すわけにはいかない――そう判断した悠は、尚も上手く回らない舌を懸命に動かしながら、咄嗟に繰り出した話題を必死に展開させていく。

 

「う、うん! 菜々子ちゃんと一緒にご飯を作れたら、きっと楽しいだろうなあって思ってさ!」

「じゃあ、菜々子ハンバーグ作りたい!」

「もちろんオッケーだよ! じゃあ、早速今日の晩御飯にでも作ろっか!」

「うん! ありがとう、悠お姉ちゃん!」

 

 菜々子の機嫌はすっかり良くなったようだ。

 あの暗い表情はどこにやったのか、今では楽しそうにトーストにジャムを塗っている。

 悠はホッと胸を撫で下ろしながら、菜々子がさっき見せた態度の意味を考えていた。

 

(菜々子ちゃんと〝一緒に〟か……もしかしたら、子供ながらそう言う事に飢えてるのかな……いや、子供だからこそか)

 

 悠は菜々子が胸に抱えている気持ちをなんとなく想像しながら、目玉焼きにしょうゆをかけていた。

 

 

 

 途中まで一緒の道だから、と朝食の席で道案内を快く買って出てくれた菜々子。

 悠はその申し出を有り難く受け入れると、菜々子と一緒に雨が降りしきる通学路を歩いていた。

 

「この道をこのまま行けば、お姉ちゃんの学校に着くよ」

 

 菜々子の言葉を受けて、悠は周囲の様子を軽く見回すと、自分と同じ八十神高校の制服を着ている生徒の姿を何人か確認出来た。

 後は、適当に続くように歩いていけば、無事に学校の校門まで辿り着けるだろう、

 

「ここまで案内してくれてありがとうね、菜々子ちゃん」

「ううん、気にしないで。それじゃあ、菜々子はこっちだから」

「菜々子ちゃん、いってらっしゃい」

「悠お姉ちゃんも、いってらっしゃーい!」

 

 二人はお互いに挨拶を交わし合うと、そのまま通学路の途中で分かれる事になった。

 悠は菜々子の後ろ姿をしばらく目で追っていると、途中で菜々子が振り返って手を振ってくれたので、悠も同じように手を振り返しておいた。

 菜々子は遠目でも分かる笑顔を浮かべると、名残惜しそうに自分の通学路まで戻っていく。

 そんな菜々子の後ろ姿を眺めながら、悠はどこか物悲しい気持ちになりながら小さく溜息を零す。

 

「……まだ小さいのに、随分と奥ゆかしい子だなぁ」

 

 自分が菜々子と同じ歳ぐらいだった頃はどうだったろうか、そんな事をふと考えてしまいそうになる悠だったが、頭を振って思考を強制的に中断させる。

 何故だか、菜々子に対して失礼な事をしているような、そんな気持ちに駆られてしまったのだ。

 自分でも収まりが付けられない感情を強引に胸の内に押し込めながら、悠は気を取り直すと八十神高校生たちの後を追うように歩き始める。

 

「うわっ……と、とっ……」

 

 次第に八十神高校生の数が多くなってきた頃、悠の背後から変な声が聞こえてくる。

 まさか、学生が通学路を通る時間帯を狙った、変質者の抑えきれない声か何かだろうか。

 悠は自分の想像に振り返りそうになるが、寸でのところで身体を止める。

 仮だとしても、変質者が背後にいる事を想像した上で振り返えれる程に、自分の勇気が高くない事を悠は自覚していた。

 

(うん、逃げよう)

 

 悠が歩く速度を上げようとした矢先、変質者らしき人物が横を通り過ぎた。

 その変質者は自転車に乗っているのだが、バランスが安定しないのかふらふらと左右に揺れながら進んでいると、前方の電信柱に正面から自転車ごと衝突してしまった。

 

「ぬあっ……! 股間が……っ! サドルに、股間が……っ!」

 

 電信柱から相当の衝撃を受けたのか、変質者らしき男は股間を抑えながら小刻みに跳ねている。

 よくよく観察してみれば、その男は八十神高校の制服を着ており、つまり自分と同じ八十神高校生らしい、という事を悠は現在の状況から理解する事が出来た。

 しかし、それが今更どうしたというのだろうか。自分の早とちりであったのは事実だが、現にああやって通学路という往来で股間を抑えて跳ねている姿は、誰が見ても変質者がいると思ってしまうだろう。

 

(そっとしておこう……)

 

 男の痛みは女である悠には分かりようも無いし、何よりアレに関わろうとすれば、こっちまであらぬ疑いをかけられるかもしれない。

 悠は自分の保身と彼にある種の哀れみを覚えながら、この場を足早に立ち去る事にした。

 

 

 

 八十神高校、二年二組の教室は騒然としていた。

 曰く、担任が生徒たちの間で評判の悪い先生であるとか。

 曰く、このクラスに今日から転校生がやってくるとか。

 曰く、転校生は男子なのか女子なのか。

 曰く、男子だったら格好いいのか、女子だったら可愛いのか。

 そういった様々な要因が複雑に乱雑に絡まり合った結果、もはやここの生徒たちはただ騒ぎたいだけなんじゃないだろうか、と悠は黒板の前に立ちながら考えていた。

 何はともあれ、学校の教室という閉鎖的な環境では、外から転校生がやってくるだけでも、生徒たちにはお祭り騒ぎになりやすいという事だ。

 今までの転校生ライフで注目を浴びる事に慣れてしまっている悠は、こうやって注目の渦中にいられる時間はそう長くない事も分かっている。転校生というのも所詮は流行り廃りには抗えず、一ヶ月も経てば単なる一生徒にカウントされるようになるのだ。

 それを有り難い事だと思っても、特に悲しいと思った事は無い。

 どうせ、八十稲羽にいられるのは一年間という限られた時間だけだ。

 この一年が終われば、自分は両親が帰ってくる都会に戻る事になる。

 

(どうせ一年で離れるなら、思い出は出来るだけ少ない方がいい)

 

 それでも、ありふれた高校生活を送りたい気持ちはある。

 これは度の過ぎた我儘なのだろうか、悠は自分でもよく分からないでいた。

 

「えーい、騒がしいぞ貴様ら!」

 

 すると、生徒たちの騒ぎに痺れを切らしたのか、担任の諸岡が騒ぎ以上の声量で教室中に罵声を浴びせていく。

 諸岡が発した多種多様の罵声に、悠は反射的に萎縮してしまうが、ここの生徒たちにとっては手慣れたものなのか、男女ともに大して動揺している様子は無かった。

 

「今日は転校生を紹介する! ただれた都会から、辺鄙な地方都市に飛ばされてきた哀れな奴だ!」

 

 諸岡が口の悪い先生だという事は、悠にもさっきの罵声で分かっていた。

 それでも、これは自分が転校して会ってきた先生の中でも、五本の指に入る口の悪さかもしれないと悠は思う。

 

「いわば、落ち武者だ! 男子は誘惑されるような事があっても、決して動じないように! では、簡単でいいから自己紹介をしなさい」

 

 随分と酷い言いがかりをつけられた気がするが、ここで下手に言い返しても諸岡に目を付けられるだけで、自分には一切の得が無いだろう。

 悠は自分でも珍しく怒りに震えそうになるのを堪えながら、哀れみの視線を向けてくるクラスメイトに自己紹介をする。

 

「鳴上悠です。今年一年間だけですが、八十稲羽に引っ越してきました」

 

 ――よろしくお願いします、と悠が締めの挨拶を口にしようとしたまさにその時、

 

「貴様! 今、窓際の男子生徒に対して色目を使っていたな!?」

「……はい?」

 

 諸岡が割り込みの言いがかりをしてきたので、悠はその予想外の口撃に唖然としてしまった。

 その後も、諸岡の言いがかりは段々とヒートアップしていき、次第に怒りよりも呆れたという感情の方が強くなってきた頃、

 

「センセー! 鳴上さんの席ってここでいいですかー?」

 

 教室中央の席に座る緑色のジャージを羽織っている女子生徒が、自分の隣の席を指さしながら諸岡の口撃に割り込むように言った。

 

「ああ? ……あー、そうだな。お前の席はあそこだ、早く席に着きなさい」

 

 予想外の割り込みに諸岡は勢いを失ってしまったのか、悠を緑ジャージの女子生徒の隣の席に座るように促す。

 朝一から精神に大きな疲労を負ってしまったが、諸岡の罵声から解放されるなら、悠にとってはもう何もかもがどうでもよかった。足早に指定された席に座ると、先ほど割り込んでくれた緑ジャージの生徒が小声で話しかけてくる。

 

「モロキンに捕まるとか、転校初日から大変だね」

「……うん、なんかもう疲れちゃった」

「担任がモロキンなだけで最悪だけど、とにかく一年間頑張ろ。あたし、里中千枝」

「改めて、鳴上悠です。よろしくね」

 

 里中千枝と名乗った女子生徒と、悠は挨拶代わりの握手を交わした。

 

 

 

 今日は午前中で全ての授業は終わりらしく、といっても新学期が始まるにあたっての諸岡からの有り難迷惑な訓示を延々と聞かされたため、悠は転校初日からすっかりと疲れ果ててしまっていた。

 それは他の生徒たちも同様だったようで、諸岡が授業の終了を告げると一斉に肩の力を抜き、あまりにも重苦しい教室の雰囲気を各々が払拭しようとしたが、それも突然の校内放送が静止を呼びかける。

 

『先生方に連絡します。只今より緊急の職員会議を行いますので、至急職員室までお戻りください』

 

 ただならぬ雰囲気に、教室が騒然とし始める。

 

『また、全校生徒は各自教室に戻り、指示があるまで下校をしないでください』

「……むっ? いいかーお前ら、指示があるまで教室を出るなよ!」

 

 諸岡は注意喚起をして職員室へと戻っていった

 

「あいつ……マジでしんどいわー……」

 

 教室のどこかから、諸岡の態度に辟易としているのであろう生徒の声がした。

 その意見に、悠は内心で全面的に同意しておく。

 クラスメイト達は先程の校内放送は一体何だったのか、それぞれのグループで話し合っていると、その好奇心を煽るかのように遠くからサイレンの音が聞こえてくる。

 数名の男子生徒たちは窓際に駆け寄って外を覗こうとするが、窓の外はいつの間にか濃い霧で覆われてしまっており、非情に視界が悪く遠くまで見通す事が出来なかったようだ。

 その男子生徒たちは不満げな様子で、最近になって〝雨の後にはよく霧が出るようになった〟と話している。

 次第にサイレンへの興味を失ったのか、いつの間にか男子生徒たちは別の話題を口にしていた。

 すると、その男子生徒たちの一人が驚いたように声を上げて立ち上がり、悠のちょうど斜め前の席に座っている、制服の上に赤いカーディガンを羽織った女生徒に話しかける。

 

「あ、あのさ。天城にちょっと聞きたいことがあるんだけど……」

 

 その男子生徒は何かを期待しているように言う。

 

「天城の旅館にさ、山野アナが泊まってたって聞いたんだけど」

「そういうの、答えられない」

 

 きっぱりと突き放すように。天城と呼ばれた女生徒からそう言われると、その生徒は非常に気まずそうに戻っていく。男子生徒の顔も見ずに言い捨てた天城の表情は、斜め後ろの悠にも分かるぐらいに硬く凍り付いていた。

 天城はその大和撫子らしい容姿とは逆に、人付き合いの苦手な性格なのだろうか。

 悠がそんなことを考えていると、立ち去った男子生徒と入れ替わるようにして、悠が先ほど握手を交わした里中千枝が天城の元に歩いてくる。

 千枝は天城の斜め後ろに座る悠に視線を送ると、人の良さそうな笑みを浮かべながら悠に向かって手を振ってくれた。

 悠も千枝に向かって軽く手を振り返す。

 

「おーっす、鳴上さん」

「どうも、里中さん」

 

 天城が千枝に釣られるように振り返る。

 

「あっ、鳴上悠さん……だよね。私、天城雪子って言います」

 

 そう言って、雪子が自己紹介してくれた際の表情は、さっきの男子生徒に対する硬い表情とは打って変わってとても柔らかく、それこそ大和撫子の様な印象を悠に与えた。

 

「よろしくね、天城さん」

「こう見えて、雪子のヤツ変わったところがあるからさ。鳴上さんも仲良くしてやって」

「もう……何言ってるの、千枝」

 

 どうやら、千枝と雪子は特別仲が良い付き合いの様だ。二人の間に流れている気さくな雰囲気が、二人が友人関係を築いて長いことを思わせる。

 だとすれば、雪子の表情の変化は千枝がいるからだろうか。

 そんなふうに、悠が千枝と雪子の関係性を考えていると、その様子を不思議に思ったのか雪子が問いかける。

 

「鳴上さん、どうかしたの?」

「いや、二人は随分と仲が良いんだなーって思って」

「うん。千枝と私は親友だからね」

「おお、ラブラブだね」

「うん、ラブラブだよ」

 

 雪子が恥ずかしげも無く言い切ったセリフに、悠が茶化すようにノリを合わせると、雪子は誇らしげな表情を浮かべながら〝ラブラブ〟を肯定する。

 すると、千枝が恥ずかしそうに頬を赤らめながら、慌てるようにして口を開く。

 

「こ、こら、雪子! 恥ずかしいから、そういうの肯定しないで!」

「えっ? ……なんで?」

「……はあ、もういいや」

 

 真顔で首を傾げる雪子を見て、千枝は呆れたように肩をすくめる。

 もしかしたら、雪子は理知的な大和撫子に見えて、割と性格に天然が入っているのかもしれない。

 

「鳴上さんも、雪子のボケには乗っからない方が良いよ。この子のボケはただのボケじゃなくて、かなり性質の悪い天然ボケだから」

「うん。今のやりとりで何となく分かった」

「……?」

 

 千枝からの忠告を受けて、悠は十分に理解出来たと肯いた。

 その一方で、雪子はまだ不思議そうに首を傾げている。

 そんな雪子の様子がなんだかとてもおかしくて、悠と千枝は一緒に笑い始めると、それを邪魔するかのように再び校内放送が流れ出した。

 

『全校生徒にお知らせします。学区内で事件が発生しました』

 

 あまりにも唐突過ぎる内容に、悠たちは笑うのを止めて放送に耳を傾ける。

 教室に残っている他のクラスメイト達も、皆それぞれが驚いた反応を見せている。

 

『通学路に、警察官が動員されています。全校生徒は出来るだけ保護者の方と連絡を取り、落ち着いて、速やかに下校してください。警察官の邪魔をせず、寄り道などしないようにしてください』

 

 直に校内放送が終わると、それを引き金に教室がより騒がしくなった。

 クラスメイト達の反応は様々だったが、その根底に共通しているのはあくまで〝他人事〟という認識だろう。

 人間が多かれ少なかれ持っている野次馬根性は、時として大きな熱を生む事があるが、それはまさにこういう光景の事を言うのだろうな、と悠は教室を見渡しながら思う。

 

「うわ、こんな田舎で事件だってさ」

「……ちょっと、怖いね」

 

 千枝は八十稲羽で事件が起きたことに驚き、雪子は少し怖がっているようだ。

 一方で、悠は都会で事件発生のニュースを耳にするよりも、田舎のほうが事件との〝距離〟が近い、そんな不思議な感覚を抱いていた。

 都会では〝明日は我が身〟と言われてもいまいちピンと来なかったが、八十稲羽に来た今ならよく理解出来る気がする。

 

(菜々子ちゃん、大丈夫かな……。もしかしたら、堂島さんも事件に駆り出されてるのかも)

 

 ふと、居候という形で世話になっている、二人の姿が脳裏をよぎる。

 悠が不安に思っていると、そんな感情を見透かしているかのように、千枝がある提案を口にした。

 

「そうだ! 何かあったら怖いし、鳴上さんも一緒に帰らない?」

「うん、そうだね。千枝が一緒にいてくれれば、不審者の一人や二人や三人、いつものカンフーで撃退してくれるし」

「いや、流石のアタシでも複数人相手はキツイってば……」

 

 雪子は真顔のまま、千枝は呆れたように言う。

 悠は二人の親切な気持ちを素直に受け取ることにした。

 

「ありがとう、二人とも」

「いいの、いいの。晴れてクラスメイトになったわけだしさ、鳴上さんと親睦を深めたいって思ってたところだし」

「鳴上さん、もう安心して良いよ。千枝の足技は達人のソレだから」

「……雪子、あんたは少し黙っときなさい」

 

 悠が二人のやりとりに笑みを浮かべていると、一人の男子生徒が恐る恐るといった様子で近づいてきた。

 八十稲羽ではあまり見ない、都会らしいルックスの男子で、首にはオレンジ色のヘッドホンをかけている。

 

(あれ、どこかで見た気が……)

 

 この男子生徒には見覚えがある――そんな気がする悠だったが、どこで会ったのか上手く思い出せなかった。すぐそこまで出かかっているのだが、自分の中の何かが思い出すのを必死に邪魔しているかのような、そんな奇妙な感覚を抱いてしまう。

 その男子生徒は視線を泳がせて落ち着きが無い様子だったが、ついに意を決したのか、千枝に向かって話しかける。

 

「あ、えーと、さ、里中さん……?」

「ん? 花村、何か用?」

 

 花村と呼ばれた男子生徒は、千枝に何かを差し出すようにしながら頭を下げる。

 悠が「告白かな?」と他人事の様に考えていると、

 

「これ、スゲー面白かったです。技の繰り出しが流石の本場っつーか……申し訳ない、事故なんだ! お願い、バイト代入るまで待って!」

 

 そう言って、ケースの様な物を強引に千枝に渡した男子生徒は、まるで獣から逃げるかの如く走り出した。

 

「って、待てやコラ! あたしが貸したDVDに何した!」

「どわっ!?」

 

 千枝は女子にあるまじき迫力のある声を上げると、一足飛びに容赦なく男子生徒の背中を蹴り飛ばす。

 かなりの威力が込められた蹴りだったのか、男子生徒は蹴られた勢いを殺す事が出来ずに、そのまま教室の机にぶつかってしまった。

 

「ぐぬっ……ぬあぁ……」

 

 その男子生徒は机との当たり所が悪かったのか、股間を抑えながら悶絶している。

 そんな彼の姿を見た悠は、ようやく先ほどの既視感の正体に気が付く事が出来た。

 

(ああ、今朝の変質者だったんだ)

 

 悠が納得した様子で肯くと、同時に千枝が悲鳴のような声を上げる。

 

「ちょ、ちょっと何で!? 信じらんない、ヒビ入ってんじゃん! ――あたしの〝成龍伝説〟がぁぁ……」

「お、俺のも……割れそう……机のカドが、ちょ、直に……」

 

 男子生徒は痛みが引かないのか、たまに飛び跳ねながら悶絶としている。

 その姿があまりにも可哀想だったのか、雪子が男子生徒に声をかけた。

 

「花村君、大丈夫?」

「ああ……天城、心配してくれてんのか……」

 

 雪子に心配されている事が嬉しいのか、男子生徒は痛みを堪えながらも言葉を返す。

 自分も何か言葉をかけてあげた方がいいのだろうか――悠がそんな事を考えていると、千枝は未だに怒りが収まらないのか、男子生徒に冷たく言い捨てる。

 

「いいよ、花村なんか放っておけば。二人とも、早く帰ろう」

「あっ、うん」

 

 そう促された雪子は、件の男子生徒の事が心配で仕方が無い――そんな素振りは一切見せること無く、千枝の後を追ってそのまま教室を出て行った。

 雪子にも見捨てられてしまった男子生徒は、自分の身を襲った不幸を嘆くように声を振り絞る。

 

「……ああ、切ねえ……もう、なんか色々と切ねえ……」

 

 これが哀れと言わずして、何を哀れというのだろうか。

 まさに哀れ、哀れという言葉が最も似合う、キング・オブ・哀れである。

 今の悠には、この男子生徒に言葉をかけてあげようと思う、そんな勇気は持ち合わせていない。

 

(……そっとしておこう)

 

 悠は悶絶し続けている男子生徒を哀れみながら、千枝と雪子を追って教室を出て行った。

 

 

 

 悠と千枝、雪子の三人が八十神高校の校門までやってくると、このタイミングを狙っていたのか、やけに挙動不審な男子生徒が雪子に話しかけてきた。

 

「あ、あのさ。キミ、雪子だよね。こ、これから、どっか遊びに行かない?」

「えっ? だ、誰……?」

 

 雪子の戸惑っている口振りからすると、どうやら知り合いの男子生徒ではないらしい。

 悠が男子生徒を観察していると、その男子生徒は八十神高校の制服ではなく、どこか別の学校らしき制服を着ている事が分かる。

 他校の生徒が雪子に話しかけている事が注目を集めたのか、いつの間にか悠たちを囲むように人垣が出来ている。

 

「何、アイツ。どこの学校だよ?」

「よりによって、天城狙いかよ。てか、普通は一人ん時に誘うだろ……」

「張り倒されるにオレ、リボンシトロン一本な」

「馬鹿、賭けにならねえって。〝天城越え〟の難易度知ってるだろ?」

 

 野次馬の中から口々にそんな話し声が聞こえてくる。

 会話の内容から察するに、どうやら雪子は男子生徒にアプローチを受けているようだ。

 だとすれば、自分は席を外した方がいいのだろうか。

 しかし、雪子をこの挙動不審な生徒と一緒にするのは、なるべく避けた方がいい気もする――悠は千枝に意見を貰おうと横目で見るが、千枝はこの結果が分かりきっているのか、あまり動じているようには見えなかった。

 そうしていると、挙動不審な男子生徒は苛立ち始めたのか、雪子に詰め寄るようにしながら言う。

 

「あ、あのさ、行くの? 行かないの? どっち?」

「……い、行かない」

「……ならいい!」

 

 雪子に戸惑いながらも一刀両断されると、挙動不審な男子生徒は声を震わせて逆ギレしたのか、この場から逃げるように走り去っていく。

 

(……友達に罰ゲームでもさせられたのかな?)

 

 走り去っていく男子生徒の背中を眺めながら、悠はこうなった原因を適当に考えていた。

 すると、雪子は今さっきの出来事を疑問に思ったのか、傍で静観していた千枝に質問を投げかける。

 

「あ、あの人……何の用だったんだろ……?」

「何の用って……デートのお誘いでしょ、どう見たって」

 

 千枝は呆れたように言うが、雪子は驚いたように表情を変えて言う。

 

「え、そうなの?」

「そうなのって……あーあ。まったくもー、この子は……。――まあ、でもアレは無いよねー。いきなり〝雪子〟って、ちょっと、いや、かなり怖すぎ」

 

 千枝は雪子の鈍さに呆れてはいるものの、先ほどの光景はあまりお気に召さなかったらしい。

 悠もその意見には賛成だった。デートに誘うというだけでも、それ相応の勇気を振り絞ったのだろうが、あまりにも最初の展開がお粗末かつ不躾すぎた。あれでは、雪子でなくとも断られて当然だろう。

 三人が校門前で立ち尽くしていると、

 

「よう天城、また悩める男子フッたのか?」

 

 千枝に花村と呼ばれていた、例の哀れな男子が自転車を押しながらやってきた。

 花村が押す自転車からは軋んだ音がしており、悠は今朝目撃した電信柱との衝突が原因だろう、と今にも壊れそうな自転車を見ながら思う。

 

 

「まったく、罪作りだな……まあ、俺も去年バッサリ斬られたもんなぁ」

「別に、そんな事してないよ?」

「え、マジで? じゃあ今度、一緒にどっか出かける!?」

 

 花村は若干テンションを上げて雪子を遊びに誘うが、

 

「それは嫌だけど……」

 

 雪子は困った様に、だがはっきりと花村にお断りの一太刀を浴びせた。

 

「僅かでも期待した俺が馬鹿だったよ……」

 

 花村は肩をがっくりと落としている。

 その言葉通り、雪子の返事に期待をしてしまっていた分だけ、受けたダメージが大きかったようだ。

 悠は期せずして知った〝天城越え〟の難易度の高さに、雪子の事をまるで畏怖するように見つめていると、

 

「つーかお前ら、あんま転校生イジメんなよ?」

 

 花村は気落ちしながら自転車に跨り、悠の事を一瞥してから自転車で軽快に走っていく。

 

「話聞くだけだってば!」

 

 そんな花村の後ろ姿に、千枝は怒った様に声を浴びせていた。

 どこか男勝りな印象が強い千枝だが、その中でも花村に対してはかなり強気のようだ。

 

「あ、あの、ごめんね。いきなり……」

 

 流れるように騒がしくなった事を申し訳なく思ったのか、雪子が悠に謝罪をしてくる

 

「え? いや別に、天城さんが原因ってわけじゃないでしょ?」

「いや、でも元はといえば……」

 

 どうやら、雪子はこの騒ぎの原因が、自分にあると思っているらしい。

 悠は別に気にしていなかったのだが、こうも律儀に謝罪されるとつい苦笑してしまう。

 

「ほら、もう行こ。なんか注目されてるし」

 

 そう言って、千枝は野次馬から逃げるように歩き始める。

 ズンズンと歩く千枝の後ろ姿に、悠が〝漢〟らしさを感じていると、

 

「私たちも行こうか」

「そうだね」

 

 雪子が促してくれたので悠も頷くと、一緒に千枝の後を追いかけて行った。

 

 

 

 その帰り道、悠は千枝と雪子に転校の理由を説明していた。

 

「そっか、親の仕事の都合なんだ。もっとしんどい理由かと思っちゃったよ」

「一年間だけって期限付きだけどね。私も流石に、海外まではついていけないから」

 

 千枝の言葉に悠がそう答えると、千枝は苦笑しながら周りを見渡す。

 悠も千枝に釣られるように周りを見渡すと、都会では見られない田んぼの景色が広がっていた。

 

「ここ、ほんっと何にも無いでしょ? そこがいいトコでもあるんだけど、余所様にオススメ出来るモノは全然……あーっと、八十神山から採れる何かで、染め物とか焼き物とか、ちょっと有名なのかな」

「そういえば、八十稲羽で調べたらそんな事が書いてあったような」

 

 悠も八十稲羽の事はそこまで詳細に調べていないが、それでもなんとなく千枝の言葉には心当たりがあった。

 八十稲羽はその土地柄、都会とのアクセスが非常に不便な場所に位置しており、陶製や染色といった伝統工芸品以外に目立った産業もなく、商業としても完全に孤立した地域らしい。市民の生活範囲はほぼ市内だけで完結しており、それに嫌気が差した若者が都会に出るようになって、最近では過疎化と高齢化の波が激しくなっているようだ。

 田舎には田舎の良いところがあり、また田舎特有の悪いところもあるのだろう。

 悠がそう内心で結論付けると、千枝が雪子に振り返って楽しそうに言う。

 

「あと、雪子んちの〝天城屋旅館〟は普通に自慢の名所だよね!」

「え、別に……ただ古いだけだよ」

 

 千枝の嬉しそうな声とは反対に、雪子があまり嬉しそうではなかったのが、なんだか気になってしまう悠だったが、今日出会ったばかりの間柄で、無遠慮に家の事を聞く勇気は無かった。

 すると、千枝が〝天城屋旅館〟について、簡単にだが説明してくれる事になった。

 雪子の実家の〝天城屋旅館〟は隠れ屋温泉としてメディアでも紹介され、いわゆる老舗の温泉旅館として、八十稲羽の観光事業に一役買っているらしい。

 その話の流れで、千枝は雪子が次期女将であると紹介していたが、雪子はその紹介には眉をひそめて不満げだった。

 雪子は旅館の一人娘として、何か思うところがあるのかもしれない。

 悠は雪子の事をそっとしておく事にすると、千枝の話題は雪子の容姿へと移っていった。

 

「ところでさ、雪子って美人だと思わない?」

「うん。そういえば、さっきもデートに誘われてたみたいだし」

「でしょ!」

 

 悠は先程の出来事を思い出しながら、素直に千枝の意見に同意する。

 すると、雪子が困った様に会話に割り込んできた。

 

「そ、それを言うなら、鳴上さんだって可愛いと思うよ?」

「ああー……制服でよく分からないけど、実はスタイルよかったりする? 胸とか大きい?」

「えっ、どうだろ? ……自分じゃよく分からないけど」

 

 雪子に千枝の矛先を自分へと変えられてしまい、悠は口ごもりながらも否定はしなかった。下着をよく新調する必要に駆られていたりするが、そんな事は大っぴらに言えるわけも無い。

 悠が戸惑っていると、千枝の言葉に乗っかるように雪子が追撃してくる。

 

「鳴上さんの腰って細いよね。足もスラッと長くて綺麗だし」

「あっ、ほんとだー。……鳴上さんって隠してるけど、実はポテンシャル高かったりする?」

 

 千枝が変態オヤジのようにしげしげと見てくるので、悠はつい恥ずかしくなって矛先を千枝に向けようとする。

 

「そ、それを言うなら、里中さんの足も綺麗じゃない? 引き締まってて美脚だと思うな。」

「そうだね。千枝の足も綺麗だよね」

「それに、里中さんって可愛くて元気も良いし、なんか見てるだけで楽しくなってくるもんね」

「千枝は可愛いし、一緒にいて楽しいよね」

 

 悠と雪子は息が合ったコンビネーションで、さっきの仕返しだと言わんばかりに、千枝の事を褒めちぎっていく。

 まさか、自分がそんな事を言われるとは考えていなかったのか、千枝は顔を真っ赤にして慌ててしまう。

 

「ちょ、やめてよ二人ともー! 私なんか全然、ぜんっぜん可愛くないから! 雪子と鳴上さんの方が断然上だってば!」

 

 千枝の恥ずかしがる姿が心の琴線に触れた悠と雪子は、二人揃って口々に「里中さんは可愛い」、「千枝は可愛い」と言い合っている。

 そんな二人に千枝は否定をし続けるが、すぐに無理だと悟ってしまったのか、二人に挟まれる形で褒めちぎられながら、真っ赤になった顔を俯けて力無く歩いている。

 悠と雪子はお互いに顔を見合わせて笑みを浮かべると、事前の打ち合わせもせずに親指を立ててサムズアップを交わし合った。

 女三人寄れば姦しいというが、こういう状況の事を言うのだろうな、と悠が思っていると、

 

「あれ、何だろ?」

 

 千枝が指さした前方に大きな人集りが出来ていた。

 三人は不審に思い、そのまま近づいてみることにした。

 人集りに近づくと、その向こうには数台のパトカーが停車しており、刑事モノのドラマでよく見る警察官が道を封鎖している光景があった。

 この人集りは、どうやら現場を見に来た野次馬のようだ。

 今日は随分と野次馬を目にする日だな――そんな風に悠が思っていると、手前の主婦たちが堂々と噂話をしているのを耳にする。

 

「第一発見者の子なんだけど、学校から早退した帰り道に見つけちゃったみたいよ」

「何でも、アンテナに死体が引っかかっていたんでしょ? 田舎町が随分と物騒になっちゃったわねぇ」

 

 主婦たちの噂話をまとめると、死体がアンテナに引っかかっているのを、早退した学生が不幸にも発見してしまい、警察を呼んで事件が公になったという事なのだろう。

 

「さっきの校内放送って、もしかしてコレの事……?」

「アンテナに引っかかってたって……どういう事なんだろう……」

 

 千枝と雪子も主婦たちの会話を聞いていたのか、二人とも不安そうに感想を零している。

 

「おい、ここで何してる」

 

 悠が声のかけられた方向に振り向くと、そこには昨日の夜に仕事に出ていった遼太郎が立っていた。

 

「えっと、三人とも学校の帰り道です」

「ああ……まあ、そうだろうな。……ったく、あの校長。ここは通すなって言っただろうが……」

 

 悠が素直に答えると、遼太郎はぶつぶつと愚痴を零している。

 

「鳴上さん、知り合いの人?」

「コイツの保護者の堂島だ。……まあ、その、仲良くしてやってくれ」

 

 悠に尋ねた千枝に、遼太郎が軽く自己紹介をする。

 

「とにかく、三人ともウロウロしてないでさっさと家に帰れ」

 

 遼太郎がそう言うと、その背後からよろよろとした足取りの若い刑事が現れた。

 彼は悠たちの脇を通り過ぎて道端にしゃがみ込むと、背中を丸めて地面に向かって嘔吐してしまう。

 

「足立ィ! お前はいつまで新米気分だ! 今すぐ本庁変えるか? ああ!?」

「すいませ……う、うっぷ……」

 

 遼太郎の怒鳴り声に、足立と呼ばれた刑事は返事を返そうとするものの、気分が優れないのかまた地面にうずくまってしまう。

 そんな足立の姿を見て、遼太郎は呆れたように頭を抱えた。

 

「……ったく、さっさと顔洗ってこい。すぐ捜査に行くぞ!」

 

 そう言って、遼太郎は足立を連れて仕事に戻っていった。

 いつの間にか人集りは無くなっており、現場の前に残された悠たちは顔を見合わせる。

 

「ねえ、雪子……。ジュネスに寄って帰るの、また今度にしよっか……」

「うん、そうだね……」

 

 二人も気分が優れないのか、悠に別れを告げると大人しく家に帰る事にしたようだ。

 悠も二人に倣って家に帰ろうとしたが、千枝の言葉である事を思い出す。

 

「そうだ、ジュネスで買い物してかないと」

 

 朝の出掛けに冷蔵庫の中を覗いてみたが、食材が見事に底をついていたのだ。

 遼太郎と菜々子との約束を果たすためにも、悠は学校の帰りにでも、八十稲羽の散策がてらジュネスで買い物をしていこうと考えていた。

 学校生活初日の騒がしさと、田舎町を騒がす事件のせいですっかり忘れてしまっていた。

 

(菜々子ちゃんの希望通り、今日の晩御飯はハンバーグにしようかな)

 

 悠はそんな事を考えながら、当初の予定通りジュネス八十稲羽店に向かう事にした。




キリが良いところまでと考えていたら、結構長くなってしまった、
感想ありがとうございます。

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