魔法少女リリカルなのは~Nameless Ghost~ 作:柳沢紀雪
八神はやては二つの名前を使いこなす。
一つは、ベルカの医療院に勤めるパートタイムの医療補助士である八神はやて。
そして、もう一つは、300年ぶりにベルカに帰還した従王機関の主席である夜天の王八神はやてである。
それが、この3年間ではやてが手にした二つの顔であった。
************
はやてはベルカ医療院のスタッフではあっても、所詮はアルバイトのような身分であるため残業をすることができない。そのため、たとえ仕事が残っていても定時になればすべて切り上げて医療院をでなければならない義務がはやてには課せられている。もちろん、よっぽどの緊急事態が発生すればその限りではないが、優秀な医療院のスタッフによって管理運営されている職場では、今のところそのような事態は、少なくともはやてが知る限りでは起こったことがない。
ミッドチルダの就業倫理協定だの、委員会の監査だのいろいろとややこしいことをはやては就業初日に説明されたが、それは良くもあり悪くもあると感じている。
確かに定時で帰宅できるなら、プライベートの時間がしっかりと確保されると言うことにはなるのだが、仕事を残してきた場合はそれが逆に心残りになって落ち着かない夜を何度か過ごすことがあった。それを解消するためには、どうしても仕事の効率を上げざるを得ず、それが逆に負担になることもままあった。
体調を崩せばその分仕事が山積みになってしまうため、体調管理を常に万全にしなければならない。それらをふくめ、リインフォースが自分につきっきりになっていてくれなければ、おそらく今頃は、「仕事なんてしたくない!」といって自室に引きこもってしまっていただろう。
「リインには感謝やな、ほんまに」
夕食後の水仕事をおえ、リビングに戻ってきたリインフォースにお茶を勧めながら、はやては、今夜ばかりはリインフォースを最大限ねぎらおうと心に決めた。
「それはお互い様と言うべきです。はやてがいなければ私はこのような日々を願うことさえできなかったのですから」
リインフォースは少し照れた様子で、少し濡れたエプロンを外しながらソファに腰を下ろした。
なんというか、そのすべての所作にはやては見ほれるようだった。まるで、おとぎ話に登場する絶世の美女が、その悩ましい肢体を揺らして家事をする姿が、アンバランスでありながらその中に絶妙な調和を生み出しているように思えるのだ。
これは、はやての保証人を名乗り上げてくれたカリム・グラシアが彼女に古風なメイド服を勧めるのも理解できるというものだった。もっともそれは、リインフォース本人の、「効率の悪い服装をするつもりはありません」という一言で取り下げられてしまったのだが……。今思えば、あそこは夜天の王の権限を使ってでもリインフォースに言うことを聞かせるべきだったと、はやては後悔している。
「リインも家のことが上手くなったね。今日の晩ご飯も、ひょっとしたら私より上手やったんとちゃう?」
「いえ、やはりはやてにはまだまだおよびませんよ。私もまだまだ精進しなければなりません」
「もう十分やと思うけどなぁ。せやけど、なんでリインは料理とか家のこととかやろうと思ったん? 言い方は悪いかもしれへんけど、リインがそういう風になるとは思わなんだわ」
「そうですね……なにかを破壊する以外のことを、私でもできると証明したかったのかもしれません」
「そうか……」
そう言ってはやては言葉を切った。リインフォースも差し出されたお茶を少しずつ口に含みながら、まるで過去を思いやるようなまなざしで、揺れるカップの水面をじっと眺めた。
おもむろにはやてが目を向けるリビングのガラス戸の向こうには、静かな夜に沈む、広大な庭園が広がっていた。深い森の中心を切り取られて作られた庭園は、ベルカ医療院の中庭を何倍にもしたような様相を示す。
中心にそびえる巨大な樹木とその周囲に広がる深い池には、大樹を守護するように三つのオブジェクトが立てられている。その内の一つ、聖王教会にとって特別な方角といえる西側に立てられた、黒いオブジェクトが示すものに今自分が立っていると考えると、はやてはいつでも居心地が悪くなる思いだった。
大樹である聖王とその三方を守護する三人の従王。聖王の庭園と呼ばれるこの場所を象徴するにはこれほどふさわしいものはない。
「夜天の王か……」
聖王の庭園はベルカの歴史と伝統、そして誇りと信仰を象徴する聖域だとはやては聞かされた。そして、そこを住まいとすることを十分によく考えて欲しいとはやては自身をここへと導いた女性の言葉を何度も何度も反芻する。
背中と肩が重くなる感覚をはやては味わった。そして、立ち上がった。
「もうお休みですか? はやて」
茶請けのクッキーに手を伸ばそうとしていたリインフォースが、前触れもなく立ち上がったはやてを上目遣いに見上げた。
はやては、何となく言いづらそうに頬をポリポリと、少し恥ずかしそうな様子でリビングの奥の扉を眺めた。
「ん……ちょっと、元気をもらいに行こかなって……」
それはずいぶん曖昧な物言いだったが、リインフォースにとってはそれだけではやてが何をしようとしているのかすべて理解することができた。
「分かりました。明日も仕事がありますので、あまり遅くならないようにお願いします」
「ありがとな、リイン。じゃあ、ちょっと行ってきます」
そして、はやてはリビングを後にした。誰にも邪魔されない、はやてだけの秘密の逢瀬へと。