魔法少女リリカルなのは~Nameless Ghost~ 作:柳沢紀雪
ようやく、あのときの事件が終わ終わりを迎えようとしている。
アリシアの目覚めの報をきき、その時、翠屋の厨房で卒業パーティの準備のために包丁を振るっていたはやては、身体が震えるほどの喜びを味わったという。
はやては、アリシアが眠りについた時、フェイトに対して一方的に宣言した約束をどう果たすかずっと考え続けてきた。その結果が今こうしてここにあると言うことは、アリシアが目覚めた喜びよりも、自分が一つのことを成し遂げることができたという喜びを与えるものに違いなかったのだった。
「ベルカにも結構いいお茶があったんだね。母さまのお茶にはかなわないけど」
「確かに、思い出の味と比べられたら、聖王陛下でも両手挙げて降参するやろうなぁ」
久しぶりに酷使してしまった指先を撫でながら、アリシアは、はやてが持ってきてくれた紅茶の香りをめいっぱいに堪能しながら、主治医に許可されたどこか味気のない淡泊なクッキーをかじりながら一息ついた。
はやてがアリシアの病室に現れたのは、アリシアが報告書を書き始めてしばらくしたところで、彼女の集中の具合は、はやてが側に来て彼女の肩を強めに叩いてようやくはやての存在に気がついたというほどのものだった。
「それにしても、アリシアが物書きするなんて、ちょっと意外……でもないんかな? よく考えたら、なかなか絵になってたように思えてきたな」
何を書いているのか、とアリシアのモニターをのぞき込もうとしたはやてだったが、アリシアは、そんなはやてを押しのけるように、「まだできてないから見ないで。恥ずかしい」と頬を染めながらモニターを隠してしまったのだから、あるいはなにか人に見られたくないような日記とか、そういった類の物でも書いていたのだろうとはやては当たりをつけ、表面上はなにも気にしていないという風を繕ったのだった。
「ん~、たぶん意外だと思うよ。私、勉強嫌いだから、よく母さまに怒られてたし。難しい本とか読むとすぐ眠たくなって、そのまま本をマクラにしたことだってよくあったし」
そして、マクラの本によだれを垂らしてしまってさらに叱られるというオチまでついてきていた。懐かしい思い出だとアリシアは肩をすくめた。そして、同時にあの時を愛しい思い出だと認識できることにわずかな寂しさも感じていた。
ともあれ、アリシアも作業に疲れたと言うことで、はやてはせっかくだから少し話をしたいと思い、そのまま自然な流れでお茶会を開くことになったのだった。
「それこそ意外やな。あのとき、アリシアが一生懸命書庫で調べ物をしてくれたから私が助かったんやって、ずっとそう聞いてたから」
アリシアはそんなはやての言葉に肩をすくめた。
「それは、言い過ぎだよ。私がいなくても、フェイト達だったらきっと、何もかも上手くやれたはずだから」
アリシアは、陶器のカップを軽く掲げながら肩をすくめた。
アリシアが思い出すのは、無限に広がる本棚の谷底で感じた自身の無力さだった。はやて達にとって、それはもう3年も前のこと――はやてだけではなく、彼女たちにとってはすでに過ぎ去った過去に過ぎないものであろうが、その全てが欠落してしまったアリシアにとって、それは未だに鮮烈な昨日としてそこにそびえ立っている。
あのとき、書庫で感じた違和感。あの、聖王崩御の鎮魂祭の夜に、ただの一時の間だけ父娘となった提督に告げたことのとおり、自分があの書庫で行っていたことは、既に誰かが通り過ぎ、アリシアがたどり着いた一つのことは既に何者かが至っていた答えだったということを、アリシアは確信していた。
アリシアは先駆者達である巨人の肩から羽ばたくことができなかった。
「それより、はやてに聞きたいことがあるんだ」
アリシアは、紅茶の僅かに残ったカップをからにして、はやての少し寂しそうな表情を払拭するように声を少しだけ張った。
「ん? なんや?」
「私の主治医の助手さんの見解として、私は今どういう状態なの? リインフォースとずっとあわせてもらえないのも、それが理由?」
カチャリとカップがソーサーに下ろされる音が響いた。
はやての表情を堂々と正面から見つめるアリシアは、はやてが浮かべた表情に、状況はそれほど芳しくないことを察した。
彼女は何とも表現の難しい表情をしていて、言うべきかいわざるべきかを悩むと言うよりは、言わなければならない時が来てしまったことへの一種のあきらめのように思えたが、アリシアは少なくともそこには悲壮感が込められているわけではない事だけは知ることができた。
「一言で言えば、難しい状態やねぇ」
「二言で言えば?」
「割と難しい状態や」
「答えになってないよ」
「ごめんな、ちょっと待っとって、順を追って説明していくから」
はやてはそう言って、下ろしたカップをソーサーごとベッド脇のワゴンに乗せ、顎に手を添えながら、こっくりこっくりと小刻みに首を左右に揺らし始める。
アリシアはそれを見つめ続けていては、自分も釣られて顔を揺らしそうになってしまいそうだったので、少し視線をそらし、はやてが話を始めるまで放っておこうと思い、枕元に常備している資料に手を伸ばし、書きかけの報告書の草案を頭に浮かべながら文字を追い始めた。
一昨日あたりに提出した、報告書の緒言とも言える、アリシアとしては割と傑作だと思えた部分は、「文章が情緒的すぎる、書き直せ」という、あまり可愛くない方の弟からバッサリ切られてしまっていた。その、あまりにも無遠慮な物言いに、アリシアはムッとしてフェイトからもらった夜眠の共である猫のヌイグルミ(リニス二世と名付けた)を投げつけて、彼を病室から追い出してしまったのだったが、今思えば申し訳なかったと反省している。
いくら命の宿らないヌイグルミでも、あんな可愛くない方の弟に向かって投げつけられるなんて気の毒だっただろう。
(それにしても――そうか、結局闇の書の防衛体は私の中に入って、今も一緒なんだね。よく死ななかったな、私……)
絶対に口外できないことではあるが、あのときのアリシアは自分自身の身の安全など全く考えていなかった。生への執着があまりなかったオリジナルのアリシアの感情と、夜天の魔導書に対して罪悪感しかなかったベルディナのそれとが混在していたために、アリシアはその時、このまま闇の書の闇と心中しても後悔はしないという感情に満たされていたのだ。
(私は二人が一緒になって私になった。なんだか変な感じ……。これじゃ、ますます私って何だろうって思えてきちゃうよ)
これは、自分探しの旅をするべきかもしれないと、アリシアは横目で未だに腕を組んでうんうんうなっているはやてを眺め、肩をすくめた。
「さてと……。ねぇ、はやて、そうやって悩んでるフリして時間稼ぎしようとしても無駄だよ?」
さしずめ、首をメトロノームのように揺らすことで、それを見るアリシアを眠りの世界に誘おうという魂胆だったのだろう。
最もそれは、アリシアの妄想に過ぎなかったのだが、時間稼ぎをしようとしていたことは事実だったらしく、はやてはもくろみが外れて少し落ち込んだ様子を見せた。
「まあ、そうやろうね。分かってたよ……。と言っても、後5分ぐらいで私も回診にでなあかんから、どちらにせよ日を改めてってことになるんやけどな」
「そっか、残念だな。はやてともっとおしゃべりしてたかったのに」
「そう言ってもらえるのは嬉しいんやけどね。まあ、師匠(センセ)と相談して、近いうちに時間をとれるようにするわ。できたら、ハラオウンの人らみんなを集めてな」
「うーん……難しいと思うよ? みんな、責任ある立場になって忙しいって言ってるから。特にクロノとかだめだね。仕事にかまけて、お見舞いすら一回しか来てくれなかったし」
「あーそうやなー。まあ、その辺は何とかしてみるわ」
アリシアの言葉とは反対に、仲間内でアリシアを一番心配して、最も足繁く見舞いに訪れているのはクロノであることをはやては胸の内にしまい込んだ。アリシアがそれを知らないのは、クロノが忙しすぎるあまり、ここに来られる時間にはすでに夜も更けてアリシアも就寝していたことが原因ではあるのだが。
(それに、クロノ君も照れ屋さんやからな。アリシアちゃんにだけは知られたくないって思ってるやろうし)
アリシアが自分でそのことに気がつけばよし、もしも気がつかずにいたとしてもなんの問題もないと思えるほどハラオウンの絆は強い。
「さて、そろそろ時間やわ」
はやては部屋に置かれた時計をちらりと確認し、席を立った。
「うん、お仕事がんばってね、はやて」
「そっちも、患者さんらしく大人しくしてるんやで」
「任せてよ!」
と、アリシアは自信満々に胸をたたいてむせ返った。
はやてはそれをクスクスと笑い、手を振って病室を後にした。
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背後で病室のドアが閉じ、オートロックが作動する音にはやては軽くため息をつき、そのままドアに背中を預けた。
「タイムリミットは近い……か……」
はやては手持ちの端末を一瞥し目を細める。そこには先ほどの診察によって得られたアリシアに関する最新の情報が、冷徹な文句によって映し出されていた。
アリシアのリンカーコアの観測結果。診察をすれば必ず異なる結果が現れ続けるにもかかわらず、観測している間はその様子を変化させるひどく一定に安定しているように見えること。
それはまるで、目を向けているときは大人しくしているが、目を離したとたんに何をするのか分からない子供のような印象をはやては受けた。
観測している間はひどく大人しくしているが、観測をやめたとたんそれが今どういう状態にあるのかまるで検討がつかない。それが、アリシアのリンカーコアにいかなる影響を与えているのか計り知ることができない。
文字通り爆弾を抱えているようなものだとレクター博士は評価している。
しかし、はやてにはアリシアの中にいるそれが爆弾であるとは思えなかった。爆弾であるなら、あのような変化を起こすはずがない。そうであるなら、それはなんの変化も見せず、条件がそろうまでは全くの安全を装い、一つのきっかけですべてがはじけ飛ぶのだ。
「まるで、子供や。それも、とびっきり恥ずかしがり屋で人見知りな……それでも、何とかしようって動き回ってる優しい子」
はやてにはその姿さえ目の裏に浮かび上がるように思えた。それは果たして夜天の魔導書とほとんど直接と言っていいほどの繋がりがある自分だからこそ感じ取れることなのだろうかと彼女は思った。
「あまり惚けているとサボタージュと判断されますよ、はやて」
かけられた馴染み深い声にはやては面をあげた。
「どうしました? アリシア嬢に問題でもありましたか? はやて」
風になびく風鈴のような
白銀の髪を際立たせるように色彩の押さえられた黒のスーツを完璧に着こなしたその女性――リインフォースののぞき込むような視線にはやては、照れ隠しのように視線をそらし、「ふぅ」とため息をついた。
悪い癖だとはやては思った。それは、何度言っても突然現れて、前触れもなく言葉を投げかけるリインフォースのことではなく、無意識に彼女の胸元の膨らみを凝視してしまう自分自身に対するものではあったが。
「なんでもないよ。お疲れ様、リイン。
「ええ、少し複雑なデータを分析し評価する程度のことでしたので、それほど時間はかかりませんでした」
「そうか、さすがリインやね」
リインフォースの言葉にはやてはわずかに苦笑した。リインフォースの言う少し複雑なデータを、自分や師匠であるダニエル・レクター博士が分析するとなると、おそらく一週間はその仕事にかかり切りになっていたことだろう。
そのあたり、レイジングハートをはじめとするインテリジェント・デバイスと、より人間に近い感覚や感情を持つユニゾンデバイスの強みと言ってもいいだろう。
「ダニエル医師からはこの後、はやての補助に入るように言われて来ましたが、いかがでしょう?」
「そうやね、これから小児科の子らを見に行くことになるけど、リインがいてくれたら心強いね。リインは、人気者やから」
「いえ……私など……。はやての方が家庭的で親しみやすいと憶われますが」
「うーん? この白いのを着てるとね……。やっぱり、私は一歩引いてあの子らを看る立場やから、そのあたりどうしてもあるなぁ。私としてはもう少し子供達と仲良くしたいんやけどね」
はやては、スーツの上から羽織る白衣をつまんだ。
(それにしても、私がこれを着るなんて、予想もしてなかったなぁ)
立派な医者になること、はやてはそれを志し、このベルカ医療院の扉を叩いた。
眠り続けるアリシアのために、自分ができることは何だろうかとはやては、3年前のあの夜から考え続けた。
彼女が眠り続ける事になったあの、アースラの医務室でフェイトに宣言したこと――「私が絶対にアリシアちゃんを目覚めさせてみせる。一秒でも早く、フェイトちゃんとお話しできるよう頑張る」と言う自身の言葉が、ずっとはやてを悩ませ続けていた。
私がアリシアを目覚めさせると宣言したが、当然のことながらはやてには、どうすればアリシアが目覚めるのか全くわからなかった。
だったら、その方法を探そう、と医療の道を選んだのは我ながら向こう見ずだったなとはやては自嘲気味に肩をすくめた。
「さてと……無駄話もこれぐらいにしとこか」
ネガティブなことなど考えればいくらでも沸いてくる。今するべきことは現実を直視し、ベストと思えることを着実に行っていくことだけだと、はやては身に力を入れた。
「ええ、それがよろしいでしょう」
「それじゃ、いこか、リイン」