魔法少女リリカルなのは~Nameless Ghost~   作:柳沢紀雪

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終話 Dearest

 

 桜の花びらが風に舞い、それはこれから新たな旅路へ向かう者への祝福の舞を演じているようにフェイトには思えた。耳を澄ませば校舎の向こう側の校庭からは様々な人たちの喧噪が響いてくる。普段は光の降りない影となる校舎の裏側にも、今はそこからあふれてくる賑わいに満たされているようにフェイトは思った。

 

 周囲に人はいない。当たり前だとフェイトは思う。どうして、この祝いの日に、自分のようにわざわざ人のいないところでただ一人佇むものがいるのだろうかと思う。

 そして、自分はどうして親友達と一緒にいないのだろうかとフェイトは重ねて思った。

 フェイトは手に持つ筒に目を下ろした。それには、卒業証書が入れられている。

 聖祥学園初等部を卒業した証、しかし、春には同じ学園の中等部に入学し直す事が決められている。

 

「フェイト、こんなところにいたんだ」

 

 ただ一人佇んで桜を見上げるフェイトの背後から声が届く。

 フェイトは振り向き、そこに立つユーノを確認し、ほほえみを返す。

 三年前にフェイトの義理の兄となったユーノ――ユーノ・S・ハラオウンは義理の妹の姿を見つけ、少し安心したようにホッと胸をなで下ろしていた。

 

「お義兄ちゃん……うん、ちょっとね。最後にしっかりと見ておきたかったから」

 

 この義兄はもう一人の義兄、クロノのように表情には出ないが家族への思いやりはハラオウンの中でも一番と言っていいほど強い。口うるさく心配するのではなく、それはアリシアのような見た目ではそれと分からない過保護さを持つ。落ち込んだとき、一人で痛いときにはいつの間にか側にいて見守ってくれる。なのははが彼が居てくれると背中が温かくなるという言葉をとても実感できるとフェイトは改めて思った。

 

「そうだったんだ。確かに、綺麗だよね」

 

 ユーノはただそれだけを呟き、先ほどまでフェイトが見上げていた桜の木を仰ぎ見て「ほう」と溜息を吐いた。

 彼は何も言わない。「辛いのか」とも「大丈夫?」とも、「何があったの?」とも聴かない。フェイトとしては当初、それはユーノがまだ自分に心を開いていないためだと思っていたが、今はそれが彼なりの優しさなのだと気付いている。姉の温もりを求めて泣いていた夜も、フェイトが眠りに落ちるまで隣で背中をなで続けてくれた。その温もりがなければ今頃自分はどうなっていたのか、想像も付かない。

 

「なのは達は?」

 

 現れたのはユーノ一人だけだった。彼の背後にも隣にもいつも側にいる彼女の姿はない。

 

「ん? 向こうでフェイトのことを探してたよ? そう言えば、アリサに探して来い命令されてたんだった」

 

 ユーノの平坦な声は何の抵抗もなくフェイトの胸に染み渡っていく。まだ背は若干ながら彼女の方が高いにもかかわらず、片手をポケットに入れて桜を眺めるユーノは、なにやら妙に大きく見えた。すらりと伸びてがっしりとした体格になりつつあるその背中が支えてくれている。フェイトは少し恥ずかしそうに目をそらし、

 

「いつも私を捜してくれるのはお義兄ちゃんだったよね」

 

 と呟きながら、枝から離れて地に落ちていく一片(ひとひら)の花びらを目で追った。

 一陣の少し強い風が二人の間を駆け抜けていく。風は地に落ちようとしていた桜色の花びらを再び空に舞い上がらせ、フェイトは靡く丈長のスカートの裾を押さえながら飛び立っていって花びらを目で追い空を見上げた。

 ユーノも空を見上げる。見ているもの、世界は同じのはずだが、自分とフェイトはおそらく違う世界を眺めているのだろうとユーノは思った。思い出すのは三年前の冬の日々、そのときにすべてが始まったのだとユーノは思う。

 

「ねえ、お義兄ちゃん。私、変わったかな? 強く、なれたかな?」

 

 やはり、門出の日が幾分か自分を感傷的にしているのだろうかとフェイトは感じた。普段なら口に出来ない言葉が全く自然に舌を滑り降りてくる。

 

「フェイトは十分強いよ。魔導師としても管理局のトップエースだし……何よりも心が強くなった」

 

 彼女は強くならざるを得なかった。そうでなければ、おそらく生きてはいけなかった。

 ユーノはその言葉を飲み込み、代わりに口元の笑みを消して真剣な眼差しを彼女へと向けた。

 

「ありがとう、お義兄ちゃん。だけどね、時々思うんだ。あの時、今の半分でも力があったらって。そんなこと考えても意味がないのにね」

 

 ふと笑うフェイト。その笑みには、数年前にはよく見られた自虐的なものでも、仮面のようなものでもない。とてもきれいで、どこか儚い、それでいて見る者に安心を与える笑みだった。

 

「フェイトにとって、力とか強さというのは、何のためにあるんだい?」

 

「それは……たぶん、ユーノやなのは、はやてと同じだと思う。私は一人じゃないから……」

 

 空から目をおろし、ユーノの目をしっかりと見つめてにっこりと笑うフェイトをユーノは眩しく思った。

 

「……大丈夫、フェイトは強くなったよ。僕やなのはよりもずっとね。はやてには……少し負けるかもしれないけど……」

 

「やっぱり、はやてには勝てないな……。だけど、そう言ってもらえるとうれしいな。でも、私はまだまだ弱いよ。だって、私は今でも――――」

 

 表情を落としたフェイトの言葉をを風がさらっていく。

 ユーノは肩をおろして、フェイトの肩に手を置いた。さらわれた言葉はしっかりとユーノに届いていた。いなくなった者のために生きるのは不条理だとユーノは思う。しかし、それ故に忘れることが出来ずにすがりつきたくなる。ユーノにとってのベルディナがそれなら、フェイトにとってのそれはいったい何だろうかとユーノは思いをはせる。答えは明確だった。

 

「それは、僕も同じだよ。全然変わらない、みんなにはおいて行かれてばっかりだ」

 

「お義兄ちゃんは強いよ、だから私もなのはも自由に飛んでいられるんだ」

 

 フェイトは肩に置かれたユーノの手を握り、胸に抱いた。

 

「そうだったらいいんだけどね……」

 

 自分のことは分からないよと呟くユーノにフェイトは大丈夫と告げながら、彼の手を解放した。

 

「今日も行くかい?」

 

「うん。夕方から翠屋でしょう? それまで報告しておきたいんだ」

 

 誰よりも早く、リンディやクロノよりも早くフェイトは今を伝えておきたい人がいる。ユーノにとっても大切な人で、彼もフェイトと一緒に報告に行きたいと少し思ったが、今は水入らずに踏み込む事はないと胸の内で面を振った。

 

「そうだね。それが良いよ。そうだと思ってはやてから伝言をもらってきたよ。『夜天の王の名の下、フェイト・T・ハラオウンにベルカへの渡航許可を与える。せやけど、夜までや~。宴会までには帰ってきーや』だってさ。これ、許可証が入ったチップ。往復回数は二回までで、期限は夜までだから気をつけて」

 

 ユーノは制服の胸ポケットから一枚のメモリーチップを取り出しフェイトに手渡した。

 

「ありがとう。はやてにもありがとうって言っておいて」

 

「分かったよ。もう、あまり時間もないから早く行った方がいいよ。アリサに見つかったらやっかいだからね」

 

 何かとアリサを引き合いに出すユーノに、二人は相変わらずだなとフェイトは笑う。ユーノとアリサはなのはとはまた違った意味で仲が良い。なのはとユーノが互いに支え合うパートナーであれば、アリサとユーノは喧嘩仲間のような関係を築き上げている。特にアリサは学業の面においてユーノをライバル視している様子で、結局最後の最後まで決着がつけられなかったことに悔しいような安心したような、複雑な表情を浮かべていた。

 

 定期試験後や成績表の配布、小テストの時でさえ、アリサはことごとくユーノに突っかかって百面相を演じていた。その光景を思い出し、フェイトは少しだけ頬を緩めた。

 

「うん、そうさせてもらおうかな……」

 

 クスクスと笑いながらフェイトは頷き、踵を返してユーノに手を振った。

 

「じゃあ、また後で。遅れないようにね」

 

「うん、後でね、お義兄ちゃん」

 

 フェイトはそういい残し、学園の裏門へと向かって歩く。正門は今生徒達にあふれかえって、旅立っていく先輩達と最後の別れを惜しんでいるところだ。フェイトもお世話になった先生達、交流のあった後輩達やクラスメイト達と話をしておきたかったが、今はそれよりも優先したいことがあった。

 

 さくさくと地面に落ちた桜の花びらを踏みしめて歩いていくフェイトの、ここ数年得一気に女性らしくなった後ろ姿を眺め、ユーノはなのは達へのいいわけを考えながら、ふと空を見上げる。思い浮かぶのは、失った瞬間、出会ったときのこと、再開の時のこと、自分のすべてをかけて守ろうと誓ったときのこと。そのすべてに彼女がいて、今も隣で彼女は笑い続けている。

 

 風によって舞い上げられた桜の花びらが地上に戻ってくる。それは、まるで浅紅(うすくれない)の雪が舞い落ちるように見えて、ユーノは両手を広げてその空気を胸一杯に吸い込んだ。

 

「さてと、なのは達への言い訳でも考えておこうかな……」

 

 大人になっても忘れない。この風景は永遠に記憶にとどめておきたい。今のこの感情も、永遠でないからこそ忘れないように。ユーノはそう胸に刻みつけ、校舎裏から姿を消した。

 

 

***********

 

 

 ハラオウン邸より管理局本局を経由して、フェイトは遠くミッドチルダの南、ベルカ教区自治領の静かな庭園へと足を踏み入れた。

 まるで、古のスピリチュアル・ガーデンのように通り抜ける風に草木が舞い踊り、涼やかで穏やかな音楽に満ちる庭園をフェイトは歩く。

 

 この場所は本来なら、フェイトのような人間が立ち入れる場所ではない。フェイトでなくても、例え提督となった義兄、クロノや統括官である義母のリンディでも特別な許可がなければ足を運ぶことは出来ないだろう。

 フェイトが今こうしてここで立っていられるのは、ベルカの聖王教会の要人であり、一般的な騎士達からは閣下と呼ばれるはやての口添えがあってのことだ。

 

 フェイトはまるで森の中に立てられた秘密の花園のような医療院を見上げて、ほうとため息をついた。

 いつ見てもこの建物は美しい。空から見下ろしていては知ることの出来ない美しさが地上にはある。翼を持つ鳥が、どうして地に着く為の足を捨ててしまわないのか。ともすれば彼らもまた地上に這うことで得られる喜びを知っているからなのかとフェイトはふと思う。

 自分にとっての止まり木はいったいどこにあるのだろうかとフェイトは思いを巡らせながら、建物のてっぺんに飾られた剣十字のシンボルに一礼し「ルーヴィス」と言葉を捧げ、建物に入った。

 

 

************

 

 

 フェイトは真っ白な廊下を一人で歩く。先ほどまでは周囲の病室から人の声がしていたが、それも今は聞こえない。

 ここには多くの眠り人が居るとフェイトは初めてここを訪れたときにそうきかされた。自律的に呼吸の出来ないもの、心を閉ざして目覚めを拒否してしまったもの。様々な者がここで眠っていると聞いて、フェイトは思い知った。自分のような思いをしている者は数限りなくいる。分かっていたことなのに、理解していなかったとフェイトは思い知った。自分ばかり不幸な気になって、それでも強くなろうとして無茶をして。そして、一年前のあの日、撃墜された。冬の荒廃した遺跡には雪が積もり、白い絨毯を真っ赤に染め上げる自分自身の鮮血が記憶の隅にしっかりと残っている。

 あの時、同行していたシグナムが異常を察知してくれなければ、おそらく自分はあのまま雪に埋もれて命を落としていただろう。

 

 今ここにいることがどれほど幸いなのか。身体には消えない傷が出来た。リンカーコアにも歪みが生じたが、ユーノほど酷いものではない。フェイトはユーノと違い、まだ魔導師を続けていられる。

 

 静かに思いを巡らせて歩く内に、一つの病室の前でフェイトは足を止めた。

 病室の表札にはアリシアの名前があり、フェイトはここの売店で買った白い花の束を脇に抱え、ゆっくりと二度ドアをノックした。返事はない、当たり前だとフェイトは思いながら、もしかしたらという希望からこれをやめることが出来ない。

 

「失礼します」

 

 フェイトは扉を開き、中に入る。閉められたカーテンから僅かに漏れる光はとても柔らかく、ベルカにも短い春が来たのだなと実感できる。

 

 真っ白な病室だった。壁も天井も床もシーツもカーテンも調度品も全てが白一色の色彩に染め上げられ、それらは部屋の照明を照り返して明るい光を放つ。そして、その中にあって一点だけ白に染まっていない色彩がベッドに横たわっていた。

 

「こんにちは、お姉ちゃん」

 

 純白のシーツに覆われるベッドの上で、金色の色彩が一際眩しく輝く。介護と治療のため、長かった髪は肩の位置で切りそろえられ、その色素の薄い表情はひたすら穏やかだった。今にも目を覚ましそうな期待と、そのまま安らかな眠りについてしまいそうな危なげさの両方が感じられる。今日もアリシアは変わらず長い眠りの中に沈んでいた。

 

「……」

 

 フェイトは口を閉じ、しばらくの間沈黙して耳を澄ませる。聞こえてくるのは、そよ風が窓を撫でる音に、遠くの方で子供達が遊ぶ小さな歓声と眠り子の規則正しい吐息のみ。

 今日も返事はない。分かっていたことだ。しかし、願わずには居られないことだとフェイトは瞑目してこみ上げる感情を抑え込むのではなく受け入れ、受け流した。

 

「窓、開けるね」

 

 感情とは身体を駆け抜ける風のようなものだと捕らえ始めたのは一体何時の頃だろうか、とフェイトはベッド脇に備え付けられている棚に花束と学校の鞄を置きながらそう思い浮かべた。

 それは三年前、理不尽な感情を、罪を償おうとしていた騎士達に向けてしまったときから始まっていたのかもしれない。そして、それから自分は感情を全て押し殺して表に出さないようにしていた。もう、あのような後悔を繰り返したくないと思ったため、人を傷つけるような感情を外に出さないようにと心がけていた。

 しかし、それも失敗した。身体や心に多くの教訓を刻み込み、フェイトは失敗を繰り返してしまった。それは、アリシアが眠りについた時にフェイトが感じていた感情を、今度は自分が周りの者達に感じさせる事となったのだ。

 

「今日も良い天気だよ。風がすごく気持ちいい」

 

 フェイトはアリシアに光が直接当たらないようにカーテンを開き、窓を開けた。窓の向こう側に眺められる広葉樹の林と、その中央に一際大きくそびえる大木。それはまるで、アリシアの故郷アルトセイムを思わせるものだった。

 

 繰り返さないということはいかに難しいのか。人はどうしようもなく繰り返してしまう。繰り返さないと思っていても繰り返してしまう。

 感情を理不尽にさらけ出すのではなく、無理矢理押し殺すことも良くないとフェイトは理解し、そして、それらの事全てを受け入れようと考えた。

 

「………」

 

 アリシアは、フェイトの言葉に何一つ答えを返さない。フェイトは窓より吹き込んできた風で乱れた彼女の髪を指で梳(くしけず)りながら、すこしだけ表情に影を作りながらベッド脇のチェアに腰を下ろした。

 

「今日は、学校の卒業式だったんだ。本当は、みんなと一緒に居たほうが良いんだけど、どうしても最初に報告したくて」

 

 フェイトはそういって鞄より黒い筒を取り出し、その中から丸められた一枚の厚紙を取り出し、眠るアリシアにも見えるように広げた。卒業証書、フェイト・テスタロッサ・ハラオウンと達者な筆文字で描かれた文字が描かれているそれは、フェイトが聖祥学園での生活を終えたことを証明するものだった。わずか三年でしかなかった学園生活は、それでもフェイトにとっては新鮮な驚きと、ふれあうことの喜びを知らせてくれたかけがえのない時間だった。その多くは笑顔の消えていた日々だったとフェイトは思う。しかし、今はここでこうして笑っていられる。

 

「不思議だよね……私はもう笑えないと思ってた。お姉ちゃんが帰ってくるまで、私は笑顔を浮かべちゃいけないなんて思ってたんだよ。それなのに、私は笑顔でいられる。幸せだって思えるんだ。お姉ちゃんがいないのに、眠ったままなのに」

 

 時折、フェイトはそれに罪悪感を感じている。ふとしたことで笑顔を浮かべている自分や、幸せを感じている自分に違和感を持ってしまう。本当に自分はこれでいいのか。こうして笑顔を浮かべ、幸せをかみしめている時に自分はアリシアのことを忘れてしまっていないか。それがたまらず怖くなって、明くる日には必ずフェイトはここに足を運んでいた。自分のあり方の根源を確かめるように。何度も何度もそれを繰り返してきた。

 

「ねえ、お姉ちゃん。私、大きくなったでしょ? なのはもユーノもみんな、大きくなったんだよ? クロノお義兄ちゃんもすっごく背が伸びて……格好良くなった」

 

 しかし、人は変わっていく。周りの者達だけでなく自分さえも刻一刻と変化していく。何一つ同じ時はない。すべては常ではなく、万物は移ろいゆく。

 

「私は、とても幸せだと思う。なのは達がいて、お義兄ちゃんが二人に義母さんまで居る。とても幸せなんだ、怖くなるぐらい、幸せなんだよ、お姉ちゃん」

 

 幸せであるが故に怖い。いつかこれが崩れてしまわないかと思うとおそれしか浮かんでこない。今こうして姉を思うこの感情もまた風に流されるようにどこかに消えてしまうのではないかと考えれば、生きていることこそが怖くなってしまう。

 

「だけどね、どこにもいないんだ。ここにしかいない。幸せなはずなのにどこな満たされないって思うんだ。時々無性に寂しくなって、みんなとご飯を食べてるときに、泣いちゃったことだってあるんだよ?」

 

 三年経った。まだ三年というべきか、もう三年も経ってしまったと言うべきなのか。酷く長い三年間だった。様々なことが起こり、良いことも悪いことも多く起こった。繰り返される運命に翻弄され、それでも前を向いて歩き続けてきたとフェイトは胸を張って言える。しかし、その風景にはアリシアが居ない。どこを探してもアリシアがおらず、思い起こせるのは眠り着いているアリシアだけ。

 

「寂しいよ、お姉ちゃん……。やっぱり私は……お姉ちゃんが居ないとだめなんだ」

 

 フェイトの涙の滴がアリシアの手の甲にぽとりと落ちて弾けた。カーテンの隙間から差し込む光が、弾ける水滴を一際輝かせ消えていった。

 

 

 

「泣かないで、フェイト。フェイトが泣いていると、私はどうすればいいのか分からなくなる」

 

 

  そして、声が届いた。

 

 

 フェイトは面を上げてそれを見た。流れ出ていた涙は彼方へと飛んで消え、紅い瞳はただ呆然と見開かれていて、今が現実なのか夢なのか分からなくなってしまう。

 背後には、庭園が織りなす幻想的な風景が広がっている。それは、自分はまた闇の書の中で夢を見ているのではないかとフェイトに錯覚させた。

 これは、夢なのか現実なのか。

 ただ分かることは、一つだけ。アリシアはベッドに横になっていること、そして横たわる体勢のまま、自分を映し出すルビーのような紅い双眸をフェイトに向けて晴れやかに微笑んでいることだけだった。

 

「お姉ちゃん……」

 

 もしもこれが夢なら、どうか目覚めないでほしいとフェイトは切実に思った。

 

「おはよう、フェイト。なんだか、随分大人になったね」

 

 しかし、もしもこれが現実であるのなら、どうか夢に陥らないでほしいとフェイトは願った。

 

「お、お姉ちゃんだって……背、伸びたよ……」

 

 声を出す口元が戦慄(わなな)く。まるで、聞かれたことを端的に答えるだけのストレージデバイスのように、様々に浮かび上がる感情がすべてを打ち消してしまう。目を覚ましたら言いたいことや話したいこと、叱り付けたいことや、約束したことがたくさんあった。それを考えるのが唯一の楽しみだった頃もあったにもかかわらず、フェイトは上手く言葉を紡ぐことが出来ない。

 

「そう、自分では分からないものだね」

 

 あははと少し辛そうに笑うアリシア。彼女の様子は眠る前とまるで変わりようがなく、フェイトがいかに心を壊してきたか知るよしもない笑みを浮かべていた。

 

「あっ……っぐ……うぅ……」

 

 もう、言葉も口に出来ない。ふるえは体中に広がり、胸の奥底、身体の至る所からわき出る熱がまぶたを焼き、まるでそれを冷やそうと言わんばかりに暖かな雫が幾重も幾重もこぼれ落ちて膝をぬらしていく。

 

「……フェイト……」

 

 口元を押さえ、震える身体を押さえ込むように身体を閉じるフェイトにアリシアはかける声を失った。手をさしのべ、まぶたをぬぐって頭を撫でたいと思っても、衰えきった身体はまるで動こうとしてくれない。

 

「遅すぎだよ、お姉ちゃん」

 

 震える声が耳朶を打った。

 

「ごめん」

 

「私が、私たちがどれだけ待っていたか。寂しかった……とても、寂しかったんだよ」

 

 しゃくり上げる音が鼓膜を震わせた。

 

「ごめん、寂しい思いをさせて」

 

「ずっと、ずっと待ってたんだからね……もう、待ちくたびれたよ」

 

 しかし、フェイトの声は震えながらも強く響き渡っていく。

 

「ありがとう、フェイト。待っていてくれて、ありがとう」

 

「お姉ちゃん……お姉ちゃん!」

 

 アリシアの視界がすべてフェイトで埋め尽くされた。その香りが、熱が、全身を通じて感じられる。

 アリシアは言葉をなくしてただ大声を上げて泣きじゃくるフェイトの背中をそっとなでつけながら、おもむろに空を見上げた。窓の向こう側にはただ一点の曇りもない蒼空が広がっていた。

 

 

 

 


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