魔法少女リリカルなのは~Nameless Ghost~ 作:柳沢紀雪
彼に関する事では印象に残ることが多すぎる。休日の昼下がり、友人宅のバルコニーでお茶を傾けているときでも、ふと空を見上げたり、少しだけ目を閉じただけでその状況は余りにも鮮明に、余りにも鮮烈に浮かび上がってくる。
少女――アリサ・バニングはそれを思い浮かべる度に心にわき上がってくる感情をもてあます。
身体の芯を暖かくさせる想い、そして、後悔にも似た冷たい痛みを伴う想い。その二つがない交ぜになって、はき出される吐息には憂いしか込められなくなる。
彼は、自分から大切なものを奪い、そして、同時に大切なものを与えてくれた。とても歓迎できるものではなかった。
その歯車がずれてしまったのはどの時点だったのだろうかとアリサは今になっても思う。おそらく、決定的になったのは、彼がなれない仕草で朝の教室で転校の挨拶をしたときだったのだろう。彼の容姿は同世代といっても余りにも浮世離れしているように思えた。それは、アリサだけでなく、クラスの女子と男子全員を含めても同じだったのだろう。彼の言葉は透き通っていて、純粋に思えた。
その一声で、クラスからはとても年相応と思えない、少しばかりの熱が篭もった息が漏れだしていた。アリサもその中の一人だったことは幼馴染み達にさえ秘密のことだ。彼の薄く輝く蜂蜜色の髪と、見つめられれば誰でも素直にならざるを得ないような、翡翠の宝石のような光をたたえた瞳。
仲良くなれればいいなとアリサは、初対面の人間に対して珍しく好意的な感情を抱いたものだった。それは、アリサにとって実に希な感情だった。両家の息女として、彼女は同年代の少年少女とは違い、滅多なことで他者を信頼しないようになってしまっていた。そんな自分が、一目見ただけでそんな感情を抱いてしまったというのは、彼女にしてみればとても恥ずかしいことに思えたのだ。
しかし、彼女のその感情は、彼の視線が一人の少女に向けられたとき、彼の表情が緊張から解き放たれるように開かれたときに終わりを告げた。その視線の先にいた少女――高町なのはも彼と同じような表情を浮かべていることが分かったときに、アリサにとってユーノとは何となく気にくわない男子という感覚に一気にシフトしてしまった。応にそれは急転落下だった。自分にこれほどまで激しく揺れ動く感情があるとは、彼女も初めてのことだった。
そして、その後の自分の態度は、ある意味そのせいで平静を失っていたことに原因があるのかもしれない、とアリサは友人の侍女(メイド)が入れた紅茶を口に含みながら思い返した。
この感情をなんと名付ければいいのだろうか。まるで、心がむき出しにされたような、痛みを伴う感情を、アリサは名前を付けることが出来ずにいた。名前を付ける事がどうしようもなく怖くなってしまった。
彼は、初めて会ったときから高町なのはの側にいて、まるでそこにいることが当たり前のような態度で、彼女の隣に居座った。まるでそれは、今まで自分がいたはずの場所を取られたような。自分自身の心根を奪われたような、そんな不快な感情が決壊した堤防から流れ出す濁流のように次から次へとわき上がってきた。
奇麗だと思った彼の声が、まるで媚びるような声に聞こえた。見つめられれば心が解きほぐされるように思えた彼の瞳が、打算的な悪意を隠すための嘘のように見えてしまった。
どうしてお前がそこにいるのか。どうして、誰にも断り無くそこに居座ろうとするのか。
思えば、子供っぽい感情だったとアリサは思う。そして、自分にはまだそんな感情が息づいていることにアリサは驚きを感じていた。それはまるで、かつて気にくわないという理由でいじめていた、今は親友となった少女――月村すずかに対して抱いていた感情そのものではないかと彼女は思い至った。
(結局、私は何も変わってないだけなのかもね)
アリサはそう思いながら目を開き、バルコニーを覆うひさしの向こうに広がる、一面に澄み渡った冬の空を見上げた。いつまでたっても空は変わらない。もう、何年も同じ空がそこには広がっている。しかし、今の自分たちはどこか、決定的に変わってしまったとアリサは予感している。
親友達から隠されていたことがあった。そして、おそらくはその原因を作った少年が、今日特別に時間を作って、自分たちに会いに来る。
アリサは視線を空から下げ、目の前に座って本に目を落とすすずかをチラリとうかがった。
彼女はどう思っているのだろうか。彼女もまた、少年に願われていまここにいる。彼女も、自分と同様、聖者の夜にその決定的となる光景を目にしていた。彼女は、既に受け入れてしまっているのだろうか。彼女は、このテーブルに着いたときから一度も口を開こうとせず、ただ一冊の書物を読みふけるばかりだった。
彼女が何を考え、そして、これからどうあろうとするのか。聞いてみたいと思った。しかし、聞くことが出来なかった。それによって、自分と彼女の間になにか決定的な差異が生じてしまう予感があった。それが、今のアリサにとっては自分の心臓をつかみ取るほどにおそれる事だった。
「……来たみたいだよ……」
ふと、すずかは本より視線を上げて、読書の時にだけかけている眼鏡を外し、そっと机の上に置いた。
彼女はバルコニーの向こうへと目を向ける。その先にそびえる、月村の屋敷の門。その、鉄格子の向こう側に、ただ一人たたずむ少年の姿がアリサの網膜に飛び込んできて、彼女は思わず身体を硬くした。
「アリサちゃん」
はっきりとした声がアリサの鼓膜を震わせた。
「なに?」
随分と硬い声がアリサの口からはき出される。
「ユーノ君は、私たちの友達だよ。それだけは、見失わないでね」
すずかの言葉を聞いて、アリサは「ああ、そうか」と思い至った。結局は、彼女も同じだった。変わってしまうかもしれない自分たちの関係に、彼女もまた自分と同じような恐れを感じていたのだ。
「分かってるわ。親友だから……ね」
故に、アリサもその言葉を自分の胸に刻み込んだ。どのような事が起こっても、どのようなことが彼――ユーノ・スクライアの口から紡ぎ出されようとも、それだけはぶれないように、と。
「ユーノ様がおつきです」
アリサはバルコニーに顔を出してそう告げるすずかの侍女、ファリンの声に頷き、そして居住まいを正して彼を待った。
到着した彼は随分と思い詰めた、追い詰められた表情をしていた。少なくともアリサにはそう思われた。
到着早々、本題を切り出しそうになったユーノを制して、すずかはファリンに命じて、彼の為にお茶とお菓子を振る舞わせ、それが終わるまで何も話をしないと告げた。それは、強い感情が込められていた。
「お茶を飲むときは、お茶の話をしよう?」
思えば、すずかもまた、彼を目の前にして少し時間が欲しかったのかもしれないとアリサは思った。改めて彼を目の前にしてわき上がる感情をそのままにしないように。落ち着ける時間が欲しいとアリサも思っていた。
「今日のお茶は、ダージリンのビンテージものよ。良く味わいなさい」
時間をかけてゆっくり味わえば、その分だけ心は平静を取り戻すだろうとアリサは願った。しかし、それはおそらくかなわないだろうとも思っていた。なぜなら、彼が静かに頷いて、随分と堂に入った作法で紅茶を口に運ぶ姿を見るだけで、自分の感情がどんどん落ち着かない何かで満たされていくから、とてもこのまま落ち着いて話が出来るようになるとは思えなかった。
「美味しい?」
穏やかに微笑むすずかに、ユーノはうなずき、「美味しいよ」と返した。
「すごく良い香りで、こんなに美味しいのを飲むのは初めてだよ」
そういいながら、ユーノはチラリとアリサの表情を伺った。
「ふん! 当たり前じゃない。ファリンは、お茶を入れるのだけは上手なんだから」
いつの間にか彼の仕草、一切挙動を目で追ってしまっていたことにアリサは気が付き、そう憎まれ口を叩きながら彼の視線から目を離した。すずかが自分を呆れた表情で見ている、その視線がアリサには痛いほど感じられた。
「アリサちゃん。そんなこと言ったら、ファリンに失礼でしょう?」
確かに、すずかの専属の侍女であるファリンは、まだまだ子供っぽく、未熟でドジな所がある。しかし、そんな風に見える彼女でも、月村の侍女でいられる程には優秀なのだ。
「分かってるわよ、それぐらい」
どうして、自分は憎まれ口しか叩けないのだろうかとアリサは自分自身を殴ってやりたい衝動に駆られた。いつだって自分はこうだ、本当は素直になった方がいいことなど昔から分かっている。どうしてこうなってしまったのか、アリサは何もままならない自分自身を嘲笑するような、憂いの籠もったため息をまた漏らした。
溜息を吐けば幸せが逃げていくとはよく言われているが、幸いだと思えることの何もない今の現状から、どうすればこれ以上幸せが逃げていけるのだろうかとアリサは思う。既にない幸いを、たぐり寄せることも戻すことも出来ないからこそ、人は諦観を込めて溜息を吐くのかもしれない。
「それにしても、クリスマス・イブ以来だよね。ユーノ君と会うのは」
何となく話しづらそうな様子のアリサに助け船を出すようにすずかがそう、ユーノに語りかけた。
「そうだね、色々あったから」
ユーノはそう言ってカップに口をつけ、言葉を切る。いろいろあったことは分かっている、しかし、それがなんなのかアリサはまだ知らない。なのはとフェイトも何も話そうとせず、結局年越しのイベントと新年の祝いを過ぎて、明日には新学期が始まろうとしている所にようやくユーノから連絡が来たのだった。
クリスマスのあの日。闘争にまみれたあの夜以来、アリサとすずかは初めてユーノと会うことが出来た。
「その色々っていうの、そろそろ話して欲しいんだけど」
もう、アリサは我慢できなかった。あの夜を越えて、なのはもフェイトも変わってしまった。会ったときから朗らかな笑みを浮かべて、日々の幸せをかみしめるように過ごしていたはずのフェイトが笑わなくなった。そんなフェイトを見て、そして、隣にいないユーノを想って笑顔を失ったなのは。何が原因となったのか、何を取り除けば二人は戻ってくるのか。結局、アリサは何も分かっていなかった。
分からないということが、たまらなく嫌だった。
「うん。今日はそのつもりで来たから」
ユーノは二杯目の紅茶を一口に飲み干し、そして、それをソーサーにおいた。ふと彼の手元を見ると、カップを今だ掴み取る指が小刻みに震えている。
結局、同じだとアリサは思った。結局、自分もすずかも、ユーノもここにいる善因が一つのことを恐れて聞くことを、いうことを躊躇している。
それは、そこまで自分は彼らを大切に思っているのかということの証明でもあった。
アリサはゴクリと唾を飲み込んだ。空になったカップにポットの中で少し冷めた紅茶を手酌で注ぎ、それをまたゆっくりと飲み始める。
何かを口にしていなければ、いらないことをいってしまいそうだった。
(あたしは、臆病だ)
アリサはそう思いながら、掲げたカップの向こう側のユーノをしっかりと目で捕らえ、首を縦に振って促した。
「じゃあ、話すよ…………どこから話したらいいのかな……たぶん、始まりはいろいろあるんだろうけど、決定的だったのは半年と少し前ぐらいになるのかな……」
そして、ユーノは語り始めた。それは、全てが決定的となった時。ジュエルシードがこの街にばらまかれて、力不足だったユーノがやむを得ずになのはに助けを求めてしまったことから始められた。
そして、フェイトという一人の悲しい少女との出会い。相容れないかと思ったその少女に対して、なのはは粘り強く声をかけ続け、そして、最終的にはクロノやリンディ達の助力を得ることで、なのははフェイトを助け出した。フェイトに関することはあまり深くは話されなかった。家族で悲しいことがあったということだけは事実だったが、そればかりはユーノの口から話されることではない。しかし、フェイトはアリシアという姉を得て、幸せになるはずだった。
しかし、その状況はそれから半年後、つい先日起きた事件によって覆されることになった。
闇の書と呼ばれるものがあった。それに魅入られた少女がいた。
「それがはやてちゃん?」
すずかの呟きにユーノは肯いた。どうして、すずかはそれに気が付いたのか。ユーノがそう聞くと、すずかは感情のこもらない表情を浮かべ、口を開いた。
「あの、空を飛んでた黒い女の人から、何となくはやてちゃんらしい気配みたいなものを感じたから」
あのとっさにそこまで感じ取ることが出来たのはユーノにとって驚きだった。今まで気が付かなかったが、ひょっとしたらすずかには魔法の才能があるのかもしれない。あるいは魔法以外の何か、レアスキル的な要素が彼女にあるのかもしれないとユーノは思い、それ以上の考察を打ち切った。今はそれが重要なのではない。
「続けて」
アリサの短い声にユーノは再度頷き、その事件のあらましを伝えた。はやては、闇の書に飲み込まれ、それと同時に近くにいたアリシアまでもが飲み込まれた。
フェイトも結局は同じように飲み込まれてしまうが、三人は結果的に助かった。どのようにして助かったのかは、随分複雑で説明することが出来なかったが、三人は助かり、二人は無事に帰ってきた。ただ一人、アリシアを除いては。
「それが――フェイトが笑わなくなった理由?」
ユーノが唇をかみしめる様子をアリサは確かに感じ取ることができた。アリサとすずかは、はっきりと言えばアリシアとそれほどの交流はない。直接顔を合わせたのは、一月と少し前に行ったフェイトとアリシアの歓迎会のみ。そのときも、結局アリシアは自分たちの輪の中には加わらず、大人連中と談笑をしていただけだった。しかし、フェイトにとってアリシアとはただ一人の肉親だ。彼女がアリシアをいかに大切にしていたのかは確かめる必要もないことだった。
「アリシアちゃん、どういう様子?」
すずかの問いかけにユーノは首を振った。それは、答えられないことか、それとも単に知らないだけのことか、あるいは、何一つ予測できない自体なのか。少なくとも命だけは無事だということだけを二人は聞かされた。
「じゃあ、もう一つだけ――」
アリサは黙ってすずかの声を聞いていた。すずかの瞳にはアリサの目から見ても良くない光が灯っているように思えた。しかし、アリサはすずかを止めなかった。
「うん、なに?」
「なのはちゃんがね、最近すごく辛そうにしてるんだ」
ユーノは歯を食いしばった。その様子にすずかは、やはりか、と理解した。
「心当たり、あるんだね?」
すずかの表情はとても研ぎ澄まされていた。答えなければ何をするか分からない。そんなことを思わせるような、冷たい表情に思えた。
「隠すつもりじゃなかったんだ。だけど、なんていえばいいのか、分からなくて」
ユーノの表情に浮かんでいるのは、後悔の念だった。フェイトとアリシアの話をしているときには、辛そうにしていても彼は決して表情を崩すことはなかった。真剣にそして冷静にただ事実を伝えるように彼は淡々と言葉を続けていた。しかし、彼女の名前が、高町なのはの名前が出たとたん、彼の表情はあっけなく崩された。彼の心根に深く息づく彼女の名前は彼からいくらでも冷静を奪い去ってしまう。たとえ、目の前に彼女がいなくても――いや、むしろ彼女がいないからこそ、彼はその表情に感情を乗せることが出来るのかもしれないとアリサは思った。
彼の心の奥深くに住まう彼女の名前を羨むべきなのか、それとも彼は決して彼女の前ではあらわさない感情を自分たちの前では表してくれることを喜ぶべきなのか。アリサは対立するその二つの感情をもてあますばかりで言葉を放てなかった。
ユーノの話は、確かにまとまりに欠けるものだった。彼は、ふとした理由で迷った彼女を助けたいと思ったが、それも上手くいかず、形だけでも彼女を立ち直らせたクロノに僅かな妬みさえも抱いてしまった。
しかし、ユーノはなのはを助けることが出来た。自分自身の魔導師の命とも言えるリンカーコアを犠牲にすることで、ユーノはなのはを守ることが出来た。しかし、それはなのはの中に大きな傷をつけてしまうことになった。
自分のせいでユーノが傷ついた。それは、彼女にとって何よりも恐ろしいことだっただろうとすずかは胸を痛めた。
なのはは自分が傷つくことを厭わない。時には力を用いても誰かとわかり合おうとする気概も持ち合わせている。
「なのは、辛かったでしょうね……」
アリサにはその情景がはっきりと見えた。暗い病室に眠るユーノを前にしてただうなだれるだけのなのはの姿が実感をもってアリサの脳裏に浮かび上がる。
「僕は、守れたと思ってたんだ。傷も痛みも、なのはを守れた証みたいに思えて、誇らしかった。こんな僕でも、なのはには助けてもらうことしかできなかった僕でも、なのはを守れるって、そう思えたんだ……」
「だけど、ユーノ君はなのはちゃんの心は守れなかったんだね?」
すずかの言葉は余りにも容赦のないものだった。アリサはすずかにもうこれ以上はユーノを責めないように言うべく口を開こうとするが、それはすずかの一瞥によって封じられた。
(今は、私に任せて)
そんな声が聞こえた気がして、アリサは口を噤む。
「ねえ、ユーノ君」
「なに? すずか」
ユーノは面を上げてすずかを見た。これ以上何を言われても、それをしっかりと受け入れる。彼の表情にはそんな覚悟が透けて見えて、アリサはそれを痛ましく思った。
どうして彼はそこまで背負おうとするのか。
「私が言うのはこれが最後だよ」
「うん」
ユーノは頷き、すずかは「すぅ」と大きく息を吐き出した。
「――ありがとう――」
透き通った響きが空気を震わせた。
「えっ?」
それは、まるで祝福の風のように舞い降り、ユーノは目を見開いた。
冷たい、まるであらゆることを容赦なく切り刻まんばかりの表情をしていたすずかはその一言で表情を崩し、ゆっくりと穏やかな表情を形作っていった。まるで、冬空に浮かんだ暖かな太陽のように。ユーノはその表情を見て、思わず涙を流しそうになった。
「ありがとう、ユーノ君。ユーノ君がいてくれたお蔭で……なのはちゃんは無事だった。ユーノ君がいてくれなかったら、なのはちゃんだけじゃない、フェイトちゃんも、はやてちゃん達もどうなってたか分からない。だから、貴方がいてくれて、私は嬉しい。ユーノ君が私たちの友達でいてくれて、私は本当によかったと思う」
「すずか……あんた……」
アリサは言葉を失った。この友人は、いったいどこまで懐が深いのか。すずかは、ただそのの一言だけでユーノのすべてを包み込んだのだ。ただ許しただけではない、許すも許さないもない。それらを含め、すべてを内包してすずかという人間がユーノ・スクライアという人間をすべて認めたのだ。
とてもまねが出来ない。自分ではその領域にたどり着くことなど不可能だとアリサは思うしかなかった。
「私からは以上だよ」
まるで呆然としてただすずかに目を向けるしかなかったユーノを一瞥し、すずかは「ふぅ」と何かから解放されたような吐息を一ついて、おもむろに席を立った。
「すずか、どこ行くのよ!?」
アリサもあわてて席を立ってすずかを追おうとするが、バルコニーの大窓に手をついたまま振り向いた彼女の視線を前にして足を止めた。
「ちょっとネコちゃん達の様子を見に行くだけだよ。アリサちゃんは、ユーノ君と待ってて」
ユーノが振り向くまでの瞬間に、すずかはアリサにほんの少し鋭い視線を投げかけた。
そして、去っていくすずかの後ろ姿をガラス越しに見守りながらアリサはその眼が語った事をまるで、念話の如くはっきりとした声で聞いていた。
『次は、アリサちゃんのばんだよ?』
結局、すべて彼女の手の内かとアリサは天井を仰いだ。すずかは自分の意志と言葉で筋を通した。しかし、自分はただそれを聞いていただけ。すずかの尻馬に乗ってそのままうやむやに事を終わらせることも出来ない。彼女が許さなかった、そしてそれは、何よりもアリサの矜持が許さないことだった。
(相変わらず、あたしのことはよく分かってるわね、すずか)
敗北宣言に近い思いを抱き、アリサは肩を落とし、心の内で両手を挙げた。
「あの……アリサ?」
背後からユーノの弱々しい声が響く。普段のアリサなら、「なによ!?」と腰に手を当てながら振り向き、眉間にしわを寄せながら彼をにらみつけただろう。
実際はそんなことをしたくないのに、自分の意地っ張りな性格がそれをさせてしまう。しかし、今は普段より幾分か落ち着いているようで、いつもなら落ち着いてくれない胸中も一面に小波(さざなみ)が立つ程度には凪いでいる様子だった。
「ちょっと…………散歩でもしましょうか」
アリサはそういって振り向いた。思った以上に落ち着いた声を出すことが出来た。そして、側に座って、どこか居心地の悪そうにこちらを見るユーノは、アリサの言葉にただ無言でうなずいた。
もう少しだけ考える時間が欲しい。
そう思いながらアリサはユーノを背後に従えるようにバルコニーから離れた。
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月村の屋敷の周囲には庭にしては随分と広い林が広がっている。ほんの一、二年前には良くこの林で、なのはとすずかと共にネコを追いかけたり、ピクニックのようなことをしたり、秘密基地を見つけたりとよく遊んだものだとアリサは昔を懐かしむように緑の天蓋を見上げた。
町中にいながら、ここには俗世間的な喧噪が存在しない。まるで、人の世から切り離された静かな世界のようだ。風が木立を吹き揺らし通り抜けていく感覚に身を預け、木の葉が揺れる響きに耳を傾ければ、心は否応なく落ち着いていく。
普段なら、足下にひなたぼっこをしながら昼寝をするのんきなネコの一匹や二匹はいるはずだが、今日に限って彼らはここにはいない。今頃すずかがそのご機嫌取りをしているだろうと思いながら、アリサはふと木々の間に見える月村の屋敷の楼閣に目を向けた。
僅かに見える窓はすずかの部屋のものだとアリサは気がついた。彼女はいま、自分たちを眺めているのだろうか思いながらアリサはそのまま振り向いて、背後で立ち止まり、どこか感慨深そうな表情で木漏れ日の注ぐ天上を見上げるユーノに目を向けた。
「何かあった?」
アリサも彼に習って頭上を見上げるが、そこには代わりのない緑の覆いが広げられているだけで、何か物珍しいものがありそうにもなかった。
「うん……何かって言うんじゃなくて……ここで、なのはと僕はフェイト出会ったんだなって思って」
昔を懐かしむほどの時間は過ぎていない。しかし、今を思うとあの時は余りにも遠くて、ユーノはどこか眩しそうにそれを見つめ続ける。
「そっか……ここだったんだ」
それなら、フェイトにとって思い出の場所となるのだろうとアリサは感じた。そして同時に、なのはとユーノにとってもここは、一種特別な場所になるのかもしれない。
「春ぐらいになのはがここで木から降りられなくなった子猫を助けて、自分も一緒に落ちたってことがあったよね。そのときだよ」
「あ~、あの時か……なるほど、おかしいと思ってたわ。運動音痴なあの子が、いくら正義感が強いからって、いきなり木に登るなんて出来るはずないって。すずかも不思議がってた」
「うん、隠しててごめん」
「そうすると、なのはが追ってたフェレットのユーノって……ひょっとして……」
「うん、僕だったんだよ」
「そうだったんだ、動物にしては賢すぎると思ったわ」
「ごめん」
「別に、あたしもさんざんいじり回しちゃったから、むしろあたしが謝るべきね」
フェレットのユーノと今、目の前にいるユーノ。その二つを一緒と考えるのは、随分と無理があったが、言われてみればユーノの体毛はこのユーノと余りにもにていて、その瞳の光や、その仕草もどことなく重ね合わせルことが出来るように思えた。
アリサはそれで色々と納得することが出来るような気がした。人の姿をしたユーノと交流を深めていくうちに何故か、もっと前にも会ったような気がしていたのだ。
そう考えると、あの時の自分はユーノをペット扱いしていたと言うことかとアリサは考え、何となく申し訳ない気もしていた。自分も犬猫のように扱われるのは、犬や猫には悪いが、冗談ではないと思ってしまうからだ。何よりもペットフードを毎日食べるなど、飼い主に反逆してでも拒否するだろう。それを彼は一月以上もその状況を続けていたというのだ。
「いや、まあ、あんたも結構大変だったのよね」
「分かってくれるとありがたいよ」
「あんた、その間になのはに変なことしてないでしょうね? というより、あんたの方がなのはに変なことされてた可能性もあるのか……」
「えっと、そのあたりはノーコメントで……」
「ふん、まあいいわ。その内吐いてもらうから」
ユーノの苦笑いでアリサは、二人の間にそう言うこともあったのだろうと殆ど断定した。実際はどれもこれも幼い子供の微笑ましいやり取りのに近いものであるのだが、それを出汁にしてユーノをからかってやるのは、アリサにとって、とても面白いことのように思えた。
実際、それ以外に彼女はユーノとの付き合い方を知らない。
(よく考えたら、まるっきりいじめっ子ね、あたし)
なぜ、こうもユーノを弄りたくなるのか、それはアリサにも分からないことだったが、なぜか、彼とはこうしているときが一番楽しく感じてしまう。
「言わなきゃいけないことは、すずかが全部言ったから。私からはもう、何もいうことはないわ」
重要なこと、確かめなければいけないことは既にアリサは聞いている。なのはのこと、フェイトのこと。多くは納得の出来ないこともあり、それらが自分の手の届かないことで行われて、聞かされるのが結果だけであることに対しては気に入らないと思うこともある。
「うん」
ユーノはしっかりと肯いた。それは、背負っている表情だとアリサは思った。おそらく、この少年は、誰に言われなくても、これからもなのはとフェイトを背負っていこうと思っているのだろうとアリサは理解した。それは、果たして彼が背負うべきものなのか。自分が負担できる所はないのか。それは、今の課題ではない。
「当然、納得できないこともあるし。あんたが、なのはを落ち込ませてるっていることも、正直許せないって思う所もある」
「ごめん」
「あたしに謝ってもなんにもならないわ。それでなのはとフェイトが立ち直るなんてことないんだし」
「うん、ごめん……」
「まったく、あんたは…………あたしの友達だったら、もっとシャンとしなさいよね」
その言葉は自然に紡ぎ出すことが出来た。どうすれば、自分の考えが伝えられるのか。どうすれば、すずかのように心からの言葉を素直に綺麗に口にすることが出来るのか。
先ほどまで悩んでいたことが莫迦らしくなるように思えた。
そして、アリサが見つめるユーノは、自分が何を言われたのか分からず、ただ呆然とアリサの目を見つめていた。綺麗な翠の瞳がまん丸に見開かれて、その瞳にはっきりとアリサの姿が映し出されている。
「アリサは、僕が友達で良いの? だって、僕はずっとアリサ達を騙してたんだよ?」
騙していたなど、言葉が大げさではないだろうかとアリサは思った。騙していたと言うよりは言えなかったと表現した方が、何となくだが適切に思える。
確かに、内緒にされていたことは癪に思えるが、それで関係が終わりになるようであれば、それは果たして本当の友達といえるのかどうかとアリサは思う。
「それで友達じゃないんだったら、なのはとフェイトも友達じゃなくなっちゃうじゃない。あたしはそんなの嫌。だから、あたしはあんたと……ユーノと友達でいたい。ダメ?」
「ダメなんて……そんなはず無いよ。嬉しい、とても、嬉しいよ……」
「なのはのこともフェイトのことも、これからみんなで何とかしていきましょう。はやても巻き込んで、すずかにも助けてもらってね。ユーノは一人じゃない。それだけは忘れないで」
「ありがとう、アリサ。これからもよろしく」
「友達としてね。よろしく、ユーノ」
アリサとユーノは手を握り合い、お互いに少し恥ずかしそうにしながらも笑顔を向け合った。
おそらく自分たちは上手くやっていけるだろう。時間はかかるかもしれないが、諦めなければどうにでもなるはずだ。それはアリサの確信だった。そうならなければおかしいと思えるほど、アリサの表情には迷いがなかった。
なのは達は戦い続けてきた。おそらくユーノとフェイトはこれからも戦い続けるのだろう。それを止めることはおそらく自分では出来ないだろう。しかし、これからも自分にとっての戦いが始まるのだとアリサは心を燃やした。
相手はひどく強くて手強い。何せ人の心を相手にするのだから、100の強者を相手にするよりもなお困難な道だろう。
(あたしは、負けない。絶対に負けないから……)
力を込めて握りしめるユーノの手から伝わる温もりが、心強く思えて、アリサは身体の芯から湧き上がってくる熱を一身に受け、高鳴る心臓の鼓動に身をゆだねた。