魔法少女リリカルなのは~Nameless Ghost~   作:柳沢紀雪

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第十四話 ReinForce

 

 ゆりかごのような穏やかで優しい闇が、外部よりもたらされた衝撃によって震え、揺らぎを見せる。闇の書の随分奥の方に位置しているはずのここにもその震動が与えられると言うことにはやては驚きを隠せなかった。

 

「防衛体、過剰負荷により機能を一時停止いたしました。これより闇の書管制人格リインフォースは、八神はやてを新たな主とし、夜天の魔導書として再起動いたします」

 

 闇の中で立ち上がった銀髪紅眼の少女はそう呟きながら、虚空を見上げるように佇む。

 

「良かった……ありがとうな、なのはちゃん、ユーノ君、ヴィータ」

 

 その側に座るはやてはホッと一息ついて、先ほどまでボンヤリとして曖昧だった感覚が徐々に戻ってくる事を感じていた。自分を包み込む闇はとても柔らかで落ち着かされる。しかし、それは自分を籠絡するための幻だったことが改めて理解することができた。

 

(悪魔は優しい声で近づいてくるって言うけど、こういう事なんやね。正気に戻れたのが奇跡みたいなものやった)

 

 それはひとえに自分に願いをかけ、最後まで諦めなかった人たちのお蔭だとはやては思い、そして、自分に諦めない根拠を与えてくれたアリシアに改めてはやては感謝の念を送る。

 

「夜天の魔導書の再起動、及びマスター認証に成功しました」

 

「ご苦労様。闇の書の暴走してる部分も何とかするべきなんやけど、そっちはどう?」

 

 たとえ、自分たちが外に出られたとしても、闇の書の暴走の大本である部分を何とか停止させなければ危機は立ち去らない。管理者権限を取得して、正式に闇の書――夜天の魔導書の主となった今であれば、それも可能なのではないかとはやては思う。

 

「闇の書の防衛体とのコネクトの切断は成功いたしました。しかし、防衛体そのものは排他的制御がまだ生きていますので、内部に侵入しない限りこちらからのアクセスは受け付けません」

 

 しかし、それはリインフォースの機能を持ってしても不可能であると言われ、夜天の魔導書に与えられたシステムの改竄が随分念の入ったものだとはやては改めて理解した。かつての所有者達が悪意のある改竄を行わなければ、おそらくはこの悲劇は起こらなかったとはやては恨み言を言いたくなったが、それは意味のないことだと思い、口には出さなかった。

 

「そうか、ここからは何ともならへんか……」

 

 しかし、そのような改竄がなければ今自分はこうしてリインフォースと出会い、話をすることは出来ず、家族を得ることも出来なかったはずだ。闇の書の浸食により脚を患うこともなかっただろう。しかし、両親が亡くなったことは闇の書の運命とは何の関係もない。もしも闇の書がなければ、自分は五体満足にただ孤独に生きているだけだったかもしれない。下手をすれば、叔父のグレアムの支援の上に胡座をかき、自堕落な人生を送るだけのものだったかもしれない。故に、はやてはその巡り会いの不思議に複雑な感情を持つばかりだった。

 

 はやては、グレアムと闇の書の関係を知らない。故に、仮に闇の書が存在しなければ、そのグレアムとの出会いさえもなかったことにはやては思いを寄せられない。

 

「申し訳ございません」

 

 複雑な表情をするはやてをみて、リインフォースは深々と頭を垂れた。どうやら、その表情を不機嫌と受け取ってしまったようで、はやては慌てて手を振ってそれを否定した。

 

「ええよ、リインフォースの謝ることやないから。また後でなんとかしよ。外には出られそう?」

 

 リインフォースは意外に感受性が高いようだとはやては思い、これでは下手に表情を陰らせるわけにもいかないと、笑みを浮かべる。

 過去を考えることも、もしもの可能性に思いをはせるのも合理的ではない。何せ今は、そう言った過去のしがらみや降ってわいてきた不運を払拭できるかもしれない岐路に立たされているのだ。

 

「問題ありません。ご命令を」

 

 この子の主として、毅然としていなければならない。はやては頭を垂れていたリインフォースの髪をそっと撫で、ホッと一息ついた。

 

「……命令なんていらへんよ。一緒に……一緒にいこ? 私を、連れて行って」

 

 はやては願いと共に手をさしのべる。それは、救いを求める手であり、同行の意を欲(おも)う手だった。自分にはその懇願と意志を受け入れ、導くことが出来るのか、その資格があるのかとリインフォースは思う。

 

「……分かりました、主はやて」

 

 リインフォースははやての手を取り、目を閉じる。自分はこの名――リインフォースという名を受け入れると決めたはずだった。

 

(逃げるわけにはいきません)

 

 リインフォースの強い念に呼応するように、二人の周囲に雲霧のように広がる闇が拡張し、光を拒絶する闇の境界面は速やかに後退をし始めた。その向こう側にもまた闇が広がっていた。しかし、それは薄ボンヤリとして光を拒絶する闇ではなく、透き通った純粋な闇だった。

 そして二人の頭上には一条の光の道が出現する。それはまるで地上より放たれた帚星のように、黄金の光の道となって闇の空間の地平線よりもさらに向こう側へと延ばされているようだった。

 

「綺麗や。あれをたどっていけば……」

 

「ええ、あれは導きの光路です。まさか、こんなところで”聖王導光の輝路”に会えるとは、思いもよりませんでした。まさか、聖王陛下がこのようなところにおわしますとは思いもよりませんでした」

 

 はやてはそう呟くリインフォースが微笑んでいるように見えた。それはまるで遠い過去を懐かしむような笑みであり、喜びの裏に寂しさを内包する表情のようにも見える。彼女が一体どのような時を歩んできたのか。世界の歴史比べればほんの僅かでしかないであろうその時は、人の身に換算すれば余りにも遠大すぎる。

 彼女の悲しみや苦しみを理解できないことにはやては寂しさを感じながらも彼女を見上げ、握りしめた彼女の手をそっと引き寄せた。

 

「じゃあ、お願い、リインフォース。私を外へ……」

 

 彼女の手は冷たかった。しかし、自分の熱が徐々に伝えられて、その手はしだいに暖かさに満ちていくようだった。

 

「承知いたしました、主はやて」

 

 リインフォースはその熱を心地よく、そして心強いと感じた。幾星霜の時を経て、ようやくたどり着くことができた温もりは余りにも甘美で、冷えて固まっていた人としての感情が霜解け水のように流れ出してくるようにも感じられた。

 こうして人の温もりに触れなかった故に、自分を含めた騎士達は氷のごとく感情を凍てつかせてきた。そうしなければ、残酷な現実を越えることなどできなかったとリインフォースは思う。思えば、転生した騎士達がことごとく記憶を継承できないと言うことは、機密保持の意味合いよりもむしろ、彼女たちの凍結した感情を守るためだったのかもしれない。

 

(詮無きことです)

 

 たとえそうであっても、それで何かが変わるわけではない。ただ、自分たちの深すぎる罪を償うことが出来るのであれば、それにすべてを託してしまっても良いとリインフォースは思い、はやての足もとに展開されていた魔法陣を消去した。

 

「わっ……っとっと」

 

 魔法陣が消えると同時にそれまでは感じられていた重力もまた消え去り、とつぜん失った上下感覚にはやてはとまどいの声を上げた。

 

「しっかりとお捕まりください」

 

 リインフォースは力場のない空間であってもその姿勢を崩すことなく、はやての手を優しくゆっくりと引き取り、膝の裏に手を差し入れて横抱きにし、そっと中空へと飛翔を始めた。

 はやてが見おろす眼下の闇は遠ざかることなく常に側にあるが、頭上の光は次第に強く眩くなっていき、はやてはその光に手をかざす。

 その光は幸運と栄光へ至る道であるとはやては思うが、何故か足もとに佇む闇に後ろ髪が引かれる思いがあった。

 何故かと思い、はやては最後に一度だけ眼下を見おろし、それまで自分がいたそこをまなこに映し込む。

 

 そして、はやては「ああ」と呟いた。

 

 闇もまた自分の一部だった。考えてみればあたりまえだと思った。人は日の下で生き、夜に抱かれて眠る。暗がりがなければ光を感じることはなく、闇は光によって成り立つ。言い古されて言い尽くされた言葉が胸をよぎって、はやての心に一握の寂しさが舞い降りた。

 

 それでも自分は戻るわけにはいかない。そして、自分は闇を見捨て旅立つのだとはやては自覚して、リインフォースに捕まる腕をギュッと強くした。

 

「さよなら……」

 

 その言葉と共に光が満ちた。闇は消えてただ光だけがあった。ようやく得ることの出来た希望への喜び、そして自分の一部分がなくなってしまったという喪失感。その相反する感情が同時に励起され、はやては吐息をはき出す。その息には様々な感情が入り交じり、同時にはき出したものによってはやては心に落ちつきを取り戻した。

 

「リインフォース?」

 

 気がつけば光の中に浮かんでいて、今の今まで自分を包み込んでいたしなやかな腕が消失していた。はやては彼女の姿を探してその名前を呼ぶが、彼女の姿はまるで光に照らされた影のように消えてしまっていた。

 光に当てられても影が生まれず、それはまるで光の雲霧の中に浮かんでいるようで、はやては先ほどまで自分を包み込んでいた衣服さえもが消失していることに気が付いた。

 

《私は側にいます》

 

 脳裏に響くその声にはやては胸前に浮かぶ一冊の本の存在に気がついた。

 

「闇の書……やなくて、これが夜天の魔導書か」

 

 その姿は、今まで側にあった闇の書と何も変わらない。しかし、はやての知る闇の書とはそれからもたらされる感覚が僅かに異なるように感じられた。

 

《名をお呼びください。貴方の求める者達は直ぐ側にいます》

 

 近くに感じる家族達にはやては微笑み、書の表紙の中央に設えられた剣をモチーフにした十字の紋章を手に取り、包み込み、胸に抱き、祈りを捧げるように瞑目して呟いた。

 

「おいで、私の騎士達。ただいまや」

 

『……お帰りなさい……』

 

 そんな声が耳朶を震わせたような気がした。そして、何もないはずの光の雲霧の中に、朱、緑、青の光の粒子が出現し、それぞれの粒子の下側にそれぞれの色の光を放つ魔法陣が土台のように出現した。

 

 激情の朱、優美な緑、泰然とした青。その三つの光は徐々に拡大し、光の固まりは人の姿を形作っていく。

 明滅する光が粒子となって回転し、魔法陣より湧き上がる奔流となって彼等は輪郭を取り戻していく。

 

「我ら、夜天の主の下に集いし騎士」

 

 青い光からは堅牢な体躯を有するザフィーラが、

 

「主ある限り、我らの魂尽きる事なし」

 

 緑の光からは水面(みなも)よりも穏やかな意志を宿すシャマルが、

 

「この身に命ある限り、我らは御身の下にあり」

 

 朱い光からは融鉄にも似た静かな熱情を持つヴィータが再誕をはたした。

 

 

 

 

 

 四人はお互いに顔を合わせて無言で互いを労い合う。

 

「お帰り、はやて」

 

 ヴィータの言葉にはやては微笑み、はやては手を掲げた。

 

「リンカーコア送還。守護騎士システム修復開始。おいで、シグナム」

 

 その言葉と共にはやての手のひらの上に紫の光の粒が生み出される。しかし、その光は他だ佇むばかりで人の形を取ろうとしない。

 

『…………私は、過ちを犯しました。このような私では到底主のもとに傅く事はできません。その資格を、失ってしまいました』

 

 はやては寂しそうに俯き、紫の粒を両手で包む。

 

「シグナムにそれをさせたのは主である私の責任や。闇の書の主やって言っておきながら、私はみんなのしてることを把握できへんかった」

 

『それは違います、主。あれは我らが勝手に行ったこと。主に罪はありません』

 

「それでもや。責任云々よりも、私はみんなに辛いことをさせてしまったのが悔しい。せやから、もう一度やり直そ? もう一度みんな一緒に償っていこ?」

 

『しかし、私は…………』

 

「罰が欲しいのなら、夜天の主である私がシグナムに罰を与える」

 

 その声に呼応するようにシグナムの光粒は静かに明滅する。断罪の階段を上る聖者のように、シグナムは潔く自らの罰を受け入れようとする。

 

「私よりも先に死なないで」

 

 その言葉にヴィータは息を飲み込む。

 

「常に私の側にいて、何があっても離れずに」

 

 シャマルは口に手を当て言葉を失う。

 

「時には叱って私の道をただして欲しい」

 

 腕を組むザフィーラもまた僅かに目を細めた。

 

 はやては胸に抱いた光の粒を解放し、それに向かってはっきりと宣言する。

 

「この言葉で、シグナムのこれからを縛ります。剣の騎士、烈火の将シグナム。騎士としての誓いを私にください」

 

 それは、罰なのだろうかとシャマルは思う。確かに、それはシグナムの今後の人生を縛りつけるものだとザフィーラは考える。しかし、それは正しく償いの道を与える言葉だとヴィータは思い浮かべた。

 

 沈黙が光の中に降りた。はやて達の中心に佇む夜天の魔導書はただ沈黙を守り、騎士達もまた何の言葉も発することは出来ない。

 彼等の主であるはやては、紫の光の前に立ち、口を噤んでただその光に強い意志の眼を差し向ける。

 

 戻ってこいとヴィータは言いたかった。これほどのことを主に言わせておいて姿を見せないのは騎士の名折れだとザフィーラは呟きたかった。生きて償いなさいとシャマルも伝えたかった。しかし、そのすべては既に主の口より賜れている以上、僕である彼等にはただ沈黙して見守るより他がない。

 

 どれほどの時間が経過したのか。まるで迷うように不規則に明滅していたシグナムの光粒は、決意を新たにするかのように一際輝き、その輝きは次第に集束して人の形を作っていく。足もとに現れた紫の魔法陣が誇らしく哮りを上げ、光と魔法陣の去ったその場には長身壮麗の女性が傅き片膝を上げ頭を垂れる姿が現れた。

 

「私の命。私の名。私の誓い。その総てを、我らが主、夜天の王、八神はやての御名の下に」

 

 はやてはその力強い声にゆっくりと肯き、右掌を上げ、一言「剣を」と呟いた。

 

《レヴァンティン開封》

 

 夜天の魔導書よりどこか安心した女性の声が響き、書は一瞬脈打つように光を灯し、その光ははやてが掲げた手のひらに宿ってそこに一降りの剣を生み出した。

 

 それは、鞘に収められた白銀の剣。シグナムの剣。業火の大剣レヴァンティン。

 はやてはそれをそっとシグナムの眼前に捧げ、一際まぶしく微笑んだ。

 

「お帰り、シグナム……」

 

「お待たせいたしました」

 

 このような名誉は身に余るとシグナムは震えた。誓いの御名(みな)の下に主の御前(おんまえ)に傅(かしづ)き、主より剣を給(たま)わる。騎士として、これ以上の誉(ほま)れは存在しない。

 

『羨ましそうね、ヴィータちゃん』

 

 頭を垂れたまま両手を掲げて剣を受け取るシグナムを見ながら、シャマルはヴィータに念話を送る。

 

『シャマルこそ』

 

 からかうようなシャマルの声にヴィータは冷静に返した。ヴィータの言葉は当たっている。シャマルの表情からは最上の喜びと同時に僅かに羨望の念が伺えた。

 

『仕方あるまい。シグナムは、騎士としての最高の誉れをいただいたのだ』

 

 ザフィーラの声にヴィータは『ああ』と短く肯いた。

 

 そして、はやては振り向いてそこに立つ三人をそれぞれ目を合わせた。

 三人は頷き、シグナムも立ち上がり、ヴィータ達の側に歩み寄った。

 既に言葉は必要がなく、全員が一つの意志のもとにまとまっていることをはやては確信した。

 

 

  もう言葉はいらない。

 

 

 はやては、微笑む表情を夜天の主にふさわしい、毅然とした表情に持ち直し、騎士達と自分とを隔てる場所に浮かぶ魔導書へと手をかざし、静かに息を吸い込みはき出した。

 

「夜天の書、私に甲冑と杖を。祝福の風リインフォース、セット・アップ!!」

 

 

 

 はやての手の中にベルカの象徴たる剣十字杖が舞い降り、ついで服が顕現し、その髪は銀に、目は紺碧へと変貌し、背中に三対の黒い翼が展開される。

 魔力で織られたその騎士甲冑は彼女の家族全員の要素を併せ持つ、正に彼女たちの象徴であるような姿に思えた。

 

 はやては、身にあふれかえる魔力を放出し、その光の空間をはねとばす。

 

 光が晴れた向こう側には、月の輝く夜天が広がっていた。天に浮かぶ月は優しい光で、海と陸を包み込み、白銀に染まるその光は、冷たく研ぎ澄まされていると言うよりはむしろ、何者にも染まらない純粋さと力強さを感じさせるものに見えた。

 

 それは、はやてに「帰ってこれた」としみじみと思わせる幻想的な風景だった。はやてが今し方身の回りに纏っていた銀色の光の残滓が雪のようにあたりに降り注ぎ、その風景の中ではやては、ふと金色の軌跡の気配を感じて背後を振り向いた。

 

 はやての碧眼に映り込んだ、金髪灼眼の少女。薄いボディースーツのような黒い戦装束(バリアジャケット)に身を包み、手には黄金の刃を持つ大剣を携えた少女は、自分を覗き込むはやてに少し怪訝な様子だった。

 はやての姿とその容姿はリインフォースを起動し融合することで変質し、おそらくフェイトは一瞬彼女が何者なのか分からなかったのだろう。

 

「そっか、私を導いてくれたのはフェイトちゃんやったんやね?」

 

 地上より放たれた黄金の帚星。自分達を外へと誘った導きの光。それがはやてには余りにも印象に残りすぎていて、目を閉じれば闇の中に浮かぶその軌跡をはっきりと思い浮かべることが出来る。

 

「えっと。なんのこと?」

 

 はやての考えを、当然フェイトは理解することが出来ない。自分はただ剣を振って一心不乱に外へ向かって飛んでいっただけなのだから、何かを導いた、誘ったなどと言われても要領を得ることが出来ない。

 

「私らはフェイトちゃんの後を追って外にでたんや。リインフォースが言ってた”聖王導光の輝路”はフェイトちゃんの光やったんやね」

 

 それでも、はやては感謝を述べた。本人がそれを意図していなかったとしても、自分がそれをどう受け止めたのかが重要なのだとはやては思う。そして、いずれ自分も彼女のような美しい導き手になりたいと思えるほどはやてはあの光に惚れ込んでしまっていた。

 

「聖王? 何を言っているの、はやて」

 

 頭がおかしくなってしまったのかとフェイトは一瞬そんな失礼なことを思い浮かべるが口にしなかった。聖王の名前は姉の口から幾たびも聞いたことがあるが、それがどのようなものなのか分からず、フェイトはただ困惑する以外になかった。

 

「まあ、気にせんといて。私がそう思いたいだけやから」

 

 頭上にクエッションマークを浮かべるフェイトを眺めながら、はやてはクスリと笑う。バリアジャケットを身に纏い、身の丈を越えるほどの大剣を手に持つ彼女は、初対面の時も戦っている姿も非常に凛々しかった。しかし、はやての言葉にポカンとした表情を浮かべるフェイトをはやてはとても可愛いと感じていた。

 口の中で「聖王、聖王、せいおう」と文字のゲシュタルトが崩壊しそうなぐらい繰り返し繰り返し反芻するフェイトをさしおいて、はやては眼下を見渡す。

 空の夜を映し出す海面に浮かぶ、半球状の巨大な闇の固まり。まだ、終わっていないと言うことをはやては心に抱きしめ、自分の周囲を固める家族達に一人一人目を配る。

 彼等は言葉を発せず、ただ、ゆっくりと肯くだけ。しかし、やはりそれで十分だとはやては感じた。言葉にしてしまっては、この決意と感情は一基に陳腐なものとなっている。あえて言葉を交わす必要もない、とはやては思い、今だ何かを思索するフェイトを一瞥して、「まだやっとったんかい!」と口の中でツッコミを入れた。

 

「まあ、ともかくや。あと一踏ん張り、頑張っていこか」

 

 はやてはフェイトの眼前で、パンと手を打ち鳴らしフェイトを何とか正気に戻させた。

 いきなり目の前で打ち鳴らされた音にフェイトは一瞬「に゛ゃっ!?」と、何とも情けない声を上げ、首をブンブン振って周りを見回した。

 そんな間の抜けた仕草にシャマルやヴィータが笑いを殺し、シグナムやザフィーラが「情けない」と額に手を当てているの見て、フェイトは赤面と共に両頬を叩いて意識をはっきりとさせた。

 

「あ、うん。そうだね、はやて……。はやてとシグナムと、お姉ちゃんが戻ってきたんだったら、遠慮はいらないよね!」

 

 フェイトははやての勝ち誇ったような笑みに目をやり、シグナムの静かな闘志の猛りを伺い、その隣でヤレヤレと肩をすくめ佇む姉アリシアを幻視した。

 

「お姉ちゃん?」

 

 それは、ただの幻視だった。

 

「どうした? テスタロッサ」

 

 凛々しい表情を浮かべたと思えば、再び呆然として、今は狼狽を浮かべているフェイトにザフィーラは何かゾワリとこみ上げるものを感じた。

 

「ねえ、はやて。お姉ちゃんは? アリシアお姉ちゃんは……どこ……?」

 

 フェイトの声に応えるものはいなかった。

 

 


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