魔法少女リリカルなのは~Nameless Ghost~ 作:柳沢紀雪
「……んっ……」
優しい光が差し込んでくる感触にフェイトは少し声を漏らし、緩やかに立ち上ってくる感覚にゆっくりと目蓋をあげた。
柔らかな陽光に暖かな感触。自分がベッドに寝かされていると分かるまで、フェイトは少しだけ時間がかかった。
目蓋越しに感じる柔らかな光と、薄く見えるぼんやりとした真っ白なシーツはどれもこれも暖かい太陽の香りが感じられて、とても心地がよいとフェイトは感じた。
「いいにおいだな……」
カーテンの隙間から差し込んでくる朝の木漏れ日。頬を撫でる柔らかい枕の感触と身体を覆う太陽の匂いのするシーツ。
隣で眠る人のぬくもり。
そして、フェイトは目を見開き弾かれるように身体を起こした。
ガバッという音を立ててまくり上げられるシーツ。見回す寝室と呼べる部屋は、一人で使用するにはあまりにも広く感じられ、置かれている調度品もそれほど多くはない。
しかし、穏やかな朝の陽気に混じって漂う雰囲気はどこか懐かしく、そして心が落ち着くようにフェイトは感じた。
「ここは……庭園? どうして?」
窓の外から見える風景。青々とした森林と緑に包まれた庭から吹き込む風が、僅かに開いた窓の隙間から流れ込みカーテンをゆっくりと揺らす。
その風景をフェイトは直接その目にしたことはない。しかし、記憶の中に映る幸せで何処か悲しく感じる情景の記憶が、ここは自分が生まれ育った庭園――時の庭園――だと言うことを知らせた。
これは、夢か、それとも過去に流されたのか。
フェイトは持ち上げた掌をジッと見おろし、今実在している自分自身が一体何者なのか定義できずにいた。
「ん~~、あさぁ~?」
自分のことしか見えていなかったフェイトは、隣でもぞもぞと身じろぎしながら寝ぼけた声を出す少女のことを認識できていなかった。
普段から聞き覚えのある声にフェイトは身を堅くする。
「まだ眠いよ」
そして、密着するほど隣から聞こえる、人の声としては少し違和感のある声。
それが一匹の赤い子犬の口から漏れだしているとフェイトは気がついた。
「アルフ?」
その姿にフェイトは見覚えがあった。そして、その隣でゆるゆると身体を起こして短い腕を懸命に持ち上げて身体を伸ばす幼子にも、フェイトは見覚えがあった。
「アリ……シア?」
口に出してから、フェイトは何処か違うと感じた。とっさに出たその名前、自分はふだん彼女のことをなんと呼んでいるかを考えればそれは違和感のある呼び名だったはずだ。
「うん、そだよ? おはよ、フェイト」
”アリシア”はそう言ってフェイトに朝のあいさつを言い、子犬アルフの尻尾を掴んでベッドから飛び降りた。
「わぁ!」
寝ぼけ眼に野性を感じさせない警戒心の欠如した欠伸を付いていたアルフはとつぜん、尻尾が引っ張られる感触に前足をばたばたとさせて必死に空を掴もうとする。
しかし、その爪は天国のように感じられたシーツを掴むことはなく、その代わりにぐるっと視点をかき回されて、ついには投げ飛ばさられるような勢いで抱き上げられてしまった。
「アルフもおっはよ~」
キャハハという声を上げながら、”アリシア”はアルフの両脇に手を入れながら頭上高く掲げてぐるぐると回り始めた。
「あわわぁぁ。フェ、フェイト。助けて~」
端から見れば、小さな子供が小動物と全身全霊を賭して遊んでいるような、そんな微笑ましい情景に見えるのだが、遊ばれる側のアルフにとっては迷惑この上ないことだ。
助けを求められたフェイトは、しかし、突然の事態と今のこの状況を把握する出来ずに、ただ呆然とそれを見守ることしかできなかった。
「アルフ、ア~ルフ♪」
「目が回るよぉ~」
いい加減この暴挙を阻止しなければ、アルフは口から魂をはき出して昇月してしまうだろう。
いい加減止めないととフェイトは心に誓って立ち上がろうとするが、ベッドから随分遠くのように見える扉が開く音にフェイトは身を止めてしまった。
「おはようございます、アリシア、フェイト、アルフ」
鈴の鳴るような声。従順そうでいて、何処か気まぐれそうで、気の強そうな声がフェイトの耳朶に響き。そして、フェイトは同時に、「そんなはずはない」と叫びそうになった。
「……リニス……?」
フェイトの呟きはあまりにも儚すぎて、リニスと呼ばれた女性のような少女の耳を僅かに震えさせただけで、彼女はチラリとフェイトに目を向けた。
そして、彼女は目の前で行われているフェイトの姉妹が繰り広げる残虐プレイに思わず声を張り上げてしまった。
「アリシア! アルフをいじめてはいけないとあれほど言っておいたでしょう!! どうして貴方はそれが守れないのです!?」
怒声にしてはあまりにも柔らかで優しく、幼い頃からそれを聞いてきたフェイトの胸にその声がじんわりと染み渡っていくように思えた。
二度と会えないと思ってた人が目の前にいる
これは喜びなのか、それとも他の何かなのか。腹の底からこみ上げてくる感覚にフェイトは名前を付けることが出来ない。
「いじめてないもん、一緒に遊んでるだけだもん」
リニスに叱られた”アリシア”だったが、彼女はそれでも自分は悪くないと言い張った。
「あなたがそのつもりでもアルフは違うんです。相手の気持ちをよく考えなさいといつも言っているでしょう」
「だって……」
リニスに叱られてしょぼんとしている”アリシア”の拘束が緩んだことを見逃さずに、アルフはここぞばかりに野生の俊敏さでその腕から逃れて、フェイトの胸の中に避難した。
「フェイト~、怖かったよぉ~」
胸の中でガタガタ震えるアルフは、よっぽど身体を振り回される感触が嫌だったのだろう。フェイトは今にも泣き出しそうな従者を慰めるようにゆっくりと彼女の身体と頭を撫でつけた。
懐かしい感触がする。今でこそ凛々しいアルフだが、使い魔としての契約を結んだばかりの頃は、こうやって様々なものにおびえてたものだった。そうして、アルフが震えていたら、そっと近くに寄り添ってフェイトよりも大きな身体を撫でて落ち着かせていた。
「大丈夫だよ、アルフ。大丈夫だから。怖い事なんて無いから……」
庭園の闇にまみれて、優しいものも嬉しいものも何もなかったあの頃。そうしてアルフを慰めることで自分自身を奮い立たせていたとフェイトは思いを巡らせる。
「う~ごめんなさい、リニス。もう、アルフの嫌がることしません」
言葉尻に涙の気配を浮かべながら、”アリシア”はそう言ってリニスに謝り、ようやく落ち着いてきたアルフに対しても頭を下げる。
その頭の髪が若干乱れているのは、リニスからお仕置きの折檻を受けたからだろうか。
「アリシアもこういっていますから、許し貰えませんか? アルフ」
リニスの優しい言葉に、アルフも肯く。仲直り完了といったところだった。
「さて、では朝食にしましょう。プレシアが食堂で待ちくたびれているでしょう」
何故か、硬く握手を交わし合う”アリシア”とアルフを眺め、何とも形容しがたい溜息を吐きながら、リニスは気を取り直すようにパンと手を打った。
「わ~い、ご飯、ご飯♪」
普段のアリシアであれば、違和感しかないような喜び方をする”アリシア”だが、フェイトはそんな彼女の振る舞いに気を向けていられる余裕はなかった。
今、リニスは何を言ったのか。誰の名前を呼んだのか。そして、彼女がここにいるのなら、必ずいなくてはいけない人物の事をどうして自分は忘れていたのか。フェイトの脳裏にそんなことばかりが渦を巻いて駆けめぐり、ただ呆然と小首をかしげて自分を見るリニスを見上げることしかできなかった。
「プレシア……母さん?」
自分の声が遠く聞こえる。暗い根源の象徴。闇と血と死の象徴であるその言葉。
それでいても、未だそれを愛しく思い、果たせなかった後悔の象徴でもあるその名前。
ゾクリとフェイトは背筋を凍らせた
***
体中がじんわりとしたしびれに覆われて、震える膝や腕は過酷な訓練を行った直後よりも酷い。
リニスに先導され、”アリシア”に腕を引かれながらようやくたどり着いた食堂らしき広間で一人静かに席に着いてた紫の女性を目に移した瞬間、フェイトはまるで弾かれるたように側の大柱の裏に逃げ込んでしまっていた。
思い出すのは闇と痛み。何度も目を閉ざして耳を塞ごうとしても闇は常にそこにあって、空を切り裂く鞭はいくら耳を塞いでも現実的な痛みとして体中を削っていく。
フェイトは身体を抱きしめ、未だ二の腕の裏側に残る鞭打ちの痕がジクリと痛むように感じられた。
それは、ただの幻痛だといくら自分に言い聞かせても痛みは記憶の片隅にはっきりと残されている。
「どしたの? フェイト。早く行こうよ。ご飯冷めちゃうよ?」
いつまでも動こうとしないフェイトに業を煮やした”アリシア”はそう言いながらグイグイとフェイトの腕を引っ張った。
「あ、えっと……その……」
なんと言い訳をして良いのかフェイトには分からない。
しかし、無垢な幼さを前にしてはフェイトも抗いきれず、ゆっくりとゆっくりと柱の影から姿をだしてしまった。
「おはよー、母さま」
厨房から漂う温かいスープの香りに抗いきれず、プレシアの横を軽快にかけていく”アリシア”の声に、プレシアは振り向いた。
まるで闇を感じさせない穏やかな双眸がはっきりとフェイトの姿を映し出す。
その視線に晒されて、フェイトはまるで条件反射のように身体を硬くさせ俯いてしまった。
「おはよう、アリシア、フェイト。今朝は少し時間がかかったようね。夜更かしはダメよ?」
優しい声だった。それはまるで、記憶の中でだけ覚えている母の声のようだと硬直するフェイトは感じる。
「どうしたの、フェイト。何か様子が変だけど。アリシアにいじめられでもしたのかしら?」
「む~、かあさま酷い。いじめないもん」
プレシアの軽口に不満いっぱいの声を漏らす”アリシア”の声を前にしてもフェイトは石化の魔法をかけられたように何一つ動くことが出来なかった。
「プレシアも何か言ってあげてください。フェイトはどうも、これが夢か幻かと思っている様子なのです」
厨房より食事を運んできたリニスが大盛りのサラダを”アリシア”の手の届かないところに置いて、困惑したような溜息を吐いた。
ここの自分は普段はどのような答えを返すのだろうかとフェイトは思った。思えば、先ほどのプレシアと”アリシア”の言葉の応酬は”何故か”萎縮する自分を和ませるためのものだったのだろう。
このような光景は、おそらく26年前までは当たり前のようにあったのだろうとフェイトは思う。そして、夢の中や朧気な記憶の中でしか存在しないその空間に今の自分自身がいることを、フェイトは想像することが出来ない。
夢にまで見た情景。二度と手に入らないと諦めていたものが今、目の前にあっても、彼女はそれを享受することが出来ないでいる
「怖い夢を見たのね、フェイト」
そっと差しのばされる手にフェイトは痙攣するように肩を震わせ、ギュッと目を閉じてしまう。
「もう大丈夫よ。ここには母さんがいるわ。リニスも、アリシアも一緒よ」
ふわりと包み込まれる両頬が暖かく、震えも恐怖も背中を包み込んでいた極寒も消えていくようにフェイトは感じた。
驚いて見上げた母の表情は静かで暖かく、それはまるで春の日溜まりのように包み込まれていく。
「プレシア、アタシも~」
フェイトの足下で子犬のアルフも声を上げる。
「そうねアルフ。ごめんなさい」
微笑むプレシアの表情にフェイトは心が融かされていくように思えた。
「どうかしら?」と言葉を出さずに見つめられるその表情にフェイトは言葉を発することが出来ず、ただ無言で肯くことしかできなかった。
言葉を発するのが怖い。声を出してしまえば、これが本当に夢幻のように消えてしまいそうで、フェイトはただそうする以外に出来ることを見つけられなかった。
「それじゃあ食事にしましょう」
「ええ、フェイトはこちらの席にどうぞ」
プレシアの声に応じてリニスが”アリシア”の対面の椅子を引き、アルフは意気揚々とその席の下に座った。
「お腹すいた。ねーリニス。早くごはん持ってきてよ」
四人で使用するテーブルにしては些か広すぎるテーブルに寝そべり、足をぶらぶらさせる”アリシア”はよっぽど空腹なのか、正に待ちきれない様子だった。
「お行儀が悪いですよ、アリシア。温め直してきますので少し待っていてください」
そう言うリニスにプレシアとフェイトは無言で肯いた。
「はぁーい」
と”アリシア”も不満がありそうな声を上げて、少しだけ姿勢を正した。
そうして且く待ち、リニスが暖かな湯気を上げる野菜スープを配膳したところで朝の食事が始まった。
「美味しいわ。このバジルは、庭に植えたものかしら? 後はセロリとタイムかしら。なかなかバランスが整ってるわね」
「ご名答です、プレシア。前栽のものが良い感じに茂っていましたので早速使わせていただきました。一晩ほど水に浸してあくを抜いていますので、口当たりはよろしいと思います」
「いっそ生でドレッシングをかけていただきたいわね」
そう言ってプレシアは足つきのグラスに注がれた透明なワインを口に含み、満足げに微笑んだ。
「えー? 私、苦いのいやぁ」
「好き嫌いはいけませんよ。何でも食べないと大きくなれません。プレシアも朝からお酒を飲まないでください」
口うるさいリニスに少し鬱陶しそうに手で答えながら、しかし、プレシアの口元には幸せそうな笑みが広がっていた。
隣に座るリニスに好き嫌いを咎められながらも食べることに夢中な”アリシア”。
足下では子犬のアルフが顔ほども有るような骨付きの肉を口いっぱいに頬張っていて。その尻尾は千切れんばかりに振り回されている。
どれもが嘘だとは思えない。
「あれ?」
フェイトは声を漏らした。
ポタリとスープに落ちる水滴の音。
スープの湯気に視界が曇って見える。
誰もが笑っていて、その笑みはあまりにも暖かく穏やかで、幸せしかない食卓。
届かないと諦めてもなお渇望し続けたものが、目の前に広がっているにも関わらず、フェイトはどうして今自分が涙を流しているのか理解できなかった。
「どうかしましたか? フェイト」
とつぜん食事をとめてしまったフェイトにリニスは何か粗相でもしたのかと心配になった。
「な、何でも……ないよ、リニス……」
今この時間を壊したくない。どれだけ有り得ない光景であっても、今この時に嘘はない。だから、せめて時間が許す限りそれに浸っていたい。
現実から逃げているのかもしれないとフェイトは思う。
しかし、最上の幸せを手放してまでこの幻と夢を否定出来るほどフェイトは強くもなかった。
***
前庭を少し歩いた先にある森の入り口は、少しだけ小高い丘となっている。
小さい頃、ここで母プレシアに花冠を作ってもらったという記憶がフェイトにはある。薄ぼんやりとして、それこそ正に夢のような記憶ではあるが、それでもあの頃はそれこそが唯一の心の支えだった。
光が照りつけている。穏やかな陽光が木の葉の間から差し込み、それはまるで深緑の空にちりばめらた満天の星空のようだとフェイトは思った。
酷く明るい庭園。気候のはっきりとしないアルトセイムの常春の空気。しかし、そこに浮かぶ太陽はまるで月のような静けさを持ち、どこか儚い。
そんな光の中でくるくると駆け回る”アリシア”にフェイトはふと目を向けた。
先ほどまでは花を摘んで髪飾りや腕輪を作っていたが、今ではどこからともなく飛んできた蝶を追い掛けて走り回っている
『光は天敵だけど、どうしようもなく憧れてしまうものでもあるんだ。それは夜空の星を掴むようなもので、決して手が届くものではないけど、途方にもなく求めてしまうんだよ』
何時しか聞いた姉の言葉が蘇る。なぜ、とフェイトは思った。日の下に出れば彼女はあんなに辛そうに、憎々しげに空を見上げているというのに、その眼差しに憧れの念があるとはどうしても思えなかった。
ともすれば自分の命を奪いかねないものを、心の底では求めている。それをフェイトは理解できないと感じた。
この世界は誰にとっての憧れの世界なのだろうかとフェイトは思う。
決して得ることの出来なかった、本物の家族の暖かさを求めた自分のものなのか。それとも、今こうして自由に光の中を駆けめぐる”アリシア”のものなのか。
「ねぇ、フェイト、フェイト」
肩を叩かれる感触にフェイトは少し驚いて目を上げた。
「あ、えっと? なに、アリシア」
目を向ければそこにはキラキラした笑顔で手を引く”アリシア”が立っていた。追い掛けていた蝶はどこかへ行ってしまったのだろうかとフェイトは思いながら、手を引かれるままに立ち上がる。
「ねえ、フェイト。空飛んでよ。いつもみたいに私を抱えて。ね? いいでしょ?」
どうしていきなりそうなるのか。フェイトには少し理解が出来なかったが、おそらく彼女の中には明確な理由など無いのだろうと予想が出来た。
見上げる空に一羽の白鳥が円を描き舞い飛んでいる。空の蒼にも大地の青にも染まることなく、ただ一つで飛び続けるその鳥はどこか寂しそうに見える。
「一緒に飛びたい」
フェイトを見上げる”アリシア”の眼差しはとても真剣だった。フェイトはそれに抗う方法を知らず、ただ請われるままに肯いた。
「ありがとう、フェイト」
そう言って抱きついてくる”アリシア”を少し離れさせ、フェイトは魔法行使を開始する。
飛行魔法は自分自身に特異な力場を発生させるため、魔法的な防御能力のない”アリシア”が側にいると何かと危ないことがある。
「置いてかないでね?」
引き離された”アリシア”は少し不満そうな目を向けながらも大人しくフェイトに従い、少し離れた木の根元に立ってそれを見守る。
フェイトは一度肯き、リンカーコアを通じて体内で練り込んだ術式をゆっくりと開放させた。
バルディッシュのない状態での魔法行使は、随分久しぶりだとフェイトは感じた。
しかし、魔力を徐々に開放していくにつれ次第に軽くなる身体と上に引き寄せられる感触をみて、フェイトは成功を確信した。
「良いなぁ、フェイトは。私だって母さまの娘なのに。魔法は全然だし、フェイトの方が頭が良いし。背なんて全然勝てないし、おっぱいも……」
と、”アリシア”は自分の平たい胸元をペタペタと撫でながら、フェイトの胸とを見比べて溜息を吐いた。
フェイトとしてはそんなことを言われてもなんと答えて良いのか分からない。自分がそれほど大きいとは思えないし、母や恩人の提督に比べれば無いも同然だとも思う。
ともかくフェイトは何時までも飛行魔法を待機させているわけにも行かず、”アリシア”を呼び寄せて彼女を胸の中に抱き留めた。
「えへへ♪」
幼い故に体温が高い”アリシア”の熱を感じ、フェイトはどこか心が落ち着く感触を味わう。
思えば、こうしてアリシアを抱きしめるのは初めてだとフェイトは思った。
自分は、どちらかといえばアリシアに抱き留められ、専ら慰められて、頭を撫でられる側だった。
こうして改めてアリシアを腕の中に治めてしまえば、彼女がいかに小さく儚い存在なのか、フェイトはその新鮮な驚きを胸の中にしまい込んだ。
行くよ、というフェイトの声に”アリシア”は元気に頷き、フェイトは彼女に極力負担をかけないようにゆっくりと、それこそ蝶の飛ぶ程の速度で空中へと舞い上がった。
「すごーい! はやーい! やっぱり、フェイトはすごいね」
頬を撫でて通り抜ける風と、どんどん小さくなっていく庭園の木々を見おろし、”アリシア”はフェイトの腕の中で手を振り回してはしゃいだ。
バルディッシュの補助のない今は、フェイトはあまり機敏に飛行することは出来ない。
フェイトは遅い速度をさらにゆっくりにして、”アリシア”の脇を通して腹の前で組む腕に力を入れた。
「あっちだよ、フェイト」
”アリシア”が指さす先、月のように穏やかな太陽の中に映る小さな影。
ただの一羽で空を飛び続ける白鳥の姿をフェイトは捕らえ、飛行魔法の方向指示シーケンスをゆっくりと水平より若干斜め上方向へと向けた。
「あれ? 逃げちゃう?」
先ほどまで上空で円を描いて滞空していた白鳥は、とつぜん現れた見慣れない飛行物体に驚いたのか、それは太陽へと向けて一路航路を変更して飛び去ろうとした。
徐々に離れていくその姿。腕の中で”アリシア”は追い掛けてと何度も何度も声を上げるが、その距離は広がっていく一方だった。
自由に空を飛ぶ鳥には勝てない。人間はそもそも空を飛ぶようには出来ていない。その後ろ姿はまるでそう自分に告げているようにフェイトは思えた。
「行っちゃったね。残念、一緒に飛びたかったのに……」
「うん。そうだね……アリシア……」
あの空の向こうには一体何があるのか。あの鳥が飛び立っていった向こう側には何が待っているのだろうかとフェイトは思いめぐらせる。
そして見おろす庭園は、奥深い森を背景にして、その中を切りとられた一角にそびえる。緑豊かで花が生い茂る。
それは、まるで、外界から切り取られた箱庭のようにフェイトには映った。
周囲を森に囲まれ、行き来できる道はその中程を通るただ一本のみ。
母の、そして自分のかつての心境を映す鏡のようにフェイトには思えてならなかった。そして彼女達の母は、やがてそれすらも直視できなくなり、庭園ごと時空間の海に逃れた。プレシアはおそらく逃げ出したのだ。死者との思い出しか残っていないこの場所から。そこには過去しかなく、未来がない。
絶対的な孤独。絶対的な拒絶。そして、それを引き起こした原因が今、自分の胸の中で歓声を上げてはしゃいでいる。
「ん~? どしたの? フェイト」
白鳥に手を振りながら別れを惜しむ”アリシア”がフェイトの視線に気がつき、おもむろに首を回してフェイトの表情を覗き込んできた。
「……何でもない……そろそろ、降りようか?」
フェイトは小首をかしげる”アリシア”に小さく首を振って答える。
もう少し飛んでいたいという”アリシア”に、空は気温が低くて身体を冷やすからと言って、答えを聞かずゆっくりと高度を下げ始めた。
頬を膨らませていかにも私は不満ですと告げる”アリシア”を何とか言葉でなだめながら、徐々に足下に大きくなっていく庭園の木々を見おろし、フェイトはそっと溜息を吐く。
自分に残されてたこの庭の風景。しかし、その記憶は母から与えられたアリシアの記憶で、記録上のこと言えば、自分はこの風景を見たことがない。はたして、自分が覚える故郷の風景には、どれほどの価値があるのかとフェイトは思う。
降り立った地面の柔らかい芝生にそっと”アリシア”を下ろし、フェイトはそのまま近くの大木の木陰の根本に腰を下ろした。
”アリシア”はそのまま空を見上げ、飛び去って今ではもう裁縫針の先ほどの大きさにしか見えない白鳥の行方を何時までも見つめ続けていた。
「鳥は、どこまで飛び続けられるんだろうね……」
ふと”アリシア”の口から漏れだした言葉にフェイトは少しだけ考え、そして口を開いた。
「たぶん、空がある場所までだと思うよ」
そう言ってフェイトはふと思い浮かべた。
ミッドチルダの空、地球の空、そしてこのアルトセイムの空。世界は違えども空は同じだった。もしかしたら、すべての空はどこかで繋がっているのかもしれないと。
馬鹿馬鹿しいとフェイトは首を振った。
そして、フェイトは”アリシア”に習い空を見上げた。そこにはいつの間にか薄雲が漂い始めていて、澄み切った青空、柔らかな陽光が次第に雲間の端々に追いやられていく。
「ひと雨来そうだね」
”アリシア”の呟き。それに呼応するように、細い雨がぽつりぽつりと降り始めてきた。
巨木の影に身を寄せるフェイトと違い、空に身をさらす”アリシア”はその雫に次第に身体を濡らしていく。
酷く冷たい雨だった。
「そろそろ戻ろうか」
”アリシア”は振り向いてフェイトに庭園の建物を指さして誘った。
「私は、もうちょっとここにいる」
この雨は長く続きそうに思えた。本当なら、”アリシア”の言うように建物に戻る方が正しいのだろうが、フェイトはまだそこには戻りたくはなかった。
戻ればもう、出ることは出来ない。フェイトはそう根拠のない思いにとらわれ、自分自身のあり方をもう一度見つめ直したかった。
「そう? だったら、私も、雨宿り」
”アリシア”はそういってフェイトの隣に足を伸ばして座った。フェイトに身を寄せるように。雨に打たれて少し冷えた身体を温めるように。
フェイトの温もりを感じて”アリシア”は「フェイトは暖かいね」と言いながら微笑んだ。
フェイトは膝を持ち上げ、折り曲げられた脚を抱え込むようにうずくまった。
深(シン)と降り続ける霧雨の中、二人は言葉を発せずにただたたずみ、雨がやむのを待つ。
「ねえ、”アリシア”」
フェイトの声がその沈黙を破る。木の葉の間から滴る雫のように降ってきた言葉に”アリシア”は少しだけ視線を上げた。
「どうしたの?」
”アリシア”に目を向けず、少しだけ俯いて、膝の間に顔を沈めるフェイトの表情は”アリシア”では形容のしがたい感情が渦巻いていた。
悲しみと寂しさ、安心感ととまどい、そして迷い。
「これは……夢……なんだよね?」
「…………」
”アリシア”は口を閉ざす。その沈黙はフェイトの問いへの答えを明確に述べており、フェイトは否定されない問いに一つの終わりを感じた。
「私が見ている夢。欲しくて、手を伸ばしても届かなくて、諦めていた夢」
夢と現実の境は非常に曖昧であるといつか聞いたことがある。
現実も夢も突き詰めれば自意識が認識する世界であり、その自意識が夢と現実を区別している。覚めるものが夢であり、覚めないものが現実であると。
「母さんはもういない。それに、本当の母さんは私にあんなに優しくはしてくれなかった」
それが夢であればどれほど幸せだっただろうかとフェイトは何度も何度も思い、夢に見てそのたびに覚めてきた。
アルフがいてリニスがいて、その側にはアリシアが居て、それを笑顔で眺める母の姿と、その中でただ幸せでいるだけの自分。
何度夢見たのか、数えるのも億劫なほどだった。そして、そのたびに自分はまだまだ未練が抜け切れていないと理解させられる。
思えばそれこそが、リンディから養子にならないかという誘いに二の足を踏む要因になっているのだろう。
「優しい人だったんだよ。優しすぎたから壊れたんだ」
自分の死が招いた悲劇。どうしてこうなってしまったのか。”アリシア”は自分自身の死よりも、それによってもたらされた結果に悲しむ。
「フェイトも、最初から気付いてたよね? 私は、フェイトが知っているアリシアじゃないって。だから、私をお姉ちゃんって呼んでくれないんだよね……」
「……うん……ごめん」
「謝らなくても良いよ、フェイト。確かに私は、あの人とは違う。けどね、私もアリシアなんだ。私も、フェイトのお姉ちゃんなんだ……」
「うん」
「ここなら、私もフェイトのお姉ちゃんでいられる。母さまもリニスも、アルフだっている。ねえ、フェイト。私じゃダメかな? 私じゃあ、貴方のお姉ちゃんにはなれない? 私は、フェイトのお姉ちゃんでいられないのかな」
「ありがとう、アリシア。でもね、たぶん、お姉ちゃんならこういうと思う。『夢に甘えるな』って……ううん、違うかもしれない。もしかしたら、『自分で考え自分で決めろ』って言うかもしれないね」
そして、彼女はそうして自分が出した答えに肩をすくめながら『莫迦な妹に苦労させられるのは姉冥利に尽きるよ』と言って、すべてを受け入れてくれるのだろう。
「うん。そうだね、きっと私ならそう言うと思うよ」
「だから、私は……逃げちゃいけないと思うんだ。『捨てれば良いってわけじゃない。逃げれば良いってわけじゃ、もっとない』。自分で決めたことを忘れるところだったよ」
”アリシア”は思う。フェイトの姉は、きっと逃げることを否定しないだろうと。
逃げ場さえないなんて、悲しすぎるから。
そして、彼女は、捨てたいと思うのなら捨てれば良いとも思うだろう。
自分の意志でそれを決めたのなら、胸を張って捨ててしまえばいい。
逃げることも捨てることも出来ないなんて。それはあまりにも無慈悲だとおそらくアリシアは思うだろう。
しかし、”アリシア”はその思いを閉じこめ、頷いた。
「強いね、フェイトは」
「そんなことはないよ。なのはのおかげで、私は自分を始めることが出来たんだ」
自分はまだ何一つ自分の力だけで生きてきていないとフェイトは思う。なのはとユーノに救われて、アースラの皆に道を与えられ、ハラオウン親子によって愛情を与えられている。
何よりもアリシアが心の支えとなり拠り所となってくれたお蔭で、今の自分はこうしてここにいるのだと胸を張って言える。
「いつか、恩返しがしたいんだ。だから、私は…………ここには、いられない……」
一人で生きていない人間は強いと”アリシア”は思った。誰もが弱さを補い合えば、誰かが絶対的に強くなくとも人は強くなれるのだと。
それは非常に簡単な話だと”アリシア”も思う。そして、ここにいてはその強さも意味が無くなる。
諦めるしかないと”アリシア”は思った。
「あーあ、これで私もフェイトと一緒にいられるって思ったのになぁ。失敗しちゃった」
飲まずにはやってられないと思えてしまうのは、自分ではない彼女の影響を受けているのだろうかと”アリシア”は思い、一笑の下にその考えを消し去った。
「ごめんね、アリシア」
フェイトの表情、その視線にあるのは下心のない申し訳なさだった。
フェイトと一緒にいたい、母とかつての猫の友達と一緒に暮らしたいという下心を持っていた自分と比べると、彼女はまぶしすぎると”アリシア”は感じ、怨む余地も憎む余地も何もないと思い至る。
少しだけフェイトが心配だ。これから生きていく世界はここに比べてとても汚れが多い。変な男に引っ掛からないと良いなと”アリシア”は考え、立ち上がった。
「いいよ、フェイトが決めたことだから」
湿った土に少し汚れてしまったスカートをバサバサと払いながら、”アリシア”は雲間から僅かに差し込み始めた陽光に手をかざしながら仰ぎ見た。
この世界は誰の意志を受けて移り変わるのかと考えていた。最初はこの夢の主題であるフェイトかとも思ったが、少しだけ自分の感情も受けて移り変わっているのではないかと”アリシア”は思った。
差し込む陽光は強くはないが暖かい。月のような冷たく儚い光ではなく、夏の日のような無遠慮な灼光でもない。
深緑が芽吹いていくような優しい光。この胸を次第に包み込んでいく達成感みたいな満足感にそれは同期しているように思えた。
アリシアはポケットを探り、そこから二枚のプレートを取り出しフェイトへと差し出した。
それは、この世界から解放されるための鍵。
「そっか、アリシアが持っていたんだね」
彼女の小さな手の上に鎮座する二枚のプレート――バルディッシュとバルディッシュ・プレシード――はようやくまみえることが出来た自らの主に、無言で光を明滅させる。
「フェイトとバルディッシュなら、きっとここから出ることが出来る」
出ようとする意志があるのなら、道は開くと”アリシア”は告げた。
「だけど、お姉ちゃんとはやてを置いては……」
闇の書に取り込まれたのは自分だけではない。二人の少女――助けると誓った彼女たちを置いては外に行くことは出来ない。
「大丈夫。あの私ならきっと上手くやるよ。悪運ばっかり高くて、殺しても死なないような人だからね。きっと、大丈夫。はやてに関しては……たぶん、フェイトの出る幕は無いと思う。ごめんね、厳しいこと言っちゃった」
フェイトは”アリシア”より二機を受け取り、そっと彼女を抱きしめた。
「フェイト?」
もうお別れかと思っていた”アリシア”はそのとつぜんの抱擁に驚く。
フェイトの肩が震えている。雨に打たれて寒いのかと思い、”アリシア”もフェイトの背に手を回して熱を伝えるように撫でつけた。
「私は……母さんに生きていて欲しかった。どんな形でも死んで欲しくなかった。愛してくれなくても、抱きしめてくれなくても、私をみてくれなくても、私は母さんに生きていて欲しかったよ」
「うん。分かるよ……たぶん、私も同じだとおもう」
「だから、ほんの少しの間だったけど。夢幻でしか無かったけど、私は幸せだった」
「忘れないで。それだけで、たぶん私たちはフェイトの側にいられると思うから」
「うん、絶対に忘れない」
「さよなら、フェイト。現実でも、フェイトのお姉ちゃんでいたかったなぁ」
”アリシア”の身体から光が放たれる。その光は粒子となって、次第に”アリシア”を包み込み、彼女の姿はその光と共に空気に溶けていくようだった。
抱きしめる身体の感触が希薄になっていく。抱え込んだ熱が発散されるように、彼女の気配そのものが次第に周囲に同化して輪郭を失う。
”アリシア”は笑顔で消えた。
残された空気、熱の残滓を抱きしめるようにフェイトは自身の肩を抱いて、瞳よりあふれ出そうになる涙をこらえた。
「さよなら、アリシア。さよなら、リニス。さよなら……プレシア母さん……」
抱きしめた肩のふるえが収まり、フェイトは目元を拭って、手の中に収まった二機に、強い意志の宿る視線を送り込んだ。
そして、フェイトはしっかりとした足取りで立ち上がり、バルディッシュとプレシードを起動させる。
「外に出るよ、バルディッシュ、プレシード」
《Yes,sir》
《Of couse,Little sister》
主の強い声に二機は誇り高く吼え、戦斧と戦衣を顕現させる。
金色の光を纏いながらフェイトは黒い装束に身を包み、手に持つ杖は鋭角のフレームを力強くスライドさせた。
スライドするジョイントカバーと激発された二発のカートリッジが莫大な魔力をフェイトにもたらした。
(我に打ち払えぬ闇は無し)
フェイトの耳にそんな声が届いた。
「バルディッシュ、ザンバーフォーム」
闇と幻覚を打ち払うために、フェイトはそれにふさわしい武器を求める。
《Zamber Form Get set.》
バルディッシュは応じて、自らのフレームを変質させた。
杖頭の斧槍が大きく展開し、それは二つに分かれて引き延ばされ、グリップは徐々に短縮されていく。
斧槍の刃はなだらかになり、一対となった。その間からは短縮されたグリップの代わりに尖端のとがったブレードが延ばされていく。それは諸刃の剣身。
広く長く展開された鍔より、フェイトの身の丈を遙かに凌駕する金色の魔力の剣身がブレードを包み込むように展開し、その金色の光は広い庭のすべてを照らしつける。
月よりも明るく、星よりも輝かしく、太陽よりも淑やかな光。
黄色は黄光を放ち、フェイトは自らの光を確信することが出来た。
フェイトは自らの光を振りかぶり、その剣身は天を指し示し、脚は大地を踏みしめる。
「雷光一閃! スプライト・ザンバー!!」
その一閃は世界を切り裂き、幻想空間は音を立てて崩れ去る。その先にあるものは深(シン)とした闇。
闇の中に光があった。その光は金色であり、それは金色の道となり、導きの光跡となった。光に彩られた道はまっすぐと天へと伸び、その先に僅かな白い光を生み出すに至る。
(あそこだ!)
あの光の向こうには世界が広がっているとフェイトは確信し、空も大地もないただの闇の空間へと躍り出る。
『さようなら、フェイト』
そしてフェイトは、視界が白く塗りつぶされる寸前にそんな言葉を聞いた。