魔法少女リリカルなのは~Nameless Ghost~   作:柳沢紀雪

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第八話 Justice

(ついに始まってしまった……)

 

 時空間の海にそびえ立つ巨大な時空管理局本局施設の一角、提督身分を持つものに与えられる広い個人用のオフィスの机に座り、ギル・グレアムはただ一人祈るように目を閉じた。

 

 彼の眼前には夜の闇に沈む町並みが映し出されたモニターが展開されている。

 多くの人々が行き来する町並み。高層ビルの群れが連なり、その谷間にはいつもと変わらない日常を謳歌する人々が生きている。

 そして、その町並みの中核には明らかに、その周囲とは異質なものが存在した。

 

 街並みの中核を覆い尽くす封鎖領域。魔力やリンカーコアを持たない、あるいはある一定の探査能力のない魔導師では知覚することさえ困難な領域が存在している。

 

 そして、彼の使い魔が内部に放った監視用のスフィアが伝える映像には、今まさに闇の書と二人の少年少女がそれと向き合い戦を繰り広げようとしている。

 

 グレアムはそれを眺め、ただ一つ深い吐息をついた。

 

『ごらんになっていますか? お父様』

 

 結界を遠目で監視するスフィアの映像が動き、そこに出現した男がモニター越しにグレアムに声をかけた。

 仮面をかぶり、その体躯は中肉中背。青みがかった銀の短髪はとりわけ特徴のない様子だった。

 表情を覆い尽くす仮面によって彼が今どのような気分でそこに立っているのか分からない。その仕草も直立不動で感情を感じさせる要素はない。

 しかし、グレアムにはその様子がどこか迷いを持っているような気がしてならなかった。

 

「ああ、見えているよアリア。ご苦労だ」

 

 グレアムは閉じていた目蓋を起こし、面を上げてその男、自身の使い魔と同じ名前を持つ彼に労いの言葉を与えた。

 

『いかがいたしましょう。闇の書は復活してしまいました。今なら、あれを凍結させる絶好の機会だと思われますが?』

 

 アリアと呼ばれた一人の仮面の男の背後からもう一人の仮面の男が姿を示した。まるで瓜二つの二人の男。

 それが、自分の使い魔の姉妹が姿を変えたものに過ぎないと分かっていてもグレアムはその様子に何となく違和感を感じてしまう。

 もう一人の仮面の男、リーゼロッテの提案にグレアムは答えを返せなかった。もっともなことだとグレアムも思う。

 自分達はこのときのために多くの協力とリスクを背負ってきた。何度も何度も、自分達は正しいのかと自問し続けて、それでも前に進むことをやめなかった。

 

 

   求めてきた状況が今、眼前に広がっている。

 

 

『今すぐ命令をいただければ、後は私達が対処いたします』

 

 手の内に白色のカードを握るリーゼアリアの声がグレアムの鼓膜を揺すぶる。

 

 しかし、グレアムは何も答えを出すことが出来なかった。

 待ち望んでいた状況が今、目の前にある。このときのために自分達は犯罪と分かっているような行為を繰り返してきた。

 

 闇の書を破壊することが出来ない。あれは破壊したとしても再びこの世界に復活する。前は11年前だった。次はいったい何年後になるのか分からない。下手をすれば何十年後か、その可能性も否定できない。それでも、いつ始まると分からない闇の書の驚異に怯える毎日は続く。

 

(アリシアの言うとおり、私達の計画ではそれほど長い時間、あれを封印しておくことは出来ない)

 

 天窓に双月の輝く冬の礼拝堂。そこで出会った一人の少女。神の御前で一時の家族となった娘の言葉がグレアムの脳裏に蘇った。

 

(たとえそれでも、確かに救われるものはあるはずだ)

 

 グレアムはそう思い浮かべ、モニターの側に置かれたメモリーチップを取り上げた。

 それは、聖王崩御の鎮魂祭の夜にアリシアから渡されたメモリーチップだ。それには、アリシアが無限書庫で至った答え――闇の書の永久凍結に関する計画を予想するレポートが記されている。

 

 そして、もう一つ、アリシアが誰にも伝えることの無かったもう一つの解決案、ゼファード・フェイリアに望みを託す計画案も同時に記載されていた。

 果たして、この計画は有用性があるのか。仮にそれがあるとして、現在の計画を放棄してそれに託す程の価値のあるものなのか。時間的な制約は果たしてどれほど許されるのか。

 それを推察している間にグレアム達の意図しない事態が起こってしまった。

 

 

   闇の書の主の露見と闇の書の発動。

 

 

 その知らせを受け、彼は大至急リーゼ姉妹を現場に急行させたが、事態はすでに急展開を迎えていた。

 

 

   闇の書を凍結させるには、暴走直前の僅かなタイミングを狙う以外に方法がない。

 

 

『闇の書は現在、結界にとらわれています』

 

 リーゼロッテの言葉にグレアムはゆっくりと頷いた。

 

『そして、闇の書の目標はあの結界を構築した魔導師に向かっています』

 

 リーゼアリアのどこか悲壮感を持つ声に、グレアムは肯定の言葉を漏らした。

 

『つまり、タイミングを計るには、絶好の状況ということだ』

 

 グレアムの言葉を代弁するような声がモニター越しに響いた。

 その声は、リーゼアリアでもないリーゼロッテでもない。未だ成熟しきらない少年の高い声が二人の背後から聞こえてきた。

 

「クロノか……」

 

 振り向いた二人の視線に追従するかのように視界を変えるモニターの先にたたずむ、小さな黒い影。

 月の影に隠れてグレアムやリーゼ姉妹にはその姿単なるシルエットにしか見えない。

 

『だけど、それをさせるわけにはいかない』

 

 その影は一歩前に歩み出し、その姿は月の光に当てられて輪郭を取り戻す。

 感情の宿らない表情。まるで引きずるように先端が下ろされた黒いデバイス、S2U。

 

 クロノ・ハラオウンは冷え切った表情を示しながらも、どこか認めたくない現実に悲しむように、二人の数歩手前で歩みを止めた。

 

『クロノ・ハラオウン執務官か』

 

 頭上に浮かぶ月の光が明るすぎるとリーゼアリアは思った。

 太陽のような不躾な輝くではなく、ただ透き通った、冷たい輝き。それはまるで、太陽の光よりも人というものをはっきりと映し出すように思えて、リーゼアリアは思わず目を背けたくなった。

 

『何をしに来た? 闇の書はあそこだぞ」

 

 そう言って視線で遠くの封鎖領域を示唆するリーゼロッテは、おそらく彼は自分達のことをすでに知っているのだろうと確信することが出来た。

 

 クロノは深く頷く。

 まるで無防備だと二人は感じた。

 故に、何も出来ないと二人は思い知った。

 

『そうだな。だけど、それよりも前に済ませておきたいことがある』

 

 クロノの声には抑揚がない。彼は必死に感情が声に現れないように押さえ込んでいるとグレアムには理解できた。11年前と変わらない表情がそこにある。彼は父の死を前にしても今と同じ、何かを押さえ込み飲み込んで、決してそれを表に出さないように耐え続けていた。

 また、この表情をさせてしまったとグレアムは眼前で組まれた手をきつく握りしめた。

 

『もう、いい加減姿を見せてくれないか。アリア、ロッテ』

 

 リーゼアリアとリーゼロッテの名前がクロノの口から出されても、グレアムもその従者もとりわけ驚くことはなかった。

 クロノを前にしては気付かれても当然だとグレアムは思い、いつのまにかこわばっていた口元をゆるめた。

 

『二人とも、クロノの指示に従いなさい』

 

 本局から地球へ。400次元距離程の離れた地球への念話は、デバイスなどの機器のサポートがあれば大規模な装置が無くても送ることが可能だ。

 その念話を受けて、モニターに浮かぶ二人はクロノに気がつかれないようにグレアムの方へと目をむけた。

 

『しかし、お父様』

『それでは闇の書が』

 

 リーゼアリアとリーゼロッテの言葉が重なる。

 表情から彼女たちの感情を読み取ることは出来ない。しかし、瞬時に回復したグレアムとの繋がり――使い魔と主人との間にある精神的な繋がりがグレアムに二人の動揺を知らせた。

 久しく開かれる精神リンク。思えば、いつの頃からか、年を経るにつれて自分は不用意に感情を示すことが無くなっていた。怒りも悲しみも押し込めて、変わらない現実を嘆き、そしていつの間にか感情の表し方を忘れてしまっていた。

 リーゼアリアも、リーゼロッテもそんな父への気遣いからか、いつしか精神的な繋がりを閉ざすようになっていた。

 

(どうしてこうなったのか)

 

 モニターを見つめつつ指示を待つリーゼアリアとリーゼロッテを一瞥し口を開いた。

 

「命令だ、従いなさい」

 

 開かれた精神リンク。グレアムより伝わってくる静かな激情。

 命令の言葉の裏に隠された、久しく感じられる主の感情に二人のリーゼは息を呑んだ。

 

『了解しました……お父様』

 

 まるでため息のような声が、グレアムへと届き、リーゼアリアとリーゼロッテは肩を落とし、仮面を片手で押さえながら足下に魔法陣を展開する。

 わき上がる光の粒子に身体が撫でられる。

 仮面をかぶった角張った男の体格がその光と共に徐々に変化を見せていく。がっしりとした肩が縮み、すらりとした腰部曲線をなして、厚い胸板は徐々に前にせり出していき、それは女性らしい丸みを帯びた体格へと変化していく。

 尖りを見せていた髪はなだらかになり、頭部の左右にちょこんと張り出した獣の耳、そして、尾てい骨あたりから伸びるしなやかな尻尾。

 片手で押さえられた仮面はゆっくりと取り払われ、まるで鏡写しのような表情が月明かりに映し出された。

 

 感情の無い表情にもかかわらず、その容貌はどこか勝ち気で悪戯好きのネコのような印象をクロノに与えるものだった。

 

 クロノは無言で二人に視線を送り、ゆっくりとS2Uを下ろした。

 

『認めたくはなかったよ、リーゼアリア、リーゼロッテ』

 

 表情に貼り付けた能面のようだったクロノの表情が僅かに歪む。

 信じていたものに裏切られた。クロノの悔しさはモニター越しに見るグレアムにも良く理解できた。

 信頼と裏切りは常に鏡あわせなのだとグレアムは理解していた。魔法というものを知り、その力を善のために活用したいと志した正義感溢れる青年時代。

 そして、武装隊を経て執務官になり、多くの権限を持つにつれ、世界は決して美しいもので成り立っているのではないと知らされた。

 

 クロノにはこのような世界を知って欲しくなかった。

 

『落ち込むのは、私達を逮捕してからだよクロ助。しっかり仕事しな』

 

 言葉を失ったクロノにロッテの軽口は軽口を叩くが、クロノは「うるさい」とそれを一括し、再び面を上げた。

 その表情には何の陰りもない。犯罪者を前にした執務官の表情そのもの。憎しみも悲しみも感じられない。ただ、法の執行者としてのクロノ・ハラオウン執務官がそこにいた。

 

『ギル・グレアム提督の使い魔、リーゼアリアとリーゼロッテの二名を管理局服務規程違反と公務執行妨害、民間人に対する傷害の容疑で逮捕します』

 

 リーゼ姉妹はもう一度隠匿されたサーチャーを見上げ、グレアムに視線を送った。

 これで良いのか、このまま黙ってクロノの指示に従い闇の書への決定的な行動を行わないのか。

 リーゼの視線にはそんな言葉が載せられているとグレアムは理解し、ゆっくりと頷いた。

 

「執務官の指示に従いなさい」

 

『分かりました』

 

 グレアムの恫喝のような命令を受け、二人のリーゼはおとなしく両手を挙げ、クロノに対して投降の意志を示した。

 クロノはすでにデバイス、S2Uを二人に向けていない。それは、リーゼ達に対する信頼の一つなのか、それともすでに武器を向けるほどの覇気を失ってしまっているのか。

 通常なら、ここでクロノは二人に対してバインドなり手錠をするべきなのだが、彼はそれを行うそぶりを見せない。

 それは、彼の甘さだが良さでもあるとグレアムはふと思った。

 

『グレアム提督、おそらくあなたもこちらを見ているのでしょうね』

 

 グレアムが見るモニターはリーゼアリアが作り上げた、極めてステルス性の高いサーチスフィアからもたらされる映像であるため、クロノの方からはグレアムの姿を確認することは出来ないはずだった。

 しかし、クロノはそれをふまえ、空を見上げグレアムの名前を呼んだ。

 

『……言いたいことは、山ほどありますが、これよりそちらに事情聴取に向かいますので、そこから動かないでください』

 

 彼の目はグレアムのモニターからすればまったく明後日の方向でしかなかったが、グレアムは確かに彼のどこか空虚な視線を感じることが出来た。

 

 おそらくもう、逃げ道はないとグレアムは理解していた。先程から部屋の外に何名かの魔導師の気配が感じられる。おそらく彼らは、クロノによって派遣された警備局員なのだろうとグレアムは予想していた。

 無理に逃げようと思えば可能だ。しかし、閉ざされた本局の施設内ではそれこそ逃げ道など時空間の海の彼方しか存在せず、生身で外に出てしまえば一瞬で命が失われる。

 

 モニターの向こうのクロノは足下に魔法陣を展開し、それはリーゼロッテとリーゼアリアを巻き込んで展開し、拡大していく。

 そして、その光が晴れる間近になってグレアムの見るモニターはブラックアウトし、通信が途絶えた。

 

 闇の書への決定的な手段が失われた。

 

(この11年間は、結局、無駄に終わったということか……)

 

 いや、むしろこうなって当然のことかもしれないと、黒く染め上がったモニターを閉ざしながらグレアムはそう思い至った。

 

 グレアムは閉じたモニターの下に置かれた小さなメモリーチップに目を落とした。

 あの深(シン)と静まりかえる冬の礼拝堂。僅かひとときの家族だった少女と交わした言葉。最後に何も言われずに託されたこの記録を見て、グレアムはとても心が揺さぶられたのだ。

 

 自分の計画の不完全さは理解できていた。針の穴を通すような計画。そして、たとえそれが成功したとしても、僅か十数年から数十年程度の平穏しか生み出さない。

 それでも、僅かな時であっても平穏が得られるのなら、それでも良いとグレアムは思いもした。その僅かな平穏のために一人の少女を犠牲にするのも致し方がないと、自分を納得させるしかなかった。

 

(だが、それも詭弁に過ぎない。結局私は……)

 

 物思いに沈みそうになる寸前、グレアムは通信機のインジケーターが着信を告げる赤ランプを点滅させていることに気がついた。

 警備局員によって封鎖されそうになっている今になって通信してくるものとはいったい何者なのか。

 グレアムは、数ある可能性の中からこのタイミングだからこそコンタクトを取ってきそうな人物を一人思い当たり、少し苦笑を浮かべた。

 

 音を立てずに静かに赤色光を点滅させる通信機のスイッチを押し、グレアムは回線を開く。

 秘匿性の極めて高い専用回線。

 しばらくしてようやく繋がったその回線のモニターには黒地をバックにして”Sound Only”の文字が浮かび上がった。

 

『よう、俺だ、ギル』

 

 まるで遊びに誘う友人のような気さくな声がモニターから響いてきた。

 若者のような伸びやかな声でありながら、その奥底には年齢に裏付けされたしたたかさを感じさせる声を聞き、グレアムは「相変わらずだな」と呟き少しだけ表情をゆるめた。

 

「やあ、アル。その様子だと、見ていたようだね」

 

 グレアムは旧知の仲にして同士である声の主、アル・ボーエン提督の名前を呼び、片肘をついて肩の力を抜いた。

 

『まあな。リアルタイム情報はさっき遮断されたが、地球のことも闇の書のことも、お前の使い魔が捕まったこともだ。お前の部屋に警備員がいったときにはどうなったのかって思ったぜ』

 

 肩をすくめ、両手を広げておどける彼の姿がグレアムの脳裏によぎった。

 

「すまない、私は、結局何も決められなかった」

 

 Sound Onlyの回線では彼が今何を思って通信をしているのかを類推することは出来ない。彼もまた、自身の感情をうちに秘めることに秀でた人物だ。もしも、これが映像を交換し合う通信であっても、彼の表情から彼の感情を読み取ることは出来なかったかもしれない。

 

『仕方ねぇさ。俺達は闇の書を破壊したいというよりは俺達の無念を晴らしたいだけだったし、もしも破壊も凍結もせずにうまくいくかもしれねぇって言われちゃあ、どうしようもなくなる。俺もお前も、エルやエス、ズィーにワイも闇の書の復讐のために八神はやてを犠牲にするべきなのかどうか、最後まで答えが出せなかったわけだ。お前のせいじゃねぇよ。だた、時間が足りなかった。それだけだ』

 

「それでも私はやると宣言した。結局、その宣言は叶えられず、私はここで終わる」

 

 答えが出せなかった。だから、同郷者として自分がやると名乗り出た。グレアムはそのときの意志を間違っていたとは思えなかった。自分が、すべての罪を背負ってみせると心に決めたはずだった。

 

『地球は、ダメかもしれねぇな。お前の故郷のことだ。さぞ無念だっただろうが、俺からはすまんとしかいえねぇ』

 

「私の世界だけを特別扱いすることは出来ないよ、アル。同じ事が何度も繰り返されてきた。私の世界も……運がなかった。おそらく、それだけのことなのだろう。もしも仮にそうなったとしても……」

 

『ああ、あいつらとも話が付いてる。テスタロッサのお嬢だったか、あのガキがよこした情報は確かに有益だった。今後はゼファード・フェイリアの捜索と夜天の魔導書の正常化の方向に話が向いていくだろうって程度にはな。仮に地球が破壊されて闇の書が転生しても次は何とかなる』

 

 自分が11年間、いや、彼らにすればそれ以上の時をかけて模索してきたことを凌駕するものを彼女は僅か一月に足らない時間でたどり着いた。もしも、せめて10年早く彼女と出会えていればとグレアムは思い至り、そして苦笑を浮かべた。10年前ではまだ彼女はこの世界にはいない。少なくとも生きていなかった。

 

「しかし、まだ決まったわけではない。現場にはまだ希望が残されている。まだ、奇跡起こる可能性は残されている」

 

『奇跡がそんなに簡単に起こるんなら、苦労はしねぇよ』

 

「そうだな。しかし、信じたいのだよ私は。あの子達なら、私達が理想とした世界を紡いでくれると、信じたいのだよ」

 

『”世界は唯一結果によってのみ時を刻む”お前が言った言葉だぜ? 自分で言ったことも忘れるほど耄碌(もうろく)したか? グレアム先生』

 

 アルの言葉にグレアムは皮肉な笑みを浮かべた。

 世界は唯一結果によってのみ時を刻む。それは、彼の生まれ故郷の異国、日本の諺の一つ”終わりよければすべてよし”を皮肉って作った言葉だった。

 

「そうだったな、希望的観測はすべての破滅に繋がるということか。すまない、君たちにも苦労をかけることになる」

 

『気にすんな。俺達は”次”のためにお前をトカゲの尻尾にして逃げるわけだからな。むしろ恨んでくれた方が気が楽だ。本件に関して俺達はお前と何の関係もなく、ただ俺とお前とはただの友人だったってだけのことだ。記者会見の供述もすでに決まっていて、情報隠滅も今行ってるところだ。「まさか、あいつがこんな事をするとは思ってもみなかった」。おきまりのセリフだな。ともあれ、俺達はお前を切り捨てた。それだけが真実だ』

 

 次の計画――ゼファード・フェイリアを捜索する計画のために、彼はグレアムにエスケープゴートになることを望んでいる。

 グレアムが逮捕されることで引き起こる騒動を隠れ蓑として、彼らは次の計画を闇の中で実行していくだろう。

 彼らは何度も失敗してきた。グレアムさえもその流れの一つに過ぎない。

 彼らは流された血を涙として何度も、何度も繰り返してきた。

 

 

――すまない、すまないと何度も何度も闇の書の犠牲となった人々に頭を下げながら――

 

 

――次こそは……次こそは……と――

 

 

「トカゲの尻尾か……君も、地球の言葉に慣れてしまったようだな」

 

 彼、アル・ボーエンもまたグレアムより以前に闇の書によって故郷の世界の一部と共に最愛の家族を失っている。

 彼だけではない、彼が先程口にしたエル、エス、ズィーにワイもそう言った被害者の一部だ。

 11年前、辛くも闇の書を捕獲できたのはひとえに彼らの働きがあったからだとグレアムは彼らと関わりを持つことで知ることが出来た。

 しかし、その結果は記憶の通り、闇の書を捕獲しても危険が去ったわけではなく、むしろあれが次元航行艦ではなく一つの世界、あるいは本局だったらもっと多くの犠牲が払われていただろうという結果だけだった。

 

『皮肉が効いてる言葉は好きだ。この回線もそろそろ危ないな。じゃあ、俺はこれで消えるぜ』

 

「ああ、後は頼んだ」

 

『じゃあな、戦友』

 

 通信機が再びブラックアウトする。

 

 グレアムはSound Onlyの表示が消えたモニターをしばらく見つめ、おもむろに側に置いてあったメモリーチップを取り上げて眺めた。

 

(希望は繋がった。もう、私に出来ることは、何一つない。後は、足かせにならないことだけだ)

 

 グレアムはメモリーチップを掌に包み込み、グッと握りしめ瞬間的に掌に魔力を込めた。

 瞬間的にわき上がる光と共に、それは僅か一条の煙となって姿を消した。

 

 

***

 

 時空間の海は静かだった。しかし、管理局本局の時空要塞はにわかに騒ぎだっているとクロノは感じた。

 

 本局施設の長い廊下を走りながら行き来する制服姿の局員達が口々につぶやく言葉には、やはり『闇の書の発動』と『グレアム提督の部屋を警備局員が固めている』というフレーズがかなりの割合含まれている様子だった。

 

 管理局の黎明期を生きた英雄ギル・グレアムと闇の書との因縁はとても有名な話だ。このたびの闇の書の発動とグレアムが半ば拘束されている事実が同時に入り、それらを別々の事実だと思える人間は少ない。

 

 クロノは今更ながら表だって行動しすぎたかもしれないと僅かな後悔を覚えた。

 

「なんか、騒ぎになってるね、アリア」

 

 クロノの後方を歩くリーゼアリアがその隣を歩く姉妹、リーゼロッテに声をかける。

 

「仕方がないわよ。一つの世界が滅びそうになっているときには、ここはこんなものよ」

 

 たとえ、それが管理外世界であっても、大規模災害級ロストロギアの発動によるものであれば、管理局の魔導師達は無関心ではいられない。しかも、地球は管理外世界の中では比較的この本局要塞施設に近い所に位置するのだ。

 

 対岸の火事と言っていられる程、大規模災害級ロストロギアとは甘いものではない。

 

 そして、その会話を背中で聞くクロノにとってはそれは自分達に対する皮肉のようにしか聞こえなかった。

 

(だけど、事実だ。結局僕たちは、最後の最後まで後手に回ってしまった)

 

 事態は非常に困難な局面へと急激に移行してしまった。管理外世界での作戦行動という制約がすべての足かせとなってこの事態を招いてしまったのは事実だ。もしも地球が管理世界――同盟国の一つであれば、管理局はアースラ一隻と武装隊一個中隊のみの小規模な戦力ではなく、L級艦数隻からなる大規模戦隊を組織して地球をはじめとした周辺世界の全域をネズミも通さない網を張ることが出来ただろう。

 

 今頃クロノの母、リンディ・ハラオウンは艦隊司令部に対してアルカンシェルの使用許可を求める打信を続けているだろう。

 

 このままの状態であれば、アースラはアルカンシェルを使用せざるを得なくなる。11年前、自身の父親の命を奪った破壊兵器を使用せざるを得なくなる。

 

 それによってもたらされる被害は、100万名に達するほどの人命と被害総額数十億ミッドガルド規模の災害だ。

 

 それでも、地球を含む周辺世界住まう数百億の人命が失われることに比べればとクロノは思う。

 

(詭弁だ。そんなもの、何の言い訳にもならない)

 

 ならばどうすれば良いというのか。どれだけの犠牲であれば自分達は満足できるのかとクロノは思う。

 

 11年前。闇の書の事件にしてみれば奇跡的な程に犠牲者が少なかったとされるあの事件をクロノは思い出し、そして首を振った。

 父のように、最終的に自分が犠牲になればいいと一瞬考えてしまった自分をクロノは呪った。

 

 長い廊下の端にグレアムのオフィスに通じる扉が姿を見せた。

 

 クロノは僅かに揺らいだ感情のさざ波を律し、黒いバリアジャケットの裾をただした。

 

 グレアムの執務室の白い扉の前。クロノはその左右を固める警備局員に「ご苦労」と一言告げ、呼吸を整えながら二度、コンコンと扉をノックした。

 

『入りたまえ』

 

 扉横のコンソールから柔和な老紳士を思わせる声が響いた。その声には何の陰りも無い。

 それは、自分の正しさを確信する故の余裕なのか。それとも、諦めの境地なのか。あるいはまだ何かしらの手段を残していることの証明なのか。

 しかし、クロノにはその声にはどこか力が抜けた、憑き物が落ちたような印象を受けていた。

 

 彼は何を思い、闇の書の猛威に晒されている地球を見ているのか。

 クロノは少しだけそれを思い、グレアムの声に従い扉を開いた。

 

 小綺麗な、提督の執務室にしてはずいぶんと殺風景な様子の内装は、人生の大半を管理局のために尽くしてきた英雄に相応しいものだとクロノは思う。

 思えば、自分もこの提督から与えられた影響は強いと改めて思う。

 

 無駄なものが無い。あるとすれば、部屋の脇に小さく鎮座するティーセットの納められた棚だけだ。

 それは、まるで自分の部屋をそのまま広げただけのようだとクロノは思った。

 

「失礼します」

 

 何となく感傷に誘われているとクロノは気がつき、居住まいを正すように声を研ぎ澄ませグレアムの執務机の前に足を運ぶ。

 

 グレアムは席に着いていなかった。

 

 普段は閉ざされているはずの窓を開き、特殊硬化樹脂(ベークライト)越しにその先に拡がる時空間の海をただ無言で眺めているだけだった。

 

「何が見えますか?」

 

 つい最近までグレアムは船に乗り時空間の海をすみかとしていたはずだ。今更、その風景にはいつまでも眺めているほどの珍しさは無いだろう。ならば、彼はいったいその向こう側に何を見ているかとクロノは気になった。

 

「多層次元空間と通常次元空間の境界面が見えるね。まるで、あちら側とこちら側を明確に分ける境界線のように見えないかね? しょせん、お前達人間は狭い通常空間で群れて生きていればいいと言われているように私は思うよ。今もしも、このガラスが割れてこの外に投げ出されてしまえば、私達はただの一秒もそこで存在することは出来ない。テクノロジーの力によって守られ、管理されたこの小さな箱庭でしか我々人間は生きられないのだと改めて実感しているところだ」

 

 人は重力と光と大気を忘れることは出来ない。いかに大地を離れ空に昇り、果ては多次元空間へと進出して行ったとしても、人はわざわざ貴重なエネルギーを費やしてまでその環境を生み出し、その中で生きることしかできなかったのだ。

 

「ですが、僕たちはここに存在しています。人の力であるテクノロジーの力で僕たちは生きています」

 

「しかし、人のテクノロジーは同時に人を殺すものでもある」

 

 グレアムはそう言って、眼前に向き合うガラスをそっと撫でてそこにいくつかの映像を投影し始めた。

 そこに現れた映像は、今まさに地球で行われているその世界の存亡をかけた戦いだった。

 

 グレアムは「見たまえ」と呟きながら振り向き、しっかりとクロノの目を見ながら口を開いた。

 

「こうして多くの世界が人の力によって生み出されたものに滅ぼされてきた。おそらく地球もその運命をたどることとなるだろう。アルカンシェルの存在によってその犠牲は最小に押さえられるかもしれないが、それでも多くの世界が失われる。それによって犠牲になる人々の持つ世界が終わってしまうのだ」

 

「そうならないために僕たちがいるのです。こんなはずじゃなかった世界をこれ以上作らないために、悲劇をもう二度と繰り返さないために僕たちはいると提督が教えてくれたはずのことです」

 

「我々は、そう言って繰り返してきた。悲劇を繰り返さないと言いながら多くの悲劇を生み出すこともあった。本来の悲劇に比べれば確かにそれは小さな悲劇に収まったと言えるだろうが、悲劇に大小は無い。そもそも我々は矛盾しているのだよ。その矛盾を抱えながらも我々はそれでもすべてが無に帰るよりはましと言いながら戦うしかない。その矛盾を自覚していなければ、いかに正義を語ろうともそれはすべて詭弁となる」

 

「だからあなたは、法の正義よりもご自分の正義を優先されたのですか」

 

 グレアムは答えない。無言は肯定の意を如実に示す。

 彼はクロノが優先できなかった自分自身の正義を押し通そうとした。

 

 

  法執行機関の局員として、グレアムは一番してはならないことを選択してしまった。

 

 

「聞かせてください、グレアム提督。貴方は何をしようとしていたのか、なぜリーゼ達を使って僕たちの邪魔をしていたのか。何もかも」

 

「君はもう、おおよその事は知っているのではないのかね?」

 

「推測の域を出ないことばかりです。提督が闇の書に対して何らかの行動を起こしていた。そして、その成就のためには闇の書の完成が必要だった。仮面の男がリーゼだと気がついてからそれほど時間がありませんでしたから、提督が何をしようとしていたのかまでは調べきれませんでした」

 

「いいのかね、そんなことを言っても。私がシラを切る可能性もある」

 

「僕は、提督を信じます」

 

「なるほど、そう言われてしまえば、確かに私では拒む事は出来ないか。よく考えられている。さすがリンディ君の息子だよ君は。彼女もこういう交渉が恐ろしくなるほど得意だった」

 

 グレアムはふと口元に笑みを浮かべ、両横にたたずむリーゼ姉妹を伴い、窓際のラックに手を伸ばした。

 グレアムの手に掴み上げられた一枚のフォトスタンド。彼が持ち上げるまで面を倒されていたため、クロノにはそこに何が写されているのか判断が出来ない。

 

「あんなものなど、この世界に無ければ良かったのだ。そうすれば、私はクライド君を殺すこともなく、クロノ、君にこの道を歩ませる事もなかったのだ。だから、私は闇の書を破壊しようと決意した。動機はただそれだけのことだ。何のことはない、ただの復讐のためだよ」

 

 グレアムはフォトスタンドをグッと握りしめる。そこに納められた一枚の写真には、不運を背負いながらも笑顔を絶やすことの無かった一人の少女。現在の闇の書の主、八神はやての家族写真が納められていた。

 

「闇の書を破壊したとしても、ただ転生するだけで意味がありません。見つけたのですか? 闇の書の永久封印の方法を」

 

「永久など呼ぶにもおこがましい計画だ……と、彼女は言っていたが、それでも救われるものがあるのならきっと正しいことなのだろうとも彼女は言っていた」

 

 グレアムの口から出された彼女という言葉に、クロノは少し怪訝な表情をするが、おそらくそれはグレアムの計画の加担者の一人なのだろうと考え、今は追求しなかった。

 

「その方法とは?」

 

「非常に単純なことだよ。闇の書が暴走を始める前にその主もろとも凍らせてしまえば暴走も加速せず、破壊されなければ転生することもない。後は誰もいない、誰も立ち寄ることの無いであろう世界に投棄するか、あるいは虚数空間にでも捨ててしまえば闇の書が世界を破壊し続けることはない」

 

「闇の書の凍結は、闇の書が完成して暴走を始めるまでのほんの数十分しか機会がないんだ。お願い、クロノ。全部終わったら自首するから、今だけ私達を見逃して!」

 

 アリアが横から口を挟む。

 

「お父様は、この計画にはじめから反対だったんだ! それをあたしらが勝手に進めて来ただけ。お父様には何の関係もない」

 

 ロッテもアリアに追従する。

 

「やめないか二人とも。そんなことを言って今更どうなる。もう、終わったのだよ私達は」

 

 グレアムは二人をなだめ、フォトスタンドを元のあった場所に立てた。クロノの目にもそれがしっかりと映る。車いすに座り、今まで自分達と敵対していた騎士達に囲まれ、それはクロノ自身も過去に置き忘れてきた暖かく穏やかな家族の風景だった。

 

 

  クロノは闇の書によって家族を失った。そして八神はやては闇の書によって家族を得た。

 

 

 クロノはにわかにわき上がる、形容しがたい感情を手に握りしめ押し殺した。

 

「私には復讐しか残されていなかった。あんなものがなければと思ってしまってからはもう、転がる石のようだったよ。私は必死になって探した」

 

「提督は、今回の闇の書の主が彼女だと知っていたのですね」

 

「ああ、血眼になって探し続けた。そして、発見した」

 

 グレアムは言葉を切り、机上の端末を操作して、一枚のモニターを呼び起こした。

 まるで局員の履歴書のような規格で示された八神はやてのパーソナルデータが出現し、クロノはそれにさっと目を通した。

 

「八神はやて。地球の民間人で、本来なら魔法とは何の関わりのない少女ですか」

 

「見つけたときにはすでに彼女は闇の書の浸食を受け、足が動かない状態だった。そのときばかりは運命というものを恨んだよ。なぜ、よりにもよって地球なのかと。そして、どうしてこんな幼い子供に転移してしまったのかと。闇の書は私を苦しめるために生み出されたのではないかと思ったほどだ。馬鹿げたことではあるが」

 

「復讐は何も生み出しません。たとえ、闇の書を完璧に破壊したとしても父さんは戻ってきません」

 

「その通りだ、君は正しい。しかし、残念ながら私は君ほど強くはないのだ。復讐が私を生かしていた。それを捨てることは私に死ねと言うようなことだった」

 

「それでも、闇の書の主は暴走が始まるまでは凍結封印されるような犯罪者じゃない」

 

「ああ、その通りだ。君の言っていることは正しい。管理局の正義に正しく従うことだ。そして、私はその法の正義に反目したただの犯罪者というわけだ」

 

 グレアムは様々な感情が込められた吐息と共にソファーに身を沈めた。

 後悔は無いと信じていた。しかし、自分は法の正義に反し、そして今その法の正義によってとらわれようとしている。その現実を思い、何か大切にしてきたもの、生涯をかけて守ってきたものがサラサラと崩れ落ちていくような感覚にとらわれる。

 

「正義とはいったい何なのだろうね。クロノ、君は執務官として法の正義を優先せざるを得ないだろう。私は自分の正義を優先して法の正義から外れた。ヴォルケンリッター ―― 闇の書の騎士達も自分達の正義を確信し、道を誤った。迎合すること無い正義は互いに争い合う事しかできないのか。それはとても悲しいことだ」

 

 あの娘なら、今の自分にいったいどのような答えを返すだろうかとグレアムはふと思い浮かべた。

 

「それでも僕は、法によっても守られる社会は、法の正義によって維持されるべきだと信じています。ですが、それでも時々、僕も自分達の正義を優先するべきなのか、法の正義を優先するべきなのか迷うことがあります。それでも、少なくとも暴走前の闇の書のとその主は、凍結封印を受けるほどの犯罪者ではないはずです」

 

 手を握りしめるクロノ。それを見て、グレアムは若かりし時の自分を重ね合わせる。

 まっすぐに育ったと思った。まっすぐに育ちすぎたとも思った。

 やがて、この子は自分と同じジレンマに悩まされ、生涯を苦悩の中に過ごすことになるだろうと直感した。

 あるいは、自分では終ぞ得ることの出来なかった自分だけの家族を手にすれば、生涯を共に歩む伴侶を得ることが出来れば、あるいはその苦しみから解き放たれるかもしれない。

 

(私のようにはなるな)

 

 口に出すことなく、グレアムはそう思い、振り向いて背を見せるクロノを見守った。

 

「……現場に戻ります。フェイト達が心配ですし、アリシアはまだ闇の書の中に囚われたままですから」

 

 事情徴収とも言えない事情徴収だったとクロノは断じ、部屋の外にいる警備局員に現場を任せようと部屋を後にしかけた。

 

「待ちなさい、これを、持って行ってくれ」

 

 グレアムは立ち去ろうとするクロノを呼び止め、懐から一枚の金属板を取り出し、クロノに差し出した。

 

「これは?」

 

 薄い白いプレート。その大きさは掌に収まる程度、まるでクロノ自身が持つデバイス、S2Uの待機状態の形状のようだ。

 

「これが闇の書凍結の切り札。氷結の杖デュランダルだ」

 

 デュランダル。それはグレアムの故郷、欧州と呼ばれる地域の神話より名付けられた英雄の剣の名前だった。

 光の御子が死ぬ間際に折ろうにも折れなかった頑強な聖剣。それはまるでグレアムがこの計画に不屈の意志をゆだねていたように思い、渡されたクロノはその重みに手が震える思いだった。

 

 デュランダルの担い手、英雄ローランはその聖剣を持ちながらも戦場で死んだ。それは、グレアムらしいユーモアの一つなのか、それともこの武器を持つ者の運命を暗示するものなのか。クロノには判断が出来なかった。

 

「これをどう使うのかは君に任せる。どうか、彼女たちを救ってやってくれ」

 

 グレアムの言葉にクロノはそのカードを握りつぶしそうになった。

 何を無責任なことをと言いたくなる欲求をクロノは必死に押し殺した。

 

 自分はグレアムの計画を否とした。

 

 自分は誰も犠牲にしない方法を模索しなければならない。それはまさに、神懸かりとも言えるほどの奇跡を引き起こさなければ至れないような道だとクロノも理解している。

 不可能かもしれない。最終的にはアルカンシェルを海鳴に撃ち込む決意をしなければならなくなるかもしれない。

 そして、最終的にそのトリガーを引くのは自分ではなく、今も現場で戦場を指揮しているアースラの艦長、母親であるリンディなのだと言うこともクロノは理解していた。

 

 

  もう二度と母を、大切な人たちを悲しませたくないと誓っていながら、またその悲しみを繰り返すことになるかもしれない。

 

 

「……当然、です」

 

 世界はこんなはずじゃなかったことだらけだ。改めて自分自身が将来の妹達の母親に投げかけた言葉が重くのしかかる。

 

 

  こんなはずじゃない現実から逃げるか、立ち向かうかは、個人の自由だ。しかし、自分の勝手な悲しみに無関係の人間を巻き込んでいい権利は何処の誰にも有りはしない

 

 

 シュンとスライド式の扉が閉められる音が背後から響く。

 クロノは先程歩いてきた長い廊下の先を見つめながら、しばらく立ち止まり思いを紡いだ。

 

(そうか、だからグレアム提督は……自分の復讐に誰も巻き込まない方法を選んだのか……)

 

 しかし、それでもその復讐心には無関係であったとしても、せめて自分達には教えて欲しかったとクロノは思い、一度だけ振り向いて閉ざされた白い扉の向こう側に思いをはせ、そして歩き出した。

 

 

  道はどこに繋がっているか分からない。だけど、自分はこんなはずじゃない現実に立ち向かおうと心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 


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