魔法少女リリカルなのは~Nameless Ghost~ 作:柳沢紀雪
ユーノが展開した封鎖結界が夜の空を灰色に染め上げる。
彼にして急造で構成が甘いと称されたその結界も今ではシャマルとザフィーラ、そしてヴィータの補助を受けて闇の書の力でもそう簡単には突破できないほどの強度を保っている。
闇の書の目的がこの世界の破壊であれば、彼女はまず第一にこの結界を破ろうとするだろう。
実際、フェイト達が隠れるビル影の向こう側では、闇の書が上空に向かって何度も攻撃を行っている様子だった。
しかし、それを破ることが出来ないと彼女が判断すれば次に攻撃対象となるのはこの結界の起点である魔導師となるのは明白だった。
「ごめんなさい、みんな。迷惑をかけました。ザフィーラも、ありがとうございました」
ようやくフェイトも落ち着き、場が冷静を取り戻したとき、フェイトはもう一度先程までの無茶と勝手を侘びた。
「あの程度の攻撃では我を突破することは出来ん」
皆がフェイトに頷く中、特に名指しされたザフィーラは己の誇りを滲ませてフェイトに答える。
《いい男ですね、盾の守護獣。貴方はそういってどれほどの雌狼をたぶらかしてきたのでしょうか?》
突然響く機械じみた声にザフィーラを始め、ヴィータとシャマルは少し周りを見回しその声の主をおった。
「我は盾だ。そのような不埒なことはせん!」
ザフィーラは己を愚弄するような物言いにきつい視線を投げかけるが、その声の主、レイジングハートを胸に掛けるなのはがその視線を浴びて少しひるむ。
《なるほど、硬派ですね。無自覚に女を泣かせてきたと言うことですか。罪な男のようです。ユーノもお気をつけを。無自覚と鈍感は時に他者を傷つけるものになるでしょう》
「何で僕なの!?」
《ご謙遜を。スクライアでどれほどの女性を落としてきたか。私はしっかりと記憶していますよ?》
「それ、本当なの? ユーノ君……」
「ちょっと、なのはまで。嘘だから、全部レイジングハートのでっち上げだから」
満身創痍であるはずのなのはがどうしてこんな、殺気じみた気配を放てるのか。
ある意味人体の神秘を感じながらもユーノは必死に弁明を重ねる。
《その鈍感さがいずれマスターをも傷つけるかもしれない。その可能性を覚えておいてください》
「意味が分からないよ。なのはもそんな目で僕を見ないで」
頬をふくらますなのは。背筋に冷や汗をかきながら手を振り回して言葉を重ねるユーノ。
一見すれば幼い痴話喧嘩を見ているようでフェイトやシャマルは少しだけ感情が和やかになるが、なのはの側に座るヴィータが何とも面白くなさそうな表情をしているのにシャマルは気がついた。
「あのぉー、今はそんなことしてる場合では……」
おずおずとシャマルは手を軽く挙げながらじゃれ合いを続ける二人と一つに声を掛けた。
「そ、そうだよなのは。今は、闇の書を何とかしないと……」
フェイトもシャマルに同調し、とりあえず二人の口げんかをやめさせようとした。
「一応、あたしとシャマルで隠蔽魔法使ってるけど。いつまで持つか分からないよ」
付き合いきれない。という風体でヴィータはやれやれとため息をつき、なのはを横たわらせている自分のフローターフィールドの上で胡座をかいた。
「行儀が悪いぞ、ヴィータ」
ザフィーラはそんなヴィータの様子に少し呆れながら口を挟む。
ヴィータは組み合わされた足の間を手で押さえているため、スカートの中身が見えているわけではないが、どう考えてもそれは淑女の振る舞いではない。
「うっせ」
しかし、ヴィータは取り合わず、グラーフアイゼンの柄尻でザフィーラをこつぐ。
ユーノとなのははお互いに顔を赤くしながら何とか立ち直り、皆と現状を確認し合う。
「それともう一つ。スクライア君達が私たちに話したかった事を、教えていただけませんか?」
シャマルはそう言って双眸をことさら真剣切り詰めてユーノ達に目を配った。
隠蔽結界から魔力が漏れないように、最小限の出力でなのはのリンカーコアに魔力を供給していたユーノはフェイトと一瞬目配せをした。
確かに、互いに冷静になった現状であれば、今まで自分たちが彼等ヴォルケンリッターに伝えようとして伝えられなかった事を聞き入れて貰えるのではないかとフェイトは思った。
しかし、今更それを言ったところで大本の原因である闇の書の発動を阻止することが出来なかった。今は余計な情報を伝えるべきではないかもしれないとユーノは考えた。
それでも、彼らには知る権利があり、その責任もある。そして、同時に彼らのそれまでの様子から闇の書がただ破壊を振りまくだけのものと言うことをおそらく知らなかったのだろう。
ひょっとすれば、もしもこの事件が問題なく終結した暁には、このことが彼らを擁護する材料となるかもしれない。ユーノは何となく打算的に物事を考えてしまいがちな自分に少しだけ自己嫌悪を覚える。
ユーノはシャマルだけでなく、一歩引いたところから周囲に気を配りつつこちらを見るザフィーラと、未だフローターフィールドの上であぐらをかくヴィータの様子も確認した。
二人は沈黙して、ただユーノへと視線を向けるばかりだ。しかし、その表情、視線からこの二人もシャマルと同様、真実を知りたいという願いを持っているように思えた。
『やっぱり、三人には言った方がいいと思うよ、ユーノ』
フェイトはユーノ手を取り、シャマル達に聞かれないように接触回線での念話を試みた。
『うん。僕もそう思う』
いきなり手を取られて少し驚いたユーノだが、フェイトの声が脳裏に響くとその意図を理解して、同意の念を送る。
『任せても良い? こういう事はユーノの方が適任だと思うから』
まあ、そうだろうなとユーノは理解していた。フェイトは頑固であるがこれでなかなか口下手な面がある。その点に関して言えばユーノも同類なのだが、少なくともフェイトよりは弁は立つと言っても良いだろう。
(本当なら、アリシアに頼むのが一番なんだけどね)
ユーノはそう思いながらチラと横目でフェイトを伺い、「エヘン」と咳払いを一つ吐いた。
あまり細かいことまで話している暇は無いだろう。それでも、出来る限り正確に、過不足無く伝えなければならない。
ユーノは一度自分が持つ情報――アリシアが無限書庫で蒐集した情報――を整理するべく宙を仰いだ。
「たぶん、ヴィータ達もそろそろ気付きかけてる事だと思います。おそらく、聞けば辛いと思います。時間がないのと、僕自身人伝で聞いたことばかりで情報に正確性を欠く場合もあります。ひとまず、それだけを念頭に置いておいてください。最終的な判断は皆さんにお任せします」
ゆっくりと、ユーノはシャマル、ザフィーラ、ヴィータの表情を伺った。
シャマルは冷静で、何処か青ざめたような表情で頷き、ザフィーラは表情を変えずにただ肯いた、そしてヴィータは少し頬を紅くしながらユーノから目をそらすばかりで頷きもしない。
機嫌を損ねたかなと思うユーノだが、今はなだめている暇はないと感情を打ち切った。
「じゃあ、話します」
ヴィータを除いて二人の了承を得られた。ユーノはゆっくりと語り出した。
「言葉を選んでいても仕方がありませんので単刀直入に言います。闇の書はすでに壊れています。闇の書はその主を蝕み、蒐集を行わせ、そして完成したらその力は破壊すること以外には使い道がない。そして、それを何とかしようとしても、主以外の人間が外部から闇の書にアクセスしようとすれば、主を飲み込んで転生を繰り返す。これが僕が知っている闇の書です」
「それの証拠はあるの?」
ユーノに問いただすシャマルの声は震えていた。もし、それが本当なら、今まで自分達が行ってきたことはいったい何だったのか。自分たちの存在意義とはそんなことのためにあったのかと、自身が崩壊するほどの衝撃を受けるだろう。
自分たちの存在が、行為が、望んだこととは真逆のものだった。辛いだろうとユーノは思った。
そして、それを知らせることがまるで彼らの存在意義を否定することになるように思えて、ユーノの胸が痛んだ。
それでもユーノははっきりと頷き、毅然とした表情と視線を持って答えた。
「11年前、闇の書が管理局の次元航行艦エスティアを飲み込み、その艦長もろともアルカンシェルによって蒸発しました。それ以前の、管理局が関わった事件資料やその他諸々。フェイトの姉のアリシアが無限書庫で調べ上げた情報すべて、このメモリーチップに入っています」
ユーノはそういって懐からクロノを経由して渡された一枚の記録素子を取り出し、シャマルに手渡した。
「いいの? ユーノ」
シャマルにチップを渡そうとしたユーノに対してフェイトはそう声を掛ける。
ユーノの持つ情報は一種の機密情報だ。例えそれが一般的に知られたことであろうと無かろうと、管理局がその捜査のために入手した情報は部外者に公表してはならない。
公表にはいくつかの法的手続きが必要であり、ましてや彼らは未だ事件の重要な容疑者。
「クロノには内緒にしていてね、フェイト。なのはも」
しかし、ユーノはすべて承知だと言って微笑んだ。
フェイトは少し肩をすくめ、呆れたようにため息をついた。
ようやく上体を起こせる程度に回復したなのはも少し苦笑いしている様子だった。
《You are affected by the Little Alicia, YU-NO. Well It is not the tendency that it is all right to resemble only a place not to want you to be similar》(アリシア嬢の影響を受けましたね、ユーノ。まったく、似て欲しくないところばかり似るのはよろしい傾向ではありません)
なのはは一瞬、アリシアの影響を受けきった将来のユーノというものを想像してみたが、途中で怖くなったのでやめた。
何となく、あの暖かい笑顔で人をおちょくり回して遊ぶユーノというのは色々な意味で見たくないと思ってしまったのだ。
(気をつけないと……)
なのははそれだけ思い、思考を戻した。
シャマルは手渡されたメモリーチップをそっと握り、心を落ち着けるように息を一つ付き、自身のデバイス、クラールヴィントに情報をコネクトさせた。
シャマルは瞑目し、クラールヴィントからもたらされる情報を素早く処理し、そして理解した。
「私達は……結局はやてちゃんを助けるどころか、はやてちゃんを破滅に導いていただけなんですね」
しゃくり上げるような嗚咽がユーノ達の耳に届いた。膝をつくシャマルに、ユーノ達は掛ける言葉を見つけられず、フェイトはグッと手を握りしめた。
真実を告げられるのは辛いものだ。フェイトもまたプレシアより自身の真実を告げられたときは、泣くことも出来ずに一切を停止させ、拒絶した。そのときの感情が何となくフラッシュバックして、膝が震える。
『大丈夫だよ』
そっと握りしめられる手の感触にフェイトは面を上げた。
『大丈夫、大丈夫だから。そんな顔しないで……みんな、いるから……』
自分を見上げて心強い視線を送るなのはの表情にフェイトはただ頷いた。
『ありがとう、なのは。大丈夫、私はもう……諦めないから』
フェイトの力強い言葉になのはは微笑み、少し名残惜しそうに手を離した。
手の中に残るなのはの温もりをフェイトは握りしめた。
「シグナムは……そのために消えちまったってのに……こんなの、あんまりだよ……」
許せないという感情をヴィータは持て余して、フローターフィールドに拳をたたきつけた。
何が許せないのか。壊れてしまっていた闇の書なのか、終焉への駒を進めることしかできなかった自分たちなのか、それともこうなることを導いた運命そのものなのか。
「すまぬ、高町、スクライア、テスタロッサ。いかに侘びようとも取り返しの付かないことを我らはしてしまった……」
ただ、誰もがそう思った。何とかしたい、このままで終わるのは嫌だと感じていたのは確かだ。
まるで土下座をする勢いで膝をつき面をたれるザフィーラ。
未だ膝を折ってすすりなるシャマル。
チクショウ、チクショウと悪態をつきながら床を殴り続けるヴィータ。
「謝るのは、まだ早いです」
なのはは絞り出すように声を上げ、ふらつく上体を振り絞って、ゆっくりと立ち上がった。
驚いて補助に回ろうとするユーノとフェイトをやんわりと断り、なのはは不安定な足取りで崩れ落ちる騎士達の側へと歩み寄っていった。
「アリシアちゃんが巻き込まれてしまいました。はやてちゃんも大変なことになっています。シグナムさんも、まだ中にいます。私は、三人を……はやてちゃん、アリシアちゃん、そして、シグナムさんを助けたいんです」
なのははまだ希望を見失っていない。なのはがいたから自分たちは希望を捨てなくてすむ。ユーノとフェイトは共通するその考えに頷き合い、なのはの側へと足を進めた。
ユーノがなのはの肩を、フェイトがなのはの左手を支え、三者は互いに向き合った。
「今度こそ。今度こそ、私たちに協力してくれませんか? 私たちでどこまで出来るか分からりません。だけど、私はこのまま終わるのは嫌なんです」
なのはの手が伸ばされた。
そして、かつて自分たちへもさしのべられた希望の手にユーノとフェイトは自身の手を重ね、言葉を発さずに宣言した。『共に行こう』と。
伸ばされた手。重ねられた手。
騎士達はあっけにとられたようにそれを見上げ、そして、互いに頷き合い、居住まいを正した。
片膝を着き、片方の手を地面に着き、もう片方の手は立てられた足の膝の上へ。
「この命にかけても」
ザフィーラの宣言が夜を震わせ、
「あなたたちに協力します。いえ、させてください!」
シャマルの誓いは悲しみを打ち払い、
「はやてを……アリシアを助けたいのはあたし達も同じなんだ」
ヴィータの願いはあまりにも真摯で。
そして、三人はしっかりと面を上げ、自らの手をさしのべられた手へと重ねた。
誓いは立てられた。
******
《さて、騎士達の協力を得られたわけですが、何か対応策はあるのですか?》
レイジングハートの冷静な、どこか皮肉混じりの合成音にフェイト達は重ね合わせたままだった手をほどいて、何となくお互い照れくさそうに視線を合わせたり外したり落ち着かなかった。
「別に、協力っつっても今だけだかんな! お前らと馴れ合うきはねぇ、勘違いすんな!」
明らかに照れ隠しと分かる仕草で鼻を鳴らしながらヴィータはそっぽを向いた。
「ヴィータって、結構かわいいんだね」
悪態を吐かれているにもかかわらず嫌な気分にならないフェイトは頬をゆるめながらそっとシャマルに耳打ちした。
「そうなんですよ。あの子も素直じゃないから」
まるで娘や妹を見るような暖かなまなざしでヴィータを見るシャマルを、フェイトは「なんだかいいな」と思った。自分もアリシアからこういう目で見られているのだろうかと思う。そうだったら嬉しいとフェイトは思い、そして、そのアリシアが今どこにいるのかを思い出し表情を引き締めた。
『必ず助けましょう』
シャマルの声がフェイトの脳裏に響いた。
『はい。はやてとシグナムも、必ず!』
シャマルとの秘密の会話はフェイトに安らぎと決意を与えたようだ。ヴォルケンリッターの協力が得られた、なのははずいぶんと衰弱しているが、命の危険性はない。それでもまだフェイトの心には幸先が見えない状況に言いようのない不安があった。
(言葉ってすごいなぁ)
ただ一言が安らぎを与えもすれば不安を煽りもする。思えば、先程レイジングハートがふざけた話を引き起こしたのも、そういう言葉の力を知っているからこそなのかもしれないとフェイトは思う。
アリシアやレイジングハートと一緒にいるとなぜか不安を感じることがない。自分も、そういうふうに誰かの安らぎになれるような人間になりたいとフェイトは思った。
「ともあれ状況は悪い。レイジングハート卿の言うとおり、我々がこの後どのようにすればよいのか、決めるべきだ」
ザフィーラの低い声が何となく緩んだ場の空気を引き締める。
「そうですね。といっても僕にはこのまま闇の書を閉じこめておく以上の対策が思いつきません。フェイトになのははどう?」
ユーノからの問いかけにフェイトはなのはと少し目を合わせ、一緒に首を横に振った。
「闇の書ができあがる前なら、はやてと一緒にアースラに来てもらえたけど、今の闇の書を捕獲するのはすごく難しいと思う」
フェイトは一瞬、”アルカンシェル”というあまり思い出したくない言葉を思い浮かべたが、すぐにそれを打ち払った。
管理局が過去にとってきた闇の書に対する具体的な対策は、その世界が崩壊する前にアルカンシェルを打ち込み、闇の書を消滅させるというやり方ばかりが目立つ。
しかし、それでははやてやアリシアを含め、この周囲一帯の都市をもろとも消滅させてしまうことになる。
確かにそれは、世界一つを犠牲にする事に比べればよほどマシと言えるだろう。しかし、フェイトはこの一月の間にこの世界で出会った人々のことを考えれば、例え家族を人質に取られても頷く事が出来ない事だった。
「私は、闇の書さんとお話ししたいと思う」
なのはの呟きに全員が怪訝な目を向けた。
「お前、正気で言ってんのか? だったら、あたしはお前の正気を疑うぞ」
ヴィータの言い分は最もだった。相手は闇の書だ。彼女が先程宣言した、『主の安息と無事を実現するためこの世界のすべてを破壊する』という言葉からあれが話の通じる類のものではないはずだ。
「なのは、それはちょっと……」
それに関してはフェイトも無理だと断言できた。しかし、フェイトの言葉はユーノの手によって遮られ、フェイトはいぶかしげにユーノへと目を向ける。
発言を遮るように掲げられた掌の向こう側。フェイトは彼がとても真剣な表情をしている事を知り、心なしか一歩後ずさりした。
(なのはの話を聞こう)
彼の表情がそう告げているように感じ、フェイトは口をつぐむ。
「なのははどうして闇の書と話がしたいって思ったの?」
ユーノと同じぐらい真剣な表情をするなのはに問いかける彼の声は、なぜかフェイトにはアリシアの表情が重なって見えた。
そして、フェイトは「そうか」と気がついた。
アリシアはどのような意見に対しても否定しない。なぜそのような考えに至ったのか、その根拠とその本人の考えを理解しようとする。
フェイトは何となくユーノに嫉妬を覚えた。
「闇の書さん、泣いてた……何がそんなに悲しいのか、どうすればその悲しいことから助けてあげられるのか、私は知りたいの。だから、闇の書さんの話を聞きたい。闇の書さんは絶対こんな事望んでないよ! だから私は、一緒に考えてあげたいの……」
フェイトの脳裏に月を見上げて涙を流す少女の姿が思い浮かべられた。
あの時は激情に駆られて自分のことしか見えていなかったが、確かに彼女は涙を流していたのだ。
月は墓標だ。そこは死んでいったもの達が眠るゆりかご。彼らは月に召されて地上を見守る守り神なのだとアリシアは言っていた。
彼女は月を見上げ、誰のために涙を流していたのか。
「そうだね、なのは」
フェイトは自然にそう言葉を漏らしていた。
「フェイトちゃん」
賛同されるとは彼女も思っていなかったのだろう、なのははフェイトの声に少し驚いたような声を上げた。
「望んでないことをするのはとても辛い。きっと闇の書も誰かに喜んでもらいたくて、でも、それが出来なくて、結果的に誰かを傷つけてしまうのが悲しいんだと思う。あの子は、ちょっと前の私と同じなんだ」
フェイトはなのはの手を握りしめた。彼女の手は小さく細い。この手でどれだけの救いを与えられるのか、どれだけの希望を自分達に与えてくれるのか。そう考えればとても心が温かくなる。
しかし、フェイトは同時に彼女の手が小刻みに震えている事に気がついていた。
「だけど、お願い、なのはは休んでいて。なのはの分は私がちゃんと届けるから。無理はしないで」
フェイトの言葉になのはは唇を噛みしめてうつむいた。
フェイトの言うとおりだとなのはも理解できる。今の自分には使える魔力がほとんど無い。シグナムに無理矢理リンカーコアを抜き取られ、魔力をすべて蒐集された。
今の自分は足手まといにしかならないと否応なく自覚させられる。
「僕も一緒だよ、フェイト。なのはの分は僕も肩代わりする。それとついでに僕自身の思いも乗せてね」
ユーノもまたなのはを励ますように彼女の肩に手を置いた。
「ユーノは反対じゃなかったの?」
「いつ僕がなのはに反対したって言うの? フェイト。僕はいつだってなのはの味方だよ。世界を全部敵に回しても、僕はなのはのパートナーだ」
「あぅぅ……ユーノ君、恥ずかしいよぉ……」
ユーノの熱い言葉に頬を染めてもじもじと身体をくねらせるなのはを見て、フェイトの感情はまたゾワリとしたささくれを生み出した。
(ああ、まただ。私はたぶん、羨ましいんだ。ユーノが羨ましくて、なのはが羨ましい。こんなの忘れないとダメなのに……)
「お前ら、そういうことは他所でやりやがれ、うざったい!」
「ケッ」と悪態と共に唾を吐き出したヴィータだが、それはシャマルに咎められ、ザフィーラからゲンコツをもらうことで封殺された。
「幼児虐待だ」
とヴィータはザフィーラに恨みがましい目で睨むが、ザフィーラは泰然自若として腕を組むばかりだ。
「痛くなければ分からん。本来ならシグナムの役目なのだが我が代行した。何か文句でもあるのか?」
確かに武闘派のシグナムであれば手の一つや二つはあげるだろうが、ザフィーラの物言いも彼女と違いどこかすごみがある。ヴィータは黙るより他が無く、シャマルの「そんなんじゃスクライア君に嫌われるわよ」という言葉に拗ねてそっぽを向いた。
(本当に素直じゃないんだから……)
とシャマルは思いつつも、おそらくヴィータはまだ自分の感情がどういうものか気がついていないのだろうなと確信していた。彼女が本当に素直に自分の感情に名前を付けることが出来れば、悪態を吐く事などせず積極的に相手の懐に入ろうとするだろう。適切な距離を意識しながら、最も有効となる一撃を常に模索しつつ、最善の行動を取ることが出来るはずだ。
過激にして冷徹。
紅の鉄騎は本来ならそうあるものなのだ。
そして、シャマルはまた彼女たちの目の前で頬を染め合う二人の少年少女もまた似たようなものだと分析していた。
二人はまだ親友の立ち位置で止まっている。今が幸せに感じられる故にそれ以上歩み寄ることが出来ない。本質的に彼らは変化を恐れているとシャマルは考える。
素直になれない妹分にも、まだまだ対抗の余地は十分に残されているとシャマルは判断できるのだ。
(まあ、今はそんなことを考えている余地は無いわ。ともかく現状、どうすれば良いのかを考えないと………)
何となく思考の方向性がずれている思われる現状をシャマルはヴォルケンリッターの参謀に相応しい、どこか冷たい眼差しと感情で見回し、おもむろに空を見上げた。
(……何かしら……)
空には一面の灰色のもやが掛かっていて、星空は隠れ、月の光もまた輝きに欠けている。
その空の一角で何かが動いたように思えたのだ。
それは、闇の書が放った魔法の残滓か。それとも、何か別のものなのだろうか。
『フェイト、なのは、ユーノ。どこにいるんだい!?』
何となく思索にふけようとするシャマルの脳裏に、まるで叫び声のような衝撃が襲いかかった。
思わず耳を押さえても、本来空気を伝わって届く声ではなく、それは否応なく頭の中を駆けめぐっていく。
見るとシャマルだけではなく、今まで拗ねていたヴィータやザフィーラ。手と手を取り合って頷き合う二人と、その側でなにやら複雑な表情を浮かべている少女も同じように頭を抱えて歯を食いしばっていた。
「もしかして、アルフ? あんなに大きな念話はダメだって言ってるのに……」
フェイトは自分と彼女との間にある精神リンクを開き、彼女がものすごく心配しているということを知り、それなら仕方がないかもしれないと思った。
海鳴の一角に突然封鎖結界が出現し、その中で大規模な魔力が観測されたと知って気が気ではなかったのだろう。
このタイミングでここにこれたと言うことは、おそらく彼女はクロノやリンディの制止を振り切って急行したのだろうとフェイトは予測する。
そして、自分達が隠蔽魔法を使って姿をくらませていたこと、万難を排したフェイトがアルフとのリンクを一時的に閉じていたことが裏目に出てしまった。
「今ので、闇の書がこっちに気付いたみたいだ」
眉間を指で叩きながらようやく落ち着きを取り戻したヴィータが、憎々しげに飛来するアルフをにらみつける。
「とにかく、アルフにも隠匿魔法を……」
「いや、遅い。来るぞ!」
ユーノの提案を打ち払うようにザフィーラは鋭く言葉を発し、同時にビルの影から身体を踊り出した。
「危ない!」
なのはの悲鳴と同時にビル群の隙間から数条の光線が飛び去り、それはまっすぐに飛来するアルフに向かって恐ろしい速度を持って襲いかかる。
「させぬ!」
その光線、血塗られた赤に染まった短い投擲ナイフのような形状の魔力弾頭は、アルフに着弾する寸前にザフィーラが振るった腕によってたたき落とされた。
「あんた! 性懲りもなくまたかい!?」
目の前に現れた目の敵とも言える青い狼の巨漢にアルフは素早く腕を構え、臨戦態勢に入る。
「間違えるな、使い魔。敵はあれだ」
ザフィーラは短く答え、アルフを背中にかばうように立ちふさぎ、今度は両手を前方へと構え一枚の魔法陣を召喚した。
「我が盾を貫けると思うな!」
間髪入れずに飛来する幾重もの血塗られた魔力弾頭。
それはザフィーラが展開した盾によってはじかれ、あるいはそれに突き刺さり、所々に細かいヒビを作りながらもザフィーラはすべてを防ぎきった。
「アルフ!」
ザフィーラに遅れてフェイトはアルフの側に飛来して、自身の使い魔の無事に胸をなで下ろした。
「フェイト、無事だったんだね」
「私は大丈夫。そうじゃなかったら、アルフは今頃消えてるよ」
「そ、そりゃあそうだけどさ……」
「だけどありがとう。心配してくれて嬉しかった」
「あ、当たり前だよ。あたしはフェイトの使い魔なんだから、フェイトの心配をしないはずがないじゃないか」
自分より背の高いアルフを撫でながらフェイトはそっと微笑んだ。
「話は後。なんか、拙そうだ」
理想的な主従関係にヴィータは少し張り詰めた緊張が緩むのを感じながらも眉をきつく結びながら、油断無く構えたグラーフアイゼンで眼前に広がりつつある光景を指し示した。
ヴィータが指し示す先に広がる光景。闇の書が再び手を掲げ、前方に桃色の魔力を集束させていく。
フェイトは息を呑んだ。
あの日、海上で行った決闘において最終的に自分がどのような結末をたどったのか、震える顎がカチカチと音を立てて身をすくみ上がらせる。
「あれは、スターライト・ブレイカー!?」
なのはの声が緊迫する空に響き渡ったように思えた。
闇の書が前方に掲げた魔法陣向かって、まるで流星のごとく寄り集まっていく魔力の固まり。間違いないとユーノは判断した。
「そうみたいだね。さすがにあれを食らうと」
フェイトはバルディッシュを手に持ちながら両手で身体を抱きしめ身体の震えを押さえ込んだ。本人ですら自覚していなかったことだが、どうやらフェイトはスターライト・ブレイカーに対して一種のトラウマのようなものを持ち合わせているようだった。
ユーノはそんなフェイトのことを何となく察して、ソニックフォームでむき出しになっている彼女の肩を優しく叩いて落ち着かせた。
「もしかしてあの時のやつか。確かに、あれを食らったら真っ二つだね」
ヴィータは自慢の封鎖結界が粉砕された後の時の戦闘を思い出した。
あの時、なのはは高レベルの隠蔽魔法を使用して姿を隠し、気の緩んだこちらの間隙を付く形で桃色の波動を空へとうちはなった。
結界を貫通するのではなく、無効化するのでもなく、単純に破壊した。それがどれほどばかげた魔力によって行われたのか。
心なしかヴィータも背筋がブルッと震えた。
「一度散開するべきか」
ザフィーラの声にフェイトとユーノは強く頷いた。その威力を身をもって経験しているフェイトに、かつてヴィータ同様自分の結界を完膚無きまでに破壊されたユーノはこの中ではその恐ろしさを最も良く知る。
「ザフィーラさんとシャマルさん、それにアルフは隠蔽魔法を使って離脱してください。三人には結界の保持を最優先でお願いします。ヴィータとフェイトは、なのはをお願い。出来る限り早く、可能な限り遠くへ逃げてください」
ユーノの素早い指示に反論するものはいなかった。本来ならこの現場を掌握するべきなのは、民間協力者であるユーノではなく、嘱託魔導師であるフェイトなのだが、現状それを気にしていられる余裕はない。
「良いけど、イージスはどうするんだ?」
ヴィータは頷き、なんとか空を飛んでいられるだけのなのはの腕を捕まえて引き寄せた。
「闇の書が最初に狙うのは、この結界の起点になっている僕のはずです。だから、僕がおとりになれば、最悪の場合僕一人ですみますから」
「ちょっと待ってユーノ。さっき私に言ったのと矛盾してるよ!」
フェイトはユーノの決定に思わず声を荒げた。それではまるで、ユーノが自ら犠牲になって被害を押さえようとしているようではないかとフェイトは思い至った。
それはあまりにも不義理ではないかと彼女は思う。
「そうだね、フェイト。だけど、僕は冷静だよ。それに、この中で一番堅いのは僕だ。僕なら、距離を稼げばあの攻撃から身を守ることが出来る」
「ユーノ、待って!」
フェイトが呼びかける制止にもまともに言葉を返すことなく、ユーノは単身で翡翠の光跡を残しながら飛び立ってしまった。
「ああもう! なのはといいユーノといい、何でこう人の言うことを聞かないの?」
残されたフェイトとしては憤るばかりだ。ユーノは確かにあの時言った、『一人でつっこんでも何もならない』と。
だったら、彼の今のこの行動はいったいどういう事なのか。確かに今のユーノは先程のフェイトと違い、敵の攻撃に対して離脱の方向を選んでいる。しかし、それでも自身に攻撃を集中させて、自分自身を危険にさらしている事に変わりないではないか。
「ヴィータはなのはをお願い、私はユーノのフォローにはいるから」
フェイトはそういい残し、ヴィータとなのはが返事をするチャンスを与えることなく、飛行魔法を最大出力でロードさせ、残像さえも残さない速度で一気に加速を開始した。
突き抜ける風は身を切るほどの冷たさを持ち、速力を向上させるためにバリアジャケットをパージしてしまったフェイトの頬に高速で飛来する空気がナイフのように突き刺さっていく。
月を背負い、背後にはその光を覆い尽くすほどの大きさへと膨張しつつある桃色の太陽。闇の書の生み出したスターライト・ブレイカーの巨大スフィアがそびえ立つ。
背中から漂う莫大な魔力の高まりを感じつつも、フェイトの胸には恐れはなく、むしろ憤りのような怒りを感じていた。
空に浮かぶ飛行機雲のように漂うユーノの緑色の光跡をたどり、徐々に姿がはっきりとなってくる彼の姿。
風になびく白いマントとハニーブロンドの短い髪。
(もう少しだ)
ユーノは早くなった。リンカーコアの破損の副次的な効果によって出力が増した彼の魔力は、彼のありとあらゆる魔法行為を底上げし、かつては自分達に比べれば鈍足に思えていたその飛行速度も、今では遜色が無いほどとフェイトは感じる。
しかし、フェイトはそれを感心する以上にムカムカと腹から感情が駆け上ってくる。
(人には無理するなとか無茶はダメだとか言っておきながら、自分は平気で無理するし無茶もする)
矛盾だらけだとフェイトは思った。
そして、彼の姿がようやく捉えられ、手を伸ばせば届くところになってフェイトはさらに加速を強めた。
まるでユーノが自分に向かって来ているような感覚を味わいながら、フェイトはようやく彼の手をとらえた。
「フェイト! 何で着いてきたの!?」
急激に引き寄せられる感触にユーノは驚き、飛行の最中にもかかわらず彼は振り向いた。
「ユーノ!」
フェイトのその鋭い言葉と共にはじかれるような音が風に流されて消えていく。
ユーノの頬に残る、ジンジンとした熱。それは、自分がフェイトに頬を張られた事を如実に教えてくれていた。
「バカ!」
フェイトの表情はまるで泣いているようだとユーノは感じた。
「なのはを悲しませないでよ、ユーノ!」
頬を抜けていく風の中でもフェイトの声はユーノの耳朶に深く打ち付けられた。
「だけど、フェイト。僕は……」
「いくらユーノでも至近距離であれを食らったら無事じゃ済まないでしょう? なるべく早くなるべく遠くに逃げるには私と一緒にいる方が良い」
「そうだけどフェイトは……」
「私はユーノよりも防御力は低いよ。だけど、私にはプレシードもいる。きっと大丈夫。それよりももっと遠くに。出来るだけ距離を離さないと防御の上から食われる」
「はは、さすがに経験者は言うことが違うね」
「言わないで。なのはには内緒だけど、ちょっとトラウマみたいなのあるんだから」
翠と黄金の光跡がまるで蛍のつがいように折り重なり、互いに混じり合わせながら夜天に煌びやかな光彩を奏でる。
「行こう、ユーノ。私がフォローするから。信じて」
フェイトはそう言ってユーノの手を取り、飛行魔法の出力をさらに向上させた。
優しく引っ張られるような手の感触。自分では実現できないほどの速力を感じ、ユーノは目を伏せた。
「やっぱり、フェイトは速いね。僕じゃ君に追いつけないよ」
「だけど、ユーノは私より堅い。私じゃ、貴方みたいにみんなを守ることは出来ない」
「僕は、みんなの盾だ」
「だったら、私はみんなの翼になる」
「一緒だね」
「一緒だ」
「分かった、行こうフェイト。なるべく遠くに任せるよ」
「了解。行くよ!」
フェイトはそう言って一気に飛行魔法の出力を最大へと引き上げた。
段階的に引き上げられる加速力にユーノは一瞬間接が引っ張られ、その苦痛に少しだけ歯を食いしばった。
「大丈夫?」
「大丈夫、もっと速く!」
拡大する桃色の太陽はその輝きで世界を照らし尽くし、その魔力の固まりは今にも激発されそうな様相を示す。
まだ近い。
フェイトは重いユーノの身体を賢明に引っ張りながら、限界まで方向制御を切り詰めながらただ速く、ただ遠くと願いながら、追従する光跡を拡大させる。
もっと遠くに。
まるで肌を焦がす熱気のような魔力が背中を覆い尽くすように迫ってくるようだとフェイトは感じていた。
「フェイト! 前、誰かいる!」
突然耳朶にたたきつけられたユーノの声に、フェイトは一瞬言葉と思考を遮られた。
《Sir. There is the reaction of the private citizen within the range of 150 maters of front》(主、前方150メートルに民間人の反応があります)
「まさか、取り残された人が? そんなはずは……」
ユーノは狼狽じみた声を発した。つい先程ユーノが展開した結界は確かにこの領域から自分が認知する人間以外をすべて排除したはずだ。実際、このフィールドにはユーノやなのはをのぞいた民間人は存在してない。それでも、バルディッシュが言う民間人が取り残されているとすれば。
ユーノは巻き込んでしまった事となる。
「どうする? ユーノ」
とにかく速度を落とさずフェイトはユーノに問いかける。
「とにかく、何とか保護しないと。フェイト、このあたりでおろして!」
闇の書が放つ魔法は、自分達が普段扱うような人体や物体に損害を与え無いような類ではないはずだ。
直撃すれば、リンカーコアはおろか命がもぎ取られる。
自分達はバリアジャケットや魔法の防御が存在するが、それらのない地球現住の民間人であれば、確実に死亡する。
「うん、分かった」
死なせてはならない。
フェイトの手から自分の手を柔らかく離し、飛行ベクトルを減速力の方向へとシフトさせつつ足下に展開したフローターフィールドを地面にたたきつけながら、数十メートル地面を擦りながら停止した。
上を見上げれば、空中で円軌道を取りつつ減速して背の高い街灯の頂上に足をおろした。
高い位置から見える風景には何も動きがないように見える。フェイトはもう一度バルディッシュに探査魔法をロードさせ、保護するべき人物を捜し続ける。
魔法技術による探査は魔力を検出することに特化している。故に、魔力を持たない対象への探査は精度が劣る。
フェイトは小さく舌を鳴らし、必死に闇に目をこらした。この近くにいることは確かだ。焦る気持ちばかりがわいてくる。
「フェイト、前方50メートル、反応二つ。そのビルの影だ」
ユーノの鋭い声にフェイトは素早く面を向けた。ユーノの探査能力はその範囲と精度に関して群を抜いている。
ユーノが向ける指の先、こちらの挙動に気がついたのか、彼の言ったビルの影から駆け出る二つの人影がはっきりと見えた。
遠目と夜目でその姿を鮮明に伺うことは出来ないが、その背丈は自分達とほとんど変わらず、その身の繰りはひょっとして女の子なのではないかとフェイトは感じた。
「申し訳ありません。ここは危険です、すぐに私達の保護に入ってください」
フェイトは逃れようとする二人を引き留めるため、街灯の頂上からコンクリートの地面に降り立ち必死に声を張り上げた。
「僕たちはあなた方に危害は加えません。とにかく、落ち着いてください」
ユーノの制止の声も、フェイトの少し後方からはっきりと響き渡る。
ユーノとフェイト。ビルの谷間に響く高く朗らかな声に、二つの影は、まるで恐ろしいものを見たようなそぶりで立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り向いたように思えた。
「この声……」
「まさか……ユーノ君とフェイトちゃん?」
それは、聞き慣れた声だった。
二人はゆるゆると、まるで風になびく柳のような足取りで進み出て、まるで夜の闇にあいた虫食い穴のような街灯の光の下に姿を示した。
「アリサ……すずか……」
ユーノとフェイトの声が重なった。
そして、ユーノはこのときになって初めて自分のミスに思い当たる事が出来た。
あのとき、闇の書の攻撃が迫る事にあまりにも急ぎすぎて、彼は内部に残す人物の選定を闇の書の関係者と自分の仲間という、考えれば曖昧な判断で行ってしまった。
自分の仲間。なのはとフェイトだけではなく、無意識のうちに結界の範囲内にいた、彼が仲間だと思う人物さえも内部に残すように選択してしまった。
ユーノは無意識でさえもこの二人、アリサとすずかを仲間だと思っている。
ユーノはとても複雑な感情を持て余していた。
しかし、今はそんなことに気を向けている暇はない。ミスの精算をしなければならない。全力で二人を守らなければならない。
「フェイト、時間がない。二人のフォローをお願い。砲撃は僕が防ぐ」
闇の書との距離は1000メートルは開いているだろうか。それでも、あの規模の魔力とスターライト・ブレイカーの特性から言えば、何とか防御できるかもしれないといったところだろうかとフェイトは判断し、素早く頷くと未だ驚愕の眼差しを自分達に向けている二人の友人、アリサとすずかの前に歩み寄った。
「ごめん、二人とも。少しだけじっとしてて」
フェイトはせめて防御力を向上させるために、今までソニックフォームだったバリアジャケットをもとのライトニングフォームに戻した。
「後で、ちゃんと話を聞かせてもらうわよ」
「うん、分かってる」
アリサの毅然とした声にフェイトは頷き、アルフと共にユーノから習った魔法、特定の範囲を半球で覆い、外部の攻撃から身を守る結界、【ラウンド・ガーダー】を展開し、二人を包み込んだ。
「こっちは大丈夫だよ、ユーノ」
フェイトは上手く展開できた魔法にひとまず胸をなで下ろし、自分を彼女たちと桃色の太陽の間に挟むように位置を取り、バルディッシュをしっかりと握りしめて構えた。
「分かった。こっちは僕に任せて」
ユーノは背後から届くフェイトの声に、背中で頷き、一度深く息を吸い込んで吐き出した。
「行くよ、ジェイド」
ユーノは腕に回されている銀の腕輪をそっと撫でた。
ユーノの手首を覆うように身につけられた銀色の腕輪、ジェイド・ブロッサム(翡翠の蕾)。リンカーコアが損傷し、副次的に出力が上がり不安定となったユーノの魔力出力を安定化させる道具。
それこそがアリシアがユーノに送ったクリスマスプレゼントだった。
インテリジェント・デバイスではなく、ストレージ・デバイスとも異なる。簡易デバイスと言うにもその構造はあまりにも単純な要素。
電子パーツで言えばただの安定化電源ともいえるそれは、その構造の単純さ故に即応性はあらゆるデバイスを凌駕し、ユーノにとって邪魔とも思えるデバイス的な魔力制御機能も搭載されていない。
答えの返す機能を持たないジェイド・ブロッサムにユーノは僅かに微笑み、そしてキッと表情を引き締め、両腕を正面に掲げた。
桃色の魔力の固まり向かって堂々と腕を広げて立ち向かうユーノの姿。その背中にフェイトは守られていると感じ、心なしか頬に笑みが広がるように感じた。
「バルディッシュ、プレシード、ディフェンサーをフルパワーで展開」
《Yes,sir》
《OK,sister》
フェイトをサポートする二機のデバイスの音声が重なり、バルディッシュは自らジョイントカバーをスライドさせ、二発のカートリッジを激発させた。
訓練以外で久しく感じる感覚。
自分のものではない莫大な魔力が自分のリンカーコアに適合した形で供給される。
まるでリンカーコアが空気の入れられた風船のように肥大化する感覚が胸を駆け上ってくる。
正直フェイトはこの感覚を好きになれない。
桃色の魔力スフィアが激発される衝撃が、色彩のない波動として大気を揺るがし拡大する。
魔力が一気に解放される予兆に過ぎない衝撃でさえ、ユーノの身体に後ずさりする程の圧力を掛ける。
ユーノは細く息を吸い込み、そして織り込まれた魔力を拡大させ、回転させ織り込む。
闇の書がその拳をスフィアにたたきつけ、膨大な魔力の奔流が砲弾となって放たれ、それはユーノ達の前方300メートルほどに着弾した。
着弾と共に広がる半球の魔力衝撃面がユーノの網膜に焼き付けられる。それは、なのはのスターライト・ブレイカーとは違う。
(そうか、闇の書の特性は放出と拡散。スターライト・ブレイカーも広域攻撃なるんだ。だったら、エネルギー密度と魔力流束はなのはのよりも薄いはずだ)
いけるとユーノは確信確信した。
そして、ユーノは練り込み織り込んだ魔法のシーケンスを最後の言葉によって解放させる。
「ラウンドシールド=マルチレイヤー・クローズ」
ユーノの腕の先に出現する翡翠の盾。
それはいつもと変わらない、極めて緻密に練り込まれた盾。
生み出される一枚の防壁、そしてそれに続いて展開されるもう一枚の防壁、そしてさらに重なり、さらにもう一枚が眼前に出現する。
計四枚。四つのラウンドシールドが折り重なった、ユーノの切り札。
(我が城壁を越える者なし)
フェイトはその光景に息を呑み、そして確かにその声を聞いた。それは、果たして誰の言葉だったのだろうか、ユーノの声か、それとも声を持たないジェイド・ブロッサムの意識なのか。
『来た!』
拡大する桃色の魔力。その衝撃面が目の前に迫り、グングン、グングンとけして速いとはいえない速度で迫り来る。そして、それは、二人の防御壁に接触し、莫大な魔力圧が世界を振るわせた。
ユーノの魔力防壁に阻まれて拡散する桃色の衝撃の一部がフェイトのディフェンサーに接触し、所詮それは減衰したただの衝撃の残滓であるにも関わらず、バルディッシュとプレシードはフェイトに危険警告を発していた。
桃色の激流が視界を覆い尽くす。ミシミシという幻聴が聞こえそうな防御面がガタガタと震えて、その振動は今にも防御の崩壊を引き起こしそうな予感を与える。
今、一つでも障壁にヒビが入れば、この振動はすぐさまそれを拡大され、自分は自ずとこの激流に飲まれて藻屑となるだろう。
それでも、自分よりも圧倒的に強力な圧力に曝されるユーノの障壁は、その第一層が崩壊を始めているとしても、それはまだ自身を頑全に保持し続ける。
そして、背後には半球の防御障壁に囲まれた二人の友人。
アリサとすずかの怯えたような、不安をはらんだ視線が背中に突き刺さる。
負けられないとフェイトは思う。そして、突然脳裏に響いた声にフェイトは思わず声を漏らした。
『やっと繋がった。ユーノ君、フェイトちゃん、みんな無事?』
それは、ようやく届いた、姉のような女性からの通信だった。やっと、来てくれたとフェイトはまるで肩から荷が下りたような感覚にとらわれ、何かよく分からない複雑な感情が体中を駆けめぐる。
『無事といえば無事なんだけど……』
姿が見えないにもかかわらず、彼女、エイミィの声はなぜか自分を安心させてくれる。
アリシアとは異なる姉の感触にフェイトは「ハァ」と息を吐いた。
『こっちはやっと即応体制が解除され臨戦態勢になったところ。ともかく、闇の書が発動したってことで大丈夫?』
おそらくアースラにとって情報不足のまっただ中なのだろう。シャマルによって展開されていた隠蔽魔法と通信阻害の魔法が晴れた瞬間、海鳴の中心から莫大な魔力が発動し、それは間髪を入れずに広域に展開されたユーノの封鎖結界によって再び遮断されることとなる。
これで外部がこの状況をつぶさに認識していたとすれば、それはいかなる超能力を使用したかと思うほどだろう。
『ごめんなさい。力不足だった』
フェイトは歯を食いしばり、今にも崩壊をし始めそうなディフェンサーに魔力を送り込む。ユーノの盾と違い、フェイトの障壁は魔力量の高さにものを言わせたものだ。
フェイトの多大な魔力を受けて頑強に保持される盾は、まるでフェイトの意地を示すように、背後のアリサとすずかを守り続ける。
『責任は私達の対応の遅れにあるわ。とにかく、今は闇の書の被害を拡大させないことを最優先に。クロノは別件で行動中だから、しばらくは応援に向かわせられないの。何とかそちらで対応できるかしら?』
リンディの声もフェイトとユーノの脳裏に響いた。
クロノはまだこちらに向かっていない。別件とはいったい何なのか、それはフェイトにもユーノにも判断できないことだったが、リンディの判断は常に”正しい”。故に、二人はそのクロノも自分達を援護するために頑張っているのだと自身を納得させた。
『ヴォルケンリッターの協力も得ていますから何とかしてみます。それよりも、僕のミスで結界の中にアリサとすずかが取り残されているんです。アースラで何とか対応できませんか?』
全力で攻撃を受け続けるユーノでは、アリサとすずかの転送の準備をすることはかなわない。闇の書の攻撃が止んだとしても、あれがユーノの転送を待ってくれるとは思えない。
『了解。今は攻撃でノイズが酷すぎるから、止み次第すぐに対応するよ』
これで二人は大丈夫だとユーノは一つの懸念が解消され、ホッと息を付いた。
広域攻撃に変化したスターライト・ブレイカーの奔流の流速と密度が徐々に弱まってきている。
すでにユーノのラウンドシールドも二層を突破され三層目に細かい傷がつき始めている。
出力が向上したとはいえ、フェイトのように魔力を補填して強度を確保するほどの余裕も無く、カートリッジによる魔力供給の手段もない。それでも、何とかユーノの障壁は二層を残して闇の書の攻撃を防ぎきった。
世界に再び暗がりが戻った。
砲撃に威力によって半壊した建物が、爆風の戻り風によって粉塵をまき散らし、フェイトは一瞬ユーノの姿を見失う。
フェイトはディフェンサーの構成に終了のシーケンスを流し込み、魔力を霧散させ、次いで振り向いてアリサとすずかを覆うラウンドシールドの半球結界も消失させる。
「本当にフェイトちゃんだったんだ」
アリサの腕にすがりついてフェイトを見つめるすずかの眼差しはおびえが混じっていた。それでもはっきりとした声を出すことの出来るすずかをフェイトは強いと思った。
「うん……ごめん……」
自分が何に謝っているのか、フェイトには理解できなかった。しかし、二人に隠し事をしていたのは確かなことだ。対象の見えない申し訳なさにフェイトはただごめんと繰り返す。
「終わったら、話してもらうわよ。何もかも」
アリサの声が転送の光に混じって届いてくる。フェイトはただ頷き、アリサとすずかの姿が輝く粒子になって消え去るまで彼女たちを見送っていた。
「とうとう知られちゃったね、フェイト。すずかはともかく、アリサは後が怖いなぁ」
コンクリートの粉塵の霧が晴れ、ユーノはフェイトの隣に歩み寄ってなんとなしに頬をかく。
こんなところでもユーノはアリサが苦手なのかとフェイトはクスッと声を漏らし、どことなくホッとした表情を浮かべるユーノにほほえみかけた。
「失敗だったね、ユーノ。だけど、私は何となく安心してるんだ。肩の荷が下りたというか、もう二人に隠し事をしなくても良いって思うと、ね」
「そうだね、フェイト。僕もなのはもたぶん同じ気持ちだよ。友達に隠し事をするのは、やっぱり辛いね」
二人は何となくアリサとすずかが消えた空に目を剥け、そっと微笑んだ。
あの二人は結界を維持しているシャマルとザフィーラ、そしてアルフの護衛が付き、手厚く保護される事となっている。
あの三人に任せれば大丈夫だとユーノは振り向いて空に浮かぶ災いの禍根を見上げた。
空に浮かぶ闇の書の少女。
必殺に相応しいスターライト・ブレイカーを防がれて次はどのような行動を選択するのか。
『闇の書接近! 二人とも気をつけて』
エイミィの声が届く。遙か彼方の空に浮かぶ闇の書の少女が月よりも小さくたたずんでいる。
その赤い双眸に見つめられ酷く居心地が悪い。魔力の残滓と熱せられた大気の陽炎、そして、街中から立ち上っていると錯覚しそうな程の多量の粉塵がまるで雲のように濁った星空を覆い、彼女の姿は鮮明に見えない。
それでも、二人は彼女から見つめられていると感じることが出来た。
『ユーノ君、フェイトさん。現在、発動した闇の書を最重要対象と認定し、二人に交戦許可を与えます。具体的な対策は現在検討中、アースラの体制が整うまで二人は現状維持を最優先に。とにかく闇の書を結界の外に出さないように』
「スクライア、了解!」
「テスタロッサも了解しました」
闇の書の少女の姿が次第に鮮明になっていく。先程までは月の光に身を隠していたそれは、今では月の姿を覆い隠し、まるで背後に光を背負う破壊の天使のように見えてしまう。
銀色の長髪、真っ赤な両の眼、背には黒い三対の翼はまさに古代ベルカの告死天使(ザフィアル)だ。
『全力でサポートをします。二人とも、無事に戻ってきなさい』
リンディの声が消えた。彼女の姿は見えない。それは遙か空の上、最も月に近い衛生軌道上にいる彼女たちの温もりもどこにもない。
それでも、ユーノとフェイトはいずれ自分達の母親になるかもしれない女性の温もりを背中に感じていた。
とても、背中が温かい。
近づいてくる闇の書の少女。彼女の姿がその表情を伺えるほど近くなる。
ユーノは荒く胸を打つ鼓動をなだめるように少し息を吐き出して目を閉じ、念話の回線をヴィータへと繋いだ。
『イージスか? なのはは無事だよ。こっちからはそっちがよく見えないけど、大丈夫?』
なぜか焦ったようにまくし上げるヴィータにユーノはやれやれと思いながら用件だけを伝える。
『これから闇の書と一戦交えるから、結界の起点だけ僕に残して構成の維持を頼んでもいい?』
『……分かった、後ろは任せろ……しっかりな』
ヴィータもユーノの要請に簡潔に応じ、ユーノがゆるめた結界の構成を補うようにその上からヴィータの魔力がかぶせられるように全域に広がっていった。
がさつに思えて彼女は繊細だとユーノは思い、最後に隣に経つフェイトへと目を向けた。
ユーノの視線を感じたフェイトも彼に目を向ける。
互いが互いに落ち着いているなと思った。
フェイトから見るユーノの眼ははっきりとした意識が宿っているように思え、ユーノから見たフェイトの眼差しにも不安げな光は伺えない。
何となく、安心するとフェイトは思った。
「こうやって二人だけっていうのは初めだね、フェイト」
少し向こうの空で闇の書が減速をかけたようだ。
フェイトはその姿を見ながらユーノの呟きに答えた。
「うん。そういえばそうだ。なのはにはちょっと悪いけど」
自分とユーノの関係とはいったいどういうものなのだろうかとフェイトはまた考えた。
「合わせられる?」
なのはのようなパートナーではない、クロノのようなナンセンスな冗談を言い合えるような仲でもない。ヴィータのような、どこかライバルじみた間柄でもなければ、リンディやエイミィ、そしてアリシアのような一歩引いて見守る関係にしては距離が近すぎる。
「大丈夫だよ、だって――」
フェイトはそう言って横目でユーノの表情を伺う。彼は先程と変わらない、ただ一心に向かってくる闇の書の少女に視線を傾け、迫り来る激震に手を震わせているだけだ。
「――兄妹みたいなもの、でしょう? 私達」
ふわりと舞い上がった一陣の鋭い風がその言葉をさらっていった。