魔法少女リリカルなのは~Nameless Ghost~ 作:柳沢紀雪
気温と湿度が一定に保たれ、照明さえも暗く落とされた無重力空間はそこに漂う者に安らぎを与えはしない。
ただ静かに、時折書籍検索のための簡易デバイスが機械的な音を立てて動く以外には何の音もない空間だ。
莫大な広さと深さを持つ円筒の外郭に据え付けられる本棚。そのちょうど中心あたりに円環状に鎮座する巨大なサーバーマシン。
いったい、この空間にはどれほどの書物が埋葬されているのか。そもそも、この書庫はいったいどれほどの広さを持つのか。
無限の名を持つ通り、その姿はクラインのツボのごとく無限に空間を内包しているのか。それとも、人の感覚にして無限に近似できるほどの広さを持つ有限な空間なのか。
隣接する本局施設とは異なり、書物の保全のために人工的な重力を発生させていない空間は人間が生きる場所としては作られていない。
この世界に住まう物は書物であり、情報であり、人という要素はそれよりも優先度は低く設定されている。
(そう考えると、人間って言うのはつくづく進化がないよね)
人は重力がなければ生きていけない。太陽の光がなければ身体に異常を来す。生殖機能や呼吸機能にも支障を来し、果てには重力ある空間に戻れば立って歩けなくなるほど衰弱してしまう。
次元航行の開闢時代を遙かに過去のものとして繁栄の頂点にあるこの世界においても、人々はわざわざ貴重なエネルギーを消費して擬似的な重力と自然光に近い照明サイクルを構築しなければならないのだ。
(人間は宇宙や次元空間で生きるようには出来ていない……か)
いつかリンディと語り合ったことを再び思い出し、アリシアは人のあり方そのものを嘲笑するかのようにそっと口の端を持ち上げた。
無限書庫には重力がない、自然光もない、サーカディアンリズムを整えるための照明サイクルも存在しない。それならば、まるでここは次元空間そのものだと感じるのも無理はないことだ。
アリシアはまるでモニュメントのように備えられたサーバーマシンのてっぺんに腰を下ろしながらひっきりなしに開いては閉じるコンソールを眺め回し、足を組んでため息をついた。
「やっぱり、永久凍結しか方法はないのかな」
アリシアはレモン味の禁煙パイポを口から外し、吐息とともに酸味の強い蒸気を吐き出した。
可燃物の多い書庫で火を扱うことは厳禁だ。さらに言えば、空調の関係から貴重な酸素を燃やしてしまうわけにもいかない。
それでも今のアリシアはリスクを冒してまでタバコに逃げたい思いだった。
「結局、すべてが予定調和なんだったら、私がここにいる意味なんてないよね」
答えはすでに用意されていた。闇の書の永久凍結。何者かが11年前から持続的に計画していたことを、自分はただ跡をたどっただけに過ぎない。
それを超える解決策は無く、唯一の可能性も成功する確率が一切分からないのであれば、それは縋るに値しないことだ。
0か1か。成功すれば60億の人類が助かる。しかし、失敗すれば60億の人類を死なせることにもなりかねない。
成功する確証の得られないことにそれだけの人命を賭けるわけにはいかない。
(グレアム提督に託したデータが有効に活用されれば良いんだけど)
聖王崩御の鎮魂祭の日。双子の月が天窓を彩っていた礼拝堂でアリシアが残していったメモリーチップには、闇の書の永久凍結に関する概要とそれに必要なもの、考えられる具体的な作戦内容やその問題について、アリシアが考えられることすべてが記載されている。
仮にリンディがこの計画の黒幕であるのなら、グレアムというリンディの実質的な上官の存在がおそらくは重要なファクターになるだろうという考えだった。
そして、それに加え、アリシアはベルディナの記憶から導かれる確たる証拠の提示できない案をも記載していた。
闇の書の前身、夜天の魔導書が兵器として生まれ変わった場所。古代ベルカの首都、ゼファード・フェイリアであれば、壊れてしまった夜天の魔導書を正常化する方法が残されているかもしれないということ。
だがそのための前提条件は、安全な形で闇の書を拿捕することだった。
「それが出来たら苦労しないよね」
アリシアは自嘲してモニターを閉じた。
(もう、ここで私が出来ることはないか……)
アリシアはそう思い浮かべながらモニュメントから腰を上げ、そっと無重力空間へと身をゆだねた。
緩い回転とともに漂っていく身体。アリシアはそっと目を閉じてその感覚を味わうように口を閉ざす。
最初にクロノが提示した期限まではあと数日。しかし、あと数日会ったとしても現状の課題をクリアする妙案が得られる可能性は低く、例えどのような案を提示したところ、現状では闇の書の永久凍結を超えるだけの良案が得られるとは考えられなかった。
管理局の法制上、永久凍結の案は違法すれすれといっても過言ではない。
しかし、最小の犠牲によって何十億の人命を救うことが出来る案としてはこれ以上にないことでもある。例え、その猶予が50年から100年程度であっても、その間世界は闇の書の驚異から解放される。
人々が求める物は法的な正義ではなく、日々の安息。しかし、人々に与えられる安息は法の正義の下にもたらされた物である必要もある。
「悩むだけ時間の無駄ってことかな……」
「何が無駄なの?」
「うん?」
アリシアは閉じていた目を開いた。自分以外の声がこの場所で聞こえるわけがない。少し前までは相棒として所持していたプレシードも今となってはここにはいないのだ。
「おはよう、お姉ちゃん」
「フェイト。どうやってここに入ったの?」
少しだけ襲いかかってきていた眠気を覚ますようにアリシアは目をこすり、自分に寄り添うように宙に浮いている妹、フェイトに問いかけた。
「えーっと、普通に入れたよ?」
フェイトはクリッとした赤い瞳を瞬かせ、小首をかしげた。
そんなはずはないとアリシアは思うが、自分とフェイトの関連性を考慮すればそれもあり得るかと思い至る。
一般的な双子はDNA以外の個人認証パターンは割と異なるらしい。しかし、自分達はそれどころの話ではなく、プレシアが人為的に様々な部分を同じにしているはずだ。
だから、現状の無限書庫の個人認証システムのレベル程度ではアリシアとフェイトを識別することが出来なかったのかもしれないとアリシアは判断する。
無限書庫は情報の墓場だ。莫大な情報が眠っているにもかかわらず、その開拓時代以降それらを有効活用できた実績は存在しない。そんな場所に比較的高価に分類される高レベルの個人認証システムが設置されることは無かった様子だ。
アリシアは、まだ不思議そうにしているフェイトの手を取り、身体の回転を止めた。
「今日は本局に用事があったんだ」
フェイトは飛行魔法を使ってアリシアは中央のモニュメントに腰掛けさせ、自分もその隣に腰を下ろした。
「うん。今日はデバイスの調整とユーノの検診があったから」
「そう。ユーノは元気にしてた?」
「なのはと一緒に元気に飛び回ってるよ」
それは良かったとアリシアはホッと一息ついた。
ユーノは先の戦闘でリンカーコアに重傷を負った。
適合しない多大な魔力を直接リンカーコアに打ち付けられてしまった。
ユーノのリンカーコアはヒビが入っており、現在の管理局の技術力ではリンカーコアを直接治療することは出来ない。リンカーコアの負傷は魔導師にとっては心臓を患うことと同じことだ。リンカーコアが完全に破損してしまえば魔法を扱うことが出来なくなる。魔法を使えない魔導師はすでに魔導師ではない。
ユーノの場合はまだそこまでの重傷ではなかったが、魔導師としての寿命が確実に縮んだことは確かだ。
しかし、幸いもあった。
ヒビが入ったリンカーコアはそのヒビから魔力が漏れ出すようになったらしい。それだけではデメリットに思えるかもしれないが、その漏れ出した魔力を有効活用することが出来れば、ユーノの魔力の出力は爆発的に高まるだろうと言われている。
しかし、爆発的に高まった魔力出力は同時にそれまでユーノの強みであった術式構成の緻密さとストレージデバイスに匹敵するほどの高速詠唱を阻害している。
「いろいろ課題は多いみたいだけど、何とかやっていけるって言ってたよ」
フェイトは連れだって医務練に消えていった二人の親友を思いながら、少し寂しそうな笑みを浮かべる。
二人の意図は理解している。自分たちのことで時間を使わせたくないという思いやりと、ここ最近まともに話も出来ていない姉と会わせてあげたいというお節介なのだろう。
しかし、それでもまるで一緒に行くのが当たり前のように立ち去った二人の絆を見せられれば、何となく嫉妬を覚えてしまいそうになる。
初めての親友を取っていったユーノなのか、はたまた近い将来の兄妹を取っていったなのはなのか。
「そう、それは、何よりだね」
アリシアの表情が僅かにかげったことにフェイトは気がついた。
アリシアは身内に甘い、その中でも特にユーノのことになるとアリシアは過敏になる。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんのプレゼントのおかげで全く問題ないみたいだから。私もなのはも、助かってるから……」
フェイトは飛行魔法の行使のため手に握る二つのデバイスにそっと目を落とした。
金のエンブレムのバルディッシュ、そして、黒光りするエンブレム、バルディッシュ・プレシード。
アリシアからフェイトに送られたクリスマスプレゼントがそれだった。
「プレシードの調子はどう? 結構、生意気だから扱いにくいかもって心配してたんだけど」
《あなたほどではありませんよ、エルダー・シスター》
フェイトの掌からどこか憮然としたような合成音が響いた。
フェイトは、いきなりのことに驚き「ひゃっ!」と可愛らしい悲鳴を上げた。
「元マスターに対して失礼なデバイスだね、プレシードは。少しレイジングハートに毒されたのかな?」
《私なりに考えたあなたとのコミュニケーションの取り方です。下手に反論するよりも皮肉を返した方が円滑な会話が実現できるとレイジングハート卿からお言葉もいただいておりますが》
「まったく、あの石ころは、妹のデバイスに何を教えているのやら。バルディッシュもまさかそんな風になってないよね?」
プレシードの思わぬ成長に少しだけ面白さを感じながらも表面では「困ったやつだ」と嘆きながら、アリシアも確認がてらバルディッシュにも水を向けておいた。
《……》
しかし、フェイトの掌の上でプレシードの隣に位置するバルディッシュからはこれといった反応が返ってこない。
あきれて物がいえないのか、自分は会話に入る気がないのか。
フェイトのことを誰よりも思っておきながら、そういった寡黙さを持つバルディッシュに男気を感じながらアリシアはフウとため息をついた。
「ねえ、お姉ちゃん」
フェイトが少し低い声で問いかけた。ささやきに近いその声にアリシアは、うん、とフェイトの掌から顔を上げた。
無限書庫の暗がりが少し深くなったような気がした。フェイトはうつむいて握りしめた手を見つめるばかりでその表情がどのような物なのかをアリシアは察することが出来ない。
悲しい表情をしているのだろうかとアリシアは思う。それなら、頭を撫でてやりたいとも思うが、なぜか、アリシアはそれが出来なかった。
今は、黙ってフェイトの言葉を聞くべきだ。アリシアは何となくそう感じて口を閉ざした。
「お姉ちゃんは、どうしてプレシードを私にくれたの?」
空気の流れを作り出す人工的な涼風に乗せられ、フェイトの言葉がアリシアの耳に確かに届いた。
そのことか、とアリシアは声に出さずつぶやいた。
「そんなにたいした理由じゃないよ。今の私にはこれがあるから、プレシードがそれほど必要じゃなくなったんだ」
アリシアは懐から一枚のプレートを取り出した。それは灰色の金属板で、その大きさはクロノが持つS2Uの待機状態の姿とほとんど変わらない。つまり、それはアリシアが無限書庫を整備する際に技術部に作らせたデバイスだということが分かる。
「それは?」
しかし、フェイトはアリシアがプレシードに変わるデバイスを手に入れたことを初めて聞いた。
「無限書庫統括ユニット<タグボード>だよ。といってもこれは、ただの簡易デバイスで、情報を扱う以外に使い道はないけどね」
アリシアはそれを指でいじりながらそっと懐に戻し、腰掛けているサーバーシステムを軽くたたきながら、「タグボードはこれに直結されていて、<ザントマン>と<ホークアイ>からの情報を処理することが出来る」と説明を続けた。
ザントマンとホークアイ、それぞれがアリシアが技術部に依頼して無限書庫に配備した速読と書籍探索に特化した簡易デバイスである。
それにより、アリシアは初期に行っていたようにプレシードのカートリッジを集中運用して、無理矢理速読魔法と検索魔法を使用する必要が無くなった。
そのため、プレシードを使用していた頃と違い、それほど頻繁に休憩を取る必要が無くなったため、ますますフェイト達を始め、アースラチームと直接顔を合わせる機会が減ってしまったのだが。
閑話休題
フェイトは、自分の知らないところでアリシアが色々なことをやっていることに感心を覚えた。
「だから、プレシードにとって有効活用されない私のところにいるよりもフェイトのところにいたほうが良いと思ったんだ……それに……」
アリシアはさらに言葉を続ける。
プレシードを有効活用することは確かに重要なことだったが、アリシアにとってそれは最優先されることではなかった。
「それに?」
フェイトの問い返しにアリシアはフッと微笑み、腕をいっぱいに伸ばしてフェイトの髪にふれた。
「速度を重視するあまり守ることを捨てようとする馬鹿な妹を側で守って欲しかったからね。それが一番の理由だよ」
「あっ……」
アリシアは知っていたのだとフェイトは気がついた。
「確かに、敵は強い。フェイトがこだわっているあの剣士――シグナムだったかな? 確かに強い彼女に勝つためにはそれも必要なんだと思う。だけどね、フェイト」
アリシアはフェイトの髪から手を離し、微笑みを消し、表情を引き締めた。
「はい……」
怖いとフェイトは思った。しかし、恐怖は浮かんでこない。
「いくら勝つためだといっても、命を賭けちゃダメだ。フェイトの命だけで物事が解決するわけじゃないし、誰もそんなことをフェイトに求めてない。自己犠牲精神はとても尊くて賞賛されるべきことなんだろうけど……もしもそれでフェイトが命を落としたら私はフェイトを許さない。絶対に許さない。これだけは覚えておいて」
我ながら過保護だとアリシアは思う。しかし、彼、ベルディナはそれを望みながらかなえることが出来なかった。
同じことは繰り返さない。戦場で守ることが出来ないのなら、せめてそれが出来る物を与えておきたい。
身内を失う覚悟は出来ている。彼らが自ら望んで戦場に赴き、誇りを持って命を捨てたのなら、おそらく自分はそれを賞賛するだろうとアリシアは自覚している。
そういって多くの者を死地に追いやり、そして自分も多くの者を手にかけてきた自分が今更こんなことを思うのは傲慢なのだろうとアリシアも理解していた。
それでも、とアリシアは思う。
「私は、みんなに生きていて欲しい」
アリシアはフェイトの手を取った。
「うん……私は、絶対に死なない。生きて帰ってくるよ」
自分は守られている。フェイトはそれをしっかりと心に刻みつけ、アリシアの小さな手を両手で強く握りしめた。
「痛いよ、フェイト」
「ごめん、お姉ちゃん。だけど、もうちょっとだけ……」
「仕方がないね」
誓いは立てられた、そしてそれは伝わった。
(後は、訪れる結果を受け入れるだけ)
アリシアは終わる世界に思いをはせ、無限書庫のすべての機能を眠りにつかせた。