八つの房を虚ろの淵に-Fate/Phantasmagoria-   作:広野

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明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
……旧正月で考えればまだ正月ちょっと過ぎくらいなのでセーフセーフ(震え声)


第四話 袖振り合うも

 虎蔵の巻き起こした嵐の余波は、思いがけない場所にまで波及していた。

 

 激戦の舞台となった倉庫街から離れた路地。

 薄暗い闇の中を巨大な芋虫が這いまわっていた。いや、実際には人が地面をゆっくりと這いずっている。

 ただ、動きが余りにも緩慢で、匍匐前進で進む姿が余計に芋虫を連想させる。

 

 それはバーサーカーのマスター、間桐雁夜の見るも無残な成れの果てだった。

 爛れた皮膚が引き裂かれ、内側の破裂した血管からは絶え間なく血が流れ出している。

 半死半生どころか、死んでいなければおかしい程の傷を負いながらも、まだ生き長らえているのは元凶たる刻印虫のおかげなのだから皮肉としか言い様がない。

 

 バーサーカーからの苛烈な魔力要求に刻印虫が必死に応えた結果、雁夜は指先一つすらまともに動かせないほど消耗していた。

 マンホールの蓋をずらし、下水道から這い上がるまでが限界だった。

 すでに倉庫街での激闘が終わってから数時間も経過しているというのに、未だ地べたから起き上がれないのが確たる証拠だろう。

 

 バーサーカーへの魔力供給は、雁夜の想像以上に、いや想像を絶する苦痛を彼に与えた。

 内側から虫どもに貪り食われ、自分が削り取られていく激痛と恐怖は筆舌に尽くしがたいものだったが、それでも雁夜は耐えぬいたのだ。

 

 そしてあの憎々しい遠坂時臣のサーヴァントを撤退させ、他の魔術師にも一泡吹かせてやった。この世のものとは思えない痛みに耐えた十分な報酬といえる。

 

 そこまでは良かった。

 だが、そこから先が不味かった。

 暴走したバーサーカーがセイバーに襲いかかり、不必要な消耗を雁夜は強いられる羽目になる。

 

 とはいえ、それだけなら。

 それだけならば、ぎりぎりの所だが限界一歩手前で終わっていた。

 しかし突如乱入した黒尽くめの男との戦闘。これが雁夜に止めを刺した。

 激しい戦闘と、黒尽くめからの手痛い一撃。挙句にライダーの戦車に轢かれるというオチまで付く始末。

 

 バーサーカーが受けたダメージも大きかったが、何より無計画に魔力を搾り取られた雁夜の肉体の損耗は危険域に達している。

 

(まだ、だ……こんな所で……俺は死ねない。臓硯を……時臣を……殺して。桜を……あの蟲蔵の闇から……救い出すまで……俺は)

 

 俺は死なない。死ぬことは許されない。

 

 蝋燭が最後に一際強く燃えるように、雁夜の精神は仄暗い歪んだ炎を煌々と燃え立たせていた。

 けれども、すでに精神の強さではどうにもならないレベルで壊れていた肉体は、意に反してぴくりとも動かない。

 

 もがき、足掻き続けても結果は変わらず。ゆっくりと、雁夜の意識は途切れ始める。

 

(葵さん……俺は……必ず桜ちゃんを……)

 

 気を失う間際、自分に近づいてくる人影を見たような気がしたが、それを認識する前に雁夜は意識を手放した。

 

 そして、倒れている雁夜を見つけた人影の主――男は、困った声を出しながら頭を掻く。

 

「さて、どうしたものか。あの人からは聖杯戦争関係者とは機会があれば関わっておけと言われてるし……まあ放っとくわけにはいかないかな」

 

 雁夜の息がまだある事を確認すると、手早く抱え上げる。

 

「……なんて真面目なんでしょ、私」

 

 独りごちると、雁夜を抱えた男は静かに闇夜を駆けていった。

 

 

 ちびり、と酒を舐める。

 決して不味い酒ではないはずなのに、不思議といくら飲んでも一向に酔いが回らない。

 

 間もなく日付も変わろうとしている時刻。

 深山町にある美津里の家の縁側で、京太郎は月見酒と洒落こんでいた。

 といっても、何も風雅を気取っている訳ではない。単に寝付けないが他にやることもないので酒を飲んでいるだけだ。

 

 少し前にふらりと戻ってきた虎蔵は「いやあ暴れた暴れた。思いっきり体を動かすと気持ちいいなやっぱり」と満足そうに笑うとさっさと寝床に潜り込んでしまった。

 椎名さんもすでに寝入っている。まだ起きているかもしれないが、大人びている外見とはいえ未成年と酒を酌み交わす気にはなれなかった。

 

 結局、話し相手にも飲み仲間にも恵まれなかった京太郎は、一人寂しく手酌で一杯、となったわけだ。

 

「なんだかなあ。戦争だなんだと大仰な話だった割に、こんなにも静かじゃないか」

 

 冬にしては暖かい夜だが、当然虫の音などあるはずもなく。

 閑静な住宅街は、ただ平穏に時が流れていた。

 これでは、普段と大して変わらないではないか。

 肩透かしを食らった気分で酒を飲んでいたが、ふと玄関の戸を叩く音が耳に入る。続けて、男の声。

 

「木下先生。木下先生、夜分にすいません。起きてもらえますか?」

 

 それはつい数時間前に別れたばかりの、笹森房八のものだった。

 

(はて? 笹森さんはホテルに泊まると聞いていたんだが……何かあったのか?)

 

 訝しんだものの、足早に玄関へ向かうと戸を開けてやる。

 

 果たして。

 想像通り、笹森房八が立っていた。

 ただし、見知らぬ男を背負うという予想外の姿で。

 

「いや、こんな遅くに申し訳ないんですが、急患でして」

 

 苦笑する房八の言うように、背負われた男は全身余す所なく血塗れで、一目見て重体であると知れた。

 今日日、死にかけたやくざ者ですらこれほど酷い怪我で担ぎ込まれてくるのは稀であろう。

 

「わかりました。取り敢えず、奥の部屋に」

「お休みの所を起こしてしまって済みません。ただ、放っとく訳にもいかなかったものでしてね」

「いえ、ちょうど寝付けなかったので。お気になさらず」

 

 誰も使っていない部屋に房八達を案内すると、手早く湿気った布団を敷いて男を寝かせる。

 そこで初めてきちんと男の顔を見た京太郎は、我知らずうめき声に近いものを上げていた。

 

 男の髪は、全てが白くなっている。顔つきからしてまだ三十路かそこらだろうに、若白髪にしても異様だった。

 土気色の顔色は、まだ良い。大量に出血しているのだから何ら不思議ではない。

 だが引きつった形で硬直している顔面の左側は、壊死しているのではあるまいか。

 名前すらわからぬ男の異常性に気付き始めた京太郎だったが、それでも医者の端くれとしての責務を果たすべく、パーカーを脱がして傷を見ようとした時。

 

 京太郎は最初から自分の見立てが間違っていたことを思い知らされた。

 

 この男は、死にかけている事がおかしいのではない。

 とっくの昔に、死んでいない事がおかしいのだ。

 

 それほどまでに、男の身体は壊れきっていた。

 手の施しようがないどころか、何故未だに生きていられるのかが奇っ怪に過ぎる。

 

『聖杯戦争の間冬木に居るだけで色々と面白い物が見られるだろうさ。楽しみにしとき』

 

 楽しさが滲み出ている美津里の声が、脳内で残響する。

 なるほど確かに、これは滅多にお目にかかれない不可思議な事象だろう。

 しかし、意識がなくとも苦悶に呻き続けている男の有り様を、「面白い物」と感じられるほど京太郎は逸脱していなかった。それが幸か不幸かは、本人にも判らないが。

 

「アノ、ドウカシマシタデスカ?」

 

 京太郎の動揺は、後ろから聞こえてきた声によって断ち切られた。

 見やれば、物音で起きてきたのだろう。椎名さんが襖を開けて立っている。

 

「あ、いや……」

 

 不味い、と思ったがすでに遅く。

 男の形相と血塗れの体を見てしまった椎名さんは、口元を手で抑えながら、短い悲鳴を漏らした。

 

 パニックを起こす前に宥めなければ、と焦る京太郎だったが、それは杞憂に済んだ。

 

「ケガ、シテイルデスネ。ワタシニデキルコト、アリマスカ」

 

 椎名さんは、思っていたよりもずっと芯の強い女性だったようだ。

 まだ若干怯えが残っているものの、すぐに手伝いを申し出てくれた。

 

「じゃあ、温めのお湯と清潔な布を頼む。出来るだけ急いで」

「ハイ、スグニ」

 

 急ぎ足で湯を沸かしに行った椎名さんの背中を見送ると、とりあえずの処置として止血を始める。

 今更止血程度でどうこうできるとは思えなかったが、それでもやらないよりはマシのはずだ。

 

「中々どうして、気丈な女性ですな」

「ええ、助かります」

 

 房八が感心した様子で頷いているのを横目に見ながら、手は止めずに相槌を打つ。

 

「木下先生も驚かれたでしょう? 私も見つけた時はびっくりしましたよ。何せこの有り様で路地裏に転がってたもんですから」

「あの、この人はやっぱり……『そっち側』の人間ですか」

 

 濁した言い方をする京太郎に、房八も苦笑いを返す。

 要するに、コイツも『非常識なロクデナシ』の類か、という質問なのだろう。

 

「まあ十中八九、聖杯戦争に関わってるでしょうな。そうでなかったとしても、普通じゃないのは確かです」

「でしょうね。正直、止血と縫合くらいしか手の施しようがないですよ」

「十分でしょう。薄情なようですが、やれることやって助からんのならそれまでです」

 

 死んだら死んだで仕方ない、とあっさり言う。

 しかし言われてみればそれもそうかと思ったので、余計な事は考えずに淡々と処置を進める。

 

 傷口を縫い、椎名さんの持ってきてくれたお湯と布で全身を拭くと、それでやれることはなくなってしまった。

 美津里ならばこの不可解で奇っ怪な患者にも適切な治療を施せるかもしれないが、不肖の弟子ではこれぐらいが関の山だ。

 もっとも、遊び歩いているのか未だに戻ってこない者に期待したところで、どうしようもあるまいが。

 

「さて、これからどうしたもんですかね」

「このままくたばるにしろ、せめて名前くらいは話してもらいたいもんですな。後々の処理に困りますので」

 

 一旦落ち着いてしまえば、駆け込みのチンピラの治療と大差ない。そう達観してしまえる程度には、京太郎も場数を踏んでいる。

 況んや房八においては、例えこの場で男が爆発四散しようが大して驚きはすまい。

 椎名さんも、静かに事の成り行きを見守っていた。

 

「……う、あ……?」

 

 手持ち無沙汰になってきた頃合いに、男が静かに目を開けた。

 どうやら、三途の川の渡し賃が足らずに追い返されたようだ。

 

「おや、目が覚めたようですな。どうなるにせよ運がいい、お互いにね」

 

 三人の視線が集中する中、男がゆっくりと身を起こそうとするが、一言呻くとすぐに倒れこむ。

 

「まだ動かない方がいい。なんとか命は拾いましたが、安静が必要な体に違いはないですから」

「ここ、は……? あんた達、は……?」

「ここは深山町にある私の知人の家です。申し遅れましたが、私は笹森房八。路地裏で倒れている貴男を見つけてここまで運びました。こちらはお医者の木下先生。貴男を治療してくださった方です。そちらの女性は助手の椎名さんです」

 

 聞き取りにくい掠れ声で質問する男に、房八は淀みなく説明してやる。京太郎は男に会釈した後は黙って聞き役になり、男との会話は房八に任せている形だ。

 男が現状を把握するまで少し待った後、今度は房八から質問した。

 

「貴男のお名前をお聞きして宜しいですか?」

「間桐……雁夜……です」

「ふむ。間桐さん、連絡するご家族はいらっしゃるでしょうか? それとも、ご自宅までお送りしましょうか?」

 

 房八の言葉に男――雁夜はゆっくりと、けれどはっきりとした拒絶を込めて首を振った。

 

 目覚めた直後こそ事態を飲み込めず困惑したが、意識を失って倒れていた自分を親切心から助けてもらったことは理解できた。

 聖杯戦争に関わっている輩かとも思ったが、どうやら単に親切心から救いの手を差し伸べてくれたようだ。

 ならば、そんな善良なお人好し達を間桐家頭首であるあの悪辣な外道蟲爺――間桐臓硯と会わせてはいけない。

 

 もしも彼らを間桐の屋敷へと連れて行って事情を臓硯が知れば、嬉々として嬲り殺しにするであろう。

 そうでなくとも、『魔術師』などという常識も道理も通用しない連中に一般人が関わっても百害あって一利なし……それが一般人としての感性を持ちながら魔道に身を落とした雁夜の考えだった。

 

「助けて頂いて、本当にありがとうございます。……ですが失礼を承知で言わせてもらえれば、どうかこれ以上俺に関わらないで下さい」

 

 この顔を見ればろくなことにならないとお分かりでしょう? 雁夜は、自嘲気味に引きつった苦笑を浮かべる。

 こう言われてしまっては、房八達としてもなんと言葉をかければ良いか解らず押し黙ってしまう。

 

「医者としましては、患者が治療を望まないのであればもう何も出来ませんね」

 

 聞き役に徹していた京太郎が、口を開く。

 

「なら、俺はこれで失礼――」

「ですが、まあせめてもう少し休んでいってくださいよ。そんな有り様じゃ、帰り道で野垂れ死にするんじゃないかと気が気じゃない」

 

 同情半分、好奇心半分で京太郎は雁夜を引き止める。無論、例え何かあっても房八が何とかしてくれるだろうという他人任せな楽観論が根底にあるのだが。

 

「オミズ、ドウゾ」

「あ、ああ……すいません」

 

 椎名さんに手渡された湯のみを、雁夜はまだ握力が戻りきらない右手でゆっくりと受け取った。

 とうに固形物が喉を通らなくなった体ではあるが、幸い水ならばまだ飲みこめる。

 

 小刻みに痙攣する手で水を零さないよう難儀しながら、よろよろとした覚束ない手つきでどうにか口に近づけると、口内を湿らせる程度に飲み込む。

 途端、乾ききった体内に水が染み渡るのが解った。

 

 考えてみれば、下水道で血反吐をまき散らしてのたうち回った後、一滴の水すら飲んでいなかったのだ。当然の生理反応といえる。

 ゆっくり。ゆっくり。鈍いと感じる程の緩慢な動きで飲み込んでいく。

 さして多くもない一杯分の水をたっぷりと時間を掛けて飲み終わると、雁夜は長く息を吐いた。

 

「……美味い。こんなに水が美味いを思ったのは、人生で初めてかもしれないな……」

 

 何を大袈裟な、と笑う者はこの場には居なかった。

 それほどまでに、彼の風体と紡がれた言葉には重々しい説得力があったからだ。

 

 大きく深呼吸を何度かすると、ようやくひと心地ついた様子で死人めいた顔に僅かだが生気が戻る。

 

「ありがとうございます……色々とお世話になったのに、何もお返しできないのは心苦しいのですが……」

「いえいえ、お気になさらず。袖振り合うも他生の縁、と言いますから」

「私も止血と縫合くらいしかしてませんので、そう畏まらないで下さい」

 

 深々と頭を下げる雁夜の殊勝な態度には、逆に受ける側が困惑してしまう。

 それというのも、見た目はバケモノじみた奇怪な男の癖に、中身は至って普通の常識を弁えた人間であるギャップが大きいせいだ。

 

 礼を言い終わると、京太郎と椎名さんが引きとめるのを丁寧に固辞して、よたよたと雁夜は立ち上がって玄関へ向かおうとする。

 肩を貸そうとするのすら断った為、房八は顎髭を擦りながら少しばかり思案すると、徐ろに庭へと出て行く。

 

 程なくして戻った房八の手には、杖として使うのにちょうどいい大きさの枝が握られていた。

 

「枝を切り落としただけの即席の杖ですが、ご自宅に戻られるまでの代用品としては問題なく使えるでしょう。せめてこれくらいは持って行ってください」

「……ご好意、有り難く受け取らせてもらいます」

 

 ここまでしてもらっては断るほうが失礼と思ったのだろう。今度は雁夜も素直に受け取った。

 

 玄関先でもう一度これまでの礼を述べると、何かを言うべきか迷っていた様子の雁夜だったが、意を決したように口を開いた。

 

「あの……突然何を言い出すのかとお思いでしょうが……。一週間か二週間ほど、あまり出歩かないように……いえ、できるなら冬木を離れていた方がいいと思います。これから、あまり良くない事が起きるでしょうから……」

「良くない事、ですか?」

「ええ。事故か事件かはまだ分かりませんが……とにかく良くないことです。人死もあるでしょう。……突然こんな事を言っても信じては貰えないでしょうが、でも本当なんです」

 

 要領を得ない話し口ではあるが、真摯に忠告してくれている気持ちは伝わってくる。

 出来る範囲で、受けた恩義を少しでも返そうとしているのは疑いようがなかった。

 

「いえ、信じますよ。ご忠告、感謝します」

「自分で言うのも何ですが、信じてくれるんですか?」

 

 伏し目がちだった片目が、驚きに見開かれる。

 神秘の隠匿がある以上、聖杯戦争の事を説明することができないせいで信用されないだろうと、半ば諦めながらも警告を口にしたのに、あっさりと受け入れられた為だ。

 

「そこまで真剣に仰る姿を見ると、嘘をついているようには思えませんからね。ま、もし嘘だったとしても特に害がなさそうだからでもありますが」

 

 鷹揚に笑う房八の姿からは、聖杯戦争の事情を調べ、『間桐』がどのような立ち位置に居るかも当然知っている人間だとはとても思えない。

 まして際限ない苦痛によって精神的余裕を失ってしまっている雁夜では、見抜くことが出来ないのも無理からぬこと。

 それをわざわざ説明してやる義理は、房八にも京太郎にもなかった。

 

 自分の言葉が信じて貰えた事実を静かに喜びながら、最後に礼をして雁夜はのろのろとした足取りで去っていった。

 その背中が見えなくなるまで見送った後、京太郎が房八に問いかける。

 

「彼が言ってたのは、聖杯戦争に巻き込まれるなってことですかね?」

「でしょうなあ。見た目に反して、というと失礼かもしれませんが中々良識のある御仁らしい」

 

 凄惨な殺し合いを見世物程度の感覚で見物しに来た事などおくびにも出さない態度で、二人はいけしゃあしゃあと言ってのける。

 そんな中、雁夜の去った方向を見つめていた椎名さんが、ぽつりと呟く。

 

「アノヒト、ダイジョウブデショウカ」

「さあて、これからの身の振り方は彼次第ですからな。どう転ぶにせよ、ここの敷地から出てしまえば我々には関係ないことでしょう」

 

 ただ一人、打算無く心配している椎名さんに、あまり気のない返事を房八が返した。

 

 どのみち、あの身体では長くは持つまいが。

 その一言だけは、彼女が余計な気苦労を覚えないように胸中だけで収めておいた。

 

 

 ずるずると脚を引きずりながら、雁夜は歩いて行く。

 相変わらず体はぐちゃぐちゃのぼろぼろで、一歩歩くだけでも激痛に苛まれるが、心はずいぶんと軽くなっていた。

 

 この一年、心身共に地獄と呼ぶのも生温い責め苦に苛まれてきたが、久しぶりに人間らしい時間を過ごした気がする。

 

 願わくば、聖杯戦争が終わるまで彼らが平穏無事に過ごせるように。

 そう祈った。

 祈る他には何も出来なかった。

 

 もはやこの身には、桜を救い出す以外に使える余力など一欠片も残ってはいない。

 だから、只々祈る。

 

 尊くて眩い、平々凡々な生き方をする彼らに。

 自分と桜が失ってしまった生き方ができる彼らに。

 どうか平穏あれと。

 

 ほんの少しだけ、かつての間桐雁夜らしい人間性を取り戻した男は、貰った即席の杖を握る手に力を込めると、歩みを止めずに進み続ける。

 目指すのは、目も眩むような絶望と、ほんの僅かな、けれどもかけがえのない大切な小さい希望が残る、彼の生まれ育った家。

 

 伏魔殿、間桐邸。


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