Fate/kaleid night プリズマ☆イリヤ 3rei!! 作:388859
ーーinterlude2-1ーー
別に、何かが劇的に変わった、というわけではなかった。けれど美遊は、ここのところいつも、息苦しさに似た圧迫感を感じるようになっていた。
クロという不確定要素すら包み込んで、ますます絆が深まっていくイリヤと士郎。終始殺し合いに発展していた関係は、いつの間にか本当の家族のように穏やかな関係となっていた。
それから一ヶ月。時にいがみ合い、時に笑い、そして共に歩んでいた彼らは、美遊から見ても幸せそうに見えた。事実そうだっただろう。家族が一人増えるということは、大事ではあるものの、打ち解けてしまえばこれほど嬉しいことはない。煩わしいことはあっても、それは嬉しい悲鳴だ。
そして美遊も。そんな彼らと過ごすことが出来て、幸せだった。友達が増えた上、その友達がずっと笑っているのだ。得難いモノを噛み締めるかのように、ずっと。幸せなハズだった。
けれどいつからだっただろう。
一体、いつから。
イリヤ達の笑顔を見ることが、こんなにも、苦しくなってしまったのだろう……?
「ミユー?」
遠くで、友達の声が聞こえる。
そう認識して、美遊・エーデルフェルトは、自分が学校の教室に居るという事実を認識した。
しん……と、静けさが漂う教室は、電気も消され、居るのは美遊だけだった。二時間目が終わった十分間の小休憩に、どうやら寝てしまっていたらしい。次は授業の理科は理科室に移動しないといけないのだが、五年の教室からは少し離れているから急がないと……そんなことを考えながら、寝ぼけ眼で引き出しから教材を漁る。ペンケースと下敷き、教科書にノート、あとは動物がデフォルメされたイラストやシールが貼られた手帳。手帳は勉強するときに必要ないのだが、女の子なんだからあった方がいいと、イリヤから貰ったのだ。それを細い指でなぞると、美遊は教材を抱えて廊下に出る。
廊下も教室と同じように、生徒の姿はあまりなかった。だが代わりにぽつんと、窓に寄りかかるイリヤとクロの二人を見つける。
「遅いよミユ。寝てたみたいだったけど、ルヴィアさんのところのお手伝いもしてるから、もしかして疲れてたりする?」
「ううん。日差しが温かかったから、多分気持ち良くなっちゃっただけ。ルヴィアさん、二時間に一回休憩させてくれるし、おやつも付いてるから心配しないで」
美遊は二人に挟まれながら、理科室へと歩き始める。
「ホワイトも真っ青な健全さね、ルヴィアのところは……ま、その分リンが給与に対して命の危険が付きまとってるのに、ブラックすぎるくらい働いてるから釣り合いは取れてるわけか。そう考えるとちょっとリンが憐れに見えてくるわ」
「リンさんは悪魔に魂を売ってるようなものだから……」
「元マスターながら、呆れた生き汚さですねー。世が世ならボロ雑巾にされて捨てられそこからソリッドブックの闇まで転落してるところですよー」
「ルビーの言う通りね。午後一時のドラマなら、一挙一動で鞭で叩かれる展開もあったのかも……ママが好きそうなドラマね」
「いつの時代なのそれ? そんな息のつまりそうな昼下がり嫌なんだけど……ていうか、ママはそんな鬼畜なドラマが好きなの!?」
イリヤが呆れ気味に突っ込む。確かに美遊からしても、いくら宝石魔術に必要な触媒である宝石を手に入れるためだとしても、何もルヴィアのところで働くこともない……そういえば、前に一度同じような質問をしたが、
ーー覚えておきなさい、美遊。世の中ね、金なの。愛だのなんだの言うけれど、一番現実的なマネーパワーが最速で世界を制するの……魂すら売りたくなるくらい鮮やかにね。
死んだ目で言う凛の言葉は、齢十一歳の美遊でもなんとなく理解出来た。ルヴィアから買い物を頼まれたとき、コンビニで出した黒いカード(お金の代わりらしい)を見た店員の目は、まさしく亡者のような感じだった。世の中綺麗なようで、やはり隅々で汚れてはいる。そう感じてしまった、十一歳春の思い出その一である。もっと良いエピソードはないものかと探ったが、あのインパクトに勝てるエピソードが無い辺り、世の中何を中心に回っているか分かってしまうモノである。
と、
「あーそうだ。ねーミユ、今日うち来ない?」
イリヤが、そう提案してきた。
「イリヤの家に?」
「そ。セラがねー、ケーキ作ってくれるんだって! それでミユもどうかなって。何ケーキが良いか教えてくれれば、あとはルビーに伝言頼めばいいし!」
「ルビーちゃん、気分的には、はじめてのおつかいです! ささ、美遊さんはどのようなケーキをご所望で?」
イリヤの家に行く……あの開放的で、誰も拒まず、全てを受け入れる家に。日の当たる場所へ。
何度も行っていた家だから、どんな営みが育まれているのかを知っている。とても良いところだ。行くだけで自分の胸が高鳴るし、今もほら、ドキドキしている。
でも、その鼓動は一定のリズムではない。
不安定に早くなったり、遅くなったり。美遊は知っていた、このリズムは不安なときのモノだと。決して好意的な反応とは言えない。
最近はずっとこうだ。イリヤの家に行く、そう考えるだけで体が変になる。後ずさりしたくなる。
「ご、ごめんなさい。今日は少し用事があって……寄るところがあるから……その」
嘘……ではない。今日は寄るところがある、それは本当で、例えこの不安が無くてもイリヤの家には行かなかっただろう。
けれど、何故か嘘をついている気分になる。都合良く利用して、逃げている。そんな気がした。
イリヤが残念そうに、
「あ、そうなんだ。じゃあまた今度かぁ……」
「ごめんなさい……本当は、行きたい、んだけど」
言葉につまる。口を開けても言葉にすることが出来ても、後に続くモノがない。
このまま終わらせてはいけない。誘ってくれたイリヤを、傷つけないような言葉を言わないと。
「……ちょっとトイレに行くね。授業には、遅れないから」
「へ? ミ、ミユ!?」
そう思っていたのに。脱兎のごとく、自分は廊下を走っていた。止めようとしたイリヤ達を振り切り、個室のトイレに駆け込む。何もかもを閉め出したい一心で、鍵までかけて。
「はっ、……は、……はぁ……」
気付けば息が切れていた。それほど、走るのに必死だったのだろう。ややふらふらと体を揺らしながら、洋式トイレに背を預ける。深呼吸して動悸を抑えようとしたが、いつまで経っても収まらない。息はもう整っているのに。
「……何をしてるんだろう」
自問してみて、答えはすぐに出た。簡単だ。逃げたのだ、自分は。イリヤから、友達から逃げた。一刻も早く彼女達から離れたくて、わざわざドアから一番遠い個室トイレを選んで、閉じ籠るくらい。
目を閉じる。脳裏に映るのは、幸せそうな友達と、その家族。笑っているあの人。あの人がーー衛宮士郎が家族と笑っている姿を。
それを思うだけで、可笑しくなりそうだった。胸の奥がちくちくと痛んで、視界が歪んでしまう。
痛みはずっと前からあった。イリヤに会ってからずっと。でも、最近はその比ではない。今すぐ切り開いて、心臓でもなんでも取り出して、胸を空っぽに出来たなら、こんな痛みをしなくても良いのにと。生きることすら苦しくなるような、そんな激しい痛みが全身を蝕む。
この気持ちを、自分は知らない。悲しくて、切なくて、だから全てが恋しくなってしまう。心が無意識に求めてしまう。
「……美遊様、大丈夫ですか?」
「……サファイア……うん」
羽を力なく揺らすサファイアに、美遊は笑顔を浮かべて答えようとしたが、上手く取り繕えない。一人だからか、果たしてサファイアには全て悟られていると考えたからか。もう、仮面を被るのも限界だった。
「……ね、サファイア」
「はい」
「……会いたい人に会えないって、想像してたより、辛いね」
「……」
「一緒に居たい人が、自分の隣に居ないって」
本当に、辛いんだね。
少女の瞳から、一筋の何かが溢れる。
それがどういう思いから流れていったのかも、分からないまま。
少女は一人、孤独を耐えていた。
ーーinterlude end.
この世界は、何かが可笑しい。
そんな漠然とした、しかし絶対に見過ごせない問題。返しのついた針のように、それは脳裏に過る。
半年後、この世界を旅立つときがきて。そのときに自分が去った後、イリヤ達に何かあっては、そのときこそ自分は正しいだけの存在に成り果てる。それは、誰も望んではいない結末だ。
だったら解決するしかない。何も分からないのは今更だ。だから、調べるのならまず身の回りから。
「えぇと……」
なだらかな坂道を自転車で登りながら、左右を注視する。深山町なのは確かだが、いつもの帰路からは外れている。何せこの辺りに来たのは、体感では数ヵ月ぶりだ。すいすいと坂を登り、そのまま真っ直ぐ行けば、見慣れた桜道に囲まれていた。
そこへは、この世界に来てから一度も来ていない。だからだろう、近付くごとに、胃が絞められるようなプレッシャーが、体を支配しようとしてくる。カレンと話したときと同じだ、世界が、そこへ行こうとすることを忘れさせようとしている。
見えてきたのは、古風な日本家屋だった。敷地だけなら破格の広さで、塀で一部しか中の様子は見えないが、立派な本邸と、それに付属する別棟が鎮座している。周囲の家が太陽光パネルや、木造のデッキなどを持ち合わせているからだろう、その家だけは、まるでタイムスリップでもしてきたかのように異物な雰囲気を漂わせていた。
「着いた……」
我が家である、衛宮の屋敷。この世界に来てから、一度も足を運ぼうとしなかった場所。
この世界では、衛宮の家が建つまで、切嗣達が住んでいたらしい。この家の大家である藤村組ーー雷画じいさんに確認したのだから、間違いない。
とはいえかなり前、それも十年程度前のことなのだろう。外観だけでもあちこちガタが来ているように見えなくもない。
……目の前にして、思ったのは疑問だけだった。何故ここに一度も来なかったのか。元の世界に帰りたいと思うなら、恋しくなって一度はここに来るハズだ。だがそれはなかった。一度も、考えたことすらなかった。
やはり何かある。あるとすればここだ。ここがターニングポイント。それが確信になったときだった。
「……あれ?」
門まで来て、異変に気付いた。
ここは今、誰も住んでいない。今時こんなところに住むのはワケありだけだとあのじいさんが語っていたし、門には無論鍵がかかっている。
だが……。
「……結界の魔術か、これ?」
うっすらと、門の周りに貼られているのは、索敵に特化した結界だった。そう、丁度元の世界で切嗣が貼っていたモノと同様の。
「誰がこんなことを? 第一、何のために……?」
そもそも、この冬木に魔術師は存在しない。管理者である遠坂は時計塔で、フリーランスの切嗣やアイリさんも世界中を飛び回っている。一応セラは魔術を使えるらしいが……それにしたって、こんなところに結界を貼る意味は? 工房でもないのに、こんなところに結界を貼るのは無駄だ。
どちらにせよ、ここから侵入したら、術者に俺の存在が知られるが……分からないことだらけでも、とにかく、敷地内に入らねば何も分からない。
「……」
藤村組から借りた鍵を差し込み、解錠。門を潜り、敷地内へ入る。
からんからん、と鈴の音。やはり索敵用の結界だ。というより切嗣が貼ってくれたモノと、ほぼ同じと見て間違いない。しかしそれならこの家の敷地内に居る人間にしか聞こえないハズ。
中庭には誰も居ない。となれば、あとは屋敷や土蔵を確認するだけ、そう注意深く周囲を見回したときだった。
「……あ、?」
視線が止まる。屋敷の縁側。窓は閉め切られ、その向こうにある襖も同様で、何かを拒むような印象すらあるそこで。
何かが……座っている。
ーー僕は、正しく成ろうとして、間違い続けた。
視界が重なる。万華鏡を傾けるように。景色が、現実と重なる。
ーー見えない月を追い掛ける、暗闇の夜のような旅路だった。
かしゃん、かしゃん、かしゃん。耳の奥で潮騒にも似た音が聞こえる。
知らない。こんな景色、知らない。知るハズがない。俺が
だってもしそうなら。
ーー……星に願いごと。もしひとつだけ、叶うのなら。
神様ってヤツは、なんて残酷な。
ーー■■さんと、本当の■■になりたい。
なんて残酷な願いを、叶えてしまったのだろうかーーーー。
「……お兄ちゃん?」
その声に引き戻される。
どうやら、夢を見ていたらしい。いつの間にか、自分は縁側で横になっていた。
体を起こす。目尻を擦り、夢の残滓を取り除いて。
「……って、美遊!?」
首が取れる勢いで、声の主へと振り向いた。
烏羽のように漆黒の髪に、たおやかな体。少し影のある瞳、間違いなく美遊だった。
だが、どうして、ここに?
「なんで美遊がここに? ここは空き家のハズじゃ……?」
「……えっと、その」
どうやら理由を探られたくはないらしい。目線を俺から外すと、美遊は困ったような、罪悪感滲ませる顔を見せた。
……むぅ。そんな顔をされてしまうと、聞きたいことも聞けない。妹の友達とはいえ、美遊は半分妹のようなモノだ。そんな彼女をこれ以上困らせるのは、心苦しいが。
「俺はちょっと昔だけど、ここに住んでてさ。どうなってるかなぁと思って、ここに来たんだけど……あー、その。美遊はなんで、ここに?」
「……わたしも、似た感じ、かな。少し前まで住んでた家がここによく似てて、時々ここに来てたの」
「時々ってことは、何度も来てたのか?」
「……二回、くらい」
「本当は?」
「さ、三回……いや、四回、くらい……」
こくん、と美遊が首肯する。見れば服装は制服のままだ。エーデルフェルト邸にも戻らず、そのまま来たということは、ルヴィア達もこのことは知らないのだろうか。
「ていうことは、さっきの結界は美遊が?」
「う、うん。誰かに見られたら通報されちゃうから……ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんだけど……」
構わない、と首を振る。びっくりはしたが、それだけだ。それより魔術を使えるなんて知らなかった。
いや……そもそも俺は、驚くほど美遊のことを知らない。ルヴィアと出会うまでは父は単身赴任をしていたらしく、基本は兄と二人暮らし。それぐらいしか自分の知識としては知らなかった。何処に住んでいて、どんな友達が居たのか。俺は知らない。
そもそも、美遊がどうして冬木市に来たのか、それすら俺は知らない。ただルヴィアと出会い、イリヤと出会い、俺と出会った。それぐらいの浅い関係。蓋を開ければ、その程度だ。
「いくら恋しいからって、ここは私有地だぞ? 流石に不法侵入はなぁ……見つかったら大問題だぞ?」
「う……ご、ごめんなさい」
……けれど今はもう、俺と美遊は浅い関係じゃない。彼女が慕ってくれたのなら、俺も彼女の力になりたい。
「……まぁ今度からは、俺も一緒に行くから。行きたいときは誘ってくれればいい」
「え……?」
「あ、俺はここで調べ物があるから、安心して良いぞ? 邪魔はしないつもりだし」
「いや、そうじゃなくて……」
やや戸惑い混じりに、
「その、良いの? わたし、魔術まで使ってここに入り浸ってたのに……」
「そりゃあ悪いけど、でもここなら色んなこと、もっと鮮明に思い出せるだろ? 大事な記憶とか、大切な人の記憶とか」
俺も縁側から中庭や、道場を見て、忘れてしまっていた色んなことが、朧気ながら思い出せる。だったら美遊なら、もっと鮮明に思い出せるハズだ。大事なことが。
「それは……そう、だけど。でも、ここはお兄ちゃん達の思い出の場所だから……」
「まあな。でも、今はただの空き家だ。だったら別に誰が来たっていい。それに、会えない辛さは、分からないわけじゃない」
「……それって、本当の両親のこと?」
それもある。それもあるけれど。
……一息ついて、
「……姉だよ。会ったのは、二回だけ。一度目は殺されかけて、二度目は彼女を見殺しにした。それだけの関係だった」
「え……」
美遊が目を見開く。確かに事実だけを口にすると、薄く、そして忘れてしまえるような関係だった。
「その人は、本当の……?」
「いいや。でも、切嗣の娘だからな。義理の姉、つまりイリヤ達と何ら変わらないさ」
「……お兄ちゃんは、その人と、会いたいの?」
「うん、まぁな」
「……なんで?」
美遊の声が、落ちる。落ちて、震える。
両手はスカートを掴んだまま、ぐっと堪えるように俯く美遊。その姿は何かに押し潰されそうな、そんな印象があった。
「なんで、会いたいの? 見殺しにしたってことは、その人が死ぬところを、見たかもしれないんでしょ? それなら恨まれてるかもしれない。なんで見殺しにしたの、なんで助けてくれなかったのって。そう、言われるかも、しれない」
前髪で隠れたその顔は、今にも泣き出しそうで。きっと色んな思い出が、美遊を苦しめている。
そんな中で美遊は、俺を心配しているのだ。自分を差し置いて俺のことを。
なんて優しく。そして、なんて悲しいことだろう。
自分より他人を優先させる。それはきっと、自分に優しく出来ないから。
「それでも、会いたいの? そのお姉さんが恨んでいて殺されるかもしれないのに。それでも、会いたいの?」
美遊は自分のことを話さない。イリヤ達にだってそうだ。こんなことを話すのは、俺に心を開いてくれたからなのだろう。
だから、
「うん、会いたい。俺は、あの子に会いたい」
包み隠さず、話すと決めた。
「……殺されたいの?」
「まさか。というか、あの子は多分、そんなことしないよ。最期まで俺のことなんて、一ミリも気付いてなかった。見殺しにしたって考えてるのは、俺が生きてるからだ。だからこうやって見殺しにしたって思ってるのも、自分勝手に思ってるだけなんだ」
「じゃあ……会って、どうしたいの?」
「
そう。
もしもう一度、
「見殺しにしたこと、家族として一緒に居れなかったこと。親父を奪ったこと。全部を、謝りたい。謝って、ちゃんと家族として、お別れしたいんだ」
それは、俺がこの世界で学び、そして得た答えの一つだった。
別れは必ず来る。それが寿命にしろ、病気にしろ、事故にしろ。どんな死に方であろうとも、別れの際に交わされる僅かな言葉では、きっとそれまでの想いを語り尽くすことは出来ない。それでも大半は、別れを境に前に進むことが出来る。
でも俺が体験した別れは、その大半に属さないモノばかりだった。その中でも、特にイリヤの件は凄惨で、余りに救われなかったと言えよう。
生者に死者は救えない。死んだ時点で、どんな手を使ってもそれは変わらない。変えてはならない、決して。
だからもし会えるのなら、後悔だけは無くしたい。例えその出会いには、何の意味も無いとしても。それでも、笑顔で別れるくらいなら、神様だって許してくれるだろう。
「出来るなら、な。でも無理だ。それは、やっちゃいけない。そんな可笑しな望みは持てない」
「……可笑しい?」
「ああ。死者は生き返らない。例えどんな奇跡であっても。死んだ時点でその人の運命は決まっている。そこから変えることも、変えようだなんて考えも、人が持っちゃいけないんだ」
無論、そう簡単にはいかない。でもいつかは、分かるときが来る。
別れは悲嘆と涙で溢れてしまいそうなときもあるが、必ずしもそうではないことを。俺は、教えてもらった。この胸に、唯一の光を宿してくれた人に。
「本当に、そうかな……」
だが。
「……だったら、どれだけ一緒に居たいって思っても、それはいけないことなのかな。それがお兄ちゃんでも、一緒に居たいって思っちゃいけないのかな……」
否定することは、いくらでも出来た。
自分の体験を交えた理由も、いくつだって並べることが出来ただろう。
けれど。
美遊は、泣いていた。
大粒の涙を流して、目を真っ赤にして、こちらを見ていた。
恐らく千の言葉を重ねても、この少女の涙の理由を、否定することは出来ない。
そう思わせるほど、真っ直ぐな願いが、美遊の涙になって伝わってきた。
「わたしは……一緒に居たい……どんなことを、しても……」
美遊が手を伸ばしてくる。その手は俺の背中に回され、彼女は懐に入ってきた。もう二度と、と。肩を震わせながら。
「……お兄ちゃんは、居なくならない?」
「……」
「わたしの前から、居なくなったり、しない?」
否定すべきだ。否定しなければ、近い内にまた美遊が悲しむことになる。それでも。
……それでも、この涙を、この願いを否定すれば、あまりにこの少女が救われない。
父と別れて。兄と別れて。
それでもすがるべき何かを俺に見出だしてくれた。
それは逃げなのかもしれない。ただ俺を他の誰かに見立てて、それを良しとしているだけなのかもしれない。
それでも、全てを救いたい。イリヤも、そして美遊も。そう思ったのなら、やるべきことは分かっていた。
「……死なないさ。死んでやるつもりは、一切ない」
今の俺にはこう言うことしか出来ない。こう言って、泣いている女の子を撫でて、落ち着かせることすら億劫だ。
何が正義の味方。全てを救うと豪語しておきながら、こうやって嘘をつき続ける。そうやって騙し騙しやる、なんて醜悪な偽善。
……だから、まず目の前から助けていくしかない。
そうしなければどうにもならないと、自分に言い聞かせて。
ーーinterlude2-2ーー
ああ、何故こうなった。
彼に抱かれ、彼の手で安らいでいく自分に苛立ちしか覚えない。
彼は死なないとは言った。でも、一生一緒に居てくれるとは一言も言わなかった。それだけでもう、全身を切り裂かれる想いだった。
最初は誰にも弱音は吐かないと決めていた。それがここに自分を送り出してくれた彼への、精一杯の誓いだった。それがこうも簡単に崩されては、合わせる顔がない。
目の前に居る人間は他人。兄などではない。だから心をさらけ出してはならない。そう何度考えても、ここにある温もりは現実で、真実で、いつもそれに触れてきたから抗えない魔力に絡め取られていく。
いつもそうだった。困ったことがあれば、自分に頼れ。兄がそう言ってくれたから、自分も頼った。当たり前だった。それがスキンシップみたいなモノで、この先それが無くなるだなんて考えたことが無かった。
虚像の兄が、現実に塗り潰されていく。側に居ない人は記憶の中で言った。幸せになれと。でも、忘れられるわけがない。世界が何度創り直されて、名前を忘れて、顔を忘れて、笑うことすら出来なくなっても、同じ人を愛していたいとこの
その願いの末が、これなのか。
同じ顔。同じ背丈。だけど決定的に違う関係。違う世界。違う家族。
こんな、こんな残酷なことがあるか。こんなことを望んだのは誰だ? 自分は望んでいない。
こんな場所に居たくない。全てを憎んでしまいたいほどに焦がれることが出来れば、まだ楽なのに。大切な人達が出来てしまったばかりに、そんなことすら出来ない。
ああーーやり直せたら。
全てやり直せたら、それはどんなに。
どんなに幸せなことだろう。
「……落ちついたか?」
彼の言葉に頷く。
礼を言って、渋々離れる。未練がましく手は彼の手を握っていた。
彼が、ふと思い立って携帯を取り出す。何やら写真が送られてきたらしい。笑いながら、その写真を見せてきた。
その写真は、イリヤとクロだった。何やら二人でケーキを持った写真と、完成という本文が打たれていた。そう言えば、セラさんと一緒にケーキを作ると言っていた、ような。
「なるほど、ケーキかぁ。でもイリヤとクロのケーキとなると、どんなトンチンカンなモノが入ってるのやら……前にミントのタブレットとか入ってたからなぁ、うん……」
彼、お兄ちゃんは神妙な面持ちで二人の画像を見ているが、口の端はずっと笑っていた。楽しくて楽しくて、仕方がない。そんな、わたしの前では決して見せてくれない、顔だった。
瞬間、全身に駆け巡ったのは、嬉しさでも、悲しさでも、ましてやもどかしさでもない。
ただ、燃えるような何か。渦を巻き、胸の中でごうごうと燃え盛るそれの名を、わたしは知らない。だが知らなくても、それが怒りに似た何かであることは、分かった。
誰に対してかも、何に対してかも分からない。この感情が沸き上がるのは、決まってお兄ちゃんとイリヤ、クロの三人が楽しそうに話しているときだ。
この感情は何なのだろう。後にそれとなくサファイアに聞いたら、彼女はこう返した。
他人を妬み、恨むこと。
ーーそれはつまり、嫉妬なのではないかと。
「じゃあ、そろそろ帰ろう。美遊もうち来るだろ? みんなでケーキ食べたいしな」
嫉妬、とは何だろう。
どうしてそんなモノがあるのだろう。
そんなモノを願ったわけじゃない。
けれど。
……もしこの感情がそうなら。
自分はこの、行く先のない感情をどうすることも出来ないのではないか。
そう思いながらも、彼の後を付いていくことを、止めようとは思わなかった。
ーーinterlude out.