Fate/kaleid night プリズマ☆イリヤ 3rei!! 作:388859
オルガンの演奏が途切れたことで、澄徹していた空気は、既に一変していた。
ガラスが割れたイメージ。それは俺達が引き起こした、この世界にとっての異端行為。つまり、元の世界についての会話だ。
カレンが元の世界の住人であることは、この世界で会ったときから分かっていた。それから色々あって聞けずじまいだったがーーもう、後回しにしていられない。
「俺の用件は分かってるな?」
「ええ、大体は」
カレン・オルテンシアは、相変わらず無愛想……というより、感情が抜け落ちたような不変さで佇んでいる。可愛いげのない、客人には笑顔の一つでも振り撒けば良いものを。
聞きたいことは沢山ある。だが順を追わねば意味がない。
「なら一つずつ行こう。まずはそう、俺のことから。誰がここに跳ばした? 何のために?」
ピリっ、と頭の奥に静電気に近い衝撃が走る。世界の修正力か、はたまた魂の統合のせいか。こんな質問ですら痛みが走るのなら、とにもかくにも早く答えてもらわないとろくな質問すら出来ずにギブアップしてしまう。
「その前に一つ、注意してもらいたいことがあります」
が、そんな俺を、カレンは遮る。
「なんだ? こっちは頭割れそうなの我慢してるんだ、ちょっとのことなら」
「今私には、
「……なに?」
……思わず耳を疑った。記憶がない、だって?
元の世界に帰る。そのための唯一の手がかりが、俺と同じくこの世界に跳ばされたカレンだけだ。なのに、
「お前が覚えてないんじゃ、そもそも正確な状況把握さえ無理じゃないか……」
身の毛もよだつ。遠坂との会話で、やっと見えてきた全貌の照らし合わせすら出来ない。これでは本当に、帰る手段への道筋が立たなくなってしまう。
「じゃあお前も、知らない内に跳ばされてきたっていうのか? ならなんで俺のことを知ってる?」
「勘違いしないでほしくないのですが、あくまで記憶はありません。いえ、これでは語弊がありますね。正しくは知っているのだとは思いますが、それを今は忘れています」
「……手短に」
「あなたは今、元の世界の記憶の半分以上が思い出せなくなっている、そうですね?」
頷く。自分の記憶こそ曖昧だが、それが証拠だ。思い出せないことが証明など、笑い話にもなりはしないが。
「ですが私も、あなたと同じように忘れている。しかしそれはあくまで、思い出だけ。知識までは忘れてはいません」
「……つまり?」
「現状の正確な把握こそ難しいかもしれませんが、少なくともあなたに有益な情報を提供出来ます。あなたの勘違いを解くくらいには」
つまり記憶はないが、記録はある。そういうことだろうか?
記憶がないくせに、よくそこまで豪語出来るモノだ。しかし話を聞く価値ならば、十二分にありそうだ。カレンは不確定なぼやし方はしない。するとしても、呼び止めるということは、自分にとってそれは有益になり得る。
カレンに先を促すと、彼女はすらすらと語り始めた。
「まずは私がここに来た経緯を。と言っても、私が話すことは全て推論に過ぎませんが。
私は遠坂凛によって、この世界へ跳ばされた。目的は衛宮士郎ーーあなたの救出、そして敵への牽制というところでしょうか」
「……遠坂が」
「……驚かないのね、遠坂凛があなたを跳ばしたっていうのに」
「まぁ、その可能性も考えてたっていうか……」
話している内に思ったが、あの業突く張りのことだ。俺がここに跳ばされた時点で、アイツなら黙っちゃいない。俺を一人前にすると、そう彼女は言った。一度請け負ったことは何がなんでも手放さない、それが遠坂凛という少女だ。
それに俺は、心底遠坂を信じている。彼女ならきっと俺を手助けしてくれると。
「でもなんで遠坂なんだ? 敵に跳ばされたって可能性は?」
「わざわざあなたと同じ出身の私まで、ここへ跳ばす必要はないでしょう。敵の目的があなたと我々の分断、しいては排除なら、ここまで回りくどい手を使うのは不自然です」
……やはりそうか。しかし、
「こう言っちゃなんだけどさ、遠坂だって決まったわけじゃないだろ。第三者かもしれない。それに手段は? 聖杯だとしたらこんな中途半端なことにはならないだろ」
「信じてるって言っているのに、遠坂凛が第二魔法に辿り着いたという事実には気づかないのね」
遠坂が、第二魔法に……なんだって?
「待てカレン。第二魔法? お前、そう言ったのか?」
「ええ。
「じゃあ何か? 聖杯じゃなくて、第二魔法で跳ばしたのか!? 遠坂本人が!?」
もしそれが本当なら、遠坂は最優先に狙われる対象だ。第二魔法があれば、セイバーを全力で使役することだって可能とよく遠坂は言っていた。
クラスカードの英霊は、サーヴァントより一段とステータスが落ちている。この目ではっきりと見たわけではないが、サーヴァントも持たない俺が死なず、ヘラクレス相手に立ち回れたのが証拠だ。それに第二魔法を活用すれば、遠坂自身がサーヴァント並みの力を発揮することだって考えられる。まさに、今回の首謀者からすれば、天敵に近いのである。
「信じられないでしょうが、事実です。遠坂凛は体ではなく、
魂だけを……人の設計図たる魂、幽体を離脱させ跳ばす。ある意味ではそちらの方が難易度は高そうだが。それに跳ばすだけなら、模した意識を跳ばせば良いのではないだろうか?
「まさか。魂だけならば降霊術の類い、それこそ英霊召喚の術式を応用して、後は平行世界への門を開けば良いだけのこと。そんな簡単な方程式でもないでしょうが、少なくとも模した人形では世界の移動に耐えきれない。魂でなければ」
カレンは話を戻す。
「私はここへ跳ばされてきた。目的はあなたの保護とサポート。そして正しい情報の伝達です」
「記憶が無くて、記録はあるって言ってたけど、それも遠坂がやったのか?」
「はい。憑依と似ていますが、どちらかと言えば幽体……例えるならば、この体は動かせる夢、のようなものですか」
なるほど、夢か。
分かりやすく言うならば、実態はラジコンヘリなんかに近いのかもしれない。魂がコントローラーで、体が機体。あくまで動かしているのは体だが、それを操作するコントローラーは別の世界のカレン……ということか。
しかし、
「それなら俺も同じだと思うんだが。エミヤシロウの魂と体が、俺には融合してる。実体はあるけど、擬態という点で言えば、俺の方が」
「問題はそこです、衛宮士郎」
カレンは真っ直ぐな目で、訴える。今の状況の危険性を。
「あなたは自身の体の変調が、第二魔法による魂のコンフリクト。そう思っていますね?」
「ああ、それが?」
「ですが私には、その類いの変調は起きていません」
「え?」
……なんだって?
「おい待て……お前、頭痛とかしないのか? こうやって話してるだけで、鼓膜が引っ掛かれた感じとか、しないのか?」
今もずっとしている。耳鳴りや偏頭痛、吐き気。オルガンのときも酷かったけど、今はまして酷い。
「ええ、しません。それは、あなただけに、あなたにしか起きていません」
……どういうことだ? 世界からの修正は、俺だけじゃない。カレンにだってそれは振りかかっているハズだ。幽体だから? いいや、そんな曖昧な線引きじゃない。もっと根本的な見落としがある。
修正力。
同一人物。
記憶。
世界ーー。
「……別世界、の、記憶」
そうだ。
別世界の記憶があるだけで、修正力が起きるのなら。
アーチャーの記憶。別世界のオレであるアイツの記憶を思い出すだけで、元の世界じゃこれと同じ症状があっても可笑しくなかったハズだ。
それに修正力だって、よくよく考えたら可笑しい。
俺とアーチャーが対面し、話したときも、熱にうなされるような不思議で不快な何かがあった。でも、それだけだ。今のように、存在自体を否定されるような痛みも、苦しみもない。
だとしたら。
今俺が味わっているこれは、なんだ……?
「…………」
「さて、ようやく本題ですね」
カレンは告げる。
「あなたは世界から修正力を受けていると思っていた。別世界の記憶、肉体、魂が混在する存在を許されないと」
だがそれは間違いだった。
つまり、本当に許されない存在はーー。
「
辺りの闇が濃くなり、空気が凝結する。まるで見えない手に掴まれたように、その言葉を出させないように。
「あなたが否定され続ける理由は、ただ一つ。異変が起きているこの世界の異分子、それがあなただけだからです」
「……」
分からない、言っている意味が。
だって、どうしてそうなる。
異変? クラスカードが来るまで、何とか平和を保ってきたこの世界が?
それとも。
「……
「それ以外に答えがあると?」
「あり得ないだろ、だって……!!」
クラスカードによって、鏡面界なんてモノが出来た。それによってこの世界にも影響が出たならまだ分かる。サーヴァントの力を閉じ込めたクラスカードならば、八枚もあれば一つの世界に与える影響は計り知れない。
だが、クラスカードがこの世界に出現するより前……どの程度前かまでは分からないものの、もしも本当に異変が起きているのなら。それならルビーとサファイアが真っ先に気付いたハズだ。
なのに、あの二人は何も言わない。言っていない。
「宝石杖は確かに規格外の礼装です。しかし忘れたのですか? 敵には聖杯に等しい何かがあります。ならばそれを使い、この世界を意のままに変えることも可能でしょう? 意思も、例外ではない」
「それは……」
「それに並行世界とはいえ、この世界は元の世界とほぼ相違ない。並行世界は枝分かれするとはいえ、ここまで元の世界に近いのは、奇妙だと思いませんか?」
「……意図的なモノだって言いたいのか?」
確かに、それは考えられる。基準となる正史世界から枝分かれするのが並行世界とはいえ、だ。類似点の多さは、俺も気になっていた。
それにこれが聖杯に近しい何かによるものなら、それも不可能ではない。何せ聖杯による影響は絶大だ。七騎以上のサーヴァントを呼び込むということは、恐らく俺の知る聖杯より更に上の何かがこの世界に異変を起こした。そう考えれば、宝石杖のことや意図的にそれらを変えるのは例外ではないのかもしれない。
でも、本当に?
本当にこれは、聖杯によるモノなのか……?
「……」
何か引っ掛かる。
例えばこの世界が聖杯による何らかの影響を受けていたとして。
そのことに、本当に一人も気づかないだろうか?
絶対はない。気付かないわけがない。
微かな歪みであっても、
ーー……そう。こんなもの、一時の夢ですもの。最後まで何も起こらず、元通りになるだけよ。
ーーわたしも、続けられるのならいつまでも続けていたいから。
誰かがきっと気付く。そう、
「……衛宮士郎?」
「あ?」
声をかけられ、ぶるりと体が蠢動する。背筋が張り、目頭に残った倦怠感を振り落とそうと首を横に振る。何かを考えていたような気がしたが、忘れるようなモノならきっと大したことじゃない。
見れば、驚いた。あのカレンが、少し心配そうにこちらを伺っている。その顔は年相応の、あどけない年下の女の子だ。
「少し、疲れましたか? 客人ですし、必要なら何か出しますが」
「……客人をついでみたいに言うなよ。それに今更だろ、いつも人を馬車馬みたいに扱っといて」
む、と何故か不満げに睨み付けてくるカレン。ただまぁ、心配してくれたのは嬉しい。ここは厚意に甘えよう。
「悪かったよ、心配してくれたのに。じゃあ紅茶とか貰えるか? 喉カラカラだ」
「ええ、では」
どうぞ、とカレンが先導する。どうせなら部屋でごゆっくり、ということなのだろう。続く形で、カレンの後ろをついていく。礼拝堂を出て、回廊へと。
外はもうすっかり夜で、数十分前とはまるで別世界だ。教会に降り注ぐ銀光が屋根に遮られて、虫に食われたように道行く廊下を照らす。六時くらいかと一人考えてみて、はっとなって懐から携帯を取り出した。今の時代これがある。パカッと開いて確認すると、六時三十分を回った辺り。そろそろ夕食の準備も終盤、と言ったところか。
カレンが、
「時間を気にしていますが……何か約束事でも?」
「いや、そろそろメシが出来上がる頃だなって。セラ……ああ、家政婦なんだけど、アイツの手伝い今日は出来なかったから」
「家政婦と一緒に小間使いですか。相変わらずですね」
「……アンタの毒舌もな。相変わらず修道女らしくグサグサ来て、涙が出てきそうだ」
そう、と興味など微塵もない薄情者。少しは話を広げたりしないのか、と一回言いたくなる。
「ところで」
歩くリズムは変えず、目線だけをこちらに向け、カレンは言う。
「あなたは、恨んでないのですか? あなたがそんな体になった原因である、遠坂凛を」
……それは、考えもしなかったことだった。
ここに俺を送ったのが遠坂なら、遠回しにそれはエミヤシロウを殺した片棒を担いでいることになる。
無論、遠坂だってわざとじゃないだろう。やむを得なくしたか、それとも完璧に第二魔法を使いこなせなかった故の事故なのか。正確なところなんて、俺には分からない。
でも、知らずの内にどろりと額から脂汗が流れた。傷口が切り開かれるような、胸の痛みを伴って。
「実際のところ、元の世界がどうなっているのか、あなたの周囲の人間がどうなっているのか……私の記録には一切ありませんし、ここで予想を立てたところで無意味に不安を掻き立てるだけです」
だからこそ、事実は徹底的に追求する必要がある。そのことに異論はないし、そうしなければ糸口など見つからない。けれど、
「……なんで今それを言ったんだ? 言う必要ないだろ」
「自覚が無いようでしたので。私としては、あなたが迷わぬよう、導こうとしたまで。あなたの監視が私のここでの務め、ならばと従ったまでです」
ぐうの音も出ない。だが、その通りだ。
こんな状況に陥れた魔術師に、思うところが無いわけがない。平穏で、ささやかで、繋がりがあったこの世界をぶち壊した誰かへの怒りは、この世界に来てからずっとあった。口に出したことはないが、憎しみすらあったような気がする。
もし今回の黒幕が現れたなら、きっと語ることもなく切り捨てようとしたに違いない。ここからは、色んなモノを貰ったから。
「……確かに驚いたけど、事情が事情だしな。遠坂は悪くないだろ」
「この状況で礼が言えるなら、あなたは腕を切り落とされても、平然と礼をしそうね」
「……ずいぶんと辛辣だな」
「報われない者は聖職者として見過ごせないので。特にあなたのように、毎日祈ってばかりの人間は」
それは……どういう意味だろう?
思わず首を傾げていると、カレンは澄ました顔で指摘する。
「だって、あなたイリヤスフィールに、自分のことを告げてないでしょう?」
「当たり前だろ、簡単には言えるわけが」
「衛宮切嗣やアイリスフィールには告げたのに?」
傷口から何かが漏れる。踏み荒らされたくないモノが、この女につまびらかにされていく。
「家族と言うならば、暮らした年月、貰った夢、そして何より命の恩人である衛宮切嗣が正真正銘あなたの家族のハズ。なのにその彼には、真実を伝えた。傷つけると知っていて」
「……言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「なら言わせてもらいますが。いい加減、イリヤスフィールに自身のことを話したらどうです?」
イリヤに自分のことを話す。それはつまり、エミヤシロウが既にこの世には居ない、ということを告白することだが。
「ダメだ、出来ない」
「何故?」
「イリヤはまだ幼すぎる。戦いに向いてないあの子に、これを言ったら壊れてしまうかもしれない」
「では何故? 何故あなたと同じように、この世界を愛し、家族を愛した衛宮切嗣には真実を告げたのですか? それとイリヤスフィールのことは、本質的には一緒でしょう?」
彼女が本当に指摘したかったのは、遠坂のことではなく、こっちだったらしい。カレンは何処までも平坦に、平等に、心に針を刺すように語る。
「あなたはかつて失ったイリヤスフィールのことを、今も悔いている。父親を奪い、子としての立場を奪い、そして家族としての責任も、何一つ果たせなかった。だからあなたは贖罪としてこの世界で過ごしていた」
「……」
「けれど、それは甘い毒。死者との対面、それだけを目指して禁忌に手を伸ばす魔術師すら居る中で、あなたが体験した日々はまさに燃えるように激しい、甘い猛毒。贖罪なんて上面を溶かし、真実から目を背けるには十分過ぎるほどの」
死者との対面。死霊魔術についてよくは知らないが、実際のところそこまで甘い話でもないのは確かだ。
だが仮にそれが実現し、思いのままに堪能出来るとしたら……恐らく耽溺し、何処までも堕ちていく。ヒトでなくても、それは命というモノの宿命だ。
「見ていられないわ。どんなときも別れを意識しておきながら、家族を深く愛するが故に結局
普通という言葉は難しい。定義をするなら、この場合魔術を扱わず、問題を起こさず、ただ円満に一直線に幸せになる。そういうことになるのだろう。
しかしそれは普通じゃない異物に壊された。だから異物は普通を演じて、何とか帳尻を合わせようとしている。
しかしそれは、自己の否定に等しい。
どんなに帳尻を合わせようとしたって、異物は普通にはなれない。例え家族であっても、記憶を継承しても。培ってきた魂が違うから。
「あなたはイリヤスフィールの兄にはなれない。ましてや、弟にも、家族にもなれない。あなたの求めるイリヤスフィールは、もう死んでいるのだから」
イリヤは死んだ。俺の前で。
過去は変えられない。過去とは記憶よりもはるかに堅く、そして肉体よりはるかに脆い。イリヤを忘れようが、イリヤが死んだことは無くならないし、イリヤを忘れない限り、彼女に対しての罪も背負い続けなくてはいけない。それをも忘れてしまったら、それこそ亡くしたモノへの冒涜に他ならないのだ。
「分かってるつもりだ。そんなこと、ずっと前から」
「だとすれば、何を躊躇う必要が? 全てを白日の元へ曝すことこそ、今のあなたの最優先事項だと思うのですが」
……カレンがここまで言うのは、何も俺が心配だからでもなく、さっき言った通り、ただ単に見ていられないのだろう。
例え姿形は同じでも別人だから、家族にはなれないし、共に居るべき人間は俺などではない。それでも俺はあの家に帰らなくては、きっと今の衞宮家は崩壊する。だから嘘をつく、演じる。
それなら全てを明かしてしまえば、罪悪感に黙殺されることもないが、それだけは出来ないと言い張るモノだから結局は中途半端。どうしたいのか、どうなるのかも分かっておきながら。
「今からでも遅くはありません。イリヤスフィールと、この世界の人間と手を切りなさい。
傍観者は言う。舞台に足を踏み入れて。
「もしもイリヤスフィールを、この世界の住人を巻き込むのであれば、しかるべき対処を取ります。
カレンは本気だった。本気で、俺と敵対してでも止めようとしている。証拠に、彼女の手元では聖骸布が舞い踊っていて、いつでも俺を捕縛出来ると言外に告げていた。
確かに。
この世界に来てから、自分が機械のように単調で、愚直な思考を出来なくなっている。それはつまり、今までのように正義の味方としての判断がくだせなくなったということ。
衛宮士郎は正義の味方でなくてはならない。お前に、それ以外の道は無く。ましてや他者を苦しめると分かっていて、それを行うのであれば、それは断罪すべき悪なのだろう。
いつか報いを受ける。
その日は恐らく、そう遠くはない。
「なあカレン」
でも。
「確かにさ。俺は一生、ここの人達の前では、演じるままなのかもしれない。衞宮士郎っていう平凡を。確かにそれを辛いって思うし、他人からすれば気味が悪くて、見れたもんじゃないかもしれない」
でも。
「ーーーー俺、好きなんだ。あの家族のことが」
きっと。これは、理屈なんかじゃない。
「爺さんも、アイリさんも、セラも、リズも、クロも、そしてイリヤも。みんなのことが、俺は好きだ。あの場所を壊しておいて勝手だけど、好きなんだ。みんなと一緒にいられる、あの家が」
偽物の家族、偽物の繋がり。けど、それが俺に与えてくれたモノは、きっと本物の家族では得られなかったモノ。星よりも儚く、閃光のように煌めいた、人の暮らしというモノ。
それが無かったら、俺は知らないままだっただろう。
あの花火のように輝かしい日々が、世界中の誰しも送っている、失うとも思っていない、二度と見ることのない星屑なのだと。
人を殺すということは、その星屑を消して、輝くことすら出来ない、デブリにしてしまうことなのだと。
……それは、正義の味方の行いじゃない。
俺を助けてくれた
俺が憧れた
「俺はあの家族が好きだ。だから、どんなことをしてでも、元の世界に帰るそのときまで、俺はそこに居たい」
「……既に毒が回っていましたか。そこまで好意を抱いているのなら、今度の別れはそれこそあなたの全てを引き裂き、すり潰し、粉々にして砕くでしょう。名も知らないときとはわけが違う、本物の喪失を。それでも」
「ああ。それでも、俺は一緒に居たい」
胸を焦がす罪悪感も、手先を伝わる温かさで平気でいられる。
脳を蝕む侵食も、共に歩く心地良さで笑っていられる。
いつか訪れる別れも。
それまでの輝かしい日々があったなら。
涙を流したとしても、この体は前を歩いていける。
「イリヤには本当のことを話さないし、本当の俺を知らなくて良い。全てが終わったら話すさ。だからそれまではイリヤ達と一緒に居たい」
「……イリヤスフィールが子供だと言ったのは誰かしら。あなた、たった十一歳の少女に、命を背負わせるつもり?」
「ああ」
カレンが目を見張る。何を驚くというのか。そんなの、当たり前だ。
「カレン、イリヤを舐めるなよ。アイツは俺を守るって言ったんだ。そりゃ嫌だって言えば、戦わせない。でもお前が同じ質問をしたところで、イリヤは絶対に頷くぞ。なら止めない。止めたところで、勝手に出てくるだろうしな」
何せ彼女は、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。臆病で、足が早くて、妖精のように可憐な魔法少女で。
そして、俺の妹だ。
いつの間にか足を止めて、会話していたことに気づく。回廊の先には明かりのついた部屋があり、きっとあそこがカレンの部屋なのだろう。
踵を返す。元来た道を引き返す。
「何処へ?」
「帰るんだよ。お茶は、また今度な。そんな雰囲気じゃないし」
「そう。なら三つほど、忠告をしておきます」
忠告?
「夜道には気を付けなさい。今の話で、私を徹底的にコケ……いや、辱しめられた憂さ晴ら……いえ、報復をするかもしれませんので」
「お前の私怨たっぷりだな……」
「冗談です。デキル司祭はこういうジョークを言うモノ。ただ気を付けた方が良いのは確かです、最近は何かと物騒ですし」
カレンは続ける。
「二つ目。私の目的はあなたを導くこと。あなたが正しい道に進むためにあえて言うわ、衛宮士郎。それは、依存よ。愛は時に底が無い沼のように絡めてヒトを離さず、食らいつくす。愛に食われたくないのなら、精々節制を心がけることね」
「ソイツはどうも。でもそれを依存だって言うのなら、俺はずっと夢に依存してきたんだ。その対象が変わるだけだ、何も変わらない」
だが、
「結果は変えるぞ。この世界が可笑しいのなら、俺が元に戻す。イリヤに悲しい想いはさせない。世界もイリヤも、俺はどっちも守る」
「それはまた大した妄言ね。まるで自らを神か何かと勘違いしているような冗談、修道女の前でやるにはエッジが効いてるわ。点数高めよ」
冗談じゃないっての、ブッ飛ばすぞコイツ。
次で最後、と。そこで初めて、カレンが言い淀んだ。
「……これを伝えるべきか悩みましたが、あなたのその敬虔な姿勢に応じるべきでしょう。敵の名前を」
「……敵の名前?」
「ええ。私達の敵、その名は」
瞬間、世界が軋んだ。
ぎぎぎぎ、と。ガラスの上にある砂を、一斉に傾けたような。そんな、脆くて、しかし何かの流れが変わったような音が、何処からか聞こえてきて。
「ーーーー彼の名前は、
ーーinterlude1-2ーー
振り返りもせず、素っ気ない態度で教会から去っていく客人。その背中へ、カレン・オルテンシアは祈ることで返す。
少年の体は一年前に若返ったことで、少し背丈が縮み、筋肉など比べるべくもない。はっきり言って、あの体でよくクラスカードの英霊に戦えるモノだと感心してしまう。
だがその顔付きは、以前と比べても見違えるほど、生気に満ち溢れていた。
いやそれでは語弊があるか。正しくは、吹けば消えるような、そんな空虚な気配が無くなった……と言うべきだろう。
たった数ヵ月前まで、脇目も振らず、ただ前にしか足を踏み出せなかった少年。そんな、いっそ生き急いでいると言って良い少年が今隣に居る誰かと歩幅を合わせて、一歩一歩歩いている。
そうすることが出来るようになったのは、偏にイリヤスフィールなどの存在のおかげだろう。
笑ってしまうくらいの、感情論。しかし感情論もバカにならない。何せ感情とは心という城を武装する、言わば要塞だ。そしてその感情論が単純であるほど、その心は変わらない。
カレンは明かりのついた一室で止まると、扉を開け放った。
簡素な造りの部屋だ。窓は一つだけ、ベッドも壁に添えるようにあり、あとはテーブルと椅子、その上にある古めかしいオイルランプだけだ。おおよそ人の住む環境には見えない。
だが、それは居た。
女。年頃は二十代前半を過ぎたくらいだが、表情が少し固い。その固さと同じように全身をスーツで身を固めた姿は、さながら鎧を着た軍人だ。
バゼット・フラガ・マクレミッツ。封印指定の執行者にして、クラスカード回収の任を請け負っていた前任者。そして、カレンと同じ、この世界に迷い込んだ異物。
「ノックもしないで入るとは。前々から思っているのですが、その振る舞いは教会で問題視されないのですか?」
「私は人を選んで態度を変えますから、ご心配なく。あなたは親しみやすいわバゼット。ええ、ええ、とてもね」
「これだけ純粋な悪意を感じるのも、昨今では珍しい。その点あなたはわかりやすく敵だと判断できて、私としてもこれ以上ない喜びです」
バゼットの視線はカレンへ向けられていない。視線の先はテーブル。そこに転がる五個の鉄球だ。布巾で丁寧に拭き取りながら、指でルーンを描き、異常がないか簡易メンテナンスをしているのだ。
カレンはその様子を眺めつつ、
「すみません。連れてきて無理矢理監禁する手筈でしたが、逃げられてしまいました。私の落ち度です」
「その割りには狼狽えもしない辺り、最初から連れてくるつもりなど無かったのでは?」
片方の眉をあげ、カレンは首を捻ってみせる。その口元は、少し歪んでいる。
「遠坂凛のことで釣れるかと思っていたけれど、違ったみたい。帰り際にそれとなく訂正されたわ」
それは三つの忠告をした後だった。
やや疲れを見せつつも、衛宮士郎が告げてきたのだ。
ーーああ。それと、遠坂が俺を送った、っていうのは嘘だろ。遠坂は確かにうっかりもするし、こんな博打染みたことだってやるけど、そういうときは絶対に成功する。悪運って奴かな、遠坂はそういうのにめっぽう強いんだよ。
だからあり得ない、と断言し、彼は去っていった。
事実その通りだった。カレンとバゼットは遠坂凛によってここまで来たが、衛宮士郎だけは違う。
「分かってはいたけれど、衞宮士郎は変わってしまったわ。悪い方向ではないけれど」
「弱点が多くなってしまった、と。確かに、今の彼ならイリヤスフィール以下数名を人質に取られてしまえば、その時点でもう戦えなくなる。それは美点でもありますが、この戦いでは致命的だ。そうなれば私達は負ける」
メンテナンスが終わったのか、バゼットは椅子に立て掛けていた筒状のラックをテーブルへ置く。
「それで?」
あくまで事務的に。あくまで形式的に。ラックへ、鉄球を一つずつ戻しながら、カレンへ問いかける。
「不安要素は無くしておきたい。美遊とクロ、でしたか。この二人はまだしも、イリヤスフィールはあらゆる意味で未熟。精神も、肉体も。子供の癇癪一つで全てを吹き飛ばされてはたまったものではない」
ガン、ガン、ガン。
まるで特大の振り子が刻むように。バゼットの目の色も変わっていく。
「ええ、そうね」
「では?」
執行者はラックを肩に提げ、立ち上がる。オーダーを待つ。
「試練を与えましょう。死が全てを別つ前に、あなたの手で粉砕すれば、彼の答えも変わるでしょう」
「了解しました。なら、そのように。手筈はこちらで組んでも?」
「構いません。私はカナリア、あなたはルークでしょう? 封印指定は専売特許に任せます」
小さく目で返事をし、バゼットは背筋を伸ばして部屋から出ていく。カレンはただ一つ残った、テーブルに鎮座するオイルランプを見つめる。
最初から説得出来るとは思っていなかった。だからバゼットの居る部屋に連れ込んで無力化した上で、イリヤスフィール達との接触を断ち切ろうとしたが……自身の修道女としての性には抗えなかったらしい。これで、穏便に済ませることも出来なくなった。
「まぁ、それはそれで」
衞宮士郎も、理想の限界を思い知らなければ、割り切ることは出来まい。何より今、彼がどう動くのか。それを見極めるためにもこれは必要な試練だ。
カレンは思い出す。
あの夜。クロエという少女が生まれた日。帰ろうとしていたカレンに、とある人物達が告げてきたことを。
ーー君だね、うちの娘にアサシンなんてモノを送り込んだのは。
一人は、
ーー次はない。今度同じことを、頭の隅にでも思い浮かべてみろ。豚の餌にして、魂まで恥辱してやる。
もう一人は、誰よりも真っ直ぐな、ただただ願いの欠片を握りしめて祈る、万華鏡に迷い込んだ少女。
ーーイリヤのお兄さんは、何処ですか?
ふっ、と息をオイルランプに吹き掛ける。僅かな明かりさえ失い、部屋を暗闇が支配する。
未だ闇の中。
だから無力な修道女は、今も祈り続ける。
「主よ。どうか我が声を聞き、あなたの耳を我が願いの声に傾けてくださいーーーー」
この世で、願いが叶うことは必然でなくとも。
ーーinterlude end.