Fate/kaleid night プリズマ☆イリヤ 3rei!! 作:388859
『ああーー安心した』
その声と共に、衛宮切嗣はそれから目を覚ますことは一度も無かった。 眠りは速やかに、しかし何処までも深く。
二人で座っていた縁側は寒くはないけれど、今思えば、心はその前から冷めていたのだと思う。 そう、俺に人としての心は、初めから欠落していたのだ。
それから、衛宮士郎は正義の味方として、今日までを生きてきた。 鍛練し、大きな戦いを経て、大事な人を守り通すことも出来た。
されど、それで良かったのかと聞かれれば……良いわけが、ない。
『爺さんの夢は、俺が』
そう言って、過ごした六年。 けれど、その夢が本当の意味で叶えられたことは、一度もない。
それは俺が未熟だから、という理由ではないだろう。 恐らくこの先どんなに力をつけ、英雄と呼ばれることになろうとも、それは変わることはない。
何故なら、全てを救うことは出来ない。 九を救うことは出来ても、一は救えない。 救われてしまえば、九の中からまた一が溢れてしまう。
そうやって救われたから、それがよく分かった。 だからこそ、十であろうと努力するのだ。
『そうだ、綺麗だったから憧れた!!』
そう言って、絶望した自分に、衛宮士郎はこう返した。
間違いなんかじゃない。
無くしていったモノと、落としていったモノがあって。 例え自分自身を殺したくなるほど恨むことになろうとも、きっと。
誰かのためになりたいと思ったことは、絶対に、間違いなんかじゃないんだから。
……だから、それだけが頼りだった。
何度夢半ばで倒れようと、それだけが、夢へ繋がる道だと信じた。
『じゃあ、殺すね』
けれど。 ならどうして、俺は彼女を救うことが出来なかったのだろうかーー?
意識が、覚醒する。
「い、づ……」
耳鳴りが酷い。 まるで鐘を近くで聞いているかのような音は重く、そして何処までも深く響いている。 身体はふわふわしていて、浮いているような感覚すらあるが、目がまだ光になれていない。 十分に慣らしてから、ようやく目を開けてみる。
「ぁ……う?」
そこは、見慣れない/見馴れた部屋だった。 カーテンからは朝日が差し込み、勉強机と俺が眠っているベッドを照らしている。 光の具合から朝は七時頃か、辺りを見回してみる。
ベッドのすぐ近くには何故かある穂群原の制服と、床には投げられた教科書。 倫理と数Ⅱということは、この部屋の主は高校二年生か……それに制服は俺とほぼ同じサイズで、背丈なども同等。 漫画などはあるが、精々数冊程度で、とてもではないが殺風景という言葉に尽きる。
「……何処だ、ここ」
掠れた声を発して、身体を起こす。 俺はそのままもう一度、部屋を一通り見たが……さして見知ったモノなどない。
つまり、ここは俺ーー衛宮士郎の知る場所ではない、ということになる。 しかし何をどうすればそうなったのか、思い出そうとしても中々頭痛のせいでボヤけてしまう。 俺は頭痛に耐えながら、意識を失う前のことを思い出す。
「……っ、」
朝……いや朝は何もない。 昼も何もなかった、とすれば何かあったのは夕方。 増してくる鈍痛を押し留め、俺は更に記憶を探る。
「あ」
そうだ。 俺は確かあのとき、遠坂の家で魔術の鍛練をしたハズだ。 そうして色々話して、宝石剣の設計図に触れて……。
「……触れて、どうなったんだ?」
触れて、魔術が発動したところまでは、何とか思い出せる。 しかしその後、肝心の何があって、どうなったかを全く思い出せない。
いや、思い出せないのではない。 思い出すことが出来ないのだ。 記憶が無いわけではない。 確かに何かあったハズだが、あのとき魔術が発動したせいか、それがハッキリしないのだ。
「……困ったな。 これじゃどうしようもない」
いや、間抜けにもほどがある。 アレほどの魔力からして、あの魔術は遠坂ですら発動するのが困難だ。 とすれば、あの魔術を設計図に組み込んだのは、遠坂の大師父……第二魔法の使い手にして宝石剣の持ち主、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグしか居ない。
遠坂が触って平気であった事から、あの魔術は遠坂の血縁以外が触れると発動する、トラップのようなモノか。 そう考え、少しぞっとする。 魔法使いのトラップなぞ食らえば、俺なんてひとたまりもないからだ。
「……何が起きたのか分からないのが怖いな」
身体にあるのは莫大な疲労と頭痛、あと耳鳴り程度か。 後は、魔術回路ーー?
「……待て」
可笑しい。 いつもならすっ、と浮かぶ撃鉄が、中々浮かばない。 苦労して浮かんで、撃鉄を下ろしてみるが……これは、回路が少なくなってる?
「……
一つの線が浮かぶ。 そこから回路が次々と広がるが、その本数はいつもの半分以下。 精々四、五本と言ったところだろう。
「……どうなってんだ、本当に」
魔術回路の減少、いや凍結か? 恐らく記憶と同じで、回路はあっても起動出来ないようになっているのだ。
「はっ、ふ、ぅ……」
魔術を解く。 解析を使っただけなのに、息切れしかけている。 聖杯戦争序盤を思い出すな、この感じ。
まぁこれ以上何かしたところで、進展するわけでもなし……大人しく、足場から固めた方が良さそうだ。
「よいしょ」
ぐっ、と足に力を込めて立ち上がる。 ふらつきながらもカーテンまで歩き、開けてみるが……そこに映った姿は、想像以上に酷かった。
上は穂群原の制服。 下はスウェット。 背丈は一年前に戻っており、顔つきも同様だ。 これは……若返った? なして? どうなってんの?
「……分からん」
正直、思考が全く追い付いていない。 かろうじてボケることで自分を保てはいるが……ペタペタと顔を触り、そこで。
「ん?」
こつん、と肘が何かとぶつかった。
それは写真立てだった。 この部屋の主が大事にしているのか、それには傷一つない。 勉強机に置いてあるそれに気づかなかった自分も大概間抜けだが、これはチャンスだ。 もしかしたらここが何処か、その手がかりがあるかもしれない。 試しに手に取り、写真を見る。
「……え?」
が。 そこで、心臓が凍りついた。 そこにあった写真が、余りに奇妙だったからだ。
その写真には数人の男女が、家の前で仲睦まじく笑っていた。 家族で撮ったモノなのだろう。 男が二人に女が四人、笑っている。
でも。 その写真は、あり得ない。
何故なら。
「なん、だ、これ……」
その写真には、イリヤと切嗣、そして俺が写っていたからだ。
……さながら出来の悪い絵を、遠くから見ているような感覚だった。 この上なく醜く、色褪せた落書き……そのハズの写真は、何故。
どうして、こんなに幸せそうに見えるのかーー?
「……ぶ、っ、つ」
吐き気が込み上げる。 アーチャーの記憶を見たときよりも酷い吐き気に、思わず口元を手で押さえた。
なんだ、これは。
俺とイリヤならば、まだ分かる。 切嗣とイリヤなら、まだ分かるだろう。
けれど俺とイリヤ、切嗣と三人とも並ぶことなど……そんなことはあり得ない。 何故なら切嗣が死んだのは六年前、そのとき俺は中学生ですらない。 なのにこの写真はどう見ても、俺が高校生程度まで成長している。
それに何より、イリヤと切嗣は既に死んだのだ。 こんな写真はあってはならない。 可能性としてあったとしても、そんなことが現実になるなんて、それでは。
「……っ」
それでは、あの戦いは何だったのか。
誰もが秘めたる願いがあって。
誰もが生きてて欲しかった、あの戦争で。
そのせいで死んだ、イリヤと切嗣は、一体何のために。
「……ぁ」
怖い。 この写真を認めてしまいそうになるのが、怖い。 幸せに溢れたその写真が、求めたモノなのだと。
だから、胸が締め付けられる。
当たり前のようにみんなで笑っている、優しい世界。 その景色の真ん中で、元気に笑う彼女を見殺しにしたのは。
一体、誰だったのかーー?
「……あ、ァっ……」
身体が動かなくなっていく。 脈動し、何かに塗り替えられていく。 奥底に居た誰かが、衛宮士郎の全てを奪おうとしている。
「……っ、ァ」
俺の名前はーー衛宮士郎。
学校はーー穂群原学園■年/穂群原学園高等部、二年。
将来の夢はーー正義の味■/未定。
好きな人はーーまだ居ない/遠■■。
家族はーー親父、義母さん、セラ、リズ、そしてイリヤ。 自由奔放な家族だけど、それが自然体の家族だ。
「やめろッ!!」
身体が熱い。 記憶が曖昧になる。 全てが貫かれ、一つになってしまう。 脳裏には知らない記憶が断片として走り抜け、ギチギチと俺を覆い尽くす。
まるでがらんどうの自分に、本来の中身が入ったかのような。
「……づ、あーー」
そうして、沢山の景色を見る。
名前も知らない誰かと、一緒に走るイリヤ。 それを遠くから見守る切嗣の背中に、おんぶしてもらう自分。
料理をしてみた自分と、それをダメだしするセ■。 その失敗作を涙ながらに食べるイリヤ。
家族みんなで手を繋いで、笑ったあの時間。
「……、」
ああ、遠い。
何度も夢見てやまなかった家族の姿は、俺にとって余りに遠い存在だ。 これからどんな人と出会い、守り抜いたとしてーーこれを越える景色など、俺には作り出せない。
そして同時にそれは、俺が決して味わうことのない、遠き理想郷の世界だった。
「……」
膝をついて、俯く。 その幸せに屈服する。
……どうしてこうならなかった。
どうして、こうしようと思わなかった。
みんなが笑っている世界。 イリヤが、切嗣が、大事な人が居る世界を、どうして俺は。
分かっている。 そんなことは無理だということを。 俺が生きたのは、切嗣に救い出されてからだ……四度目の聖杯戦争を防げなければ、この景色は作り出せない。
だから憧れた、それを夢に見た。 そうじゃなければ、イリヤが余りに救われないから。
「……」
けど、それは誰のためだったか。
本当にイリヤのためで、その景色に俺が居なくても良いと、そういう覚悟を持っていたのか。
否、断じて否。
……十一年前の火事以降、俺は一度死んだと思って過ごしてきた。 それより前の記憶に蓋をし、前を見て這ってでも生きてきた。 そう生きなければ、立ち止まってしまいそうだった。
でもーーもしあのときから、全てをやり直せたら。 恐らく死んでいった人達には届かないだろうけど、そう思ったことは何度だってある。
俺だって、蓋をしたハズの記憶を開けた。 それを頼りに家があった荒野で母を探そうとしたし、いつも自分を迎えに来てくれる父を待とうとして、公園でずっと立ち尽くしたことだってある。
やがてもう居ないのだと受け止め、そんなときにこう思うのだ。
ーーこれからは、あの人達の分まで生きよう。
死んでいった人間は蘇らないから、その人達の全てを背負って、生きようと思った。
だって、そうでもしなきゃいけないだろう。 そうでもしなければ、自分が壊れてしまうから。
ーーお兄ちゃん。
だから。 今度は、守らなければならなかった。
例え身を粉にしてでも、自分の側に居て欲しかったから。
そのための六年、そのための魔術。 しかしそれが全て無駄になった今、もうそんなモノに意味はない。
だから、もしも全てをやり直せるのならば、それはどんなにーー。
「……それは」
普通なら突っぱねられる。 まだ望むだけなら、絶対に。
……だが、ここは違う。
ここはその全てが守られた世界だ。 全てを巻き戻して、全てが終わった世界。 成し遂げられた後になってしまったここにーー俺の居場所はない。
「……、ない」
侵食は既に手足どころか、脳まで及んでいる。 直に俺の意識も、誰かに塗り潰される。 白熱した頭では誰かすら分からないが、それでもこれは俺にとって最上の幸せだ。 きっとこれから先過ごす人生より、幸せに満たされて消えることが出来る。
ーーこの景色は、壊させない。
そんな声が、体の中で木霊する。
勿論だ。 壊すつもりなんて、微塵もない。 これを壊せる奴も、壊させる奴も絶対に許さない。
だからこの身を委ねなければならない。 壊す気がないと言うのならば、この身をーー。
「……ない」
なのに。
「ーー要らない。 こんな幸せなら、俺は要らない」
俺は、
ーー……。
声が息を呑む。 まるで受け入れることを待っていたかのような、そんな優しい誰かは、俺の答えに声を詰まらせたようだ。
何も考えられない頭。 鉄のように重くなった手足。 自己が漂白され、懺悔に押し潰される中でーーそれでも、出てきた想いだけは、確固たる意志を持って告げる。
「……死者は、生き返らない。 起きてしまったことは、戻せない。 そんなモノで出来た幸せなら、要らない」
否定するだけで、全身を貫かれるような痛みが走る。 やめろと言ってくる身体に、心だけは負けないよう、歯を食い縛る。
だけど、悔しくて涙が出た。 あの苦しみを思い出すだけで、その涙は止まらなかった。
……ずっと何処かで望んでいた願い。 全ては消えるだけで、済むだろうに。 それでも。
「……あぁ」
それは、この上ない裏切りだと知っている。
今までの自分にも、大切にしてきたモノに対しても、その全てに対する裏切りなのだ。
何度も涙した。
何度も絶叫した。
……それでも、得たモノがあって。 その数々を、尊いと思った。 自分が歩んできた道程でなければ、きっと得られない幸せを。
確かにその道すがらで、溢れてしまったモノもあったけれど。 振り返って、手を伸ばせれば良いのにと、そう思ったこともあったけれど。
「そんな可笑しな幸せは、望めない」
だからこそ、決して自分だけは。
「置き去りにしたモノのためにも、自分を曲げることだけは、出来ない」
要は、それだけのこと。
この幸せは、とても眩しかったけれど。
それでも俺は自分を、曲げられないだけ。
……だから失せろ。
俺はまだ、こんなところで死んでやることだけは、出来ないんだからーー!!
「……
呪文を紡ぐ。 自己を表す心の言葉は、それだけで白熱していた頭はクリアになった。
魔術回路は起動したが、今の俺では身体の中に居る誰かを追い出せないだろう。 ならば追い出すのではなく、叩き出すのみ。 誰だか知らないが、俺の幸せを奪うというのならーーそんな奴は身体から、一刻も早く叩き出す。
「
一本の線をイメージする。 それはドロドロに溶ける一歩手前まで熱せられた、鉄の棒だ。 それーー擬似的な魔術回路を精製したならば、後は簡単だ。 それを身体に馴染ませれば良い。
脊髄から何かが入っていく。 無論イメージではあるが、ズブズブと入るそれは俺がさっき作った擬似的な魔術回路だ。
本来魔術師は、魔術回路を形成すれば、後はオンオフが効くようスイッチのようなモノで制御する。 何故かと言うと、そもそも魔術回路とは本来眠っているモノであり、それを起こすのは命懸けの作業なのである。
つまり、形成するのは一度きりなのだが、幸か不幸か俺はその作業を教えてもらえなかったので、自力で魔術回路を何度も作っては消すを繰り返したわけだ。
当然、今やっていることだって命懸け。 ミリでも魔術回路をいれる角度を間違えてしまえば、内蔵はグチャグチャ。 場合によっては心臓すら貫く。
だがーー最早その工程すらも、俺にとっては手慣れた作業。
「……!」
本来十秒で完遂出来る工程を、時間をかけて行う。 いわばこれはチキンレースだ。 俺が消えることが目的なら、この身体は例外。 誰かがこの身体を奪おうと俺の身体に居るのなら、ソイツが逃げるほど危機的な状況に陥れば良い。
「……、ッ……」
身体の中から悲鳴が上がる。 俺の目論み通り、俺を消そうとした誰かは身体の中から逃げようとするが、何処から出れば良いのか分からないのだろうか。 一体になりかけていた弊害か、がむしゃらに逃げ回るソイツのせいで、座禅を組んでいる身体が動きそうになる。
「ず、っ、……!」
不味い。 このままでは、魔術回路を馴染ませることが出来ず、失敗に終わる。 静止しなければ、ミリ単位の細かい作業など、不器用な俺に出来ようハズもない。
だがその誰かは、そんなこと知ったことではないのか。 とにかく身体を這いずり回り、そして。
魔術回路が、背骨から飛び出した。
「ぐ、つ……ァ……!?」
何かが破裂する。 それが血管だと気づいたときには、俺は魔術回路の制御を手離していた。
失敗だ。 口の中までせり上がってくるこの感覚は懐かしいが、そんな感覚に浸ってしまえば、衛宮士郎はこの世から本当に消えてしまう。
手綱を握る。 飛び出した魔術回路を引き抜けば、血は溢れてしまうが、馴染ませればそんなことは起きない。 致命傷だけは避けるべく、お、れ、はーー。
「……!?」
瞬間。
この身に何が起きたのか、それを理解した。
「ぐ、ァ、つ、ぶーー!?」
十七年生きてきた、とある少年の記憶。 普通であるが故に、それが可笑しい少年の全てを、この身に刻み付けられる。
早送りというより、時間の感覚が引き伸ばされて、実際に自分が生きてきたかのような、不思議なそれは、瞬く間に終わる。
「……づ、ぁ、っ……!!」
息を荒くして、びくんと跳ねる。 カーペットに倒れ込んだ身体は、全く動くことが出来ない。 けれど何故か、妙な喪失感が心を満たしていた。
……それは身体の中に居た誰かが、死んだ証。 本来なら魔術回路の暴走で死ぬハズだった俺を、その誰かが庇ったのだ。
「……ぁ」
そこで、その誰かの正体が分かった。
……宝石剣のトラップ。 俺はその効果が分からなかったが、手掛かりは確かにあったのだ。
知らない記憶の断片、身体が誰かに奪われる感覚、着ていた服の不自然さ。 そして何よりーー第二魔法すら起こす宝石剣の、トラップ。
これを説明するのは簡単だ。 つまり俺は、誰かに拉致されたわけでも、身体を奪われかけたわけでもない。
俺は、跳ばされたのだ。
無数にある、平行世界の一つへ。
しかし、ただ跳ばされたのでは説明がつかないことが多々ある。 だがここに、一つの可能性を入れてみれば、それも解決してしまう。
……トラップは、それだけではなくて。 もし平行世界の
「……あぁ」
本当に、魔法使いとは悪趣味だ。 そんなことをすれば何が起こるのか、分かっているだろうに……わざと第二魔法の失敗をトラップとして仕込むのだから。
もしそんなことが起きれば、肉体は融合し、魂は二つとなる。 一つの肉体に二つの魂は存在出来ないし、同じ世界に同一人物は存在出来ない……俺とアーチャーの関係と同じだ。 世界とは矛盾を許さない。
故に。 世界から修正の対象となり、その苦しみはどちらかが居なくなるまで続く。
……今はもう、最初にあった頭痛や吐き気はない。 それはつまり、俺ではなく、この世界のエミヤシロウが死んだのだ。
恐らく、俺が失敗した魔術のせいで。
「……ちきしょう……」
思わず声を漏らした。 そうしなければ、目から何か零れ落ちてしまいそうだった。
あの映像が間違いなく、今ここに実在するとしたら。 俺は、その中心に居たエミヤシロウを、殺したことになる。
この幸せな記憶を持っていた、彼を。
これから先、魔術なんてモノを知らずにずっと生きていって、沢山の人に囲まれて死に行く彼を。
……俺は自分の求めた幸せを、認めないという理由だけで、壊したのだ。
「……ぁぁ」
自分のやったことが、間違いだとは思わない。 あの地獄から生還したからには、そこに置いてきた日々を、裏切ることだけは出来ないからだ。
けれど……余りにその、粉々に壊れた幸せの破片は、俺に深々と突き刺さっていた。
「ぁぁ……!!」
憧れないハズがなかった。
俺には、あんな幸せなんてなかった……!
地獄から生還して、切嗣が居なくなってからも、何処かで思っていたのだ。 切嗣と一緒に居られたなら、それはどんなに良かったかと。 自分に母が、姉が居たら、どんなに幸せだっただろうと。
でも家族どころか、切嗣も居なくなって。 辛くも苦しくもない、歪なその日々で、それでも得たモノは尊いと思った。
「……あぁ……」
でも、きっと。
俺が自分の幸せを守りたかったように。
彼は自分の幸せを、心の底から守りたかったのだ。
と、そのとき。
「ーーお兄ちゃーん? 今日弓道部の朝練じゃないのー?」
部屋の外から、そんな懐かしい声が、聞こえた。
「……イリ、ヤ」
今の声は間違いない。 聞き間違えるハズがない。
俺の姉である、イリヤの声だ。 エミヤシロウは弓道部に入っていた、朝練も欠かしていなかったし、いつまでも起きてこない俺を心配して来てくれたのだ。
「……なんて」
間抜け。 エミヤシロウはもう居ない。 俺のせいでこの世には居ない……とすれば、俺は何て彼女に何と言えば良い?
君の兄は殺したと? 自分の身の可愛さで、何も知らないエミヤシロウを殺したのだと……そう言うのか?
「……」
言えるわけがない。 絶対に、彼女にだけは、この家の住民には知られてはいけない。
だとしたら、答えは一つ。
「……ああ、ちょっと待っててくれ」
なるべく平静を保ちつつ、俺は立ち上がる。 そのまま下のスウェットだけ脱ぎ、近くにあったスラックスを穿く。
そして、部屋のドアを開けた。
「おはよう、お兄ちゃん。 あんまり起きないから、セラがカンカンだったけど、私がフォローしといたからね。 まぁ、怒鳴られるのは確定かもだけど」
そこにはーーもう夢でしか見られない、一つの幻想が立っている。
さらりと流れる銀の長髪は、まるで雪のようだった。 赤い、ころんとした大きな目は、純粋な色に染まっていて、体の小ささも相まってか、小動物染みている。
それは自分の知るイリヤスフィール・フォン・アインツベルンと、とても酷似していた。
……でも何と無く、分かる。
この子は、俺の姉ではないことを。
自分が会いたかった、一緒に居たいと思った、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンではないと、ハッキリ。
……なのに、何故だろう。
「あ、あれっ? ど、どうしたのお兄ちゃん? 何で泣いてるの?」
どうして、こんなにも両目から想いが溢れ落ちるんだろう。
涙は、止まることを知らなかった。 しゃくりあげるわけでもなく、ただただ泣き続けるその様は、本当に不気味の筈だ。 玩具のブリキ人形が泣くとしたら、きっとこれ。
……例え、別人でも。
ここに、イリヤは居る。
そしてそんなイリヤの兄貴を、奪った自分が居る。
それで、胸の中のモノを勝手に出た。
「ねぇ、お兄ちゃん……ほ、ホントにどうしちゃったの……?」
「……ごめんな、イリヤ。 ダメな兄貴で」
イリヤの頭に、ぽんと手を置く。
触れてはいけないものだとしても、責任だけは果たさなければ。
そうでなければーー死んだエミヤシロウが浮かばれない。
と、ふと思う。 エミヤシロウなら、イリヤを抱き締めるだろうか。 不安な妹を安心させるために、強く。
……それは俺の役目ではないのかもしれない。 本当は俺ではなく、エミヤシロウしか許されないことだ。
兄貴であるお前の代わりは出来ないけど。 それでも、奪った責任だけは、果たし続けよう。
「……もう、一人になんかさせないから」
「え?」
頭に置いた手で、イリヤを撫でる。
その温かさを忘れないためにーー何よりエミヤシロウにそれが伝わるように、俺は告げる。
「もう二度と。 お前を、イリヤを、一人ぼっちになんかさせないから……絶対に、俺がイリヤを守るから」
手の平から伝わるのは、動揺だけ。
不安など、彼女には既にない。 それだけで儲けものな気がして、笑った。
俺がお前を殺したのは、必然だった。
だからこそ、代わりにお前の幸せを受け継いでいく。
俺の命は、もう俺一人だけのものじゃない。その幸せを受け継いで、お前が守りたかったモノまで、俺が必ず守る。
……いつかは、話さなければならないときが来るとしても。 俺が、元の世界に戻るときが来ても。
それでも絶対に俺は、正義の味方として、イリヤの兄貴として護り抜く……それを、ここに誓おう。
「だから」
また会うときまで、ちょっとだけ待っててくれ、遠坂。
俺はそれまで、この子を護らなきゃいけないから。