Fate/kaleid night プリズマ☆イリヤ 3rei!!   作:388859

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夕方~エーデルフェルト邸/黒の疑惑、白の不信~

ーーinterlude3-1ーー

 

 

 暗い、海の底で。 わたしはあなたと出会った。

 

『だいじょうぶか、イリヤ?』

 誰かが小さな手で、転んだイリヤを立ち上がらせようとする。 しかしイリヤは、みっともないことにわんわんと泣いてばかりで、何度やっても立ち上がれそうになかった。

 子供心に、なんて惨めだと、わたしは思った。 こんなぬるま湯に浸かっておいて、そんなことで声を張り上げて。

 なんて無様で、醜い。 ずっと辛いわたしなんかより、ずっと恵まれてるくせに。 恐らくイリヤを立ち上がらせるため、その誰かも他の大人と一緒のように、甘い言葉をかけるのだ。

 が。

 

『……イリヤ』

 

 泣き止まないイリヤと、目線を合わせる誰か。 あどけない視線が、わたしの視線とぶつかったときーーわたしはこれまで、感じたことのない何かを感じた。

 普通、人が他人に手を差し伸べるとき、優しさだけでは助けない。 そこに愛情だったり、打算的な考えだったり、下劣な情を秘めていたり、何らかの感情が混ざりあっている。

 しかし、その目は本当に純粋な、混じりけがなかった。 ただ守りたい、それだけの深い瞳に、わたしは吸い込まれそうだった。 それこそこの暗い場所から、飛び出してしまいそうなくらいに。

 

『なあ、イリヤはいま、いたいか?』

 

『ぅっ……、うん……っ』

 

『そっか。 なら、やくそくだ。 これからさき、おれはなにがあっても、おまえをまもる。 あにきとやくそくだ』

 

 少年が提案し、少女はそれに頷く。 手と手が触れ、契りを結ぶ。 簡潔で、だからこそ想いで交わす約束は、並大抵のことでは破棄されない。 それを無意識で分かっているから、イリヤは泣き止んだのだ。

 いつの間にか、わたしまで指切りをしていることに気づく。 けれどそれで良い。 彼は、自分を守ってくれる。

 もう、十年も前のこと。

 諦めと絶望に取り込まれていたわたしに、願うことの意味を教えてくれた、初めての記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 燭台の火はか細く、室内を僅かに照らすだけで、床に落ちているモノすら、はっきりとは認識出来ない。 まるであやふやな世界に、一人取り残されたようだ。

 しかしその顔はしっかりと見える。 疲れからか、少し陰りが滲み出ている彼女ーークロは、訪問者を招いた。

 

「あ、ホントに来てくれたんだ。 優しいね、お兄ちゃんは」

 

 純真な表情と声。 しかしその体は魔力殺しの布に巻かれ、更にはこの部屋の魔術によって力を大きく制限されている。 来るモノを拒まぬ、そして逃がさぬ工房において、逆にその声は異常だった。 平静を保ち、小鳥のような高い声の裏には、魔の気配がこべつりいている。

 それは、頭まで魔術に浸かりきった者の反応だ。 俺のように、中途半端な出来損ないではない。

 

「……そういうお前は面の皮が厚いな、クロ。 少しはこの前のことについての謝罪とか、俺に対しての誠意はないのか?」

 

「じゃあこれ取って。 そしたら、お兄ちゃんに目一杯、誠意を見せてあげる。 私なりの、ね」

 

 そう言って、ウィンクするクロ。 しかし俺の答えは決まっている。

 

「悪いが断る。 トンズラされたら困るし、今日は話をしに来ただけだ。 逃がしに来たわけじゃない」

 

「ぶーぶー。 なによ、可愛い妹のピンチでしょ? 助けてくれないわけ?」

 

「人のことぶった斬ろうとしておいて、すぐ助けると思ったか? 期待には添えないよ、俺もそこまでお人好しじゃない。 言っただろ、話をしに来たって。 クロが俺の質問に答えてくれたら、俺もクロの質問に答える。 だから、話を聞いてくれ」

 

「んー……」

 

 少し考えたようだが、彼女はすぐにこう返した。

 

「じゃあ、二人のときはイリヤって呼んで。 そしたら何でも答えてあげる」

 

 艶然と秋波を送ってくる姿は、外見には似つかわしくない、成熟した女性の色っぽさがあった。 そう、まるで精神だけが大人びているように。

 とくん、と心臓が跳ねる。 心の中で、目の前の少女と心の中の破片が重なる。 今の声、笑顔、雰囲気ーーそして何より、その存在が。 カッチリと、ハマる。

 

「……イリ、ヤ」

 

「うん! なに、お兄ちゃん?」

 

 頭痛が走る。 元の世界の記憶が、呼び覚まされる。 しかしそれを無理矢理脳内から弾き出すと、ぶる、と頭を振った。 気を抜けば、すぐに瓦解してしまうモノを、上から押し付けて頭の中に閉め出す。

 思い出さなくて良い。 それは衛宮士郎を傷付けることしかでしかない。 今はやることが、あるハズ、だ。

 

「じゃあ……ちょっと長くなるけど、良いかイリヤ?」

 

 そう前置いて、俺は三つ質問した。

 まずクロが何者かということ、二つ目に聖杯戦争のこと、そしてこれからどうするかということ。

 前者二つには、クロはすんなりと答えてくれた。

 そもそもクロはイリヤの聖杯としての側面であり、本当ならばアインツベルンの次期マスターとして据えられるハズだった。 つまり、本来イリヤとして生きるのは、彼女だったのだ。 イリヤがクロの一部という見立ては立てていたが、まさかそうだったとは思わなかった。 それに小聖杯のことも。 これが本当だとしたら、俺の世界の聖杯戦争にも、大聖杯があったハズだ。 つまりまだ、聖杯戦争が起きる可能性はあるのである。

 話を戻すが、儀式の直前で、当時聖杯としてくべられるハズだった俺の義母、アイリスフィールと、マスターだった切嗣が離反。 儀式を開始する直前で破壊し、イリヤの聖杯としての機能を封印した。 つまり、クロを、封印したのである。

 無論、アイリスフィールさんにそんな気は無かったに違いない。 イリヤが魔術のない世界で生きられるように施しただけで。 だが、

 

「例えばだけど」

 

 と、クロはその心中を語り始める。

 

「ずっと、暗いところに閉じ込められて。 わたしが得るハズだったもの、全部奪われて。 それを、届かないところから見せつけられて。 それで誰かを恨むことって、そんなに間違ってると思う?」

 

「……、」

 

「わたしは、当たり前の権利だと思う。 だって、全部わたしのモノだったのよ? あの娘じゃない、わたしが得るモノ。 それを、ママは、アイツは奪って、わたしを無かったことにした……人を、シミみたいに追いやった」

 

 ぎり、と噛み合わせた歯を覗かせるクロは、悲痛な面持ちで、

 

「でも、お兄ちゃんは違う。 わたしを守るって言ってくれた。 分かってるよ、それが誰に向けた言葉なのかぐらい。 でも……でも、信じるぐらいは、許されるハズでしょ? だって、わたしには何もない、何もないもの。 日常も、友人も、家族だってそう。 そんな中で、やっと出来た、わたしの大切な人が……あなた以外、誰も居なかった」

 

……そのとき、自分がとんでもない勘違いしていたことに気付いた。

 クロは、俺だけが大事だと思っていた。 事実、それ以外のモノなんて邪魔で、凶器を振るうような彼女だ、そう受け取っていた。

 だが、それをこう置き換えるとどうだろう。

 アレはクロが出した、SOSで。

 俺しか、こうやって全てを話せる存在が居ないのだと。 逆説的に考えることが、出来ないだろうか?

 

「言ったよね、一人になんかさせないって。 妹を守るのは兄貴の役割なんでしょ? だったら、それはわたしだって守らなきゃいけない。 ね、もう分かったでしょ? わたしが、イリヤを毛嫌いする理由」

 

「……ああ」

 

 たった一人しか居ない、大切な人だけは、何が何でも渡さない。 それが、クロの譲れない理由だった。

……なんて、間抜け。

 全てを聞いて、ようやく分かった。 数日前、クロがどうして俺に襲いかかったのか。

 自分にはなにもないとそう言った彼女が、渇望したモノ。 それが兄である俺だ。 その俺が、彼女を否定した。 何も知らず、知ろうともせずに、身勝手に。 それがどれだけの絶望に叩き込んだのかなんて、見向きもしないで。

 だからクロは憤った。 愛憎が反転し、俺を傷つけても止まらないほどに。 殺してしまえと、心の底では微塵で思ってないことを。

 ああーーそれは、辛い。

 まるで売れ残った人形だ。 同じ素材、同じ姿を吹き込まれた、二つの人形。 それがイリヤとクロで、売れ残ったのがクロだっただけ。 ずっとショーケースに置かれ、廃棄されることすらない彼女は、そこから外を見ることしか出来ない。 粗悪品と、そう烙印を押されても、仕方ないぐらいの時間、ずっと。

 

「わたし、初めは別に辛くはなかったの。 まぁ、泣きも笑いもしなかったけど」

 

 当時を思い出し、取り残された少女は冷笑を口端に過らせる。

 

「でも、その内暗い世界にも、一人で居るのも飽きてさ。 だから、見ちゃったの。 外の世界の、マスターじゃないわたしを」

 

 そうして、月のように仰いだ世界。 きっと彼女には眩しかったのだろう。 闇の部屋で、なお片目をすがめ、幾千の光に意識を飛ばす。

 

「目を背けてしまいたいくらいだったわ。 くだらないのに、嫌でも目に入ってくる。 月光(しあわせ)なんて、マスターになるハズだったわたしには重荷だもの。 だってわたしは贄になるために生まれた。 くべられ、炉となり、アインツベルンの悲願を叶えるだけの存在。 付加価値以上のものを求めたら、それこそわたしはホムンクルスではなく、人形になってしまう……分かってたのよ、そんなことは」

 

 けれど、それは無理だった。 だからこうして、クロは俺だけでなく、イリヤにも牙を剥いたのだから。

 嘲笑を浮かべたクロは、まるで手負いの獣のようだった。 傷口からだくだくと血を流しながら、最後に何とか生き残ろうとする、獣に。

 

「……でも、外は輝いてた。 わたしの知らないこと、知るハズだったこと、与えられるべきことが、全てそこにはあった。 手を伸ばしても届かないのに、馬鹿なわたしは、祈ったりもしたわ。 誰かわたしも見て、わたしはここに居るよって。 ホント、馬鹿。 誰もわたしのことなんて、見てないのに」

 

 それは蝋燭の火が映したまやかしか。 火を反射するクロの瞳は、心なしか潤んでいる。 最後の境界線だけは飛び越えないよう、必死にしがみつくように。 自らの存在意義を否定しないよう、自らの欲求に溺れないよう。

 俺の世界のイリヤも、そうだったのだろうか。

 詳しいことは、文献でしか知らない。 それもごく僅かな、表向きのモノだ。 けれどあのとき、バーサーカーを伴い、自分の元へ現れた少女と、クロは境遇が似すぎている。

 生まれてからずっと孤独で、その身には破滅しかないのに、それでも運命というレールから逃れることの出来なかった。

 この二人の違いは、たった一つ。

 イリヤは、歪んだ世界で、これが運命だとしても、抗わず。

 クロは、歪んだ世界から見た景色で、その運命こそを呪った。

 違いはそれだけ。 でもだからこそ、イリヤには無かった苦しみが、クロにはあった。

……そんなところに、クロは居た。 泣きじゃくっても、誰も名前を呼んでくれない。 そんなところに。 温かいモノの一つすらないまま。

 

「だから、なのかな」

 

 落ちていた視線が、真っ直ぐになる。 その先は、俺へとしっかり合わせられていた。

 

「お兄ちゃんが、さ。 守るって、そう言ってくれたとき。 本当に、嬉しかった。 ちゃんとわたしの目を、存在を、感じて言ってくれてる気がして救われたの……初めて、他人を愛せたの」

 

 彼女にとって、他人とは忌むべきモノ。 誰も彼女を気にも止めないのだから、好意を抱くことなんて可笑しい。 ならば疎むことなど、道理だ。 そんな彼女がーーーー初めて触れた優しさが、俺だった。

 当たり前が当たり前じゃないこと。 それを俺は、嫌というほど知っていたのに。

 

「……ねぇ……どうして?」

 

 震える声は、懇願だった。 この前、戦ってしまったときのように。 不安定な、クロという少女の本音が浮き彫りになる。

 

「どうして、わたしは一人ぼっちにならなきゃいけなかったの……? どうして、誰もわたしの名前を呼んでくれないの……? わたしは、ここに居るのに……」

 

「……クロ」

 

「わたしを否定して、そんなに楽しい? 確かに、空っぽのわたしは偽物なのかもしれない。 体の良い人形(スペア)にだってなれないのかもしれない。 でも、わたしは……生きてるの。 一人でも、ずっと、待ってた。 それなのに、誰も来なかったのはあなた達。 違う?」

 

 流暢ではあっても、クロの言葉には怒りが込められていた。 そこにあるのは、ごく当たり前の、一つの命としての感情。 それすらも抑制されて、願うしか出来なくなった少女は、今度は妖しく目を光らせる。

 泥のように、汚染された願い。 それが、木霊する。

 

「……だから殺すの。 一人残らず、わたしをあの暗闇に閉じ込めた奴らを。 わたしを消して、幸せを貪ってる、汚らわしい虫達を。 一匹残らず」

 

 是が非かは問わない。 問うつもりなどない。 ブレーキを失った暴走車両のように、クロの目には狂暴な意志が宿っていく。

……恐らく、ここが別れ目だ。

 クロをーーいや、イリヤをどうすべきなのか。 このままでは彼女は、取り返しのつかないことをしてしまう気がする。 それも、クロ自身が後悔するような、結末が。

 しかし、どうする。 クロにとって、俺はギリギリ殺すべきか迷う対象。 この問答を間違えれば、クロを助け出すことは難しくなる。

 また、ひとりぼっちの世界に取り残してしまうだろう。

 

ーー……あれ……いたい、いたいよ……。

 

 フラッシュバックするのは、一年以上前。 英雄王が、俺の姉であるイリヤの目を切り付けたときのことだ。

 俺はそのとき、見ていることしか出来なかった。 今出れば死ぬと、そう理解してしまったから、動けなかった。 助けを求める女の子を、姉を、助け出せなかった。

 そのときのどうしようもないやるせなさと、悔恨を、この一年で一度も忘れたことはない。

 余りにも隔絶した空間。 その先に、頼れる騎士も既に居ないのに、一人でもがいていたイリヤ。 走り出した頃には、もうどうしようもなく遅かった。

 ただ一人の心の寄る辺へと這いずり、死しか映せない目からは血を流し。 それでもなお、一人では死にたくないと掴んだ手。 その幸せそうに、辛そうに笑った顔が、どうしても、許せなくて、切なくて、胸が苦しくなる。 それがまるで、自分など要らないのだと、言外に告げていた気がしたのだ。

 真実を知れば知るほどに、思い返すと想いが募る。

 どうしてその手を、掴んでやれなかったのか。

 どうして、最期の最期に、家族らしいことすら、してやれなかったのか。

 奪ってばかりで、何もあげられないのに。 だからこそ、助けてやることでしか、この身はそれしか能がない出来損ないだというのに。

 どうして、どうして、どうして。

 無意識に両手が拳を作る。 視界が熱くなり、ガヂン、と何かが頭で炸裂する。 爆竹のような衝撃が、頭を抜ける。

 

「……イリヤ」

 

 そうだ。 だったら、答えなんて決まっている。

 どうすべきか迷う暇なんてない。 そうしていく内に、大切なモノまで滑り落ちてしまうのなら、迷いなんて捨ててしまえば良い。

 もう二度と彼女の笑顔を、汚させない。

 それが、俺の役目なら。

 

「お前の言いたいことは分かった」

 

 クロの視線を、正面から受け止める。 受け止めて、

 

「……だから、あえて言うぞ、クロ(・・・)。 そんなことはさせない。 そんな真似は、絶対に」

 

 そう、断言した。

 パキキ、と乾いた音が鳴る。 クロの手。 細い腕が痙攣するように動き、桁違いの膂力が蓄えられる。

 

「……それは、わたしを殺すってこと? わたし(イリヤ)は、一人で良いってことなの?」

 

「違う。 お前は大切な妹で、守らなきゃいけない存在だ。 だけど、それはイリヤも同じなんだ」

 

 クロの表情が、氷のように冷たく、刃のように鋭くなっていく。 しかし色を無くした表情から見えるのは、空虚な殺意でしかない。

 そうさせてしまったのは、俺達だ。 だとしたら、それを取り除くのも俺達がすべきこと。

 

「それに、本当に親父やアイリさんを殺せたとしても、その後お前はどうする? その後、本当に頼るべき人を壊し尽くして、そうしてお前は幸せになれるのか?」

 

「……、」

 そう、結局これは単純な話だ。

 生まれたての妹が、自分の居場所を見つけられなくて、迷っているだけの話。 泣くことすら覚えていない、小さな妹が迷っているなら、手を引いてやれば良い。

 

「確かに、お前の幸せはイリヤに奪われた。 割り切れないのも仕方ないぐらい、辛かったのかもしれない。 けれど、だからってイリヤを殺して、その生活を奪っても、お前の幸せは返ってこない。 起きてしまったからには、それを無かったことなんかに出来やしない」

 

「……、」

 

「良いか、クロ。 お前は、イリヤにはなれない。 親父を、アイリさんを切り伏せたら、もう血生臭い世界に飛び込むしかないんだ。 その手が赤く染まったら、お前が思い描く幸せには届かないんだぞ。 それでもお前は、みんなを殺すのか?」

 

「……じゃあ」

 

 目を逸らしたまま、クロは。

 

「……じゃあ、どうすれば良いの? わたしは……わたしは……」

 

 縮こまり、途方に暮れるもう一人の妹。 その姿に、自分は耐えられそうもない。 こうしてイリヤが苦しんでいることが、どうしても我慢ならない。

 置き去りにされた少女を前に、何かしたい。

……ならば、この拘束など要らない。 例えどれだけの狭間があろうとも、それが一時しのぎであっても、俺がエミヤシロウの尊厳を守ると決めたのなら。

 

「クロ」

 

「……え?」

 

 俺を見たクロは、一瞬呆けた。 何故なら俺の手は、何かを握るように、振り上げたからだ。

 

「……投影、完了」

 

 投影した夫婦剣で、拘束を断ち切る。 ばつん、という音と共にクロは解放され、抱き止めた。

 なんて、華奢なんだろう。 腕なんか枯れ枝のように脆そうで、体はガラス細工みたいに一度取り落としただけで壊れてしまいそうだった。

 こんな少女を、自分は置き去りにしていた。 暗い場所に押し込めて、風化してしまわないのが不思議なほど、長い時間、ずっと。 その事実を認識し、背中に手を回す。

 

「……お、おにい、ちゃん……?」

 

「ごめんな、クロ。 一人ぼっちは、辛かったな」

 

 もう二度と離さぬよう、固く。 妹を抱き締める。 その温もりは、どんなモノよりも優しさに溢れ、命へと還元されるようだった。

 頭に手を添え、胸の中で惑うクロを、出来るだけ包み込む。 俺はクロの、兄のようになれないかもしれないけど。

 それでもせめて、今だけは。 家族らしく居られるように、精一杯の気持ちを込めて。

 

「……俺、いっつも兄貴面してたのにさ。 お前が泣いてることに、全然気付けなかった。 助けてって声にも、全く応えられなかった。 こんなんじゃ兄貴失格だよな、ごめん」

 

「……おにいちゃん……」

 

 怯えるように、クロは体を動かし、頭上を仰ぐ。 それは初めて与えられた温もりに、戸惑っているようにも見えたが、クロは離れようとしない。

 その顔にあったのは、ただ当惑だった。 理解しようにも、そんなこと考えられないと、そう言うような。

 

「どうして……?  だって……だって、わたしはみんな殺すって、そう言ったのに……実際、殺しかけたんだよ? それなのに、どうしておにいちゃんは……」

 

「馬鹿。 そりゃ兄妹なんだ、喧嘩だってするし、傷つけ合うときだってある。 普通のことじゃないか」

 

「そんな……でも」

 

「でもじゃない。 ったく……変なところで意地張りやがって。 こんくらい、どうってことないさ。 ワガママな妹が暴れたぐらいだろ? 何ともないよ、これでも鍛えてるんだ」

 

 そう。 それを言うなら、こちらの方だ。

 

「……なぁクロ。 今は、許してくれなくて良い、憎んだままで良い。 だから、守らせてくれないか。 約束を果たすためにも。 お前を、俺に守らせてくれないか?」

 

 その言葉を口にした途端。

 数少ない、元の世界の記憶が、鮮明に甦る。

 いつまでも消えない火。 灰となって、消えていく命。 地獄の中で、十字架を背負いながら進んだ日々の数々。

……俺は、正義の味方にならなければならない。 あそこで見捨てた人達のために、何より命の恩人のために。 そのために、こういった約束を破ることだって、俺は平気でしてしまえる。 間違った理想でも良いと、破滅の道をあえて進む破綻者。 その俺がこんな口約束をしても、本当に守り切れる可能性なんて、何処にもない。 きっと何処かで、約束を破り、未来で彼女を苦しめることになってしまうのかもしれない。

 けれど、だからって。 間違っていると分かっていたって。

 目の前の妹を見捨てて、絶望に押しやることを、どうして出来よう。

 

「……お兄ちゃんが、わたしを……?」

 

 最初、その言葉を飲み込めなかったらしく、呆然とするクロ。 しかしすぐに理解し、表情が元来の輝きを取り戻す。

 

「……いいの?」

 

「え? それともやっぱりダメか?」

 

「え? ううん、そうじゃないんだけど」

 

 ただ……と伏し目がちに続け、

 

「……いいの?」

 

 まるで、捨てられた子猫が、丸まって見上げる形で。 クロは、おそるおそる尋ねてくる。

 ああーーそれでも、俺は。

 

「良いんだよ」

 

 小指を差し出す。 何をするのかと目を丸くする彼女の小指に、無理矢理指を絡ませる。

 くすぐったい、家族でもあまりやらないような、古の儀式。 魔術的な意味は少なくても、絆を親愛で結びつけるそれは、紛れもなく儀式。 世界で一番優しい儀式だ。

 

「……絶対に守る。 誰が敵でも、誰からも否定されても。 それでも俺は、兄貴として、お前を守る。 そう、生まれたときから決めてたんだ」

 

「……お兄ちゃん……」

 

 クロはすぐには答えなかった。 葛藤しているようにも見えたが、すぐに薄く笑った。 何処までも薄い膜を張って、本心だけは隠しているような、耐えるような、悲しい笑み。

 それも当然。 彼女は俺に心を開いているが、それでも母親に封印された前例があるのである。 それを考えれば、俺ですら例外ではないのだ……胸が痛むが、彼女の葛藤を考えれば、屁でもない。

 

「……ん。 ありがと」

 

 とん、と胸に埋めてくるクロ。 それは抱きつくというよりは、触れあうような感じだった。

 しかしそれで良い。 笑ってしまいそうなそうなほど、当たり前のことすら為せなかったのは、こっちだって同じ。 俺はその頭と背中に手を回し、その悲しみが和らぐよう、包み込む。

 家族。 軽いどころか重いそれは、一つ失えば衛宮士郎の後悔へと変わる要因だ。 それは俺の正義を研ぐ、砥石にしかならない。 後悔が増えれば増えるほど、俺は切嗣が目指す、正義の味方にならなきゃいけないから。

 けど。 その重みを捨てたいとは、決して思わなかった。

 つい先日まで知らなかった妹。 その彼女が、生きている姿も悪くはないけど。 やっぱり笑顔でいて欲しいと思ったのは、エミヤシロウ(俺自身)の願いだ。

 だったら、そんな重荷は苦にならない。

 体がボロボロに崩れ去ろうと、これからもやっていける。

 と、 そう覚悟したときだった。

「……ふふ。 ありがと、お兄ちゃん」

 

 ふわ、と耳を這いずる魅惑の声。

 途端に視界が揺れ、ギチギチと自己が書き換えられていく。 心の奥底、エミヤシロウが望んだ夢が、誰かに塗り潰されていく。

 そうして、衛宮士郎の意識は途絶した。

……今思えばこのとき、俺は知るべきだったのだ。

 クロの、いやーーイリヤという少女が抱えた、闇の深さを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーinterlude3-2ーー

 

 

「うわ……」

 

 からから、と音を立てて落ちるのは、イリヤの腕が二本ほどの太さの、大理石の破片。 元は堅牢な石壁だったそれは床に雪崩落ちており、壁など砲撃でもぶちかまされたかのような穴が空いている。 それは断裂的に続いており、地上のエーデルフェルト邸も例外ではない。

 それどころかこの部屋自体、数々の調度品ーーに見せた、まじゅつれいそう?ーーが壊されていたりするのだ、ここが崩落していないのは、本当に偶然だったのだろう。

 

「……逃がした、ですってぇ……?」

 

 ズゴゴゴゴ、と。 凛が額をひくつかせながら、爆発一歩手前辺りで押し止め、同じく乾いた微笑みで士郎が答える。

 

「あ、ああ。 スマン、逃がしちまった。 いや、男的にというか、兄的にはやっぱり妹を縛るのはホントに勘弁と言いますか」

 

「どういうことかしら……? わたしの聞き間違いかもしれないから、もう一度確認するけれど……何て?」

 

 ニコッ、と優等生ーーああいや、猫被り二百パーセントの全開ぶっちぎりなパーフェクトスマイルで、凛は制服の胸元を鷲掴み、ぐりぐりと力を込めていく。 だがそれは逆効果だったらしく、士郎は武士のように目を瞑り。

 

「……それがし、切腹でも何でもする所存でゴザル」

 

「潔すぎるわボケェ!!」

 

 ゴグシャア!!、と鎌の如く右フックが士郎の肩を巻き込んで横顔に突き刺さる。 一撃で失神しかける兄に、更に制裁を加えんとする凛。 ルヴィアが呆れながら止めに入るものの、今度はそちらに飛び火し、いつのまにか士郎は二人の決闘の中心で無抵抗なままボコられていた。 それを見て、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは苦笑しつつ、兄の介抱に向かう。

 イリヤが美遊と共にルヴィアの屋敷を訪れたとき。 既に事は起こっていたらしく、屋敷にぽっかりと空いた穴には目を剥いたモノだ。

 いつまで経っても口を割らないクロ。 その彼女からの要望で、士郎に会わせれば全てを話すと言っていた。 無論、イリヤや、普段は余り口を挟まない美遊ですら反対したのだが、凛とルヴィアはその意見を切り捨て……情報を得たようだが、士郎がクロを逃がしてしまったのだ。 よりにもよって、士郎がこんなことをし出かすとは思わなかったのだろう。 しかし、現実はこれだ。 凛がぐしゃぐしゃと二つに結んだ髪を掻き乱し、

 

「わっけわかんない……何事かと思って行ってみたら、話を聞けの一点張りだし。 話を聞いたら聞いたで、もっとわけわかんないし」

 

 士郎から全てを聞いた。 聖杯戦争のこと、自分自身のこと、クロのこと。 未だにふわふわしていてよく分からないし、何か実感出来るわけでもないが、凛やルヴィアからすればただ事ではないらしく、特に凛は鼻息を荒くして詰め寄っているのだ。

 

「えーと……つまり衛宮くんの家、というか、イリヤの家は錬金術の家系なわけよね? しかも……」

 

「人工の聖杯……中身が無いとはいえ、これが知れ渡れば、魔術協会どころか、聖堂教会も黙ってませんわ……」

 

 頭が痛いとでも言いたげに、ルヴィアが眉間を揉む。 それを受け、士郎は困ったように頬を指で擦る。

 話はよく分からない。 それでも確かなのは、クロは自分の家族であり、その彼女が家族を殺そうとしたということだけだ。 そしてそれが分かれば、あとはどうだって良い。

 

「……ったく。 まぁクロは、あなたやイリヤからすれば家族みたいなものだし、聞く限りじゃクロに害はないみたいだけど……はぁ、頼りになるって思ってたのになぁ……」

 

「うぐっ……す、スマン」

 

 凛の呟きがよほど効いたのか、背筋が丸まる士郎。 背丈で言えば凛の方が低いが、その力関係は一目瞭然だ。 口答えはしても、全面的に非を認めているのがその証拠である。

 まぁ、理由があったにしろ、逃がしたのは彼の独断なのだ。 恐らく屋敷の中で、唯一クロに対抗出来る人物ということもあるし、この場のみんなを裏切ったことにもなるのである。 士郎も責任を感じているのだろう。

 それにしても。 アレは、どれだけ兄を傷つければ気が済むのだろうか。

 

「……っ」

 

 ぎゅっ、と唇を噛んで。 表情が出ないよう、必死に努める。

 人を殺そうとしておいて、そんな相手に話し合いを持ちかけたら突っぱねられ、要望に答えたら答えたで好き勝手に暴れまくる。 兄のことが好きだと公言しているくせに、その兄の厚意を無下にするなんて、なんて度しがたい。 更に言えば、一歩間違えれば兄はこの地下に埋められていたかもしれないのだ。 そんな状況を作り出したアレは、許せるモノではない。 アレからしてみれば、兄や自分は大切なモノであるハズなのだ。 家族だから許されない行為もある。

 しかし、イリヤにはそんなことよりも、気になったことがあった。

 

「しっかし……あれだけ魔術を張り巡らせたのに、こうも簡単に脱出されるなんて……クロの持つクラスカードはアーチャーのハズでしょ? 前任者の報告だと、対魔力スキルはそこまで優れてなかったハズだし、だとしても魔術師の弓兵なんて……」

 

「英霊なんだから、基本何でもアリな連中だろ。 聖剣から光線出すような人種に、常識は当てはまらないさ。 けど、クロも投影を使うってことは、あのクラスカードの英霊は、魔術師で間違いないと思う」

 

「あ、投影と言えばそうそう。 衛宮くんの投影って、クロの投影と一緒じゃない? で、これは推測だけど、もしかしたら衛宮くんの家とクロのクラスカードの英霊は、薄くても血縁的な繋がりがあるんじゃないかしら? それで衛宮くんは、一種の先祖返りが起きて、たまたまその英霊の魔術が使えるようになったとか」

 

「うーん……遠坂、それは流石に……」

 

「あらそう? わたしは結構良い線いってると思うけど?」

 

 先程までとは打って変わり、クロに対しての考察を始める士郎。 切り替えの早さは魔術師にとって生命線らしいが、それを抜きにしても、今の士郎は妙だった。

 恐らく凛やルヴィア、ルビーやサファイア、美遊にだって分かるまい。 だがイリヤには分かった。 兄は確かに責任を感じている。 だが、ほんの僅かだが、浮き足立っていた。 微細なモノだが、この目で確認出来るぐらい確かに。

 

「……」

 

 何か、とてつもなく嫌な予感がする。 心が、少しだけだがざわめく。 まるで自分が置いていかれたように感じ、急に心細くなる。

 馬鹿な、と思う。 決めたではないか、兄は自分が守ると。 それなのに、こんなことではその約束を果たせない。

 そう。 置いていかれるのだけ(・・・・・・・・・・)は、もうごめんだと思ったではないか。

 

「ね、ねぇお兄ちゃん」

 

「ん?」

 

 まるで我慢していたモノが溢れるように、口をついて出たのは、震えた声。 それが自分の弱さであると認識しているが、あえてそれを前面に出して、問いかける。

 

「アレ……クロのこと、怒ってないの? わたしが言うことじゃないかもだけど、お兄ちゃん、二回も殺されかけたんだよ? 少しは」

 

「分かってる」

 

 上目遣いで反応を伺う。 その様子を、彼は不安だと勘違いしたのだろう。 優しく笑いながら。

 

「良いかイリヤ。 クロは、そんなに悪い奴じゃない(・・・・・・・・・・・)

 

 そう、訳の分からないことを言い出した。

 

「…………は?」

 

「いや、は、じゃないだろ」

 

 口をへの字に曲げ、士郎は話す。 その顔は、笑ったまま。 殺されかけたと言うのに、本当に嬉しそうに笑っていた。

 意味が、分からない。

 一瞬誰かに操られているのか、それとも混乱しているのかと疑った。 しかし違う。 彼は目を輝かせて、正気で、クロを庇おうとしている。

 

「話してみて分かったよ。 クロは純粋だ。 普通の女の子より反応が大きいし、そういった機敏に気付きやすい。 生まれたばっかりだしな。 だから面と向き合ってみれば、大丈夫。 それに兄貴だからな、大抵のこと(・・・・・)は許しちまうもんさ」

 

 それはまるで、ずっと欲しかった玩具を手に入れた子供のようで。 絶対に離さないと、その瞳は物語っている。 例え何があってもという、強い意志が。

 殺されかけたことを、平然と大抵の事と言い放つ、その顔は、可笑しい。

……胸がざわつく。

 こちらを真っ直ぐと据えて、宣言しているのに。

 まるでイリヤではない誰かを、見ているようで。 全然、こちらに焦点が合っていないのだ。

 そう。 さながら新品の人形を手に取られ、これから風化していく、使い古されたテディベアのような、そんな気持ちに。

 

「……イリヤ?」

 

「え? あ……う、うん。 なに?」

 

 ハッとなって周りを見やると、みんな地下室には既に居らず、目の前に兄が佇んでいた。 再び兄と視線がぶつかる。 しかしその視線は先の異変が嘘のように、イリヤへと定まっていた。

 イリヤの体の奥底が、ぞわりと、総毛立つ。 重い重い、刃のような突風が打ち付け、理性がズタズタに引き裂かれる。

 吐き気を催さないのが、不思議なほどだった。 これは可笑しい。 この人は、何か間違えている。 普通の兄であっても耐えられないような場面で、ヘラヘラとしているばかりで。

 幸福の王子という話を思い出す。 他人のために全てを投げ売った、銅像の王様の話。 今の士郎は、そんな王様に重なって見えた。 キラキラとしたモノに囚われすぎて、自分が念頭にない、そう感じたのだ。

 

「いや、これから作戦会議するって話なんだが……」

 

「わ、分かった。 行こ、お兄ちゃん?」

 

 いつもなら隣に並ぶのに。 今日に限っては、そんな兄の横を通り抜けて、先行する。 薄暗い地下から抜け出そうと足早になる。

……守ると言っていたのに。 そんな兄を、置いていくような形になっていたことに、イリヤは結局気付かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

ーーinterlude out.

 


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