だってタイピングが止まらなかったからちかたないね。
――走る。とにかく走る。
少しでも速く。少しでも早く、彼女の下へ。
よろけながら角を曲がりきったところで、足音に振り返った彼女と目が合った。
「月っち!」
「霞さん!」
勢いのままに抱き着く。
少し苦しそうだが、月も抱きしめ返してくれた。
「無事やったか?怪我は?
李儒のくそ野郎には何にもされてへんよな?」
そのまま抱き上げると、へう、と縮こまってしまった。
悪い悪い、と頭を掻きながらそっと降ろしてやる。
「うん。私は大丈夫。
ずっと護ってもらってたから。
でも、華雄さん、が……」
嗚咽が漏れる。
顔を伏せたまま泣き続ける月を、今度は優しく抱きしめた。
「華雄が一騎打ちに出た理由は知っとるか?
関羽ってやつがな、月っちの悪口言いよってん。
そらもうぼろくそにな。
華雄は、それが我慢できんかったんや。
自分がどれだけ悪く言われても、月っちを悪く言われるのだけは許せんかったんや。
月っちのために華雄は戦って、ほんで逝ってもうた」
月の体がビクリと震える。
「だから、月っちは華雄の分まで生きなあかん。
華雄が命を懸けるだけの価値があったことを、生きて証明せなあかん。
せやから、間違っても自分なんかのために、とか言うたあかんで」
震えが止まる。
「うん……。もう、大丈夫」
そう言って顔を上げた月は、笑っていた。
泣きながら、笑っている。
「同じこと、詠ちゃんにも言われちゃったから。
だからもう、大丈夫」
強くなった。霞はそう思う。
同時に、月は笑顔じゃないといけない、とも。
目は真っ赤だし、無理して笑っているのがまるわかりだ。
けれども、自分はこの笑顔の為に戦っているのだ。
ちっぽけで単純だが、何にも勝る理由だった。
「――良い臣下をもったな、董卓よ」
横合いから声が掛けられる。
月と同時にそちらを見やると、誰かが階段を登り切ったところだった。
男だ。まだ若い。
幼さが抜けきらない、少年と言っていい年頃だ。
「その張遼だけではない。
兵の一人一人が、だ。
理不尽な侵略を受ようとも、自軍よりはるかに上回る大軍を相手にしようとも、誰一人として諦めてなどいない。
この虎牢関の全てが、見事な正の気に満ちておる。
もう一度言おう、董卓よ。
そなたは、良い臣下をもった」
月が少年に向けて笑顔を返す。
目は相変わらず赤いままだが、今度は心からの笑顔だった。
「ありがとうございます、陛下。
皆、私の自慢の仲間です」
どうやら、この少年はへいかと言うらしい。
へいか。へいか――陛下!?
慌てて片膝を付こうとすると、手を振って止められた。
「よい。ここは戦場であろう?
面倒な礼など不要じゃ。
膝など付くよりも、咄嗟に動けるようにしておくほうが、朕のためにもなる」
からからと笑う姿は、どこか王允に似ていた。
「戦場だという自覚が御有りでしたら、私達を置いて先に行かないで下さい、陛下。
敵の手の者が紛れ込んでいる可能性が、全くないわけではないのです」
続いて上がって来たのは、荀攸と賈クだ。
二人とも、少なくとも目立った怪我はない。
それを確認して、ようやく霞は安堵の息をはいた。
「すまぬ。外に出るのも、このような景色も久しぶり故つい、な」
荀攸がはあ、とため息をつく。
「今後はお気を付けください。
っと。お久しぶりです、文遠殿、奉先殿」
いつの間にか恋が後ろに来ていた。
どうやら「散歩」から戻って来たところらしい。
「ん。セキトたちは無事?」
「ええ。皆王允殿の別邸にいます。
私がいない間は文和殿が世話をしてくれていました。
今は洛陽も落ち着いたので、兵が交代で世話をするように手配してあります。
念のため公台殿が時々顔を見せるそうなので、問題はないでしょう」
「恋でいい」
「はい?」
皆が驚いて恋を見つめる。
本人はいつも通りの表情だ。
「月も、陛下も、セキトたちも、皆助けてくれた。
皆の命の恩人。
だから、恋でいい」
荀攸は暫く躊躇っていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「わかりました。
私の真名は一刀です。
よろしく、恋。これでいいですか?」
恋がうなずく。
それを、皇帝陛下が面白そうに見つめていた。ますます王允にそっくりだ。
「ああー」
せやったら自分も、と言いそうになったところで、華雄にからかわれたことを思い出した。
恋は深く考えないが、それ故に驚くほど純粋でもある。
本当に荀攸に感謝しているだけなのだろう。
だが、一般的に、親族以外の男女が真名を交換するということは、「そういうこと」だ。
月も詠も、顔を赤らめてもじもじしている。
華雄のせいで、妙に意識してしまう。
結局言い出せないまま、口の中でもごもごというだけだった。
「ところで、戦況はどうなのですか?
見たところ、損害は軽微ですし、士気も落ちてはいないようですが」
「ん。うまくいってる。
一刀の作戦のおかげ」
霞もうなずいた。
「この間、恋が帰ったと思って兵が突っ込んできたところにすぐにまた突撃する、っていうのやったばかりやからな。
今攻撃が止まっとるのも、それが原因や。
敵さん、すっかり怯えてしまっとる。
上の方がどうかはわからんけどな」
荀攸は顎に手を当てて何やら思案している。
「ならば、丁度良いところに着いたのかもしれませんね。
――この戦を、終わらせます」
言い切った。
荀攸から、静かに、しかし激しく気が漏れている。
「この前も言ったけど、具体的にどうするつもり?
陛下にご協力いただく、とは言ってたけど……」
「うむ。朕は何を為せばよいのかの」
詠と陛下が口々に尋ねる。
霞も同感だ。
この状況から、どのように戦を終わらせようというのか。
「反董卓連合は、盟主袁紹が発した檄文によって結成されました。
私も読みましたが、あの檄文は素晴らしい。
あの美しき配列・韻律・音調。
苛烈な行間に潜む詞藻・洒脱・品格。
……まあ、記したのは袁紹ではないでしょうが。
それはともかく。
ここで重要な点は、彼ら連合軍は、檄文に記された言葉によって集ったということです」
「ほほう。それで?」
陛下の問いかけに、荀攸は簡潔に答えた。
「言葉には、言葉で勝ちます。
具体的には、袁紹に舌戦をしかけます」
「その舌戦に、袁紹が応じるかしら」
詠は半信半疑のようだ。
「必ず応じます。
言葉で人を集めた人間は、自分に向けられた言葉を無視できない」
なるほど。理屈は通っている。
「暴虐非道の魔王、董卓を討つ。
洛陽を悪政から解放する。
董卓から、皇帝陛下をお救いする。
そういった大義名分を袁紹の檄文が与えるから、兵たちは命を投げ出して戦うのです。
その大義名分を崩してやれば、この戦は終わらせることができる」
いつの間にか、身を乗り出していた。皆も同様だ。
荀攸という男に、引き込まれる。
「敵は、袁紹が連れてきた軍ではなく、袁紹の舌です」
虎牢関の門が開き、中から数十騎が出てくる。
中央には馬車だ。
始まったわね。
華琳は、そっと不自然にならない程度に麗羽に近づく。
すぐに声を掛けられるように、だ。
兵がざわつく。
無理もない。先頭にいるのは、仲間の兵を散々殺して回った呂布だ。
呂布一人ではない。たった数十騎という数が、返って不気味さを引き立てる。
やがてその一団は、麗羽が直接率いる軍の前方で止まった。
静寂が訪れる。
今戦場を支配しているのは、間違いなくあの一団だ。
やがて、一騎が前に出てくる。
隣の桂花が息を飲む音が聞こえる。
――いい顔をしている。
それが、荀攸を初めて見て抱いた感想だ。
覚悟を決めた、男の顔をしていた。
優には、まだあのような顔はできない。
「反董卓連合、盟主袁紹殿に問う!
袁紹殿は、一体如何なる理由で皇帝陛下のおわす洛陽へ攻め込もうとなさるのか!」
荀攸の言葉を、虎牢関の全軍が繰り返す。
それは、大きな唸りとなって連合軍に届いた。
目だけで隣を見ると、麗羽はどうすればいいのかわからずおろおろしている。
二枚看板も同様だ。
仕方がない。自分が声を掛けるしかないようだ。
「ほら、麗羽。答えてやりなさい」
「わ、私がですの?」
思わずため息が出た。
「貴女以外に誰がいるの。
この連合軍の盟主でしょ?
あんなに素晴らしい檄文を書いたんだから、それをそのまま言ってやればいいのよ」
「そ、そうですわね」
まったく、手のかかる盟主だわ。
「それは勿論、皇帝陛下を董卓さんの魔の手からお救いするためですわ!
それに、董卓さんの軍は洛陽で暴れまわっているそうじゃありませんの!
名門袁家の当主として!陛下や民が苦しんでいるのを見過ごすわけにはいきませんわ!」
「なるほど。
では袁紹殿は、董卓のように天下への野心ではなく、只々陛下と民の安寧のために軍を起こしたと。
では、それさえ成されれば、血を流す必要はないはず!
天下への野心を持たぬというのならば、何故対話の道を探らず軍を起こしたのか!?」
「洛陽で盗賊まがいの行いをしているような者たちに、話が通じるわけがありませんでしょう!」
「ならば、その話が通じるならば、武力により血を流す必要はない!
両軍の兵とて、貴女が安寧を願っている民である!
その民が血を流すことは、貴女の本意ではない!そうではありませぬか!?」
「え、ええ。当然ですわ!」
麗羽が戸惑っている。
荀攸の狙いがわからないらしい。
だが、無数の兵の前で荀攸は言質を取った。
この場にいる両軍全てが生き証人だ。
「ならば、早々に軍を引かれるがよい!
魔王董卓は、この荀北郷が誅殺いたした!
人質として捕らわれていた皇帝陛下、及びその侍女は既に自由の身!
呂布将軍、張遼将軍ともに袁紹殿と戦う理由はあらず!
洛陽は以前の平穏を取り戻しつつある!
徒に血を流し、洛陽へ向けて軍を進めることは、袁紹殿の志に反しますぞ!」
荀攸の言葉に、連合軍の兵士が顔を見合わせてざわつき始める。
ただでさえ呂布の存在により戦意が下がっていたところに、戦う理由が根本からなくなろうとしているのだ。呆然と立ち尽くしている者も少なからずいる。
「な、な、なんですって!?
何処の馬の骨ともわからない者がいい加減なことを!
だいたい、貴方が董卓さんの手先でないという証拠はありますの!?」
尤もな話ではある。
麗羽の言葉に兵が落ち着きを取り戻したとこで、激震が訪れた。
「朕では証拠にならぬか、袁紹よ!」
突然、場違いに明るい声が響き渡った。
中央の馬車が前に出てくる。
中から、少年が身を乗り出していた。
「漢帝国皇帝、劉協である!
朕が此処にいることが何よりの証拠であると思うが、どうかな?」
麗羽は最早見ているのが滑稽なほど動揺していた。
声も身体も大きく震えている。
「こ、こここ皇帝陛下!?
ま、まさかそんな。に、偽物ではありませんの!?」
「麗羽。貴女、今とんでもない不敬を犯してるわよ」
劉協はなおも楽しそうに続ける。
「どうした!?朕の顔を見忘れたか!?
幼いころ、そなたの祖父とともにまみえたことはあるはず!
よく見えないというのなら、そなたが迎えに来るがよい!
呂布や張遼は下がらせる!
何なら軍をよこしてもよいぞ!」
そんなことはできない。できるはずがない。
軍を率いて、皇帝を連れ去る。
董卓と同じような所業を、他の諸侯の目前で行えるはずがない。
連合の中には、劉備のように純粋に皇帝と民を想って参加した者もいるのだ。
おそらく、兵の中には数えきれないほどに。
「来ないのならばこちらから行くぞ!
その間、誰一人血を流すことは許さん!
漢帝国皇帝、劉協の名において、停戦を命ずる!よいな!」
戦は、終わった。
反董卓連合編、一応の幕。
次回は後始末、後語り諸々と、次々回への引きになります。
感想よろしくお願いします。