試しに視点を変えた部分を少し加筆しました。
梅の香がする。
懐かしい故郷を思い出させる匂いに、北郷一刀の意識はゆっくりと浮上する。
いつの間にかうたた寝をしてしまったらしい。
ここ――王允の邸宅は、洛陽では数少ない、一刀が心からくつろげる場所の1つだ。
董卓の下、漢朝の清浄化が急速に進んでいるとはいえ、宦官の残した汚濁のはそこかしこに残っている。
この邸宅で過ごす時間は、そんな汚濁とは無縁でいられた。
匂いの元を探して、視線を庭へ。梅の木は庭の片隅にひっそりと立っていた。
司徒としてそれなりの禄を食んでいるはずの王允だが、邸宅も庭も華美とはいえない。
質素でありながらも風流で、静でありながらも確かな力強さが感じられる。
それはどこか王允自身の雰囲気を感じさせた。どうやら住処というものは主に似るものらしい。
懐かしい匂いを運んできた風に誘われるまま、顔を上に向ける。見事な蒼天が広がっていた。
ほんの数ヶ月前まで、「蒼天己死」という言葉が世に溢れていたとは思えない。
各地では未だに黄巾の残党が蔓延っているというが、少なくとも洛陽は一応の平穏を取り戻していた。
空に流れる雲のように、思考もまた取り留めもなく流れていく。
様々な形の雲に、今まで逢った人々の顔が映し出される。
義父や親族達、洛陽への旅の途中に出逢った3人組、董卓軍の幹部達。
最後に浮かんだのは、最近手紙を送った年上の姪のふくれっ面だった。
想像の中でも素直じゃないんだな、と思わず苦笑いしてしまった。
「おや、いつになく機嫌が良さそうで。何か良いことでもありましたかな?」
声を掛けてきたのはこの館の主、王允である。
手には茶の道具一式。使用人がいないわけではないのに、一刀が訪ねた時はいつも手ずから茶を淹れてくれる。
自分で淹れた方が美味い茶が飲めますからな、と笑う顔は、とても洛陽の民政の実務を一手に担う司徒には見えなかった。
「家族のことを考えていました。元気で過ごしているだろうか、と」
茶を受け取りながら答える。向かい合って腰を下ろし、同時に茶を啜った。
「家族ですか。とても温かい笑みでしたのでな。
私はてっきり恋人のことでも考えているのかと思いましたよ」
からかうようにこちらを見つめてくる。50を過ぎても他人の色恋沙汰には興味があるらしい。
「違いますよ……。いえ。やはり、好いているのかもしれません」
親族が集まった時、年が近いということで大抵一緒に過ごしていた。
桂花も当時抜け殻のようだった自分の面倒をよく見てくれた。自分の方が年上だから、という義務感もあったのだろう。
正月や盆で帰省したときのイトコの集まりのイメージそのままだ。
そんな支えもあり、どうにか前向きに生きていこうと思えるようになったころ、ふと気づいたのだ。
このままだと、彼女は自ら命を絶ってしまうのではないだろうか、と。
荀彧の死の原因には諸説がある。必ずしも自殺するとは限らないだろう。
それでも、自分にこの世界で生きる意志を与えてくれた彼女が自殺するかもしれない。
想像するだけで胸が張り裂けそうになった。
それを防ぐ為に必死に知を磨き武を磨き、今こうして洛陽にいるのだ。
最近になってようやく心に少しばかりの余裕ができた。
そうして改めて自分の気持ちを見つめなおしてみると―これはやはり恋なのかもしれない。
「良いことです。北郷殿はどこか生き急ぐところ、自らを顧みないところがありますからな。
恋人でもできれば、少しはましになるでしょう」
「おそらく片思いですからね。できるかどうかはわかりませんよ」
王允はおやおや、とだけ言ってまた茶を啜った。一刀もまた。
生き急ぐ、自らを顧みない。
自覚はしている。何故か子どもの姿になって、1人荒野で目を覚ました時は気が狂いそうになった。
疲労と空腹で倒れ、このまま死ぬのだろうか、とぼんやり考えていた時に義父に拾われた。
死んだ息子に生き写しだと言われ、荀攸の名を貰った時、北郷一刀は死んだのだ。
両親や妹、友人のことは覚えていたいと、字は北郷にしてくれと頼んだものの、それからずっと荀攸として生きてきた。
日本で、聖フランチェスカ学園で思い描いていた北郷一刀の未来は、もう実現することはない。
あの暖かな我が家にも、二度と帰れない。
それを受け入れた。全てを諦めていた。
だからこそ、こんな自分をずっと支え続けてくれた桂花の為に生きると決めたのだ。
たとえこの身が朽ち果てようとも。
それが、今の一刀の全てだった。
「して、今日はどのような用向きですかな。
勿論、茶を飲みに来たというだけでも大歓迎なのですが」
不思議な男だ。王允は会う度にそう思う。
そのときは茶菓子をもってお邪魔することにします、と静かに笑う様子は、とても17,8には見えない。
老成している。その言葉がこれほどよく似合う男を王允は他に知らない。
「王允殿は、近ごろ董相国の顔をお見かけしましたか?」
一度目を閉じ、明けたときには笑みの質が変わっていた。
静かではある。しかし、内から針のような鋭さが滲み出ている。
「はて。相国殿もお忙しい方ですからな。
改めて問われてみると、なるほどこのところ……。
十日程はお顔を見てはおりませんが」
返事をすると、すっと目が細められた。
「なるほど。では文和殿は如何ですか?」
「彼女なら以前にも増して精力的に働いていますよ。
忙しく走り回っている姿をよく見かけます。
この間も、なんと言いましたかな。新しく取り立てられた文官と熱く議論を交わしていました」
「李儒、ですか?」
「おお、そういう名でしたな。ご存知なのですか?」
ええ、まあ。聞いたことはあります。
それきり口を閉ざして何事かを考え込んでいる。
本来ならば無礼であるが、王允はこういうとき彼を咎めない。
数年前からの、決して長いとはいえない付き合いではあるが、こうなった後の一刀には驚かされてばかりいる。
この荀家の麒麟児は、今度はどのように自分を楽しませてくれるのか。
今尚考え込んでいる若者の姿を肴にして、王允は残りの茶を啜ることにした。
一刀君の事情が少しだけ明かされます。
こういう設定が気に入らないというかたはお戻りください。
感想よろしくお願いします。
少し加筆しました。