空は少しずつ黒に染まってきている。
空を覆っていたオレンジ色の光は、少しずつ東の空から黒に追いやられていた。長く長く伸びる影法師は、オレンジ色の光が薄くなっていくに従ってその姿を消していく。この風景ははるか昔から変わらずに送られているものでもあった。
しかしここオーストリアの町、ハルシュタットのある区画においてはその町の日常とは違う風景が広がっていた。
そこは観光客や地元の人間向けのレストランやカフェが並んでいる通りだった。今の時間帯は観光客で賑わい、夕食を取ろうとする人々でごった返しているはずだった。
しかし、この通りにはその風景はない。そして、その場にいるのはたった2人の人間だけだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
南条新は思案していた。
狼の叫び声と爆音が聞こえるほうに駆けていくと、そこには右腕を庇いながら倒れ伏すプラチナブロンドヘアーの少女と今まさにその少女に襲いかかろうとする数十頭の狼が見えた。ああ、あの狼たちはあの少女を殺そうとしているのだな、と新は直感した。
そこからは何も迷わなかった。
新は何も躊躇することなく、ほぼ反射的に権能を用いて自分の視界に入った全ての狼の頭と胴体を切り離した。
それについては特に新にとっては何でもなかった。カンピオーネとなった新にとって、その程度のことは苦労する事柄ではなかったからだ。
新にとって驚きだったのは仕留めた数十頭もの狼がどれも現実的にはあり得ない大きさであったこと、そして狼の全てが死体を晒さずに消え去ったことだった。
(死体が残らない……ただの狼じゃあなかったのか?)
そしてもう一つ。新には気になることがあった。
(なんださっきの狼……よく分からんが、すっごいムカついたぞ)
新は狼を見た瞬間、激しい嫌悪感と敵愾心に襲われた。なぜかはわからないが、この狼たちを一頭残らず叩き潰したくなったのだ。
狼を反射的に殲滅してしまったのは少女を助けるためだけではなく、それが原因でもあった。
(どういうことだ……狼は大地に属する獣のはず。あれが神獣の類だとしてもなんでクロがああも反応するんだ?)
狼に新よりも反応していたのはクロだったかもしれない。
クロは天より遣わされた祭神の化身で、太陽と深い結びつきを持った神獣だった。それを使役する力こそがほんの1か月前に得た第二の権能で、新はその神獣にクロと命名した。
そのクロが新の中で大きく声を上げていた。なんとなくだが、「倒せ!倒せっ!頼むぜ新――!!」と言っていた気がする。
(……わからんな。今の状況では何とも。というか、もうあの狼とは遭遇せんのかもしれんのだし気にしなくても良いかな、別に)
新はもう周囲の状況を気にすることなく、さっきのクロと狼について考え込んでいた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
カティ・ルフタサーリは驚愕していた。
(数十頭の『貪る群狼』を一瞬で……一体彼は何者なの!?)
確かに、いかにカンピオーネの権能といっても狼の一体一体を通常の魔術師が対処するのはそう難しいことではない。
しかしそれが数十頭の、しかも呪文の詠唱の様子もなくやり遂げることとなると難易度は跳ね上がってくる。
自分ではできない。カティはそう思った。こんなものを即興で成すなんて人間業じゃあない、と。
そんなカティの驚きをよそに、その芸当を成した見た目観光客の少年は、顎を指で支えながら何か考えこんでいるようだった。
「あ、あの。私の話聞こえますか?」
カティは自分の右腕に治癒魔術を強く施しながら、自分を助けてくれた(と思われる)少年に話しかけてみることにした。その少年が何者なのかはわからない。東洋の魔術結社のホープなのか、もしかすると超重要人物なのかもしれないのだから。
そのカティの声に、少年は反応してくれた。
「え?……ああ、さっき思わず助けちゃったけど、大丈夫?怪我してるみたいだね」
少年は微笑しながら語りかけてきた。その様子ははっきり言って何の変哲もない一般人にしか見えない。
しかし、先程確かに言った。「自分が助けた」と。それはあの数十頭の狼を一瞬で倒したのが彼、ということに間違いはないだろう。
「さ…先程はありがとうございました。死んでしまうところを助けていただいて。……あ、わ、私の名前はカティといいます。カティ・ルフタサーリ、です。こ、このお礼は必ずしますので、ど、どうもありがとうございましたっ」
何とか言い切ったが、たどたどしい上にカミカミになってしまった。かくのごとく、カティは考えるのはともかく若干の人見知りのため急なアドリブでは喋ることが苦手な少女なのだ。
カティが挨拶をすると、少年はカティに苦笑しながらも返答してくれた。
「ん、どういたしまして。ルフタサーリさん。僕の名前は南条新といいます。見ての通りただの観光客です。お礼は結構ですよ、それが目当てだったわけではないので」
カティは考える。
「なんじょうあらた」という名前のイントネーションからすると、彼は日本人だろうか。だとすれば、この町に日本人がいることは珍しいと思った。確かにこの町はいったいが世界遺産で、オーストリアを代表する観光地ではあるはずだ。しかし、一人旅の行き先がここというのは少し変わっていると思った。
そう思っていると、また「なんじょうあらた」が口を開いた。
「それで、ルフタサーリさんはあんな狼の群れとどうして戦っていたんですか?…ああ、もし言いたくないなら言わなくても結構ですけど」
彼は狼とカティの境遇が気になっているらしかった。それもそうだ、と思う。もし自分が彼の立場だったとしても同じことを聞いただろうから。
だから、できる限りのことは言ってあげようと思った。荒唐無稽にも程があるが、もしかしたら自分と妹を助けてくれるかもしれない、と思ったから。まあ、それを抜きにしても彼に助けられたのだから彼女は言っただろう。たとえそれが自分にとって言いたくないことであっても。
「……あの狼達は、『貪る群狼』なんです」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
新は彼女の話に耳を傾けていた。助けた少女はいわゆる美少女と呼ばれる人間なのだろうな、と思えるくらいには整った顔をしていた。後ろで束ねたプラチナブロンドの髪に、透明感のある白いコートを纏っている。全体的に綺麗な顔をしているが、なぜか幼い雰囲気を漂わせているのも印象的だった。
「……あの狼達は、『貪る群狼』なんです」
「………」
「…………」
「……………」
「………………え、それだけ?」
「………はい!?い、いや何って、あ、ああああれはあの『貪る群狼』だったんですよ!!??」
そんなこと言われても、と思う。彼女にとっては重要な単語だったのだろうが、自分にとっては全く聞き覚えのないものだ。
彼女は信じられないものを見る目で自分を見てくる。なんだか理不尽な気がするのは気のせいだろうか。
「ええと………サーシャ・デヤンスタール・ヴォバンの名を聞いたことはありますよね?」
彼女が確認するように訪ねてくる。何だかこの名前を知らないなんて言ったら驚倒されるかもしれないな、と思った。
サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。何だか見たことはあるような名前だ。その名前を見たのはおそらく祖父母宅での蔵の蔵書からだろう。そこ以外にこれまで魔術と触れ合う機会がなかったからだ。
記憶を掘り起こす。そして思い出した。確か、自分と同じカンピオーネの一人だったはず。狼に化身したり嵐を呼んだりする力を振るう数百年を生きるカンピオーネと書いてあった。なるほど、だから狼だったのか。
まあ、書いてあったのが古い本だったので今どれだけ正確かはわからないが、この人物で間違ってはいないだろう。
「あー確かカンピオーネの一人だっけ?嵐を呼ぶっていう」
「あ、はい。その通りです。」
あからさまにほっとした顔をされた。何だか微妙な感情だが、マイナスの感情を向けられることをなんである回避したのだから安堵するべきなのだろうか。
「私のいる家は先祖代々、フィンランドにおいて魔術結社を結成した魔術師の家系なんです」
彼女がフィンランド人ということを今初めて知った。
「私と妹のスティーナは十分な魔術適性があったため、幼少の頃よりずっと魔術の訓練に励んできました。私は槍術を習得し騎士としての訓練を、そしてスティーナは巫女としての才能があったために魔女としての訓練を、です」
今の話を聞いていると魔術を使う女性イコール魔女というわけではないということか。
「その妹の巫力に目を付けられたのがヴォバン侯爵でした。侯爵はまつろわぬ神を招来する儀式を執り行うために、優秀な巫女であったスティーナを徴用していったのです」
「なんで神を呼ぼうとしたんだ?」
新は疑問点を口に出した。それにカティは即答する。
「それは、神と戦うためでしょう。神を弑し奉ること、そして強者との闘争があの方の生き甲斐なのだ、と以前耳にしたことがあります」
ちょっと待て、と思う。確かカンピオーネの役割は、人類の代表としてまつろわぬ神と戦うことじゃあなかったか。戦うために呼ぶなんて支離滅裂じゃあないのか。
「なあ、それって完全に本末転倒……」
「しょ、しょうがないじゃないですか!お、おお「王」のなされることに一介の魔術師が口を出すことなんてできませんし、それがヴォバン侯爵なのですからっ!」
何故か怒ってきた。キレたようでもある。そのヴォバン侯爵について余程鬱憤がたまっていたのだなあ、という感じもする。
「わ、分かった分かった。よし、話を進めよう」
「あ、貴方が言い出したんじゃないですか……ま、まあいいです。話を進めますね」
コホン。咳払いを一つして、カティは話を進める。
「私はスティーナが連れて行かれたのを知ったのはスティーナが行ってしまった次の日のことでした。当時私は仕事があり、所属していた魔術結社、『鈴蘭白十字』を出ていたのです」
『鈴蘭白十字』……たぶんキリスト教系の結社なのか、と新は推測する。
「スティーナが神の招来の儀式のためにヴォバン侯爵に連れて行かれたと聞いた私は目を覆い、気を失いかけました。神の招来の儀式は、数ある魔術の中で最も難解とされる魔術の一つでその儀式に必要な巫女は非常に大きな危険を負わなければならないと知っていたからです」
カティが自分の左手を強く握り締める。自分に向かって話しているだけで当時のことを思い出しているようで、とても辛そうに見えた。
「私は両親に言い放ちました。スティーナを助けに行くと。そしたら当然のことながら、猛反対されました。たとえ大騎士の位を得たものであっても、「王」に逆らうことはあってはいけない。なすすべもなく惨殺されることになる。それだけじゃあない、この『鈴蘭白十字』さえも「王」の怒りに触れて滅ぼされてしまうかもしれない、と」
当然だな、と思う。今新が振るう権能だけでもただの人間が振るうことのできる力は超越している、と分析している。
それが新の遥か先輩のカンピオーネだったのなら当然だろう。簡単に捻られるのがオチだ。
しかし、それ以上に憤りを感じた。たとえそれがカンピオーネであっても自分の刹那的な欲望のために数十名の少女たちに生贄同然の扱いをさせるなんて馬鹿げている。そう思った。
「私は両親の言っていることを理解はしていました。「王」の命に背くことはあってはいけないことです。「王」を支えるのが魔術師の義務といってもいいのですから。
だけど、私は頭では納得していても心の中では理解してはいませんでした。だから、私は両親には秘密で妹を救出に行こうとしたのです」
破天荒な女の子だなあ、と新は思った。さぞや彼女の両親は苦労させられたろうな。いや、唯のバカなシスコンなのか?
「そして両親のもとを抜け出して妹の救出に向かったのはよかったのですが、儀式上の城に近づいた際に辺りを警戒していたとみられる魔術師に発見されてしまいまして……その結果狼に追いかけ回されて逃走しなければならない事態となり、貴方に助けていただいた、というわけです」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これで説明は終了のようだった。だから新は思わず思ったことを口走ってしまった。
「君……アホの子だねえ」
「ちょっ!?な、ななな何を言い出すんですかっ!!?」
「いや、だってさあ……両親にも内緒で死ぬかもしれないような相当な修羅場に一人で行くってどうよ?普通に考えて」
「ぐっっ!」
カティは図星を突かれたようだった。確かに単独でカンピオーネのいる城に向かい、自分の身内を取り返そうとするなんて無謀にも程がある。
「しょ、しょうがないじゃあないですかっ!自分の妹が連れ去られて黙っている人なんているはずがあ、ああありませんっ!!」
「でもさ、だからって自分で考えなしに助けに行こうなんて人はいないと思うなあ」
「ぐぐぐっっ!!」
またしても図星を突かれたようだった。というか、自覚はあったらしい。自覚は。
新がこの少女に抱いた感想は、無鉄砲で、どこか幼くて、考えが薄くて、シスコンである。ということだった。
「ま、いいや。そんな事よりも、いつまでもこんな処で話しているわけにはいかないと思うのだけど、どうだろう?ルフタサーリさん」
「そ、そんな事って…………そ、そうですね。早く「人払い」の魔術も解除しないといけないでしょうし…………あ、それと私のことはカティと呼んでください。皆そう呼びますし、貴方は私を助けてくれた人ですから」
「あ、そう?だったら俺のことも新でいいよ、カティ」
「はい、わかりました。ではそう呼ばせてもらいますね、新」
カティは上空に手を翳す。すると新にはここ一帯を覆っていた薄い呪力が消えていくのを感知できた。
一瞬後、喧騒が返ってくる。
変わったのは人がいるかいないかのはずだったが、こうしてみると建物と空の情景そのものが変わったように見える。
オレンジ色のカーテンはもう既に空の半分にまで真っ黒なカーテンに追いやられているようだった。
月が見える。完全な満月が低い空に見えた。街中にいる自分はともかく、街頭のない夜の道を歩いていても自分を照らしてくれそうな光が空に鎮座していた。
明るいな。
新が空を見ながら感慨にふけっているとカティから話しかけられた。
「これからどうしましょうか、新?」
「何故俺に言う」
「やだなあ。私、この辺りの地理とか全くわかんないんですよ?」
「……お前、どうやって城まで行ったんだ?というか、この町に立ち寄ってないのか?」
「ええ、町なんかに脇目も振らずに直行しましたとも。スティーナがいるんですよ!いてもたっても居られませんっての!!」
「……………」
やっぱりアホの子だ。と思う。
シスコン具合が彼女の動きに悪い意味でアクセルをかけてしまっているようだ。
「…まあいいや、ちなみにその囚われのお姫様がいる城とやらは何処にあるんだ?」
「へ?……ああ、ここから北西に20キロメートルほど行ったところですけど。ちなみにお姫様は複数形ですね、スティーナのほかにも集められた巫女が30人はいたようなので」
「ふーん」
少し面倒かな。と思う。
「あ、そういえば新。私動き続けていたのでお腹が空きました。明日また英気を養ってスティーナのもとへ突撃するためにも何か奢ってください」
「唐突だな。というか全く懲りてないな」
「あのくらいで懲りるようじゃあ、スティーナの姉を名乗る資格なんか有りはしないですよ。……ああ、それとついでに、さっきどうやって狼を倒したのか聞かせていただけると助かるのですが」
「ただの手品だよ。……財布持ってきてないのか?」
「最近の手品って進んでいるんですね。オリエンタルの不思議って奴ですか?……スティーナの元に行くのに夢中で忘れてました」
「そう思ってくれていていいよ、別に。……やっぱりアホの子だったか」
「むう…まあいいでしょう。助けられた身分ですし、一応それで納得しておきます。……失礼ですね。私はただ妹が大好きで大好きで堪らない姉っていうだけですよ?」
「おう、助けた身分だからな、納得しておいてくれ。……前言撤回する。アホなシスコンだったんだな、お前」
適当な事を話しながら、肩を並べて街道を進む。
新は、結局カティに夕食ぐらいなら奢ってあげようと思っていた。一期一会という言葉が頭にちらついていたからだ。
それに、はっきり言ってカティは可愛かった。せっかくの一人旅なのだし、こういう娘にお近づきになるのも悪くはないだろうなとも思っていた。
目がついたレストランのようなところに新が入り、カティも続く。
其処は一見すればカフェのようにも見えるところで、オープン席では観光客や地元の人も一緒になってワインのボトルを開けながらオーストリアの家庭料理であるフリターテンズッペやグヤーシュをつついていた。
カティは浮つきながら、案内された席へと座る。新もその姿に苦笑しながら席に座り、二人でとりとめのないことを話しながら食事を摂る。
カティの話の8割は妹の可愛さについてだったが……。
そこでの料理は、まあまあ美味しかった。そう言っておこう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
話の展開上、カティに自分が泊まっている部屋をシェアさせてくれと言われるのかと思っていたが、生憎そんなことはなかった。
何でも、非常用に500ユーロ札をコートの内ポケットに仕込んでいたそうだ。
それについて新は
(それで食事代払ってくれればよかったのに)
と思ったが、口には出さなかった。
カティはそれを使ってさすがに隣の部屋などではなかったにしろ、新が泊まっていたホテルに宿泊することを可能にしていた。
その時、
(ちっ……!ラッキーイベントがっ!)
と、新が思ったかどうかは定かではない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「じゃあね~~~お休み新~~~~。ふあああ~~~~~っ」
「ああ、お休み。カティ」
新とカティはホテルのロビーで別れる。カティは本気で眠そうだ。あれならあと30分もしないうちに夢の中だろう。もしかしたらシャワーも浴びずに眠り込んでしまうかもしれない。そんな顔をしていた。
新はロビーにあった自動販売機からコーヒーを買ってふかふかのソファに座る。
その後、コーヒーに口を付けながら今日の事を考える。正確には夕方、カティとの出会いを中心にしてだが。
アホなシスコン。それが彼女に対する印象だった。
考え無しで、楽天的で、妹のことを病的に大好きな人間だったのだ。そのような評価は当然だろう。
………とはいえ、彼女の妹のことを羨ましいとも思った。
一人っ子だった自分には、兄弟についてよくわかるはずがない。あくまで知っていることは知識や伝聞を介してのことだったし、自分に姉がいるなんてそんな事を想像したこともなかった。それに、一人っ子という身分に満足もしていた。
でも、それでもやはりいいな、そう思うのだ。
いくらシスコンとはいえ、自分の姉にここまで愛されるということは。
だから、やってやろうかな。そう思い立っていた。
旅行に来たところで、カンピオーネに喧嘩を売る。そんなことになるなんて思ってもみなかった。
新は苦笑する。本当、自分は何をしているのだろうか。
ふと、一期一会という言葉を思い出す。もし正しく列車に乗っていればこんな気持ちにならなかったのだろうか、ともふと考える。
だからって、この決断について後悔などはしない。するはずがない。
たっぷり1時間ほど待って、ホテルを出る。髪をなでる風が、冷たくて心地よかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
辺りはすでに闇の帳が降りきっている。
満月が出ているため少し明るく、明るい星でないと見えにくいだろう。
新は人気のないビルの上に立っていた。
不安はない。緊張もない。
体から呪力を引き出しながら、新は神獣を従える聖句を紡ぐ。
「神を導きし者よ、我に応えよ。暁の鳥よ、我に応えよ!天の焔の翼を広げ、誘う汝は我が敵を討たん!」
瞬間。
新の体が上に移動していく。
否。
黒の炎を揺らめかせながら、ビルの屋上から何かが起き上がってくるのだ。
それは黒い鳥だった。
嘴から尾までの長さは5mほどだろうか。黒色の炎を身にまとい、新を下から支えながら起き上ってくる。
その鳥には、通常の鳥にはあり得ないこの鳥ならではの特徴があった。
その鳥は3本足だった。この鳥は3本の足で自分の体を支えながら、新からの指示をただじっと待っている。その姿は主に仕える忠臣のようであり、神々しくもあった。
八咫烏。
それがこの神獣の名前だった。
古事記において、八咫烏は高木大神の命により神武天皇の東征の際に一行を道案内するために天より遣わされたという、賀茂建角身命が化身して顕れたと伝えられる神獣だ。
八咫烏は日本書紀の場合では天照大御神の命によって遣わされたという通り、太陽と非常に強い結びつきを持つ神獣といえる。そしてそれは世界中の神話の中に登場するすべての烏に共通する特徴でもあった。
新はその太陽の神獣と共に戦い、時には数百羽に分裂させながら戦う。
それこそが新が和歌山県で祭神、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)より簒奪した権能であり、新が得ている2つの権能のうちの、第二の権能だった。
「じゃあ、行こうか。クロ」
背中に座り込んだ新の言葉にクロは巨大な黒の翼で羽ばたくことで応える。
新を乗せたクロは、一路北西にある古城に向けて高い鳴き声を上げながら上空へと羽ばたいて行った。
数時間後、この町からほんの20キロメートルほど離れた古城でカンピオーネ同士のこの世ならざる戦いが繰り広げられることとなる。
しかし、まだ今この時の空はそのようなことになるとは誰も思うこともなく、光り輝く満月が微笑み、明るい色とりどりの星々が瞬く平和な風景が広がっていた。
が、そこに異変が現れる。満月が夜を圧しているような空であってもはっきりと目視できるような大きな流星が、極光を振りまきながら墜ちていったのだ。
その景色は日本とイタリアという2つの国で新しく誕生した若きカンピオーネ、その2人の名を欧州のみならず、世界中の魔術界に響き渡らせる血戦の前兆だったのかもしれない。