第一話
空色が天を見上げる者すべてを圧倒していた。
大陸性の気候が理由からなのか、8月の快晴という日本ではクーラーが手放せなくなる天気においても、この町は涼しいままだった。
東欧の小国オーストリアの景勝地、ハルシュタット。人口1000人強という決して多くはない人口ながら、町のはずれには古代ローマ以前よりさかのぼる岩塩抗があり、ザルツカンマーグート地域の景勝地として有名で、その一帯が世界遺産にも登録されている湖の畔の街である。
そのため、その美しさから真珠にも例えられる市街地は多くの人で賑わいを見せているが、ヨーロッパという地理的条件もあってか東洋人の姿を見ることは殆どない。
にもかかわらず、この町を一人で歩く東洋人の姿があった。背は175㎝程だろうか。日本語で書かれた観光ガイドブックと思われるB5サイズほどのカラー印刷の本と向き合いながら売店で買ったと思われるコーラに口をつけながら唸っていた。
(あっれ――?ここからウィーンへはどう行けばいいんだったっけ?)
ガイドブックを見ながら考慮を重ねる少年、南条新(なんじょうあらた)はハンガリーからウィーンに向かう途中だったのだが、オレンジ味の大型アイスクリームの対処に夢中で駅のホームをうっかり間違ってしまい、違う行先の電車に乗ってしまったという経緯を持っていた。最も、行き先が間違っているのに気付いたのは電車が出てから5分後だったのだが、当の本人は
(ま、いっか。どうせ一人旅だし、予定をきっちり決めているわけでもないし)
と、非常に楽天的だった。
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「それじゃあね、新。あなたこの金でどこかに旅行にでも行ってきなさい」
それが新の母親、玲子の言葉だった。新の父親はすでに彼が幼い頃に亡くなっていたが、母親は世界を股にかけるキャリアウーマンだったため(ちなみに5か国語ペラペラ)に金銭的な面で苦労したことは新には一回もなかった。
しかしその代償というべきか、母親が新の家に帰ってくることもほとんど無かった。しかしそれでも、運動会や授業参観、新の誕生日にはできるだけ新と一緒にいてくれた。また、もし居られないとしても必ず何か埋め合わせをしてくれたものだった。それは外国のお土産であったり、家族サービスの類であったりした。
以上な理由で、新の16回目の誕生日プレゼント兼一緒にいられなかった埋め合わせは玲子による「旅行代の全負担」だった。
太っ腹だな、と思う。それと同時にもう必要ないとも思った。いくらなんでも16歳にもなってそんなものは必要ないと思ったからだ。母親の仕事には理解があるし、もうそのようなイベントで母親がいないということがあってもわざわざ寂しがるような年でもないのだから。
しかし、その言葉を玲子に言ったときの返答が
「あなたはまだまだ子供よ。おとなしく母親の厚意を受け取っときなさい」
だった。個人的に旅行に行ってみたかった新はただで一人旅ができる機会が生まれた事が嬉しかったためそれ以上強く言わなかった。そして、以前から言ってみたかった東欧に行ってみようと思い立った。
以上が新の東欧旅行の経緯である。この旅行について新は何も心配はしていなかった。金銭的、時間的な理由もあったが、新には
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雲一つない空に移る夕焼けは、まるでオレンジ色の絵の具で作ったカーテンのように映る。この日に列車に乗ることをあきらめ、近くのホテルにチェックインした新は夕食を食べにハルシュタットの街へ繰り出していた。
(やったー。ワインを飲もう!)
(オーストリアっていうか東欧の国って須らく煮込み系の料理を食べなければならないっていうイメージがあるが……ここは敢えて煮込み料理をチョイスしないという選択はどうだろう)
(明日クロに乗せてもらってウィーンに行こうかな……よく考えればそっちのほうが安上がりだったな)
新は取り留めもないことを考えながら、観光客で賑わう街道を歩く。
新にとっては新鮮な風景だったが、この町に住む人々にとってはさして変わったことのない日常の風景なのだろう。行きかう人々はみな穏やかな顔をしている。
新は新鮮なこの町の日常を楽しんでいた。
しかし、通常ではありえない気配に体が反応したのもこの時だった。
「………ッ!!」
自分の脳に直接モールス信号が叩き込まれたような、しばらく感じていなかった感覚。新には何か魔術の類が使用されていると知覚した。
魔術。新は幼い頃からその存在自体は知っていた。それは新の祖父母が魔術を嗜むことがあったためであり、時たま新が祖父母の家に遊びに行った際魔術について教えてもらったり蔵の蔵書を読ませてもらってもいた。
しかし、それはあくまでその概要について知っているというだけであり、知識はある程度持っているだけで魔術を使用することはなかった。それでも、今の新にはその知識がありがたかった。ここ一帯を覆う魔力を知覚し、そこに起こった現象からそれが何の魔術なのか分かったからだ。
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「はっ、はあっ……ッ!」
カティ・ルフタサーリは、追っ手から逃走していた。家族の反対を押し切り、父親の猛反対を振り切ってまで2週間前に生贄に捧げられた妹を救い出そうとした。
しかし、結果は失敗に終わった。妹と同じ立場の少女、もしくは女性たちが集められている場所である古城に侵入する前に周囲を監視していた魔術師に発見されてしまったのだ。
確かに、カティは隠密行動には向いていないと自分では分析している。にもかかわらず発見されてしまっ た。カティは弱冠15歳という年齢ながら大騎士の称号を得た天才少女だったにもかかわらず、だ。
カティを追跡しているのは馬と見まがうほどの体躯の数十頭の灰色の狼。カティの実力として本来なら対処するのはそう難しくない。しかし、彼女が現在負傷していたことが問題だった。
腹部に血が滲んでいる。妹の救出を歯噛みしながら断念し、撤退を決断したときに剣士から受けた一閃によって受けた傷が原因だった。それによって自分の判断力、機動力が大きく減退してしまった。
(これじゃあジリ貧だ……一刻も早くこの狼たちを倒さないとっ!)
このままでは逃げ切ることは不可能だと悟ったカティは狼たちを迎え撃つことに決めた。しかし、カティが今立っているのは世界遺産の町であるハルシュタットの建物の上だった。
ここでは足元を気にしながら戦わなければならず、やはり土に足をつけて戦うのが望ましい。
そしてカティは周囲に被害を出さないために魔術を行使する。
その魔術は非常にポピュラーであり、基本的な魔術の一つである「人払い」の魔術だった。
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(辺りから人がいなくなった……「人払い」の魔術かな、多分)
新は周囲の状況を分析した。1分ほど前から、周囲の人通りが皆無になっている。
「人払い」の魔術。魔術を行使するものとしてはまず最初に習う魔術の一つであるが、その性質ゆえ使用機会は多い。魔術はその秘匿性が重視されるため、目撃者を出さないことが重視されるのだ。…というのは新の祖父から聞いた話。
少し時間がたつと、オオカミだかライオンだかよくわからないが獣の何頭もの叫び声と爆音が聞こえてきた。
(…………ええ~~~)
いくら人払いによって人的被害の心配がないからとはいえあんなに派手に戦い合うのはいかがなものだろうか。もしかしたらこれはヨーロッパでは当たり前の光景ではないかとも思ったが、いくらなんでもあり得ないだろうと思い直した。
ドッ……ドドドッッ………ズガアッッ!!!
確実に激しくなっていると思われる戦いの様子に、新は呆れた。しかし、それ以上に
(ちょっと覗きに行ってみようかな……)
好奇心を刺激されたのは否定しきれない事実だった。もちろん、通常はこのようなことが起きた場合に一般人がすべきなのは爆音のしないように避難するというのが一番の方法である。
しかし、新は「一般人」という枠にはまるような人間ではとても呼べなかった。人間、という枠の中においても魔術師、という枠の中においても。
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「天に召されし者よ、我が選定を受けし者よ。我は勇士を導きし者!夜の闇より煌めきし者なり!」
カティは言霊を言い放つ。自分の中の呪力を活性化させ、自分の持つ槍を横薙ぎに振るう。
カティの持つ槍の名前はゲイルスケグル。「槍の戦」という異名も持つ、半神の女神であるヴァルキュリヤの一人と同じ名前を冠している槍である。
ヴァルキュリヤとは、戦場において死を定め、勝敗を決する女性的存在である。彼女たちは死んだ王侯や勇士を選り分け、ヴァルハラへ迎え入れて彼らをもてなす役割を担った女性たちだった。
カティはその槍を振るうことで、戦乙女であるヴァルキュリヤに近似した力を振るうことができる。最も、その力はあくまで近似したものであり、威力や神性といった部分では大きく弱体化していることは否定できないが。
「これは白馬から降りた戦乙女の乱舞である」と、そう言われても納得する者もいるかもしれない。それほどまでにカティの戦いの様は美しさを帯びていた。
銀色に輝く槍が狼の喉元を貫く。致命傷を負ったオオカミはその場に倒れる前に塵になって消滅する。狼たちはその隙を狙って殺到する。が、カティの槍はそれよりも速く後ろに迫ってきた狼の頭上に振り下ろされていた。
後ろからの狼を抑えつけ、前の狼に上段回し蹴りを食らわせる。その戦いの様は、全く危なげの無いように見えた。
…が、当の本人のカティは先程受けた負傷による痛みとその余裕のない状態からの多数の狼との戦いによって集中力を擦り減らしていた。
(ハアッ、ハアッ。………このままじゃヤバイッ)
カティが古城で受けていた傷は呪いの類が付与された刀剣からの一撃だったのだろうか。痛みに耐えながら今でも戦闘と並行しながら行っている回復作業は思ったよりも進んでいなかった。
「……はああっ!!…………ッ!!!」
それは一瞬の隙を突かれたのかもしれない。カティの右後ろから迫った狼が、カティの振るっていた槍を抑え込んだのだ。
(まずいっ!)
一瞬の隙が三瞬の隙になってしまえばもうカティに狼の群れに打ち勝つ術はもう存在しなくなってしまった、と言っていい。
槍を抑え込んだ狼をカティは炎の魔術を用いて吹き飛ばした。しかし、それがカティにとっての致命的な隙になってしまった。
青色の炎が狼を吹き飛ばしたその瞬間、後ろから迫ってきた狼にカティは右肩を噛み砕かれてしまったのだ。
「あがああああああっっっっ!!!!」
右肩に走る激痛、そして叫び。そして彼女は狼に突き飛ばされた。
地面に転がったカティは右腕を庇いながら立ち上がろうとする。
が、カティが立ち上がって魔術を行使するよりも、追撃に走ってきた狼たちがカティに殺到するのが早かった。
カティはその瞬間、理解した。
(あ………こりゃ死んじゃったな)
自分のやろうとしたことに後悔はしていなかった。それがたとえ「王」の命令による仕業で、それがどんなにしょうがないことだったとしても、自分の妹が連れ去られて、生贄にされていくのを黙ってみていることなんてできなかったから。
でも、それでも。狼に食い破られる寸前、カティの脳裏をよぎったのは自分の父親、母親、苦楽を共にした友人。そしていつも自分が世話をすることになっていたが、これまで何度も自分のことを支えてくれた妹への謝罪の気持ちだった。
(ごめんなさい、お父さん、お母さん、みんな。……スティーナ)
カティは狼に自分が食い破られるのを薄目を開けながら見つめていた時、自分の周りの感じる時間がとてもゆっくりと流れているように感じた。自分に迫ってくる狼の群れの動きがとてもゆっくりになったからだ。
(ああ……どうせなら早く済んで欲しいのにな)
カティには自分の見ているすべての映像が自分のことではないように思えた。それは現実逃避の一種だったのだろうか?まったく現実感が感じられなかった。
その後、狼は予定調和の通りにカティの体を食い破ろうとした。
が、
刹那。
カティには目の前の映像がわからなかった。現実感のない映像の中においても、あまりに唐突な現象だったからだ。
自分の視界に移る
。
頭を失った狼たちが地面に転がり、消えていった。
「!!!!!!」
その一瞬後、カティの意識は現実世界に戻ってきた。
何が起こったのかはわからない。しかし、この空間から狼が今の一瞬で一掃されたこと。そして自分はまだ生きていることは把握することができた。
辺りを呆然と見る。狼が消え去った今、今この場にいるのは自分だけだと思っていた。
しかし、それは間違いだった。自分の右の方向から何者かの気配を感じる。その正体を見極めるために振り向いた。
(……何者?)
それは魔術師でも、騎士でも、または人ならざるものでも無いように思った。
東洋人の観光客だろうか。半袖の青みがかったTシャツに黒色のジーンズ、背中にはリュックサックを背負い、無表情でこちらを見ている。年は自分と同じくらいか1~2歳ほど下と思われる、少年だった。
(……………)
その少年の名前は南条新。偶然と好奇心によってこの場を通りかかった観光客。そして現在この世界に7人しか存在しない神殺しの魔王、カンピオーネの一人だった。