少年は、とある中堅魔術結社の構成員として働いていた。
魔術の才能に関してはそこまで優れている物は持ってなかったもののその他の才、運動神経や洞察力、判断力に関しては優れた力を発揮し、まだ若いにも拘らずその結社の中においては既に一人前として扱われていたのだ。
少年には、彼にとって世界でいちばん大切にしている双子の妹がいた。
その妹は生まれつき体が弱く、これまでの人生の半分は寝たきりで生活していた。しかし、少女にはその欠点を十分に補えるほどの、魔女としての才能を持っていた。だから少女はその力を使い、自分の兄が所属していた魔術結社に貢献して働いていた。
少女は自分の兄の事が大好きだった。泣いていればいつでも手を差し伸べてくれ、眠れない日はずっと隣で昔話を語りかけてくれる兄の事が大好きだった。
2人は住んでいた町の中でも、特に仲の言い兄妹として有名だった。二人の両親はすでに他界していた所為か、互いに愛を与え、与えられるその関係は最も理想的な兄弟愛の姿として町の人々から見られていたのだ。
しかし、ある初夏の日。それは空一面を雲が覆い、日の光を隠しだしてしまう昼下がりの事だった。
少年の妹に、召集が下った。
招集した者の名前は、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン侯爵。世界最古の魔王にして、少年が所属している魔術結社の総帥が崇拝しているカンピオーネだった。
その総帥は、その召集に対して諸手を上げて喜んだ。ヴォバン侯爵から自分の魔術結社に直々にお呼びがかかるとは、非常な名誉と捉えたからだ。
招集の話を聞いた少年は激怒した。
行われるのは、神の招来の儀式。まつろわぬ神をこの世界に顕現させるという最も難しい魔術の中の一つ。しかしそれを行うにあたって、巫女たちの生命は一切保障されない。むしろ、ほぼ全ての巫女たちが死んでしまうであろうと思われた。それほどの危険性を、神の招来の儀式は孕んでいたのだ。
だから、少年は戦った。妹をその儀式の犠牲にさせないために。
己の持てる全ての力をかけて、自分のできるありとあらゆる策を講じ――――そして敗れ去った。
雨の降りしきる中、魔王の手勢の内の一人が放つ、青く輝く矢が少年を貫き、倒れ伏す。
その隣には、既に息のない人間の亡骸が数体横たわっている。そのどれも、少年の助けに応じてくれた大切な仲間たちだった。
「あ………う…………」
体が動かない。既に体に受けた傷は無数にあり、心身ともに疲弊しきっていた。そしてそんな少年に止めを刺すべく、だらりと剣を下げた男が一人、歩み寄ってくる。
もう死ぬな。そう思った。でも、不思議と心が悲しみで溢れることもなかった。それは、これ以上の悲しみを感じることを心が拒否したからなのか、それともこれから起こることが現実味に乏しかったからなのか。
その時、少年の頭に影が落ちる。
一体何だろうと隣を見た彼は、目を見開いた。そして驚愕に、声が全く出なかった。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。少年が誰よりも大切に思い、誰よりも愛していた妹の姿だった。体が弱く、天気の良い日にしか出歩くことが出来ないはずの少女だった。
少女は言った。「私を連れて行ってほしい。そのかわり、兄を見逃してほしい」と。
少年を殺そうとしていた剣士は、それを受諾した。元々、目的は巫女となるべき少女だったからだ。それさえ達成してしまえば、他の事に興味は無かった。
少女は侯爵の手勢に少しだけ待つよう言うと、少年のもとに歩み寄り、治療の魔術をかける。少しずつ塞がっていく傷跡を見て、少女は嬉しそうに笑い、そして口を開いた。
私が生まれて初めて、お兄ちゃんを助けることが出来たと。もうすぐ終わりを迎える人生のクライマックスに、最初で最後だけれど、兄への恩返しができて良かったと。
それから少女は少年に別れの言葉をかける。少年が暫くの間は目を覚まさないよう、睡眠の魔術をかけながら。
「今までありがとうお兄ちゃん。今まで助けられてばかりの出来の悪い妹でごめんね。でも私、今まで楽しかったよ。お兄ちゃんが一緒にいてくれて、本当に幸せだったよ」
倒れ伏す少年は、少女の残そうとする言葉に必死で否定を返そうとしたが、妹がかけている睡眠の魔術に呑み込まれようとしているために叶うことは無かった。
それでも少年は叫びたかった。
決して彼女はできの悪い妹などでは無かったと。
仕事に疲れ果てて、心が荒んでいるときに出迎えてくれ、一緒に過ごしているだけで全てが報われていたのだと。
この世界にお前が生きているというだけで、自分は救われていたのだと。
その叫びは、僅かにも少女の耳に入ることは無く少年は眠りについていった。
それでも少女の微笑みは些かも曇ることなく、少しの間だけ少年の髪を梳いて、涙を流しながら頭を抱きしめる。
それから、少女はトラックに乗せられて西の方角へ去って行った。最後に見る故郷を、名残惜しそうに見つめながら。
この物語は、何の変哲もない、世界の何処にでも起こり得るありふれた出来事の一幕である。これと同じような出来事が同じ時期、少年と少女が住んでいた東欧を中心に頻発していたが、それも特に語る必要の無いものだ。
そんな話がここに記されているのは何故なのか。それは、これはある一人の人間から見た、ある戦いの序曲として当てはまるからだ。
世界は回る。
プレリュードから数か月後、少年のいる地から遠く離れた極東の島国から、第一楽章は開始される。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ん~~~♪」
昼下がりの清海高校、1年8組の教室。
クーラーが静かに唸りを上げる教室で、フィンランド人転校生カティは美味しそうに白あんパンをパクついていた。
「何なんだろうな……カティの食べてるパンが全て旨そうに見えてくるのは。1個70円の安物だろう?」
カティの対面に座り、現役高校生にしてカンピオーネである南条新はズルズルとコーヒー牛乳を啜っていた。
「カティさんってとっても美味しそうにご飯を食べるよね。作った人も本望だろうなあ……少し羨ましいかも」
新の隣、弁当箱に最後まで残していたプチトマトを口の中に入れるのは高校に入ってからの新の親友である少女、環いぶき。
「にしてもなんでチョイスが白あんパンなんだ……?何だか中途半端な感じがするんだがな、白あんパン」
新の斜め前、ペットボトルに入ったスポーツドリンクを喉に豪快に流し込むのはラグビー部所属、新の第2の親友である片岡百春。
「む?フィンランドに無いパンを制覇しようと思って。そら豆を甘く煮るなんて最初は訳わかんなかったんだけどね、結構美味しいもんだよ、はるるん」
「――!……はるるんって」
まるで女の子に呼ぶような呼称に、新は思わず吹き出しそうになるのを堪える。
「…………それで?俺達に聞きたい事って一体何なん?」
息を整えて新は尋ねる。
そもそも昼休みの、それも皆が昼食を終えているにも拘らずに4人が顔を突き合わせているのは、カティが少し聞きたいことがあるのだと、新、いぶき、百春の3人を引き留めたからだった。
それを聞き、カティは紙パックに入ったウーロン茶を全て飲み干し答えた。
「いやあ、私はフィンランドにいた頃さ、週末にちょくちょく図書館に行くことにしてるんだけどね、遠崎市の図書館が何処にあるかわからないんだよねえ」
「図書館………カティが図書館……?」
カティの口から出た図書館という響き。何だろうか、この違和感は。ひょっとしてあれか、妹物のライトノベルでも借りるのだろうか?
そんな心中のツッコミは置いておいて、新はカティに提案する。
「ふ~ん、まあ今日の放課後は暇だしな。図書館も入り組んだ所にあるから俺が連れて行こうか?」
遠崎市に大きな図書館は2つある。県立図書館と、市立図書館だ。そのうち、県立図書館は少し北の方にあって少し離れているから市立図書館に案内するのがベターだろう。
ニコニコとそこまでカティは微笑んでいたが、新の言葉に反応すると、両手をぶんぶんと振り回す。
「いやいや、大丈夫だって。新の放課後を埋めるわけにはいかないよ。……それに、私は図書館へは一人で行く主義なんだからね」
「……変わった主義だな」
少なくとも、新はそのような人間は初めて見た。まあ、個人個人の主義主張なんて実害が無いうちは肯定しておくのが一番ベターだ。
「まあ、そう言うなら無理について行こうとはしないさ」
「うん、ありがとうね……あ、ちょっとウーロン茶買い足しに行ってくる!」
カティは手にしていた紙パックの中身が無くなっているのに気付くと、走って教室を飛び出して行った。どうやら、日本に来て初めて飲んでから気にいったらしい。
カティを見送り、新は残っていたコーヒー牛乳を始末にかかる。その様を見ながら、百春がニヤニヤしながら新に笑いかけてきた。
「残念だったな、新。彼女を図書館デートへ誘えなくて」
その発言に、新は思わず眉を顰める。ふと周囲を見て見れば、近くにいた男子生徒も新に目を向けて笑っていた。これはあれだ、他人の不幸は蜜の味という顔だ。
それを見て、新は思わずため息を一つ。
「別にそんなんじゃねーよ。カティが必要ないっていうなら、そうなんだろ」
「またまた~~~」
どうやら、自分とカティの間の浮いた噂は当分の間収まることは無いようだと、新は思った。人の噂は七十五日というが、この場合は100日位かかるかもしれない。
「ま、まあ新も別にどうしても行きたかったわけじゃあ無いんだよね、よね?」
百春とは違い、いぶきは新の味方をしてくれた。どことなく嬉しそうな、安心したような表情をしているが。
新は、もしカティと図書館に行った時の事を想像し、呟く。
「まーあいつの図書館巡りについていったとしても、必ずしもいい気分になれるという訳じゃあないんだろうな。
………ほらあれだよ、偽物の劣等生が漢字を読めてもこんなに可愛い訳がないけどさ、愛さえあれば関係ないよねってことだよ」
「………な、何それ」
いぶきは新の言っていることの意味が分からず、こてんと首を傾げる。
このクラスで、カティの病的なまでのシスコンを認知しているのは新一人のみ。だから、自分の憂いは絶対に知られることは無いだろう。
そう思った新は、目を細めてこのクラスを見渡すことにしたのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……なあいぶき」
「ん?なあに新」
「……やっぱりさ、俺立とうか?」
「うんうん!!いやいや、そんなの全く必要ないからね!」
いぶきはぶんぶんと、勢いよく頭を横に振る。それと共に出した声は、車内で出すにしては随分と大きかった。だから、ほかの乗客にまでその声が聞こえてしまうのは当然と言える。
「いぶき……周り周り」
「………………?――――――――――――!!」
大声を聞いてぎょっとした新たに促され、いぶきは周りの状況を確認する。
そして視界に入るのは、周りの乗客たちのこちらを向く幾つもの目。
それを認識した彼女は、唯でさえほんのりと赤かった顔を0.1秒で更に赤く染める。静寂性が求められるこの場所において、いぶきのやらかしたことは注目を集めるのに十分だった。
「うぅ~~~」
全身からやらかした感を放出し、自分の膝に乗せたリュックサックに顔を埋めるいぶき。そんな姿を見て正直、新が可愛いと思ったのは秘密である。
新といぶきが今現在いるのは、遠崎市の中心を通る路面電車の中だった。
その中の座席で2人はぴっちりと肩を寄せ合っており、混み合っている車内でまるで恋人のように密着している。
新にとっては、自分が席を立ってでもいぶきから離れるべきと思っていた。別にいぶきの事が嫌いだからとかそういう理由ではなく、あくまで寄せ合っている所が暑いからという理由だ。まあ、照れ臭いからという理由も多分にあるのだろうが。
「……………」
「……………」
会話が無い。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
上の方に設置されたスピーカーから、次の駅名を告げるアナウンスが流れてくる。それを聞いておもむろに上に目を向ければ、昨年リニューアルオープンした大型遊園地の広告が見えた。
「………いぶき、そろそろだぞ」
「う、うん。そうだね」
既に電車は繁華街を抜け、住宅街が見えてくる方向にまで進んでいる。
新といぶきが2人してここまでやって来たのは、いぶきの頼みによるものだった。
曰く、「自分の買い物についてきてほしい」とのこと。
日本に来たばかりのカティやスティーナじゃあるまいし、なんでそんな事をする必要があるのだろうかと新は思ったが、
「今日は重い物を買わないといけないし、それに1人で買い物するのも寂しいし」
と言われたら、拒否するのも難しかった。なにしろ、放課後は暇なのだと昼休みに言ってしまったからだ。
そんなわけで、新が了承の返事を返してから何処か機嫌が良いいぶきと、彼女の近くにあるスーパーマーケットまで行くことにしたわけだ。
(この地区に来るのは久しぶりだな。………おお、あの百貨店懐かしいな、まだあったのか)
(うう………誘ってみたは良いものの、新と2人きりでいるとこを近所の人に見られちゃったりしたらどうしよう……)
目当ての電停に路面電車が止まったのを確認すると、他の乗客と同じように2人とも無口で、電車賃を払う。
そして、
“それ”が起こったのは、いぶきが電停に降り立つほんの一瞬前だった。
「―――――――――ッ!!!??」
背筋が唐突に逆立つ。
人間が対象に向ける感情のうち、純然たる殺気が自身に向けられていることを感じ取った。そしてその殺気が、後数秒をしないうちに物理的、または魔術的な攻撃となってこちらに向かってくることも。
考える暇は無かった。
今すべきなのは、いぶきも一緒に攻撃から身を守る事のみ。
(加速、100倍速!)
世界が止まる。
自分の前に電車賃を払い終え、今まさに電車から出ていこうとしているいぶきを引き寄せながら自分の内部時間を加速させる。
その速さは、新がとっさにできる中でも最速の時間加速。
「きゃあ!?あ、あ新!?」
新に抱きかかえられたいぶきが悲鳴を上げるが、生憎それに応える余裕なんてものはありはしない。
新はそのまま全速力で駆け出し、電車から離れようとする。特にその行動に根拠があるわけではない。しかし、そのままあの場所に立っていればとんでもないことになるという本能による警鐘が、彼にそうさせたのだ。
訳も分からず悲鳴を上げるいぶきに構わず電車の扉から飛び出し、殺気が放たれた方向を見る。
そして見た。
殺気と共に新に殺到する、黄金色に鈍く光り高速で回転を続ける弾丸数十発。その一発一発が、人一人の命を刈り取って余りある威力を持つことは明白。
「―――ヤロッ!」
新はとっさに、自分の周りに黒い炎を展開する。
その炎に課せられた役割は攻撃ではなく、防御。瞬時に黒の膜が2人を包み込み、全ての攻撃を防ぎきろうとする。
そして、
「―――――――ッ!!」
新が防御膜の展開に成功し、内部時間加速を解除したその瞬間、彼の腕に鋭い衝撃が幾つも圧し掛かってくる。その一つ一つが、人間の命を容易く奪う大きな弾丸だ。
黒い膜の表面に幾つもの炎が躍る。その炎の数だけ、新をいぶきの命を奪わんと鉛玉がここへ駆け抜けてくる。
しかし、急ごしらえにも拘らず黒の焔は良く凌いでくれた。おかげで、新といぶきの2人はかすり傷1つ負っていない。
しかし、
「――――うおっ!?」
「――――きゃあぁあ!」
横から、オレンジ色の光が瞬いた。
新が攻撃を防いだと確信したその瞬間、その光が2人を照らしたと思われた直後側面で大きな爆発が起こる。
それは一体、何が原因だったのだろうか。そう思った新は思わず横に視線を向ける。
「「!!???」」
2人は、言葉を失った。
「…………な…………、ん」
「………………え……………い、や」
新はこれまで、血生臭い情景というものを実は殆ど見たことが無い。それは、日本という平和な国に住んでいたこともあるため当然の事と言えるだろう。
だから、新はこれまでの生涯で初めて目にすることになる。
血に塗れた肉塊を。
撒き散らされながら燃え上がる、黒煙を。
“炎の中でのたうつダレカの姿を。”
「嫌アアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァ――――――ッ!!!!!」
自分のすぐ隣にいるはずのいぶきの叫びが、何故か遠く聞こえた。まるで、感覚器官が刺激の受容を拒否したかのように。
新には考える時間、否、余裕が無かった。だから、体から湧き上がる衝動そのままに、体内の呪力を爆発させる。
「あの野郎――――――――ッ!!――――――――――――――暁の鳥よッ!!!」
右腕を振り上げて、振り下ろす。
自分と、周りの世界全てが狂ってしまった世界で、クロだけが今までと同じように新に応えてくれた。
新のすぐ上で、呪力が爆発的に溢れだす。
黒の焔を身に纏い、10mにまで巨大化したクロが一直線に銃撃が行われた場所へ突撃していく。瞬間的に注ぎ込まれた呪力を秘めたそれは、たとえ神獣であっても一撃で消滅する程の力があった。
だから、その攻撃の結果は必然だった。
「――ッ!!」
爆風と光によって、新の顔が微かに歪む。
だが少なくとも、新の周囲の人々はそれで済まなかったと言える。
大半の人間にとっては、路面電車が謎の爆発を起こした直後にそのすぐ近くにあった雑居ビルの上半分が黒い炎によって吹き飛んだ事を目撃したのだ。冷静でいられるはずがない。
黒の焔が雑居ビルの周りを焼き始めた頃、一般人の殆どが逃げ出し始めた。ある者はガラス片が幾つも突き刺さる腕を抑えながら、ある者は焼け爛れた足を引きずりながら。彼らに共通していたことは、その誰もが恐怖に満ちた表情をしていたこと。そして、早く非日常から逃げ出して日常に戻りたいと、心の底から何処いるかも知れない神に懇願していたこと。
しかし人々の中には、その惨状の中においても他人のために献身を続ける人間もいた。それはすっかり汚されてしまった学生服を着崩した少年だった。二の腕の辺りを火傷しているにもかかわらず、路面電車だった瓦礫を必死に退かそうとする女性だった。中にはキャラクター物の手提げ袋を止血に使おうとする、まだ小学校を卒業していないような子供の姿もあった。
その誰もが必死な顔をして、両手から零れそうな命を必死に留めようとしていた。日常の内から心に刻み込まれてきた、人としての責務と良心を全力で果たしていた。
しかし、
「――――――ああ、成程」
燃え盛る路面電車、その傍にいる逃げ出してもいない、人としての責務を果たそうともしない人影が2人分。
その中の1人、立っている方の少年は、周りの惨状に関心を払っていなかった。彼にとっての最大の関心事2つはそれではないという理由だけで。まるで、地上全ての上に君臨する魔王の様に。
その関心事はもう1人、少年のすぐ傍に蹲っている少女を守ること。そしてもう1つは、彼の視線が物語っていた。
「――――――そうか、お前か」
口から零れた呟きは、体の芯から凍える位に冷たかった。
その眼は彼の前方、土埃やアスベストが大量に舞い上がる上半分が欠けた雑居ビルを見据えていた。正確には、その前方を。
「このっ――――――化物っ―――!!」
そこに立っていたのは、まだ年端もいかない少年だった。
少なくとも日本人の顔つきではない。ヨーロッパ系の顔に、茶髪、黒の目。同じヨーロッパ人のカティとはまた違う、おそらく現地ではごくありふれているのだろう姿。
そんな彼は息も絶え絶えに、体中に火傷を負っている。その少年もまた、路面電車の傍の少年を見据えていた。しかしその眼はその少年の眼とはまるで違った。その眼には、敵意と、恐怖と、絶望が湛えられていたから。
「―――まあ本当ならこのまま捕縛して委員会辺りに突き出した方が良いんだろうけどな………」
燃え盛る路面電車に一瞥もせず佇む少年、南条新は負傷する少年を前に、そんな事を口走る。
その少年の周囲には、10匹ほどのクロが滞空、または佇んでいた。そのどれもが、主の命を受けて少年のあらゆる新に対してのいかなる敵対行動を取らせずにいた。ある者は殺気をぶつけ、ある者は逃走経路を塞ぐ。故に、少年は今自分自身がいる場所から一歩も動けずにいたのだ。
新はそれを見て、肩の力を抜いて歩き出す。
「ま、下手に魔術じゃなくて純粋な物理的手段で訴えてきたことについては、正解だよな」
新は一歩一歩、焼け焦げたアスファルトを踏みしめながら少年のもとに歩み寄る。特に急いでもいない、ゆったりとした速度で。
それを見る少年は恐怖に目を見開く。
その後で周囲を確認し、何か活路や突破点が無いだろうかと必死で探しているのが伝わってきた。目の動き、重心の傾き、表情の変化で。その動きだけで、その少年が戦闘方面についてある程度は熟達しているのが分かるほどに。
だが、その程度で突破口が見つかるわけがない。
神獣である牛鬼が、最後まで翻弄され続けた連携をクロたちは見せていた。人類最高峰の強さを保有しているとしても困難を極めるだろうに、少なくとも彼はそんな実力者には見えなかった。
「カンピオーネには、呪術、魔術の類は一切通じない。だから確かに銃撃なんかの物理攻撃、それも避けることが叶わない位の飽和攻撃は俺達には一番通じるかもしれないな」
でも、と新は思う。
あの程度で死んでしまうくらいなら、カンピオーネはまつろわぬ神と戦う事は出来やしないだろうし、魔王とも呼ばれないだろう。
「舐めすぎだよ、俺達の事を」
新自身は大した魔術の知識も持っておらず、武術を学んだこともない。それでもあの攻撃を凌ぎ切ったのだ。
サルバトーレなら、某怪盗アニメの様に全ての弾丸を一刀両断にするかもしれない。今は亡きヴォバン侯爵なら、魔眼で全ての弾丸を塩に変えてしまっただろう。まあそれ以前に、カンピオーネがたとえ全弾直撃を食らったとしてそれが致命傷に至るのだろうかという疑問もあるが。
地上最強の戦士が、あの程度の不意打ちでやられるわけがない。
「………ふう………ま、とりあえず訊問しないといけないだろうし、ちょこっと気絶してもらうわ。少し位痛くて熱いだろうけど、まあ気にするな」
少年のもとに届くまで、残り推定15歩。
正直新は「コイツもう殺っちゃっていいんじゃないかな」と割と本気で思っていたが、現遠崎室長の沙耶宮馨に迷惑がかかると思っていたのでそれは選択しなかった。それに、新自身も尋問の必要性は理解している事であったし。
近づかれる方の少年は、まさに死刑執行までの猶予がその歩数に見えただろう。「気絶で済ます」という言葉がその中でどれほどの説得力を持っていただろうか。
「――――ひッ―――――ッ――――――」
もはや、その少年には殺意や闘志が霧散していた。
膝をつき、火傷をいくつも負った体に、恐怖に染まった目。もう逃げることや、反撃に転ずることは選択しないだろう。
その姿を見て、新は少し傷ついた。まあ、自分の行いを鑑みればその気持ちも分からない訳では無いが。
「じゃ、クロ」
新は手を振り、周辺にいた10羽のうちの1羽のクロに指令を出す。あくまで殺すことは無いように、ざっと炒める位で、大体レアで、と。
その意志を受け、少年の真上にいたクロが了承の声と共に炎を引き出そうと―――――
『全く、気の乱れを正そうと此処まで来てみれば―――』
声が聞こえた。新の真上から。
「―――――な――――ッ!??」
『その元凶は貴方でしたか―――まったく忌々しいですね、神殺し』
その声を認識した瞬間、目を疑った。
疑ったのは突然の声についてではなく、新の神獣、クロ達の方について。
声がした瞬間、飛び交っていたクロ達が突然悲鳴を上げたように聞こえた。
その悲鳴は何だろうかと思う前に、まるで元々それが霞だったように、“クロたちが消えた”。
一部のクスミもない、闇夜のような漆黒のクロたちの体だった。それが、まるで太陽に深淵が照らされるかのように消えていった。その光は白く、全ての闇を照らしだす輝きに溢れていた。
そして、
全ての“クロ”が散らされた場所で、新は一人呆然としていた。
「な――にが――――」
新はゆっくりと、空を見上げる。
彼の視線の先には、白い獣が空に浮かび佇み、新を見下ろしていた。
その獣は白いオーラを全身に纏い、周辺へ広げていく。まるで己の認めない物を片端から浄化していこうとする様に。
『神殺しは全ての秩序を破壊するもの――――ならば私がここに現れ、貴方を討ち果たすのは必然だったという事でしょうか』
分かってはいた。
あの獣の声が聞こえたその瞬間から、体の底から闘志が湧き上がってきたからだ。体が戦闘状態に移行していく。あらゆるコンディションが自動的に最良へ近づいていく。
それが自分に起こる原因は、1つのみ。
「―――――まつろわぬ神か」
体に力を漲らせ、現れた神を見据える。
純白の体は牛の様だが、目は胴体にもあり、合計9つ付いていた。角は6つあり、顎に髭を蓄えていた。ヨーロッパにいる様な神に見えない。東洋の神だろうか?
『私は全ての秩序を守護する者。その為に神殺し、貴方を討ち滅ぼさせてもらいます』
「――――やれるものならやってみな、神様」
どう言う訳か分からないが、クロを呼び出すことはできない。あの光は、クロの天敵と言えるもののようだ。クロという強力な手札が失われた以上、形勢は戦う前から不利と言える。
だが、負ける気は微塵もなかった。そのために、まずは奴を地上に叩き落とすところから始めよう。
そう思って新が一歩を踏み出した刹那―――
「―――あ―――――――アアアアアア―――――――――ッッッ!!!!」
とても聞きなれた声で、誰かが叫んでいた。まるで、外からの何かに体が蝕まれているかのような声だった。
「―――いぶきっ――!!」
新が振り向いた先には、親友が倒れ伏していた。叫びを上げ、頭を押さえながら何かを拒絶するかのように苦しんでいた。
(一体、なんで――――)
急いでいぶきのもとに駆け寄る新。全速力で、見据えていた神でさえもその間は自分の視界から外してでも。
その必死な顔には、明らかな焦燥が浮かび上がっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
環いぶきは、平凡な少女である。
彼女の友達にも言われるようなそれは、彼女のこれまでの人生が証明し続けていた。
テストの点数に一喜一憂して、友達と遊んで、喧嘩をして、毎年の誕生日を楽しみにして、毎日の占いをチェックして、美味しいものを食べて喜んで……………恋をして。
だから、これからもそんな生活が続くと思っていた。好きになった人と結婚して、子供を産んで、家族を作って、ささやかでも幸せな人生を精一杯に歩むと思っていた。
だから、彼女には今起こっている事が理解できなかった。
燃え盛る路面電車、黒く霞んだ空、空に浮かぶ白く輝く牛――――――の事ではない。勿論、それらの事も分からなかったが、最も衝撃的なのはその事では無かった。
(え……………な、なんで)
おもむろに顔を上げたいぶきが白い牛を見、そこから発せられる光に当たられた瞬間、頭の中でカチリという音が聞こえた気がした。
「―――あ―――――――アアアアアア―――――――――ッッッ!!!!」
音が聞こえた瞬間、彼女の頭に激痛が走る。
これまで味わったことのない痛み―――少なくとも、階段に頭を打ち付けた時のそれとは比べ物にならない。まるで、自分の頭が本人とは違う何かに作り変えられていくような。
(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い―――ッ!!)
誰かがいぶきに叫んでいる気がしたが、彼女にとってはそれは気にする余裕が無かった。激痛と共に彼女の頭の中に流れ込んでいく何かは、脳内の回路を焼き切るに十分な量と質を併せ持っているようだった。それは頭の中で暴れまわる。本来それがいるべきなのはここではないと、目一杯に主張している様に。
そして謎の何かがいぶきの頭を蹂躙し続けた数秒後、その痛みは終わりを告げる。
「う……………」
すべてはわからなかった。
彼女の焦点が定まらない眼は、白い神を見据えていた。
いぶきには、その神が何なのかが理解できた。
いぶきには、その神が神話において何をしてきたのかが理解できた。
いぶきには、その神の強い所、弱い所が理解できた。
いぶきには、その神の名前が理解できた。
まず間違いなく、今までも、そして現在でもいぶきはその神の事は知らなかった。
でも頭の中、知らないはずの知識によって理解することができた。
まるで自分がこれまで蓄えてきた知識とは違う、この世界とは別の世界から引き出されてきた全く違う知識を得たかのように。
体がぐったりとして動かない。
100mを全力疾走した直後でもこうはなるまい。それでも、意識は何故かはっきりと冴えていた。
だから、いぶきは呟いた。
いぶきが理解したことが、一体何を意味しているか分からなかったから。それを口にすることで、分からないナニカを少しでも形にしようと思ったから。
「………まつろわぬ……
超展開すぎる……。
いや、なんでしょうね。話の区切りを中途半端にしないようにしたらこうなっちゃいました。
描写が不完全になってないでしょうか?
たまきがこうなるのは行き当たりばったりじゃないですよ?最初から決まってましたから。
次回は白澤との戦闘になります。
神獣、魔物の類に対してはほぼ絶対的な優位性を持つ霊獣白澤。それに対して新はどう戦っていくのか!?
………という感じでしょうか。
次回は今月中に更新できたらいいなあ。第二楽章はいつ始められるだろうか。