対角線上に優美子を見ながら、八幡はルールを確認する。
タイブレークなしの1セットマッチ。ゲームカウント5-5。15-0でリードされている。状況は芳しくないが絶望的でもない。要するにあちらが後3回得点するよりも先にこちらが4回得点すれば良いのだ。
ラケットを弄びながら、呼吸を整える。相手二人はしばらく試合をしていた訳だが、優美子はともかく隼人が疲れているようには見えない。やはりサッカー部。体力には自信があるのだろう。今すぐガス欠ということにはなりそうになかった。それを期待するならば優美子の方だが、こちらも見た目の割りに体力があるようだ。このゲーム内くらいは持ちそうに見える。
対してこちらは、彩加の体力の消耗がかなり激しい。元々決して機敏とは言えなかった動きも、更に精細を欠いている。荒い息を吐きながらもそれでも勝つために前を向く様は正に天使といった風だったが、いくら見た目が可愛らしくても得点しなければ勝てない。テニスに限らず、それが勝負というものだ。
精神を、集中させる。
テニスの腕では、相手二人に劣る。試合が長引けば長引くほど、不利になるのは明白だった。奇策の連打で最短距離を走りきる。それが最も安全かつ確実に勝つ方法だが、果たして上手くハマってくれるだろうか。
考えて、八幡は苦笑した。
手には陽乃の名前が刻印されたラケットがある。今この試合を見ているはずもないが、こういう試合をしたことはいずれ彼女の耳にも入るだろう。そこで惜しいところまで行きましたけど負けました、などと恐ろしい報告はしたくはない。それはそれでぞくぞくするが、負けは負けなのだ。どうせならば負けた報告よりも勝った報告をしたい。
大きく息を吐き、吸う。ボールを高く放り投げ、八幡はサーブを放った。
ボールは正面に――飛ばない。フレームに引っかかったボールは大きく弧を描き、天空へとすっ飛んでいった。ホームランである。このタイミング、この雰囲気でこういう『失敗』をするとは思っていなかったのだろう。敵味方両方のベンチから、白けた空気が漂ってきた。特にこちら側、雪乃の視線は刺すように鋭くそれが八幡の背筋を震わせた。
「どんまいですよ、せんぱい!」
憮然とした表情で構えを解く八幡に、彩加が駆け寄ってくる。これだけ人間がいて、励ましてくれたのは彼だけだった。その優しさに涙が出そうになるが、今はまだ試合中である。ここで鼻の下の一つも伸ばせば、キモい先輩と引かれてしまうことだろう。天使のような存在に、そうされることは避けたい。八幡は努めて表情を消し、小さく咳払いを一つ。今すぐ『オチ』を暴露したい気持ちに駆られるのを押さえながら、数を数える。1、2、ああ、もう大丈夫だ。
「ありがとう戸塚。まぁ、言い訳するとテニスをするのも久しぶりなんだ。サーブなんて特に苦手でな、こんな風に――」
八幡が指で差した先、隼人チームのコートにすとんと、軽い音を立ててボールは落ちた。アウトでないことは誰の目にも明らかである。背後にボールが落ちたことに優美子は気づくが、仕切りなおされるものだと思っていた彼女は、既に構えを解いてしまっている。今更気持ちを切り替えて、捕球できるものでもない。呆然とする彼女の前で、ボールは二度目のバウンドをした。つまりは、テニス奉仕部連合の得点である。
「――こんな風に、どうにか狙ったところに飛ばすのが精一杯だ。とりあえず、これで同点だな」
八幡の何でもない物言いに、何故か隼人サイドのベンチから歓声があがった。すげーと単純に興奮してるのは戸部で、もう一人は結衣である。楽しそうで良いことだ。逆に隼人と優美子は渋い顔をしていた。特に優美子は射殺さんばかりの目で八幡を睨んでいる。サーブが狙い通りの所に落ちると確信した上で、相手を油断させるために構えを解いたのだ。正々堂々としているかと言われれば否であるが、公式試合ではないし明確なルール違反はない。対戦相手に責められる筋合いはなかった。
サーブにおける奥の手をいきなり消費してしまったのは痛いが、レシーブは一球ずつ交代というのがダブルスの特徴である。運動神経の良い優美子の次は、隼人の番だ。あちらの最強のプレーヤーである。普通に一対一でテニスをするならば、百に一つくらいしか勝ち目はない。
しかし、これはダブルスだ。
八幡一人で戦う訳ではなく、また隼人も彼一人で戦う訳ではない。何を弱みとするかは人それぞれであるが、八幡は優美子のことをあちらの『弱み』と見ていた。おそらく次も、優美子はこのサーブに対応できないだろう。今現在の懸念は、隼人の前でこのサーブを見せてしまったことである。
優美子よりも、彼の方がテニスは上手い。一度見ただけで対応できるものでは中々ないが、できる人間というのはできない人間が思いもしないことをやってくるものである。隼人ならば返してくる。半ば確信に近い思いで、八幡はボールをバウンドさせた。
二球目。八幡は同じサーブを打つことを選択した。
フレームに引っ掛け、天高くボールを打ち上げる。ほとんど同じ軌道を描いているが、同じくらいの場所に落とせるとは限らない。打った段階では、おそらくアウトにはならないだろう、くらいのことしか八幡には解らない。
隼人ならばどうするだろうか。
彼は八幡がサーブを打った瞬間、空を見ずに大きく後ろに下がった。コートのフェンスぎりぎりまで下がってから、空を見上げる。それで落下地点は大体予測された。どういう意図をもって放たれるのか解れば、対応は何もしないよりも格段に容易くなる。
これならば打ち返せる。隼人が確信に満ちた笑みを浮かべたことで、八幡は現実にその通りになると予感した。悪い予感は良く当たる。
そして、彼がまっすぐ自分を見返していたことで、どう打ち返してくるのかも予測できた。彼は裏をかくことを好まない。正々堂々と真正面から戦うのである。勝ち負けよりも、隼人にとってはそれが重要なのだ。自分は正しいことをしたと胸を張ることができ、彼は正しいことをしたと万人に解ってもらえる。ある人には好まれるのだろうが、ある人には徹底的に嫌われる。それが葉山隼人の流儀だ。
使える奴だけど好きではない、というのが陽乃の隼人評である。
彼女からすれば好ましい人間の方が少ないのだが、能力が高く容姿に優れ、またブレない精神性を持っている点だけは評価していた。比企谷八幡にとって雪ノ下陽乃が絶対であるように、葉山隼人にとっては善性によって行動するということが絶対なのである。集団に埋没するか、弾かれるかの違いはあるが、集団を俯瞰し、どこか他人ごとのように捉えることは、八幡と隼人に共通している。
実のところ、八幡は隼人のことが嫌いではなかった。
友達になれるとは思わないが、彼のような生き方には興味をそそられる。違う出会い方をしていたら絶対に交わろうとはしなかっただろうが、二つも年下で、また陽乃から事前に情報を仕入れていたことから、主観的なことを考えずに、葉山隼人という人間を知ることができた。
故に、これから彼がどういう行動をするのかも、ある程度予測することができた。
真っ向勝負を挑む彼は、絶対にそのまま打ち返してくる。勝負だ。隼人の強い意志が篭ったボールに、八幡は内心で舌を出した。
これは、ダブルスである。
隼人の方に打ち返す――と見せかけて、ぎりぎりまで勢いを殺した打球を、優美子の方に落とす。意表を突けた訳ではない。こういう行動をする奴だということは、先のサーブで知れただろう。優美子も警戒をしていなかった訳ではないが、空気を読むのが普通のリア充にとって、空気を度外視する人間の思考というのは、読みにくいものである。
彼女にすれば、あそこは空気を読んで当然の場面だった。勝負を挑まれたのだから、勝負は受けるべき。その思考が、警戒を上回ったのである。意識の間隙を突いた打球に、優美子は追いつくことができなかった。隼人はそれを、呆然と見つめている。
30-15。
これで一つリードである。
ボールをコートに打ちつけながら、八幡は優美子の殺意すら篭った視線を平然と受け止めていた。先ほどは打球を受け損ね、最初はサーブを返せなかった。これを彼女のミスと責める人間はいないだろうが、本人の気持ちまではそうはいかない。優美子本人はミスをしたと自分を責めるだろう。自分と他人への怒りが態度と表情にしっかりと表れている。熱しやすい人間、というのは一目みて解っていたが、その通りのようで安心する。
怒りは集中力を乱し、焦りはミスを生み出す。全ての感情を行動力に変えることができる、陽乃のような感情の化け物であれば話は別だが、怪物というのは早々市井にいるものではない。三浦優美子が普通の女子高生であることに安堵し、続けてサーブを放つ。
ボールは天に――飛ばない。それまでと同じようなフォームから放たれたサーブは、ネットを越えたぎりぎりの所に落ちた。サーブに対応するために下がっていた優美子は、全力でダッシュするが間に合わない。
40-15.
これでマッチポイントだ。転びこそしなかったが、裏をかかれた優美子はやはり射殺さんばかりの視線を送ってくるが、陽乃の威圧感に比べたらそよ風のようなものだ。軽い敵意など心地良くすらある。
「せんぱい、テニス上手かったんですね……」
「でも付け焼刃だからな。今回だけしか通用しないぞ。また勝負ってことになっても、今度こそ俺は戦力にならないから、期待はするなよ」
「でも、せんぱいのおかげでここまで来れました」
「俺の前に海老名と雪ノ下がやってるんだってこと忘れるなよ。後、まだ勝ってないからな。後一ポイントだ。最後くらいはダブルスで勝とうぜ」
「はいっ!」
掲げられた彩加の手を、ぱちんと軽い音を立てて打ち鳴らす。まるでリア充のような仕草で気恥ずかしいが、気づいたらやっていた。彩加は楽しそうに笑っている。これで男子なのだから学園七不思議だ。こんな笑顔を振りまいていたら、男であると解っていても放っておかないと思うのだが……
彩加のことばかり考えそうになっていた気持ちを切り替える。ここまで心が揺れるのは久しぶりだった。陽乃と出会っていなければ、恋に落ちるくらいまではあっただろう。
何はともあれ、後一球だ。
一つ決めればこちらの勝ちだが、それは隼人たちに後がなくなったことを意味する。今までだって本気度は決して低くはなかったが、今の隼人の瞳には炎が燃えているように見えた。死んでもここは落とさない、という鋼の意思が見える。スポ根だなぁ、と八幡は微笑ましい気分になったが、隼人のそれは独り相撲というものだ。
相手のある勝負である。気持ちを高めて最高の動きをしようと、勝てない時は勝てないものだ。勝負に集中するあまり、ボールしか見ていないように見える。狙い以上に視野が狭くなっていた。これなら、と期待を込めて、八幡はサーブを放った。
全力で、真っ直ぐ。
初めての普通のサーブは、真っ直ぐに隼人の所に向かった。望んでいた普通のテニスである。困惑しながらも隼人はきっちりと対応し、八幡に向かって打ち返してくる。ちらと優美子を見れば、今度こそはと気を張っていたがそちらには視線も向けない。この世界には二人しかいないとばかりに、全力で隼人に向かって打ち返す。
それからしばらく、打球の応酬が続いた。実力の拮抗しない二人である。体力も腕力も劣っている八幡が段々と押され始め、誰の目にも不利がはっきりと見えてきた。それでも八幡はボールに喰らいついていたが、すぐに息が上がってしまう。今すぐ勝負をつけないと、このまま押し切られる。そう判断した八幡は優美子の方に視線を向けたが、優美子は気を逸らさず、しっかりと待ち構えていた。
元々、不利な状況である。優美子の方を向いたまま、不安定な視線で打ち返した打球は、彼女の方ではなく隼人の方に飛んだ。打ち頃の球である。隼人の前には体勢を崩している八幡がいる。このまま打ち込めば、彼は対応できずに得点できる。スマッシュを打とうとした隼人は、その直前に八幡の目を見た。得点されそうな段階になっても、彼は不敵に笑っていた。
何かある。瞬時にそう判断した隼人は、ぎりぎりで方向を変え、逆サイドに向かって打ち返した。シングルならばそれで決まっていただろうが、これはダブルスだった。八幡の打球に優美子が対応しようとしていたのと同じように、彩加も隼人の打球に対応しようと、常に八幡をフォローする形で動いていた。
打ち返した後にコートを見た隼人は、まるで打球が来ることを読みきっていたかのようにそこにいた彩加に絶句していた。八幡にのみ意識を集中していた二人は、彩加の存在すらその時失念していた。その一瞬が、勝負の分かれ目になる。
見た目の可愛らしさに反して、力強いその打球は隼人と優美子のちょうど中間に打ち込まれた。
「やったっ! やりましたせんぱいっ!」
自分たちの勝ちが決まったその瞬間、感極まった彩加はラケットを捨て抱きついてくる。汗の匂いとは別の、表現に困る良い匂いにどきどきしたが、ベンチの雪乃の氷のような視線と、うはーと野太い悲鳴を挙げながらしゃかしゃかペンを動かす姫菜に正気を取り戻した。
断腸の思いで彩加を引き離し、うな垂れている隼人に手を差し出す。
「まぁ、悪かったな色々と」
「こちらこそお騒がせしました。良い勝負……とはいきませんでしたが」
「そう言うなよ。依頼のことだけじゃなくて、俺も負ける訳にはいかなかったんだよ」
解るだろ? と隼人に向けてラケットの刻印を見せる。雪ノ下陽乃という名前に、隼人は全ての事情を理解した。陽乃と色々あったのは八幡だけではない。むしろ家族ぐるみの付き合いのある隼人の方が、その度合いは大きいと言えるだろう。試合の最中には色々と思うところのあった隼人だが、ラケットを見せた時の八幡の表情を見て、心底彼に同情した。
ただ付き合いがあるだけでも振り回されるのである。恋人となれば、言葉にもできないような苦労があるのだろう。
「比企谷先輩も、大変ですね」
「今はその大変をようやく楽しめるようになったところだよ。良い思いもしてるのは間違いないが、外から見てトータルプラスになってるかは微妙なところだな」
「後悔してるとか?」
「それはねーな」
即答した八幡に、隼人は苦笑を浮かべた。この人だからあの人と付き合うことができるのだと実感した隼人は、暗い顔をした優美子の腕を取ると、残りのメンバーを引き連れてテニスコートを出て行った。後ろ髪を引かれている様子の結衣が何度もこちらを振り返っていたが『そっちのフォローをしろ』と手で伝えると、大きく頷いて走り去っていく。
「やー、いーですよ八幡先輩。鬼畜攻めから一転した誘いうけかと思ったら、はちはやじゃなくてはちとつだったとか。もう展開が急すぎて私も妄想も追いつきません!」
「たまには健全な方向で行ってみたらどうなんだお前」
「八幡先輩は私に死ねって言うんですか?」
「悪かった。好きにしてくれ」
「じゃあ好きにします。私はリバもOKなんで受けに回ってくれてもOKですからね。隼人くんを誘いたい時は私に声をかけてくれれば色々セッティングしますから」
ないとは思うが、その時は絶対に尾行には気をつけようと八幡は心に決めた。
「まぁともあれ、これで邪魔してくる奴もいないだろ。後は若い連中でお好きなように――」
「そこそこテニスができることが解ったのだから、練習には付き合ってもらうわよ比企谷くん。依頼主も、それをお望みのようだし?」
ベンチに下がって一息つこうとした八幡を、雪乃が呼び止めた。彼女一人であれば八幡も無視しただろうが、依頼主である彩加を見れば彼の目は期待できらきらと輝いていた。こんな純粋な視線を裏切ることは、八幡にはできなかった。
「解ったよ。つっても、俺は体力ねーからそこまで運動できないぞ」
「じゃあ、一緒にランニングでもしませんか? できればその、明日からでも……」
彩加は頬を染め、俯きがちにもじもじとしている。付き合うという話だったから付き合うことそのものは吝かではないのだが、さっきから姫菜の目が真剣に鬱陶しい。彼女もインドア派だから自発的なランニングなどしないだろうが、話がまとまったら一緒についてきそうな気配である。ならばついで、とばかりに八幡は雪乃にも目を向けた。
「どうも俺と海老名は参加する気配なんだが、やっぱりお前もどうだ? 健康には良いって聞くぞ」
「体調管理には気を使ってるから、心配は無用よ」
「雪乃くん、今はツン期ですから攻め方を変えないと。多分、結衣が一生懸命頼んだら言うこと聞いてくれると思いますよ」
「海老名さん、適当なことを言わないで」
姫菜を睨む雪乃だったが、その視線にも言葉にも力がない。そうされると不味いということを、雪乃本人も解っているのだ。言い合いを始めた雪乃と姫菜を横目に見ながら、八幡は携帯電話を操作し、結衣にメールを送った。
体力作りのランニング、犬の散歩のついでにどうだ?
ルール知らないスポーツを書くのがこんなに大変とは思いませんでした……
テニスをやらずに口八丁で丸め込む展開にした方がまだ楽だったような気がします。
次回ははるのんの引越し手伝い編(お泊り)
その次が川なんとかさん編です。