「……はぁ……」
神田空太が眼を覚ましたのは、翌日の朝だった。朝が早いことから、空太は基本的に寝起きが良い。起きてすぐに鮮明に働く頭を使って、眠る前のことを思い出した。
ただの過労とはいえ、倒れるほど動いているつもりはなかった。他の人が普通にやっていることだと思い込んでいた。寧ろ、天才達ならばもっとやっているのだろうとさえ思っていた。
だが違った。自分はやり過ぎな程頑張っていたらしい。
「面倒面倒言ってて……笑えるな―――ん? ……ましろ」
空太はそんな自分に嘲笑しながら、身体を起こす。すると、自分の太ももの上に毛布越しの重みを感じた。視線を落としてみると、そこには椎名ましろが眠っていた。どうやら、一晩中ずっと看ていてくれたらしい。好きな人にここまでして貰えるとは、中々俺も幸せ者だなぁ、と思いつつ、空太は嘆息する。
そこまで考えて、空太は眼を閉じた。
頭に思い浮かぶのは、少し前までの様々なことだ。本気を出すと約束したこと、ましろが漫画家デビューしたこと、青山がさくら荘に来たこと、ましろ当番が代わったこと、青山が倒れたこと、ましろに『好きな人』から手紙が来たこと、病気に魘される青山を発表会に連れて行ったこと、そして、自分自身が倒れたこと。
なんだか少しの間に色々と起こっている。しかし、気絶する前はそんな様々なあれこれに苛まれていたというのに、今は酷くすっきりしている。精神的に整理が着いたというべきか、それとも考えることを放棄したのか、それは空太自身も分からない。
でも、今も確かに空太はましろが好きであるし、『好きな人』からの手紙を気にしている。才能とか天才とか考えるのは面倒だし、頑張ることだってしたくない。だがそれでも、空太の世界には色が付いていた。灰色の世界には、鮮やかな色彩が確かにあった。
「………ん……空太……?」
「よ、ましろ。良い朝だな」
「空太……大丈夫?」
「……大丈夫だよ、心配するな」
「……私のせいだもの」
ましろがしゅんとした様子でそう言う。空太はそんなましろを見て心底面倒そうに溜め息を吐いた。そして、自分を見上げてくるましろの頭に手を乗せて、くしゃくしゃと撫でる。
ましろは髪の毛が乱れる事も気にせず困惑した表情を浮かべた。
「あのな、俺が倒れたのは俺の責任だ。そもそも、ましろ当番程度で倒れるほど俺は柔じゃない」
「でも……」
「俺の認識が甘かったんだ。ましろ達はもっとずっと高みにいる存在だと思ってたから、俺のやってることなんて大したことないと思ってたんだ」
「空太は凄いわ」
「そうだな、俺のやってたことはましろ達から見ても異常だったんだ」
異常だと、知った、思い知った。空太は苦笑する。
だから、もう間違えない。自分がどういうことが出来て、どこまで出来る人間なのかを。空太は少しだけ嬉しかった、思ったよりも自分の出来ることは多かったことが。
「なぁましろ」
「何?」
「あの手紙の人ってさ、どういう人なんだ?」
だから、まずはそこから始めることにした。決着を付けることにした。あの手紙の男がましろにとって本当に好きな相手ならば、諦めようと思った。だが、もしもましろの言う『好き』が恋愛的な意味でないとすれば、空太にもまだチャンスはある。
勇気とか根性とか、空太にとっては欠片も持ち合わせていないものだった、しかし今だけはほんの欠片程の勇気を持って、空太は自分の意志で一歩、足を前に出した。
はたして、ましろの答えは―――
「……アデルは私の絵の先生よ」
後者だった。
空太はそれを聞いて、安心感からか脱力する。
「絵の、先生……何歳だその人……」
「七十歳」
「………くはっ! あははははははっ!」
空太はなんだか可笑しくなってきて思わず吹き出してしまった。自分は七十歳の老人に対して嫉妬していたのか、ましろが好きな人と言ったからといって、少し早計過ぎている。そう考えるとそんな自分が可笑しくて、もう笑うしかない。
ましろがきょとんとした表情で見上げてくるが、それも気にならない程、今の空太は晴々した気分だった。
「はぁー……そっか」
「空太……嬉しそう、何かあった?」
「ああ、あったよ。ありがとな、ましろ」
「そう……」
空太の言葉に、ましろはほんの僅かな微笑みを浮かべた。
空太は自分の身体をぐいっと伸ばして、ベッドから降り、立ち上がる。ましろもつられてゆっくりと立ち上がった。
「さて……と、それじゃ適度に頑張りますか」
「空太」
「大丈夫だ、今回みたいに倒れる程じゃないよ」
「おなか減った」
「はぁい台無しぃ↑」
「空太」
「はいはい……飯にしようか」
「うん」
空太はそう言って笑う。その表情はなんだか、今までになく空太らしい不敵な表情だった。
ましろは、部屋から出ていく空太を見おくりながら、微笑んだ。そして、誰にも聞かれないような声音でぽつりとつぶやいた。
「今の空太………綺麗な空色をしてる」
ましろは気持ち嬉しそうに、空太の部屋を出て、空太の背中を追った。
覚醒空太、更に進化します。