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そこは薄暗く、何よりも寒かった。先の見えない暗闇がどこまでも続いていた。漂う雰囲気は陰鬱で、その場にいるだけで吐き気を催した。先に進むための一歩一歩に暗闇が纏わりついた。再度手にした刀を確認する。恐らくは後少しで会える。
歩き続けた先に感じた気配。辺りを見回すと、最愛の彼女がそこにいた。
胸から血を流してはいたものの、薄暗い中でも金色に輝く髪飾りが艶やかな黒髪を彩り、この世のものならざる美しさを感じさせた。彼女は微笑んでいたが、その顔は屍人のように白く、常夜の住人であることをはっきりと表していた。
「来てくれたんですね」
愛しい人へ愛を囁くような声音で彼女は言った。
「嬉しいです」
ただその表情は、どこか哀しげな雰囲気を孕んでいるように感じた。
「もう、戻れません」
手にしていた刀が彼女の胸に引き寄せられ、長い刀身が徐々に飲み込まれていく。
「待ってますね」
彼女は一瞬苦しそうな顏をした後、笑顔を作り崩れ落ちた。
○
「……」
目覚めは最悪だった。荒い息遣い、体に纏わりつく汗、全てが鬱陶しかった。
息が整ってくるのと同時に喉が渇いていることに気づく。布団から出たくなかったが、しょうがなく台所に向かった。
軽く口をゆすぎ、水を口に含み嚥下する。冷たい水が眠気を打ち払った気がした。
「んっ」
ふと聞こえた声のする方を見ると、長い黒髪が枕の上をもぞもぞと動いていた。昨日の今日の出来事だ、まだ疲れが残っているのかもしれない。
彼女に気を使いつつも、顏を洗い歯を磨くという朝のルーチンワークをこなし、居間に戻ると彼女は起きていた。
「昨晩は助けていただきありがとうございました」
彼女は正座して頭を下げた。
「そういうのはいい。あまり堅苦しくされると居心地が悪い」
「そうですか」
改めて彼女の容姿を確認した。年は自分とそう変わらないように見える。十六、七歳だろう。長いまつげに覆われた憂いを秘めた瞳が魅力的だった。
「そんで? あんたなんであんなところに一人でいたんだ」
「家を飛び出してきてしまったんです。でも、行く所がなくて」
まあそうだろうな。なんとなく予想はついていた。俺の昨日の寝付きが最悪で、散歩に出かけていなければ彼女はずっとあそこに一人でいたのだろう。
「そっか。で? これからどうするんだ?」
「あなたは遠野凪紗(とおのなぎさ)さんですよね?」
そう言った彼女の口調は確信めいていた。
「そうだけど、どっかで会った事あったか?」
「いいえ、会った事は無いですよ。まあ、気にしないでください。私は山女(やぶめ)小夜子(さよこ)といいます。さて、あなたが遠野凪紗さんならば、私は仕事をしなければいけません」
「仕事?」
「ええ。凪紗さん、あなたはお父さんもお母さんもいないですよね? 特にお父さんは山に登ったっきり帰ってこない。ですよね?」
「なんで知ってる?」
ここで俺は始めて山女小夜子という存在に疑問を持った。彼女は家を飛び出したと言った。だが今は仕事をすると言っている。どういう事だ?
「あなたの事ならある程度はなんでも知ってますよ。仕事ですから」
いよいよ胡散臭い匂いがしてきた。美人局か何かだろうか。
「気持ち悪いな。仕事の内容ってのは?」
「まずはあなたのお父さんが歩んだ道と同じ道を歩んでもらいます」
意味がわからない。とりあえず口裏を合わせて適当にあしらおう。それが一番だ。いくら美人だからって言っても限界はある。
「凪紗さんは民俗学に興味はありますか?」
「それなりにはある。親父に繋がる手がかりとしてしょうがなく読んでいるうちに面白いと感じるようになってきてな、最近は趣味の一つになりつつある」
民族学者だった親父は調査だとか言って飛滝山に登ったきり帰ってこなかった。何を考えて山に行ったのか知りたくて調べてみたら、予想外に面白かったのだ。恐らく親父は飛滝様について調べたかったんだろうが、今となっては誰にもわからない。
「それはよかった。それじゃああなたのお父さんが書いた手記を渡すので読んでください」
そう言って小夜子は俺に手帳サイズの手記を押し付けてきた。
「なんであんたが俺の親父の手記を持ってるんだ」
「そうなるように決められてるんですよ、ずっと昔から。その内わかります」
まともに答える気が無いのだろう。小夜子は肩をすくめる事で会話をうちきった。
「わかったよ。読めばいいんだろう。その間あんたはどうすんだ」
「私は一度家に帰ります。昼頃にまた来るのでそれまでに読んでおいてくださいね。あ、昼ご飯は私が作ってあげますから勝手に食べないでくださいね。それじゃ」
そう言って小夜子は足早に家を出て行った。
自然に出て行ったが、家を飛び出してきたって言ってたはずだよな。いきなり家に帰る気にでもなったのかな。何を考えてるのかさっぱりわからないやつだな。まあいいか。知る必要があるのならそのうち知ることが出来る。今は小夜子に貰った親父の手記を読もう。