試験実習当日、十分に準備を整えたトワたちは駅員に見送られてトリスタより旅立った。既に日も昇り切った時間帯のこと。それなりに席が埋まっている列車に乗り、一同はまず帝都へと向かう。
「言っちゃなんだが、早朝に出なくてよかったのか?」
「海の向こう、帝国の端か。随分と遠いみたいだけど……」
これまでの実習では朝日がようやく顔を覗かせたくらいの時間に出発することが多かった。実習地での活動時間を確保するためには当然のことだったが、今回は比較的のんびりしている。近場だった帝都の時と似たような具合だ。
これから帝国の南西端に赴くというのにいいのだろうか。余裕をもって出発できたのは歓迎するところ。とはいえ、行き先が行き先なだけに気になるものもあった。
他でもない故郷が実習地となるにあたり、必然的に道先案内を担うトワが移動工程も組んでいる。疑問に対して彼女は簡潔に答えた。
「いくら早く出ても、どうせ船上で一夜を明かすことになるから。それなら少しくらいゆっくり出発した方がいいでしょ?」
なんでもないように言ってのけるトワ。その答えに疑問は解けた。解けたが、それはそれとして閉口してしまうものがある。改めて自分たちの行き先の遠さを実感した心地であった。
沿岸部出身ならともかく、内陸出身の多くの人にとって船とは縁遠いものである。それを抜きにしても船上で夜を明かすことなどそうはあるまい。今までにない旅路に期待半分、不安半分。少なくとも、色々と新鮮な経験をする実習になるのは間違いなさそうだった。
『まだまだ先は長いの。取りあえず、予定の確認くらいはしておいたら?』
「併せて残され島の概要も聞いておきたいかな。断片的に耳にはしているが、ここで改めて知っておいた方がいいだろう」
ノイの提案とアンゼリカの要望にそれもそうかと頷く。思えば、残され島がどのような土地か詳しく話したことはなかったかもしれない。予習と暇潰しがてらには丁度いいだろう。
「そうだね――まずここからの道のりだけど、帝都でラマール本線に乗り換えてオルディス向かうよ」
荷物の中から取り出した帝国地図を広げる。中央の帝都より西部の州都である《紺碧の海都》オルディスへ。それだけでも相応の長旅になるが、今回は更に長大な旅路だ。海を臨む都市を指した指が細い路線を辿り、南へ国土の端へまで進んでいく。
「そこからまた支線に乗り換えて、この終点の港町サンセリーゼがひとまずの目的地だね」
「海上交易の経由港だったか? 昔から物流が多くて、学問も盛んだとか聞いたことがあるぜ」
概ねクロウの言う通りだ。サンセリーゼの歴史は交易の歴史と言い換えてもいい。南のリベールからオルディスへ、はたまた北のジュライから南へと。鉄道網が発達する以前は、大規模な物流手段と言えば船舶が主だったもの。土地柄故に様々な物と人が交差してきた港町は学問も発達している。かつて父、ナユタが在籍していた学院があることからもそれは分かるだろう。
尤も、経由港としての発展は良いことばかりでもなかったようだ。様々な人や文化が流入する中で軋轢というのはどうしても生まれるようで、その対処としてサンセリーゼは独自の自警団を擁している。こちらにはシグナが若かりし頃に所属していた。色々としがらみもあったようで、結局は遊撃士に転向することになったのだが……
とはいえ、それらはここで詳しく話すことでもない。さわりを口にする程度に留め、続く行き先へと指を向ける。青々とした海原へ。
「残され島への連絡船はこの港から出ているの。サンセリーゼに到着するのが夕方くらい。それから船に乗って一晩すれば、早朝には残され島に着く予定だよ」
丸一日を移動に使う日程。サラ教官が今回は特例の四日間と言ったが、帰りも考えれば実際の活動は二日間。これまでの実習と極端に変わることはないだろう。
トワが指差す地図の端、遠く海の先の群島を見て三人は思わずうなり声を漏らしてしまう。学生の身でこれほどまでの長旅を経験するのは自分たちくらいのものではなかろうか。船の中でゆっくり休めることを祈るばかりだ。
「それで、肝心の残され島だけど……具体的にはどんなところなのかな?」
『どうと聞かれても色々あるけれど、まず間違いなく本土とは毛色が違うの』
「そうだね。文化に風土、食生活とかも……その辺りのことも含めて、歴史から話そうか」
道中のことばかり気にしていても仕方がない。実習地である残され島自体についても知っておくべきだろう。様々な面で一般的な帝国の町とは異なる故郷についてどう説明したものか。一考したトワは、残され島が辿ってきた過去を振り返ることにした。
「残され島はシエンシア多島海の中央部に位置している有人島だけど、実は最初からそこにあったわけじゃないんだ」
「……? どういうことかな?」
「テラから降ってきた遺跡群。それが歳月を経て積み重なり、一つの大地となったもの。それが残され島なんだよ」
シエンシア多島海には古来より人が居住していたとされるが、その当時――少なくとも《大崩壊》直後には残され島は存在していなかった。遥か空の彼方にあるテラ、そこから降り注ぐ遺跡が重力の影響で集中する海上に数十年から数百年ほどかけて形成されたと考えられている。そこに遺跡から発掘される物品を求めて他の島々から人が移ってきたのが残され島の始まりだ。
ちなみに、島を形成した遺跡群には土壌も含まれていたのだろう。それらを移住した人々が整備し、農耕による自給自足が可能となったと思われる。島周辺の独特な生態系もそれに由縁するものと推測された。
「そんな風に出来た残され島だけど、帝国領となったのはそんなに昔じゃないんだ。航行技術が発達して安定した行き来が出来るようになった中世から近世にかけて。戸籍とかの法整備に合わせて帝国の版図に加わったそうだよ」
『それ以前から交易はあっても、距離がありすぎて直接的な支配は及んでいなかったみたいなの。これは多島海全体に言えることだけど』
同じ航海であっても、大陸伝いに進むのと海原の向こうへ漕ぎ出していくのではまるで異なる。残され島が長らく帝国の領地とならなかったのは海という隔絶する壁があったからだ。他にも小規模な集落であることも理由の一つだっただろう。
「そうして帝国の一部になったわけなんだけど、歴史的な経緯からあまり実感はなくてね。正直、帰属意識とかはあってないようなものかな」
「あー……まあ、お前を見ているとそんな気がするな。色々と図太いし」
遠く海の向こうの残され島の住人は総じて帝国の因習に染まっていない。貴族と平民という身分の差にも疎く、質実剛健とされる国民性にも縁のない牧歌的な住人が多い。領土に組み込まれたといっても、時折徴税人がひいこら海の向こうからやってくる程度なのだから然もありなん。これまでのトワの立ち振る舞いを見てもそれは明らかだろう。
特異な成り立ちや歴史的背景による風土の違いは分かった。では、現在の様子はどうなのか。思いついた疑問をジョルジュが尋ねる。
「そういえば、州の区分としては一応ラマール州になるのかな?」
「えっとね……昔はそうだったんだけど、今はアルノール家の所領になっているんだ」
その答えに驚きを覚える。州に属するでもなく、政府の直轄領でもなく、まさか皇帝家が召し抱える領地だとは。ザクセン鉄鉱山のように帝国にとって重要な資源というわけでもないのに、如何なる経緯でそうなったのか。トワは幾分か声を潜めて続きを口にした。
「教会との盟約でテラについて秘匿する必要があったの。他からの干渉を避けるためには皇帝家の管轄にするのが手っ取り早いから、そうなったんだって」
不可思議な異変の元凶にして、過去の文明の遺物と思われるテラ。海に落着したそれを己の利益の為に利用しようと考えるものがいないとも断言できない。それを防ぐため皇帝と教会との間で取り決められたのが、残され島を皇帝家の所領とすることだった。たとえ大貴族であろうとも、おいそれと皇帝家の財産に手を出すことは不可能。理由が分かれば非常に合理的な判断であった。
余談として、アルノール家の管轄となったことで昔より税が軽くなったのだとか。秘密を守るために諸々の制約があったりもするが、田舎であることを除けば概ね暮らしやすい土地である。
「ふむ……聞く限り、やはり残され島にはテラが密接に関わっているようだね」
『島の興りからしてそうだから。切っても切り離せないのは間違いないの』
話の中で頻繁に上がるテラの名前。島を形作る遺跡の源であり、そして島が立ち位置を変えることになった理由でもある。トワやノイのルーツにも関わるそれが頻出するのは当然のことなのだろう。
「そこのところも聞きたいところだが……ちっとばかり場所が悪いか」
「実際に目にしないと分からないこともあるだろうし。テラについては、残され島に到着してから改めて説明するよ」
「うーん、楽しみなような不安なような……」
詳しいことを知りたいが、ここから先は教会により秘匿されている領分に入ってくる。人気の多い列車の中で話すのは躊躇われた。人目を気にする必要のない現地に到着してからにした方が無難だろう。
断片的な情報や口ぶりからして単なる遺跡でないことは明らか。ようやくその全容を知る機会が訪れようとしていることに対し、ジョルジュなどは期待半分不安半分の心地で列車に揺られていくのだった。
鉄路を走り続けること半日以上。夕日が水平線に沈んでいく様を車窓越しに眺めながら、トワたちはようやく港町サンセリーゼに到着した。
ヘイムダルからオルディスへの道程も長かったが、そこからサンセリーゼへも相応の時間を列車で揺られることになった。おかげで体が凝って仕方がない。これまでにない列車の旅を終えて、一同は揃って呻き声を漏らしながら伸びをしている。
しかしながら、旅路はまだ終わりを迎えたわけではない。ひとしきり凝りを解したトワが先導する形で前に立つ。
「それじゃあ港の方に行こうか。知り合いの船長さんが待ってくれているはずだから」
鉄路の果てに続くのは船の旅。説明で聞いた通り、残され島にはここから連絡船に乗って一晩越すことでようやく到着となる。疲れはあるものの、道半ばであまり立ち止まっているわけにもいかない。息抜きもそこそこに駅から港へ向けて移動を開始した。
「船旅かぁ……トワはトリスタに来るときも同じ道で来たんだよね」
「うん、同じ船長さんに送ってもらって」
『残され島への連絡船なんて一隻しかないから当然なの』
思えば、この旅路はトワの入学時の道筋を遡っている形になる。こうして実際に体感してみると、クロウたちとしてはよくこんな遠くからやって来たものだと思わずにはいられない。船旅という未知の経験を前にすれば尚更であった。
とはいえ、この先で待っているのは身内といって差し支えないらしい。オルディス方面やリベール方面への交易船ならともかく、シエンシア多島海へ向かう船など僅かなもの。その中で更に残れ島へ寄港するのはただ一つしかないのだという。島と大陸を繋ぐ唯一の窓口ともなれば、顔見知りであって当然だ。
顔が利くとなれば、少なくとも船内で肩身の狭い思いをせずには済むだろう。他の乗客と雑多に詰め込まれるということはないはずだ。そもそも他の乗客がいるかも怪しいようだし。
「しかしまあ、経由港だけあって賑やかなこった。目当ての連絡船はどれなんだ?」
港が近付いてくるにつれて潮騒と海猫の鳴き声が大きくなってくる。大規模な港には所狭しと船が並び、港湾作業員や船員が積み荷を担いで縦横に行き交う。町全体の規模はそれほどではないが、この賑わいはオルディスにも劣らないだろう。
ぐるりと辺りを見渡す。噂に聞く自警団が騒ぎに目を光らせている様が視界の端に映るも、自分たちが乗り込むべき船は皆目見当がつかなかった。両手で収まらない数の船舶が停泊しているのだから当然だ。
乗客も少ないようだし、そこまで大きい船ではないだろうが――そんな予想を立てていると、トワがおもむろに指をさした。
「あの船だよ。まあ、ちょっぴり古いけど」
『……ちょっぴり、というのは語弊があると思うの』
指差した先を見て、三人は目を瞬かせる羽目になった。その様子に無理もないとノイは思う。
導力革命より五十年。昨今の船舶と言えば殆どが導力式だ。スクリュー式にしろパドル式にしろ、導力の駆動によって水上を進むのに変わりはない。それ以前の時代のものは、まずお目に掛かれない骨董品だ。
「――いやはや、このご時世に帆船に乗ることになるとは」
その骨董品が実際に目の前にあり、今からそれに乗るとなれば一時声を失いもする。ひしめく船の中に、ぽつんと時代に取り残されたように帆船が鎮座していた。
見たところ、古い船なのは確かなものの整備はきちんとされているようだ。いくら年代物と言っても今すぐに海に沈んでしまうようなことはないだろう。そもそも残され島との連絡船だというのだから、航行自体に問題があるはずもないのだが。
「なんというか、こう……レトロだね」
「絶滅危惧種もいいところだぞ。大丈夫なのか?」
といっても、突然にこんなものを目にしてしまっては不安にもなるもので。それぞれ苦い笑みや渋い表情が浮かぶのも無理なからぬことだろう。
「おいおい、大丈夫に決まっているだろ。伊達に何十年も海を渡っているわけじゃないんだぜ?」
そんな彼らに声が掛けられる。どこか荒っぽさがあるそれに振り返った先には、一人の男性が佇んでいた。
見るからに船乗りといった体の男性。筋肉質な日に焼けた肌は浅黒く、白い船長帽を被った下には細い眼と赤い鼻が覗く。煙草を吹かすパイプがトレードマークの彼は、まさに海の男とでも言うべきイメージそのものだった。
その姿を認めたトワが表情を明るくさせる。彼こそ待ち合わせていた知り合いその人だったから。
「クラック船長*1! どうも、お久し振りです」
「おうトワちゃん、ちょうど半年ぶりくらいか? ちっとは大きく……なってないな」
「余計なお世話です!!」
久方ぶりの再会の直後に酷い言い草である。これには温厚なトワをして声を荒げざるを得ない。当の相手――クラック船長は笑うばかりなので怒鳴り損なのだが。
出会って早々に漫才を見せつけられて目を瞬かせるクロウたち。そんな彼らに目を向けたクラック船長は改めて自己紹介をした。
「お前たちがトワちゃんの同級生か。俺はクラック、残され島への連絡船の船長を務めているもんだ。オンボロ船の旅で悪いが、よろしく頼むぜ!」
がっはっは、と大口を開けて笑う相手に何とも言えない表情を浮かべることしかできない。嫌味で言われているわけではないのだろうが、つい先ほどまで好き勝手に口にしていた身としては居心地が悪いものだ。
といっても、古ぼけた船であることは否定しようのない事実なわけで。身内としても思うところが全くないわけでもなく、ノイから聞えよがしなため息が聞こえてきた。
『そんなことを言うくらいなら新しくしたらいいのに。まあ、出来ないから三十年以上このままなんだろうけど』
「うるせえ! パップス船長*2から受け継いだ船を今更捨てられるかっての」
虚空から響いてくる声にもそうやって普通に返しているあたり、クラック船長も残され島の秘密を知っている身なのだろう。付き合いの長さを感じられるやり取りであった。
「取りあえず乗った乗った。後の積み荷はお前たちだけだからな。すぐに出航しちまうぞ」
再会の挨拶も程々に乗船を促される。はーい、と軽い調子で渡し板を上がって乗り込むトワ。もはや引き返す余地も躊躇う猶予も無し。三人もその後を追って乗船する。
クラック船長の言葉通り、準備は既に整っていたようだ。間もなく帆が張られ、錨が上げられる。試験実習班を乗せた連絡船は滑るようにサンセリーゼより出航し、夕日に照らされる海へと漕ぎ出していった。
「正直どうなることかと思ったけど、案外と乗り心地は悪くないね」
「まあな。寝床がハンモックとは恐れ入ったが」
「そこはほら、あんまり客人が乗ることを想定していない船だし」
出航して数時間ばかり。太陽が水平線の向こうに沈み、夜の帳が降りた甲板の上。簡単な夕食で腹を満たし、人心地付いたトワたちは波の音を背景に雑談に興じていた。
ここから先は船の行く先に任せるがままだ。まだ寝床――トワ以外はハンモックなど初体験だが――につくには早く、こうして雲間からの星明りに照らされる海を眺めつつ時間を潰していた。出航当初はバタバタしていた甲板も今は静かなもの。数人の船員が船の進路を守っている程度である。
そういうわけで今は完全な自由時間なのだが、わざわざ全員で顔を揃えているのには理由がある。試験実習以外において、今後のことで話し合う必要性があったからだ。
「それより、結局どうするんだい? 案も纏まらないまま実習に来てしまったわけだが」
来月に待ち受けている学院祭。クラスでの出し物に出遅れたこともあって以前に有志で何かできないかと話が持ち上がり、それ以来暇を見つけては検討してきたことである。
しかしながら、アンゼリカの言葉通り依然として妙案は出てきていなかった。あるのはステージ系で何かできたらいいな、という漠然としたもの。それ以外は浮かんでは消えてと具体性が伴わないまま現在に至ってしまっている。
運営側的にもスケジュール的にもうあまり猶予はない――というより、既に手遅れ気味になっているのも否めない。かといって今更断念する気にもならず、こうして顔を突き合わせて議論している次第である。
「奇をてらおうとするからいけないの。変に考えないでシンプルにしたら?」
「シンプルねぇ。言うのは簡単でもそれが難しいんだが……」
これまでの紆余曲折ぶりを見てきたノイからの意見にクロウが首を捻る。言わんとすることは理解できるが、単純であるだけにクオリティを上げるのは難しいのだ。凝り性な彼は中途半端なものを披露するのは許せない。今から実現可能なものとなると悩ましかった。
ちなみに、ノイは既に姿を現している状態である。この連絡船の船員は残され島の事情を全員が知っているので、彼女が身を隠している必要はない。皇族ぐるみの隠蔽が敷かれている島への連絡船だ。船員も事情に通じていて当然だった。
「それだと前に一度挙がったけど、やっぱり演奏とかがいいんじゃないかな」
この人数で学院祭を盛り上げられる出し物。難しく考えずに選ぶのであれば、やはりステージ演奏が最も適当ではないかとトワは思う。
以前にも似たような意見はあった。では、どうしてその時に決定しなかったのかというと、それには相応の理由もあった。
「つっても、突貫で半端なものにするわけにもいかねえぞ。準備するものだって馬鹿にならねえ」
「大前提として楽器は用意しなくちゃいけないし、演出を考えたら他にも諸々……簡単なことではないね」
「とはいえ、動き出さなければどうにもならないのも事実だが」
演奏そのものについても、その準備に必要なものにしても、満足のいく出来に仕上げるためには越えなければいけないハードルが幾つも思い浮かぶ。それ故に尻込みする部分があるのは確かだった。
要は踏ん切りがついていないのだ。本当にやり切ることが出来るのか。その見通しが立たないだけに決断が鈍る。言い換えれば、何が何でもやりたいという意欲が足りていなかった。
議論は暗礁に乗り上げる。うーん、と揃って首を捻っても事態は好転せず、ただ刻々と時間だけが過ぎていく。
「おーい、トワちゃん! ちっと船長呼んできてくれないか!」
不意に、頭上より声が響いた。マストの上の見張り台、そこで夜の番をしていた船員からのものだ。
「どうかしましたかー?」
「どうも時化がきそうだ! お友達と一緒に船室に戻った方がいいぞー!」
その返事を聞いて咄嗟に海へと目を向ける。一見して落ち着いている様子の水平線。だが、確かに針路の先の空に怪しい雲が広がりつつあるのが見えた。
トワは小走りにクラック船長を呼びに船内へ。クロウたちが置いてけぼりにされている内に甲板は段々と騒がしくなり、同時に風が強くなり波も高くなる。何が何やらといった状況だが、少なくともよくない事態であることは理解できた。
動くに動けずにいると、トワがクラック船長を伴って戻ってくる。彼は海の様子を一目見るや顔を顰めた。
「こりゃ不味いな。一荒れ来るぞ」
「えっと……大丈夫なんですか?」
「別に沈みやしないさ。このあたりの海域じゃたまにあることだ。ただ、安眠は諦めてもらうぞ」
現在の船の位置は大陸とシエンシア多島海の中程。この海域では、時折海の模様が不安定になることで知られている。昔の世界の果ての嵐と比べれば生易しいものだが、それでも風雨を凌ぐのに苦労することには変わりない。
あまり荒れ模様が酷いと船の進みが遅れる可能性がある。それを抜きにしても、ここまでの長旅で疲れがたまっているクロウたちに満足な休息を与えられないのは酷というものだ。
「振り落とされないよう気を付けろよ。俺はカナヅチだから助けにいけねえ」
「あんた何で船乗りやってんだ」
泳げない船長というのはいかがなものか。ごく真っ当なクロウの突っ込みに苦笑を零しながらも、トワは一つ提案をした。
「クラック船長、皆が休めないのも気の毒だし、私がやりますよ」
「うん? いやトワちゃん、それは……」
「大丈夫。もう平気ですから」
自分の知り合いは優しい人ばかりだ。言わんとすることを理解し、表情を曇らせたクラック船長を見てトワはそう思う。置かれた境遇、過去の経験、それを知り得ているからこそ心配してくれる彼には感謝している。
でも、だからこそ示したいのだ。もう心配しなくてもいいのだと、仲間たちのおかげで自分はこんなにも強くなれたのだと。
言葉少なに白銀と紅い瞳の姿へ。それで十分にトワの意思は伝わった。クラック船長は幼いころから知る少女の目を見て、その姉貴分を見て、そして彼女の仲間たちへと目を移して納得したように頷く。
「……そうかい。そんじゃ、お手並み拝見させてもらうぜ」
「ふふ、任されました」
船首に立ち、黒雲が立ち込め始めている空へと手をかざす。淡い金色の光がその身を包む。仲間たちにクラック船長、慌ただしく動いていた船員たちも何事かに気付いて見守る中、意識をあまねく存在する力の流れへと沈めていく。
流れの中に澱みがあった。まるで継ぎ目の隙間で仕方なく生まれてしまったような滞り。悪天の原因であるそれに干渉していく。滞りに流れを作る、乱れた場を整える。絡まった紐を少しずつ解いていくように。
「晴れて……!」
やがて澱みが消え去る。意識を現実に戻した先で、トワは歓声を聞いた。
変化は顕著だった。嵐の気配を漂わせていた黒雲は文字通りに雲散霧消し、荒れる波も落ち着きを取り戻す。黒雲が晴れた先に姿を現した満天の星空に、見上げる人々は感嘆の声をあげていた。
なんだか空気も変わったように思える。嵐の前兆から快晴の夜に変わったのだから当然かもしれない。けれど、それだけでもないような不思議な感覚だ。
「――越えたみたいなの。トワ、お疲れ様」
「え……うん。ねえ、それって」
唐突にノイがそんなことを口にした。越えた、とは何なのか。思い当たる節がなく尋ねようとしたところで、その疑問は重なった更なる歓声に覆い隠された。
星空に軌跡がはしる。一つだけでなく、幾条も。流星群だ。
尋ねようとしていたことも忘れ、思わず周りと同じくして天空の壮観に見惚れてしまう。晴れ渡る夜空に光の帯が次々と現れては消えていく。その美しい光景に誰もが言葉を忘れ、ただ空を見上げていた。
「はは……流石に演出過多じゃねえのか?」
「こんなことまでは出来ないってば。本当に偶然だよ」
「では、日ごろの行いの賜物といったところかな」
ミトスの民の力を以てしても、意図して流星群を引き起こすなんて不可能だ。今日この時に、この光景を目にできたこと。それは純粋な巡り合わせに他ならない。
その幸運を今は喜ぶことにしよう。夜空を彩る流星の群れは、船の行く先の水平線へと消えていく。それはまるでトワたちを誘う道標のようだった。