【走れマッハ号、黄昏の果てに】
「頼むトワ君! 君の力を貸してくれ!」
目の前で下げられた頭にトワは困惑した。普段は自分の目線よりも遥かに高い位置にあるそれが、彼女から見下ろすほどになるくらい深々と腰を折られる。そんな理由などまるで心当たりがなかったから。
時は放課後、場所はⅣ組の教室前。一日の授業を終了した学院の廊下には当然、人の往来がある。大きな貴族生徒の男子が小さな平民生徒の女子に頭を下げる光景は、色々な意味で悪目立ちして仕方がない。
「ええっと……と、取りあえず頭を上げて、ランベルト君。なんだか周りの視線が痛いから……」
「む……すまない。もう少し場所を選ぶべきだったな……」
申し訳なさそうに肩を落とす彼はランベルト。馬術部に所属する貴族生徒の男子だ。ガタイのいい彼が頭を上げると、自然とトワは見上げる形になる。見慣れた感覚に戻ってトワはホッと息をついた。
しかし、どうしたことだろうか。普段のランベルトは元気が有り余っているくらいの快活さが印象深いというのに、今の彼はどうも気落ちしているように見える。いつもなら「はっはっは!」と笑い飛ばすところだろうに。
何やら問題を抱えている様子。自分を頼ってきてくれたのなら応えない理由もない。周囲からの視線も落ち着いたところで、トワは改めて話を切り出した。
「それで、どうかしたの?」
「ああ……実は、マッハ号のことでな」
マッハ号とは、ランベルトが世話をしている彼の愛馬だ。乗馬を嗜んでいる生徒は貴族クラスを中心に数多くいるが、それでもランベルトとマッハ号の走りを上回るのはそうはいないという評判である。トワも目にしたことがあるが、まさに人馬一体。心の通じ合った相棒に見えた。
「最近、元気がないように見えるのだ。走りは変わりないし、怪我をした様子もないのだが……」
そんな相棒が変調をきたしたとなれば、ランベルトの威勢にも陰りが出るというもの。トワは彼の普段ならない妙なしおらしさに納得した。
とはいえ、単純な理由による変調でもないらしい。世話をしている当人が言うのだから、外面的な問題は確かに見受けられないのだろう。違うだろうな、とは思いつつも心当たる可能性について尋ねてみる。
「何か病気にかかっている様子とかは?」
「いや……実家で世話になっている獣医に相談しても、思い当たるものは無いそうだ。正直、八方塞がりとしか言えない」
彼なりに手は尽くしたようだが、芳しい結果は得られなかったらしい。己の不甲斐なさを嘆いているのか。ランベルトの表情には沈痛の色が浮かぶ。
では、どうしてトワに頼ってきたのか。その理由は共通の友人から耳に挟んだ話にあった。
「他の皆にも相談していたところ、アンゼリカ君からトワ君が生き物に詳しいと聞いてな。何でもいい、心当たりがあったら教えてくれないだろうか」
切羽詰まった様子のランベルトが再び頭を下げる。それを慌てて押し留めながらも、トワは内心で思案気味になってしまった。
アンゼリカの評価は間違ってはいない。父をはじめとした周囲の環境による博物学への造詣、星の力を感じ取ることによる生命への理解。それらが組み合わさることで、トワは他とは違った生命観を有している。何か他の手段を講じるならば、その他とは異なる点に頼るのは悪い選択肢ではないだろう。
かといって、トワ自身はランベルトの役に立てるかというとあまり自信がない。ちゃんとした獣医に相談しての現状なのだ。自分がどれだけ力になれるか首を傾げてしまうところがある。
「怪我でもないし、病気でもないのなら……たぶん精神的な問題になるのかな」
それでも困っている人を見過ごす理由にはならない。ほんの思い付きで不確かなものであるけれど、頭に浮かんだものを口にする。
人が精神病にかかるのと同じく、動物にもそうした症例が見られることはある。置かれた環境によるストレスが変調の原因となることは考えられないことではない。
「精神面か……馬術部でも世話には気を遣っているから、その線はあまり考えていなかったな」
「だよね。でも、実際に見てみないと分からないから。後でお邪魔していい?」
「無論だとも。こちらこそ、是非ともお願いする」
ここで話し込んでばかりいても仕方ない。まずはマッハ号の様子を見て、それから考えを詰めても遅くはないだろう。後ほど馬術部を訪ねることを約束し、ランベルトは再三に頭を下げるのであった。
先に馬術部へ向かって他の部員にも事情を説明してくるというランベルト。その背を見送るトワは、生徒会へ顔を出したりと準備を整えてから訪ねることになる。
不意にすぐ傍から声が掛かる。人気がなくなるのを見計らっていたノイのものだった。
『大丈夫なの? 馬のカウンセリングなんて』
「分からないけど……やれることは精一杯やってあげたいから」
確かに自信はない。それでも出来る限り力になってあげたい気持ちがトワにはあった。
そして、その理由は何も彼女のお人好しさばかりからくるものでもなかった。
「私だって、ノイの様子がおかしかったら心配になるだろうし。ランベルト君の気持ちも分かる気がするんだ」
『……何だろう。気持ちは嬉しいけど、あまり素直に喜べないの』
相棒という形は同じとは言え、馬と同列に語られるのは不満だったのだろうか。複雑な感情が滲むノイに、ついつい笑みを零してしまうのだった。
かくして会長に馬術部へ向かう旨を告げた後、トワはグラウンドに設けられた厩舎へと足を運んでいた。馬たちがそれぞれ入る馬房の一つに、黒毛の一際大きな体が収められている。それこそがランベルトの愛馬、マッハ号であった。
ひとまずは彼の様子を一通り確かめてみる。余計なお世話かもしれないが、これも念のためだ。頭の上でぶるるんと鼻を鳴らすのを耳にしながら、何かしら異常がないか探していく。
その結果は、案の定といえば案の定だった。
「やっぱり怪我や体調不良はなさそうだね。身体を動かすのにも問題はないそうだし」
「うむ……体温もいつも通りの平熱。至って健康体の筈なのだが」
ランベルトの話と同じく外傷の形跡は見られず、病にかかった様子も窺えない。それは星の力の流れからも感じ取れた。その流れに淀みはなく、少なくとも健康に問題がないのは確かである。
だというのに、マッハ号に元気がないのはトワにも感じ取れた。以前目にした時は身体の大きさに見合った覇気を感じたものだが、今はどこか萎んでしまったように見える。まるで何かを思い煩っているかのようだ。
これはランベルトが心配になるのも無理はない。幸いにして食欲に問題はないようだが、このままの状態にしておくのも懸念が残る。どうにか原因を確かめたいところだった。
「もうしばらく見ていてあげよう。この後は外に出すんだよね」
「他の馬と一緒に運動をさせにな。どうだろう、トワ君も乗ってみないか?」
焦っても仕方がない。今日のところはマッハ号に付き合う腹積もりだった。
と、そこに思いがけない提案が。夏至祭で競馬観戦をした影響か、トワも乗馬には興味があった。乗せてくれるというのなら喜んで、である。
「うん。迷惑でないなら、だけど」
「手間を取らせているのはこちらの方だ。今度の学院祭では乗馬体験会を開く予定でもある。遠慮を感じるなら、その練習がてらとでも思うといい」
「あはは……じゃあ、お言葉に甘えて」
そう言ってくれるなら、こちらとしても気兼ねせずに済む。馬たちをグラウンドに出す準備をする馬術部に混じり、トワも体験を兼ねて手伝うことにする。
グラウンドに散って歩き回ったり軽く走る馬術部の馬たち。ランベルトが駆るマッハ号も、その動きにおかしな点は見られない。やはり体自体に異常はないのだろう。
それはそれとして、ランベルトに様子を見てもらいながらも乗馬を体験するトワ。世話をされている内の一頭の背に跨り、急に高くなった視界に新鮮な気持ちを覚える。
普通ならここで細やかな指導を要するところなのだが――結果として、彼女の乗馬体験はランベルトが拍子抜けする展開となっていた。
「ううむ、流石はトワ君というか……鐙に足も届いていないというのに、大したバランス感覚だ」
全力疾走とはいかずとも、ちゃんと馬を走らせてグラウンドを一周させてくる姿にランベルトの唸り声が漏れる。これは彼にも想定外であった。
背丈の問題もあって、本当は軽く歩かせるくらいのつもりだったのだ。それがひょいっと一跳びに鞍に跨るや、さして時間もかからずに手綱の扱いも修得。しまいには元気に「はいやー!」と駆け出して行ってしまう始末である。
いつもは抑え役に回っていることが多いだけに、トワの意外とアグレッシブな面はあまり知られていない。不安定さを鍛え上げた足腰と体幹で補い、物の見事に戻ってきた彼女に向けられる視線は呆れと感心が入り混じっていた。
「どうどう……えへへ、ありがとうねランベルト君。馬で走るのがこんなに気持ちいいなんて知らなかったよ」
「まあ、楽しんでくれているようで何よりだ。それにしても、セントアーヌもよく素直に従ってくれている。割と気難しい部類なのだが」
トワが跨る白毛の牝馬。名をセントアーヌという彼女は、大人しくはあっても簡単には言うことを聞いてくれないのだとか。血統書付きであることも相俟って、馬術部では「高嶺の花の如き淑女」というのがもっぱらの評判という。
種はあると言えばある。星の力を感じ取る副次効果で、トワは動物の表層的な感情も理解することが可能だ。それによる限定的ながらも確かな意思疎通が、セントアーヌを駆るのにも功を奏した形であった。
だからこれも、そのおかげだったのだろう。ふと、彼女は熱っぽい視線を感じた。
感じる視線を辿れば、そこはランベルト……ではなく、彼が跨るマッハ号からであった。加えて言うならば、その視線が向けられる先もトワではなく、彼女が跨るセントアーヌへと向けられている。
マッハ号の目には先ほどまでの元気のなさが嘘のような熱があった。けれど、それと同じくして躊躇いのようなものも見受けられる。明後日の方向を向いているセントアーヌに対し、彼はじっと見つめながらも距離を保っていた。
ふむ、と考える。これはもしかすると、そういうことかもしれない。
「ランベルト君、ちょっと降りてみてくれないかな」
「……? ああ」
頼んだのと同じく、トワもセントアーヌから一旦降りる。手綱を引いてマッハ号の方に顔を向かせてあげれば、相手の黒馬はたじろぐような仕草を見せた。
それを見てランベルトも何となく気が付いたようだ。マッハ号を見て、セントアーヌを見て、「うむうむ」と頷いた彼は心配事の晴れた顔で相棒の背を叩いた。
「何を怯むマッハ号! 男は度胸だ。うじうじしていても何も始まらん。さあ、彼女にお前の思いの丈を伝えるのだ!」
叱咤激励を受け、マッハ号も覚悟を決めたのか。応えるように「ぶるる!」と鼻を鳴らすと、セントアーヌへと近付いていく。その瞳に宿る熱は並々ならぬものだ。溢れんばかりの想いが逸ってか、足運びも半ば駆け寄るようなものへとなっていく。
そんなマッハ号を前にして微動だにしないセントアーヌ。このまま大人しくしているのだろうか――と思ったところで、彼女はおもむろに背を向ける。
直後、見事な後ろ蹴りがマッハ号を襲った。
見守っていたトワとランベルトも唖然となる。駆け寄った勢いも相俟って、物の見事に迎撃を受けてしまったマッハ号は倒れ込む。彼を見下す形で一瞥して、ただそれだけでセントアーヌは興味を失った。トワを引っ張るように先を促す彼女は、もう馬房に戻る気しか感じられない。
男マッハ号、恋煩いの果てに完膚なきまでに玉砕を遂げた瞬間であった。
「……くよくよするな、マッハ号! 生きていれば、こんな苦みを味わうことだってある」
夕日に照らされるグラウンド。その一角でランベルトが意気消沈するマッハ号に声を掛ける。傍でトワが見守る中、彼は相棒の元気を取り戻すべく言葉の限りを尽くしていた。
セントアーヌに対して想いを募らせていたマッハ号。だが、彼は思いのほか奥手な口だったらしい。アタックするにも尻込みしてしまい、恋煩いしていた様が元気のない姿の真相であった。
勇気を出してぶつかっていったはいいが、結果はこの有り様である。不幸中の幸い、派手に蹴られた割に怪我はないらしい。ただ、それを差し引いて尚有り余るほどに精神的なダメージが大きいことは言わずもがなだ。
「清楚な淑女に告白するとなれば、俺だって躊躇してしまうだろう。だが、お前は勇気を振り絞ってぶつかっていった。それを悔いるべきでも、恥じるべきでもない」
そうなんだ、と内心で独り言ちる。ランベルトは女性に告白するときでも悩まず正面からぶつかっていくものと思っていた。そういう意味で彼とマッハ号は似た者同士というか、やはり相性がいいのかもしれない。
「それでも尚、気が晴れぬというのなら……走るぞ! 思いっきり走って、走ること以外何も考えないで、全てを振り切って走るのだ!!」
その想いが通じたのだろう。マッハ号の目に光が戻る。活力を取り戻した相棒の背に颯爽と跨ったランベルトは、トワへ顔を向けると改まった様子で礼を告げる。
「世話をかけたなトワ君! 君のおかげで助かった。ありがとう!!」
「どういたしまして。あんまり遅くならないようにね」
「はっはっは、承知した! では、行くぞマッハ号! ハイヤァー!!」
嘶きを上げて駆けだすマッハ号。グラウンドを駆け抜け、そのまま裏門から街道へ。夕日の中をどこまで走りに行くのだろう。せめてもの忠告を守ってくれることを祈るばかりである。
さて、と一息つく。見送ったところでトワもお役御免である。寮へと帰る道筋を辿りながら、ふと思いついた彼女は傍らにいる相棒へと声を掛けた。
「ねえノイ、何か悩み事とかある?」
『……何なの、藪から棒に』
「たまにはちゃんと聞いた方がいいかと思って」
自分たちは言葉が通じるのだ。時にはこうして直接口にすることも価値あることに違いない。
傍にいるからといって、全てが通じ合っているとも限らないのだ。お互いの関係に甘えず、言葉にすることで初めて分かることもあるかもしれない。ランベルトとマッハ号を見ていてそう思ったからこそ、トワは改めてこの小さな姉貴分に尋ねたのだ。
『うーん……まあ、トワが悪い男に捕まりそうというか、むしろ癖の強い男ばかり引っ掛けてきそうなのは悩みの種なの』
「ちょ、ちょっと! どういうことそれ!?」
ただまあ、こうも失礼なことを言われてしまっては腹に据えかねるものもあるもので。脈絡もなく人を男運のない奴みたいに扱ってくる相棒に、珍しく憤慨するトワの姿が見られたのは余談である。
――――――――――
【残すもの、伝えていくもの】
平民生徒が寝食する第二学生寮。その一階の厨房で紅茶を淹れたトワは、零さないよう気を付けながらも自室のある二階へと上がる。トレイを片手に扉を開けた彼女は、そこで待っていた二人の同級生に声を掛けた。
「お待たせ。二人の口に合うか分からないけど、どうぞ」
「ふふ、とんでもないわ。いただきます」
「というより、急にお邪魔しちゃった身だからそんなに気を遣わなくても構わないよ?」
「いいのいいの。お客さんはちゃんともてなしてあげないとね」
そう言って戸棚から茶請けを探し始めるトワ。あまり大したものは見つからず、結局は「スルメでいいかな?」と言い出す彼女にもてなされる側の二人――エーデルはたおやかな笑みを浮かべ、フィデリオは何とも言えない表情になるのだった。
その日、トワの寮室に急な客人が訪れることになったのは、彼女について二人があることを聞きつけたからだ。エーデルとフィデリオは、トワが個人的に所有している星片観測機を一目見たくて頼んできたのである。
星の欠片の内に収められた光景を映し出す星片観測機。欠片の主要な――今となっては唯一の――産出地である残され島出身のトワにとっては非常に身近なものであるが、世間一般にとってはそうではない。星の欠片も、それを映し出す星片観測機も、両方を所有している人というのはほんの限られたものだった。
まず絶対量が少なく、加えて流通量も多くない。三十年以上前は残され島周辺に飛来する遺跡群から見つかることのあった星の欠片。遺跡が落ちてこなくなった今では、それ以前に発見されたものが流通している殆どだ。稀少な品であるだけに手放す人も少なく、新たに手に入れるのはかなり難しい。
星の欠片自体でそれなのだから、星片観測機は尚更だ。そもそも現代の技術では再現不可能な一品。使い方は知られていても、それがどのような原理で収められた光景を映し出しているのかは判然としていない。替えの利かないそれは、個人で持つものというより博物館などに所蔵されている類である。
そうした理由から星片観測機は非常に貴重な品だ。出すところに出せば、途轍もない額のミラがつけられてもおかしくない。貴族であったとしても、並大抵の家では手を出すこともままならないだろう。その点、所有しているアンゼリカの叔父は流石四大名門であった。
余程の大貴族か大金持ちの好事家くらいしか持っていない希少品。それを同級生の平民生徒である少女が部屋に置いていると知った時の驚きは、その価値を知る人間からすれば途轍もない。少なくとも、その足で頼み込みに来るくらいは。
エーデルもフィデリオも、星片観測機の稀少さと価値を知る身。そして以前からそれぞれの理由で興味を持っていた身であった。
「へえ……! 話には聞いていたけど、こんな風に映るのか。噂に違わない凄い景色だし」
「本当に見たこともない植物ばかり。いったいどんなものなのかしら……」
フィデリオは稀少な記録媒体として、そして収められた様々な風景に興味を持ってのこと。風景撮影が趣味の彼は、星の欠片が映し出す荘厳な景色の数々を聞き及んでから機会があれば一目見てみたいと思っていたのだという。
一方、エーデルの興味は映し出されたそれに見えるもの、現代においては未知の草花にあった。実家が農園運営や自然保護活動を手掛けていることから、彼女は植物関連に強い関心を持っている。誰も知らない未知の草花が見られると聞いては、おっとりとしている彼女も押しかけ気味になろうというものだ。
星片観測機が像を結んだ景色を興味津々に、喜色を浮かべて眺める二人にトワも自然と笑顔になる。故郷の――自身のルーツに関わる品が、こうして誰かの楽しみとなれるのは喜ばしいことだった。
「それにしても随分と沢山の星の欠片を持っているんだね。伯母さんが本職の人だそうだけど、オークションにでも出せば一財産になりそうだよ」
「あはは……昔ほど出回らないけど、新しいのが見つかっていないわけじゃないから。色々と複雑な事情があって、あまり外に出せないんだ」
テラという大元が落着したのだ。発見される数としてはむしろ増加している。
とはいえ、一応は古代遺物の一種。それで露骨に商売しようとなると教会がいい顔をしない。結果として、時々少ない数を市場に出すだけに留まっている。伯母のアーサが遊撃士協会支部の受付を兼務していられるのは、そうした理由で本業が暇になったからだ。
「そう……詳しいことは分からないけれど、こんな素敵なものが人目に触れないなんて残念ね」
素敵なもの、そう、素敵なものなのだろう。
その幻想的な光景に魅入られた人たちが、かつてはロストヘブンを求めて旅立ったように、星の欠片は人々にここではないどこかを想起させる不思議な魅力を持っている。単に稀少なだけでなく、虜になるほどの価値が認められるからこそ高額で取引されているのだ。
だが、その映し出される光景の意味を知っているのはどれだけいることだろう。きっと数えるほどでしかない。当たり前のことではあるけれど、それを知る身であるトワは思うのだ。この淡い光に籠められた想いを知ってほしいと。
「ねえ、例えばの話なんだけど……この光景がもう二度と見られないものだとしたら、どう思う?」
だから二人に伝えようと思う。ほんの少しであっても、その意味を知ってもらうために。言葉を選んで切り出したトワに、問い掛けられた側は意表を突かれた顔になる。
もう二度と見られない、この目に映すことの叶わない光景だとしたら。光の中に像を結ぶ幻想を眺めつつ、エーデルは表情を曇らせながら口を開いた。
「それは……とても悲しいことよ。この花々も、雄大な自然も無くなってしまったらということでしょう? 心豊かになるものが失われるのは耐えがたい損失だと思うわ」
「……そうだね。こんなに美しい景色がもう見られないなんてことは、あまり考えたくないな。でも、どうして?」
唐突な質問に当然ながら疑問は湧く。それにトワはどこか淡い色を含んだ微笑みを浮かべて答えた。
「特別な意味があるわけじゃないけど、そうなってしまう可能性があることも事実だから。環境の中で淘汰されてしまうことや、人の手でその種を絶やしてしまうこともね」
美しく目に映る自然の中にも熾烈な生存競争が繰り広げられている。その中において、及ばずに消えることになってしまう存在もいることだろう。それは仕方のないことだ。
だが、自然の摂理によるものではなく、人の過ちにより失われてしまう可能性があるのも確かだ。奈落病の蔓延に際してのユピナ草がいい例だろう。我欲に走り絶滅に追いやるか、はたまた限られた土地に生きるものを戦火で燃やし尽くすか。歴史を振り返れば、そうして失われたものは決して少なくはない。
星の欠片が映す生命の息吹が感じられる光景。トワは知っている。二人にはもしもの話と言ったけれど、この豊かな自然はもう存在しないものなのだと。
テラで写し取ったものはその限りでないし、未踏の地が多く残るレクセンドリア大陸には似たような光景があるかもしれない。それでも、この星の欠片が作られたときにあったはずの場所は、ここに生きていた数多の生命は、もうこの世界のどこにもいないのだ。
そうなってしまったのは人が過ちを犯したからだ。取り返しのつかない、とても大きな過ちを。
愚かしく哀しい過去。それが繰り返されないよう、今は二人にこの光景が遺された意味を伝えたいと思う。繋いだ想いが、また誰かに繋がっていくことを信じて。
「今そこに自然が、何かの切っ掛けで失われることになるかもしれない。だから忘れないで欲しいんだ。当たり前にある草花の一つにも価値があって、無くなってから気付いても遅いんだって」
「当たり前の価値に気付き、それを守ろうとしていくこと――ふふ、ハーシェル博士も論文で似たことを仰っていたわね」
思わぬ返答にきょとんとなる。はて、彼女に父親について話したことがあっただろうか。
「エーデルちゃん、お父さんのこと知っているの?」
「その道では有名な方だもの。私の家が自然保護事業に力を入れているのも、博士の論文に感銘を受けたからだそうよ」
そっか、と答えつつも頬には隠し切れない笑みが浮かぶ。父が似たようなことを論じているのは当然だ。自分に目の前にあるものの大切さを教えてくれたのは、他ならないその人なのだから。そんな父の想いが確かに伝わっていることを知って、嬉しくならない子がいるだろうか。
「私も拝見したことがあるけれど……改めてその意味を理解できたと思う。手の届くところにあるからこそ、その尊さを知って守っていかないといけないのね」
ありふれた花々であったとしても、失われてしまえば二度と目にすることは適わない。この星の欠片に収められた光景のように。そう意識するのは難しいかもしれないが、だからこそ人々に伝えていかなければならないのだとトワは思う。
過ちの末に絶えてしまった存在がどれだけ尊いものだったのか。淡い光の中に浮かぶ景色たちは、それを伝えていくために作られた。同じことが繰り返されないよう、その想いが多くの人に知られることを願ってやまない。それは、きっと父も同じ気持ちだろう。
「失われないよう伝えていくこと、か……大切なことだとはわかるけれど、簡単なことでもないね」
「あまり難しく考えなくてもいいよ。ただ、自分が美しいと思ったものを表すだけでいいんだ」
納得を示しつつも難しい顔のフィデリオ。想いを後世に伝えるために作られた星の欠片のように、自分も他者に想いを繋いでいけるだろうか。そう考えると手に余るように思えるかもしれない。
けれど、もっと単純でいいのだ。遥か過去の遺物のような大層なものでなくていい。ありふれたものの大切さを伝えていくのは、ありふれた手法でも何ら問題ない。
そして、トワは彼がお誂え向きの特技を持っていることを知っている。
「言葉でも、絵でもいい。その美しさを誰かに伝えて、それを大切に思えるようになれたなら。勿論、写真であってもね」
「……そうか、そうだね」
自分がレンズに収めた光景が、後の世へと守り伝えていく端緒となれたなら。それはきっと素敵なことだ。カメラが写すものにそんな意味を持たせられることに気付き、フィデリオは言いようのない不思議な気持ちを覚える。
「どんな形でもまずは伝えるところから、か。世界にはこんなに綺麗なものがあるって知らない人がいるのも勿体ない話だし」
「ええ。そしてまた他の誰かへと伝えていく――未来へ繋げていくというのは、そういうことなのかもしれないわね」
エーデルもフィデリオも、先ほどまでとは星の欠片を見つめる目が変わったように思える。それは些細な変化かもしれない。けれど、伝えたかった想いは確かに二人の胸の内に溶け込んだことだろう。
きっと彼女たちならば、その想いをまた次の誰かへと伝えていってくれる。そうしてほんの小さな揺らぎが波紋となって、世の人々に広がっていくことを願いたい。
日が暮れていくにつれて、淡く蒼い光は幻想的な雰囲気を増していく。エーデルとフィデリオは熱心に見つめる。物珍しさとは別に、その過去からの色褪せぬ記憶を目に焼き付けるかのように。そんな二人が満足するまで、トワは喜んで星片観測機に光を灯らせるのだった。
――――――――――
【その一握の善意が腐った者を生み出した】
「あっ、ああああ!?」
学院のどこからかそんな叫び声が聞こえてきたのは、トワがいつも通り生徒会の仕事で各所を回っていた時だった。方角からして学生会館の方だろうか。目を向けると、上空にぶちまけられた紙束が散り散りに飛んでいく光景が視界に映る。
ちょうど強めの風が吹いた瞬間のこと。何かの拍子に室内から攫われてしまったのかもしれない。原因を推測しながらも、ひらりひらりと舞い落ちてくるその一枚を手に取った。
『何の紙なの、それ?』
「んー、小説の原稿みたい。きっと文芸部の人のものだろうね」
原稿用紙に書き綴られた文脈から小説の一部であるのは間違いない。そして、その持ち主が文芸部の生徒であることも。部室が学生会館の二階にあることも、状況からして推測が正しいものであろうことを補強していた。
流し読んでみたところ、なかなか味のある文章だ。表現力にも富んでいて読み手を楽しませてくれる。流石にプロには及ばないかもしれないが、読書家のトワの目からしても十分な読み応えを感じられた。
とはいえ、この原稿用紙一枚では続きどころか物語の把握も覚束ない。先ほどの強風で原稿は随分とバラバラに飛ばされてしまったようだ。学院の外にまで飛び散ってはいないと思うが、落とし主はさぞ苦労することになるだろう。
よし、と頷く。仕事も一段落着いてきていたところ。もうひと働きしても問題はない。
「せっかくだし、出来るだけ集めてあげよう。どんな内容なのかも気になるし」
『後者の方が本音に聞こえるの』
「いいじゃない、堅いこと言わなくても」
人助けの片手間に少しばかり拝見するだけだ。それくらいは構わないだろう。誰の迷惑にもならないのだし。
いつも通りに偶発的な出来事から仕事を増やすトワ。今回はそこに自身の興味本位も織り交ぜて、ひとまずは目で追えた範囲の原稿用紙の行方を辿るのだった。
件の探し物が飛んでいった先は様々だった。学院内の道端に落ちたもの、木に引っかかったもの、通りがかった生徒に拾われていたもの。時には屋上にまで飛ばされているものを回収して歩き、気付けば学院内を殆ど回っていた。
おかげで原稿用紙の大半は集まったように思える。池に落ちていなかったのは幸いと言うほかない。回収したそれを順番に並べ、綴られた物語も読める形になってきていた。
内容自体はオーソドックスな騎士物語だ。時を同じくして騎士となった二人が反目し、切磋琢磨し、そして友情を築いていくというもの。ありふれているかもしれないが、それだけに筆者の表現力が光る。特に主役二人のやり取りには熱がこもっているのが読み取れた。
集めた範囲では、そろそろ物語も佳境に入ろうかというところ。読書としては是非とも続きが読みたい。残りを探し求めてトワは学院の裏手へと進んでいく。
「校門でガイラーさんがトリスタには飛んでいくのは見ていなかったから……」
『残りがあるとすれば、旧校舎の方ってことなの』
ちょうど清掃をしていた用務員の証言から、学院外にまで飛散した可能性は低いと見込まれる。本校舎周りは一通り集め尽くした。必然、取りこぼしがあるとすれば人気のない旧校舎近辺となる。
入学初日に突飛なオリエンテーリングを体験することになった古びた建物。あまり立ち寄らない場所であるが、近くまで来るとやはり奇妙な気配が感じ取れる。休眠状態のようなので、徒に刺激することはないだろうとトワは放置していた。
そんなところに物語の続きを探し求めてきてみれば、案の定、目当てのものを発見する。ところどころ剥げている旧校舎の屋根。そこに数枚の紙が落ちているのが見て取れた。
『また飛ばされたら困るの。取ってこようか?』
中に入る鍵は持っていないし、外壁を登るのも手間がかかる。また風が吹いて飛ばされないうちに、ノイが直接回収してこようかと提案するのは無難な選択だ。
「いいよ、これくらい。人の目も無いし……えいやっ」
ところが、トワは相棒の提案を断る。わざわざ彼女の手を煩わせることもない。
何の気負いもなく髪を白銀に染めたトワが星の力を操る。彼女の意に従って気流が変わり、穏やかながらも確かな風が屋根の原稿用紙を攫った。運ばれる先は風の呼び手のもと。意図した通りに自然を動かした彼女は悠々と自分のもとに飛んできたそれを手に取った。
ノイが複雑な色が浮かぶ目を向ける。その大半が呆れで占められているのは言うまでもない。
『なんか、こう……その力はもっと高尚なものだったと思うのだけど』
「自重するべき時はあるけど、そう構えるものでもないよ。便利なものは便利なんだし」
ミトスの民としての力に気負うところがなくなったのは嬉しい。嬉しいが、それを単なる便利ツールとして扱うのはどうなのだろうか。その力の被造物たるノイは微妙な心境にならざるを得ない。
所詮は自分の先に在るもの。力が己の意志により振るうものである以上、良識に反さない限りはどう使っても構わないだろうとトワは開き直っていた。その考えに至るまでにバンダナのお調子者をはじめとした仲間たちの影響があったのは間違いないだろう。
きっと彼女の母親などはその変化を喜ぶに違いない。ありありと想像できるだけに、ノイはそれ以上何も言わなかった。聞えよがしな溜息は出てしまったけれど。
『まったく……それより、誰か近付いてきているの』
それはトワも星の力を介して感じ取っていた。分かっているよ、と力を身体の奥に引っ込めて栗色の髪に戻る。お手軽な扱いになったものだ。
それにしても、旧校舎に人が来るなど珍しい。近付いてくる早さからして小走りで来ているようだし、何やら急いでいる様子。自分のことを棚に上げながらトワは首を傾げた。
やがてその人の姿が見えてくる。長い黒髪に眼鏡をかけた女子生徒。見知った顔の彼女はトワを見つけるや、必死の形相で駆け寄ってきた。
「と、トワさん! ようやく見つけ、ゲホッ、ゴホッ」
「えっと、なんだか分からないけどまずは落ち着こう、ドロテちゃん」
何をそんなに慌ててきたのか、息を乱す彼女は同じ一年の平民生徒であるドロテ。文芸部に所属している大人しめの女子だ。
ふと、そこで思い至る。文芸部、そう、文芸部だ。集めることに専念してしまっていたが、この原稿用紙の持ち主も飛散したものを回収しようとしたはず。それを鑑みれば、目の前の彼女の様子も心当たるものがあった。
「もしかして、これってドロテちゃんが書いたものなの?」
「はあ……はあ……そ、そうなんです! 空気を入れ替えようとしたところ、強い風で一気に……」
推測は当たっていたらしい。原稿用紙を見せてみると、ドロテは顕著な反応を示した。きっと最初に聞こえてきた叫び声も彼女のものだったのだろう。
「慌てて探しに出たはいいものの、行く先々で聞くのは既にトワさんが拾っていったという声ばかり……ようやく追いつけました」
「うーん、ごめんね。なんだか悪いことしちゃったみたい」
「ああ、いえ。私だけだったらこんなに早く集められなかったでしょうし。むしろ感謝するところです」
確かにドロテだけでは木の上に引っかかっているのはまだしも、旧校舎の屋根に乗っているのは手をこまねていたに違いない。そういう意味ではトワが率先して探していたのは結果的に良かったと言える。興味本位が勝ってのことだったが、そう言ってもらえると気が楽だった。
落とし主も現れたことで、集めた原稿用紙を返却する。これにて一件落着――だと思うのだが、ドロテは何やら落ち着かない様子だった。
「あの、ところでですね……も、もしかして中身を読んだりは……」
「? うん、読ませてもらったよ」
何気なく口にしたトワの答えに、ドロテはぎょっと身体を強張らせる。いったいどうしたのだろう。トワが不思議そうな目を向ける前で、彼女は恥ずかし気に肩を縮こまらせていく。
「これは、その、ほんの出来心で書いてしまったもので……今日は一人だったものですから、ちょっと思い切ってもいいだろうと……決して人に見せるつもりではなかったのですが……」
ごにょごにょと言い訳染みたことを俯きながら漏らすドロテ。尻すぼみに小さくなっていく声には、まるで悪戯を見咎められた子供のような弱々しさがあった。
どうやら彼女は自分の作品に自信がないようだ。慌てて探そうとしたのもそれゆえのこと。人目に触れないうちに回収したかったのかもしれない。それが結局はトワが集めて回ってしまい、意図せずして読まれることになってしまったということだろう。
トワはドロテがどうして自信を持てないか分からない。きっとそこには彼女なりの理由があるのだと思う。それ自体には、自分からあれこれ言う筋合いはないのかもしれない。
「せっかく読ませてもらったから感想を言わせてもらうけど――隠すには、ちょっと勿体ないと思うな」
「え……」
けれど、何の巡り合わせか唯一の読者になれたのだ。その感想を伝えることくらいは許されるだろう。
「二人の主人公の対立と葛藤、それが友情に変わっていく様。凄く緻密な感情表現ではっきりと想像できるようだったし……何より、ドロテちゃんが書きたいものを書いているのが伝わってきた」
人の心に訴えかけられるような文章を書くにはどうしたらよいか。それにはきっと積み重ねられた技術こそがものをいう部分もあることだろう。
しかし、良い文章を生むのはそれだけではない。筆者が何を書きたいのか、描きたい情景は何なのか。その意欲が文字の世界を彩る言葉を湧き立たせ、より綿密な作品へと昇華させていく。
トワが読んだそれには熱があった。言葉の限りを尽くして物語の世界を伝えようとする熱意が。だから、それを日の目を見ない場所に留め置くのは勿体ないと思う。
「もっと素直になってもいいんじゃないかな。ドロテちゃんが本当に書きたいものを書けたなら、それを認めてくれる人はきっといるはずだよ」
「私が書きたいもの……でも、そんな……」
思いもしない言葉にドロテは惑う様子を見せる。本当にいいのだろうか。思うがままに筆を執りたい気持ちと躊躇う気持ちがせめぎ合っているようだった。
「皆が皆、そうじゃないかもしれない。でも、私はまたドロテちゃんの物語を読んでみたいな」
「トワさん……分かりました! 私、もっと自由に書いてみます。私の書きたいものを、私の全力で!」
そこにトワの後押しが決定打となり、彼女の足を前へと進ませた。
創作とは自由だ。自分の好きなものを好きなように作る。自分の言葉が、彼女がより良い作品を書ける契機となれたら嬉しく思う。
「男子と男子の友情を、いえ、友情に留まらない耽美なるものを! このトールズにも布教してみせます! トワさん、次作が出来たら是非ご覧になってくださいね!」
「う、うん……?」
ただ、何やら変なスイッチでも押してしまったのだろうか。先とは打って変わってテンションが天井上がりのドロテに戸惑いを覚える。そこまで大層なことを言った覚えはないのだが。
「ああ、今まで頭の中に留めていたものを形にすると思うと……ぶぷっ! こ、こうしてはいられません! 早速執筆に入りますので、これで失礼します!」
謎のテンションのままにドロテは駆け足で去っていく。去り際に鼻血を流していたのは気のせい……ではないのだろう。興奮すると血が上りやすい性質なのかもしれない。トワはひとまずそう理屈付けて片付けることにした。
なんだか最後は呆気に取られてしまったが、結果的には丸く収まって何よりだ。ドロテがこれからどんな物語を紡いでいくのか。一人の読者としてそれを楽しみに待つとしよう。
寄り道の用事も片付いたことで、生徒会の業務に戻らなければ。ドロテの後を追う形で旧校舎から離れようとして――不意にとあることを思い出した。
「そういえば、最後の原稿用紙読めなかったね。どんな展開が続いていたんだろう?」
『さあ……まあ、また新しいのを見せてくれるみたいだし、その時にでも聞けばいいの』
ノイの言葉に確かに、と頷く。だからトワは深く気にしなかった。少なくとも、今この時は。
ドロテが持ち寄ってきた新作を読んで、彼女が盛大な苦笑いを浮かべるのはそう遠くない未来の話である。