バリアハート試験実習、二日目。
ホテルのロビーに集合したトワたちは、ルーファスからの使いより本日の課題を受け取った。使いの執事、アルノーが一礼して帰っていくのを見送り、早速封を開けて内容を確かめる。
「数はそこまで多くないね。手配魔獣の退治に……薬草探し? どうやら大聖堂からの依頼のようだが……」
「教会からなら、そこまで無理難題を押し付けてくるようなこともねえだろ。昨日みたいな面倒くせえ貴族様とかならともかくな」
昨日の貴族の依頼主を思い出してか、クロウが眉をひそめる。
特に何の脈絡もなく珍味を食したいと思い立って頼んだという依頼主。わがまま放題なその彼に振り回されてしまったことも、トワが疲労困憊に至った理由の一つであった。
その点、教会からの依頼というなら安心だろう。身勝手な人物に聖職者が務まるはずもない。少なくとも、昨日よりは気苦労せずに済みそうだ。
「でも、ちょっと普通じゃなさそうだね。取り急ぎって書いてあるし」
それはいいのだが、だからといって一筋縄ではいかない雰囲気だ。切迫した様相を感じさせる依頼文にトワは難事の気配を感じ取る。
「訪ねてみないことには詳しく分からないな。魔獣よりこちらを優先しようか」
「ああ、それがいいだろう。魔獣はいざとなれば領邦軍に押し付けられるしね」
もとより周辺地域の治安に関しては領邦軍の領分。トワたちが手配魔獣の方に手が回らなくても、本来なすべき者たちにお鉢が回るだけである。
たまには真面目に仕事すればいいさ、と揶揄するかのようなアンゼリカ。
どうやら彼女のクロイツェンの兵に対する評価は辛辣らしい。昨日の地下水路の件に関する対応を目にすれば、それも仕方ないが。
「両方とも無事に達成できれば、それに越したことはないけれど。じゃあみんな、そんな感じで今日も頑張っていこう」
応、とトワに答える三人。
幾度となく繰り返したその流れは彼女たちにとって珍しくもなんともなくなっていたが、今回はそれを感心したように眺める人たちがいた。
「いや、手際がいいものだ。ハインリッヒの奴も優秀な生徒を持てて鼻が高かろう」
うんうん、と頷くボリス子爵。
褒められるのは嬉しいが、この内の二人は件の腐れ縁が目の敵にする不良生徒である。何とも言えぬ気持ちにトワは曖昧な笑みを浮かべた。
昨晩はありがたいことに夕食をご馳走してくれたボリス子爵。ちなみにポケットマネーである。会計の際は隣の秘書ドミニクが目を光らせ、領収書を切ることを許さなかった。金銭面の信頼はないらしい。
そんな彼も一応は貴族である。同じホテルに宿泊していたこの愉快な主従は、どうやら今朝でチェックアウトするようだった。
「子爵のオッサンはもうパルムに帰るのか?」
「職人通りのお得意様も一通り回ったからね。急ぎの用はないから、少しゆっくりして昼前までには列車に乗ろうかと思っておるよ」
「流石に、郊外に釣りに出る時間はありませんよ」
じろりと向けられる秘書からの視線に、ボリス子爵は薄っすらと汗を浮かべ「はっはっは」と誤魔化すような笑い声。図星だったらしい。
「……駅前の河川でも駄目かね?」
それでも懲りないあたり、彼は筋金入りの釣りバカだ。
眉間を抑えて溜息を吐くドミニクに同情の視線が集まる。この自由人の手綱を握るのは並大抵の苦労ではないだろう。真面目な彼には心労が溜まっているのではなかろうか。
「ドミニク君とて、夜景撮影に繰り出したりするではないか。私ばかりが締め付けられるのは納得できんぞ」
「あなたが余計なことをやらかすから注意しているんですがね……」
「あはは……それはそうと、ドミニクさんは写真を趣味にされているんですか?」
拗ねた子供のように口先をとがらせる困った大人は置いておくとして、夜景撮影とは気になる話だ。話を振られたドミニクは照れ臭そうに頬を掻いた。
「ああ、まあ、ね。最近始めたばかりだから、あまり上手ではないけれど」
「いい趣味をしてらっしゃる。なに、楽しんでいれば腕前は後からついてきましょう」
なるほど、どうやら彼は彼なりに楽しみというものを持っていたらしい。
写真といえば、トールズでも生徒会のご近所である写真部のフィデリオがよくトリスタの風景を撮っているのを見かける。トワはあまり経験したことはないが、きっと打ち込めば楽しいものなのだろう。
気分転換になる趣味があるのはいいことだ。トワも落ち着いてゆっくりしたいときは釣り糸を垂らしたりしている。ボリス子爵ほど熱心ではないけれど。
「趣味は人の心を豊かにする。しからば、私が釣りに行くのもなんら悪いことではなくてだね……」
「はいはい。分かりましたから、せめて列車の時間には遅れないでくださいよ」
もっとも、それも度を過ぎれば他人の迷惑になってしまう。
だがまあ、節度ある範囲であれば問題はないだろう。諦めたように肩を竦めるドミニクにボリス子爵は表情を明るくする。分かり易い人だ。それが親しみやすさにも通じているのだが。
折り合いもついたところで、そろそろ出発するとしよう。
ホテルを後にしたトワたちは、一路大聖堂へと向かうのだった。
「……あれ?」
大聖堂までの道すがら。途中までは同道することになったボリス子爵と共に歩いていたところで、トワはふと遠くから聞こえる騒ぎに気付いた。
目を向けた先は貴族街へと続く道。遠目に人が集っている様子が見えた。いったいどうしたのだろうかと首を傾げていると、他の面々も続いてそれに気付く。
「朝から様子が変だね……何かあったのかな」
「さて、何か事故でもあったのか、どこぞの貴族が不祥事でもやらかしたのか。厄介ごとの類でなければいいんだが」
ちょっとした騒ぎくらいなら、どこの街でも起こり得るものかもしれない。
だが、ここは貴族中心の街バリアハート。しかも、その中でも貴族街での出来事ときた。妙な胸騒ぎを覚えてしまうのも仕方ないだろう。
「どうすんだ? 聖堂の方も急ぎの用らしかったが」
正直、判断に迷う。あまり闇雲に首を突っ込んで、どれも中途半端になってしまったら本末転倒。かといって目の前で問題が起きているのを捨て置くのも忍びない。
クロウの言う通り、教会からの依頼の件も懸念される。件の薬草探しというのがどのようなものになるかは分からないが、一筋縄ではいかない予感があった。
ひとしきり考えたトワは面を上げる。まずは動かなければ話にならない、と。
「様子だけ見に行ってみよう。問題なさそうならそれでいいし、もし収まりがつかなそうな事態だったら……その時はその時で考えようか」
「つまり、いつも通りってこったな。どうにも面倒ごとの匂いがするぜ」
「はは……ボリスさんたちはどうしますか?」
否定しかねるクロウの愚痴に乾いた笑みを浮かべつつも、ジョルジュがボリス子爵たちの方を向く。彼らも騒ぎの様子が気にかかるようだった。
「私たちもついていくとしよう。まあ、何か役に立つこともあるやもしれん」
ドミニクは少し不安げな様子であったが、ボリス子爵の言葉に対して反対はしなかった。余計なことに首を突っ込まないかという心配、かといって否定する理由も持ち合わせていなかったといったところか。
意見が纏まったところで足を貴族街の方面に向ける。
騒ぎの中心はさほど遠くなかった。通りに面して並ぶ邸宅の一つの前。そこで屋敷の主と思しき貴族の男性が、使用人を口汚く罵っているのが目に入ってきた。
「この度し難い愚か者めが!! 遅れるだけならまだしも、悪魔が出ただと!? 私を馬鹿にするのも大概にするがいい!」
「め、滅相もございません! 旦那様を馬鹿にするなんてそんな……」
「黙れ! その耳障りな口を誰が開けといった!」
恰幅の好い貴族の男性は相当頭に血がのぼっているらしく、周囲のざわめきなど意に介することもなく怒鳴り散らしている。それに使用人は顔を真っ青にし、跪いて許しを請うばかりだ。
何があったかは分からない。だが、あの使用人が貴族の逆鱗に触れたことにより、この朝の喧騒になったのは間違いないようだ。
状況の理解につながるものはないだろうかと、トワは人だかりのざわめきに耳を傾ける。しかし、そこから聞こえてきたのは期待したようなものではなかった。
使えない平民を掴んでしまうとは、運がないことだ。
早々に領邦軍へ引き渡してしまえばいいものを。
まったく平民にものを任せると碌なことにならない。
響いてくる声のどれもが貴族の正しさを疑っていなかった。騒ぎにつられてきただけで仔細など知るはずもないのに、悪いのは平民の方だと決めつけ、それを当然のように語っている。その口の持ち主もまた貴族であったから。
空恐ろしいものを感じた。どうして彼らは迷いもなく一方を悪と決めつけられるのか。どうして一人の人生を台無しにするようなことを平然と言えるのか。トワには理解できない。
「……いつか言っただろう? 君が思うよりも、傲慢な人間はいるものだ」
アンゼリカの表情は苦々しく、周囲へと向ける視線は険しい。
生まれ持った特権に疑問もなく浸り、何も考えることなく堕落してしまった人々。彼女が嫌悪する光景がそこにはあった。
貴族の街とは、こういうことか。
さも当然のように行われる平民への糾弾。そこに論理はない。あるのは絶対的な権力を背景とした「自分たちこそが正しく、優れている」という価値観だ。
彼らはもう、それに疑問を抱くことはないのだろうか。その価値観が既に歪んでしまったものであることにも気づかずに。
トワの心に暗澹としたものが広がる。これが多くの貴族の現実だというのなら、あまりに悲しく寂しいことだ。善き貴族も知るからこそ、彼女は尚更にそう思う。
「どうしようか。放っておくわけにもいかないけど……」
「多勢に無勢だな。下手に手を出して怪我をするのはこっちだぜ」
あの使用人は、このままでは碌に事情も聴かれないまま領邦軍に連行されてしまうだろう。それを見過ごすわけにはいかない。
だが、どうすればいいのか。助けるには状況が悪すぎた。
仲裁に入ったとしても、トワたちもまた平民だ。怒れる貴族が言葉に耳を貸すとは思えない。アンゼリカなら違うかもしれないが、彼女は他州の侯爵家で、その令嬢でしかない。内輪のことと跳ね除けられたら立ち入るのは難しいだろう。
何か、別の切り口から踏み込めないか。悩むトワたちに助け舟を出したのは、状況を見守っていた丸眼鏡の子爵であった。
「まったく、ゴルティ伯は酷い癇癪だね。相変わらず余裕が無いというか」
「お知り合いの方なんですか?」
「商用で付き合いが少しね。金遣いが荒くて、あまり良い関係ではないが」
呆れた口調の彼に驚きの目を向けると、そう言って肩を竦めた。
どうやら金払いがいいからといって良い客とは限らないらしい。おおらかで寛容なボリス子爵が良い関係ではないと評するのだから相当ではないだろうか。
怒り狂うゴルティ伯爵というその貴族を前に、彼は一つ提案する。
「ここは私が間に入るとしよう。顔を知っている相手の方がまだ話になる」
ありがたい申し出ではある。だが、それだけにトワたちは神妙な顔になってしまう。嫌な役目を押し付けるようなものだからだ。
「……よろしいのですか? まかり間違っても仲はよろしくないのでしょう」
「なぁに、力になれるかもなどといって言ってついてきた身だ。これくらいは協力させてくれたまえよ」
このまま手をこまねいていても事態は悪い方向に進むばかりだ。その打開につながる可能性があるならば、ここは厚意に甘えるべきだろう。
「お願いします」と感謝の念と共に頭を下げる。それを受けて頷いたボリス子爵は、ふらっとごく自然に群衆の中から一歩踏み出すと、その人好きのする笑みで怒れるゴルティ伯爵の前に割って入った。
「やあやあ、ごきげんようゴルティ伯。朝からお元気なことですな」
「何を……貴様、パルムのダムマイアー子爵!? 何故ここに……!」
「商談で来たところにたまたま通りかかりましてなぁ。往来で臣下を扱き下ろしていましたら、それはもう悪目立ちしてしまいますぞ」
第三者の登場に、ゴルティ伯爵にもようやく周りを見るだけの冷静さが戻ったのか。ざわめきに囲まれていることに気付き、赤黒くなっていた顔に羞恥の色がさす。これでは社交界の笑いものになるとでも思ったのかもしれない。
その羞恥に対する八つ当たり染みた矛先が向かうのは目の前の男であった。
「よくも私の前に顔を出せたものだな……! 染織物の買い付けを阻んで私に恥をかかせたこと、忘れたとは言わせんぞ!」
「あれは職人が親族の婚礼の為に用意したものだと、あの時に何度もご説明申し上げたでしょうに。ミラと権力で万事が済むとは思い召されるな」
確かに、良い関係ではないとは言っていた。
が、これは思っていた以上に険悪だ。爵位の差をものともしない喧嘩腰のやり取りに、トワはびっくりするやらハラハラするや忙しい。
丸眼鏡の奥でいつもの温厚な目を嘘のように鋭くし、全く物怖じせずに淡々と述べるボリス子爵。視線をへたり込む使用人に向けて「そして」と言葉を繋ぐ。
「怒りに任せて臣下を糾弾するのも感心しませんな。仔細は存じませんが、何やら損害を被った様子。それでは取り戻せる益も返ってきませんぞ?」
忠告のようでいて、その実煽り立てる言葉。相手は怒りに身を震わせる。
それはわざとなのだろう。「お前には関係ない」と突っぱねられる前に、相手を自分の立つ舞台にまで下ろすための話術。まんまとその術中にはまったゴルティ伯爵は、もうボリス子爵を無視することはできなかった。
なるほど、これは自分たちにはできない芸当だ。元から嫌われている人相手になら躊躇う理由もなし、苛立たせるくらい造作もないことである。
「くっ、この平民かぶれの貴族の面汚しめ……!」
勿論、頭に血が上った相手は罵詈雑言を吐いてこよう。
それに合わせてはいけない。あくまで冷静に、会話のペースを握って情報を引き出すこと。それがこの場において、使用人を助けるために必要なことだ。
「
だからボリス子爵は吐かれる暴言を柳に風と受け流す。
だが、この場にいるもの全てが彼のようにできるとは限らなかった。
「――今、何と言った」
ぞっとするような声に、トワは身を震わせた。
ゴルティ伯爵が「は……」と言葉を失う。その目が行く先は、ずっとボリス子爵の傍に控えていたドミニク。今まさに、底冷えするような言葉を口にした張本人だった。
すとんと表情が抜け落ちてしまったような顔。しかしながら、相対するものには分かるだろう。その奥に、御しがたいほどの激情が渦巻いていることを。
「な、なんだ貴様。秘書風情がこの私に……」
「たまたまだと? あれを、あんな真似を……偶然という言葉で片付けるというのかぁっ!!」
「ひいっ!?」
爆発した怒気にゴルティ伯爵が怯む。
あまりにも突然な変容。まさかドミニクがここまで怒りを露にするなんて。想像もしていなかった光景に、トワたちも咄嗟にはどうするべきか分からず立ち竦んでしまう。
「ドミニク君!!」
動けたのはボリス子爵だけだった。声を荒げる自分に負けないくらいの大声に呼ばれ、彼もびくりと動きを止めた。
「それ以上はいかん……私たちに咎める資格はないのだ」
「……っ!」
言い聞かせる言葉にドミニクは顔を歪めた。
理解はできても、納得はできない。振り上げた拳を下ろす先が見つからないような、やり場のない感情が彼の中に透けて見えた。
ひとまず難を逃れたゴルティ伯爵であったが、意図せず逆鱗に触れてしまったことにより萎縮してしまっている。周囲の群衆にも困惑が広まっており、どう収拾をつけたものか悩ましいところだ。
その答えは、トワが悩んでいるうちに期せずしてやって来た。
「朝から騒々しい……これはいったい何の騒ぎだ!」
新たな声にどよめきが生まれる。まるで悪戯を見咎められたように。
声の主は、金髪が目を引く少年だった。まだトワたちと同じくらいか少し下に見える彼に、どこか見覚えのようなものを感じる。ごく最近に、よく似た人を見たような。
隣でアンゼリカが「おや」と眉を上げる。その声には予期せぬ幸運を喜ぶような響きがあった。
「真打登場、かな。女神も粋な計らいをしてくださる」
どういうことかと首を傾げつつも、視線を元に戻す。そこには少年の登場に顔を青くし、冷や汗を垂れ流すゴルティ伯爵の姿があった。
――――――――――
ユーシス・アルバレアは、ありていに言って最悪の気分だった。
それは来る高等学校の受験に対して少なからずストレスを感じているのもあるだろうし、この前の社交界における表面ばかりのおべっかを使ってくる連中に辟易していたのもあるだろう。
だが、それもこれも今目の前にいる男が起こしてくれた騒ぎに比べれば些細なことだ。話を聞く前に群衆を追い散らす必要があった時点で論外である。
しきりに汗をぬぐうゴルティ伯爵から聞き出したことの経緯を整理し、ユーシスは確認を取るように「それで」と切り出した。
「貴方がオーロックス砦に使いに出した使用人が、予定通りに戻ってこないばかりか預かりものを紛失したことで腹を立てていたと?」
「そ、そうですとも! 悪いのは全てこの平民なのです!」
馬の世話をしてやろうと外に出たところで聞きつけた騒ぎ。朝から何事かと駆けつけてみれば、火元たるゴルティ伯爵の言い分はそのようなものであった。
それだけなら、まだよかった。そもそもゴルティ伯爵とて我を忘れるほどに怒り狂いもしなかっただろう。
問題は、その使用人が口にした紛失の原因であった。
「事もあろうに『悪魔が出た』などと! 馬鹿馬鹿しい! 横領でもしようと考えたのだろうが、そんな浅知恵で騙そうなど私を虚仮にしているのか!?」
「ち、違うのです。旦那様、私は本当に……!」
夜の峡谷道で悪魔に出くわし、命からがら逃げてきた。
普通に考えれば、そんな言い分はまともに聞き入れられるはずがない。ゴルティ伯爵が馬鹿にされていると思うのも仕方ないだろう。
だが、ユーシスの目から見て嘘をついているようにも見えなかった。そんな嘘を口にするメリットがないこともそうだが、それ以上に目に残る恐怖の色が本物だったからだ。まるで正真正銘の化け物に遭遇してしまったように。
この使用人――ブルーノとは個人的に知らない仲でもない。為人からしても横領などするようには思えず、彼が本当に
「少しは落ち着くがいい――確かに俄かには信じがたいが、その者が横領したというのも邪推が過ぎる。まずは何が起きたかを確かめてからでも話は遅くないだろう」
「ユーシス様、何を悠長な! そんなことをしている間に、この愚か者が盗んだものを隠しでもしたらどうするのです!?」
逼迫した様子のゴルティ伯爵に眉をひそめる。
彼はいったい何をそんなに焦っているのか。まるで、ブルーノに罪を着せることでこの一件を早く終わりにしたいような……
「ふぅむ……ところでゴルティ伯、どうしてわざわざ夜半に砦へ使いを出したのですかな?」
ユーシスが疑念を覚えていると、横合いからどこか気の抜けた、しかし油断ならない狡猾さを感じる狸のような男が割って入ってくる。
パルムの領主子爵、ボリス・ダムマイアー。詳しくは知らないが、貴族社会では煙たがられていると聞く男だ。
どうやらユーシスがやってくる前にゴルティ伯爵と一悶着起こしていた様子。ブルーノを庇ってくれていたようなので、この場においては信用してもいいと思う。
「紛失されてそれほどお怒りになるものならば、危険も少ない日中に済ませておけばよかったでしょうに。それとも、何か不都合でもあったとか?」
そんな彼からの質疑にゴルティ伯爵は表情を苦々しくする。痛いところを突かれたことがよく分かる反応だった。
「き、貴様にそんなことを教える義理はない! 第一、街道を通っていれば魔獣に襲われることもないはず。それを悪魔だなんだと言うのは、この平民こそ道を外れてやましいことをしていた証ではないのか!?」
「そ、それは……」
その拒絶は自ら後ろ暗いことがあると明かしているようなものだった。
だが、同時にブルーノもゴルティ伯爵の言い掛かりに言葉を澱ませた。それは峡谷道を真っ直ぐに帰ってきたわけではないと認めるものだ。
「これでお分かりでしょう! こやつを早々に罰することで全て解決するのです。こんな馬鹿げた騒ぎ、さっさと終わらせようではないですか!」
誰が騒ぎにしたのか。よく言えたものだ。
内心で毒づきながらもユーシスは手詰まりを感じていた。相手は確実に何かを隠しているが、ブルーノの行動も不可解な点があるために庇いきれない。この件については分からないことが多すぎた。
ゴルティ伯爵の裏を探るか、ブルーノから事情を聴くか。事態を解明するにはそれが必要だが、まずはこの場を乗り切らねばならない。
「ご高説、大変結構。だが、それで本当によろしいのかな?」
どうしたものか考えていたところで、思わぬ声が耳に入る。
覚えのあるそれに、まさかと思いながらも振り返る。果たして、その目を向けた先にいたのは想像通りの人物であった。
「な、なんだ貴様は。いきなり口を出してきおって……」
「ログナー嬢? どうしてここに」
文句をつけようとしていたゴルティ伯爵が「はっ!?」と素っ頓狂な声をあげる。無理もあるまい。まさかこんなところに侯爵家の息女が現れるとは自身も思っていなかった。
「やあ、久しぶりだねユーシス君。私の方は学院の用事でちょっとバリアハートに来ていたんだが……まあ、今はいいだろう」
相も変わらず令嬢という言葉が似つかぬ様子の彼女は、確かに高等学校の制服を着ているうえに学友と思しき者たちと連れ立っていた。嘘ではないだろう。
その制服に見覚えがあることや、学院の用事でどうして公都にまで足を延ばしているのかとか、気になる点は多々あれ肩を竦めて流された。言葉を区切った彼女がゴルティ伯爵を見据え、その眼力に相手は一歩後ずさる。
その距離を詰めるように、アンゼリカの学友の内から一人が前に進み出る。平民らしい、栗色の髪の小さな少女だった。
「伯爵閣下の事態を早急に収めようとするお気持ちは分かります。ですが、そう焦ってご自身が損をすることもないのではありませんか?」
慇懃ながらも堂々とした態度。伯爵位の貴族を相手に欠片も動じることなく意見する彼女に面食らう。言われた側も、あまりに自然な態度に呑まれてしまっていた。
「ここで使用人の方を捕らえたとしても、閣下の失くしたものは返ってこないでしょう。事態を詳らかにし、失せ物も返ってくるならそれに越したことはないかと」
「な……そ、それは……」
「閣下自身、使用人が罪を犯したとなれば醜聞となります。無用の誹りを避け、損害を避けられる可能性があるならば、考えを改めていただく理由にはならないでしょうか?」
言葉に詰まるゴルティ伯爵。彼はそれに否と答えることが出来なかったのだ。
上手い言い回しだと感心する。明らかに事態の解決がメリットにつながることを示せば、それを否定することは難しくなる。解決することで不都合なことがあると声を大にするようなものだからだ。
「まあ、その悪魔というのが何かは分かりませんが、強大な魔獣である可能性もあるわけですし」
「もしそんなのがうろついているとしたら、アルバレアの坊ちゃんとしてもお困りではないですかね?」
ダメ押しをするように恰幅が好い青年、そして銀髪の青年が続く。
坊ちゃん、という呼び方には苛立つものがあったが、その意図は相違なく理解できた。示し合わせたようにユーシスは期待された通りの口を開く。
「そうだな。民に危険が及ぶ可能性があるならば、その存在の有無を確認しないわけにもいかないだろう」
『悪魔』が何であるかはともかく、少なくとも良い存在ではないだろう。峡谷道にも人通りはある。治安に影響する可能性が否定できない以上、調査したうえで事実を確認し、場合によっては排除が必要だ。
尤も、使用人の証言だけで領邦軍を動かすことは叶わないだろうが、それをわざわざ教えてやる理由もない。どちらにせよ領邦軍に頼るつもりなどないのだから。
必要なのは、彼女たちが動くための大義名分。
統治者たる公爵家の人間の言葉だ。最低限の後ろ盾くらいにはなる。
「と、いうわけだ。どちらにせよ調査には出向くから、ついでに失せ物探しをするくらい手間ではないよ。ああ、ご心配なく。これでも全員、士官学院生なのでね。自分の身を守るくらい訳はない」
現れるや否や、たちまち理論武装して主張を打ち崩してきた相手にゴルティ伯爵は口をパクパクさせるばかりだ。鮮やかな手口に反論する暇もなかった。
「ぐっ……だ、だが、あんな妄言を真に受ける必要など……」
「ふーむ。残念ですがゴルティ伯、それは通らないと思いますぞ」
それでも承服しがたいものがあったのだろう。絞り出すように反論しようとするゴルティ伯爵だったが、それは横合いからボリス子爵に遮られた。
「確かに悪魔の存在は不確定なものですが、あなたが言う使用人の罪も状況からの推測に過ぎない。どちらも可能性の段階である以上、一方のみを否定するのは筋が通らんでしょう」
使用人の証言や行動には懐疑的になる部分もあるが、横領というのも言い掛かりに等しい。確固たる証拠はどちらにもなく、だからこそどちらも否定することはできない。
逃げ道も塞がれたゴルティ伯爵はぐうの音も出せない。彼にはもう、首を縦に振る以外の選択肢は残されていなかった。
「ええい、そこまで言うなら勝手にするがいい! 期待などしてやらんからな!」
最後に捨て台詞を残し、ゴルティ伯爵は肩を怒らせながら邸宅に戻っていった。
やれやれ、と一同揃って息を吐く。まずは上手く凌ぐことが出来たといったところだろう。ブルーノの拘束を免れただけでも上出来だ。
「何とかなってよかった。上手くいくか心配だったもの」
「よく言うぜ。即興であんな口八丁を思いついた挙句に、公爵家の名前まで利用しておいてよ」
ほっと安堵する少女に対し、銀髪の青年が呆れた目を向ける。
ユーシスとしても彼の意見に大いに頷くところだ。まさか自分に大義名分を口にさせるところまで少女の案とは思っていなかった。見目に反して胆力がある上に弁論もたつらしい。末恐ろしいことである。
「あの……皆さん、ありがとうございます。ユーシス様も私なぞのためにわざわざ……」
ひとまず窮地を逃れたブルーノが深々と頭を下げる。先ほどまでは蒼白く絶望に染まっていた顔も、幾分か色を取り戻したように見える。
それはいい。いいのだが、彼にも苦言を呈さなければならない部分はあった。
「あなたが難癖をつけられなければ、もう少し楽になったとも思うがね。どうしてわざわざ街道から外れなどしたんだい?」
ゴルティ伯爵の言い掛かりなど、本来ならユーシスが出てきた時点で否定できたはずだった。それが拗れてしまったのはブルーノに不審な点が有ったからだ。
今になって彼がやましいことをしていたとは思っていない。だが、無実であることを明らかにするためには聞いておかなければならないことだ。
視線が集まる。ブルーノは何かに悩んでいるようだった。
やがて決心したように、彼は重々しく口を開く。
「助けていただいておいて厚かましいのは承知の上です。ですが、それでもどうかお力添えいただきたい」
滲み出る切実さがあった。どうしても諦められない思いがあった。
ユーシスは理解する。これは、厄介な問題が複雑に絡み合ったものなのだと。
「お願い致します。どうか、どうか妻の命を救うのに力をお貸しください……っ!」
――――――――――
偶然の助けもあって、何とか罪の擦り付けを防ぐことできたトワたち。彼女らは使用人――改めてブルーノと名乗った彼によりバリアハート大聖堂へ案内されていた。
奇しくも依頼が出されていたのと同じ場所。そして、そこを訪れる理由もまた依頼と無関係ではなかった。
「なるほど、そのようなことが……しかし感心せんな。あれほど無理はしないよう言い含めたというのに」
「申し訳ありません大司教様。ですが、妻の容態を思うといても立ってもいられず……」
大聖堂の一室。ここの責任者、アモン大司教はブルーノから事情を聞いて彼の浅慮を咎めるが、それ以上は何も言わなかった。気持ちは十分すぎるほどに分かったからだ。
もともと治療などに使われている部屋なのだろう。奥にはいくつかのベッドが並んでおり、その一つに女性が横になっていた。
血色は失せ、息も浅い。一目で重篤と分かる彼女こそがブルーノの妻だった。
「その、奥さんはいつから?」
意識はなく、病状は思わしくないように窺える。気遣わしげなジョルジュの問いかけに、ブルーノは病に苦しむ妻を痛ましく見つめながらも答えた。
「つい三日ほど前です。妻が――カーテが突然倒れ、医者に駆け込んだはいいものの、そこでは匙を投げられてしまいました。もはや女神に縋る思いで教会を頼り……」
今に至る、というわけか。
納得がいく気持ちだった。七耀教会は確かに昔から医療――特に内科や薬学について優れた知見を有していることで知られているが、近代医学の発展に伴い昨今では医師に診察してもらう方が一般的だ。
なのに何故、カーテはこうして教会のベッドで横になっているのか。答えは単純だ。彼女はもう医師の力だけではどうにもならない状態なのである。
トワにはそれがよく分かった。カーテの容態を見て、彼女の感覚が告げていたのだ。これはただの病気ではないと。
「どこの医者だ、それは。患者を見捨てるなど……」
「ユーシス殿、どうか責められるな。この病は市井の……いや、例えどれほどの名医であっても手の施しようがないだろう」
金髪の少年、もとい、ルーファスの弟であるユーシスが不機嫌そうに眉をひそめる。アモン大司教はそんな彼に如何ともしがたい事実を告げた。
どういうことか。この場の殆どの人間からの疑問に大司教は言葉を続ける。
「《奈落病》と呼ばれる、徐々に衰弱して死に至るという恐ろしい病だ。三十年以上前に流行した奇病なのだが、現在においても医学的な見地から病根は定かではない」
病根不明。それだけで奈落病の恐ろしさを皆が理解するには十分だった。
細菌に感染したのが原因ならば、それを取り除けばいい。内臓に変調をきたしたなら、それを整えればいい。ざっくり言って治療とはそういうものだ。
だが、原因が分からない病などどうすればいいのか。どうしてそうなるかもわからず、ただ痩せ衰えていくばかり。医師が早々に匙を投げるのも無理はないだろう。
「なんという……治療方法はないのですか?」
「幸いにして特効薬は発見されている。とある薬草を用いたものなのだが……」
「ユピナ草、ですね。高地に生息し、夏季に花を咲かせる」
トワが難しい表情で応じる。答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。アモン大司教は皺の刻まれた顔に僅かながら驚きを浮かべた。
「博識なことだ。そう、未だ原理は解明されていないが、そのユピナ草を用いた薬で奈落病は治すことができると知られている」
「んだよ、ビビらせやがって。治し方があるなら問題はないじゃねえか」
クロウは拍子抜けしたように言うが、大司教もブルーノも、そしてトワも表情が晴れることはなかった。三人の反応に他の面々は疑問と不安を覚える。
確かに治療方法はある。ただ、それが可能かどうかは別の話なのだ。
「ユピナ草は過去にほぼ絶滅状態に陥ったんだ。奈落病を恐れた権力者や、それに付け入って法外な取引を狙った人たちによる乱獲で」
人の業が感じられる話だった。トワの口にも自然と悲しみが滲む。
病を恐れたがためならまだ分かる。占有は感心しないが、死を逃れる術を手元に置いておきたい気持ちは理解できた。
だが、その恐れを食いものにしようとした人々には怒りとも憐みともつかない感情を抱かざるを得なかった。挙句の果てにユピナ草を根絶やしにし、一時は実質的な不治の病としたのだから救いようがない。
「今は少しずつだけど生息が再確認されて、七耀教会で管理されているはずだけど……」
そうした過ちから、奇跡的に自生が再確認されたユピナ草は教会によって管理されるに至った。必要な人のもとに、必要な分だけ。やがて奈落病の発症件数もごく僅かとなり、今や忘れられかけた過去の出来事となりつつある。
しかし、病自体が撲滅されたわけではない。現にこうしてカーテは苦しんでいるのだから。
その苦しみから救う術も教会に残されているはずだ。だが、忘れられかけていたという事実が状況を悪い方向に捻じ曲げてしまっていた。
「アルテリア法国には既に連絡した。だが、如何せん病状が進行してしまっている……おそらくは今日明日が峠。ユピナ草はそれまでに間に合うまい」
「妻はきっと私に気を遣って辛いのを隠していたのです。お互いに旦那様に仕える身、忙しいのは百も承知ですから……」
それが、まさかこんなことになるとはこんなことになるとは。ブルーノは後悔してもしきれないとばかりに首を横に振った。
奈落病の知識が人々から薄れてしまっていたのも、ここまでになるまで手が施せなかった一因だろう。罹患した本人にしても、最初に診察した医師にしても、もう少し早い段階で気付けていたら深刻な事態にはならなかったかもしれないのに。
「くっ……何か手立てはないのか?」
「一つだけ。大聖堂の記録によると、オーロックス峡谷にも過去にユピナ草が生息していたことがあるそうなのだ。とうの昔に姿を消してしまったようだが、今ならばあるいは……」
アモン大司教が口にした僅かな希望。
それを耳にして、頭の中で諸々の事情が一つに繋がった。
「じゃあ、ブルーノさんが峡谷道から外れていたのは……」
「はい。どうにかユピナ草を見つけられないかと……大司教様には危険だからやめておくよう、口を酸っぱくして言われてはいたのですが」
「なるほどな。俺たちに出された依頼も、それを探し出すための人手が欲しかったからか」
ブルーノが砦からの帰り道を逸れたのは、妻を救うための薬草を探すため。そこで悪魔と思しき何かと遭遇してしまい、ゴルティ伯爵の荷物を紛失したことで今朝の騒動に繋がったわけだ。
大聖堂からの依頼もこれに関することで間違いないだろう。
魔獣が跋扈する峡谷における薬草の捜索。少しでも人手が欲しい状況で、トワたちのことを聞きつけたなら渡りに船といった心地に違いない。
実際、その通りだったのか。アモン大司教は重々しく頷いた。
「発見できる可能性は限りなく低いだろう。だが、救えるかもしれない命を見過ごすわけにもいかん。どうか頼めないだろうか?」
「勿論です。ですが……」
断るつもりなど毛頭ない。だが、どう考えても手が足りなかった。
ユピナ草を探し出すだけならまだしも、トワたちはゴルティ伯爵の荷物を見つけてブルーノの潔白も証明しなければならない。彼が言う悪魔が何であるかも突き止める必要があるだろう。
分散して当たるにしても、不測の事態を考えるとそれは躊躇われた。仮に悪魔が大型の魔獣であったとしたら、少人数であたるのは危険すぎる。
誰か、他に助けになってくれる人はいないだろうか。
そんなトワの悩みに応えるように、病室の扉が勢いよく――ではなく、そっと開かれた。
「話は聞かせてもらったわ!」
文面上では大声に見えるかもしれないが、実際はかなり声を落として彼女は現れた。扉の隙間からひょっこり覗くツインテール。昨夜ぶりの再会にトワたちは目を見張る。
「エステル君? どうしてここに」
「まあ、こっちにも事情があってね。取りあえず外で話そう。ここだと、あまり患者によろしくないから」
続いて現れたヨシュアがそう言った。
確かに、これ以上病室に押しかけては患者の体に障る。カーテを看るアモン大司教に頭を下げ、ひとまずは場所を移すことにするのだった。
「そっか、エステルちゃんたちの方にも薬草探しの依頼が」
「うん。それがこんなことになっているとは思いもしなかったけど……」
所移って大聖堂の広間。トワとエステルは互いに難しい表情を浮かべた。
大聖堂が依頼を出したのはトワたちだけではなかった。遊撃士であるエステルたちの元にも協力を求める声が届いていたようで、この再会は必然だったのかもしれない。
尤も、想定していた状況と現状は大きく異なっている。その事情についても彼女らは大まかながら把握していた。
「ボリス子爵から聞いたよ。朝から随分と大変だったみたいだね」
「まあな。俺たちは最後のダメ出しをしたくらいだが」
「そんなことはあるまい。私やアルバレア公のご子息だけでは、あの場を凌ぐのは難しかっただろう」
病室に全員で押しかけるわけにもいかないから、と外で待機していたボリス子爵とドミニク。大聖堂を訪れた遊撃士たちは彼から何が起きたかを聞いていた。
情報のすり合わせが省けるのはありがたいことだ。早速とばかりに年長者のトヴァルが行動の指針を練りにかかる。
「事態は一刻を争うみたいだからな。ここは共同戦線ってことでいくとしよう」
「それは、もちろん。どういう分担でいくかが重要でしょうけど」
「薬草の捜索、失せ物探し、正体不明の悪魔の捜査か。受け持つなら失せ物と悪魔の方は一緒にした方がよさそうだが……」
ブルーノは悪魔から逃げるときに荷物を紛失したという。ならば、その痕跡がある近くに失せ物もあると考えていいだろう。それらをセットで考えるのは妥当な判断だ。
肝心なのは、トワたちとエステルたち、どちらがどちらを担うか。
考え込むトヴァルにトワは進言することにした。
「それなら、ユピナ草の方は私たちに任せてください」
「そりゃ構わないが……またどうして?」
理由は単純明快だ。どちらが適任であるかという話に尽きる。
「私ならユピナ草を実際に見たこともありますし、場所にもあたりをつけて探せると思います。それに、魔獣や失せ物の捜索は遊撃士の領分でしょうし」
実物を目にしたことがあるかどうか。薬草を探し出すうえで、それは大きな違いとなる。生息環境などについての知識も持ち合わせているトワがそちらに回った方がいいことは明らかだろう。
加えて、魔獣に関することや紛失物の捜索は遊撃士の十八番。彼女たちに任せて間違いはないはずだ。
それぞれの持つ知識、技能を考慮して、これが最適な割り振りだとトワは考える。しばらく吟味するも、その意見に反対する言葉は出なかった。
「にしてもまあ、奈落病やら薬草についてもよく知っているもんだ。かなり稀少なんだろ? そのユピナ草ってのは」
「うん。ユピナ草は故郷で見たことがあるから」
「え? トワの故郷って離れ島じゃなかったっけ」
確か高地に生息すると言っていたはずなのに、と首を傾げるエステル。海のど真ん中の島で見たことがあるというのも変な話ではなかろうか。
矛盾を突かれて少し焦るトワ。運がいいことに、言い訳を弄する必要はなかった。離れたところで何某か相談していたユーシスとブルーノが近付いてくる。
「ログナー嬢、そちらの話はついたのか?」
「ああ、まあね。ユーシス君の方はどうだい?」
「ブルーノ殿には家で大人しくしていてもらうことにした。ゴルティ伯爵が余計なことを仕出かさない保証もない。その間に、こちらで彼の怪しいところを探るつもりだ」
ゴルティ伯爵は何か裏がある様子だった。警戒するに越したことはないと思われる。危篤の妻を前に大人しくしていろと言うのは酷かもしれないが、それが彼のためだ。
ユーシスも出来得る限りのことはする心積もりの様子。頼もしいことである。
「士官学院に遊撃士の方々、どうかよろしくお願いします。大した情報も提供できずに申し訳ありませんが……」
「気にしないで。大雑把な位置と失くした物の形が分かれば十分よ」
「殆ど何も分からないことも、たまにはあるからね。それに比べたらマシかな」
既にブルーノから悪魔らしきものに遭遇した場所や、失せ物の形状については聞き出している。場所については朧気にしか分からないが、探すべき物についてははっきりした。どうやら茶色のトランクケースらしい。
経験を積んだ遊撃士にとって、それだけの情報があるなら十分だ。
自信満々に胸を叩くエステルに少しは元気づけられたのだろうか。ブルーノも多少は表情が明るくなったように見えた。
「うむ、どうやらもう私が手を出す余地はなさそうだ。最後まで付き合えないのは忍びないが、そろそろお暇するとしよう」
そう言って帰り支度を整えたボリス子爵は、少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「あまり役に立てなくてすまなかったね。もう少し上手くやれればよかったのだが」
「……私が頭に血をのぼらせたのが悪かったのです。工場長が謝る必要はないでしょう」
ゴルティ伯爵の言葉に激昂して以降、口を噤んで押し黙っていたドミニク。ようやく開かれた彼の口からの言葉に、ボリス子爵は淡い笑みを浮かべた。
「なに、君の気持ちを推し量れんかった私の落ち度でもある。嫌な思いをさせてしまって悪かったね」
仕える相手からの謝意にドミニクは「いえ……」と短く答えるのみだった。その表情は酷く複雑なもので、彼が何を思っているのかを読み解くのは難しかった。
きっと、この二人にもいろいろな事情があるのだろう。トワたちやエステルたちがそうであるように、これまでの人生で積み重ねてきたものがあり、その中にはおいそれと口にはできないこともあるのかもしれない。
彼らが何を抱えているかは分からない。
ただ、何時かその助けになることが出来たらいいなとトワは思う。
「では皆様方、いずれまたの機会に」
「はい。どうか気をつけてお帰りになってくださいね」
「またね、工場長さん」
手を振って大聖堂を後にするボリス子爵たちを見送る。おそらく、また近いうちに会うこともあるだろう。こうも付き合いが続くとそんな予感があった。
ひとたび場が動き始めれば他もそれに倣う。ボリス子爵に続いてエステルが「よっし!」と気合を入れる。
「それじゃ、こっちは先に出発するわ。早いところブルーノさんの無実を証明しないと」
「気を付けてね。何が待っているか分からないから」
どちらが危険かと問えば、それはエステルたちの方だ。
大型の魔獣ならまだいい。ただ、事がそう単純に済まない可能性もある。注意して過ぎたることはないだろう。
「ま、危なそうだったら大人しく引き返すさ。そうならないことを祈るけどな」
「そちらも険しいところに立ち入ることになりそうだ。お互いに女神の加護を」
エステルたちもそれは承知の上だ。
とはいえ、危険な魔獣に出くわしたとしても、今回は無理に討伐することはない。ブルーノが遭遇した何かを特定できればいいのだから。
それを弁え、引き際を誤らなければ問題はない。経験豊富な遊撃士に今更言うことでもないだろう。
ヨシュアの言葉を皮切りに峡谷道へと向かう頼もしいその背中を見送る。彼女たちを心配する必要はなさそうだった。
「こちらもそろそろ行かせてもらおう……すまないが、よろしく頼む」
「これも何かの縁だろう。気にすることはないさ。それより、ブルーノさんたちの方を気にかけておいてくれたまえ。ついでにあの伯爵の裏もね」
「……ああ。アルバレアの名に懸けて、最善を尽くそう」
ブルーノを連れて流れに続こうとしたユーシス。彼の顔には不甲斐ない思いが滲んでいた。領民の窮地に自分だけではどうにもならないことを悔やんでいるのかもしれない。
それは好ましい生真面目さだった。きっとアンゼリカと同じように、彼も彼なりの貴族としての誇りを持っているのだろう。
ブルーノが糾弾されている場に迷いなく割って入り、今もこうして力を尽くそうとしている。交わした言葉は少なくとも、彼なりの矜持があることを理解するには十分だった。
「学友の方々も、改めてよろしく頼む」
「私からも……どうか、どうか妻のことをお願いします」
最後に深く頭を下げたブルーノを伴って、ユーシスもまた大聖堂を後にした。
さぁて、とクロウが肩を回す。残った自分たちもそろそろ動き出す頃合いだろうと。
「手古摺りそうだが、人の命が懸かっているとなりゃ本気でいかねえとな。トワ、先導は任せたぜ……おい?」
返事がないことを不思議に思い振り返るクロウ。そこでトワは、後ろ髪を引かれるようにカーテが伏せる病室に目を向けていた。
既に他の三人は足を動かし始めていたが、彼女だけがそこに立ち止まったままだった。クロウたちには見えない何かが、彼女を押し留めていた。
「トワ、どうかしたのかい?」
「……うん、ちょっとね」
本当に、これでいいのだろうか。
トワは悩んでいた。皆が皆、この事態を何とかするために全力を尽くそうとしている。それなのに自分は、このまま行ってもいいのだろうか。
『その、トワ。無理をすることはないの。ユピナ草を見つけられれば、それでいいんだから』
息を潜めていたノイが見かねたように声をかけてくる。
よくよく自分の気持ちに気付いてくれる姉貴分の心遣いはありがたい。しかし、それはトワの懊悩を解消するには至らなかった。
天秤が揺れる。畏れか、心か。傾いては揺れ戻って思いは定まらず、そうこうしているうちにも足は三人を追ってゆっくりと動き出す。
迷いを抱えながらも大聖堂の外へ。そこでトワたちはふと立ち止まった。
先に出て行ったユーシスとブルーノ。大聖堂から少し離れた彼らのもとに、二人の幼い子供たちが駆け寄ってきていた。
「アネット、ラビィ。何故ここに……」
「ユーシス様……その、お父さんが朝になっても帰ってこないので、お母さんのところならもしかしたらって……」
二人は、どうやらブルーノの子だったらしい。しっかりした雰囲気の女の子と、まだ日曜学校にも行ってなさそうな男の子。姉弟はしっかりと手を繋いでおり、それが少しでも不安を紛らわすためであることは傍目にも明らかだった。
「ごめんなさい。ちゃんとお留守番してるって約束したのに……」
「……いや、悪いのはお父さんの方だ。帰れなくてごめんな」
「ねえねえ、おとーさん。おかーさんはいつ元気になるの?」
舌の足らないラビィの声にブルーノは表情を凍らせた。
横のユーシスも沈痛の面持ちであり、トワたちでさえも胸を鷲掴みにされる思いだ。父親である彼の気持ちは察するに余りある。
「カーテは……お母さんは、まだ具合が悪いんだ。でも、今は大司教様が看てくださっている。ユーシス様のお知り合いも手伝ってくれているから、すぐに良くなるさ」
「ほんとー!?」
「ああ、だからお家で女神様にお祈りしような。お母さんが早く治りますようにって」
だが、ブルーノは努めて明るい声でそう答えた。
それは父親としての強がりだった。妻の容態は重く、自身も謂れのない罪を着せられそうになって心身は摩耗している。それでも子供を不安にさせないために、彼は精一杯の意地を張っていた。
ラビィはそんな父の言葉に素直に頷いていたが、アネットは薄々と何かを感じていたのかもしれない。その表情は決して明るいものではなかった。
ただ、察しのいい娘は父親の気持ちにも思い当たるところがあったのだろう。いたずらに事情を聞こうとはせず、家路を促す父についていく。
それを見送ったユーシスは、決然とした表情で貴族街へと足を向ける。行く先はアルバレアの城館だろうか。その足取りには並々ならぬ思いが籠っていた。
「……お子さんがいるとは聞いていなかったね。危険を承知で薬草を探し出そうとした気持ちも分かるな」
「ああ。これは、ますます責任重大だね」
意図せずして目にすることになった一幕。肩にかかる重さは増したように思えるが、それを苦に思うものはいなかった。むしろ意思を固める契機となったと言える。
そして、それはトワにも言えることだった。
揺らいでいた天秤が傾ぐ。彼女は瞳から迷いを消し去った。
「――ごめん、すぐに戻るから!」
『あっ、トワ!?』
踵を返す。引き留める声も聞かず、トワは大聖堂に駆け足で舞い戻った。
他には目もくれず真っ直ぐに病室へ。さして時間は経っていない。先ほどと同じく、そこには横になるカーテとそれを看病するアモン大司教がいるのみ。シスターなどは席を外していた。
都合がいい。大司教である彼だけならば、あまり問題にはならないだろう。
「どうかしたのか? 聞きたいことがあるならば……」
「アモン大司教」
戻ってきたことを不思議に思う彼の言葉を遮る。
ともすれば失礼に受け取られかねなかったが、大司教は何も言えなかった。彼女の瞳の中に強い意志の光を見たから。
「これから目にすることは、どうか他言無用に願います」
伏せるカーテに近寄る。トワは感じていた。血色が失せた彼女の体から、生命の源が零れ落ちていくのが。罅割れた器から水が滴るように。
自分に何ができるかは分かっていた。分かっていながら目を背けようとしてしまった。姿のない恐怖に怯え、自分可愛さに力を尽くそうとしなかった。
怖いのは変わらない。気を抜けば足が竦みそうになる。
でも、今ここでやらなければ自分は絶対に後悔する。例えこの一件がどのような結末を迎えようとも、それだけは確かだから。
――あの家族の笑顔を取り戻すために、この《力》を振るおう。
「おい、急にどうしたって……」
突然のことに出遅れたクロウたちが病室に辿り着く。
瞬間、そこに生命の息吹が渦巻いた。
ザクセン鉄鉱山の時と同じく、栗色の髪を白銀に染めたトワのもとに力が集う。それは大地からであり、空からであり、あまねくものから少しずつ貰ったもの。彼女の中で合わさり、増幅された力は一つの大きな輝きとなる。
黄金色のそれは、生命の輝きであった。
あまりの光景に誰もが言葉を失っていた。クロウも、アンゼリカも、ジョルジュも、アモン大司教も。目の前で行われる御業に、ただ目を奪われていた。
黄金の燐光を纏った手がカーテにかざされる。光が蒼白い顔をした彼女に溶け込んでいく。ゆっくりと、壊れかけの器に水を注ぐように。
やがて全てが溶け込むと、カーテの容態は目に見えて変わっていた。苦しさに歪んでいた顔は幾分か和らぎ、呼吸も随分と深く安定している。
ふう、と一息つくトワ。白銀の髪は再び栗色に戻り、その身から放たれていた神威が霧消する。クロウたちは幻でも見ていた心地だったが、今起きたそれは紛れもなく現実であった。
「これでもう二、三日は大丈夫だと思います。対処療法で、根治にユピナ草が必要なのは変わりありませんが……」
アモン大司教に向き直ったトワはそう伝えるが、相手はそれどころではない様子だった。彼は震える声で言葉を紡ぐ。
「君は……いや、貴女様は……!?」
困惑から疑念、そして確信に染まる瞳。大司教は反射的にその場で跪こうとする。
トワは彼の肩を抑えてそれを止めた。まだ道を見定めていない自分にそんな価値があるとは思わなかったし、そもそも大仰な態度を取られるのは苦手だった。
「ここにいるのはただの士官学院生、トワ・ハーシェルでしかありません。それは、お分かりいただけないでしょうか?」
「……申し訳ありません。私としたことが取り乱しました」
思わず苦笑する。ただの学生相手に畏まりすぎではないか。
典礼省の、それも信心深そうな人だから仕方ないのかもしれない。そうやってトワはひとまずこのことに関しては折り合いをつけた。
そろそろ行かなければ。こうしている間にもエステルたち、そしてユーシスも頑張ってくれている。自分たちばかりが出遅れるわけにもいかない。
「改めて、看病をよろしくお願いします。さ、行こう皆」
「あ、ああ……」
事態を飲み込み切れていない様子の三人を引き連れ、今度こそオーロックス峡谷へ。その背中にアモン大司教は最上の敬意と共に祈りを捧ぐ。
「どうか貴女方に女神の――そして星の導きがあらんことを。無事の帰りをお待ちしております。尊き星の子よ」
《奈落病》
身体が徐々に衰弱し、やがて死に至る原因不明の病。『世界の果て』に近いほど発症しやすいと言われている。
アーサも以前から罹患しており、物語の途中で限界が訪れて倒れてしまう。
《ユピナ草》
奈落病の特効薬の原材料となる薬草。主に高地で見かけられる。
生育条件が非常に厳しいためか、栽培は不可能な模様。入手は野生のものに頼らざるを得ないが、奈落病への恐慌もあって乱獲され絶滅状態に陥った。
姉を救う術を求めるナユタは、地上に現存しない動植物も残る《テラ》ならばと思い至り、霊峰の大地を奔走した末にユピナ草を発見する。それは枯れた状態のものだったが……