「ん……」
トワが目を覚ました時、目に入ってきたのは赤であった。
無論、地下水路で目にした惨憺たる血染めの赤ではない。自分が寝かせられていたベッド脇の窓から差し込む、帝都を照らす夕日の赤であった。緋を基調とする帝都に陽の色が混ざることにより、その光景にはどこか神秘的なものが感じられた。
ぼんやりとしばらく眺めていると、ふと頭が少し重いことに気付く。手を伸ばした先にはごわごわとした布の感触。どうやら包帯が巻かれているらしいと気付いた彼女は、時そこに至って「ああ、そうか」とようやく自分がどうして寝かされていたのかを理解した。
魔鰐との死闘、それを一太刀のもとに両断してみせた伯父の背中。思い出せば傷の痛みが実感を伴ってくる。頭のじくじくとした痛み、肋骨から響く鈍痛、罅の入った左腕はそんなに気にならないが、あまり動かさない方がいいだろう。身体の調子を確認しながらベッドから足を下ろし、部屋の中をきょろきょろと見渡した。
どこにいるのかはすぐに分かった。遊撃士協会帝都支部の二階、昨日にも泊まったトワとアンゼリカの部屋である。ここまで連れ帰られて手当てされたのだろう、と理解するが、それはそれとして皆はどこにいったのだろうか。誰もいないことに首を傾げたところで、扉が独りでに開いた。
『あっ、ようやく起きたの』
「ノイ?」
アーツを解いて姿を現わした姉代わりは、ものの見事に「私、怒っています」とでも言うかのような表情である。それでいてホッとしたような安堵の色も確かに浮かべているので、無茶した自覚がある身としては曖昧な笑みを浮かべることしか出来ない。
けれど無茶をしたのが仲間の為となれば、ノイもあまり責めるようなことを言う気にはなれない。仕方ないとばかりに溜息をつき、無言の苦言に留めて表情を緩めた。
「身体の調子はどう? 処置はちゃんとした筈だけど」
「平気だよ。ちょっと痛むけど、これくらいはね」
「ならよろしい」
身体を張った代償が多少の痛みで済むのなら儲けものである。時間が経てば治るものなのだから。
その答えに頷くノイを端目に、トワは下の階に意識を向けた。
「伯父さんや皆は下の階? 何人かいるみたいだけど」
感じた気配から推測して問うと、どうしたのだろうか。ノイは端正な顔立ちに微妙な表情を浮かべる。困ったような、面倒臭そうな、そんな表情である。下の階に続く扉をチラリと一瞥した彼女は、やや憂鬱に聞こえる声で言った。
「まあ……行ってみれば分かると思うの」
部屋から出て階段を下りようとしたもうその時には空気の悪さが伝わって来ていた。ピリピリとした空気に生唾を呑みつつ、痛む身体に障らないようゆっくりと階段を下りていく。
そして目にした集まった面々を見て納得と共に首を傾げた。仲間たちとシグナにトヴァル、それに加えて帝都支部の敷居をまたいだ三人の人物に対して。
「レーグニッツ知事とクレア大尉に……サラ教官?」
全員の視線がトワに集まり、その圧力にやや気圧されてしまう。そんな彼女の姿を認めていの一番に反応を示したのは仲間たちであった。
「ようやくお目覚めかよ。ったく、いらない心配を掛けやがって」
「ほう、これが男のツンデレというものかい。いらないと言われるのがよく分かる気持ち悪さだね」
「お、お前なぁ……!」
「まあまあ、とにかくトワが無事でよかったよ」
「あはは……うん、皆も平気そうでよかった」
素直じゃないクロウをアンゼリカがおちょくって、ジョルジュがそれを宥める。そんないつも通りの光景も地下水路で苦難を乗り越えた今では違って見える。少なくとも、それぞれの間にある距離は確実に近付いているとトワには思えた。
「まったく、結構な騒ぎに巻き込まれた癖に元気な子たちね」
「サラ教官」
呆れた声で、しかし微笑を浮かべてそう言われた。近づいてきたサラ教官の雰囲気は常と変らない。
その姿を見て頭の中にもたげた疑問をトワはそのまま口にした。
「教官はどうしてここに――」
ところが言葉は途中で遮られる。他ならぬサラ教官に両頬を抓りあげられたからだ。
「アンタたちがまぁた騒ぎに巻き込まれた挙句に怪我したっていうからすっ飛んできたんでしょうが。反省しなさい、反省を」
「ふひはへん、ほふぇんふぁふぁい」
「おいおい、うちの姪っ子をあまりいじめないでくれよ」
トワの頬をぐにぐにと弄り回した末に放し、サラ教官は面白がるようなシグナの言葉に「ふん」と鼻息を一つ。これまた面白そうにニヤニヤとした笑みを浮かべる彼に怫然とした目を向ける。
「これくらい教育的指導の範疇なので。無茶する子には厳しくしないと直らないでしょうが」
「ほう、聞いたかトヴァル。あのやんちゃなサラが一端のことを言うようになったもんじゃないか」
「ちょっ、そこ俺に振りますか!?」
キラーパスに焦るトヴァル。明らかにわざとであるシグナと頬を引き攣らせたサラ教官に挟まれた彼の心境たるや如何に。少なくとも、トワたち四人は傍目からああいう立場にはなりたくないな、と思う。胃が荒れそうだ。
そんな反応に窮した彼を救ったのは、意外なことに今朝方に火花を散らしていた相手であった。
「サラさんの昔のことは詳しくないですけれど、士官学院でも上手くやられているみたいですね。シグナさんも鼻が高いのではないでしょうか」
剣呑なサラ教官の視線がクレア大尉に向く。トヴァルは隅でホッと胸を撫で下ろしていた。
「そういう大尉殿は相変わらずお忙しいみたいね。こんなところに来る暇なんてあったのかしら?」
「暇の有る無しではなく、必要なことですから。貴女と同じように」
トワが姿を現わしたことで薄れていたピリピリとした空気が、再び重く垂れこみ始めていた。トワが来る前からこの調子だったのだろう。げんなりとした四人――クロウらと何故か渦中のシグナも含む――の表情からそう察する。ノイが面倒くさそうな雰囲気を醸し出していたのもこのせいか。
鉄道憲兵隊と士官学院の教師。険悪な空気になるには些か理解し難いお互いの立場だが、シグナやトヴァルとのやり取りを見るにやはりトワの想像通りだったのかもしれない。そうとなればサラ教官の不機嫌な態度も納得出来るものだ。
しかしながら、そんな推測を働かせても居心地の悪さは治まるものではない。さりとて打つ手もなく困っていると、温和な笑みがやんわりと間に入った。
「まあ、それくらいにしておくといい。蟠りがあるのは分かるが、それを彼女らの前で持ち出す必要もないだろう」
片やあからさまな不機嫌を顔に張り付け、片や涼しい表情でいた両者もトワたちの方を見てそう言われては矛を収めざるを得ない。ようやく普通に話せそうな雰囲気にしてくれたレーグニッツ知事は一息ついた。
「また会えたね、トワ君。思ったよりも早い再会だったが」
「あはは……そうですね」
今朝の別れ際には帝都知事と早々会う機会など有るのだろうかと思っていたが、世の中どうなるか分からないものだ。こうして実際に一日も経たずして顔を合わせているのだから。
多忙である筈の彼とクレア大尉がどうして再びここに足を運んだのか。理由はなんとなく想像がつく。
「知事閣下と大尉は魔獣騒ぎの件でここに?」
「ああ。遊撃士の諸君には世話になってしまったからね。礼くらいはちゃんとしておかないと」
「都政のトップがほいほいと出歩くのもどうかと思いますがね。後始末もあるでしょうに」
「混乱は収まり、市民へのアナウンスも出した。私の残りの仕事は部下がまとめ終えたもう少し後ですよ」
軽々と言ってのけているが、そう出来るのは知事の有能さがあってのことなのだろう。シグナは「ま、それなら構いませんが」と平然と受け止めた。
「じゃあ若い者が落ち着いたところで話を戻しますか」
言って、居住まいを正すシグナとレーグニッツ知事。トワはこっそりとクロウたちに近寄った。
「どんな話?」
「被害状況とか、そんなところ。まだ話し始めだったからさ」
ジョルジュの答えに「なるほど」と理解する。おそらく話し始めた傍からサラ教官あたりとかが刺々しいことを言うものだから、空気が悪くなってあまり進んでいなかったのだろう。遅ればせたトワとしては二度手間を取らせずに済んで助かったが。
騒動の顛末がどうなったのかは純粋に知りたいところだ。四人も黙って耳を傾けた。
「では、一から話しましょう。まず魔獣の出没範囲ですが、これについては帝都東部に集中しており西部の被害は軽微でした。遊撃士協会でも同様の認識で?」
「ええ、まあ。自分が西側の水路まで行きましたが、そっちは静かなもんでしたよ」
「つまりアンタはウチの教え子たちに当たりを引かせたって訳ね」
「勘弁しろって」
サラ教官の文句にトヴァルが肩を竦める。彼女としても本気ではなかっただろうが。
「ともあれ、そういう訳で人的な被害は最低限に抑えられたと聞いています。そうだな、大尉?」
「ええ。魔獣の掃討が完了した時点で市民には逃走時の転倒などによる軽症者のみ。掃討に当たった部隊にも重傷者は出ていません。市街に魔獣が放たれた事態に比して軽い被害で済んだと言えるでしょう」
トワはホッと胸を撫で下ろした。改めて考えてみても、帝都のど真ん中に魔獣が大量に出没するなど前代未聞の事態である。そんな中で市民に大した被害が出ていないのはまさに不幸中の幸いだ。彼女が安堵の息を漏らすのも当然と言えた。
ところが、それを見咎めるような視線がクレア大尉から向けられた。
「ですが、それは市民と軍に限った話。実際には重傷者、死傷者も出ています。例の犯罪集団に……言わずともお分かりですね」
「それはまあ、申し開きのしようもないと言いますか」
「す、すみませんでした……」
撫で下ろした胸に続いて肩が落ちる。クレア大尉の言わんとするところは文字通り身を以て知っていた。
そもそも大尉には地下水路に入ることをやめるように言われていたのだ。それを無視して入り込み、結果として大怪我をして帰って来たのだから彼女が若干の怒気を滲ませるのも明白なことであった。忠告を蔑ろにした身としては言い訳の一言さえ思いつかない。
身を小さくするトワたち。そんな彼女たちに望み望まれぬとも代わって反論の口を開いたのが年長者たちであった。
「ちょっと聞き捨てならないな。彼女が怪我をしたのは自己責任かもしれないが、地下水路に入ったのはアンタたちが手を引いたからだ。説教できるような身でもないと思うが?」
差し挟まれた口にクレア大尉がピクリと眉根を動かす。立て続けにサラ教官も割り込んだ。
「そうね。聞いた感じ、この子らがいなかったら犯罪集団とやらも一人残らず死んでいたかもしれないんでしょ? この事件の手掛かりを掴んできた功績を無視するのはいかがなものかしら」
「例のリーダー格を重傷とはいえ捕えたのは確かに彼女らの功でしょう。ですが、それとこれとは別の話です。勇気と蛮勇を履き違えてはいけません」
再び立ち込めてきた険悪なムードになるべく目を向けないようにしながらトワはクロウたちに囁く。サラ教官の言葉の中に気になるものがあったからだ。
「あの男の人、助かったの?」
「危なかったが、まあな。あれから病院に搬送されて一命を取り留めたって話だ」
「シグナさんが駆け付けた時点でもう無理かと思ったんだが、彼が胸に手を当てて力を籠めたら息を吹き返してね。東方の気功術に似ているように思えたが……」
魔鰐に右脚を喰らわれた犯罪集団のリーダー、どうやら辛くも生き延びることが出来たらしい。トワが身代わりになったとはいえ、クロウに背負われていた彼も激しく突き飛ばされたのだ。ギリギリだった容体が悪化して間に合わなくなっていても不思議ではないと思っていた。
尤も、アンゼリカの言からどうして生き延びられたのは明白だ。良いところを掻っ攫っていった伯父の対処のおかげのようだった。その方法にも察しがついたので、トワは敢えてアンゼリカの推測にとかく言わなかった。本当のところを話せば芋づる式に自身の秘密まで辿り着いてしまうがために。
そんな感じかもね、と合わせる自分の言葉が白々しかった。そしてまた、三人もそんなトワのことを理解して突っ込んでこないのも分かっていた。そんなところまで全てひっくるめて彼女のことを信じる。それがこの魔獣騒動の末に彼女らが出した答えであった。
閑話休題。
トヴァルとサラ教官が言うことも強ち間違いではない。もし鉄道憲兵隊が地下水路から撤退した後、トワたちが立ち入らなかったら。きっとあの男は他の者たちと同じく魔鰐の餌食となり、魔獣を操っていた人物が他にいることなど知る由もなかっただろう。
そう考えると、あの魔鰐は口封じのために嗾けられたと考えるのが自然だ。図らずもトワたちのおかげで事件の真相を闇に葬られずに済んだと言える。
クレア大尉もそれは理解している。理解しているが、それとは別に四人の無謀さを戒めたいようだった。そして、それは反駁を口にする二人には怠慢に映ったのだろう。
「蛮勇ですって? 元をただせばアンタたちが頼りないからこの子らが無茶する羽目になったんでしょうが。役に立たないばかりか偉そうに説教とか、冗談もいい加減にしてほしいわね」
「市民への被害だってそうだ。憲兵隊が指揮を執るまでの間、軍が後手に回っていたことを知らないとは言わせないぞ」
トヴァルの言葉に、魔獣に襲われていた赤毛の少年の顔が思い浮かぶ。もしもトワたちがあそこに駆け付けなかったとしたら、彼は高い確率で怪我を負っていたか、運が悪ければ死んでいたかもしれない。港でも帝都憲兵隊は慣れない魔獣に苦戦しており、およそ事態の掌握が出来ているようには見えなかった。そして仮に、港へと駆ける中で倒した魔獣を放置していたら。今ここで話をしている猶予など無かったかもしれない。
だからサラ教官とトヴァルの口調は厳しいものとなる。遊撃士協会が政府に押さえつけられているのも相俟ってのことだろう。ヒートアップしてきた二人に庇われている筈のトワたちの方がどうしたものかと戸惑ってしまう。
無論、クレア大尉も言われっぱなしでいる訳にはいかない。冷静沈着なその容貌に感情の色を覗かせ、口論の相手に反撃を加えんとする。
「あー、はいはい。そこらへんでやめときな。喧嘩吹っ掛けてもどうにもならんだろうに」
静観していたシグナが鬱陶しそうに手を振る。クレア大尉に向けられていたサラ教官の険しい視線がそのまま彼に向けられた。
「先生、またそんな適当なことを……!」
「じゃあ何だ。帝都の遊撃士が健在なら、とでも言うつもりか? 力になれなかったのを悔やむのは結構だが、八つ当たりやたらればの話をするのはやめとけ。誰のためにもならん」
言い募る筈だった言葉は、不意を突いた畳み掛けによって行き場をなくした。シグナに言われたことが図星だったのかもしれない。サラ教官もトヴァルも途端に勢いを失った。
「大尉、今回の件で私たち政府側に落ち度があったのは確かだ。そこは受け入れるべきだと思うよ」
「……はい、失礼いたしました」
クレア大尉もレーグニッツ知事に諭されて落ち着きを取り戻したようだ。双方ともばつの悪そうな表情を浮かべる中、滞っていた話の流れが再び戻ってくる。
「ま、ともかくだ。目下の問題はその魔獣を操っていたとかいう奴のことだが、そちらはどんな感じで?」
「捜索はしていますが、発見するのは難しいでしょう。騒動が発生した時点で既に潜伏していたようです」
「足取りはなし、と。手口が分かっているだけマシと考えるべきかね。聴覚系の催眠だったか」
トワたちに確認の視線が向けられる。彼女は自信を持って頷き返す。
「うん、間違いないと思う。あれだけの数の魔獣、普通の手段じゃ操れない。少なくとも複数の対象に効果のある手段を用いたのは確かだよ」
数、範囲、どのような要素を取っても普通の催眠術ではできないことだ。それでもなお説明がつくような手段を考えるとすれば、聴覚に作用するタイプのものが現実的となる。地下水路の様子から推測したトワたちの答えに、シグナもさほど異議はなかった。
「確かに、そんなところが妥当だろう。それでも異常ではあるが」
「催眠術師の知り合いがいる訳じゃないが、あの数はメチャクチャだよなぁ……何かタネがあるんですかね?」
「さあな。そこはもう想像するしかないだろうさ」
トヴァルの疑問にシグナは肩を竦める。情報が少なすぎて、これ以上は推測にすらなりそうになかった。
いま確かなのは、魔獣を操る能力を持ったものがいること、広範囲かつ大量の魔獣に影響を及ぼすこと、この二つ。聴覚系の催眠術ではないかと思われるが、それは状況証拠からの推測にすぎない。その実態は現段階では不明瞭だ。
情報がない状態で考え込んでも真実は見えてこない。面倒くさそうな溜息がシグナの口から漏れた。
「ま、今のところは要警戒としか言えないな。こちらでも気に掛けておくが、軍も勿論やってくれるんだろう?」
「言われるまでもありません」
暗に手を足りなくさせたのはそちらなのだから責任を持て、という意味もあるのだろう。軽い口調ではあったが、それに受け答えたクレア大尉の表情は鉄面皮であった。
下手に放っておくとまた空気が悪くなりそうだ。余計な棘のある言葉が出てこない内にトワは明るい声を出す。
「と、取り敢えず今回はこれで一件落着ってことですよね。思ったよりも小さい影響で済んだみたいですし」
「実習としてはアンタが大怪我してくれたおかげで一大事なんだけどね」
「まあまあ、サラ教官。トワも反省しているみたいですし、それくらいで」
空気は悪くならなかったが、代わりに自分に棘が刺さった格好である。うっ、と言葉を詰まらせるトワにアンゼリカのフォローが入る。サラ教官は相変わらず眉根を吊り上げていたが、続けて文句を言ってくることはなかった。堪忍してくれたのか、怒っても仕方ないと諦められたのか。どちらにせよ彼女には心配を掛けてしまって申し訳ない限りである。
「はは……だが、実際のところ君たちのおかげで随分と助かった。今日中には後処理もなんとかなりそうだし、明日に支障がなさそうでよかったよ」
そんなやり取りに笑みを零すレーグニッツ知事。彼の言葉にジョルジュが首を傾げる。
「明日というと……何かあるんですか?」
「ああ。実は、リベールに滞在なさっていたオリヴァルト殿下が明日にお帰りになる予定でね」
思わずギョッとする。いきなり皇族の名前が出たこともさることながら、それが今まさにエレボニアを取り巻く話題の渦中にある人物のものだったのだから。
オリヴァルト・ライゼ・アルノール。導力停止現象が発生したリベールに助力を申し出、自らその解決に尽力したという皇子。思い返せば、実技教練の時にも話題にしていた時事である。異変が解決した後もしばらく留まっていたようだが、その人が帰国するというのなら確かに大変なことだ。
「こちらとしても急な話でね。まだ市民への告知も済んでいないところへの騒動で冷や汗をかいたが、この分なら問題なく殿下をお迎えすることが出来そうだ」
「あの落ち着きのない皇子がねぇ。どうせ普通にはお帰りにならないんでしょう?」
「ご明察。あの《アルセイユ》で凱旋するとのことです」
シグナがヒュウ、と口笛吹いて感嘆する。ジョルジュががぜん興味を惹かれた様に身を乗り出した。
「アルセイユって、あの高速巡洋艦アルセイユですか!?」
「ああ。リベールの厚意で帝都まで送って下さるそうだ」
肯定の返答を受けて大柄な友人はどこか恍惚とした様子。「そうかぁ」とか「いいなぁ」とか、いつになく興奮気味に窺える彼にトワは首を傾げる。アルセイユという名は彼女も聞いたことがあったが、いま一つピンときていなかった。
「えっと、確かリベールの新しい飛行船だっけ?」
「ただの飛行船じゃないよ! 新型エンジンによる最高速度は時速3600セルジュ、情報処理システム《カペル》搭載、最新鋭の導力技術を惜しみなく注ぎ込んだ
「お、おう……詳しいな」
目を輝かせて捲し立てるジョルジュにクロウさえも一歩退く。興奮気味どころではない。大興奮である。
技術先進国リベールの最新鋭飛行船。なるほど、導力技術に詳しいジョルジュからすれば是が非でも一目見たいものなのだろう。普段は落ち着きのある彼との差に驚きはしたが、自分の好きなものとなれば惹かれずにはいられないということか。
その新たなリベールの象徴とでも言うべき船に乗りオリヴァルト皇子は凱旋する。異変で僅かなりとも芽生えてしまった帝国民の疑心を払拭する狙いもあるのだろうか。素人考えでは確かなことは分からないが、少なくとも政治的なパフォーマンスの意味もあると思われる。そんな大事の前に起きてしまった騒動が小規模で収められたのは不幸中の幸いだったのだ。
無論、政治的なものを除いても皇帝の膝元で魔獣騒ぎにより大きな被害が出たとなれば外聞が悪い。レーグニッツ知事が一安心というのも納得するところである。
「明日の凱旋では市民も今日のことを忘れて楽しめるだろう。君たちも時間があれば一目見ていくといい」
レーグニッツ知事が立ち上がる。そろそろお暇するようだ。
「庁舎でもう事後処理の報告も上がってきているだろう。それを確認したら明日の準備。はは、今夜は徹夜になりそうかな」
「お疲れ様なことで。ウチはもう仕事上がりさせてもらいますがね」
「役人は矢面には立てませんから。後の面倒事を引き受けるのが役目というものでしょう」
彼らなりのじゃれ合いとでも言うべきか。嫌味や悪感情といったものは感じられないやりとりであった。
「では、失礼する。トワ君はお大事に。今後の君たちの実習に女神の加護があるよう願っているよ」
「失礼いたします」
会釈と敬礼を残し、レーグニッツ知事とクレア大尉は夕暮れのヘイムダルへと出て行った。
客人のいなくなった帝都支部。険悪な雰囲気はある程度払拭されてはいたものの、それでも堅さはあったのだろう。二人がこの場を後にしたことにより自然にふうと一息ついてしまう。相手がどれだけフランクでも緊張するものは緊張するのだ。
一方、空気を悪くしていた主な人物といえば、清々したとばかりにフンと鼻息を鳴らしていた。ここまで機嫌が悪いサラ教官というのも初めて見る。
「えらく刺々しかったじゃねえか。正規軍に何か恨みでもあんのかよ?」
「うっさいわね。前職を辞める羽目になった原因の腹心となればアタシだってムカつきもするわよ」
「じゃあ、サラ教官の前の仕事ってやっぱり……」
彼女の発言に得心する。ノイの見覚え、シグナとの繋がり、試験実習の特徴などから想像していた答えは当たっていた。答えあわせとばかりに、知りながらも敢えて黙っていた男は口を開く。
「想像の通り、サラは元遊撃士だ。ちなみに言えば俺の弟子だな」
「えーえー、先生には色々とお世話になりました。依頼を山ほど譲って下さいましたもんねぇ」
「実力に見合った仕事量だと思っていたんだが。師匠の気持ちを汲み取ってくれないものかね、最年少A級遊撃士《紫電》のバレスタイン」
「自分が楽できるようにしようっていう魂胆が丸見えだったんですけど……!」
これだけのやり取りで師弟間の関係性が分かるというもの。どうやら伯父は色々な人に迷惑を掛けないと気が済まない性質らしい。一概に悪いことばかりしてきた訳ではないと分かっているが、姪としてはなんとも頭の痛くなる事実である。
身内に頭を悩ませるトワはさておき、他の三人は明かされた事実に別のことで驚いていた。シグナが呼んだサラ教官の名、それは少なからぬ衝撃を伴うものであった。
「《紫電》のバレスタイン……まさかとは思っていましたが、帝国でも指折りの実力者が我らの教官だったとは」
「最年少のA級遊撃士かぁ。サラ教官って意外と凄い人だったんですね」
「意外ってなによ、意外って」
ジョルジュの感心に自然と混じっていた単語にサラ教官はブーイング。普段の生活態度を鑑みれば致し方なし、とは思うが、それは言わぬが華というものだろう。なんだかんだ生徒からの評価が上がって機嫌が直ったところに再び油を注ぐ必要もない。
「はは、でも安心したな。生徒とも上手くやれているみたいじゃないか。あのサラが教官やるって聞いた時はどうなることかと思ったが」
と、そこでいらない口を利く男が約一名。わざとではないと思う。それだけに性質が悪い。サラ教官が額に青筋を立てたのも仕方の無いことであった。
「そういうアンタは相変わらず扱き使われているみたいじゃない。アーツ使いのトヴァルさん?」
「しかしまあ、華のない呼び名だよなぁ。そろそろお前にも頑張ってもらわないとカシウスとの弟子勝負に負けちまうじゃないか。最近の《銀閃》とかの活躍ぶりは知っているだろ? 俺のヴィンテージワインのためと思ってさ」
「ちょっ、なに勝手に人を勝負事の対象にしているんですか!? っていうか俺じゃなくてもサラがいるでしょう!」
「サラは条件が不公平ってことでノーカン扱いだ。踏ん張れよ、俺のヴィンテージ」
あまりにも勝手な師匠の物言いにトヴァルはがっくりと肩を落とす。何故だろう、会って間もないというのに彼はこの立ち位置が自然に感じてしまう。頼りになるのも確かなのだが。
取り敢えず後で謝っておこう。再三の謝罪を心に決めたところで、トワはふとあることを思い立った。
帝都の行きの列車の中、ノイが話していたサラ教官への見覚え。彼女が元遊撃士だと判明した今なら残され島に来たことがあったとしても不思議ではないが、それでもトワ自身にその覚えがないのが腑に落ちないところ。その答えも聞けるのではないか。
「あの、遊撃士だったのならサラ教官って残され島にも来たことがあるんですか?」
思い立った次の瞬間には口を衝いて出ていた。肩落とすトヴァルを見て胸を空かせていたサラ教官は問いを聞き、なにやら微妙な表情になる。拍子抜けしたような、ちょっと残念そうなそれである。
不味いことでも聞いてしまったのか。内心で焦るトワに返ってきたのは呆れたような溜息だった。
「アンタ、やっぱり気付いてなかったのね。人が目を掛けてあげていたのに、妙に反応が薄いと思ったら……」
「えっ」
急にそんなことを言われても皆目見当がつかない。どれだけ記憶を遡ってもサラ教官のような人に会った覚えはなく、思考は空回りを続けて戸惑うばかり。目を掛けていたという割には実習関係の仕事を丸投げされたくらいしか心当たりが無いのも、多少は影響していることは無きにしも非ず。
「もう五年も前だ。気付かなくても仕方ないだろうに。あの時のお前、随分と荒んでいたしな」
「荒んでいて悪かったですね。アタシだって若かったんですよーだ」
「その言い方だと今が若くないように……おっと」
ぎろり、と鋭い視線にトヴァルは口を噤む。運がないのは仕方ないが、デリカシーが足りないのは彼の責任である。
片やトワは五年前と言われても未だにピンとこない。彼女が十一、サラ教官が十九の時となる。全く記憶がないほど幼い時分ではない。だというのに欠片も思い出せないのはどうしたことだろう。
どうしても思い出せずに頭を抱える。そんな彼女に助け舟を出したのは伯父であった。
「昔に、俺が連れてきた覇気のない若い姉ちゃんに島を案内してやってくれって頼んだことあったろ。それだ、それ」
「うーん……五年前で、伯父さんが連れてきた人で……ええっ!?」
差し出された糸口からようやく思い至り、同時に驚きの声が自然と飛び出す。
確かに、いた。シグナが新人研修だと言って連れてきた、サラ教官と同じ髪色の女性が。だが、その記憶の中の姿と、目の前の彼女がまるで繋がらなかった。
「で、でも、あの時の女の人は全然元気がなかったし、口数も少ないし、大人しかったし……」
「どこの誰だよ、それは。サラといえば傍若無人で大酒飲みのだらしのない女だろ」
「表現はさて置き、確かに今の教官とは似ても似つかないね」
一様に信じられないという顔をする教え子たちに本人は引き攣った笑み。抗議しないのは自覚があったからか。
「んー……まあ、アタシも昔は色々とあったのよ」
「色々、ですか」
「そ、色々。いい女には秘密が付き物なのよ」
それ以上サラ教官は話す気が無いようだった。元遊撃士であったこと以外に、彼女の過去に何かあるのだろうか。気になるが、本人に話すつもりがないのなら仕方がない。シグナやトヴァルに聞くのも違うだろう。そのうち口を割ることを気長に待つのがいいのかもしれない。
一先ずノイの見覚えの理由は分かった。収穫としてはそれで十分である。
それにしても、と思う。名も知らない伯父の客人の手を取って――幼さゆえの元気もあって――島の中を引っ張り回し案内した相手が自分の教官になるとは、縁とはどう繋がるか分からないものだ。ぼんやりと覚えている、あの借りてきた猫のような人が、今では豪放磊落で型破りながらも自分たちを教え導いてくれている。
これも星と女神の導きなのだろう。時を経て再び巡り合わせた縁を思うと、何か数奇なものを感じる。
「でも、どうして今まで教えてくれなかったんですか? 言ってくれれば思い出したかもしれないのに」
だが、そうなると不思議なのは何故サラ教官から言い出さなかったのか。思い返せば確かにトワを見る目に懐古や既視の兆しを窺わせたことはあったかもしれないが、直接的なことは何も言わなかった。文句をつけるくらいなら自分から言い出せばよかったのに。
問えば、サラ教官は頬を掻いてそっぽを向いた。
「それは……そういうのをアタシから言うの、なんか違うじゃない。話を振られたのならともかく」
「はあ……?」
「ま、大人の見栄って奴だ。あまり突っ込んでやらないでくれ」
いま一つ要領を得ない解答に首を傾げていると、ちょっと面白げな顔をしたトヴァルからそんな声が。事情に通じているだろうシグナは勿論、クロウとアンゼリカも何かを察したのかもしれない。ニヤニヤと生温かい笑みを浮かべていた。
「ああもう、この話は終わり! 人のこと見て笑ってんじゃないってのよ!」
耐えかねたサラ教官は強制的に終了宣言。よく分かっていないトワとジョルジュは首を傾げるばかりである。ここで理由を聞いたら怒られそうなので尋ねはしなかったが。
さて、とここで一息。あらかた聞きたいこと喋りたいことが出尽くし、少しの間が生まれる。そこを上手く読んだ伯父の声が挟まれた。
「ところでサラ、今日はこの後どうするつもりだ?」
「んんっ、そうですね……この子のこともありますし、大事を取って今日は帝都で夜を明かしてから明日の朝に帰るつもりです。授業だって普通にありますし」
怫然とした表情から咳払いを一つ。教官の顔に戻った彼女は、師からの問いにトワの顔を見ながらそう答えた。
えっ、と虚を突かれたような声。ジョルジュが明らかに落胆の色を浮かべていた。
「アルセイユは見ていかないんですか……?」
「メインは皇子殿下の帰国でしょうが。そもそもの予定では今頃は学院に帰っている予定だったのよ。そこをトワの体調を鑑みて明日に延ばすって言うのに、のんびりしていたら文句を付けられるのはアタシなのよ」
「ふむ、残念ではあるが仕方ないところだね」
そんなぁ、とガックリ肩を落とす。これだけ残念がる彼も珍しい。本当に噂のアルセイユ号を見たくてたまらなかったのだろう。流石に気の毒に思ってしまう。
「結果的には地下水路の親玉を倒すのにも貢献してくれたんだ。少しはご褒美をあげてもいいんじゃないか?」
「遊撃士のままだったらそれでよかったでしょうけど、新米でも教官なの。締めるところは締めなきゃいけないのよ」
トヴァルが援護射撃に入るが、結果は芳しくない模様だ。サラ教官はにべもない。
これは諦めるしかないだろうか。そう判断しかけたところで別の声が。
「なあ、そこは明日の朝になってからでも決めればいいだろう。もう飯に行くとしようぜ」
まったく話から逸れたことを言いだしたシグナに視線が集まる。確かに夕飯時ではあるが、なんとも脈絡がない。
「なんだ、今日は外食にでも連れ出してくれるのかよ?」
「まあな。ウチの自慢の料理人がその有様じゃ包丁も握らせられないし」
頭部裂傷、肋骨骨折、左腕に罅。そんな怪我人に料理を任せる訳にもいかないだろう。
とはいえ、他の面々は碌に料理をしない人々ばかりである。クロウは野外料理やジャンクフードはそれなりだが家庭料理にはとんと疎く、アンゼリカもあまり手馴れていない。ジョルジュは食べる専門である。シグナとトヴァルは昨日までのキッチンの荒れようを見れば言うに及ばず、サラ教官は静かに目を逸らした時点で候補から除外された。
そうなれば選択肢は外食一択。シグナの口振りが期待を持たせるものだったこともあり、トヴァルが現金にも表情を明るくさせる。
「おっ、じゃあ今日は先生の奢りですか」
「ここ最近は仕事押し付けまくっていたし、ま、いいだろう。サラ、お前には再就職祝いがまだだったな。ついでにミラは持ってやるから飲み比べでもするか」
「さっすが先生、太っ腹ぁ! よっ、帝国一!」
締めるところは締めるとはなんだったのか。タダ酒が飲めると分かった途端に、テンション駄々上がりで師匠を持ち上げるサラ教官に生徒としては白けた目を向けざるを得ない。
「まったくもう、伯父さんったら……?」
そんな事態に陥らせたシグナに苦言しようとし、トワは見た。伯父が悪戯っぽくニヤリと笑みを向けてきたところを。
手放しで喜ぶサラ教官は気付かない。気付けないようにこっそりと、これまた上手くタイミングを読んで投げかけられたそれは妙に意味深であった。まるで楽しみにしていろと言うかのように。
トワは知っている。あれは何か企んでいる時のそれである。しかし、今回はそんな悪いもののようには思えなかった。
「なに考えてんだ? お前の伯父貴はよ」
「さあ……嫌な感じはしないけど」
「アンタたち何してんの? ぼそぼそ喋っていないで、さっさと飲みに行くわよ!」
学生は飲酒できないことを教官はちゃんと分かっているのだろうか。色々と言いたいことはあるが、今回は心配を掛けてしまったことも事実。余計なことは言わずにいい気分のままでいてもらおう。飲酒はなしにしても帝都の店は気になるところである。実習の労いと思い、今は自分たちも楽しむべきだ。
意気揚々なサラ教官たちに続き、トワたちもまた日が沈みゆく帝都に繰り出すのであった。
――――――――――
昼も盛りの帝都、その飛行船発着場周辺では人々が群衆を成していた。ざわめきながら何かを待ちわびる彼らの容貌から、昨日は街中に魔獣が現れた事実など窺いようもない。もとより大した被害も無く済み、ましてや、これから行われるイベントの前にはそんな
今か、今か。刻々と期待を膨らましていく群集。周辺を警備する軍も気がそぞろになり始める。
あっ、と最初に気付いたのは誰だったのだろう。遠く彼方の空よりそれはやって来た。
空を駆け、白雲を引き、白き翼がその姿を現わす。
瞬間、空気が爆発した。人々は歓声をあげ、帝都の空を飛ぶ白き翼――アルセイユへと向けて手を振る。あまりの盛り上がりように警備の軍人たちが慌てて度が過ぎないよう動き始める。そんな眼下の熱狂に応えるように、アルセイユは帝都上空を周遊する。リベールの新たな象徴である美しささえ感じる姿に、帝都の人々は一様に空を見上げ、思わず見惚れてしまう。
存分に雄姿を見せつけたアルセイユが発着場に着陸する。そしてタラップに姿を現わした人物に、群衆の盛り上がりは最高潮に達した。
オリヴァルト・ライゼ・アルノール。リベールの異変を無事解決し、この白き翼で帝都に凱旋するという最高級のパフォーマンスの主役は、歓声に応えて群衆へ大きく手を振った。
「……凄いものですね。流石は大陸最大の都市といったところでしょうか」
オリヴァルト皇子が後ろを振り返る。アルセイユの艦長にして王室親衛隊中隊長、ユリア・シュバルツ大尉が湧きあがる歓声を前に驚きの表情を浮かべていた。
リベールの王都グランセルも華やかさでは決して見劣りしていない。だが、規模と人の多さという観点からすれば、この帝都ヘイムダルに勝る都市はそうそうないだろう。ユリアが所狭しと詰めかけたこの大観衆に圧倒されるのも無理はない話だ。
「ユリア大尉が驚いてくれるくらいのインパクトがあったのなら、帰還後の初手としては成功と見てもいいかな。いやぁ、これくらいとんとん拍子でいければ楽なんだがね」
「あまり調子に乗るなよ。これはまだ本当に最初の一歩でしかない。躓かなかったくらいで自惚れている暇などないのだからな」
オリヴァルトは間髪を容れずに放たれた忠告を「分かっているって」と軽い調子で流す。分かっているのか、分かっていないのか。どちらかと問えば前者であるとは理解しているが、それでも忠告した当人、主の側に控えるミュラー・ヴァンダール少佐は自然と眉間に手を伸ばしてしまう。
昔からの付き合いでオリヴァルトの気質はこれでもかというほど承知しているし、半ば諦めてもいる。だが、これから彼が挑もうとしていることを考えるとこんな調子で大丈夫かと思ってしまう。臣下として、親友として、ミュラーの心労は尽きそうになかった。
「これから殿下がなさろうとしていることは自分も承知しております。どうかお気を付けて」
「ありがとう、大尉。しかしまあ、気を付け過ぎても意味がないと僕は思うのだよ」
「……と、言いますと?」
ユリアも同じく心配になったのだろう。身を案じる言葉にオリヴァルトは感謝しつつも、それに反することを口にする。
「僕が
臆面もなく言い放ったその言葉にユリアは目を瞬かせ、ミュラーは頭痛が悪化したのか眉間の皺を更に深めていた。
一言で表してしまえば詭弁。自由が過ぎて身を危うくしないよう忠告しているというのに、自由でないと意味がないとのたまうとは。一見、それらしいことを言っていても分かる人には分かる。結局は奔放に好き勝手やる方が性に合っているというだけのことである。
とはいえ、確かに好き勝手していなければオリヴァルトらしくない気もする。分別を弁えた大人しい彼など、想像しただけでミュラーは怖気が走る。だからではないが、今回も彼は先に折れてしまうのだった。
「まったく……引き際くらいは心得てもらうぞ」
「大丈夫大丈夫、その時はミュラーが首根っこ引っ掴んでいってくれるだろう?」
否定できないだけに性質が悪い返しである。押し黙るミュラーに、ユリアが小さく笑みを零した。
「どうやら私の心配など無用だったようですね。お力添えが必要な際は遠慮なくご連絡ください。私のみならず、クローディア様や女王陛下も、殿下の頼みとあれば助力は惜しまないと仰っていました」
「最高の激励だ。その時は是非とも甘えさせてもらうよ」
「ではな、大尉。またいずれ会おう」
「ええ、またいずれ」
ミュラーとユリアは敬礼を交わし合う。互いに主に仕える者同士、言葉少なではあっても通じ合うものがあるのだろう。無言の信頼とでも言うべきものが感じられた。オリヴァルトが後で少しからかおうと思うくらいには。
ユリアと別れ、タラップを渡る。彼女はこの後、すぐにはリベールには戻らずに帝国政府から大なり小なりの歓待を受けるだろう。皇族を送り届けた客人を手ぶらで帰しては大国の面子が立たない。
残念ながらオリヴァルトらと会うことはできないと思われる。理由は簡単だ。帰国した彼にはやるべきことが山を成して待ち構えているのだから。タラップを渡りきれば、そこには早速相対する人物が。
「お帰りなさいませ、殿下。ご無事で何よりです」
「やあ知事、わざわざ出迎えてくれてありがとう」
恭しく礼をしてオリヴァルトを出迎えたのはレーグニッツ知事。平民ながらも帝都庁のトップに上り詰めた彼のことは勿論よく知っている。巷では鉄血宰相の盟友と呼ばれ、革新派の重要人物であることも。
「いえ、むしろ最低限の準備しかできずに申し訳ありません」
「そこは私も急に帰りを告げた訳だし、あなたが気に病むことはない。それより昨日は街中で魔獣が出没したんだろう? そちらへの対処の方が大変だったんじゃないか」
「……よく御存じでしたね」
少し驚いた様子のレーグニッツ知事にオリヴァルトは悪戯っぽく微笑んだ。
「これでも友人は多い方なんだ。色々な話が耳に入ってくるよ」
なるほど、と納得したようにレーグニッツ知事は頷く。真面目な風体、穏やかな表情に変わりはない。しかし、どこか自分に対して構える雰囲気を纏ったことをオリヴァルトは感じた。晴れて、単なる勝手気ままな皇子とは思ってもらえなくなったようだ。
レーグニッツ知事がエスコートするように先の道を促す。歩きながら話そうということらしい。プラットフォーム下の観衆に手を振りながら、オリヴァルトとそれに従うミュラーが続く。
「被害も最小限で、アフターフォローも万全だそうじゃないか。この盛り上がり振りを見ればよく分かるよ」
「もったいないお言葉です。しかし、それは私だけの力ではありません。実際に魔獣を退け市民を守ってくれた者たちこそが、その称賛を真に受け取るべきでしょう」
「ふむ、となると宰相肝煎りの鉄道憲兵隊あたりかな?」
「彼女らの活躍は勿論ですが……まあ、その話は後ほどにしましょう」
含みのある言い振りに疑問を覚える。てっきり同じ革新派である憲兵隊との連携が取れてこその成果だと思っていたのだが、そう単純な話でもないのだろうか。
先を進む背広姿の背中を不思議に思いつつも歩みを進める。発着場内の建物に入り、観衆の視線がいったん途絶えた。壁一枚分遠くなった歓声が響く中、知事が振り返った。
「宰相閣下といえば、あの方も先日にリベールへ訪問なさっていましたね。殿下もお会いになられたのですか?」
来たか、と待ち構えていた問いに心が自然と引き締まる。
「まあね。急に来たものだから私も驚かされたよ」
「はは、殿下のご活躍を聞いてからずっと機会を窺われていたのでしょう。随分とお話ししたい様子でしたし」
「確かに、お茶ついでに色々と話させてもらったよ。いやはや、宰相が私と仲良くしたいと思っていたとは意外だったな。皇位継承権も放棄した放蕩皇子と親しくなっても仕方ないだろうに」
「ご冗談を。殿下ほどの行動力を持った方もなかなかいらっしゃらないでしょう……それで、宰相閣下にはどのように?」
その問いに対する答えはもう決まっている。リベールを発った時、すれ違ったあの男に向け、バラの花を手向けた時に。
オリヴァルトの口元に笑みが浮かぶ。思いの外、言葉は滑らかに躍り出た。
「見解の相違があってね。私と彼は友達より喧嘩相手の方が合っているようだ」
レーグニッツ知事の顔に、今度こそ明確な驚きの表情が浮かんだ。あの鉄血宰相の誘いを断った。彼の方も、少なからずオリヴァルトのことを知っていたからだろう。意外、という感情が肌から感じられた。
「……殿下は旧態依然の貴族勢力がお嫌いと思っていましたが」
「もちろん腐敗した貴族勢力は嫌いだ。いや、憎んでいるとさえ言っていい。宰相閣下にも同じことを話したがね」
だが、と言葉を繋げる。
思い浮かべるのはあの男、ギリアス・オズボーンと話した時に幻視したあの光景。彼が起こした熱狂がやがては狂乱となり、回り始めた歯車を止めることは能わず全てが破壊しつくされる未来。彼も分かっていると言っていた。分かった上でそれを尚も押し進めようとしている。
「私は宰相のやり方を認めない。人々に狂乱など必要ない。人は、国は、そんなものに頼らなくても誇り高く生きていける。私は、私なりのやり方でこの国を変えてみせる。それが答えだよ」
美しくない。そんな未来は全く以て美しくない。
だからオリヴァルトはオズボーン宰相を否定する。臆することなく立ち向かうと腹を決めた。リベールを巡る旅の中で得た、彼を支える確固たる信念がその心の内にあるからこそ。
レーグニッツ知事は見定めるようにオリヴァルトの瞳を見つめる。そして側に立つミュラーへと視線を移し、深く息を吐いた。どちらの目にも全く揺るぎがない。本気で言っているのだと彼も認めざるを得なかった。
「茨の道では済まないことです。それでも、と仰るのですね?」
「ああ。もう決めたことだからね」
「……分かりました。もう何も言いません。どうぞ、御身の心に従ってお進みください」
彼は革新派の中でも高い立場にあるが穏健な部類だ。きっと身を案じてくれているのだろう。それが分かるからこそ少し申し訳ない気分にもなる。
「すまないね。そういう訳だからこの前に頼んだ件、無理に引き受けてくれなくても構わないよ」
「…………」
誘いの手を払ったからには、こちらの誘いの手もまた振り払われてしまわれても仕方ないと思う。名ばかりの皇族である自分の手が及ぶ数少ない場所、かつての学び舎で行わんとする新たな試みへの協力を要請していたが、それもまた白紙かなと半ばオリヴァルトは諦めていた。
返事はすぐにはこなかった。思案顔を浮かべたレーグニッツ知事は、再び踵を返すと歩き始める。黙って後に続き、外に出る。姿を現わした皇子に観衆の声も再び高まった。
「……私はこの国を変えるためには、宰相閣下のような強大な力が必要と考えています。それを今、撤回するつもりはありません」
観衆を見渡し、レーグニッツ知事は言う。その目が、ある一点で留まった。
「ですが、殿下の仰るような希望が芽生える可能性があるというならば……私は、その行く先を見てみたい。彼女たちのような人々を救おうとする意思を持つ若者がいるのならば、彼女たちが何を成すのか見届けたい。今回の件で、そう思うようになりました」
その視線を追い、オリヴァルトもまた気付く。観衆に紛れるある集団に。
見覚えのある三人の遊撃士――うち二人は自分が旅先の友人と一夜を共にした時と似た有様である――と、その側に制服姿の学生が四人。
一癖ありそうな銀髪の青年、優美な雰囲気を纏った麗人、懐の深そうな大柄の青年。そして、どこかあの太陽のような少女を思い起こさせる、だが、また異なった温かさを持った小さな少女が、そこにいた。
ふと思い起こす。知事は言っていた。称賛を受けるべきは、この街と人々を守った者たちだと。
「この私でよろしければ、トールズ士官学院理事の任、謹んでお受けいたしましょう」
「――ああ。ありがとう、知事」
新たな希望は既に産声を上げている。
万感の思いを込め、オリヴァルトは彼女たちに一際大きく手を振った。