永久の軌跡   作:お倉坊主

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時間は沢山あったけれどDARK SOULSⅢにハマっていて結局いつも通りの更新速度になりました。他にはない緊張感と妄想を滾らせる設定は流石フロムソフトウェアと言ったところ。変態的だ(褒め言葉)

あと、もしかしたらいるかもしれない大学四年生の読者諸兄へ。就職先はなるべく大学生の内に決めておこう。卒業すると暇過ぎて自分が凄いクズになった気分になるからな!


第22話 獣の行進

 ――どうして、どうして、どうして。

 エリオット・クレイグは震える足で必死に立ち上がろうとしながらも、頭の中で同じフレーズを繰り返す。腰が抜けた状態では下半身に力が入らず、せめてもの抵抗として地面を這いずって後ずさる。

 目の前には大顎を備えた魔獣。色のない瞳で得物を見定め、濡れた体躯で行く道を湿らせつつ、ゆっくりと迫り来る。時折開くその真っ暗な口腔が、エリオットには女神の元への片道切符をちらつかせているように見えて仕方ない。

 

「あっ……」

 

 とん、と背中に壁がぶつかる。前しか見ていなかったのが祟った。彼に逃げ道はもう残されていなかった。

 魔獣は彼が逃げられないのを分かっているのか、まるで焦らすかのように鈍い足取りで距離を詰めてくる。それがまた恐怖を煽る。エリオットの目尻に涙が浮かび、胸中には再び同じ言葉が木霊する。

 ――どうして、こんなことに……

 気分転換で外に出ただけの筈だった。帝国正規軍の中将である父親に音楽院への進路を反対され、これからどうしようかと途方に暮れていた時に外の空気を吸おうと思っただけだった。誰が思うだろうか。アルト通りを流れる水路の中から突如として魔獣が這いずり出てくるなんて。

 エリオットだけが逃げ遅れてしまった。ぼんやりとしていた時に混乱に巻き込まれ、腰を抜かして碌に動けなくなってしまった。助けてくれる人はいない。周りの人たちはエリオットに気付く間もなく我先に逃げ出した。気付いたとしてもにじり寄る魔獣が目の前にいては助け起こす間もあるまい。

 そして厳しくも力強く頼れる父は、既に部隊に戻りここにはいない。

 途端にエリオットは自分が情けなくなった。音楽院への道を閉ざされ半ば恨んでさえいた父に、身が危うくなれば都合よく頼ろうとしている自分が情けなかった。こんな男では父に認めてもらえなくて当然ではないか。

 どうしようもなく情けなくて、目尻から零れ落ちる涙が止まらないのが余計に自分の弱さを思い知らせて来るようで……だが、それでも心までは折れていなかった。

 

「僕だって……僕だって……!」

 

 自分は父の望むような逞しい男ではないかもしれない。父の反対を押し切ることが出来るほど強い意志を持った男でもないかもしれない。

 それでも、それでも父に恥ずかしいと思われるような男ではありたくない。こんなところで自分の情けなさに涙するだけで、何の足掻きもせずに魔獣に屈するような弱虫ではありたくない。

 エリオットは壁に手をつく。背を支え、震える足で立ち上がる。瞳の色を怯えからなけなしの勇気に変えて魔獣を睨みつける。その変化を悟ったのか、魔獣がゆっくりとした歩みを止めた。お互いにその場から動くことなく、ただ目だけは絶対に外さないで睨み合う。

 距離は近い。飛び掛かられたらあっという間に噛み付かれてしまう。背を向けて逃げ出せば相手はこれ幸いと自分を喰らい尽くすだろう。魔獣に疎いエリオットにもそれくらいは分かっていた。生き残るためには、辛抱を切らした相手の攻撃を躱した隙に逃げるしかないことも。

 冷や汗が頬を伝う、手汗が滲む、呼吸が浅くなる。

 魔獣が喉を鳴らす音が妙に鮮明に聞こえてくる。濡れた体躯から水滴が滴った。

 自分の心臓が早鐘を鳴らす音が五月蠅いくらいに響く。鱗に覆われた腕に力が籠った。

 ――今だ。

 半ば勘で一瞬のうちに判断を下す。魔獣がエリオットに飛び掛かった。彼は地を蹴って横っ飛びに躱そうとする。

 瞬間、彼に影が掛かった。

 

「え――?」

 

 思わずエリオットは動きを止めて見上げてしまっていた。栗色をなびかせた小さな影が目端に映る。くぐもった悲鳴のような呻きが聞こえ、正面に目を戻して映った光景に瞠目する。

 そこには脳天を貫かれ絶命した魔獣と、それを為した刀剣を握る緑色の制服を纏った背中。頭上から急襲し一撃で仕留めてみせたのだろう。魔獣に覆いかぶさるように屈んでいた背中が立ち上がり、刀剣を血に濡らしながら引き抜く。エリオットよりも小さく、しかし父と同じくらい大きく見える背中に彼は開いた口が塞がらない。刀身を振り払われた血が石畳を濡らす。片刃の剣を鞘に納めた背中が振り返った。

 小さな少女だった。幼さの残る面立ちをした、状況のせいかやや険しい表情をしながらも、それでも本来は温和な人柄なのだろうと窺い知れる雰囲気を纏っている。彼女はエリオットに目を向け、ポカンとしたままの彼に言葉を投げかける。

 

「間に合ってよかった。君、怪我はない?」

「え……あっ」

 

 事ここに至って、エリオットはようやく自分が助かったことに気付く。

 未だ自分に血が通っていることを感じ、強張っていた身体から力が抜けて――へなへなと腰から崩れ落ちた。

 

「わわっ!? だ、大丈夫?」

「あ、あはは……すみません、安心したら力が抜けちゃって……」

 

 生きている、その実感があるからこその脱力だった。せっかく鞭打って立ち上がったというのに、再び腰が抜けてしまったというのは少し不甲斐なく思うが、何よりもまだ息があることが有り難かった。

 助けてくれた少女も、エリオットが単に気が抜けただけと分かると安堵して「よかった」と零す。地面に腰を付ける彼に視線を合わせるように、彼女もまた屈みこんだ。

 

「君、家は近く? 遠いようなら他に安全な場所を探すけど」

 

 その言葉ではっとする。魔獣は水路から何の前触れもなく帝都のど真ん中に現れたのだ。つまり他の場所にも魔獣が現れている可能性は十二分にあり、そして危険もまだ無くなった訳ではないということである。

 気遣わしげにこちらを見る少女に、エリオットは首を横に振った。

 

「だ、大丈夫です。家は同じアルト通りですし、歩いてすぐの所ですから」

「そう? ならいいけど……立ち上がるのはすぐには難しそうだね」

「はは……そうみたいです」

 

 少女からしてみればエリオットの状態を確認しただけなのだろうが、見た目自分より幼げな彼女に助けられた身としては気恥ずかしい思いがある。エリオットは少女から目を逸らし、ふと、その先から小走りに近づいてくる集団を視界に捉えた。

 

「おい、そっちは……問題ねえみたいだな。ったく、いきなりすっ飛んで行きやがって」

「ごめんごめん。向こうも、もう大丈夫?」

「ここら一帯は片付いたようだね。そろそろ次の街区に向かった方が良さそうだが……」

「えっと、彼は?」

 

 双銃を携えた青年が、堅固な手甲を腕に纏った女性が、無骨な鉄塊を担いだ大柄な青年がやって来る。少女の仲間なのだろう。話し合う彼女らの雰囲気と、その身に纏う同じ意匠の制服からエリオットはそう判断した。

 どこかの学生なのだろうか。そうこう考えている内に大柄な青年の目が自身に向けられる。どう答えたものかと口をまごつかせていると少女からの助け舟が入った。

 

「魔獣に襲われていたの。怪我はないけど、腰が抜けちゃったみたいで」

「そうか。ならよかったけど……放っておく訳にもいかないだろうね」

「うん。家は近いそうだから、動けるようになるまで待っていようと思っていたんだけど」

 

 一見、温和そうな二人がエリオットの扱いを話し合う。やはり危険はまだ収まっていないのだろう。少なくとも彼が安全な場所まで逃げ切れる保証が得られるまでは、この場に留まるつもりのようだった。

 それはありがたいことだと思う。だが同時に、エリオットの胸中には複雑な感情が去来していた。自分などのために彼女たちを引き留めることになってしまう心苦しさ、結局は誰かに守られてばかりいる自分の情けなさ。自分は大丈夫、そう言いたい。けれど、その言葉はきっと力を持たないだろう。未だ彼の足は震え、立ち上がれそうにない。

 自分からはどうすることも出来ないエリオットは口籠る。そんな彼の耳に別の声が響いた。

 

「そんな悠長なこと言っている場合かよ。さっさと根を絶たなけりゃジリ貧になるぞ?」

「ふむ……確かにこの状況でタイムロスは厳しいね。魔獣の規模が分からない以上、迅速に事を運ばなければ被害が拡大する可能性も否定できないだろう」

「でも、この子を放っておく訳にもいかないじゃない」

 

 銀髪の青年と女性の言葉にエリオットは肩を小さくする。自分がやはり彼女らの枷になってしまっていると分かってしまったからだ。自分の身を案じてくれる少女に申し訳なさが募る。

 

「そう甘やかす必要もねえだろ。坊主、お前幾つなんだ?」

「えっ……?」

 

 そして不意に頭の上から降ってきた声に、呆けたような音が口から漏れた。

 

「歳だよ。それくらい言えるだろうが」

「えっと、十五歳ですけど……」

「あまり俺らと変わりないじゃねえか。もうちっとシャキッとしな」

 

 言って、青年はエリオットの腕を取って引っ張り上げる。うわっ、と驚きつつも無理矢理に立ち上げさせられ、へっぴり腰ながらも両足で地に立ったエリオットに今度は女性が近寄る。

 

「腰が曲がっていては戦うも逃げるも出来ないよ。そらっ」

「アイタッ!」

 

 肩を掴まれ平手が腰を打つ。強引ながらもエリオットはそうして真っ直ぐ立った。

 いきなりの手荒い仕打ちに目を白黒させるエリオット。もう、と少女が二人に対して目を吊り上げさせた。

 

「駄目だよ、二人とも。あんまり乱暴したら」

「時と場合にもよるだろうさ。野郎にはこれくらい厳しくしても問題ないと思うけどね」

「そもそも、お前が優しすぎるんだっつうの。おら坊主、これでもう大丈夫だろ?」

 

 青年の言葉にエリオットは気付く。足はもう震えていなかった。立ち上がらせ方は無理矢理だったし、叩かれた腰は地味にヒリヒリするけれど、それでも真っ直ぐに自分の両足で立てていた。

 もう、守られてばかりいる必要もない。

 

「は、はいっ。僕は大丈夫ですから先に行ってください!」

 

 言いたかった、口から紡ごうとしても心詰まりから言い出せなかった言葉をようやく音にする。

 

「うーん……本当に大丈夫?」

「……いや、そこまで心配しなくてもいいと思うよ。ここら辺の魔獣は全て鎮圧できたみたいだし、しばらく危険はないだろう。それに家は近いんだろう?」

「そうですね、ここから数分歩いたくらいで」

「なら尚更だ。君の優しさは美徳だと思うけど、たまには男を立たせてほしいとも思うかな」

 

 それでも少女は不安そうだったが、大柄な青年はエリオットの背を押してくれた。彼の心中も察してくれていたのだろう。少女に向けてちょっと苦笑を浮かべながらも言ったことは、自身の不甲斐なさに堪えていたエリオットの気持ちを汲み取ってくれたものだった。

 仲間たちからの言葉に少女も――まだ少し心配そうな様子ではあったが――とうとう折れる。改めてエリオットに向き直ると、幼げな容貌に反して強い責任感と意志が感じられる小金の瞳が見つめてくる。

 

「じゃあ私たちは行くけど、本当に気を付けて家まで帰ってね。あと安全が確認できるまでは隠れていること。魔獣も刺激しなければ屋内までは入ってこない筈だから」

「分かりました。え、えっと……何が何だかよく分かっていないですけど、頑張って下さい」

「うん、ありがとう」

 

 せめて何か言わなければと思って口にした言葉は何の変哲もない応援だったが、それでも十分だったのだろうか。道すがらの小花のように自然で、しかし人の気持ちを朗らかにさせる笑顔を少女は浮かべる。それにエリオットがぼうっとしている内に面持ちは真剣さを帯びたものに移り変わり、仲間たちに次なる号令を下す。

 

「移動を再開しよう。目的地はヘイムダル港。襲われている市民の救助を優先しつつ、迅速に行動するよ!」

 

 応、と掛け声が響く。駆け出していった彼女たちの背中をエリオットはじっと見つめていた。本当はすぐにでも家まで戻った方がいいのだろうが、彼にはどうしてもその大きな背から目を離せなかった。

 青年はそこまで歳は変わらないと言っていた。自分もなれるのだろうか。あのような大きな背中を持つように。

 胸の内に燻りに似た何かが灯る。それは一体何なのか、エリオットが理解する前に大声が背後から響いてきた。

 

「エリオット!!」

「あっ……ね、姉さん?」

 

 エリオットと同じ、父譲りの赤毛を揺らしながら女性が駆け寄ってくる。それが姉のフィオナ・クレイグであると理解した途端、彼女は胸に掻き抱くように抱き着いてきた。

 

「うわっ、ちょ、ちょっと、どうしたのさ?」

「ああ、エリオット……怪我はない? ご近所さんから貴方が魔獣に襲われているのを見たと聞いて、血が凍りつく思いだったのよ」

 

 驚きつつも聞いた理由に、今度は心配させてしまった申し訳なさが募る。ただでさえ父とのいざこざで気を遣わせていたというのに、重ねてこんなことが起きてしまえば血相を変えるのも無理はない。姉の心境を理解し、苦労を掛けてばかりいる自分を自覚してしまう。

 何時もなら申し訳なさに耐えられなくて、目を落としてしまって、「ごめん」と消え入りそうな声で謝っていたかもしれない。しかし今、エリオットの胸の内には何時もならぬ燻りがあった。

 目を落とすのでもなく、意味のない謝罪でもなく、彼は姉を落ち着かせるように背中を擦った。

 

「大丈夫だよ、姉さん。怪我はしていないし……魔獣には襲われたけど、あの人たちが助けてくれたから」

 

 そう言ってエリオットは指差す。走って行った彼女たちは既に遠目にしか見えないが、フィオナにも指し示された先の四人の背中は分かったようだ。まあ、と驚いたように彼女は口に手を当てた。

 

「そうだったの。出来れば私もお礼を言いたかったけれど……あの制服はトールズのものだったかしら」

「トールズ?」

「トリスタにある士官学院よ。帝都でも何度か見たことがあるから間違いないと思うけれど」

 

 士官学院、そう聞いてエリオットはある程度の納得を得る。魔獣を一撃で仕留めた武勇に、いや、それ以上に自分とは比べるべくもない大きな背中に。

 もう一度、彼女たちが走って行った先を見る。どこかの路地に曲がっていったのだろう。あの大きな背中はもう見えない。しかし、胸の内に宿った燻りはまだ消えていなかった。

 自分もなれるのだろうか。父にも恥じない、大きな背中の持ち主に。

 

「……さあ、姉さん。ここから離れよう。家の中にいれば安全だからさ」

「あら、エリオットも知らない間に成長していたのね。昔はお姉ちゃんの背中にくっついてばかりだったのに、こんなに頼れるようになっているなんて……グスッ」

「ああもう、いいから早く帰るよ」

 

 思うことも、考えることもある。だが、まずは言われた通りに身の安全を確保しなければ。

 エリオットはフィオナの手を引いて歩き出す。妙なことに感動して涙ぐみ始めた姉に頬を染めながら、彼は家路を急ぐのだった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 石畳の道を走る、走る、走る。帝都の街に流る水路を辿り、その源流たるアノール河へ。

 

「ふう……ふう……後どれくらいだい?」

「五分もしないさ。もう少し踏ん張るといい!」

 

 息を荒げるジョルジュにアンゼリカの叱咤激励が飛ぶ。走っては魔獣と戦い、また走ってというこの状況は彼の体力的に厳しいものがあるだろうが、それでもよくついてきてくれている。先月の実習と比して、学院のカリキュラムで体が出来上がって来た証拠だろう。

 喧騒に包まれた帝都では導力トラムも役に立たない。だからこそ広大な大都市を徒歩で駆ける羽目になっているのだが、やろうと思えば出来るものだ。或いはこの状況から体が疲れを感じなくなっているだけなのか。

 

「くっそ、また面倒な実習になって……本当に港に行けば何か分かるんだろうな?」

「分からないけど、可能性があるところから当たるしかないでしょ!」

「ああ、ご尤もだよ!」

 

 しかし、大した疲れは感じていなくても、何の原因も分からない混乱した状況にもどかしさは募る。

 突如として魔獣が出現したのはドライケルス広場に留まらなかった。居合わせていたトヴァル、そしてバルフレイム宮を守る近衛兵と手分けして水際から姿を現わしたそれらを掃討しても収まらない街の恐慌に只ならぬ事態であることは否が応にも理解させられた。

 とはいえ帝都は大陸最大を謳う都市。どこから手を付ければいいかなど見当もつかない。判断に迷うトワたちに、この街で支える篭手の一員として飛び回って来た青年の指示が飛んだ。

 ――グレートワッシャーは水棲魔獣だ。出てきた理由は分からんが、根元は分かっている。地下水路に向かうぞ!

 アーツが得意という言葉に恥じない高速駆動で魔獣を一頻り吹き飛ばしたトヴァルはそう言った。地下水路は帝都のほぼ地下全域に広がっており、入り口も複数に分散している。どこから魔獣が出てきていて、どこに原因があるか分からない以上、手分けした方がいい。トワたちは昨日にも入ったヘイムダル港の入口へ、トヴァルはまた別の入り口に向かうことになった。

 それは最善の判断だった。どう考えてもそれ以外に良い選択はなく、そして選択できる唯一の行動だった。

 魔獣は何故現れたのか、帝都のどれほどまで出没しているのか、どうすれば止めることが出来るのか。今は何も分からない。分からないが進むしかない。水路を辿り、市民へ襲い掛かる魔獣を撃退しつつトワたちは直走る。胸の内に焦燥を抱えながらも。

 

『港に多数の魔獣! 軍人たちが市民を守りながら戦っているの!』

 

 響く警告。上空から先を窺ってきたノイからの知らせに四人は面持ちを険しくし、より一層に地を蹴る足の力を強める。もっと速く、しかし足並みを崩さぬように。

 路地を抜け、視界が開ける。水面に浮かぶ貨物船、積み重なるコンテナ群。帝都の海運を担うヘイムダル港の光景は、今この時に限ってはそれらの特徴が霞むほどの混乱に彩られていた。

 

「これは……少し不味いんじゃ」

「大昔の遺構とはいえ、帝都の地下にこれだけの魔獣が巣食っていたとは驚きの事実だね」

 

 ジョルジュが冷や汗を流し、アンゼリカは半ば呆れ気味の声を出す。

 片手に収まらない数の魔獣と相対するのは紺の軍服、帝都憲兵隊の一団。その背後には港湾労働者らと思しき民間人が逃げ場も無く、動けずにそこに居た。民間人はありありと不安を浮かべ、軍人たちの表情は芳しくない。撤退も出来なければ突破も出来ない。彼らはジリ貧に追い込まれていた。

 元来、帝都憲兵隊は街の治安を担う部隊。暴徒の鎮圧や警護などには熟していても、魔獣の相手はあまり想定していないのだろう。理性なき獣たちの獰猛さに押され気味になっていた。

 故に目の前に集中せざるを得ず、他に注意を向ける余裕はない。水面よりずるりと這い出た新手に彼らは気付いていなかった。

 

「ちっ、さっさと行くぞ!」

 

 言われるまでもない。トワたちは駆け出し、瞬く間に距離を詰めていく。

 標的は死角を突こうとする新手。一番槍のアンゼリカが音に気付き振り向かんとした魔獣の横っ腹に拳を叩き込む。言葉なき苦悶の呻き。怯んだ魔獣にジョルジュの一撃が追い撃つ。顔面を鉄塊が襲い、顎をひしゃげさせながら宙を舞う。折れた歯を振り撒きながら新手は再び水中に送り返された。

 

「な、何!?」

「魔獣は引き受けます。市民の避難を!」

「君たちは……いや、しかし……!」

 

 突如として割って入ってきたトワたちに帝都憲兵も泡を食う。指揮を執っていた憲兵が速断を躊躇ったのは四人が学生だったからか、軍人としての矜持があったからか。

 しかし、相手は悠長に待ってくれない。場の変化に魔獣も動く。顔を指揮官に向けていたトワへ大顎が迫る。民間人から響く悲鳴。眼前に迫る赤黒い口蓋へ彼女は構えを取った。

 

「――散蓮華っ!」

 

 魔獣の動きに合わせるように振るわれた刃が、軌道を逸らした。大口が空を切ると共に襲う返しの一手、無数の剣閃が獣皮を刻む。空振り、血を流し、隙を晒した魔獣に見舞う止めの一撃。両の眼窩を貫き、頭蓋の中さえ破壊された魔獣は(くずお)れた。

 

「大丈夫ですから、ここは任せて!」

「む……後退用意! 港湾入口まで市民を誘導せよ!」

 

 軍人は命令に忠実な生き物だ。刀身を引き抜かれた眼窩から噴き出る血に気圧されながらも、上官の命令に遅れることはない。殊更に動揺する市民を纏めつつ、退路が開かれたトワたちが来た方向に後退していく。

 まだ相当数が残る魔獣と対峙しつつ、クロウが「はっ」と鼻で笑ったような音が耳に届く。見遣れば、彼は不敵な笑みを浮かべてトワを見ていた。

 

「プロの軍人も頼りねえな。こんなちっこい奴に気圧されるなんてよ」

「専門性の違いもあると思うけど。私、憲兵の仕事なんて出来ないと思うし」

「どうだか……なっ!」

 

 魔獣の相手はお手の物だが、治安維持などは門外漢もいいところだ。だというのに、クロウはまるで信じているように見えない。言葉を加えたくも、その話は銃声によって幕を閉じてしまったが。

 間合いを詰めんとした一体は牽制の銃弾により歩みを止める。唸り声をあげる魔獣らに改めて向き直る。

 

「さて、ARCUSの調子はまだいまいちだが……これくらい軽く捻ろうか」

 

 その言葉を皮切りに女子二人は地を蹴った。穿つ拳打、舞う剣閃、切り拓かれた裂け目を鉄槌が破砕し、間断なき銃声が後を追う。港は一時の争乱に包まれた。

 

 

 

 

 

「助力に感謝する。おかげで市民の安全を確保できた」

「いえ、当然のことですから」

 

 数分後、ヘイムダル港から魔獣を一掃したトワたちの前には軍帽を外した頭を下げる姿があった。

 律儀にも礼を述べる指揮官――二十代半ばくらいだろうか――にトワは言う。目の前で危険に晒されている人々がいたら放っておけないのが彼女の性質である。わざわざ頭を下げてもらうほどの働きをしたつもりは無かった。

 他の三人も概ね同意見だ。尤も、魔獣を倒しながら走ってきた経緯から感覚が麻痺している節もあるが。

 

「ならば、お言葉に甘えさせてもらおう。時間を浪費できる状況でもない」

「それはご尤もですね。市民はこれからどのように?」

「本人らは帰りたいだろうが、しばらくはここに留まってもらう。安全確保が出来ない内に放り出すことは論外。護送するにしても人員が足りない。待機してもらうのが彼らにとっても一番だろう」

 

 一般人ならここで「そういう訳にも」とごねりそうなものだが、指揮官は軍人らしい感覚の軍人だったようだ。即座に割り切り、次の行動へ思考を移す。アンゼリカの問いに対する答えも明瞭だった。

 

「送り届ける暇がないっていうのは分かるが、何もここに留まる必要もないだろうよ。魔獣(奴さん)は水辺から来ているんだ。別の場所に移動した方がいいんじゃねえか?」

 

 だが、続くクロウからの意見には眉間の皺を深めた。それなりに筋の通った話にも関わらず。

 確かに市民全員をそれぞれ送り届けるのは不可能だろう。港湾の作業員、貨物船の船員、或いは観光客など。この広大な帝都で帰る場所が同じ訳も無し、憲兵隊の人員も限られている中で戦力分散の愚は犯せない。とはいえ、それは市民を送り返そうとした場合の話。より安全な場所に纏まって避難する分には問題ない筈だ。少なくとも、いつ魔獣が再び這い上がってくるかも分からない港湾に留まるのは得策ではないだろう。

 それを理解していない訳でもないだろうに、指揮官の表情は険しい。己を押し殺しているかのように。

 

「我々は軍務によりヘイムダル港に来ていたのだ。私だけの判断で移動する訳にはいかん」

「軍務って……港でいったい何を?」

「軍機である」

 

 ぴしゃり、とにべもない返答。これには流石のジョルジュも鼻白む。事ここに至って軍機とは。

 

「事実としてここが危険なことに違いはありません。市民の安全を優先させることは出来ませんか?」

「独断専行は軍の規律を乱す。君たちも士官の卵、理解できないとは思わないが」

 

 話は平行線の様相を呈し始めた。指揮官が軍人らしい軍人であるが故に。

 確かに軍において独断専行は褒められたことではない。軍という強力な武装集団は規律を以て縛り、組織として運用することで初めて真価を発揮する。その統率を乱すことは軍人として選択し難いことに違いない。

 しかし、現状に当て嵌めて考えると悪手にしかトワたちの目には映らない。魔獣の危険性を度外視するだけでなく、その理由までひた隠して明かさないとは。自力で魔獣を撃退できる自信があるならともかく、先ほどの苦戦を見ているとその保証もない。意固地になっているようにしか思えなかった。

 そう言っても彼らは決して節を曲げないだろう。未だ切迫した状況で説得に時間を掛ける猶予もない。どうすればいいか。トワは自然と難しい顔になる。

 

「いかんなぁ、君。頭が固すぎては大成できないと私は思うよ」

 

 不意に声が掛かる。見れば、そこには眼鏡をかけた小太りの中年男性。何故か釣りのロッドを片手に持った、妙に見覚えのある人物であった。

 

「子爵のオッサンじゃねえか。こんなところで何してんだよ?」

 

 先日の当たり屋事件、その被害者であるボリス子爵が、そこにいた。オッサン呼ばわりをまるで気にした様子もなく、子供の様に屈託なくニッカリと笑う。「見てわからんかね?」と言う割には話したそうで堪らないと表情は伝えていた。

 

「釣りだよ。私はこれが好きなものでね。君たちはやらんのか?」

「はあ、私は故郷で海釣りとかしていましたけど……」

「海釣り! いいじゃないか、川釣りとはまた違った趣がありそうだ。また後でじっくりと――」

 

 んんっ、と咳払いがボリス子爵の言葉を塞いだ。指揮官が怫然として彼を見る。

 

「貴族の方とお見受けしますが、今の時点では貴方も私たちが保護する一市民に過ぎません。色々と要望があっても受け付けられませんので、しばらくは大人しくして頂きたい」

 

 急に横から口を出してきた挙句、何故か釣りの話をし始めたボリス子爵に指揮官が不機嫌になるのは仕方ない面もあるだろう。しかし、それにしても彼の口調は妙に刺々しかった。

 察するところは、ある。彼ら帝都憲兵隊は平民出身者が大部分を占める部隊らしい。加えて、そもそも帝都自体が革新派の影響が強く、貴族に対する平民の対抗意識も同じく強いと聞く。横柄に割って入ってきた貴族に対して口調が強くなるのも当然と言えば当然なのかもしれない。

 ボリス子爵は「ふむ」と蓄えた顎髭を撫でる。不快、という感情は見受けられない。常ならば陽気な笑顔が浮かぶそこには、思慮深い落ち着きのある表情があった。

 

「別に我儘を言いに来たのではないよ。ただ少し、君が頑固過ぎると思ったのでね」

「私は軍規に従っているに過ぎません。それに何か問題があるとでも?」

 

 指揮官は頑なに自身の態度を変えようとはしない。それが彼の軍人としての矜持だから。

 そんな彼にボリス子爵は生温かい目を向ける。不器用な、しかし生真面目な若者に教えるように。

 

「軍ならそれも通るだろう。だがね、今、君が目の前にしているのは学生であり、貴族であり、そして多くの一般市民なのだよ」

 

 軍には軍のルールがある。しかし、それは軍でのルールでしかない。自分たちだけの規律を振り回しても生まれるのは無理解による困惑、そして反感だけだ。

 

「ここを動けないのは良かろう。君たちにも為すべきことがあるのだろう。ただ、そのために軍規を振りかざして余計な軋轢を生まなければいけない程、軍人というのは頑迷でなければいけないのかね?」

「……私も、ボリスさんと同じ意見です。言ってくれれば協力も出来るかもしれません。どうしても、その軍務についてお話していただくことは出来ませんか?」

「む……し、しかし、私の独断では……」

 

 指揮官は言葉に詰まる。頭では理解しているのだろう。軍機と頑なに口を閉ざすよりは、事情を説明した方がこの場は上手く収まると。だが、ここでその選択が出来ないことが彼の軍人たる所以であり、そして未だ到らぬ若さの証なのかもしれない。

 道理に従うか、あくまで軍規に忠実であるか。返答は煮え切らない彼とは別の口から伝えられた。

 

「彼らの任務はこの地下水路に潜む犯罪者集団、その護送です。尤も、今の時点では不要になりましたが」

 

 涼しげな声が港に響く。トワたちははっとなる。その声が、つい今朝に聞いたばかりのものだったから。

 港の奥、件の地下水路に続く扉が存在するコンテナ群の向こうから灰色の軍服を纏った集団が近付いてくる。鉄道網を活用した優れた機動力を武器に迅速に展開し、各地の治安に介入する、鉄血宰相肝煎りのエリート集団。鉄道憲兵隊の部隊がそこに居た。

 その先頭に立ち、声を掛けてきた凛とした雰囲気の碧髪の女性。クレア・リーヴェルト大尉の姿を認めた途端、指揮官は慌てた様子で敬礼を取った。

 

「こ、これは大尉殿! 連中の身柄は――」

「作戦は中止です。これより我々は市内の魔獣殲滅に移ります」

 

 遮られ告げられた言葉に指揮官は「は……」と一瞬、呆気に取られる。そんな彼に構うことなくクレア大尉は重ねて告げた。

 

「地下水路の突破は魔獣の活性化により困難です。優先順位を鑑みても、まずは市内の安全を確保することが先決と判断しました。帝都憲兵隊はこちらの市民の方々を安全な場所まで護送、及び警護に当たって下さい」

「……はっ、了解しました!」

 

 粛々と告げられた指示に指揮官もようやく気を取り直した。びしりと敬礼をすると踵を返し、帝都憲兵隊の部下たちに伝えられた新たな指令を伝達する。その迅速さは先ほどまでの悩みようが嘘のようであった。

 クレア大尉が改めてトワたちに向き直る。冷静沈着な、しかし状況ゆえの緊張感を漂わせた双眸が四人へ、そしてボリス子爵へと移っていく。

 

「軍の者がお手数をお掛けしました。申し訳ありません」

「いや、こちらこそ無理を言っているのは承知していたからね。そこはお相子としておこう。それよりかは事情を説明してくれると嬉しいのだが」

「……そうですね。概要なら、お話しさせて頂きます」

 

 謝辞を述べる彼女にボリス子爵はパタパタと手を振る。事の善し悪しよりも情報を求める彼に、クレア大尉も条件付きながら応じた。

 

「我々、鉄道憲兵隊は地下水路に手配中の犯罪集団が潜んでいるとの情報を入手し、その捕縛のために動いていたのですが……突入の数分後、魔獣の群れによる襲撃。それに連動するように市街でも魔獣が発生しているとの連絡を受けました。事の重大性を鑑み、作戦を中止。これより帝都内の魔獣掃討に移ります」

 

 これでよろしいでしょうか、と整然と話し終えたクレア大尉は窺うような目を向ける。まるで無駄のない簡潔かつ要所を掴んだ報告に、ボリス子爵も目をパチクリさせて「はあ」と気の抜けた声を漏らした。

 概要だけとはいえ、トワたちには得難い情報であった。何よりも注目するべきは、今朝方に話していた犯罪集団の巣窟がこの地下水路に存在するということだろう。そして鉄道憲兵隊の突入とほぼ時を同じくして、この魔獣騒動が発生したということも。

 クレア大尉や隊員たちが纏う灰の軍服に目を向ける。地下水路という場にいたことによる汚れもあったが、返り血の赤黒い痕、明らかな外傷を負っている隊員も目に付いた。最新装備で身を固めた彼女たちが多少なりとも手を焼かされたのだろう。話の魔獣の群れというのがそれほどまでに大規模だったということか。

 そんな魔獣の群れが狙ったように憲兵隊を狙うのは、どう考えても不自然ではないだろうか。

 

「あの……突入後に魔獣が発生したということですけど、その犯罪集団と何か関わりがあったりとかは?」

「確かに彼らにとって都合が良すぎる展開です。しかし、それを証明する手段も時間もない。そして優先するべきは帝都の治安を回復すること。事の関連性を追求する暇はないでしょう」

 

 その懸念はクレア大尉にもあったようだ。あったが、それに構う猶予は彼女には残されていなかった。

 疑問に答えるのもそこそこに彼女は会話を打ち切る。冷静であるが故に、状況の悪さを理解していたのだろう。

 

「それでは私はこれで。そちらは避難誘導に従って頂き……貴方たちの方は無用でしょうが」

 

 そう言って見るのはトワたち四人。トワが憲兵隊の様子を見て察したのと同じように、彼女も察していたのだろう。四人が魔獣を倒しながらここまで来たことに。

 

「一応、忠告しておきます。地下水路内は我々でも突破は容易ではない数の魔獣が道を塞いでいます。犯罪集団については別の手を回しているので、くれぐれも逸って無理をしないように」

「忠告ねえ。俺たちが遊撃士みたいな真似をしているからか?」

「良心からのつもりですが……そうですね、強いて言えば、()と似た目をしているからでしょうか」

 

 反発心からか余計な口を利くクロウに対して返って来た言葉は妙に意味深なもの。そして、その言葉は彼に対してではなく、隣に立つ小さな少女に向けられていた。即ち、急に呆れ半分の様な目を向けられて「えっ」と戸惑うトワに。

 クレア大尉はそんな彼女に僅かながら微笑む。

 

「彼の無茶無謀には苦労させられていますからね。もう少し配慮して下されば、こちらとしてもやりようがあるのですが」

 

 そんな少し愚痴っぽいことを言い残し、クレア大尉は指揮に戻った。率いる部隊に命令を下す。隊員からの「イエスマム!」という声と共に軍靴は遠ざかっていった。

 彼女が魔獣掃討を指揮する以上、これ以上の被害拡大は心配しなくてもいいだろう。《氷の乙女》の異名は伊達ではない。帝都という彼女たちにとってのホームグラウンドであれば尚更だ。

 

「正直、話半分程度しか理解しておらんが……いや、噂の女性士官殿は凄いものだね。あれだけ優秀そうな子を他にも抱え込んでいるとは、宰相殿が羨ましい限りだよ」

「そういう貴方は貴族でしょう。あまり面白くないのでは?」

「私はあまり貴族派と馬が合わなくてねぇ。それを言うなら君のお父上の方が当て嵌まるだろう」

「仰る通りで」

 

 鉄道憲兵隊が去った方向を見ながら惚けたことを言っていたボリス子爵は、アンゼリカからの指摘に飄々と返していた。確かに彼の性格的に他の貴族と上手くやっていくのは難しい気がする。ハインリッヒ教頭のように腐れ縁になれば、また別なのかもしれないが。

 

「さて、これからどうしたものかね。この状況では釣りの続きも出来ないようだし」

「はは……魚じゃなくて魔獣が釣れるんじゃないですかね」

「それはそれで新鮮な体験になりそうだ。君たち、これも何かの縁と思って付き合ってはくれまいか?」

 

 そう大口を開けて笑うボリス子爵にトワは苦笑いを返すしかない。内容然り、そして彼の後ろに立つ青年然り。

 

「こう~じょ~ちょ~……」

「ひょっ!?」

 

 幽鬼の如き声にビクリと肩を震わせるボリス子爵。おそるおそる振り向いた先の人物に引き攣った笑みを浮かべた。

 

「や、やあ、ドミニク君。こんなところまでどうしたんだい」

「さて、心当たりがあるのでは?」

「いやいや、私はただ休憩時間に出歩いていただけだからね。君がそんな怖い顔をする心当たりなんて、とてもとても……」

「そうですね。予定の列車の時間まで休憩にしたところ、ホテルから勝手に抜け出して、こんな状況下で呑気に釣り糸を垂らしていた挙句に、秘書に街中を走り回らせて、果てには先日お世話になった方々にふざけたことを抜かしているだけですものね」

 

 ぐうの音も出ないとはこのことか。嫌味っぽく長々と自身の行動について聞かされたボリス子爵は、目が笑っていない青筋を浮かべんばかりの秘書に対して体を小さくした。

 ちらり、と助けを求めるような視線が送られてきたが、これには流石に応えられない。ドミニクに内緒で釣りに出向いてきた様子の彼の自業自得である。四人は苦笑いを浮かべることで返事とした。

 

「いや、まあ……最後に関しては冗談のつもりだったのだよ?」

「では、勝手に釣りに出かけた理由は?」

「それは君、せっかく手に入れたレイクロードの最新ロッドの使い心地を試したいと思うのは、釣り人にとって当然のことだろう」

 

 それでも全く悪びれることもなく勝手な都合を言い切れるのだから、ある意味で大物と言うべきかどうなのか。判断に迷うところであるが、少なくとも只者ではないことだけは確かだろう。

 ドミニクもこれには怒る気も失せたらしい。大きな溜息を吐くと申し訳なさそうにトワたちを見た。

 

「すまなかったね、君たち。また工場長が世話になってしまって」

「それは構わねえけどよ、そのオッサンの手綱はしっかり握っておいた方がいいと思うぜ」

 

 やや意地の悪い笑みを浮かべたクロウに、ドミニクは「肝に銘じておくよ」と同じく笑う。仮にも貴族相手にあんまりな扱いではあるが、これも人徳なのかもしれない。観念したのかボリス子爵は降参とでも言うかのように諸手を挙げた。

 

「こうなっては仕方ない。私は大人しく避難するとしよう。トワ君、だったかな。機会があれば釣り話にでも付き合ってくれたまえ」

「あまり詳しい訳ではないですけど……私でよければ、楽しみにしています」

「うむ。まあ、何にせよこの状況だ。私が言うのもなんだが、君たちも気を付けてな」

「自覚があるなら自粛してくれませんかね……」

「はっはっは、それは無理な相談というものだ。貴族とは多かれ少なかれ勝手な人間だからね」

 

 そう陽気に笑ってボリス子爵は後ろ手を振りながら去っていった。ドミニクも一礼を残し、それに従う。まだ帝都憲兵隊は港湾入口あたりで駐留している。彼らに護送してもらえば大丈夫だろう。

 

「相変わらずクセの強いオッサンたちだったな。漫才コンビとしてやっていけるんじゃねえの?」

「さてね。貴族では変わり種であることは確かだが」

「君がそれを言うかなぁ」

 

 これは手厳しい、とアンゼリカ。ボリス子爵が変人の類であることは間違いないが。

 しかし、今はそれについて深く語る時ではないだろう。四人は改めて地下水路への道を見る。

 

「で、どうしようか? クレア大尉はああ言っていたけど」

 

 もともとトワたちがヘイムダル港まで来たのは、魔獣の発生源と思しき地下水路に何かしらの手掛かりがあるのではないかと考えたからだ。そして、それは図らずもクレア大尉の話から知ることが出来た。犯罪集団捕縛のための突入と、それに連動するかのような魔獣の活性化。確たる証拠はないが、それでも偶然と断じるにはタイミングが良すぎる。

 クレア大尉は逸って無茶なことをしないようにと言っていた。シグナについて不信感を抱いていたり愚痴ったりしていたが、彼女なりにトワたちを心配して言ってくれたのだろう。普通ならその配慮に従うべきとも思う。

 だが、己の身の可愛さがために、目の前の不審を見逃してしまっていいのだろうか。

 

「……進んでみよう。絶対とは言えないけれど、この魔獣騒動に関わる何かがあるかもしれない」

「いいのかよ? 良い子のお前がそんなこと言って」

「そこはほら、クレア大尉だって水路に入るなとは言っていなかったし」

 

 トワにとって答えは否だった。彼女にしては珍しい詭弁にクロウもニヤリとする。

 

「いいぜ。このまま放っておくのも寝覚めが悪いしな」

「せっかくの帝都実習、ここらで決めて綺麗に終わらせるとしようじゃないか」

「うーん……たまにはリスクを取る必要もある、かな。安全に気を遣う必要はあるけれど」

『まったくもう。これじゃあシグナと同類と言われても仕方ないの』

 

 結局のところ、クレア大尉の忠告を素直に聞くような殊勝な人間はこの場に居なかったという訳だ。先ほどボリス子爵を変人扱いしていた四人であるが、他人から見れば彼女たちも似たり寄ったりの変わり者の集まりである。

 お目付け役からの苦言については、努めて耳に入れないようにした。

 

「じゃあ行こう。迅速に、けど慎重にね」

 

 その言葉を合図に四人は駆けていく。未だ魔獣が蔓延る帝都の一角で、彼女たちは薄暗闇に呑み込まれていった。

 




【散蓮華】
オルバス師匠に最後に教えて貰える奥義。敵の攻撃をガードしつつ複数回ダメージを与えるカウンター技。最後に教えてもらえるだけあって、かなり便利な技であるが、特定のボスにはカウンター返しされた覚えがあるので注意。

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