永久の軌跡   作:お倉坊主

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おっかしいなぁ……三月から頑張って就活しているのに、なんで十二月になってもまだやっているんだろう。卒論と就活のダブルパンチは死ぬ(白目)

私事は置いておくとして、帝都実習の二回目でございます。途中から『Intense Chase』(零の軌跡)を流しながら読むと雰囲気が出るかもしれません。


第18話 帝都追走

 午後二時、依頼に取り組み始めて午前の活動を終えた頃。トワたちは遅めの昼食をプラザ・ビフロストの喫茶コーナーでとっていた。

 トワたちがトールズ士官学院の生徒と知り、学院食堂のラムゼイとサマンサの息子であるというコックがサービスで付けてくれた珈琲を啜りながら、ようやく人心地着いた様子で四人はふう、と息を吐く。午前一杯の活動だけでも彼女らに溜まった疲れは相当なものだった。

 シグナから任された依頼の量が膨大であった、というのも勿論ある。だが、それ以上に苦労することになった要因は、このヘイムダルという街そのものにあった。

 

「はあ、ようやく脚の調子が戻ってきたよ。さっきまでは本当に棒のようだったからね」

「それは君、鍛え方が足りないのだよ……と普段なら言うところだが、今回ばかりは無理もないだろう。まさかここまで歩き回ることになるとは私も思っていなかった」

 

 大陸最大規模の都市。その名に恥じることのない巨大さを誇るヘイムダルは、依頼を受けて回るトワたちに必然的に頻繁な移動を強いることになった。

 東の街区で依頼を受けて西の街区へ、そのまた次は東へ行って、依頼者の都合でまたまた西へとんぼ返り。可能な限り同時並行で依頼を進めることにより、なるべく移動のロスを少なくするよう意識していたのにこの有様である。これで導力トラムがなかったらと思うとぞっとしない話だ。街区一つだけでも地方都市並みの大きさがあるというのに、その間を徒歩で移動するとなると気が遠くなる。

 遊撃士協会が東西に二つの支部を置いていた理由も、こうして実際に依頼をこなしてみるとよく分かる。単に規模の問題ではなく、東西で担当を分けなければ対応しきれないのだ。毎日がこの調子では流石の調査と戦闘のプロフェッショナルもばててしまう。

 

「今回の報告には一班だけじゃ無理って書いておくとしようぜ……来年は一クラス作るんだから二班に分けるくらいの人数はいるだろうしよ」

「そうだねぇ。後輩に同じ苦労を味あわせる訳にもいかないし」

「俺たちが苦労しているのは、お前が相変わらずお節介なのも原因だと思うがな」

 

 溜息交じりにぼやいたクロウは、応じたトワに半目を向ける。自分自身、心当たりもあるのでトワとしては誤魔化すように苦笑いを浮かべる他ない。それにまた彼は溜息を吐くのだった。

 なんてことはない。行く先々でトワが困っている人を見つけては、依頼以外の用事も作って余計に移動が増えただけの話である。いつも通りといえばいつも通りのことだ。

 

「終いには迷子の親探しなんて始めてよ。おかげで飯を食うのも遅くなっちまった」

「おや、その割には反対もしていなかったし親御さんを見つけてきたのは君自身じゃないか」

 

 ぶつぶつと文句を言っている割にクロウはよく働いてくれた。口は悪いなりに泣きじゃくっていた迷子の子供を励ましていたし、大慌てで子供を探していた親を探してきたのも彼だ。

 それをアンゼリカがからかうように言えば、苦い顔をしてそっぽを向く。バンダナで逆立った銀髪をガシガシと掻いた。

 

「どうせやめとけって言っても聞かないだろうが。だったら手っ取り早く片付けた方が面倒も少ないだろ」

「素直じゃないなぁ、まったく」

 

 うっせ、と悪態をついて隣のジョルジュを叩く。一月前の実習ではごねていた男が変われば変わるものである。

 

「まあ、あの親子を無事に引き合わせられてよかったじゃないか。他にも観光客の失せ物探しとか色々あったけど……こういう突発的な問題に対応していくのも試験実習の一部だろうしね」

「そりゃそうだが、だとしても数が多いっつうの」

 

 確かに、とトワは頷いた。終わったことにぐちぐちと文句を言うのはともかく、突然の問題が多いのは同意できる。

 以前のケルディックでもライモンからの依頼と魔獣被害の調査を請け負いはしたが、その場で受けたものはそれだけだった。ところが、この帝都ではそれが頻発している。既に先の迷子の親探しも含めて、シグナから任された依頼に三件ほど追加のものが加わっている。トワが目敏いのもあるが、それだけ依頼となり得る問題が転がっているということでもある。

 やはり、ヘイムダルという巨大都市ならではのことなのだろう。これだけ街が人で溢れていれば、迷子にもなるし忘れものだってするのも無理はない。遊撃士協会に寄せられる大量の依頼にも納得がいくものだ。

 その遊撃士協会が閉鎖されることになり、今後はどうなっていくのか……と気にはなるところだが、少なくとも今は誰も口にしない。いずれにせよ、シグナの口から詳しいことを聞かなければ自分たちは憶測でしか語れないのだから。無為な行為に費やす時間も体力もない。

 

「でも、駆けずり回ったおかげで午後は余裕が持てそうじゃない。もうひと踏ん張り頑張ろう」

「はいはい、お前さんが余計な仕事を抱え込まなきゃの話だがな」

「はは、いいじゃないか。前回の講評を聞く限り、そうした依頼を受けることも評価に繋がるみたいだし」

 

 珈琲に口を付けながらジョルジュが笑う。ふう、と一息ついてソーサーに戻したその中身が、砂糖もミルクもたっぷり入った珈琲と言っていいのか首を傾げてしまう代物であることは触れないでおくとする。

 彼の言う通り、前回の実習でのサラ教官からの評価は良好だった。自主的な判断による積極的な活動が評価されたからだ。今回もそれに倣って悪いことにはならないだろう。

 

「ともあれ、まずはシグナさんから渡された依頼を片付けるのが先決だ。後は何が残っていたかな?」

 

 しかし、あるかどうか分からないものにかまけて目先のことを見失う訳にもいかない。アンゼリカに促され、トワは「えっと」と依頼のメモをした手帳を改めて確認する。

 

「地下水道の魔獣退治だね。依頼主はヘイムダル港の人。港湾地区近くに入り口があって、そこの定期的な駆除の依頼が回ってきたみたい」

「定期的な駆除ねぇ。支部を閉めたらそういう訳にもいかねえだろうに……って言うのは余計なお世話ってもんか」

「しかし地下水道か……噂で聞いた限り、相当複雑なものが張り巡らされているらしい。少しばかり梃子摺るかもしれないね」

「だとしたら夕方まで掛かると見込んでおこうか。そっちに取り掛かるまでに他の用事は片付けておこう」

 

 午後の活動方針を確認し、もう少ししたら実習を再開することにする。せめて、この珈琲一杯くらいはゆっくりしていってからでも罰は当たるまい。

 そう考えている時に限って、何かが起きてしまうのは星と女神の悪戯とでも言うべきだろうか。

 甲高い音が響く。次いで何かがぶつかる音。百貨店の中からではない、外だ。

 

「……なんだ、今の音?」

「分からないけど……ちょっと騒ぎになっているみたいだね」

 

 近くの窓からヴァンクール大通りを見下ろすと、何やら人だかりができている。導力車の流れも一部で止まっているようだ。ざわめきが建物の壁を通して伝わってきて、突然の大きな音に固まっていた百貨店の空気にも伝播していく。細かいことまでは窺い知れないが、トラブルがあったのは間違いないだろう。

 四人は顔を見合わせる。戦術リンクで繋がっていなくとも、こういう時に何を考えているかくらいはもう分かるようになっていた。その考え方がかなりトワに影響されたものであることは否定できない。

 

「行くとしようか。どうやら休憩は終わりらしい」

「やれやれ、もう少しゆっくりしていたかったんだけどな」

 

 残った珈琲を一息に煽る。忙しい合間の安らぎの一時を惜しみつつも、四人は一先ず状況を確認するため足早に百貨店を後にして大通りに出て行った。

 

 

 

 

 

 プラザ・ビフロストから騒ぎの中心点はそこまで離れていなかった。近くの帝国時報本社ビルから少し先の曲がり角、そこを遠巻きに囲むように人だかりができている。パニックにはなっていないようなので、そこまで深刻な事態ではないようだが。

 何はともあれ、近寄ってみないと何も分からない。ざわめく人波の間を縫って人垣の中心点へとトワたちは進む。人の背で覆い隠されていた騒ぎの原因が、人垣が薄れるにつれて明らかになっていく。

 一台の導力車、その近くで何某か言い争う三人の男。いや、言い争っているというよりは、被害者の男が眼鏡の中年男性と青年に怒鳴りつけていると言った方が正しいか。近くには何かが砕けたような破片が散らばっており、導力車には衝突した痕のようなへこみがある。

 見たところ、所謂交通事故というものだろうか。導力車を見ること自体が珍しいトワには詳しいことはよく分からないが、この状況からして間違いではないと思う。

 

「いやねぇ、また交通事故だなんて。今月でもう何件目かしら」

「もう本当に。うちの子も事故に遭わないか冷や冷やして……」

 

 ざわめきに耳を(そばだ)てると、友達同士と思しき婦人二人組のそんな会話が聞こえてくる。どうやら帝都では頻繁に起こっていることらしい。

 物騒なことだが、これだけの通行量があれば仕方がないような気もしてくる。ひっきりなしに道を行き交っているのに加え、導力車自体がまだ乗り物として新しい部類なのだ。普及してきたのがここ最近であるために、その通行を管理する制度が整備され切っていない。そのため事故が起こりやすく社会問題になっている……とハインリッヒ教頭の授業で聞いた覚えがある。

 実際に目にすることになるとは思わなかったが、幸いにして双方ともに大きな怪我はないようだ。怒鳴り散らしている男も、それに恐縮している様子の二人組も遠目から見て身体に異常はない。

 

「おい、はっきりしろよ!? 折角こっちが譲ってやってんだろうが!」

「ああいや、その通りなんだがね。こちらとしてもそう軽々と頷けることでは……」

「ああっ!?」

「うう……ど、ドミニク君。どうしようか?」

「こちらが事故を起こしてしまったからには強くは言えませんが……どうしたものでしょうか」

 

 しかしながら、無事であるだけに被害者は酷く憤慨しているらしい。おそらくは運転していた側の二人組に食って掛かり、相手は事故を起こした負い目もあってか縮こまるばかり。どうにも当事者だけでは収まりのつかない状態になってきているようだった。

 それでも言い争いの範疇に収まっているなら、それでよかった。しばらくは騒がしくしているだろうが、いずれは憲兵隊がやって来て事態を治めてくれるだろう。

 

「このっ……口じゃ分からねえか!」

「うひぃっ!?」

 

 だが、暴力沙汰になってしまうようなら流石に放っておく訳にもいかない。

怒りに任せた男が相手の胸倉に掴みかかる。掴まれた側の眼鏡の男が悲鳴を上げ、青年がそれを慌てて制止しようとするも、頭に血が上った男に払い除けられた。

 

「……ごめん、また仕事増やしちゃうみたい」

「へいへい、いいからさっさと行くぞ」

 

 謝罪しつつも、固い意志を感じさせるトワの言葉にクロウはとやかく言わなかった。もはや諦めの境地にあるようで、それが申し訳なくもどこか嬉しい。

 四人は急いで騒ぎの中心に駆け寄ると、クロウとジョルジュでまずは掴みかかる男を引き剥がした。「な、何しやがる!?」と暴れる男をなんとか押さえつけながら、クロウは呆れたように溜息を吐く。

 

「ぶつけられて腹立つのは分かるがな、これじゃどっちが加害者か分かったもんじゃないぜ。少し落ち着けよ」

「暴力沙汰になったら単なる交通事故で済む話じゃなくなりますし、ここはどうか抑えて」

「……ちっ!」

 

 盛大に舌打ちした男は二人に拘束を振り払うが、再び掴みかかることはなかった。一先ずはホッと胸を撫で下ろし、次いで相手の方に目を移す。胸倉を掴まれていた眼鏡の男性は腰を抜かしつつも安堵の息を吐き、青年も取り敢えずは安心した様子だ。

 

「工場長、大丈夫ですか?」

「ああ、私は平気だよ……ありがとう、お嬢さんたち。おかげで助かった」

「いえ、お怪我が無いようでなによりです」

「もっとも、あなた方を擁護するために割って入った訳でもありませんが。私たちも立ち会いますので、どうか話し合いで決着をつけるようにしてください」

 

 青年に手を借りて立ち上がる工場長と呼ばれる眼鏡の男性。あくまで暴力沙汰になるのを止めるためとアンゼリカが念を押せば「そうなのかね」と弱々しく眉根を下げる。やや小太りな体型もあってか妙に愛嬌があるオジサンだ。

 手を挙げることはないものの、未だ憤懣冷めやらぬ様子の男が再び前に立つと、彼はまた体を縮こまらせる。事故を起こしてしまったショックもあるのだろうが、どうやら元から気は小さい方と窺える。

 男は苛立たしげな声で「それで?」と口火を切った。

 

「いきなりしゃしゃり出てきたお前らはどこのどいつなんだよ? 大人の事情に頭を突っ込んできやがって」

「見た感じ、あまりにも大人げない様子だったがね。私たちはトールズ士官学院の生徒だ。帝都には実習に来ている最中でね、そんな時にこの騒ぎが目に付いたという訳だ」

「ほう、トールズの」

 

 眼鏡の男性が興味深そうな声を上げる。どうやら学院の名を知っているようだ。

 

「ドライケルス帝が建立したかの学院には私も少々縁があるのだよ。いや、それにしても君たちのような若者を実習に送り出しているとは知らなかった。伝統ある学院も新しい試みを……」

「工場長、工場長」

 

 お喋り好きの気質でもあるのか、饒舌に語り始めた彼の肩を横の青年が叩く。何かね、と言わんばかりに不思議そうな目を向け、視線で指し示された方に向き直って顔を蒼くさせる。被害者側の男はあからさまに眉間に皺を寄せていた。

 眼鏡の男性は「あー……」と目線を宙に彷徨わさせる。悪い人ではないようだが、どうにもおっちょこちょいな印象をトワは抱いた。

 

「……まあ、そこの餓鬼どもが誰だろうが関係ねえ。こっちの条件を呑むか呑まねえか、さっさと答えやがれ」

「ううむ……そ、それはそうなのだが……」

「あの、口を挟むようですが、条件って何の話ですか?」

 

 交通事故ならば、帝都憲兵隊の到着を待ってそこから話を付ければいい筈だ。なのに条件云々という話が出てくることが理解できず、つい口を出したジョルジュに男は煩わしげな目を向ける。

 事故を起こされて気が立っているのかもしれないが、横槍を入れた形のトワたちにやけに疎ましそうな感情を露わにしてくる男だ。そこまで悪感情を向けられる謂れはないと思うトワとしては内心で首を傾げてしまう。

 少しばかり腑に落ちないものを持て余していると、眼鏡の男性の傍にいた青年がスッと踏み出してくる。方向性は真逆であっても共に感情的な二人に比べ、彼は幾分か落ち着いている容貌だ。

 

「第三者の意見も欲しい。折角だから私の方から詳しい経緯を説明させてもらうよ。工場長、構いませんよね?」

「うむ……事故を起こしてしまったことには変わらん。頼む、ドミニク君」

 

 やり取りからして、工場長と呼ぶ男性の付き人のようなものらしき青年――ドミニクは「分かりました」と一つ頷くと、トワたちに向き直る。

 

「そちらの方が気を急いているようだから、悪いけど手短にさせてもらうよ……事故が起きたのはついさっき、私たちの導力車が停まっている、そう、あそこの曲がり角だ。ヴァンクール大通りから曲がろうとした時、不意にそこの男性が飛び出してきて……」

 

 彼はちらと苛立たしげに爪先で地面を叩く男を見る。気取られない内に視線をトワたちに戻し、少しだけ肩を竦めた。

 

「ブレーキは踏んだのだけど、急なことで間に合わなかった。不幸中の幸い、彼にも怪我はなかったようだが、代わりに持ち物が駄目になってしまったんだ」

「なるほど、あそこに散らばっている破片は被害者の持ち物というわけですか。ちなみに何の物品と?」

「蒐集している壺、だそうだ。私や工場長はあまり詳しくないのだが、かなり値が張るものらしい」

 

 なんとなく事故の概要は掴めた。歩行人の飛び出しと運転手の不注意のどちらが原因かは分からないが、扱いとしては物損事故で間違いないだろう。当の被害者がピンピンしていて大声を張り上げていたのだから、怪我の心配がないのは確かだ。

 アンゼリカが「ふむ」と考え込む様子を見せると、路肩に止まった導力車と壺の破片が散らばる現場に足を向ける。ジョルジュも何かが気になったのか、彼女の後に続く。彼女たちなりに考えがあるのだろう、止めることはしなかった。

 それより、このドミニクという人からもっと話を聞きたい。事故の概要は分かったが、どうしてこうも一方的に罵られているのかが知りたかった。

 

「お話だけだと、どちらに責任があるかは分かりませんね。憲兵隊の到着を待って判断を仰いだ方がいいと思いますけど……その条件というのが、何か問題になっているんですか?」

「ああ。実はね……」

 

 責任の所在はともかく、ここまでなら普通の交通事故だろう。後は憲兵隊に任せてしまえばいい話であり、トワたちの出る幕ではない。だが、先の話に出てきた不可解な言葉がどうしても気になってしまう。

 困ったように眉根を寄せるドミニク。そこで痺れを切らしたのか、男が会話に横槍を入れてきた。

 

「だからさっきから言っているだろうが。十万ミラでチャラにしてやるから、さっさと払えってよ!」

 

 その言葉に、トワは目を瞬かせる。十万ミラでチャラにする、それはつまり、ミラでこの事故を無かったことにしてやるということか。

 あまりにも不可解だ。それで男に何の利益があるのか……いや、十万ミラという利益はあるが、壺の損害分だとしても単純に憲兵隊を介して弁償を請求すればいいだけではないのか。今ここで事故を無かったことにするのに何の意味があるのか理解しかねる。

 そんなトワの当惑を余所に、男は眼鏡の男性へと再び詰め寄り始める。ドミニクの説明が終わるまで辛抱は続かなかったらしい。

 

「いいか、俺は列車に乗って遠方に取引に行く予定があるんだ。憲兵の取り調べに捕まって時間をドブに捨てるような余裕はないんだよ! アンタも商売している身なら分かるだろうが!」

「それは尤もだ、うむ、尤もだとも。しかしだね、私としては栄えある帝国民が事故を隠蔽するのも如何なものかと……」

「おい、もう一度言ってやる」

 

 ずい、と男が距離を詰める。怒り心頭の顔面を突き付けられた眼鏡の男性はもう真っ青だ。

 

「憲兵にしょっ引かれて困るのはアンタも同じだ。事故を起こしたとなりゃ、罰金はもちろん免停にされるのは目に見えている。それを壺の弁償も含めて十万ぽっちで済ませてやろうって言ってんだ。出すもん出してさっさと終わりにさせろや!」

 

 あまりの剣幕に眼鏡の男性は気圧されて、もう今にも頷いてしまいそうだ。ドミニクという青年も手を出しあぐね、どうすればいいのか困り果てている。このままでは男の要求が通るのも時間の問題だろう。

 男のよく回る口のおかげで、期せずして彼の言う条件とそれがもたらす利益は把握できた。予定に追われている男にとっては迅速な解決を、眼鏡の男性にとっては免許の停止や罰金の回避を。十万という纏まった――しかし決して払えない額ではないミラで事を収めようというのだ。

 一見、理屈は通っている。導力車をぶつけられて高額な壺を壊されたが、仕方なくミラで解決してやろうとしている。そんな風にも受け取れるだろう。激しい剣幕も、理性ではミラでの解決を望んでいても抑えきれない怒りが現れてのものだと納得も出来る。

 

「あの、ちょっといいですか?」

 

 だが、自分の知識との食い違いが、トワに疑念を抱かせた。

 男が睨み、大きく口を開く。怒鳴りが事を有耶無耶にしてしまう前にトワは口早に切り出した。

 

「確か、現行の制度では事故を起こしてもすぐに免許停止なんてことにはならなかったと思いますよ。もしかしたら罰金はあるかもしれませんが……危険運転の結果ではないのなら、壺の弁償だけで済む筈です」

「ほ、本当かね?」

 

 萎縮していた眼鏡の男性が藁にもすがるといった目を向けてくる。トワは自信を持って頷いた。

 導力車はここ数年で随分と普及したが、それに反して法整備が追いついていないのが現状だ。そして同時に、制度そのものが導力車を運転する人々に周知されていないのも大きな問題となっている。

 導力車の運転資格を得るのは簡単だ。役所で簡単なルールを教える講義を受けて、そこで免許証を発行してもらえばいい。ほんの半日あれば事足りる、あってないようなステップなのだ。導力車を走らせるうえでの最低限の知識しか教えないがために、事故を起こした時にどうすればいいのか、罰則がどうなるのかも完全に理解している人は少ない。

 だからこそ政府は早急に交通法を整備し、それを民衆に広めなければならない――というのは、先週の現代社会の授業において展開したハインリッヒ教頭の持論だ。

 数日前に受けた説明が頭に残っているからこそ、男が尤もそうに唱える条件はどうにも怪しく見えてくる。その疑念が伝わったのだろう。男は頭に血を上らせて反駁の言葉を吐く。

 

「それがどうしたってんだ!? どっちにせよ、コイツが俺の壺を壊しやがったのは違いねえんだよ! ミラを払わねえことには腹の虫が……!」

「ああ、その壺のことだがね、君」

 

 涼しげな声が割って入る。ハンカチ越しに割れた破片を検分していたアンゼリカが冷ややかな笑みを浮かべた。

 

「誰から買ったかは知らないが、騙されたんじゃないかい? どう見ても粗悪品だよ。中世の頃の水瓶か何かだろう、古いだけでミラがつくほどの価値は無い」

「お前、美術品鑑定とかできたのかよ?」

「嗜み程度の知識さ。こういうのが好きな女の子とお近づきになるための、ね。さっぱり相手にされない君には理解できない領域だろうが」

 

 言った側は意外そうなクロウに余裕の返答をするが、言われた側は余裕など欠片もなかった。先ほどまでの脅しつけるような怒りでもない。苦虫を噛み潰したような顔からは焦燥感に似たものが滲み始めていた。

 眼鏡の男性とドミニクという青年も、話を聞いて何かがおかしいと気付き始めていた。それでも尚、何か申そうとする男の口を塞いだのは続くジョルジュの問い掛けだった。

 

「僕からも一つ――あなたはどうして怪我をしていないんですか?」

「な、何を言って……!」

「おかしいんです。この導力車のバンパーの凹み、これは壺みたいな割れ物がぶつかっただけでは付かない。もっと大きい質量を持ったもの……あなた自身がぶつからない限り、この凹みが付くのはあり得ないんです。なのに、どうしてあなたは怪我をしていないんですか?」

 

 現場付近に導力車が他に衝突したような形跡はない。ぶつかった可能性があるのは、割れた壺とそれを持っていた男本人しか存在しえない。にも拘らず男には掠り傷一つなく、まるで何事もなかったかのようだ。仮に男が武術の達人で、衝撃を完全に逃がして完璧な受け身を取ったとしても、打撲や擦り傷の一つさえないのは不自然極まりない。

 誤ったルールを盾にした条件、偽りの価値の壺、不自然なほどに無傷な体。どれか一つだったのなら偶然や誤解と考えることも出来ただろう。だが、三つまでも重なってしまえば疑念を抱かざるを得ない。トワたち、そして眼鏡の男性と青年にも同じ疑いを抱かせる。

 つまり、この事故は本当に事故だったのだろうか、と。

 あれだけ怒鳴り散らしていた男は声の一つさえ漏らさない。ただ顔を歪めていた感情が怒りから憎しみに似たものに取って代わり、憎悪さえ感じられる視線がトワたちに向けられる。ただの事故の被害者というには些か強すぎる負の感情だった。

 

「ま、お前が何を考えているのかなんて知ったこっちゃないんだがよ、ここは大人しく社会のルールに従った方がいいんじゃねえの?」

 

 男の肩に手を置いたクロウが通りの向こうに目を遣る。未だざわめく人垣の向こうから、紺色の軍服に身を包んだ軍人たちが近付いてきていた。帝都の治安維持を担当する帝都憲兵隊だ。問答をしている内に、憲兵隊がこの騒ぎを聞きつけてきたのだろう。

 その姿を認めて、トワはホッと胸を撫で下ろす。何やら妙な事故だったが、後は憲兵隊に引き渡せば公正に処理してくれるだろう。自分たちの役割はここまでだ。

 そう思ったからこそ気を緩めてしまった。いくら怪しい男とはいえ、憲兵隊を前にして何か仕出かすほど大それた人物ではないだろうという油断があった。その一種の慢心が判断を遅らせ、男の行動を見逃すことになる。

 

「……チッ!」

 

 男がクロウの手を跳ね除ける。いきなりの行動に彼も反応できず、弾かれた手首を押さえて「お、おい……」と言い掛けたところで言葉を失った。

 男の手にはナイフが握られていた。眼鏡の男性の首を絞めて拘束し、その頸動脈に鈍く光る刃をあてがった男の目は血走り、どう見ても平静ではない。呆然とするトワたちを前に男は吠えた。

 

「近づくんじゃねえっ!! さもねえと、このオッサンの首を掻っ切るぞ!」

「ひっ……!」

「こ、工場長!?」

 

 その言葉を聞き、状況を理解した途端、周囲の群集は悲鳴に包まれる。遠ざかろうとする一般市民、その流れに押されて近づこうにも近付けない憲兵隊。事故の喧騒はあっという間に阿鼻叫喚の狂騒に移り変わる。

 トワたちもまた事態を理解し、しかし下手に動けずにいた。どうして男がこのような凶行に走り、あそこまで焦燥感を露わにしているのか。まるで理解できずとも、迂闊な行動は人質に取られた眼鏡の男性の安否に直結していることだけは明白だったから。

 

「…………その人を放してください。今ならまだ間に合います」

「黙れ、餓鬼ども! このオッサンの命が惜しいなら離れろ!!」

 

 慎重に選んだ言葉もにべのない返答に押し潰される。打つ手が見えない現状に唇を噛んだ。

 もはや蒼を通り越して顔を白くさせている眼鏡の男性からの懇願の視線、そしてドミニクという青年からも下手なことはしないでくれという想いが言葉にせずとも伝わってくる。アンゼリカが呟いた「仕方ない、か」という言葉がトワたちの胸中を示していた。

 一歩、二歩、三歩。一息に下がることはなく、少しずつ凶器を有する男から離れていく。鳴り響く悲鳴に囲まれながらも、その中心は酷く静かで緊張に満ちていた。

 そして十アージュは離れただろうか。男は次の行動に移る。

 

「……ッ!!」

「おおっ!?」

 

 人質に取っていた眼鏡の男性を突き飛ばす。振り返ることもなく男は憲兵が来る逆方向に走りだした。このまま逃走するつもりなのだ。

 憲兵は狂乱する人並みに阻まれ事態の把握さえ出来ていない。考える時間は一瞬、トワは覚悟を決める。

 

「ジョルジュ君はそこの人と憲兵への説明をお願い! クロウ君、アンちゃん、行くよっ!」

「勿論だとも!」

「くっそ、なんだってんだ……!」

 

 解放されへたり込む眼鏡の男性と憲兵への対応をジョルジュに任せ、三人は男の後を追って走り出す。背中に届いた「気を付けて!」という友人の声に軽く手を挙げることで応え、全速力で石畳の道を駆けていく。

 混乱する人垣も男が近付いてくるのに気付くや否やさざ波のように割れる。群衆の中にぽっかりと空いた空間を男が走り抜け、その後をトワたちが追っていく。狂騒は間もなく遠ざかり、次第に遠くの騒ぎを訝しむ雑踏に代わる。男は道行く人々の肩を押しのけながら逃走し、突然のことに戸惑うその人々の間を縫うようにトワたちも必死に足を動かす。

 男の背はそう遠くはなかった。もとより離れていたのは十アージュ程度。逃げ出した時に稼いだ距離を合わせても、追いつけなくなるほど致命的なものではない。ジョルジュはともかく、一年生の中でも屈指の運動神経を持つ三人なら尚更であった。

 背後を一瞥し、男もそれに気付いたのか。それまでヴァンクール大通りを駆けていた足を方向転換させ、建物の間に滑り込んでいく。

 

「おい、路地に入ったぞ!」

「言われずとも分かっているさ!」

 

 二人並べば一杯になる道幅。全力で走るとなれば一人が限界になるその路地に、クロウを先頭にトワたちも駆け込む。男の背はまだ見えている。

 しかし、そこで彼女たちはすぐさま男の狙いを思い知らされることになる。

 大通りを真っ直ぐに駆けていた先程までと異なり、男は複雑に入り乱れた路地をジグザグに曲がりながら逃走を続ける。右に曲がったところを追えば左に曲がろうとする背が、その後をまた追えば十字路が現れ、視線を左右に動かして発見した姿に追い縋る。次第に男との距離は遠ざかり始めていた。

 

「地の利は向こうにあるか……このままではジリ貧だね」

 

 まるで逃走も予め考慮していたかのような走りよう。やはり、あれは普通の事故ではなかったのだと理解する。だからと言って、男に追いつけるようになるかといえば違うのだが。

 相手は帝都の道を熟知していると考えた方がいい。このまま追い続けたとしても、アンゼリカの言う通りに距離は離され続けて撒かれてしまうだろう。男が何の意図を持ってあの騒ぎを起こしたのか理解することもなく。

 それは避けなければならない。トワは周囲に視線を巡らせ、路地の端に置かれた雑多な荷物の山に目を付ける。

 

「クロウ君とアンちゃんはこのまま追って! ノイ、ホールドお願い!」

「了解なの!」

「はっ!? お、お前ら何を――!」

 

 頭上を飛び越えられたクロウの戸惑いの声を背に、トワは段々になった荷物の山を駆け上がる。跳躍、そして実体を現わしたノイの手に捕まった。

 小さな手から放たれる薄緑に光る糸。先端に歯車が付いたそれが路地向こうの屋根先の突端に絡まり、支点を得たトワとノイの身体は宙に踊る。空中を一回転して屋根の上に着地したトワは、一面の緋の大地を見渡し男の逃走方向を確認して再び走りだす。

 眼下に男の背を捉えた彼女は傍に浮かんで並走する相棒に指示を飛ばした。

 

「ノイはクロウ君とアンちゃんの傍に。私を目印にして二人を誘導して!」

 

 上を取ったことで視界の確保と経路の確認はできた。だが、トワ一人だけでは意味が薄い。情報を共有し、下の二人も追って来られるようにしなければスタンドプレイにしかならないのだ。宙を自由に動けるノイが連絡役としてどうしても必要だった。

 それを短い言葉だけでも通じ合う。正しく意図を理解して頷いたノイは路地の方に降りていく。ならば、後は自分が男を捕捉するのに注力するのみ。ふっと息を吐き、トワは男の後を追って緋の屋根から緋の屋根へと跳んでいく。

 屋根は全てが同じ高さではない。建物の高低によってはそそり立つ壁面が道なき道を阻む。

 しかし、その壁さえもトワにとっては自身が闊歩する道に過ぎない。

 

「やっ!」

 

 跳躍し、壁に取りつく。そのまま彼女はスルスルと難なく屋根に上り詰める。石材の凹凸、窓縁、少しでも手足が引っ掛かるその全てが彼女の足場となる。

 幼い頃からトワは様々な場所を走り回って来た。木々が張り巡り花々が生い茂る森林、油断すれば足を取られかねない極寒の氷土、突風が吹き荒れ崖に叩き落そうとしてくる高峰、溶岩が噴き出し身を焦がしかねない原初の大地。そんな環境が仕事場であり、庭であり、そして自身を育んだ揺り籠だった。

 それに比べたら多少の高低差がある屋根の上を走り回ることなどアスレチックで遊ぶようなものだ。ノイの助けを借りなくても十分に動くことができる。屋根から屋根へと飛び移りながらも、路地を逃げ続ける男の背を逃さずに捉え続ける。

 たまの道幅の広い通りさえもシルフェンウィングのアーツを駆動すれば問題ない。強化された脚力で思いっ切り跳んで、足場にした街灯を軋ませながらまた次の屋根へと移る。風のように空を走り抜ける少女の姿を見て生まれる喧騒は目を背ける他ないが。

 そうして男の追跡を続け、そろそろ油断して足を緩めるのではないかと思い始めた頃。トワは男が向かう先の路地が開けた場所へと目を移し、その光景に焦りを覚えた。

 

(歓楽街……! いけない、人ごみに紛れられたら……)

 

 男を追ってきたトワは何時の間にか娯楽に興じる人々が集まる街区へと足を踏み入れようとしていた。いや、男が最初からここを目指していたのか。ヴァンクール大通りと同程度の、しかし規則的な流れが存在しない雑多な人混みに冷や汗を流す。

 あの人ごみに紛れられたら厄介だ。地上から追うのが困難なのは言うに及ばず、屋根の上からも男の姿を群集の中から見誤らずに追い続けるのは難しい。念には念を入れた周到な逃走経路だと実感せざるを得ない。

 

「…………」

 

 どうすればいいのか、いや、どうするべきかは分かっていた。

 普通の手段で追うのが無理ならば、普通ではない手段を使えばいい。今この場で、自分だけが使える力ならば男を捉え続けることが出来る。

 ただ、使うべきと思う理性があるのと同時にトワの心中には畏れという本能があった。自身の身に余る力に対する恐怖が心を竦ませ、行動に移ることを阻んでくる。

 逡巡の時間はない。男が完全に人ごみに紛れ、その姿を見失ってしまえば捕えることは叶わない。トワは本能とせめぎ合う理性を押し切らせた。

 

(少しだけなら……!)

 

 屋根に立ち止まり、歓楽街を臨んだトワは目を閉じる。内側へと埋没し、奥底に眠るもう一つの自分(・・)を引き起こす。

 見開いた彼女の瞳が、その生命の鼓動を知覚した。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ぜえ……ぜえ……くっそ、あの餓鬼ども……」

 

 帝都において再開発から取り残された旧市街、オスト地区。庶民や労働者の住居が立ち並ぶ街区の路地裏まで辿り着いた男は、息を切らしながら悪態をついた。

 いつも通りにやれば上手くいく筈だった。地下水路で拾った古臭い壺を手に、自身に細工を仕掛けてから導力車にわざとぶつかって事故を起こす。後は人を撥ねてしまって動揺する運転手を強気に脅せば、それなりに纏まったミラが手に入るという手軽な資金稼ぎの手段だ。もとより交通事故の発生率は多く、それに紛れて故意の事故を起こしても怪しまれない。制度が浸透していないというのも有利に働いた。

 だから今回もがなり立てて自分の言い分を押し通せば問題なくミラが手に入る筈だった。だというのに、急に押し掛けてきた学生のせいで全てが御破算だ。タネも殆どが割れてしまい、もう同じ手は使えないだろう。忌々しいことこの上ない。

 だが、と男は気を取り直す。念には念を入れて追って来ていた餓鬼は完全に撒いた。憲兵に取り調べを受けたら致命的だったが、こうして逃げ果せることはできたのだ。仲間(・・)の情報を吐かされる目に遭うよりは、資金稼ぎの手が一つ消えたくらいで済んでよかったと考えるべきだろう。

 

(そもそも、あの手は潮時だったんだ……憲兵の目を盗むのも最近は厳しくなってきたところだし……)

 

 下手を打った自分を正当化するように言葉を並び立てながら、男は息を整える。そうすれば苛立ちも幾分かは紛れたし、失敗に対する言い訳もついたから。

 上がっていた息と荒れた気持ちは落ち着いた。それでもやはり怒りは燻るもので、小さく舌打ちをする。

 

「だが、あの餓鬼どもはタダじゃおかねえ。今度会ったら――」

「呼びましたか?」

 

 頭上から響いた声に「え」と声にさえならない息を漏らす。

 

「ぐがああっ!?」

 

 直後、男は上半身を襲った凄まじい衝撃に蛙が潰されたような悲鳴を上げた。地面に叩き伏せられ、脳を揺らされてくらくらとする視界の中で何が起きたのかと困惑する。なんとか体を起こそうとしたところで、自分の身体の自由が奪われているのにようやく気付く。

 唯一、自由の利く首を捻る。男の背には幼さの残る少女が決然とした表情でいた。

 

「さっきの餓鬼……!? どうやってここが、くそっ、放しやがれっ!」

「暴れても無駄です。無理に動くと関節が外れますよ」

 

 身体の小さい、軽い少女の筈なのに、男の身体はピクリとも動かず完全に固められていた。強引に腕を振るおうとすれば鈍い痛みが走り、その言葉が事実だと思い知らされる。トワに関節を極められた男に逃れる術はもうなかった。

 

「っと、これは一歩遅かったかな? お手柄じゃないか、トワ」

「っていうかエグイ関節技きめてやがんな……それも祖父さんから教わったのかよ?」

「あはは……まあ、無手の技の一環で」

 

 遅れてクロウとアンゼリカも追いついてくる。男を組み伏せるトワの姿を見て引き攣った表情を浮かべるクロウに、手を緩めないまま愛想笑いを浮かべた。祖父の教えはとことん実践的なのである。

 身体を抑え込まれ僅かに身動ぎする事しか出来ない男にアンゼリカが歩み寄る。そのズボンのポケットから伸びる鎖の留め具を見咎め、彼女は中身を引っ張り出す。出てきたのは手のひら大の懐中時計のようなもの、戦術オーブメントだった。

 そのまま中身を確認し、アンゼリカは納得したように「なるほどね」と呟いた。

 

「地のクォーツが二つ、ご丁寧にアースガードが使えるきっかりの構成か。完璧にそれ目的専用みたいだね」

 

 男がギリギリと歯を鳴らす。図星だった。導力車に撥ねられて無傷だった理由はなんてことはない。予めアーツを駆動し、完全防御で身を包んでいたから無事だったのだ。

 これでタネも全て割れた。身体は完全に拘束され、振り解いても囲まれていては逃げられない。完全な詰みだった。

 

「何が目的かは知りませんけど、傷害未遂は明らかな犯罪です。大人しく捕まって下さい」

「そういうこった。観念してお縄につくんだな」

 

 潮時とは本来、物事を区切るのに適当な好機を言う。しかし、この男にとっての今までの行為を終わらせる意味での潮時となったようだ。

 もう逃げられない。それを理解し、男はがっくりと項垂れた。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 マキアス・レーグニッツは不機嫌な表情で自宅の玄関から外に出た。住み慣れたオスト地区の街並みを見渡し、聞こえてくる人々のざわめきという騒音から路地裏あたりが原因と当たりを付ける。少し歩いて遠目にそこが見える位置につけば、思った通りに人が集まっていた。帝都憲兵隊がうろつく路地裏辺りを窺う見知った人々の様子は完璧に野次馬のそれである。彼は思わず溜息をついた。

 高等学校の入試に備えての受験勉強真っ盛りの中、休憩として珈琲を淹れていたところで外からの雑音が耳に入り、何が原因かと思えばこの野次馬騒ぎである。こんな帝都の中でも外れの外れで何の騒ぎだとか、いくら物珍しくても野次馬根性丸出し過ぎるだろうとか色々と言いたいことはあるが、簡単に言ってしまえば彼は折角の休憩時間を騒音に台無しにされてイラッと来ているだけである。

 が、このまま原因も分からずにすごすごと自宅に退散するのも気に障る。自分は野次馬ではなく、自宅近辺の騒動を確認するだけなのだと意味のない自己弁護をしながらマキアスもなんだかんだ近付いて行ってしまうのだった。

 

「まったく、誰がこんな騒ぎを……」

「あっ、ガリ勉!」

「マキアスじゃねーか。お前もこれを聞きつけてきた口かよ?」

 

 ブツブツと文句を零しながら歩を進めると、急に不躾な声を投げかけられる。見知った顔を認め、マキアスは面倒な奴らに捕まったと眉を顰めた。パティリーとカルゴ、オスト地区に住む不良未満のチンピラ風の二人組だ。遺憾ながらそこそこ親交のある相手である。

 自分も野次馬扱いされたような言い方はむっときたが、ここは堪えて「……まあね」と努めて冷静に対応する。下手に言い返しても面倒になるだけだと経験から知っていた。

 

「何があったんだ? まさか屋根から降りられなくなった子猫を助けるのに、憲兵隊が出張ってきた訳でもないだろう」

 

 こんな些事に時間を掛けるのも馬鹿らしい。彼女らにさっさと聞いてしまおうと思い尋ねてみる。引き合いに出した子猫が云々という話は、つい半月ほど前にマキアスが救出役として駆り出された一件だ。

 

「そんなんじゃねーよ。捕り物だよ、捕り物! 俺とパティリーさんは現場を見ていたんだからな!」

「捕り物? 窃盗犯でもここまで逃げてきたのか?」

 

 返事は思いの外、素直なものだった。いつもなら「うるせー誰が教えてやるか」と憎まれ口でも叩く所なので、少しばかり拍子抜けしてしまう。

 捕り物ということは別の街区で起きた事件の犯人をここまで追ってきたということだろう。この明らかに実りが薄そうな場所で窃盗か何かが起きるとも思えない。あれだけ憲兵が集まっているのも、これだけの野次馬が集まっているのも、あの路地裏が逃走劇の終点ならば納得がいく。

 そこまでは理解できた。だが、それだけで彼女たちの話は終わらなかった。

 

「なんかよく分からねーけど、あまり見かけない怪しい男がいたから様子を見ていたらよ、屋根の上からちっこい学生服の女が飛び降りてきてそいつをズドンって押し倒したんだ! しかも暴れようとする男をガッチリと抑え込んでいたんだぜ。かっけえよな!」

「それから同じ学生服の仲間も集まってきて、その男は完全に観念した様子でさ、後から来た憲兵隊にあっさりと捕まったんだ! マジでかっこよかったなぁ……あっ、も、勿論パティリーさんの方がかっこいいけどな!」

「……はあ?」

 

 やたらと目をキラキラとさせて興奮気味に語る彼女たちに、つい猜疑の目を向けてしまう。

 怪しい男が学生服の集団に捕まった。学生が事件の現場に居合わせたのだろう、これはいい。憲兵隊が遅れてやって来たのは初動の遅れか何かがあったとも考えられる、これもいいとしよう。

 が、目の前の二人組は小さな少女が屋根から飛び降りて犯人を確保したという。

 ……いやいや。

 

「君たちが何を読もうが勝手だが、それは流石に劇画本の読み過ぎだろう。もう少しは学術的なものをだな……」

「はあ!? マキアスてめえ、私たちがパチこいてるって言うつもりかよ!」

「現場を見て無い癖に分かったようなこと言ってんじゃねえぞ、このガリ勉!」

「いや、しかしだな」

 

 改めて憲兵が集まる裏路地を見遣る。確かにそこには学生服の男女が四人おり、パティリーたちが言う小さい少女と思しき存在も遠目に確認できた。しかし、あれだけ小柄な少女が屋根から飛び降りてきて、あまつさえ大の男を拘束できるかと思うと……

 

「……無理だろう、それは」

 

 やはり、この二人の見間違いか何かだろう。そう結論して自宅に踵を返す。騒音の原因も確認できたので、後はもう家に戻って珈琲を楽しみながら休憩時間を過ごすつもりだった。多少の五月蠅さは我慢するしかない。

 だというのに、マキアスの足は無理矢理に止められる。彼の首根っこをパティリーが、服の裾をカルゴががっちりと掴んでいた。

 

「信じられねえなら何度でも話してやる。おいカルゴ、コイツをギャムジーまで連行だ!」

「了解っす、パティリーさん!」

「お、おい待て君たち! 僕はこれから家で珈琲を……!」

 

 自分たちがいたく感激した光景を嘘と思われたのが余程我慢ならないのか、二人はマキアスをずるずると引き摺って馴染みの居酒屋へと連行せんとする。これは話を信じるまで延々と付き合わされる流れだ。自宅のテーブルに珈琲を置いてきたままのマキアスとしては何としても回避しなければならない。美味い珈琲は冷めても美味いが、それでも飲むのは淹れたてに限る。

 必死の抵抗を試みるも、二対一では分が悪い。徐々に自宅から遠ざけられるマキアスは、ふと視界に入った学生服の集団を見てある事に思い当たった。

 

(そういえば、あの学生服はトールズの……)

 

 見覚えのある制服だった。それも当然だろう。今まさに彼が受験しようと勉学に励んでいる伝統ある士官学院の、パンフレットで何度も目にしたことがある制服だったのだから。

 それに一瞬だけとはいえ気を取られ、マキアスは「あっ」と足を滑らした。引き摺られんと踏ん張っていた支えが無くなり、パティリーとカルゴがしめたと笑みを浮かべる。彼女たちは遠慮なくマキアスを地面に引き摺り始めた。

 「待て、服が汚れるだろう!」と抗議の声を上げても聞き入れられる筈が無い。彼は為す術もなく居酒屋の扉に引き摺り込まれていくのだった。

 




【ギアホールド】
ノイのギアクラフトの一つ。空中のホールドマーカーに掴まることが出来るようになり、主に移動やボスの弱点を突くために使用する。拙作では都合よく解釈した結果、即席ワイヤーアクションの手段と化した。

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