永久の軌跡   作:お倉坊主

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春陽の候、皆様に置かれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。最近、書類の書き方とかを勉強しているお倉坊主です。
色々と立て込んでいて筆も遅くなっており、申し訳ないです(´・ω・`)

ちなみに今回、色々と小難しい事が書いてありますが、私は別に経済学をちゃんと勉強した口でもなんでもないので、他の意見がありましたら遠慮なく言って下さい。


第10話 心の仮面

「すいませんねぇ、夫に付き合わせちゃって。はい、お茶をどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 

 優しげな風貌の老夫人がトワたちの前にティーカップを並べていく。品の良いそれの中身を見て、トワはおやと思った。

 

「緑茶、でしょうか。帝国ではかなり珍しいものだと思いますけど」

「ほう、知っているのかね」

「祖父が東方の出身で、その縁でいただいたことが何度か」

 

 少し驚いた顔をするのは、テーブルを挟んで対面に座る老紳士。自分たちをこの場に招いた彼に微笑を浮かべながら返事をし、カップの中身を口に含む。独特の苦みが広がると共に、その温かさにホッと息をついた。

 そんなやり取りを聞きながら他の三人は物珍しそうに緑色の茶を眺める。その珍品について察しを付けたのはアンゼリカだった。

 

「東方の茶ですか。これも大市に出回っているものなんでしょうか?」

「常にと言う訳ではないが、定期的にクロスベルを経由して共和国の方から流れて来ておる。その時にこうしてワシも個人的に買い取っている訳だ。友人であるヴァンダイク殿の分も含めてな」

「あー、あの厳つい学院長って東方趣味だったのか。意外なような納得なような……」

「いずれにせよ、絵にはなりそうだよね。あの風格があれば」

 

 ジョルジュの言葉で緑茶を嗜むヴァンダイク学院長の姿を想像し、トワはクスリと笑みを漏らした。なるほど、確かに似合いそうだ。

 

「ま、それは置いておくとしてだ」

 

 そうして場が和んだ頃合いに、クロウが口を挟んで話を切り上げる。

 他愛のない話を置いて何を話すかと言えば他でもない。自分たちがこのケルディックを訪れた理由、そして目の前の人物に招かれたきっかけについてである。

 

「折角こうして招かれたからには色々と話を聞こうじゃねえの。この実習についてなり……さっきの領邦軍についてなり、な」

「ふふ、そう焦らなくともちゃんと話はさせてもらうつもりだとも」

 

 斜に構えたクロウに対する老紳士の返答は、大人らしい落ち着いたものだった。口髭を蓄えた顔は柔和なものであり、気分を害した様子はまるで見られない。伊達に大市のまとめ役をしている訳ではないという事だろう。

 そういう性格のクロウは口に出していたが、話を聞きたい気持ちは他の面々も同じ。四人の期待が浮かぶ表情を見回して、老紳士は「何はともあれ」と話を切り出した。

 

「まずはポール氏を魔獣から救ってくれたことに改めて礼を言わせてもらおう。ありがとう」

 

 白髪の頭が深々と下げられる。このケルディックの代表、オットー元締めの深い礼にトワはいたく恐縮してしまうのだった。

 

 

 

 

 

 西ケルディック街道にて襲い来る魔獣から農家ポールを救ってから数時間。彼らを伴って西日が赤くなった頃に町へ戻ってきたトワたちは、遅ればせながらも農作物がライモンの店に納品されるのを見届けた。ライモンやベッキーも流石に魔獣に襲われていたとは思っていなかったらしく、その無事に深く安堵していた。

 もう遅い事もあり、今夜は娘が働いている宿屋に泊るというポールたちと分かれた一行。本来ならば自分たちも風見亭に戻ってレポートなどに手を付ける所だが、今日の内にまだ訪れるべき場所があった。

 領邦軍の後を追ってあの場に現れたケルディックの代表、オットー元締め。大市に関わるものを救ってくれたことに礼をしたいという彼の自宅に招待されたのが、事ここに至った経緯である。だが、トワたちが招待された理由はそれだけではなかった。

 端的に言えば、オットー元締めこそ今回の試験実習における現地責任者だったのである。

 

「ヴァンダイク殿とは古くからの友人でな。そちらから話を貰って、この試験実習の栄えある第一号とならせてもらった訳なのだよ。目繕った依頼は丁度良かったかね?」

「はい。特に無理のある内容でもありませんでしたし……ケルディックについても、ある程度は知ることが出来たのと思います」

「大市の商人がやっぱり一番の特徴だろうけど、観光客も多い印象だったね。外国籍の人も少なくないようだ」

 

 トワとジョルジュが所感を述べれば、オットー元締めは満足そうに頷いた。顔役を務めている者にとって自分の町を知ってもらうのは嬉しい事なのだろう。彼の説明が後に続く。

 

「お前さんたちも知っての通り、このケルディックはクロイツェン州の穀倉地帯、そして鉄道網の中継地点に位置しておる。つまりは生産拠点にして、様々なヒトとモノが集まる経済的要地でもある訳だ」

「ふむ……都市部への供給を担っているのなら、当然それを仲介する卸売市場が発展しそうなもの。しかし実際は小売りも盛んに行われている。これも鉄道網の中継地点であるからこそでしょうか?」

 

 穀倉地帯とは平たく言えば都市部の食料を生産する場所だ。しかし、農家が都市部の小売商にまで直接売りに行くのは、また小売商が買い付けに行くのは非効率的な面が大きい。だからこそ卸売商がケルディックの大市に商品を集積し、そこで小売商との売買を行っていると考えるのが自然だ。

 だが、大市を見た限りでは小売りも多く行われていた上、商品も穀物だけに留まらなかった。これは穀倉地帯という特徴だけでは起こり得ない事だ。

 

「うむ。確かに導力革命以前、街道を行き交うのが馬車だった頃は卸売りが大市の主体だった。わざわざ田舎まで出てくる旅行者なぞ、あまり居なかったからな。それが帝都とクロイツェンを結ぶ鉄道が登場したことで状況が変わっていった……」

 

 まるで五十年前に想いを馳せるような表情で語るオットー元締め。そこで彼は「だが」と言葉を区切った。

 

「やはり今のケルディックがあるのは、大陸横断鉄道の影響が大きかろう」

「大陸横断鉄道……そっか、外国からの商品や旅行者ですね?」

 

 1183年に開通した帝都からクロスベルを経由し、東のカルバード共和国にまで伸びる大陸横断鉄道。西ゼムリア大陸経済の大動脈と言ってもいいその名を聞き、トワは頭にピンときた。

 その答えにオットー元締めも満足そうに頷く。そこはかとなく楽しそうにも見える。

 

「このケルディックより東に大きな町は無い――双龍橋やガレリア要塞はあるがね。モノにしろヒトにしろ、必然的にケルディックが帝国の玄関口になる訳だ。交通の便が良く、珍しい品が集まっているとなれば人が集まる。人が集まっているとなれば商機と見た商人たちが店を開く。大市が現在の性格を持つに至ったのは、そうした流れがあったからだろう」

 

 どこか小難しい話になってきてはいるが、オットー元締めの話を聞いていない者は一人もいない。トワは自然と手帳とペンを両手に持ち、クロウも割と興味深そうに耳を傾けていた。

 

「モノとヒトの流れ、か……では、それは飛行船でも起こりうることではないのでしょうか?」

 

 そこで一つ疑問を呈したのはアンゼリカ。同じ現象は飛行船でも起こり得るのか。

 それに「ああ、いや」と口を開いたのは、オットー元締めではなく彼女の隣に座る大柄な青年だった。

 

「飛行船では同じ現象は起こらないと思うな。たぶんだけど」

「へえ、理由は?」

「積載量、運用・維持コストとかで鉄道に劣るからだよ。飛行船は速度で勝っているけど、運べる量は制限されてしまう。何度も往復するより鉄道で一度に運んだ方が効率的だ。それに飛翔機関って奴はデリケートなものでね。整備にも結構なミラが掛かるものなんだよ」

 

 仮に、ケルディックに鉄道ではなく飛行船ターミナルが出来ていたとしよう。ジョルジュの言葉から考えるに、その仮定で今と同じような大市が成立するのは難しいのではないだろうか。

 穀倉地帯は大量生産が基本だ。飛行船の速度重視・軽積載の特徴と適合しない。経済活動を促すために大量の運航便を用意しようとすれば、ミラの面で運営者の首が回らなくなる可能性もある。やはりケルディックには鉄道が最も適した交通機関なのだろう。

 技術畑からの説明を受け、一先ずは納得した様子のアンゼリカ。それに代わるようにして、ふと思い出した事をトワは口にした。

 

「でも、外国のリベールでは飛行船の方が発達しているんだよね。経済活動に鉄道の方が適しているなら、どうしてそうならなかったのかな?」

「そいつは技術的なものっつうより、地理的な理由が大きいだろうな」

 

 疑問の回答者側もバトンタッチ。困り顔のジョルジュに代わってお調子者が問いに答える。

 

「リベールは起伏に富んだ国土だからな。鉄路を引くにはちょいと厳しかったんだろうよ。定期飛行船も二隻で回せるくらいの小国っていう理由もありそうだが」

 

 なるほど、とトワは頷いた。

 帝国とリベールでは国土に大きな違いがある。帝国は広大にして平野部が多い。それに比してリベールは手狭な国土に山岳や丘陵が多く存在すると聞く。確かに鉄道を敷設するには適していないだろう。もしかしたら中央にヴァレリア湖がある事も、飛行船の発達に関係があるのかもしれない。

 町にしても国にしても、主だった交通機関が発達したのは相応の理由があるという事だ。導力車が発達しているという共和国も、調べてみれば何がしかの要因を見出せるだろう。

 

「しかし君、意外と知識の引き出しが多いじゃないか。無駄に遊び歩いている賜物かな?」

「へっ、お高く留まっている貴族様と違って色々と苦労しているんだよ」

「ああもう、二人とも……すいません。こっちだけで話し込んじゃって」

「ふふ、構わんよ。そうして自分たちの知識を深めていく事が、この実習の目的でもあるだろうしね」

 

 隙あれば憎まれ口を叩き合うクロウとアンゼリカを制しながら、何時の間にか話の外に置いてしまったオットー元締めに頭を下げる。返って来たのは朗らかな笑みだったが。

 

「お前さんたちが感じたように、依頼はケルディックについて肌で感じてもらえるようなものを選んだつもりだ。ヴァンダイク殿から、そう頼まれたのでな」

「やっぱり、この実習は現地の知識を学ぶためのものなんですか?」

「ワシも詳細までは知らされておらんから確かな事は言えんが、少なくともそれが一つの意義であるとは思うよ」

 

 オットー元締めはあくまで外部の協力者。どうやら学院側の意図については明確に知り得て無いようで答えは曖昧だったが、トワたちの推察はあながち間違いでも無いようだ。

 この実習で学んだ知識をどう活かしていくのか、またはそれ以外にも目的があるのか。未だこの実習には不透明なところが多いが、今はそれを考えていても仕方がないだろう。いずれサラ教官あたりから明かされることを期待するしかない。

 今は分からないことを気にするよりも、より知識を深める事に専念するべきだろう。トワはそう判断した。

 

「それじゃあ、ちゃんと勉強して帰らないといけませんね」

「うむ。ワシとしても若い者たちがケルディックについて知ってくれるのは喜ばしい。なんでも聞いてくれたまえ」

 

 質問を歓迎するオットー元締めに対し、いの一番に「じゃあ一つ」と声を上げたのはクロウだった。

 

「さっきは鉄道の恩恵の話だったがよ、実際はデメリットもあったんじゃないのか? 物事が何の問題もなく進むとは思えねえ」

 

 これはまた、突っ込んだ内容の質問であった。内心ぎょっとするトワやジョルジュには目もくれず、彼はオットー元締めを真っ直ぐと見つめる。その表情はいつになく真剣な色を帯びているように見えた。

 直截な問いにオットー元締めは苦笑を浮かべる。しかし、何でも聞いて欲しいと言ったのは彼自身。やや間を置いてその口から答えを紡ぐ。

 

「お前さんの言う通り、全てが丸く収まった訳ではない。鉄道網の拡充により大市は活発になったが、その裏で鉄道を敷くために退去を迫られた農家もいたと聞く。ワシらの生活は彼らの犠牲の上に成り立っているとも言えるだろう」

 

 そこで言葉を区切ると、オットー元締めは表情を難しいものにした。

 

「だがケルディックの直接的な問題を挙げるとするならば、安価な外国産商品の流入となるだろう」

「……ええと、外国産の商品も大市の形成に重要じゃないんですか?」

 

 今一つ理解が追いつかない様子のジョルジュは頭に疑問符を浮かべる。先の話との違いがよく分からないのだろう。

 

「簡単に言えば競争力の問題だよ。お前さんたち、ポール氏が納品していた農作物を目にしていただろう?」

「穀物以外にも色々な野菜がありましたね。人参、玉葱、ポテト……外国でも同じように栽培されているものが」

「左様。しかし、ここケルディックは穀倉地帯。大量生産される穀物の原価は低いが、それ以外はそうもいかない。そこに近年の規制緩和によってオレド自治州などの安価な農作物が入ってきた事により……」

「原価が安い外国産の方がよく売れるようになってしまった、という事ですか」

 

 言葉を継いだアンゼリカにオットー元締めは重々しく頷く。

 主産業の穀物については競争力を保っていられるが、他の農作物は原価の安い外国産に勝てない。以前は外国産には関税が掛けられていたが、それも現在では規制緩和で低いものとなっている。国際貿易の自由化というものの一環だろう。

 帝都のマーケットを見て回ればよく分かるかもしれない。きっと外国産の商品が多く見られる筈だ。

 

「……まあ正直なところ、そちらは問題ではあるが困ってはいないのだがね」

「え?」

 

 しかし、それに続く言葉は予想外だった。虚を突かれた様子の四人にオットー元締めは薄らと笑みを浮かべる。

 

「これは農家と商人の問題だ。解決策もワシらで考えていかなければならん。幸い、原価の差額も決定的という程ではない。皇帝人参などのブランド力を前面に押し出していけば或いは……」

 

 整然と打開策を語る姿にトワたちはポカンとする。困っているかと思っていたらとんでもない。彼は既に問題を解決するための方法を考え、吟味している。

 今は元締めという立場とは言え、元は大市で活躍してきた一商人という事か。そのあくなき商魂を見せつけられた思いだった。

 

「……や、これは失礼。この場で考えるような事ではなかったな」

「あはは……いえ、商人の逞しさというものをよく知れましたし」

「全く以て、脱帽としか言えませんね」

 

 アンゼリカに至っては関心を通り越して呆れたような表情だ。それにオットー元締めは「はは……」と渇いた笑い声をあげる。

 

「逞しいと言えど、流石に魔獣を直接どうこうするような力は無いのだがね。近頃で困っている事と言えば、商売云々よりもそういった被害の方なのだよ」

「というと、さっきの街道でのような?」

 

 ジョルジュの問い掛けにオットー元締めは「うむ」と返す。その姿にはどこか疲労感が滲んでいるように見えた。近頃、という言い方からして同じような事が多発しているという事か。

 

「二週間ほど前にパルムと大口の取引があった頃からか。街道で魔獣に襲われたという話が度々耳に入るようになった。導力灯のある道を外れた訳でもないのに、だ。最初のうちは偶然かと思っていたが、こうも続くと頭が痛くなってくる」

 

 街道での魔獣被害、導力灯がある主要道から外れていない、確かに先ほどのポールが襲われた件と類似しているようだ。それが二週間のうちに度々ともなると、町の代表としては心労も積もるというものだろう。

 農家が大市に作物を卸しに来るためには、街道を使用する事は避けては通れない。その安全が保障されていないという事態は深刻だ。導力車でも持っていれば話は別だろうが、見た感じ個人経営の農場が大半の状況では高望みに過ぎる。

 

「皆に注意を呼び掛けているおかげか、幸い死者が出るには至っていない。しかし、街道を全く使わないと言う訳にもいかないし、軽微ながら被害は増えているのが現状だ。その点、ポール氏を助けてくれたお前さんたちには感謝してもしきれん」

「いえいえ、お気になさらず……でも、そこまで被害があると流石に放っておく訳にもいきませんね」

「つっても治安維持を担う領邦軍はあの調子。そりゃ頭も痛くなるわな」

 

 この場合、原因究明のために動くのは領邦軍のように思える。だが、実際には彼らは形ばかりの巡回をするばかり。それは何故なのか。

 

「街道でも言ったが、彼らはあくまで貴族の私兵。正規軍とはまた行動理念が異なる以上、仕方ない面もあろう」

「……確かに領邦軍が守っているのは国ではありません。守っているのは運営者たる貴族と、その利益です。多くの税収が期待できる大市に支障が出ているならともかく、農家が少しばかり被害を受けた程度、些事として切り捨てられてもおかしくないでしょう」

 

 「それにしても融通が利かないと思いますが」と溜息を吐くアンゼリカ。自身もその貴族、しかも筆頭たる四大名門の一家の出身であるせいか、その言葉には実感がこもっているように窺えた。

 

「まだ噂程度だが、近くに増税が行われるという話もある。領邦軍の態度が硬化しているのはそのあたりが理由かもしれん」

「増税って……もしかして大市の?」

「まだ決まった訳ではないが、売上税が大幅に吊り上げられるかもしれん。大市への影響は避けられんだろう。貴族様は何を考えているのか分からんよ」

 

 憂鬱そうに眉根を下げるオットー元締め。商人にとって、増税とはまさに死活問題なのだろう。それが魔獣被害に上乗せされるとなれば堪ったものではあるまい。

 ところが彼は表情を戻すと「だがまあ」と続けた。

 

「魔獣に関しては、いざとなれば遊撃士を頼れば良かろう。増税も商人とは切っても切り離せぬ事。自分たちでどうにかしていく事だ。お前さんたちまで深く気にすることは無い」

 

 オットー元締めに言われて初めて気付く。話を聞いている内に、何時の間にかトワたちの表情も曇ってしまっていたようだ。

 その不安にも似た気持ちを和らげるかのように、オットー元締めは柔らかな笑みを向けた。

 

「明日も今日と同じように依頼を幾つか用意してある。大人のいざこざは気にせず、自分たちの実習に注力するといい。学生としての本分を果たすためにもな」

「……はい、ありがとうございます」

 

 純粋にこちらを気遣う言葉に、トワは小さく返事をする他なかった。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ふう、もうすっかり夕暮れだね」

「割と長居していたからね。この分だと宿に戻ったらすぐに夕食かな」

 

 しばらくして元締め宅を後にしたトワたち。赤く染まった夕焼け空を見上げながら、この後の予定を話し合う。

 宿の夕食には期待したいところだが、その後に待っているレポートの事を考えていると楽しみにしてばかりもいられないのだろう。ジョルジュの笑みにはやや苦味が混じっていた。

 そんな他愛のない話も途切れると、四人はどこか暗い雰囲気になってしまう。無論、夕食後のレポートを気に病んでの事ではない。オットー元締めから聞かされた、今のケルディックが抱える問題について考えるが故のものだ。

 悩ましい気持ちが最も顔に表れていたトワが「ねえ」と口を開く。

 

「領邦軍が魔獣被害の調査をちゃんとする可能性は、やっぱりないのかな」

「……難しいだろう。私自身、実家の方でノルティアの領邦軍と付き合いはあるが、彼らの存在は貴族の為だけにあると言ってもいい。治安維持と言っても、それは民間人の保護とイコールじゃないのさ」

「治安維持をしているのはあくまで貴族様の利益を守るためってか? 自分たちの給料も元を辿れば領民の税金だろうに、良い御身分なこったな」

 

 クロウの皮肉に常の事なら皮肉で返すアンゼリカだが、今回は「まあ、そうだね」と特に言い返すこともしない。肩透かしでも喰わされた気分なのか、皮肉った方が眉を顰めた。

 

「結局のところ、領邦軍は貴族の意を受けて動く存在。州の統治者たるアルバレア公が領民の事を顧みる事が無い限り、領邦軍もまた変わり様がないのさ」

 

 普段通りの飄々とした調子で、しかし、どこか自嘲染みたものが混じった声色で言う。

 領民を顧みる事が無い限りとは言うが、現実にそうなる可能性が無いに等しい事は先ほどの話を聞いた四人は承知していた。大幅な増税を考えているような人物が、領民の事を斟酌する人柄ではないと面識がなくても察せられる。

 そもそも何故、今になっての増税なのかという疑問はあるが、それはこの場で考えるべきものではないだろう。問題は魔獣被害に関して領邦軍は頼れないという事実である。

 

「オットー元締めは、いざとなったら遊撃士に頼ると言っていたから最悪の事態にはならないとは思うけどね。ここに来てくれるとしたら帝都の協会支部になるのかな?」

「うん。たぶん、そうなると思うけど……」

 

 返事をしつつも、トワは言葉を濁した。脳裏に漠然とした不安と、自分たちはこのままでいいのかという疑念があったからだ。

 

「私たち、このまま実習だけやっていていいのかな……」

「それはまあ、確かに思うところが無いわけではないが」

「あー、やめとけやめとけ。そんな考えてもどうしようもない事」

 

 そんな思いから発した言葉は面倒臭げな声によって遮られた。

 声の主、クロウを見やる。その気怠そうな面持ちは早々にこの話を終わらせたいかのようだった。

 

「俺たちは依頼やら何やら人助け染みたことはしちゃいるが、所詮は学生なんだ。領邦軍をどうこうできるわけでもあるまいし、大人しくプロに任せときゃいいんだよ」

「うーん……僕たちに何が出来るかはともかく、実習の趣旨からは外れてしまうような気がするね」

「で、でも遊撃士の人が来るまでの間に、またポールさんみたいなことがあったら……」

「――おい、はっきり言わないと分からねえか」

 

 それでもなお懸念を口にするトワに、クロウは目に見えて機嫌を悪くさせた。

 

「これくらいの問題なんざ、どこにでも転がっているようなもんなんだよ。それを一々気に掛けていられるか。お前のお節介に人まで付き合わせるんじゃねえ」

 

 頭を殴られたような衝撃がトワを襲う。普段の軽薄な彼には無い、冷たく辛辣な言葉だった。

 ショックを受けたのは、お節介に付き合わせるな、と言われたことにではない。これくらいの問題、とクロウが簡単に言い切ったことに対してだった。彼には、この町の現状が取るに足らないものに見えるのか。そう見えるほどに、もっと酷い光景を見てきたのだろうか。

 頭の中でグルグルと思考が空回る。考えが纏まらずに口をまごつかせるトワを置いて、「ほう」と目を細めたのはアンゼリカだった。

 

「それが君の本音ってわけかい? 随分と冷たい口ぶりじゃないか」

「ただ現実が見えているだけだっつうの。それともなんだ、お前も無闇矢鱈にお節介を振り撒く口か?」

「別に。本当に無用なら手出しをするつもりはないが……」

 

 一見して落ち着いているように窺える会話。しかし、その場の空気は徐々にピリピリとしたものに変化していた。

 

「その何でも知ったような様はいただけないな。君が物事の表面だけ眺めて判断するような人間だというなら残念でならないね」

「……んだと?」

 

 アンゼリカの挑発染みた物言いに、クロウの眉間に皺が刻まれる。当の本人も、その顔に浮かんでいるのは先ほどまでの自嘲するような笑みではなく、どこか獰猛ささえ感じられる笑みだ。

 これは不味い。トワとジョルジュは目を合わせて互いにそう確信した。

 

「へらへらした粗末な仮面を被っているよりはマシな面構えだが、その冷めた性根はどうにかならないのかい? 現実がどうだとか、あまり好きな言葉ではないのでね」

「お前の好みなんざ知った事かよ。気に入らないってなら相手してやるぜ。こっちもいい加減いちゃもん付けられるのはウンザリだ」

「喧嘩を売られたら買わない訳にはいかないな。一回ぶん殴った方が君の目も覚めるかもしれな――」

「はいはい、そこまでだよ君たち」

 

 あわや殴り合いというところにジョルジュが割って入る。大きな体躯が間に押し入る事で二人の距離を無理矢理離した彼に、二対の不満の視線が突き刺さる。それに怯むでもなく、彼は窘めるような目で二人を見やる。

 

「仲が悪い事に関してどうこう言う気はないけどね、せめて往来のあるところで言い争いはやめてくれ。他人にも学院にも迷惑が掛かる」

 

 ジョルジュの言い分に、いがみ合っていた両者は気勢を削がれる。元締め宅からは少し離れていたが、それでも町中で衆目が無いわけではない。傍目からして雰囲気を悪くしていたトワたちは行き交う人々に遠巻きながら注視されてしまっていた。

 この様なところで喧嘩を始めてしまえば、まず間違いなく他人まで巻き込んだ騒ぎになる。下手したら学院にまで連絡が行って、この試験実習が御破算にさえなりかねない。とても褒められた行為とは言えないだろう。

 そう察した二人は憮然とした表情ながら動きを止める。咄嗟にトワは口を開いた。

 

「ほ、ほら。今日はもう遅いし宿に戻ろう。お腹すいちゃったし、夕食の後にはレポートも書かなきゃだし……えと、その……」

 

 重い空気を払拭しようと最初は無理に明るい声音だった。だが、それも段々と元気のないものになる。俯きがちにトワは言った。

 

「勝手なこと言って、ごめんなさい」

「…………ちっ」

 

 元を辿れば自分が実習から外れたことを言い出したのが言い争いの原因。彼女は小さく謝罪する他なかった。

 それに対して返って来た反応はクロウの僅かな舌打ちの音だけだった。渋面を浮かべたまま彼は踵を返し、宿の方へ歩き去っていく。遠くなっていくその背中に掛ける言葉をトワは持ち得なかった。

 肩を落とすトワに「……行こうか」とジョルジュが声を掛ける。小さく頷き、既に声も届かないほど距離が離れたクロウを追うように歩き始める。アンゼリカも溜息をついて、その後に続いた。

 散々な一日の終わり、そう評されても仕方がないだろう。それでも試験実習は明日もある。いくら関係が悪かったとしても、この四人でやり遂げなければならない。例えどのような結果になろうとも。

 その結果を、どれだけ四人が納得できるものにしていくのか。宿に戻る道すがら、トワは頭を回し続けていた。自分たちのこれからのために。

 

 

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 夜の帳も下り、酒杯を交わして一日の労を労い合っていた客も疎らになる時間帯。すっかり出来上がった酔っ払いがたまに騒ぐのを傍目に、クロウは奥まった席でペンを握っていた。向き合うのは一枚の用紙、今日一日の実習レポートである。

 しばらく難しい顔をしていたが、途端に「……アホらし」とペンをテーブルに転がし天井を仰いだ。宿酒場の片隅でお勉強紛いの事をしているのが馬鹿馬鹿しく感じられたのだ。

 だが、より正確に言うならば、馬鹿馬鹿しくなったのは今日一日の自分に対してだろう。

 

(何をガチになっているんだか……軽く流して、上手くやり過ごせばいいだけなのによ)

 

 夕方の口論からというものの、四人はあまり口をきいていなかった。夕食は共にしたものの、その場は無言に等しく、レポートにしてもクロウはこうして一人でやっている。今しばらくはアンゼリカと同じ部屋いたくない気分だった。

 いざ冷静になると、あの時は随分と自分らしくなかったと思う。トワが何を言おうが、適当に受け流しておけば少なくともその場は有耶無耶に出来た筈だ。普段のクロウなら必ずそうしていた。

 だが、実際は柄にもなく不満をぶちまけ、元から捻くれていたアンゼリカとの関係が余計に拗れる事になった。結果的に不利益になっただけだ。

 上手く立ち回って波風立たさず学院生活を過ごす。この妙な実習に参加する羽目になってからというものの、当初の想定から大きく外れてしまっている。しかも今回は自発的に、である。クロウは内心で舌打ちした。

 

「――――」

「……ん?」

 

 耳に覚えのある声が届く。目を向けると、小さい少女が何か話をしていた。相手は、どうやら同じ宿だったらしいポールとロビンである。二人は酒が入っているようで顔が赤い。

 様子を見るに、トワの方から彼らに何かを聞いているように窺える。内容までは聞こえてこないが。

 あちらはもうレポートは終わったのだろうか、それにしても本当に小さいな。そんなどうでもいい事を考えながら眺めていると、話を終えた拍子に振り返った彼女と目が合う。本当にぼんやりと眺めていただけだったクロウは、間の抜けた顔を晒すだけで咄嗟に何か反応する事は出来なかった。

 トワも若干驚いたような顔をしたが、少しの逡巡の後に意を決したのか。真っ直ぐにこちらに向かってきた。

 

「お疲れ様、クロウ君。レポートは終わったの?」

「ん……まあ、ぼちぼちってところだ。そっちこそ片付いたのかよ」

「うん。アンちゃんとジョルジュ君は、まだ部屋でやっているけど」

「そうか」

 

 当たり障りのない、あまり意味のないやり取り。それが済んでしまえば後は気まずい空気だけが取り残される。二人の間にしばし無言が続いた。

 無造作に髪の毛を掻き乱す。息苦しさに耐えかねてクロウは口を開いた。

 

「……あのオッサンたちと、なに話していたんだ?」

「あ、うん。今日のお礼を改めて言われて、後は実習の事とか、この宿で娘さんが働いている事とか……」

 

 聞く限りは取り留めのない内容ばかり。たまたま出くわして話し込んでいただけなのか。そう思い始めた時だった。

 

「それと、最近の魔獣被害の話を聞いていたんだ」

 

 言葉を区切り、明らかにそちらが本題と分かるように言われたことに対し、クロウは一瞬だが動きが固まった事を自覚した。同時に苛立ちに似た何かが腹の底から湧き上がってくる。それを落ち着けるように、彼は大きく息をついた。

 

「まだ何かしようって言うのかよ、お前は。お人好しもそこまで来ると筋金入りだな」

「あはは……そうかもしれないね。お人好しって、よく言われるし」

「分かっているのなら自重した方がいいぜ。その内、馬鹿を見る事になっても知らねえぞ」

 

 努めて冷静に、いつも通りのお調子者の仮面を被って言葉を紡ぐ。口から出てくるそれは半分以上、本音からのものだったが。

 世の中は、そう優しく出来ていない。特に様々な火種が転がる今の時代においては。

 時代の流れ、国家の論理、価値観や倫理観の変化。そうした大きな力の前に個人の思いなど些細なものだ。ましてや無作為に人助けをするような輩など、隙を見れば潰しにかかってくるような連中の恰好の餌になるのがオチというものだろう。そんな世界で、赤の他人を助けて何になるというのか。

 自分からすれば意味のない、馬鹿みたいなことをしようとするトワが理解できない。それがクロウの中の苛立ちの正体だった。

 

「――知っているよ。損な性格だっていう事は」

「はあ?」

 

 だが、その苛立ちは彼女の返答により困惑へと変わっていく。

 損と知っているのなら、どうして尚も無闇に手を差し伸べようとするのか。理解の範疇から遠ざかっていくにつれて、クロウの中で怒りよりも混乱が先行する。

 思わず懐疑の声が出るも、それにトワは小揺るぎもしていなかった。

 

「私だって変に気を遣いすぎて失敗しちゃったことだってあるし……人を思っての行動が、結果的に取り返しのつかないことになっちゃうかもしれない可能性がある事だって、ちゃんと知っている」

 

 そう語る彼女は、どこか悲しそうに見えた。だが、「でもね」という言葉と共に、その瞳に悲しみ以上に強い光が宿る。

 

「それでも人を思う気持ちを忘れちゃいけないって思うんだ。辛い目に会ったら、また手を差し伸べようとすることに躊躇しちゃうかもしれない。けど、それで最初に手を差し伸べた時の心を無くしちゃうのは、きっと何よりも悲しい事だから」

「…………」

 

 トワの言葉にクロウは反応しない。反応できない。

 ――コイツは何だ?

 ただのお人好しになら何度も会った事がある。だが、目の前の少女はその中のどれにも当てはまらない。同じ場所に立っている筈なのに、まるで別の世界を見ているような錯覚にとらわれた。

 

「まあ、一番の理由は性分を捨てきれないからなんだけどね。そういう意味ではクロウ君に文句を言われても仕方がないかなぁ。結局、手当たり次第みたいな感じになっているし」

 

 トワは恥ずかしげに頬を掻く。その無垢な姿から目を逸らすように、クロウは溜息と共に俯いた。

 

「……なるほど、よーく分かった。お前はお人好しじゃねえ。凄く馬鹿なお人好しだ」

「あ、ひどい。人の事を簡単に馬鹿とか言っちゃいけないんだよ」

「うっせ。用が済んだのなら、さっさと部屋に戻って寝てやがれ」

 

 しっしと追い払うように手を振る。だが、冗談染みた言い回しやその仕草も、既に張りぼてのようなものだった。

 自分に対して真っ直ぐに向き合ってくる少女。見つめてくる純粋な光を湛えたその双眸に、心からの思いを伝えてくるその言葉に、まるで偽りで塗り固められた自身を責め立てられているような心地だった。

 そう、学院生クロウ・アームブラストは偽物(フェイク)だ。アンゼリカに指摘された通り、周りに合わせてお調子者の皮を被っているだけ。そして、それは目的を果たすための過程における手段に過ぎない。夕方の騒動で見せた冷たい様子が本当の彼と言える。

 だが、自分を偽る事に何も感じていない訳ではない。だからアンゼリカに図星を指摘された時は半ば本気で苛立ったし、こうして真っ直ぐにぶつかってこられると自己嫌悪に似た感情が湧き起こる。

 少なくとも今は、トワに早く去ってもらいたかった。しばらくすれば、崩れかけのお調子者クロウ・アームブラストを立て直せるのだから。

 

「じゃあ、その前に一つだけ聞いていいかな」

 

 しかし、彼女はそう易々と引き下がってくれなかった。不承不承という態度を示しながらも「んだよ」と先を促す。

 

「クロウ君、今の学院生活は楽しい?」

「あん? まあ、そこそこ楽しくやってるぜ。クラスの連中とアホな話したり……」

「ううん、そう言うことじゃなくって」

 

 唐突な質問に疑念を抱きながら口にした当たり障りのない解答は、言い切る前に遮られた。真っ直ぐに自分を見つめる瞳から目を逸らす。彼女の澄んだ瞳とは対照的に、嘘で濁りきった自分のそれが映し出されしまいそうな気がしたから。

 

「今のクロウ君は、本当に心の底から楽しいって思えたことがある?」

 

 改めて突き付けられた問いに、僅かながら顔が歪む。収まっていた苛立ちが再び募る。

 コイツもあの女と同じ口か、と内心で毒づいた。遠慮も無しに人の内側に入り込んで来ようとする、妙に察しの良い厄介な奴。馬鹿なお人好しで済めば良かったのに。

 

「へっ、お前も本音を出せとかうるさく言ってくるタイプかよ。いい加減そういうのは飽き飽きしているんだがな」

「そうだろうね。だから、私はお調子者のクロウ君のままでいいと思うよ」

 

 そう思っていたからこそ、偽りの自分を肯定するような言葉に、しばらく動きを止めてしまった。

 

「夕方から色々と考えてみたんだけどね、本音だけで生きている人なんていないんじゃないかって気付いたんだ。周りと上手くやっていくために心のどこかで折り合いをつけている。きっとそれは、アンちゃんも同じだと思う」

「……だろうな。本音だけじゃ社会でやっていけねえよ」

「うん。でも、やっぱり感情まで誤魔化すことはないんじゃないかな」

 

 トワが言い出したのは、ある意味で当たり前のことだった。人は誰しもが素のままで居る訳ではない。社会という枠組みの中で生きていくには、ある程度は周りに合わせる必要がある。

 だが、それでも全てを偽りで固める必要はないとトワは言う。

 

「お調子者のクロウ君は、もしかしたら周りに合わせた結果なのかもしれない。けど、だとしても自分が楽しいと思えるようにすることは、本気でお調子者であることは出来るんじゃないかな」

 

 クロウは、ただそれを静かに聞く。心の内は波風立っていたのが嘘のように静まり返っていた。

 

「例えクロウ君が心の仮面をつけていたとしても、仮面の奥で本当に笑ってくれているのならそれでいい……少なくとも、私はそう思うよ」

 

 お調子者の皮を被り続けるなら別にそれでいい。代わりに全力でお調子者である事を楽しめ。

 なんて無茶苦茶な論理だろうか。演劇の役者でもあるまいし、そんな事を求められるとは露ほども想像していなかった。唖然とした心地でいるクロウに、トワは更に言葉を投げかけた。

 

「ねえ、クロウ君はどうして士官学院に入ったの?」

「……聞くのは一つだけじゃなかったのか?」

「いいからいいから」

「…………モラトリアムみたいなもんだ」

 

 意外と強引に聞いてくるトワに観念し、入学の理由を告げる。かなり婉曲してはいるが。

 それに彼女は我が意を得たりとばかりに頷いた。

 

「じゃあ楽しめるようにしないと余計に勿体ないよ。二年なんて、きっとあっという間だろうから」

「って言われてもなぁ……」

「アンちゃんも本当に楽しそうなクロウ君を見たら文句も言わないと思うし」

「どうだかなぁ……」

 

 あれこれと言ってくるトワに曖昧な返事をして明確な答えを避ける。

 実を言えば、クロウはこの事態に対してどうするべきなのか全く分からなくなっていた。相手のお人好し加減に対する軽い嫌味から始めり、気付けば自分の学院におけるスタンスの話になっている。とんだ急展開である。

 その内心の困惑から返事がおざなりになっていたせいか。トワの言葉をよく聞きもせずに、適当に返したのが彼の運の尽きだった。

 

「うう……なら私もクロウ君が楽しめるように全力でサポートするからっ」

「ああ、うん……まあそれなら」

「ホント!?」

「は?」

 

 パッと顔を明るくさせるトワ。何事か分からず素っ頓狂な声を上げるクロウ。

 

「よーし。それじゃあクロウ君が学院生活を楽しめるよう、私も頑張ってみるね。きっと今年中に楽しいって言わせてみせるんだからっ」

「お、おいおい。ちょっと待て」

 

 何やら勢いづくトワに出遅れるようにして、ようやくクロウは待ったの声を掛ける。それに対して不思議そうに首を傾げる彼女を見て、自分の調子が更に狂っていく感覚に囚われる。

 

「何で俺自身の事にまで、そんなに関わってこようとするんだよ。お前には関係のない事だろ? 本人に任せて放っておきゃいいじゃねえか」

「……あれ? そんなに不思議な事かなぁ」

「分からねえから聞いてんだっつうの」

 

 どうしてこんな自分に関わってこようとするのか。アンゼリカのように悪感情を向けてくるならともかく、学院を楽しめるようにとお節介を焼こうとする気持ちは想像が及ばない。彼女は既に自分の本質が冷淡なそれと気付いている筈なのに。

 だが、目の前の少女はそれを当たり前のことのように思っている。その心の内を問い質そうとすれば、気取りのない自然な笑みが返ってくる。

 

「だって言ったでしょ。損な性格だとしても、手を差し伸べる気持ちを忘れたくないって」

 

 それは例えるならば、聖書に出てくる慈愛の天使のようで。

 

「――クロウ君も、私が手を差し伸べたいと思う一人なんだよ」

 

 その口から告げられた言葉もまた、慈しみに満ちた穏やかなものであった。

 目を見開き、動きが止まっている事を知ってか知らずか、トワは「じゃあ、おやすみ」と身を翻していった。遠ざかる背に手を伸ばし掛け、やめた。呼び止めたところで、話すべき言葉なんて一言も思い浮かばなかったからである。

 伸ばし掛けの手を頭に回して髪を掻き乱しながら盛大に溜息をつく。今日一番の溜息であることは間違いなかった。

 

「……何だありゃ。訳が分からねえ」

 

 つくづくトワ・ハーシェルという少女は自分の想像が及ばない存在であるらしい。思えば、初めてトリスタ駅の前で出会った時も見た目のせいで驚かせられた。それからというものの、事あるごとに調子が狂わされて仕方がない。

 あれは精神構造からして自分とは異なるに違いない。少なくとも、それだけは確信できた。凄く馬鹿なお人好しと言ったが、そんな生易しい表現ではこと足りなさそうだ。途方もなく馬鹿なお人好し、と言った方が適切か。

 困惑を紛らわすようにそんな事を考えるも、力のない苦笑を浮かべて打ち切った。考えるのが馬鹿らしく感じられた。

 

「お疲れでしたら、どうぞ」

「あん?」

 

 ふと声が聞こえる。目を向ければ、その主はこの宿酒場のウェイトレスだった。

 丁寧な手つきでテーブルに紅茶が注がれたティーカップが置かれる。それを見て、クロウは怪訝な表情になった。

 

「……頼んだ覚えは無いんだが」

「サービスですよ。私の家族がお世話になったそうなので、そのお礼に。ほら、あそこで飲んだくれている人たち、貴方たちが助けてくれたんでしょう?」

 

 指差す先のテーブルに突っ伏したポールたちを見て、クロウは「ああ、なるほど」と納得する。そう言えば、トワが彼らと話していた内容の中に、この宿で娘が働いているというのもあったか。彼女がその当人と言う訳なのだろう。

 

「家族に代わって改めてお礼を言わせてください。ありがとうございました」

 

 深々と頭が下げられる。困惑が尾を引いていたこともあってか、それに少し戸惑ってしまう。

 その末に出てきた返答は、やはりお調子者の皮を被ったものだった。

 

「そんじゃまあ、お言葉に甘えてありがたく頂くとするかね」

「ふふ、どうぞごゆっくり。実習、明日も頑張って下さいね」

「どうも」

 

 今度は軽く頭を下げ、ウェイトレスは階段に向かって行った。その手の盆には、まだ湯気の上がるティーカップが乗せられている。他の三人にも差し入れに行くのだろう。

 

(……ありがとう、ね)

 

 昼の街道でもそうだったが、面と向かって感謝されるのは随分と久しぶりに感じられる。置かれた環境もあっただろうが、何よりも冷め切ってしまった自分の性根のせいだろう。

 だが、だからと言って礼を言われて気分を損ねるほど捻くれてはいない。嬉しいという感情も、まだ自分の中には残っている。

 クロウは考える。学院でのスタンスを変えて、何か支障は出るだろうか。

 ――恐らく、無い。ただの足掛かりで何をしようが、余程のことでない限り大きな影響はないだろう。

 

「やれやれ面倒臭え……が、仕方ねえか」

 

 ありふれた不良学生として、誰の記憶にも残らずに消える。そんな当初の予定は既に破綻してしまった。それならば、いっそのこと突き抜けてしまうのも一つの手だ。あのお人好しの言う通り、本気でお調子者になってやろうではないか。

 開き直ってしまえば深く考える必要はない。雑多な感情を洗い流すように紅茶を呷る。

 その水面に映った自分の目は、思っていたよりもマシな色だった。

 


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