【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第九十一話 進む者、追う者、待つ者

深夜――ルーマニア

 

 暗い闇の中、黒衣を纏った少年が独り歩く。

 死角となる建物の屋根の上を音もたてず飛び回り、視線の先にある屋敷を警護している者たちから全く気付かれる気配はない。

 屋敷の電気はまだ点いているが、それは緊急時にもすぐ対応出来るために点けているだけであり、少年にとってのターゲットは既に就寝しているようだ。

 相手はこの国の古い貴族の血を引いている男。貴族制度自体が廃止されてその爵位を疾うに失っているが、それでも伝統的に旧伯爵家などと呼んだりすることもあるので、名家の当主が殺されたとなれば騒ぎにもなるだろう。

 だが、それは人々の生活が変わるほどではないと少年は考える。仕える者や仕事で取り引きのある者など、大きな損害を被る者も当然いるだろうが、当主が死んでもまだ妻と子どもが存在する。

 当主の兄弟も含めれば、それら仕事の関係者たちとは今後も付き合いが続く筈だ。

 ならば、実質、実害を被るのは殺される男の家族のみとなる。

 ――――だが、

 

(……それが悪だと知りながら、男と同じように甘い汁を吸ってきたんだ。殺されないだけマシだと思え)

 

 親族たちも含めて、皆、男が久遠の安寧で黒い金を手にしていることを知っていた。

 昨年殺したアロイス・ボーデヴィッヒの臓器売買にも深く関わっていたと調べがついている。

 真っ当な神経をしているのなら、罪のない命を弄ぶような行いに加担することが如何に愚かか分かるだろう。

 それを止めもせず、知りながらも見て見ぬふりで自分たちは贅の限りを尽くしていた。そんな者たちに掛ける慈悲など、今の少年は欠片も持ち合わせていない。

 冷徹な蒼瞳を屋敷に向け、敷地に最も近い屋根から助走を付けて跳び上がり庭へと降り立つ。

 着地時の草の擦れる音や、待機していた犬たちが吠えたことで警備の者らも侵入者に気付く。

 けれど、銃を撃ち放ってくる警備が集まってくるよりも早く駆け出した少年は、外套に弾丸を受けながら迫ってくる人と犬を加減速とステップで躱し屋敷へと進む。

 一部消えていた屋敷の明かりが全て点いた事で、屋敷の中にも侵入者が現れたことは伝わっているのだろう。

 それならば、もう音を立てる事を気にする必要はないと、少年は左手に長大な大太刀を構え。そのまま屋敷の壁へと進み、素早く三閃振るえば、正面にあった壁が容易く切り崩されていた。

 

(男の居場所は……三階か)

 

 常識外のルートで侵入を果たした少年は、屋敷内にいる人間の居場所を即座に調べる。

 屋敷中の人間が既に起きているらしく、頭の中に響く激しい恐怖と混乱を表す声がとても五月蝿く感じた。

 

(階段を使う必要はないな。このまま三階まで向かう)

 

 庭の警備たちが銃を乱射してくるも、黒い外套を貫通する事など叶わず。少年は相手を無視して天井に向かって跳躍しながら刀を振るった。

 すぐ上の部屋は単なる応接室だ。物もそう多くなく、誰もいないので都合が良い。

 そう考えながら着地を果たし。さらに上の階層へと向かってもう一度刀を振るって跳ぶ。

 

「ひ、ひぃっ!? だ、誰かぁ!!」

 

 今度の部屋には人がいたため、急に床が崩れ落ち、出来た孔から刀を持った男が現れたことで相手は半狂乱になりながら壁際へと逃げている。

 元々、久遠の安寧のメンバーが各地で殺されていることは、表の世界でもEP社の幹部が殺されているといって報道されていた。

 故に、壁際で泣いている青年も、父親の裏の顔も含めて知っていたのなら、当然、件の殺人鬼がやってくる可能性は考えていたはずだ。

 だというのに、二十代後半と思われるパジャマ姿の美形の青年は、小型の護身用拳銃しか用意していなかったようで、現れた少年の頭部めがけてなけなしの五発をすぐに撃ち果たした。

 当たったのは五発中一発のみ。それも頭部を狙っているのに右肩に掠る程度と、仮に防弾防刃装備を着ていなかったにしろ、まるで敵の戦力を落とせていなかっただろう。

 

「お、お前っ、何が目的でここへやってきた!? 既に軍と警察が屋敷を包囲する形で動いている。逃げ切ることなど出来んぞっ」

「……お前、莫迦だな。仮にそれが真実であっても、目的を持った人間はそれまでに目的を果たそうとするだろう。さらに、後がないのなら、何人か道連れにしようとも考えるかもしれない。何より、家人は逃走のための人質に使われる可能性も考慮すべきだ」

 

 怯えて声を上ずらせながらも、必死に強がって殺人鬼が逃走するよう仕向ける青年。

 だが、フードと前髪の間から覗く蒼眼を向け、殺人鬼の少年は心底呆れたように言葉を返した。

 言われた相手は恐怖で頭が回っていなかったのか、少年の指摘の可能性に思い至り、さらに顔色を真っ青にして床にへたり込む。

 恐怖に怯えるだけで抵抗や反発の意思を見せないのなら放っておいてもいい。

 そう考えた少年は、部屋の前に銃を持った男が数人集まっていることを感知しながら、隣の部屋とを隔てる壁を切り崩して移動を始める。

 壁の崩れる大きな音を聞いて男たちが扉を開いて入ってきたが、既に少年は隣の部屋へ移動を済ませている。

 いくつもある部屋の壁を破壊しながら駆け続け、追手が銃で狙って来れないよう壁の孔も直線ではなくずらして開けた。

 もっとも、撃たれたところで外套を貫くことなど不可能だが、面倒な妨害が入らないに越したことはない。

 そうして、いくつもの部屋を進んだところで、ようやく目的地へ到着した。

 壁に孔を開けて現れた少年に、部屋の中央に立つ屋敷の主らだけでなく、二人を守るため囲う形で備えていた者らも激しく動揺している様子だ。

 だが、殺人鬼の登場がどれだけ現実的でなかろうと、そんな大きな隙を一瞬でも作ってしまったのが彼らの犯した最大の過ちだった。

 

「――――死ね」

 

 瞳が蒼から濁った金色に変化した次の瞬間、少年は全員の視界から消える。

 さらに、声が聞こえたと思い振り返ってみれば、消えた少年が屋敷の主の後ろで刀を振り抜いた姿で立っていた。

 ゴトリと音を立てて落ちる頭部、部屋のカーペットを染めるように噴き出す鮮血、そんな状況を作っておきながら一切何の感情も浮かべていない殺人鬼の貌。

 恐ろしく、おぞましい光景だと言うのに目を離すことが出来ない。一生この光景を忘れられそうになく、いっそ気でも狂ってしまった方が楽だろうとすら思える。

 けれど、そう思っていても、血の雨を黒い外套で受けている少年の姿が、現実感がないからこそ幻想的に映ってしまい。彼が窓から飛び降りて出てゆくまで、誰一人として動くことが出来なかった。

 そうしてまた、殺人鬼は次の獲物の元へと向かうため静かに去って行った。

 

 

10月2日(月)

午前――中国・成都市近郊

 

 屋久島からセスナを奪い脱走したアイギス。彼女は道を決めやすいからという理由で選んだ上海行きのルートを、燃料が持つ限り飛んで距離を稼ぐルートへと変更した。

 その結果、燃料を使い果たした飛行機は飛ぶ力を失って不時着したが、彼女自身は特に怪我もなく無事に地面に降り立って移動を続けていた。

 不時着した場所が山や森に、やせ細った荒れた土地しかないような場所だったこともあり、当初は太陽や星の位置を頼りに感覚で移動を続けるしかなかったが、比較的栄えた成都市の近くにやってきたことで、改めてトルコまでのルートを考えられるようになった。

 とはいえ、迷彩服を着ている事もあってやはり街の中心部へ向かえば目立ってしまう。

 別に人間のように飲食する必要はないので、それならば街へは近付かないようにしようと決めながら、アイギスは成都市が遠くに見える田舎道をキコキコと手回し充電器を回して歩いていた。

 

(ここが成都市ならば、トルコのイスタンブールまではおよそ六七〇〇キロですね。まだまだ先は長いであります)

 

 元々は新品だった迷彩服はズボンの裾をはじめとして、至るところが汚れてボロボロになり始めている。

 黄山市と成都市の距離はおよそ千三百キロ。屋久島からトルコまでは八千キロ以上あり、アイギスは二週間で十分の一以上を踏破したことになる。

 ここへ来るまでの途中、軍や警察に拘束されそうになったことはなかったが、それでも山などで道なき道を進んでいれば丈夫な服も傷みはした。

 けれど、アイギスは服の傷みなど特に気にした様子もなく、途中にあった軍の駐屯施設に侵入して密かに拝借した手回し充電器を使って、歩きながらも自分のエネルギーを蓄えることに余念がない。

 影時間に一般人は棺桶型のオブジェになる。それを利用してストレガたちは過去に窃盗を行っていた訳だが、現在のアイギスがやっていることもそれと同じだ。

 最初は国境越えに影時間を利用することを考えていたが、このまま進めばどう計算しても辿り着くまでに大規模なメンテナンスが二度は必要になるほどボディに負担が掛かる。

 もしも動けなくなり、偶然近くにいた者が桐条グループを呼んでくれたとしても、当然、メンテナンスのために搬送した後は、施設で厳重に拘束されるに違いない。

 だが、それでは駄目なのだ。大切な彼を救う事が出来なくなる。そう考えたアイギスは道中で簡易メンテナンス出来るキットを欲した。

 もっとも、中国の農村部など未だに電気や水道など、生活に関わるインフラがまるで整備されていない場所だって存在する。

 人目を避けるように移動するアイギスが通るルートはそういった田舎がメインなので、メンテナンス用具を求めていた彼女も流石に無理かと諦めかけていた。

 だが、大切な少年の元へと向かう彼女を天は見放していなかった。

 途中で小さな軍の施設を見つけたアイギスは、影時間になるのを待ってから施設に忍び込んだ。

 他人の物を勝手に盗むのは悪い事だ。それはしっかりと分かっているが、湊を救えなければ世界が危険だという不思議な予感がある。

 ムーンライトブリッジでの記憶をほとんど失っているせいで、どうしてそんな事を思うのかは分からない。

 しかし、予感が的中すれば忍び込んだ施設の人間たちも困るはずなので、アイギスは必要な投資だと思ってもらいたいと考えながら、使えそうな物を色々と拝借した。

 そうして、服装は屋久島で手に入れた迷彩服だが、現在も使っている手回し充電器の他にも、予備の手回し充電器、身体の節々へ差すメンテナンス用の油、洗浄用の純水等を施設に置かれていた大きなリュックに詰めて貰ってきていた。

 

(ここはそれなりの都会で観光地のようですね。八雲さんをお助けすれば2009年までは時間があります。再び眠りにつく可能性もあり得ますが、起きたまま過ごすのであれば、色々な場所を見て回りたいものです)

 

 第一の目的地としているトルコまではまだ遠い。さらに、彼女自身の目的は湊と出会う事なので、情報集めも含めてトルコについてからが本番といった方が正しい。

 それでも、アイギスは自分が無事に湊の元へ辿り着くことを考えながら進む冷静さがあった。

 焦って何かをしようとしても良い結果は生まれない。あの戦いで迂闊に攻め込みピンチを招いたことで、大切な彼にはいらぬ負担を掛けてしまったのだ。

 だからこそ、アイギスは一日に進む距離をある程度定めながら、毎日着実に目的地を目指す様にしている。

 焦る気持ちは当然あるが、まだ大丈夫。セスナで通信機越しに会話したエリザベスという女性が“コミュニティ”と称した小さな繋がりは消えてしまったが、それよりも大きな“契約”と呼ばれる繋がりがまだ残っている。

 故に、アイギスは瞳に力強い光を宿しながら、少年へと続く道を一歩一歩進んでゆくのだった。

 

 

――ヨーロッパ・オノス地方

 

 十月もまだ初めだが、もうしばらくすれば雪が始めるのではないかという曇天の今日。久遠の安寧の拠点の中でもかなり私的に利用されている屋敷では、またも組織の幹部が殺されたという知らせを受けたソフィアが薄い笑みを浮かべていた。

 仙道死亡の報を受け、さらに同日に久遠の安寧を潰すと宣言した者がいたことで、幹部たちは少々驚きつつもあり得ないと笑っていた。

 けれど、宣戦布告を受けて約一週間で既に九人の幹部らが殺されている。殺された者の中には、当然、危機感を覚えて護衛を付けていた者もいるというのに、相手は幹部や構成員以外誰一人殺すことなく目的を達成して去って行ったという。

 そんな話を聞いてしまった胆の小さい男たちは、敵はそれほどの手練なのかと表情をすぐに引き攣らせることとなった。

 しかし、自身よりも二回り以上歳の離れた、権力を持ち普段は踏ん反り返っている者たちが狼狽える中、ソフィアだけは今も誰よりも愉しそうな顔をしている。

 屋敷の主に招かれソファーに座っていた客人は、ソフィアのその表情を眺めながら紅茶のカップをテーブルに置いて口を開く。

 

「ふむ、そんなに仲間が殺されるのが愉しいのかな? 難しいことはよく分からないけど、幹部というからには重要なポストに就いていた人間なんだろう?」

「別にそんな事はありませんわ。年功序列で椅子に座れたというか、単なる古狸も大勢いますもの。各業界へのパイプ役は生きておりますし。わたくしたちの規模にもなりますと幹部も二ケタではすみません」

 

 自身の執務机から客人の待つソファーへと移動しながら返すソフィア。

 その正面に座る科学者然としたスーツの上に白衣を着た女は、どこか退廃的な雰囲気を纏い、肩口で切り揃えられた傷んだ髪に指を絡ませながら、久遠の安寧の幹部向けの報告書に目を通しながら呟く。

 

「……これは同一犯の犯行なの? 移動経路と速度がまるで割り出せないんだが」

 

 久遠の安寧のメンバーでない女は、初めて見せられた一連の殺人事件に関する情報の不可解な点に少々驚いて見せる。

 報告書に書かれているのは被害者の襲われた犯行現場、目撃情報及び死亡推定時刻から割り出した犯行時刻、犯人が殺害に用いたと思われる凶器に関する考察などだ。

 書かれている事件は基本的に時間も場所もばらばら。トルコで事件があったかと思えば、その三時間後にドイツで殺されていたり。一日空いてギリシャでまた犠牲者が出たかと思った次の日に、今度はロシアとカザフスタンの国境付近に現れたりしている。

 航空機を使えば単純にトルコからドイツへ三時間で移動するのは不可能ではない。

 しかし、犯行現場から空港へと移動し、ドイツに到着してから次の犯行現場へ向かうとなれば、出入国の手続きに時間を割かれることもあり実質不可能だと断言できる。

 その点をクリアしようとするのならば、出入国を身分証の提示程度でスルーされ、現地移動の時間を稼ぐために音速旅客機などを使用する必要があるだろう。

 犯行を可能にする手段の一つとして考えてみたが、女は現実的ではないと薄い笑みを浮かべて何やら楽しそうにしている。

 先ほどとは反対に、相手のそんな様子を眺めていたソフィアが今度は話しかけた。

 

「不思議でしょう? 現場には一人で現れ、こちらの幹部や構成員のみを殺して去ってゆくの。犯人は仮面舞踏会の小狼。我々を潰すと宣言してきた美しい鬼よ」

「ええ、話しには聞いているよ。名切りの鬼、まだ生き残りがいたんだね。ちょっと興味があるし、もしも手に入れたら貸してくれないかな?」

「フフッ、細胞や血液の提供で良いのなら構いませんわ。でも、それ貴女の“息子”よ」

 

 突然の言葉に、言われた女は先ほどよりも大きく目を開けて顔を上げる。

 目の前にいる少女は楽しげに口元を歪めているが、決して嘘を吐いているようには見えない。

 相手の言う通り女には出産経験が一度だけある。その当時は一度くらい出産を経験しておくかと、丁度良いタイミングに来たクローン生成の依頼である個体から採取した細胞と自らの卵子で受精卵を作り、自らが母体となってそのクローンを産んだのだ。

 表の世界では人間のクローニングや遺伝子操作は禁忌で違法とされているため、あまり目立つように研究する訳にもいかず。研究の進みが遅い事もあって、それらの技術は完全に確立しているとは言い難い。

 着床してもまともに成長しない場合や、無事に出産することが出来ても、免疫力が異常に弱かったり、またどこかに後天的に障害が発生することもあり得る。

 現に、クローンばかりのせいではないかもしれないが、女は着床から五ヶ月程度の早産でクローンを出産してしまった。

 異常に成長が速かったのか、生まれた赤ん坊の体重は千グラムほどはあったが、それでも人工保育器に入れておくべき未熟児なことに変わりはない。

 だというのに、女は依頼人の要望から自分が産んだばかりの赤ん坊にかなり無茶な成長促進の処置を施し、生後一ヶ月にも満たない期間で、筋肉もろくに発達していないほぼ骨格だけ(ハリボテ)な七歳児の姿にしてしまった。

 自分たちも違法な研究をしていながら、子どもに対する情はないのかと周りの人間は言っていたが、女にしてみれば何事も経験だと好奇心から母体になると言ったに過ぎない。

 何より、依頼を受ける時点で、出産後はなるべく短期間でオリジナルと同じ年齢まで成長させて欲しいと言われていた。

 依頼人の要望をただ守っただけだというのに、何故今さらそんな風に道徳について説いてくるのかが理解出来なかった。

 そうして、どうにか無事に成長させたクローンを依頼人の日本人に渡した後は、その後の経過が少し気になりつつも、自分の元へ舞い込んでくる他の依頼に掛かる必要があった為、今日まで自らが腹を痛めて産んだ事も含めすっかり存在を忘れていた。

 というのも、仕事と研究に忙しかっただけでなく、まさか、あんな無茶な事をした個体が真っ当に成長しているとは思っていなかったのである。

 目の前にいる遺伝子操作の成功体の少女と同様、クローンの方でもしっかりと成功体が作れていたとは嬉しい誤算だ。

 特に親子としての感情は湧いてこないが、“普通の母親なら子どもに会いたいと思う”はずなので、女は立派に成長した我が子に会ってみようという気が少し起きた。

 

「名前は何ていうの? 小狼は偽名だよね?」

「あら、御自分では名前も付けていなかったんですの?」

「んー、まぁ、日本人らしかったから受精卵を着床させた年から取って“九十九(つくも)”って名付けていたけどね。日本語は発音が難しくて呼びづらいから口に出して呼んだ事はほとんどないな」

 

 血の繋がりは一応あるが、その後も自分の手元に置いておくわけでもなし。名前を付けるだけ無駄だと思った。

 けれど、無駄な事はしないでおこうと思いつつも、名前が無いのは記録に残す上で不便だと彼女なりのルールでしっかりと名前を付けてやったのである。

 そんな風に母親としての愛情はないが、科学者としての関心はしっかりと持っていた歪な人間性の相手へ、ソフィアは紅茶に口を付けながら返した。

 

「当時から既に適当な人間でしたのね。まぁ、名前は仙道の方から一応聞いています。百鬼八雲というそうです。ただし、これは本来オリジナルの名前ですので、正しい名前と認識していいのか分かりませんが」

「お、偶然にも似た響きの名前だ。ふむふむ。てっきり、オリジナルの予備臓器用(スペアパーツ)かと思っていたけど、確かにソレに同じ名前を付けるとは珍しいね。だとすると、別の用途に使われたのかな?」

 

 遺伝子操作もクローンも技術的な問題点はまだ多数残っているが、いくつかの成功個体が生まれていることもあり、その素晴らしい技術に夢を持って裏に通じた金持ち達から依頼としてはよくやってくる。

 だが、それには法外な費用が必要となり、失敗しても何の補償もされないことから、実際に契約まで行われる事は稀だ。

 女の目の前にいるソフィアとて、久遠の安寧がトップであるルーカス・ライムント・ヴォルケンシュタインが後継者を残すため、信じられない巨費を投じて作らせてきた個体の一つであり。その裏には生きられなかった数十体の失敗作が存在する。

 そんな事が出来るのは極一部の権力者のみで、一般人は一体作る費用を出せたら良い方だった。

 当時のクローンも無事に出産から成長までは漕ぎ着けたが、依頼人のあまりに急いでいる様子から、早急に臓器移植が必要になり提供者を探すよりも確実な方法を選んだのだとばかり思っていた。

 それがオリジナルと同じ名前をつけられ、また無事というよりもむしろ元気過ぎるくらいに暴れまわっているとなれば、依頼人はオリジナルの予備のために作った訳ではないのだろう。

 予備以外の作る理由で最も多いのは死んだオリジナルの代用品としてだが、ソフィアの話しぶりからするとオリジナルもちゃんと生きているらしい。

 だとすれば、代用品の線は消えるため、女は他に何か理由はあっただろうかと考え込んだ。

 

「予備でも代用品でもない。ああ、兄弟を作るとかって感じかも」

「兄弟なら別に赤ん坊でも構わないでしょう。まぁ、わたくしも詳しくはありませんが、仙道が聞いた話しによれば替え玉用だったらしいですわ」

「ああ、その可能性があったか。なるほど、人生何が起こるか分からないし。同一個体が二人いれば有利に働くこともあるかもしれないね。ただまぁ、記憶がないから替え玉はすぐばれるだろうけど」

 

 幾月は他者を出しぬくため、八雲(オリジナル)九十九(クローン)を入れ替える事を企てていたのだが、替え玉の意味を詳しく聞いていない二人は、多少の興味を抱いたまま誤った解釈で話しを進める。

 クローンは確かにオリジナルの細胞から作られた、一種のコピー人間である。

 しかし、遺伝子的にクローンと同一な状態にある一卵性双生児を見れば分かるが、例え設計図が同じであっても完全に同じという訳ではない。

 後天的な筋肉の発達具合は当然異なり。両親の細胞を元に出来た子どもへ親の記憶が引き継がれないように、クローンも元の細胞の持ち主であるオリジナルの記憶を得ることは出来ない。

 だからこそ、いくら替え玉をしても、すぐに記憶の有無や癖などで別人である事がばれてしまうだろうと言って女は楽しそうに笑った。

 正面に座ってそれを聞いていたソフィアは、少し考えながら女に自分の考えを交えて話す。

 

「その保護者が上流階級であれば、オリジナルの能力が保障されていない以上、クローンで他者の目を誤魔化しておく事も必要になります。優雅に見せているのは外見だけで、心の中では如何に他者を陥れるかを考えている者ばかりですから。当然、後継者の弱みは見せられないでしょうし」

「それは確かに言えているかもしれない。私がこんな研究馬鹿の科学者だから、父もそれなりに苦労していたようだしね」

 

 例えば、オリジナルは運動が得意で勉強が苦手であれば、クローンにはそれを補うように教育を施し、要所要所でオリジナルの利益に繋がるよう働かせる。

 頻繁に入れ替わっていればばれるだろうが、それが学校の入試などであれば容姿が同じである以上、クローンは戸籍にも存在しないのでばれる事はまずないだろう。

 そんな風に、クローンを使い文武共に完璧であると周囲に見せる事で、上流階級ではよくある蹴落とし合いのリスクを減らす事が出来る。

 女もソフィア程ではないにしろ。親がそれなりに力を持った人間であったため、人間たちの醜い部分はよく知っており、当時の依頼人の事情にも理解を示せたことで少しすっきりした。

 そこからさらに気分を上げるために、テーブルのクッキーに手を伸ばしたところで、ソフィアが口元を歪めながら軽い調子で声を掛けてくる。

 

「ああ、そういえば、貴女のお父様を殺したのは小狼ですわよ。仙道と会ったのもその時ですから」

「おや、そうだったのか。確かに会社から犯人の特定がどうとのメールがあったかもしれないが、それは父に悪い事をした。孫に殺されてしまうとは運が無い」

 

 口ではそう言いながらも、顔には薄い笑みを貼り付けてクッキーを食べているこの女。実は去年湊に殺されたアロイス・ボーデヴィッヒの娘で、名前はエルナ・ボーデヴィッヒという。

 上に三人の兄がおり、兄妹全員がアロイスの会社役員となっているが、経営は全て兄に任せてエルナは科学者兼医者として趣味と実益をかねた仕事をしている。

 そして、口調からも分かる通り変わった性格をしていて、母と兄たちは父の訃報を聞いて悲しんでいたが、エルナだけは「そっか、殺されたのか」となんともドライな感想を抱いたのみだった。

 今も自身の父親殺しの犯人が息子であると聞き、「自分の息子はわんぱくだなぁ」とずれた事は考えたが、父親に対しては特にこれと言って何も思っていない。

 普通の人間からすれば薄情な娘と映ることだろう。けれど、奇才だからこその人間的欠陥だと思えば、彼女はこれで良いのだと考える者もいる。

 この場にいるソフィアもそう考える一人であり。自分たち組織の一員ではないが、自身を生み出した張本人で、仕事の付き合いが今も続いている相手の反応を気にした様子もなく、以前から少々気になっていた事を尋ねた。

 

「そういえば、小狼はクローンのようですが、寿命の方はどうなっていますの? 遺伝子操作をしたわたくしよりも長いのかしら?」

 

 ソフィアの遺伝子操作は、生まれつき高い頭脳や身体能力を持てるようにした物ではない。

 彼女に施されたのは、あくまで性能の上限引き上げであり、勉強すれば、鍛えれば、という前提が存在するのだ。

 そのために彼女の父親も大金を使って英才教育を施し、湊よりも一つ年上でありながら既に飛び級で英国大学院を卒業したほどの頭脳を持っている。

 もっとも、勉強と同じように身体も鍛えていれば、国のオリンピック代表入りも夢ではなかったりするのだが、優雅ではないという理由で本人が運動を拒否しているため体力はない。

 そんな彼女は、遺伝子に欠陥がある可能性が指摘されていることで、他の者たちよりも短命であるか、もしくは筋肉や他の器官に障害が発生しやすくなると言われている。

 自身の身体について説明を受けた彼女は、美人薄命と言って気にもしていなかったが、自分と似た生まれである湊には人一倍興味を抱いているのか、尋ねるその瞳は笑みの割に真剣だ。

 相手側のそんな心中をどことなく理解しながら、クッキーを食べていたエルナは音を立てて紅茶を飲みつつ答える。

 

「それは何ともいえないね。人間の寿命って本当に予想がつかないもんでさ。病気の進行速度からなら余命を計算出来たりする事もあるけど、普通は何歳まで生きるかなんて分からないし」

「でも、クローンは生まれつきテロメアが短いのでしょう? テロメアが短い分、老化もオリジナルよりも速いと聞いておりますが?」

「ああ、それは嘘だよ。実際はクローン化の度にテロメアが長くなる研究結果も確認されてるしさ。けどまぁ、私見じゃ……身体の中身はボロボロなんじゃないかとは思ってる」

 

 にやりと不敵に笑うエルナは、表情こそふざけているように見えるが、その目は冗談で言っている訳ではないと告げている。

 彼女は湊が飛騨から改造を受けていることは全く知らないが、百鬼八雲のクローンを生み出した科学者として、普通ならとっくに死んでいるのだから生きていても別の問題が浮上していると読んだだけだ。

 産みの親にして生みの親でもある彼女の言葉を聞いていたソフィアは、それらはきっと真実なのだろうと理解して少し残念に思う。

 湊はソフィアが唯一認めた、同量の金やダイヤよりも価値のある存在だ。

 自他共に認める美貌を持つ自身も短命だと言われたが、同じように美しい湊も似た運命を持っている。

 ならば、これは生命の禁忌に手を染め生み出された者へ神が与えた罰なのだろう。そして、両者の魔性を帯びた美貌は、愚かな人間によって生み出された被害者でもある二人へのせめてもの慈悲に違いない。

 自分たちに待つ運命を受け入れたソフィアは、エルナを置き去りにしながら厳かに祈りを捧げだし。いつか二人で主の元へ向かいますと神に伝えたのだった。

 

 

 


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