【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第八十一話 イリス

――研究施設・内部

 

 施設に侵入してから、湊の倍近い時間をかけながらも、なんとか目的の場所まで辿り着いたイリス。

 彼女は湊のように薬の知識は持ち合わせていないが、副作用を抑える薬の方は詳しい情報を依頼人より受け取っていたため、試薬の置かれた棚から同じ名前の物をくすねるだけと、何とも簡単に済んでしまった。

 用事が済めば、もうこんな危険な場所に長居する必要はない。

 試薬をポーチにしっかり仕舞い、扉の向こうに人の気配がないかを確認しながら部屋を出た。

 廊下には誰もいない。一応、耳を澄ませて急に人が現れないか警戒しているものの、自分の小さな足音以外は静かな物だ。

 明かりの点いている部屋は沢山あるというのに、部屋の中にいる研究員らはよっぽど集中して作業に取り組んでいるらしい。

 

(こんだけ薬の研究とかしてるなら、アイツの延命に使える物もありそうなんだけどな)

 

 廊下を走りながら、イリスは湊の寿命について考える。

 チドリは大人たちからも聞かされていないので知らないが、桜やイリスは栗原から湊が短命である事を聞いていた。

 長期に亘ってリハビリを行うことで肉体本来の機能を回復させるべきときに、湊は本来以上の性能を引き出すために神経や筋肉に手を加えた。

 また、毒への免疫をつけるため、段階は踏んだものの、常人ならば致死量の毒をいくつも摂取して実際にファルロスの蘇生を受けた事もある。

 施術は全て成功し、実際に湊は大人と戦えるだけの力を手に入れた。

 けれど、無理矢理な能力の底上げは細胞を著しく傷付け。再生力が衰え出す成人頃から一気に細胞が劣化を始めるだろうという、大きな代償を支払う事を湊へ迫っていた。

 

(……長生きさせてやりたいな。こんだけ他人のために頑張ってるんだ。少しくらい神様も情けをくれたっていいだろうに)

 

 劣化の始まる明確な時期は分からない。湊は二次性徴を向かえて、肉体自体が中性としての機能を得るなど変化を続けているのだ。

 飛騨が予想して出した寿命に、そんな変化は考慮されていないため、もしかすれば、当初の予定よりも生きられるかもしれない。

 だが、その逆も当然あり得る訳で、むしろ、頻繁にファルロスの蘇生で細胞を無理矢理に再生させている事を考えれば、寿命は当初よりも短くなっている可能性すらあった。

 死を視ることの出来る少年は、その瞳で自分を視たときどのように思っているのだろうか。

 彼の寿命と共にその事を考える度、イリスは胸が締め付けられるような悲しさを覚えるのだった。

 

(……なんだ?)

 

 湊のことを考えながら脱出のため駆けていると、なにやら通路の先が騒がしいことに気付く。

 耳を澄ますと何人もの人間が大声で叫んでいるようだ。

 

(ったく、こんな日になんだってんだ)

 

 自分がばれていないのであれば、自分以上に隠密行動が得意な湊がばれているはずがない。

 ならば、この騒ぎは自分たちの存在が相手にばれたことが原因ではないと結論付け。とりあえず、人の気配のない通路に隠れながら、イリスは情報収集も兼ねて周囲の声を聞くため神経を研ぎ澄ます。

 これでもイリスもトップクラスの実力を持った仕事屋だ。周囲の比較対象が湊やそれに準ずる化け物たちのせいで実力は低く見られがちだが、単独でも潜入ミッションをこなすだけの能力は持ち合わせている。

 

《にげ……毒ガス…………シャッターは……》

 

 そうして、呼吸を整えながら声に耳を傾けていると、少し遠い場所で叫んでいる声を断片的に聞きとる事が出来た。

 信じたくはないが、バタバタと走る足音も聞こえて、どうやら騒ぎが徐々に大きくなっていることからも本当らしい。

 

「毒ガスって嘘だろ、おい……」

 

 自分のいる場所から脱出口まで辿り着くには、騒ぎの起こっている方へ進む必要がある。

 迂回して別の場所から脱出することも出来るが、隔壁であるシャッターが不調を起こしているようで、無事に辿り着けるか分からない。

 絶望的なまでの運の無さに、イリスは頭を抱えたくなった。

 

「……小狼は脱出してるよな?」

 

 現在進行形で危険の迫っている自分よりも、既に安全圏に逃れているであろう少年の方が気になったらしい。

 少年の無事を知るため、イリスはどこか安全な場所に退避しながら連絡を取ろうと駆け出そうとする。

 

『うわああぁぁぁぁっ!?』

 

 だが、そばの通路から叫び声が聞こえてきた直後、イリスの視界は流れ込んできた白い煙に覆われた。

 

***

 

 先に脱出していた湊は、狙撃ポイントとして下見していた小高い丘の上に逃れていた。

 反対側までは流石にカバー出来ないが、今いる場所からはかなり広域を射程に収める事が出来る。

 イリスが連絡できない状態ならば無駄に終わるものの、例え移動中でも窓から追われているのが見えれば、すぐにでも敵を狙撃してやるつもりでいた。

 しかし、そうして待機していた湊は、予想よりもイリスが遅いことが気になった。

 いくら見つからないように慎重に動くと言っても、滞在時間が長くなれば、それだけ研究員らに見つかるリスクも高くなる。

 それが分からない訳ではないだろうと、湊はそろそろ連絡を一度入れてみるべきか思案する。

 

《聞こえるか、小狼》

 

 だが、湊が連絡を入れる前に、丁度良いタイミングで相手から通信が入った。

 何やら周囲が騒がしい気もするが、とりあえず相手の通信に返事をする。

 

「……ああ、聞こえる。随分と遅いな。こっちは指定ポイントについてるぞ」

《ははっ、悪い。なんていうか、まぁ、少しドジってな》

「……何があった?」

 

 相手の様子が少しおかしい。通信越しで僅かにくぐもっては聞こえるものの、普段よりも声に覇気がないとはっきり感じる。

 まさか、動けない状態になっているのか。そうならば、言えばすぐにでも駆けつけるため、湊は用意していた狙撃銃を片付ける準備をする。

 だが、銃をマフラーに仕舞おうとしたとき、湊の視界に夜の闇を照らす明るい炎が映り込んだ。

 

「おい、研究施設が燃えてるぞ」

《ああ、それもあって、今こっちは大混乱だ。どこかの研究室で薬品の配合を間違えたとかで、施設中に毒ガスが充満してる。隔壁は不具合があって降りてない。まぁ、使った事がなかったみたいだから、どうせ整備不良が原因だろうけどな》

 

 言って、イリスは苦笑気味に笑っている。

 そんな余裕はないはずだが、確かに、毒ガスと炎が迫っている状況に置かれれば、弱気になってやけを起こしてしまうのも無理はない。

 もっとも、他の者と違って、その両方が効かない者がここにはいる。イリスが動けないのなら、自分が助けに行こうと、湊はカグヤで施設内を索敵しながら会話を続ける。

 

「どこにいる? 炎も毒ガスも俺には効かない。身動きが取れないなら、こっちから助けに行く」

《いいって。いま、こっちは毒ガスが充満してるって言ったが、抗体を研究するために用意したウィルスとかもケースが壊れてばら撒かれた状態だ。つまり、ケミカルハザードとバイオハザードが同時に起こってるんだよ。いくらオマエでも、生物兵器への耐性は分からないだろ?》

 

 イリスの言う通り、湊の持つ免疫は薬物に対する物がメインで、ウィルスの免疫は一般的に人がかかるインフルエンザを始めとした感染症のものしかない。

 軍で開発されたような意図的に強化された生物兵器は、流石の飛騨も準備をすることが出来なかったため、湊は自分の免疫力でそれらに勝つしかないのだ。

 他の者ならば、症状が出ても薬でいくらか改善できるかもしれないが、湊はその薬を使う事が出来ない。

 故に、今回に限って言えば、むしろ、湊だからこそ来てはならないとイリスは言葉で強く制した。

 相手の言い分も理解出来、自分でも今の施設に侵入するのは危険どころか自殺行為だと分かっている。

 それでも、火の勢いが増しているのを見て、湊はイリスの身に危険が迫っていると焦り覚えていた。

 このままでは確実にイリスは死ぬ。場所が分かれば救いにいけるかも知れない。そんな風に、湊は施設中に能力の目を向けて、イリスの所在を掴もうとする。

 

《なぁ、オマエが仕事でペルソナを使いたくないのは知ってるんだけどさ。今回はマジでヤバいんだ。風下には街がある。施設が崩れて、中身が外に出たら一発でアウトだ》

 

 だが、湊の気持ちを知ってか知らずか、イリスは非情な選択を迫ってきた。

 

《だから、頼む。研究施設を炎で閉じ込めてくれないか。ただの火災じゃ心許なくてな。高温で焼けば、流石に毒もウィルスも消えるだろ? 既に感染してない人間はいないはずだ。誰一人、いまここから逃がしちゃ駄目なんだ。そしたら、街に暮らす人間や助けに来た人間っていう、無関係のやつらが死ぬことになるんだよ》

 

 ここから街までは二十キロも離れていない。吹いている風はそれほど強いとは言えないが、全くの無風と言う訳ではない。

 イリスの言う通り、外に漏れ出した毒ガスと病原体がどれだけの犠牲者を出す事か、利口な湊が分からないはずがなかった。

 

「……イリスも、逃げられないのか?」

 

 それでも、まだ何か一つでも救える可能性が残っていて欲しい。

 丘の上に佇み、燃える研究施設を眺めている少年はぽつりと呟いた。

 

《ああ、毒を結構吸ってな。なんとか、少し密閉された部屋に逃げ込んだが、時間が経つにつれて手足が痙攣して感覚がなくなってきてるんだ。今も立ってられなくて、壁にもたれて座ってるんだぞ。まだ話せてるけど、三十分もすれば舌も麻痺して窒息死するかもな》

「そうか」

 

 少年は相手の居場所をついに見つけた。

 他の部屋より壁の分厚い、何か少し特殊な部屋らしい。そこで通信機越しで話していた通り、相手は壁にもたれて力無く座っていた。

 一応、右手の傍には護身用なのか銃が置かれているが、今の状態を見るに急に誰かが現れても対処できないだろう。

 さらに銃の近くに携帯電話も落ちているが、脱出時に忘れないことを考えるのであれば、すぐに仕舞っているはずなので、置きっぱなしということは、脱出を考えていないのか、もしくは、仕舞うことも出来ないほど弱っているということになる。

 普段あれだけパワフルな人間をこうまで弱らせる毒。そんな恐ろしいものが無関係の人間に降り掛かるなど、他者を巻き込むことを由としない湊が認めるはずがなかった。

 

「……スーツェー、マハラギオン」

 

 カードを握り砕き、煌びやかな尾羽を持つ朱い鳥型のペルソナ、節制“スーツェー”を呼び出す。

 光を纏って現れたペルソナは、光が治まるかどうかというタイミングで飛翔すると、そのまま施設上空へと移動し、巨大な炎の渦で施設を覆った。

 影時間でもないときに、こんな事をすれば大勢の人間から目撃されるだろう。

 だが、街の方からでは空へと伸びる炎の柱にしか見えないはずだ。

 渦の中心にいるスーツェーを見ることも、施設の中で何が起こっているのかも分からない。

 そう、無関係の人間なのだ。なら、そんな人間たちは何も知らなくていい。知ったところで、どうせ彼らは自分らを救うために動いた人間に、何の感謝もしたりはしないのだから。

 天へと伸びる炎を見ながら、爪が食い込み血が出るほど強く拳を握りしめている湊の元に、再びイリスからの声が届く。

 

《ありがとな。徐々にだが、施設内が暑くなってきた気がするよ。こりゃ、随分と痩せられそうだ》

「……ダイエットは必要ないんじゃなかったのか?」

《バーカ、女は見えないところで努力するもんなんだよ。してようとしてまいと、大概の女はしてないって言ったりするんだ》

「フッ、ただの見栄じゃないか」

《ハハッ、見栄って書いて“オトメゴコロ”ってルビが振られるように設定されてるんだ。ちゃんと覚えておけよ》

 

 二人は依頼を終えて合流するまでのように、いつも通り雑談を続ける。

 イリスはもう助からない。助けたい。死なせたくない。それでも、シャドウの力を使おうとも湊には助ける方法が思い浮かばないのだ。

 ペルソナの回復スキルはそれほど万能ではない。同じペルソナ使いには十分な効果が見込めるが、どういう訳かペルソナに目覚めていない人間には効果が薄い。

 以前、蠍の心臓本部で骨にひびが入ったレベッカを治療した際、生命力の譲渡で細胞を活性化させて回復を早めるなどと、わざわざ面倒な事をしたのもスキルの効果の薄さが原因であった。

 今回も、スキルによる完全回復は見込めない。下手にスキルを使用して毒の進行が遅れれば、余計にイリスを苦しめることになる。

 故に、今の湊には苦しまないように殺す以外、何も出来る事は残されていなかった。

 どこで間違えたのか。初めからこんな依頼を受けなければ良かったのか。

 いや、そもそも、自分のような存在が人と共にいることが間違っていたのではないか。

 両親、岳羽詠一朗、アイギス、飛騨、チドリ、被験体たち。これだけの人間を不幸な目に遭わせておいて、今回またイリスが自分と関わったばかりに犠牲となる。

 守るのなら傍にいる必要はない。影に徹して、ただ敵となる者を自分が密かに葬れば良いだけだ。

 分を弁えず、“人との繋がり”に未練を残してしまったばっかりに、イリスを自分の不幸に巻き込み死なせるはめになった。

 己の愚かな振る舞いによってまた人を殺す。どうやっても償える事ではない。いっそ、もう誰も犠牲にしないため、湊は我が身を引き裂いてやりたい思いに駆られた。

 

《ああ、アタシの荷物は好きにしていい。使える物はオマエにやる。いらない物は捨てるなり、誰かにやるなりしてくれ。古いタロットがあっただろ? あれはいい物だぞ。考古学者をやってたアタシの旦那が持ってたものなんだ。あの年代の完品デッキなんて、数千万出して欲しがるやつもいるはずだ》

「……結婚、してたんだな。なんとなく、そんな気はしていたが」

《ん、そういや話したことなかったか。じゃあ、もう少し時間もあるし。アタシの素性をちょっとばかし教えておこうかね》

 

 彼女のいう時間が、施設と共にイリスが燃えるまでのことなのか、それとも毒が全身に回りきるまでのことなのか、分かるのは言った本人だけだ。

 しかし、そんなのはどっちでも良いと湊はシャドウの力で施設内の機械制御を奪い。隔壁を下ろして少しでも燃えるまでの時間を稼ぐ。

 ここで彼女の最期の言葉を聞いておかなければ、一生後悔することがはっきり分かっていたから。

 

《……アタシさ。昔、子どもがいたんだ。ロランって言ってね、生きてたら十二歳になる男の子だった。だけど、三歳のときに、旅行先でテロに巻き込まれて夫のジョエルも一緒に死んだんだ。今はフランスのシャテーニュ村ってとこの教会に眠ってるけど。二人を同時に失って、怪我で子どもが出来ない身体になったアタシは抜け殻になってたんだ》

 

 普段は服に隠れて見えないが、イリスは丹田の辺りに大きな傷跡がある。

 自爆テロで壊れた何かの破片が飛んできて、深々と突き刺さったことによる傷だ。

 幸い、テロに巻き込まれた生存者としてすぐに病院に搬送され、破片の除去と傷の縫合が行われたことで一命を取り留めたが、傷は子宮に達していたため、子宮は全摘出されている。

 

《そんなときに、仕事で同じ街に来ていたナタリアと出会った。彼女もテロリストもどきに自分の子どもを殺されたらしくてね。色々と面倒を見て貰ったんだよ。で、蠍の心臓で仕事をしているうちに、テロが起きる一因を担った相手を見つけて殺した。退役したのは、そんな意味のない復讐を終えたからだ》

 

 本当に抜け殻のようになっていたイリスを、当時、出会ったばかりだというのにナタリアは親身になって介抱した。

 同じようにテロリストに息子を殺された過去を持つとは言ったが、ナタリアの息子は要人警護の任務で身代りとなって死んだので、イリスとは条件がかなり異なる。

 それでも、同じように子どもを失った経験を持つ人間と聞けば、イリスも心を開き易かったようで、ナタリアの助言で夫と息子を弔うため、住んでいた街の教会に土地を買って埋葬した。

 その後は、しばらくは傷が開いてはいけないからと静養しつつ、蠍の心臓で働くために知識を身に付けた。

 銃火器の構造や、ミッション時の戦術など、リハビリと同時に出来る事はなんでもした。

 傷が完全に癒えてからは、運動神経はあっても実戦経験がなかったため、必死に体術と銃火器の扱いを覚える毎日を送るようになる。

 ナタリアの扱きは半端ではなく、何かをしていなかれば壊れていたかもしれないと必死に打ち込んだにしろ。在籍中のイリス並みの実力を持つレベッカの半分未満の時間で、それと同じ実力まで登り詰めたのだから、イリスのセンスも大したものだろう。

 とはいえ、実力をつけて蠍の心臓のトップチームで仕事をしていたイリスも、意味のない復讐を終えると燃え尽き症候群にかかったように、自分が何をして生きていくかを悩んで、仕事に対する意欲もなくし。そのまま組織を抜けることにした。

 

《退役したアタシは、とくにやる事もなかったから知り合いだったジャンに呼ばれて日本に向かった。日本はあんまり行った事がなかったからね。少し休むって意味では、あの平和な国は最適だったよ。それからは、まぁ、アンタも知っての通りだ》

 

 真面目な口調で話していたイリスは最後にフフッと笑う。

 カグヤの能力で相手の表情を確認すると、自嘲的な笑みではなく、何か楽しいことがあったような、嬉しそうな自然な笑みを浮かべて続けてくる。

 

《何でもない日に訳ありの子ども二人と出会って、その片方と仕事までするようになった。何の因果か分からないが、オマエと一緒に過ごしたこの六年は本当に楽しかったよ。図々しいかもしれないけど、まるで息子と一緒にいるみたいでね》

「……俺、本当の名前は八雲って言うんだ。百鬼八雲、それが本来の名前だ」

《ははっ、こんな土壇場で教えてくれるとはね。でも、嬉しいよ。教えてくれて、ありがとな》

 

 自分のことを話したイリスに、お返しのつもりで湊も本当の名を告げる。

 彼女は力の管理者らからその名を聞いていたが、湊自身が本当の名前を教えるのは初めてだ。

 これも信頼の証しかと、イリスはさらに嬉しそうに笑っていた。

 だが、湊が本当に伝えたかったのは自分の名ではない。死に近付いている相手を能力の眼で視ながら、表情を悲痛に歪めて本当に伝えたかった事を話す。

 

「母さんの名前は……菖蒲(あやめ)って言って。菖蒲の花は、フランス語だとイリスって言うんだ」

《へぇ、そりゃ随分と縁があったんだな。けどそれじゃあ、アタシがオマエを息子みたいに思ってたなんていったら罰が当たるね》

「そんな事ないっ!!」

 

 死にゆく相手に心配をかけまいと、平静を装い、普段通りの淡々とした受け答えをしていた湊。

 けれど、ついに耐えきれなくなり、冷静な仮面を捨て去り心のままに叫ぶ。

 

「俺にとってもイリスは母親のような存在だった! ずっと楽しかった、もっと一緒にいたかった。本当に大切な物以外は諦める覚悟をしておけと言われたって、俺は知らない街の人間なんかよりも、母さんを守りたかったッ」

《ハハッ……馬鹿、だね。本当に、オマエは大馬鹿者で、手間のかかる息子だよ》

 

 どうしてイリスがこんな目に遭わなければならないのか。

 確かに彼女も人殺しの業を背負っている。だが、湊の知る彼女は間違いなく善人であった。

 他にもっと死ななければならないヤツなどいくらでもいる。今この瞬間にも身勝手な理由で他人を不幸にしている者だっているのだ。

 そんな人間がのうのうと生きているというのに、善人であるイリスが死ぬことを認めた“世界”に対し、憎悪を抱かずにはいられない。

 地に手と膝をつき、爪が剥がれるほどの強さで地面を掴みながら、湊は不条理な世界を呪った。

 

「まだ間に合う! いまから助けにっ」

《来るなっ! アタシは他の人間を巻きこんでまで生きながらえるのは御免だ。オマエが無事なら……それで良い》

 

 死神のカードを手に持ち、今からでも救出しようと湊は立ち上がる。

 けれど、自分を助けたことが原因で風下の街が犠牲になってはいけない。

 なにより、助けにきた湊が自分と同じような目に遭うのは耐えられない。

 そう言ってイリスは湊が自分を助けにくることを拒んだ。

 今にも死にそうなくせに、どうして他人を気遣えるのかが分からない。

 助けられない悔しさを感じながら、湊がイリスを見続けていると、今までぐったりしていた相手が急に手を動かし始めた事に気付く。

 その手は、すぐ近くに置かれていた拳銃に触れるなり、震える手でしっかりと握って持ち上げ始めた。

 

「な、なにをしてる」

 

 いま武器なんて必要ないはず。嫌な予感しかしない湊は、焦りと動揺を覚えながら問いかける。

 だが、湊の問いに答えず、イリスは手に持った拳銃を自分の頭に向けながら、綺麗な笑顔を浮かべていた。

 

《こんな別れになってすまない。でも、オマエなら大丈夫だ。幸せに生きろよ》

 

 同じ表情を自分は知っている。そう、死んだ母親が最後の瞬間に浮かべていたものと同じだ。

 相手からは見えておらず、届く筈もないと分かっていながら、湊はイリスのいる方向へと手を伸ばす。

 

「や、やめっ」

《――――じゃあな》

 

 だが、そんな制止の声も届かず、インカムからは乾いた銃声が響いた。

 施設を炎で封じた湊が自分を殺したと背負わなくていいように、イリスは完全に身体の自由が利かなくなる前に自害を選んだのだ。

 そして、湊には、イリスが死ぬ瞬間の光景が視えてしまっていた。

 弾丸を放った反動でイリスの手を離れ拳銃が地面に落ちるのも。銃口から飛び出した弾丸が、イリスの頭部を貫通して抜け出るところも。

 弾丸が貫通して出来た穴から、血と脳漿を垂らして彼女は床に崩れ落ちている。

 発射しようとした瞬間、銃が暴発したなどというタイミングの良い奇跡など起こるはずもなく、間違いなくイリスは絶命していた。

 

「……ああ…………が……ぁ………………」

 

 胸部を強く押さえながら、地面に膝をついて湊が倒れる。

 人の死には慣れているつもりだった。だというのに、たった一人の死でこんなにも胸が苦しい。

 死んだ。死んでしまった。自分が殺してしまった。

 償いようのない罪の重さに潰されそうになる。

 親しい人間が死んだというのに、涙一つ流せない自分の冷たさにも吐き気がする。

 だが、イリスの死と自己嫌悪に頭の中がぐちゃぐちゃになっていたそんな時、湊は自分の内から歯車同士がきっちり噛み合ったような、不思議な音が聞こえた気がした。

 

「――――っ!?」

 

 途端、脳裏を様々な映像が駆け巡る。

 時代も人も異なる殺し殺される映像、死の間際に母親が自分に血を呑ませた意味、鬼と龍の一族の始まりの秘密、九頭龍家をはじめとした旧家や名家の人間がどうしてあんな態度を取っていたのか。

 巨大な感情の起こりに反応し、菖蒲のかけた記憶の解禁術がついに発動してしまったことで、湊は血の覚醒を経てその全てを理解した。

 しかし、名切りの血の覚醒は、殺人衝動に偽装して植え付けられた、心優しい湊が人を殺すために必要な感情が消えることも意味する。

 自分が傷付こうが人を傷付けることを嫌う心優しい少年から、今まで犯してきた殺人の記憶を全て残した状態で、植え付けられた感情のみを除去すればどうなるか。

 

「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――っ!」

 

 その答えは、遥か遠くまで響く絶叫と共に、少年の心の崩壊という形で現れる。

 膝をついた状態からそのまま力無く倒れ伏し、瞳から光が消えてゆく。

 そして、この日、この時をもって、チドリ達の知る少年“有里湊”は死んだ。

 

 

 


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