――第二演習場
空港を出発した車が目的地についたのは、それから一時間三十分ほど経ってからで、時刻は既に二時になろうとしていた。
車から降りた湊は、すぐ目に入ってきた建物に視線を向けてジッと観察する。
中東では、日本にあるような大きな建物は都市部を除いてほとんどない。
にもかかわらず、周囲に殆ど何もない場所に、病院か何かと思われるその大きな施設は、ただぽつんと存在していた。
だが、湊はそれが病院ではないと理解していた。何故なら、その施設は窓をはめる穴は存在すると言うのに、ただ一つとして窓がはめられていなかったから。
その点とナタリアらの話していた名前から推測するに、ここは病院など大きな建物での作戦行動を想定した訓練施設で、窓は模擬戦の度に壊れれば修理費がかさむからという理由で初めから付けていないのだろう。
そうして、場所についての考察を終えると、湊は車を出て少し歩いた先にあった屋根だけの簡易テントに移動した。
「さて、ではまず軽くメンバーたちを紹介しておくわ。彼らは我が社の中でも、私の私兵として選ばれた特別なメンバーよ。他の社員は依頼によって様々な場所に派遣されるけど、彼らは基本的に私と行動をともにしているわ。イリスも昔はここに所属していたのよ」
ナタリア、イリス、湊の三人がテントの日影で並ぶと、その正面に十人の男女が一列に並んでいた。
その中には、先ほどの黒いキャップ帽の少女も混じっており、てっきり付き添いだと思っていた湊は、ナタリアに少女の事を尋ねる。
「一人変なのが混じっているが?」
「え? ああ、彼女はレベッカ。確かに若いけど、歳は二十歳よ。訓練に一年費やし、それから仕事を始めてもう二年になるわ。実力もここにいた当時のイリスを既に超えている期待の新星よ。ちなみに、さっきもう一台の車を運転していた彼の一人娘」
そういってナタリアは湊たちから見て、一番左にいる白髪混じりの短髪の男性を紹介した。
レベッカという少女がルーキーで右端にいるということは、彼がこのチームのリーダーなのかもしれない。
ナタリアに紹介された男性は、一歩前に出ると軽い調子で頭の後ろを掻きながら、ヘラヘラと笑って簡単に挨拶をしてくる。
「ただいまご紹介に預かりましたレベッカの父のラースです。いやぁ、イリスはともかく、こんな美人さんと会うって聞いてたら、しっかりと髭も剃ってきたってのに。ボスも人が悪い」
「うるせえ色ボケ。体格で小狼が男だって分かってるだろ。見え透いた冗談抜かすな」
イリスは彼と既知の間柄なのだろう。湊を男と分かった上で相手が軽口を叩いてきたため、腕組みをしてジトっとした呆れた視線を送る。
すると、ラースはイリスに睨まれても笑ったまま答えた。
「いや、もしかしたらって可能性も残ってるだろ? ここにいる中じゃ、彼が一番美人だしな。彼が軍にいたら、これだけ美人なら男でも構わないってやつも出てくるはずだ」
顎に手を当て、値踏みするように湊を見つめて言ったラースの言葉に、この場にいた女性陣の表情が険しくなる。
それはそうだ。いくら顔の造形が整っていたとしても、相手が男でそれと比べて自分たちの方が劣っていると言われて良い気はしない。
加えて、その言葉を否定しきれないとなれば、怒りはさらに募る一方だ。
ラースと女性陣双方を見て、他の男性陣が苦笑や呆れの表情を作っている中、興味無さげに並んでいるメンバーを眺めていた湊は、空港からここへ来る間にベルトに取り付けていたプッシュダガーの一つを手に取り、そこでようやく口を開いた。
「……ナイフと拳銃、どちらでも去勢してやった経験はある。男に欲情するのは構わないが、リスクリターンを考えた上で自分の行動を決めた方が良い。あんたの娘も自分の父親には男のままでいて欲しいだろうからな」
言い切り、最後に手を横薙ぎに一閃させ、湊の手から放たれたプッシュダガーはラースの股の下ギリギリを通過していった。
通り過ぎる瞬間、「おわぁっ!?」と相手は軽く飛び上がり、着地した後には自分の男の象徴が無事であるか確かめるよう頻りに股間に触れている。
先ほどまで苦笑していた他の男性陣は、自分が同じ目に遭ったときを想像し、やや内股になって青褪め、それが女性陣にはいい気味だと思えたのか、場には笑い声が響いた。
そうして、女性陣の笑い声が止んだところで、途中になっていたメンバーの紹介をナタリアが再開した。
「ふふっ、ラースはこの部隊のサブリーダーをしているの。リーダーは指揮官をしている私よ。そして、彼の隣が空港ではカップルに扮していたセルゲイ、次がチャド、その隣のカルロは空港には来てなかったわ。訓練に使う道具の準備をして貰っていたの」
青いアロハシャツをきた茶髪の白人男性のセルゲイは、手をあげて湊に挨拶し。車で一緒だったチャドは笑顔を向けてきている。
その隣の軍服に身を包んで眼鏡をかけているカルロという男性が、湊とイリスに崩した敬礼で「よろしく」と挨拶したところで、ナタリアは空港では彼女の後ろに控えていたもう一人の大男の紹介に移る。
「彼はグリゴリー、部隊で彼と力比べが出来るのはチャドだけね。そして、その隣が」
「どーも、部隊の期待のエース、パトリックです! いやぁ、ボスやラースからイリスさんの噂は聞いています。うちのキルスコアで歴代二位だとか。ま、俺もこっちの腕には自信あるんで、そっちのガキにも色々と教えてやりますよ」
ナタリアの紹介に言葉を被せてきた軽薄そうな男、パトリックはライフルで狙い撃つようなポーズを取って楽しそうに笑う。
髪は背中に届いている湊の方が長いが、パトリックの僅かに癖のついた茶髪も肩にかかる長さをしており、軍服の状態でピアスやネックレスをつけていることから、ファッションでその髪型をしていると思われる。
自分が部隊にいた頃にはいなかった口先だけに見える馬鹿に、イリスは興味なさげな視線を送ってから、隣で額に手を当てている雇い主に声をかけた。
「あれが本当にエースなのか? 風に香水の匂いも混じってるし、スナイパーって嘘だろ」
「エースではないし、多少人格に難はあっても実力は本物よ。六百メートル以内なら煙草の箱だって撃ち抜くわ」
「へぇー……って、別に威張れるほどすごくないだろ。そんなの専門ならそれなりにいるぞ」
イリスの言う通り、狙撃手が六百メートル以内の目標を撃ち抜く状況などざらだ。
むしろ、その辺りの距離での狙撃がベーシックであり、パトリックの実力というのは狙撃手を名乗れる最低ラインと言えた。
パトリックの実力をあまり信じていない本人は、基本戦術が動き回っての拳銃による撃ち合いなため、六百メートルであっても命中率は七割以下になるが、五代や湊は八百メートルであっても確実に当てる事が出来る。
加えて、部隊のサブリーダーであり『コル・スコルピイ』のキルスコア歴代トップのラースも、五代クラスの狙撃技術を有しているので、はっきり言って存在意義が不明に思えた。
「コイツ、蜥蜴の尻尾か。まぁ、騒いで敵の注意を集めてくれそうだしな」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! ボスが言った紹介はかなり控えめに言ってます。俺の有効射程は八百で、ただ殺すだけなら九百だって狙えますよ!」
「アタシの知り合いは一キロで簡単に当てるさ。それとな、キルスコアなんて何の自慢にもならないよ。国のお偉いさんは命令一つで何万って人間を殺せるんだからな。どうせ語るんなら、こなした依頼か助けた人間の数で語りな」
人を殺すことをどこか点数稼ぎのゲームのように話すパトリックに、イリスが蔑みの視線を向ける。
人殺しはどこまでいっても人殺し。人命救助のために犯人を処理する依頼であっても、湊は自分の行いは最低に頭の悪い野蛮な解決法だと自分を卑下する。
死を視る眼を持ちながらそんなことを言う少年を見ているからこそ、イリスにはパトリックの軽口が癇に障った。
そして、睨まれたパトリックが肩を揺らして黙ったところで、煙草に火を点けていたナタリアが、話は済んだかと口を挟む。
「……もういいかしら? それじゃあ、さっき私たちの車を運転していた彼がヤン。空港でカップル役をしていた彼女はジーナ、そして、こっちでカルロと一緒に準備をしてくれていたバーバラで最後よ。レベッカは最初に紹介したから良いわよね?」
「ってか、アタシがいたときとあんまり変わってないな。馬鹿とバーバラとレベッカが加わっただけか」
「私兵でそんなにメンバーを変えても意味ないでしょう。貴女の後釜が戦闘型の似ているレベッカで、バーバラは戦場医と通信兵を兼ねているわ。パトリックはスナイパーがもう一人くらいいた方が良いと思って入れたのよ」
殆ど知った顔だったところで、イリスは多少の懐かしさしか感じないため、先ほどからややぼうっとしている湊の頭に手を置いて撫でつける。
これから湊は一人でこのメンバーを相手に実戦形式の演習をするのだ。今のようなオフの状態を見れば、相手は湊の実力を見誤るだろう。
仮面舞踏会の小狼の情報は、地下協会であってもほとんど把握できていない。
それは組合員である五代や、仲介屋のロゼッタが意図的に記録されないような仕事の斡旋をしていたからであり。情報を基に作戦やフォーメーションを組む集団戦闘のプロを相手にする上で、これ以上ない優位性だ。
空港では相手メンバーを見抜き、先ほどは投げナイフの腕前を披露してしまったが、ここでイリスに黙って頭を撫でられている姿を見せれば、相手の警戒レベルはさらに下がるだろう。
地味な上にほとんど開始直後しか効果の無い作戦だが、これからしばらく一緒に過ごす者らの記憶に、しっかりと湊の実力を刻み込ませるため、イリスは少しでもサポートしてやろうと思った。
「始まったらしっかり頑張れよ。オマエの勝敗がアタシの昼代にも影響するんだからな」
「……金持ってそうな奴から狙う」
ゆっくりと頷いて、湊は気だるげな視線を並んでいるメンバーに送る。
同じ車に乗っていた者は既に話を知っているが、もう一台の車に乗っていた者と、こちらで準備をしていた者たちは話を理解していないため、知っている者から聞いて少し嫌そうな顔をしている。
「んじゃ、ラースだな。一番古株のオッサンだ。ま、娘のレベッカを倒してもアイツが払ってくれるから、どっちを狙ってもいいぞ」
「おいおい、老後の蓄えを取らないでくれよ。そういう事なら、俺よりもこのセルゲイがオススメだぞ。こいつ、ジーナへのプレゼントを買うために金を貯めてるからな」
「お、おい! なぁ小狼、俺なんかよりもパトリックを狙うといい。射撃はそこそこだが、体術はお粗末でな。接敵できれば簡単に勝てるはずだ」
にやりと口元を歪め、寝かせた親指でパトリックを指し、セルゲイが標的を自分から移す。
湊にすれば金を出してくれるのなら、別に誰を狙っても構わないのだが、自分の懐を痛めたくない者らは醜い言い争いを続ける。
「なっ、汚ぇぞオッサン! ガキをやる前に、オッサンたちから片付けっぞ!」
「バーカ、この部隊であんたが勝てるのなんてサポートのバーバラしかいないっての。けど、バーバラは今回はサポートで不参加だから、実質、あんたとあの
部隊最年少であるレベッカにまで馬鹿にされ、パトリックは悔しそうに色々と言い返しているが、もはや子どもの口喧嘩だ。
流石に、演習を始める前からこの体たらくでは困るので、事態を収拾する意味も込めてナタリアが手を二回ほど鳴らして注目を集めた。
「はいはい、静かに。それじゃあルールを少し変えるわ。彼に最初に討たれた人は、二人に昼食を奢る。次に、彼を討った人には、彼に討たれた二人目以降が割り勘して昼食を奢ること。まぁ、彼が一人も討てずに討たれた場合は、イリスとボウヤで割り勘して奢ってあげなさい。その代わり、貴方は部隊を全滅させなくても奢って貰えることにするわ」
ただし、呼び方などの賭けについては、車内で話していたルールから変わらないとして、ナタリアはメンバーに着替えと各自準備するよう指示を出した。
サポート役のバーバラが簡易テントに用意された通信機の前に着き、メンバーらが準備して建物の中に散ってゆく間に、湊にも本日の演習で使う弾薬などの説明を始める。
「今日の演習で使うのはこの
「……防具はいらない。動き辛くなる」
「目に当たれば失明するわよ?」
「当たる前提で準備する気がない」
受け取ったペイント弾を箱から取り出し、弾倉に籠めながら淡々と答える湊の言葉に、長年この仕事をしている者としてナタリアもポカンとしてしまう。
当たっても怪我をしないように、怪我をしても軽微で済む様に備えるのがプロとしての基本だ。
湊はそれを前提が間違っていると断じて、ゴーグルすらも装備せずにただ弾倉に弾を籠めただけで準備を終えてしまった。
確かに、当たらなければ準備の必要はないが、メンバーにはサブマシンガンや突撃銃を持っている者もいる。それを躱す事など人間の反射神経では不可能だ。
イリスの弟子だと思って警戒していたが、少しばかり買い被り過ぎたかと認識を改め、ナタリアは新しい煙草に火を点けながら口を開いた。
「こっちの準備は全て済んだわ。さぁ、演習開始よ。精々、自分たちの昼代くらい稼いでくることね」
「……何かマジックペンとか、代わりになる物はないか?」
「ペン? 一体何に使うの?」
「ナイフの代わりにする。接敵して、相手にペンで印を付けたら被弾と同じように扱って欲しい」
それを聞いてなるほどとナタリアも感心する。確かに、今回の演習ではペイント弾は用意したが、切ったときに塗料が付くような近接装備は用意していなかった。
湊の得意な戦い方がナイフなどによる格闘術ならば、銃だけではかなりのハンデを背負うことになるだろう。
演習は自分の私兵の鍛錬も兼ねているので、自分たちにだけ有利な条件で戦わせては意味がない。
そうして、一度頷いて振り返り、ナタリアは座っていたバーバラに声をかけた。
「バーバラ、貴女、色がいまいちだから早く使い切りたいって言ってた口紅あったわよね? あれ、この子に渡してもらえる?」
「え? 別に良いですけど、ナイフに比べるとリーチが短いですよ?」
二十代中頃と思われるボブカットの優しそうな見た目のバーバラは、了承して車に置いていた自分の化粧ポーチから口紅を取り出すと、それを待っていた湊に手渡した。
最大まで伸ばしても十センチにも満たないので、リーチはポケットナイフにも及ばぬが、切った印さえ付けられれば問題ない。
小さな声で「ありがとう」と感謝の言葉を伝えると、湊はポケットにそれを仕舞って、建物に向かってジョギング程度のペースで走って行った。
その背中を見ながら、ナタリアとイリスもバーバラと同じように通信機材の置かれた机に座り、メンバーとの通信感度や、建物内に設置された隠しカメラの映像を確認しながら、ナタリアの声で作戦行動の開始が告げられる。
「では、諸君、狩りの始まりだ。獲物は小さな狼が一匹。諸君らの実力ならば、簡単に制圧できるはずだ。存分の働きを期待しているぞ」
《サー、イエッサー!》
司令官の言葉に、居場所を湊に知られないよう小声でだが兵士たちが答える。
自分たちは負けない。完璧な勝利を司令官に届ける、とそんな意思が声に籠もっていた。
***
演習施設は四階建てのL字型をした大きな建物だ。
だが、L字の丁度角の部分だけ廊下になっており三階までしかない。
そのため、各屋上にはそれぞれの四階フロア最奥の階段を使ってしか上がることはできず。屋上への入り口にはトラップを仕掛けているため、それぞれの屋上に構えたラースとパトリックは、目視に加えてバーバラから送られてくる情報をタブレット端末で確認して湊の位置を把握していた。
演習はナタリアが湊に開始宣言をした時点で始まっている。だというのに、何も持たずに小走りで施設に近付いてくる湊を見て、ラースはここで狙撃してしまおうかと考えた。
(いやぁ、流石に気を抜き過ぎだろ。というか、そんな長さの髪を括らずにくるのも良くないなぁ)
いくら演習と言えど、自分が教官で相手が新兵なら間違いなく尻を蹴っ飛ばしているところだ。
それほどまでに、湊の行動は既に作戦行動に移っているにしては警戒心が欠片も感じられず。もしや、建物に入るまで撃たれないと考えているのか、と既にレミントンM24 SWSで照準を定めているラースに思わせた。
ここで撃てば自分は昼食を奢って貰える。しかし、それでは実戦経験の少ない娘に経験を積ませることはできない。
加えて、この距離ならまずあり得ないが、もし仮に外したときには屋上に自分やパトリックがいることを気付かれてしまう。
相手が建物に入れば狙撃の機会はかなり限られる。それも相手がこちらに気付いていないことが条件であり、相手が警戒して窓枠の下を進むなどされれば、もう何も出来なくなってしまう。
そうなっては困るので、絶好のチャンスながら、ラースは湊を見逃すことにした。
「あー、こちらラース。いま撃つと奴さんに警戒されるので、演習続行のため見逃す。以上」
《こちら、バーバラ。了解で……え? 撃って良いんですか? あ、はい。ボスが撃って良いって言っています。屋上の二名はそこから狙撃してください。他の方は、作戦通り待機です》
「ああ? 演習終わっちまうぞ……」
まだ湊の実力も見ていない。これから二ヶ月はイリスと湊もこの部隊と一緒に行動するというのに、相手に何が出来るか分からないというのは作戦を立てる上で非常に面倒だ。
けれど、バーバラのいる司令部と通信の繋がったインカムから、パトリックが上機嫌な返事したのが聞こえていたことから、パトリックは既に撃つ気満々なのだろう。
娘のことや、湊との今後の関わり方など、色々と思う事はあるが、取れる獲物を他人に持っていかれるのは癪だ。
そうして、思考を切り替えると、ラースは照準を既に合わせた銃の引き金を引いた。
「は? 嘘、だろ? この距離だぞ」
パトリックが撃つよりも早く、ラースの銃からは弾丸が発射された。
屋上から湊の居る場所まで五百メートルも離れていない。その距離ならば、引き金を引いて一秒かからず着弾するため、発砲音が湊の耳に届くよりも速く着弾が済む。
故に、気付いたときには終わっているはずだったのだが、スコープの先で、湊は一瞥もせずに軽く横移動するだけで弾を回避していた。
銃のセッティングを間違えたか。そう思わずにはいられない、あまりに衝撃的な結末。
しかし、ラースに続けてパトリックも湊に向かって発砲したことで、先ほどのことが嘘ではないと理解させられた。
「あ、ありえないだろ。どんな反射神経してんだ……」
湊は再び音速以上の速度で飛来する弾丸をかわした。対角線の屋上で、唖然としつつすぐに気を取り直してパトリックが撃ち続けているが、それらも相手は建物に向かいつつ速度の緩急で全て避けている。
それぞれの初弾で狙撃手の位置を把握し、次弾からはタイミングを計って回避している可能性もあるが、一度も屋上を見ていないことを考えると、もはや弾道を予知しているようにしか思えなかった。
「ボス、こいつはちょっと面倒ですぜ」
パトリックの攻撃を全て避けきり建物へ到着した少年を見つめ、苦笑いを浮かべつつ、ラースは司令部にいるナタリアへ自分の感想を伝える。
長年仕えてきた兵として、ラースには自分たちのボスがいまどのような気持ちでいるか、簡単に想像がついていた。
***
建物に到着した湊は、屋上の狙撃手から狙われないよう近場の部屋に入った。
中に入る前からアナライズで分かっていたことだが、この施設は窓だけでなく、扉に椅子やテーブルなどの備品類も一切なかった。
何かあれば、それを盾にして進めて楽が出来たのだが、ない物はしょうがないと思考を切り替える。
現在、一番近くにいるのは、敵メンバーで最年少のレベッカだ。
彼女は、いまの湊と同じように、部屋の中で警戒しつつ張り込んでいる。同室内には他に仲間はおらず、傍の部屋に他のメンバーが二人ほど隠れているので、どちらかが囮となってもう片方が隙を突く作戦に違いない。
だが、相手が隠しカメラでこちらの居場所を把握しているように、湊も能力の目で敵の居場所からトラップの位置まで全て把握している。
条件は五分どころか、自身でリアルタイムに把握出来ている湊の方が有利。そうして、腰のホルスターから拳銃を取り出すと、湊は先ほどと同じペースで駆けつつレベッカのいる場所へと向かう。
(……6……5……4)
ブーツの硬い足音をコンクリートの壁や天井に反響させながら、湊は相手のいる部屋までの到着タイミングを計る。
廊下の幅は三メートル強と広いため、タイミングさえ掴めれば、避けるなり受けるなり対処しやすい。
経験の浅い新兵なら、サポート役の指示よりも近付いて来る足音と自分の感覚を信じて攻撃に移るだろう。
(……2……1……0ッ!!)
故に、湊はわざと足音をさせながら接近し、
案の定、ワイヤーと全く関係のない窓枠辺りから風船の割れるような破裂音が響き、湊が直前にいた一帯をオレンジの塗料が濡らしている。
続けて、敵に自分の居場所がばれていると思っていない相手は、本来の相手がいるであろう場所に銃口を向け、
「死になさい、
部屋の入り口から上半身だけ乗り出し、ご丁寧に掛け声を発してから二発ほど撃ってきた。
ただし、そこには誰もいない。さきほど散らばったオレンジの塗料が、虚しく床に水たまりを作っているだけだ。
レベッカの銃から放たれた弾丸が誰もいない空間を通過し、そのまま窓のはまっていない穴から出ていくのを眺めながら、未だ空中にいた湊は相手に向けて引き金を二度引いた。
「痛っ、え、嘘っ!?」
ほぼ一瞬の内に二発、それも予想していなかった斜め上からの奇襲、左肩と胸に弾を喰らったレベッカは、痛みを感じた直後、着地した湊と自分の服についたインクを信じられないといった表情で眺めていた。
しかし、死亡者の話など聞く気のない湊は、着地後を狙いにサブマシンガンを構えて別の部屋から出てきたヤンの喉を狙って、着地直前に口紅を投げる。
「なっ!?」
それは敵が引き金を引くよりも先に、フロントサイトで照準を付けようとしていた相手の喉へ命中した。
急に喉に衝撃を受けた相手は驚いているようだが、この場にはあと一人敵が隠れている。
しっかり地に足を付けた湊は、着地時のゼロからコンマ以下のラグで速度に乗り、外からの狙撃を回避しながらヤンの隣を走り抜け、次の部屋の入り口の枠へと目がけて跳躍する。
そこから、枠を足場に強く蹴り出し、軌道を変えながらさらに加速すると、トラップのスイッチの傍らで突撃銃を構えていたチャドの胸に、相手が引き金を引くよりも速く銃弾を撃ち込んだ。
「あ、あんな軌道で加速するだなんて……」
着地しホルスターに銃を仕舞っている湊と、自身の胸についた赤い塗料を交互に見ていたチャドが思わず漏らす。
先にやられていた二人も、湊がどうなったのか確認するため、遅れて部屋へと入ってきた。
そんな者たちを冷めた瞳で眺めながら、湊は廊下に出て落ちていた口紅を拾い上げ。戦利品として相手の武装や通信機を奪うため、この三人以外に周囲に敵がいないことを確認しながら部屋に戻ると、近くにいたレベッカの着ている軍服に手をかけた。
「ちょっ、いやっ、変態! 演習中になにするつもりよ!」
「……五月蝿い」
「おぐっ」
急に服に手をかけてきた男が、さらに身体を
だが、欠片も相手に欲情する要素がないと思っている湊にすれば、同じ金髪でもアイギスとは大違いだと呆れてしまい。
とりあえず、腹に膝蹴りを見舞って黙らせてから、床にへばった相手から目的の物を奪いつつ伝えておく事にした。
「お前の武器と通信機を貰うだけだ。死体は黙って倒れてろ」
「こ、攻撃する前に言いなさいよ……女性のお腹を蹴るなんて、あんた最低ね」
「…………」
言われなくとも、湊は自分が最低のクズだと自覚している。
けれど、レベッカの言った『最低』という言葉は、自身の考えている意味合いと違っているように思えた。
そう、相手は単純に負け惜しみで罵倒してきただけだ。プロでこんな無様なことをしてくるなどあり得ない。
ナタリアの紹介では、レベッカはこの部隊在籍時のイリスよりも強かったらしいが、まるでそう思えなかった湊は、相手の存在自体が不快に感じたため、チャドとヤンに心配されながらお腹を押さえて蹲っている相手の背中に向けて引き金を引いた。
「痛っ、痛いっ、ちょっと! 死んだ人間に攻撃して良いと思ってるの!」
「……ちゃんと息の根を止めておかないと危険だからな。プロなら当然だろ」
「演習だっての!」
肩と胸に既に塗料が付着している。それを見せて、ルールで明確にリタイアが確定していると怒りながらレベッカは告げた。
だが、どこまでもこれを訓練とみなし、まるで実戦と考えていないことが言葉から読みとれ、湊の中から急速に感情が消えてゆく。
「そうだな。演習じゃなかったらお前らは全員死んでいた。俺の手を見るためか、トラップでこちらを崩してからの波状攻撃を狙っていたようだが、馬鹿正直に待ち構えた順に攻撃をするという愚行」
今まで自分の内にあった感情が消えて、最後に残っていたのは黒く渦巻く怒り。
仕事中の小狼としての仮面ならば、湊は機械のような冷たさを感じさせていただろう。
けれど、大切な物を侮辱され怒りを発している湊は、殺意を放ちながらどこまでも冷たい蒼い瞳で相手を見下ろした。
「……最初のお前は、引き金を引く前に莫迦なことを口走っていたな。聞こえてきた声で、お前の顔の高さと向きを知ることが出来る。銃にも色々と種類があるが、どうせ手に持って使う武器だ。顔の高さで武器の構える範囲もおおよそ予想できる」
冷淡な声で次々に指摘する湊の変わりように、レベッカは目を見開き震えながら後退りする。
「二人目はタイミングが命の波状攻撃で呑気に狙いを定めていたな。こんな狭い場所だ。サブマシンガンなら、ある程度、適当に撃っても問題ないさ」
これはただの演習のはずだが、目の前にいる人間は、そんなことも構わずに自分を殺そうとしてくるかもしれない。
「三人目も一緒だ。足音で敵が来ていると分かっているなら、物影が見えた時点で引き金を引いておくべきだったんだ。狙い何てほとんどつける必要ない」
本能でそれを理解した男たちも、武器に手をかけ警戒しつつレベッカを守る様に立ち上がった。
「……イリスがこんなやつより弱かったことなんてあるはずがない。例え冗談でも、俺はそんなもの許さない」
既に殺した相手への興味などとうに失っていた湊は、背中を見せて部屋を出る。
そして、別棟の狙撃手からは見えるだろう窓際に立ってまで、簡易テントに座っているナタリアを睨みつけた。