11月16日(水)
放課後――ボクシング部部室
三年生の大会も終わり、三年生が全員引退することが決まると、二年生で部のエースであった真田が新たな主将となった。
そうして、新体制でボクシング部もスタートしたのだが、新主将である真田は湊に負けて以来、何かに取り憑かれたように鬼気迫る勢いで練習に打ち込んでいた。
今日もまた、柔軟と準備運動後のロードワークから戻るなり、練習メニューを他の者に言い渡して、本人は黙々とサンドバッグを叩いている。
いつも監督から少しは休めと言われても、一度給水に行くだけで、すぐに縄跳びなどを始めてしまい、しっかりと身体を休めるということをしていなかった。
「真田くん、少し頑張り過ぎだよ。そんな無茶なトレーニングじゃ身体を壊しちゃう」
長い髪を頭の高い位置で大きなリボンによって纏めたポニーテールの女子が、そんな今の真田の姿を見かねて声をかける。三年生のボクシング部マネージャーである
選手であった三年生の部員らは先に引退したが、マネージャーである彼女は、そのまま試験もなく進める月光館学園の高等部にゆくからと、今もまだボクシング部に顔を出していた。
先輩に声をかけられ、真田は一度視線をそちらに向けたが、直ぐにサンドバッグに向き直し、再び速いテンポで叩き続ける。
「……放っておいてください。俺はもっと、今よりももっと強くならなくちゃいけないんです」
「それは、有里くんに負けたから? あの子に勝つために、そんな無茶なことをしているの?」
「っ!?」
図星を突かれ、真田は鋭い視線で亜夜を睨み、サンドバッグを叩く手を止めた。
真田が今のように無茶なトレーニングをするようになったのは、湊に一方的に負けてからである。
それだけで、真田を見ていた誰もが、彼が荒れている理由に気付いていた。
しかし、下手に慰める事は出来ない。これまでずっと無敗で向かうところ敵なし。そうして“無敗の皇帝”と呼ばれ、今後も勝ち続けていつかプロ入りすると誰もが信じていたのだ。
そんな皇帝が運動部に所属もしていない一年生に負けた。それも一方的に、ただの一発も当てられずに一ラウンドでKOされた。
試合を見ていなかった者は、それを聞いても全く信じていなかったが、翌日に試合した二人が学校にきたとき、真田だけが痣を作っていた事で、言われていた事が事実だと知れ渡った。
「先輩も見ていたでしょう。あいつの強さを。まったく敵わなかった。エースだ、皇帝だと呼ばれ、俺は天狗になって少し浮かれていたんです。そんな間抜けの鼻っ柱を、あいつは心底つまらなそうにしながら、容易くへし折った」
「それは、有里くんは蹴り技もある格闘技を習っていたから、ボクシングで拳だけしか使えない君よりも有利だっただけだよ」
「本気でそう思いますか? 負けた本人が一番分かってる。あいつは例えボクシングのルールで戦っても俺に勝っていましたよ」
気休めはよしてくれ、と真田は亜夜の言葉を否定し、サンドバッグを離れて今度は全身が映る大きな鏡の前に移動した。
そこでは自分のフォームを確認しながら、鋭い拳とステップを繰り返してシャドウボクシングを始める。
だが、まだ亜夜が後を追ってきていたため、鏡越しに相手を見ながら、真田は拒絶の言葉を吐いた。
「先輩、すみませんがトレーニングを続けたいので、あまり構わないでください。この程度、無茶でも何でもありませんから」
「っ、もう好きにすればいい! 身体壊しても知らないから!」
真田の言葉に亜夜は声を荒げて返すと、拳を突き出していた真田の後頭部にタオルを投げつけ、怒ったまま鞄を持って部室を出て行ってしまった。
校内新聞の企画でお姉さんにしたい人ナンバーワンに選ばれた彼女が、そんな風に他人を怒って怒鳴るなど誰も見たことがなかったので、部員らは何事だと真田と亜夜の去って行った入り口を交互に見つめていた。
トレーニングをしていた真田も、初めてみせた亜夜の態度を不思議には思ったが、後を追おうとはせず、そのままトレーニングを続けることにした。
***
本日は珍しく部活やバイトだけでなく、
他のメンバーは、弓道部のあるゆかり以外、チドリがバイトということで、途中までは一緒だからと先に帰ってしまった。
そうして、ぽっかりと出来た暇な日をどう過ごそうか、イヤホンを耳にかけつつ考えていると、女子が一人こちらに向かって走ってきた。
「っ、きみが……きみが、あんな勝負をしたから!」
興味はなく、そのまま歩いて行こうとしたが、相手は湊の前にくるなり、キッと睨みつけて振り上げた手で湊の頬を張った。
「…………」
バシン、と高い威力を有していることが分かる甲高い音が、人もまばらになり始めていた生徒玄関前に響いた。
だが、叩かれた方は突然のことで訳が分からない。避ける事も、受け止める事も可能だったが、湊はポケットに手を入れたまま相手の顔をぼうっと眺め続ける。
相手は確かボクシング部にいた三年生だったか。
周囲が自分たちを見てざわついていることも構わず、湊はそんな風に記憶を手繰りよせている。
すると、怒りで息を荒くして肩を上下していた相手が、ハッとした表情をしてから、慌てたように自分が叩いた湊の頬に触れてきた。
「あっ、ご、ゴメン! 叩くつもりなんてなくて、っていうか、きみは悪くないのにっ」
言いながら、時任亜夜は涙を目に溜めて湊に謝り続ける。
亜夜は本来、穏やかで面倒見のいい性格をしており、叱ることはあっても感情に任せて手を上げる事など誰も見たことがなかった。
それが今回、自分が気に掛けていた少年が、見ていて痛々しいほど余裕を無くした状態になったことで、怒りで部室を飛びだした直後に原因となった少年を見つけたため、つい爆発してしまったのである。
そんな、校内姉にしたい人ナンバーワンの女子に叩かれるという、記念すべき第一号に湊が選ばれた訳だが、退屈な授業から解放され、暇な放課後をどのように過ごそうか考えているときに、そんな事をされて喜べるような被虐趣味を湊は持ち合わせていない。
今も相手はポロポロと涙をこぼしながら、叩かれて赤くなった湊の頬を撫でているが、正直に言えばさっさと解放してほしかった。
「……用がないなら帰っていいですか?」
「ま、待って! 叩いたとこ冷やさないと、赤くなっちゃってるし。あ、私、ハンカチ濡らしてくるね。すぐ戻るから、帰っちゃ駄目だよ!」
言うなり、亜夜はポケットからハンカチを取り出して校舎の中へ走って行った。
相手は帰るなと言っていた。しかし、名前も知らない人間のそんな言葉を湊が素直に聞くわけがない。
そうして、軽く嘆息してから歩き出そうとしたとき、後ろから肩を掴まれた。
今度は誰だと思って振り返ると、そこにはやや呆れた表情をした荒垣が立っていた。
「……何か用ですか?」
「いや、お前そこで帰ろうとすんなよ。さっきのやつが戻ってきたとき、お前がいなかったら探しまわるだろうが」
何故、荒垣がここにいるのかは分からない。何か用事があって残っていたのか、湊と同じように掃除当番に当たっていたのかもしれないが、一部始終を見ていたことは確かなようだ。
そして、成り行きを見守っていたところ、亜夜が帰るなと言って離れるなり、案の定、湊がそのまま帰ろうとした。
亜夜のことはボクシング部マネージャーの先輩という程度しか知らないが、当事者二人を知っている者として、亜夜が湊に突っかかって行った原因はある程度予想できる。
学校でも憧れの対象として人気の真田を痛めつけたとして、入学当初から不良のレッテルを貼られていた湊の評判はさらに落ちている。
故に、これ以上、湊が周囲に好き勝手に悪く言われないよう、ここで亜夜との問題を解決すべきだと荒垣は湊を止めたのだった。
「お前、最近、自分の評判が悪いの知ってるだろ。ここで帰ったら、さっきの女子を殴って泣かせたとか、周りのやつらに勝手なこと言われるぜ」
「どうでもいい」
「っ、おわっ!?」
自身のことを気遣ってくれた荒垣を、湊は身体ごと振り返り、肩を掴んでいた相手の手を捻りながら足を刈り取る事で一回転させ地面に倒した。
しっかりと足から落としたが、急に投げられたため、荒垣はそのまま地面に座り込む様に倒れてしまう。
驚きのみで痛みは全くないが、それでも突然何の真似だと、すぐに立ちあがって、既に歩き出していた湊に向かって怒鳴った。
「て、てっめぇ、急に何しやがる!」
「柄の悪い上級生が掴みかかってきたので、思わず身を守ってしまっただけですよ」
「テ、テメェが言うな! お前は入学式の時点でピアス開けて、校則違反のアクセサリーつけまくりだろうが!」
密かに気にしていることを言われ、荒垣はさらに声を荒げるが湊は止まらない。
当事者でありながら、我関せずとばかりに音楽プレイヤーをいじって、そのまま校門へと向かって行った。
だが、荒垣の時間稼ぎは功を奏した。走って戻ってきた亜夜が、校門を出る前に湊を捕まえたのだ。
そして、頬に濡らしたハンカチを当てられ、腕を掴んだままどこかへ連れて行かれる湊の姿をみて、荒垣は心の中で「ざまーみろ」と密かにほくそ笑んだのだった。
***
亜夜に強制連行された湊は、途中から主導権を握り、ポロニアンモールにある学校と提携を結んでいる大型スポーツショップにやってきた。
相手もボクシング部のマネージャーをしているだけあって、ここには何度も足を運んだことがあるらしく、店内を進む途中でボクシング用品にちらりと視線を送っている。
だが、黙って進んでゆく湊と離れないよう、自分が見たい物はほどほどにして、そのまま湊の隣に戻ってくると、湊の進む先に視線を送って口を開いてきた。
「弓具? きみ、弓道部だっけ?」
「……違う」
簡潔に答え、湊はそのまま
湊がここへやってきたのは、英恵が七歌から受け取った百鬼の武器の中に弓があったからで、素手でも引くことは出来るのだが、百鬼の短弓“暁”は異常な強さをしていた。
武器美術館館長の車谷に紹介して貰った弓道家でも半分も引くことが出来ず、キロにすれば五十キロを超えているのではないかと言われた。
現代の中高生の弓力は12~18キロが普通と言われ、戦国時代では30~40キロの強さの弓もあったと言われている事を考えれば、百鬼の弓は現存する弓の中でもトップクラスの剛弓だろう。
怪力の湊はその弓を半分までは引くことが出来る。そこで放しても普通の弓並みの威力を発揮するが、完璧に引くにはまだ力が足らず、また足りたとしても引くときに指を傷付ける可能性があるからと弓懸を見に来たのだ。
そうして、置かれている物を手にとって見ていると、後ろで湊を眺めている亜夜が話しかけてきた。
「あの、本当にゴメンね。ちょっと嫌なことがあって、それできみに当たっちゃったの。あ、ていうか、名前もまだ教えてなかったね。私、時任亜夜。ボクシング部マネージャーの三年生だよ」
「……そう」
「え、それだけ? 自己紹介し返したりは?」
「先輩は、誰とも知らない人間を殴ったりするんですか?」
湊が淡白な返事をしてきたのみで会話が終わりそうになり、亜夜は少し慌てたように聞き返す。
すると、湊は遠回しに自分を知ってて叩いてきたんだろうと言って、亜夜は少し罰が悪そうにしながら、
「あ、はい。そんな事はしないです」
と答えた。
それはそうだ。機嫌が悪いときに周囲の人間にやつあたりをする者もいるが、亜夜はわざわざ自分から湊に駆け寄って頬を張ったのだ。
これで貴方のことは知りません。ただ目立っていたので、やつあたりの相手に選びました、と言っても誰も信じる筈がない。
けれど、自分が知っているからと言って、相手から自己紹介して貰う必要がないかと言えば、それは話が別である。
落ち込みかけていた亜夜は顔を上げると、棚の商品を手にとって眺めていた湊に再び声をかけた。
「あの、名前は知ってるけど、他は知らないからさ。一応、自己紹介して欲しいなって。……駄目かな?」
相手の様子を窺うようにやや顔を俯け、上目使いに亜夜は尋ねた。
亜夜にこのように尋ねられれば、ボクシング部員だけでなく、学内の男子生徒のほとんどが素直に様々なことを話してしまうに違いない。
けれど、今回は相手が悪かった。湊の周囲は亜夜と同レベルかそれ以上のルックスを持った女性が多数いる。
そして、彼女らは頼みごとをするとき、自分の女として武器をアピールしつつ頼むことで、湊から色良い返事を貰おうとすることも多々あった。
亜夜は天然でいまのポーズを取っていたが、湊にとってはこの程度のおねだり、日常どころか日常にも及ばないレベルなのであった。
「……暇なら帰って良いですよ。そもそも、先輩と遊ぶ気ないですし」
「あの、別に遊ぼうとかって思って一緒に居る訳じゃ……。謝りたいなって思って、何かお詫びもしたいし。何か買うんだったら、私から贈らせて貰えないかな?」
「自分の学費払うくらいにはお金に困ってないんで、そういうのは遠慮しておきます」
亜夜、二度目の撃沈である。
学年ごとに成績優秀者の学費免除制度があるのだが、満点トップの湊は全額免除、二位の美紀と三位のチドリは半額免除となっており。
湊は自分とチドリの二人分の入学金や学費、修学旅行費など諸々を支払っていた。
二人とも成績優秀者なので、合計しても一般学生一人分にも満たない額だが、それでも学費を親に払って貰っている亜夜にすれば、そんな自分が相手に何かを奢るのは失礼なのかもしれないと思わされた。
「あ、その、じゃあ、お茶だけでもご馳走させてもらえないかな?」
「……頭から熱いお茶をかけられたら困るので、そっちも遠慮しておきます。暇なら帰って宿題でもしてたらどうですか? テスト、三年に満点取ってる人間誰もいなかったでしょう。そんな残念な頭なら、少しはマシになれるよう努力しないと、金出してる親が泣きますよ」
「ざ、残念な頭って、そんなこと言うきみは……って、きみ入学からずっと満点だっけ。すごいね」
失礼な相手に言い返そうとするも、湊はそう言えるだけの結果を出していた。
評判はあまり良いとは言えないが、それでも文武両道でルックスも学内では真田と人気を二分する程度に優れている。
どうしてこんな性格に難ありの相手に、天は二物も三物も与えたのか、亜夜は本気で天を恨みたくなった。
弓懸のコーナーから、今度は矢筒のコーナーに移動していた湊の後に続き、呆れを通り越して感心した亜夜は、湊に素朴な質問をしてみた。
「きみ、末っ子かな? それとも一人っ子? なんか、その我儘っぽさが少し弟に似てるんだよね」
「……そう。じゃあ、その弟にでも構ってればいい」
「あ……うん、それはちょっと無理かな。弟はもういないから」
急に声のトーンが暗くなり、少し寂しげな笑みを浮かべて亜夜はそういった。
そこで初めて湊は振り返り相手を見た。泣いているかと思ったためである。
しかし、相手は悲しそうにしてはいても、泣いてはいなかった。
湊が自分の方を向いたことに気付き、どこかぎこちない笑顔を見せるその姿が痛々しい。
「……事故か? 病気か?」
急に口調を変えた湊が、亜夜を真っ直ぐ見つめて尋ねる。
「事故だよ。六年前にここら辺で爆発事故があったの知ってる? 弟はそれに巻き込まれて、建物の下敷きにね」
六年前の爆発事故、それはポートアイランドインパクトのことだろう。ここにもまた一人、あの事故の被害者がいたことに湊は小さな怒りを燃やす。
事故の原因を作った者が死ぬのは自業自得だ。けれど、関係のない者が、こうして今も苦しんでいる。それが湊には許せなかった。
弓懸と矢筒をそれぞれ一つずつ選んで手に取り、湊はレジへと向かいながら、自分の事を話してくれた相手への礼儀として、先ほどの質問に答えるため口を開いた。
「……俺に兄弟はいない。だが、両親が先輩の弟と同じ事故で死んでる」
「っ、ご両親二人とも? じゃあ、今はあの赤い髪の子の家で一緒に住んでるの?」
厳密には同じ事故と言っていいのかは分からない。けれど、元を辿れば同じ物と言える。
まさか、湊も自分の弟と同じ事故で大切な人を亡くしたとは思っていなかったのだろう。亜夜は目を見開いて尋ねる。
それに答える湊の声はどこか他人事のように、淡々とした響きをしていた。
「俺だけ車から投げ出されて、二人は炎上した車の中に残され目の前で焼け死んだ。それとチドリは施設にいた孤児だ。いま暮らしている家の人が保護者になってるけど、血の繋がりは一切ない」
「そう、なんだ。ごめんなさい。私、まったく知らなくて……」
亜夜は話を聞き終えると、再び黙りこんでしまった。
レジに向かう湊の後ろをついてきているが、先ほどと違って全く話しかけてくる気配がない。
「いらっしゃいませ。ポイントカードはお持ちですか?」
「いや……先輩、ポイントカードは?」
「え? あ、持ってるけど、ポイントいらないの?」
ほとんど店にこない湊にとって、ポイントはどうでもいいらしい。
亜夜が財布から取り出したポイントカードを店員に渡し、そのまま会計を済ませる。
「こちら二点で五万四千七百円でございます」
「ええっ!?」
「六万からで」
「はい、六万円お預かりします」
値段を聞いて驚いている亜夜を無視して、湊はブランド物の財布からお札を取り出し店員に渡す。
相手もそれを慣れた手付きで数えると、直ぐにお釣りを返し、一気に大量のポイントが付加されたカードを渡してきた。
お釣りをいれた財布を仕舞ってから、湊は商品の入った袋と共にカードを受け取り、そのまま亜夜に返す。
ついでにレシートも渡して、今回でどれだけポイントが貯まったのかもしっかり分かる様にしてやる辺りに、一部の人間だけが気付いている湊の優しさが垣間見えた。
(うわぁ、五百ポイント以上、一気にはいってる。こんなの部の備品を大量に仕入れるとき以外、見たことないよ)
ちらりと見えた湊の財布の札入れには、六万円を払ってもまだ大量の諭吉が並んでいた。
確かに、そんなに普段から持ち歩いているのなら、自分のような一般庶民に奢ってもらう必要などないだろう。
むしろ、自分の利用するような庶民の店には行った事がないに違いない。
驚きで先ほどの暗くなった雰囲気も吹き飛び、亜夜は湊の隣に並ぶと、そのまま店を出ていった。
***
店を出た湊は、ポロニアンモール中央にある噴水近くのベンチに座っていた。
帰る前にもう少しだけ話をさせて欲しいと亜夜の方から頼み込み、湊がそれに応じたためである。
何も無い状態で会話するのもあれだからと、亜夜は湊の分も自販機のジュースを買って戻ってきた。
「はい。胡椒博士NEOって珍しい物飲むんだね。好きなの?」
「……比較的」
湊の素っ気ない態度にも慣れたのか、「そっか」と言って亜夜は笑いながら隣に座った。
赤いパッケージのコーラか、胡椒博士という炭酸系を好んで飲む湊とは対照的なチョイス、後光の紅茶の少し固いプルタブを開けて、亜夜は口を付けると細く白い喉をこくりこくりと小さく鳴らす。
その間、湊は相手を観察しているが、相手の視線はどこでもない先を見ており、何やら考えているように見える。
だが、缶から口を離して少しすると、ようやく話す気になったのか、微笑を浮かべた顔を向けて相手は口を開いた。
「あのね。今日、私がきみを叩いたのって、真田くんのことが原因なんだ。先月に試合で負けてから、真田くんったらずっとハードなトレーニングを続けてるの。主将になったから、後輩とかにメニューを伝えたり、部室の片付けはちゃんとしてるんだけど、それ以外はずっと自分のトレーニングに打ち込んでて……」
ボクシング部の活動日は、ゆかりの弓道部とほぼ同じで、違いは日曜にも休日練習が行われることもあるくらいだ。
高等部になれば活動日はまた変わってくるのだろうが、湊に負けて以降、真田は休みの日も部室に来て自主トレに励んでいる。
試合が近いときならば、最後の追い込みとしてある程度許されるが、当分試合のない真田が今のようにトレーニングをしているのはおかしい。
顧問や引退した元主将から、少しは休めと言われたのだが、部室が使えなくともロードワークなどに出てしまうので、それならば部室という目の届く範囲に居た方がマシだということで、今の状況になっている。
「それで、身体を壊して欲しくないから、休まなきゃ駄目だよって伝えたんだけど。自分に構うなって言われて、ショックで部室を出ていったところで、タイミング悪くきみに会ったから、きみのせいでーって八つ当たりで叩いちゃったの。きみは真田くんに頼まれて試合して、相手より強かったから勝っただけなのに、本当に最低だよね、私」
「……気にしてない。真田先輩を負かしてから、陰で俺に嫌がらせをしようとしてきたやつがいた。それに比べれば、正面から罵倒されたり殴られた方がマシだ」
もっとも、湊への嫌がらせは計画されるに留まり、実行に移した者はいない。
理由は単純で、真田を一方的に叩きのめす実力を持った者からの報復が怖いこと、湊ファンクラブの女子らが目を光らせて怪しい動きをしている者をマークしていたこと、それらのおかげで湊だけでなくチドリや周辺の人間にすら被害は出ていなかった。
「あー、真田くん人気だからね。ファンの子の中には、どうしても相手を恨むっていう理不尽なことしちゃう人もいるんだよ」
「他人事みたいに言うんだな。後輩とか、仲間のためだからって人を殴るまでいった訳じゃないだろ?」
「あ、あはは、ばれちゃったか。えっと、その、うん。私、真田くんのことが好きなんだ。あっ、でも、言っちゃ駄目だよ? 秘密にしててね。誰にもばれてないんだから」
頬を染めて真剣に言ってくるが、そう思っているのは本人くらいなもので、男子らにはばれていないが、鋭い女子の中には勘づいている者もいる。
けれど、湊は交流のなかった人間の周辺情報など全く知らないので、素直に頷いて返し、亜夜から受け取ったジュースに口を付けた。
亜夜はその様子をジッと見て、唐突に声をかけてくる。
「……ねえ、お姉さん欲しくない?」
「……は?」
出会い頭の一撃はともかく、常識人に近い者だと思っていた相手の意味の分からない発言に、湊は胡散臭い者に対する目を向けて聞き返した。
だが、亜夜もめげずに同じ言葉を再びかけてきた。
「だから、お姉さん欲しくない? 真田くんより、きみの我儘さの方が弟に似てるんだよね。それに放っておけない雰囲気? みたいなのがあるっていうか。叩いちゃったお詫びっていうのもあるし。私がきみのお姉さんになって、まわりの勝手な噂とか消すの手伝ってあげるよ」
「…………」
説明されたところで、湊の中では、亜夜の評価は一気に佐久間並みに残念なパーソナリティーの持ち主だと更新された。
他者に死んだ弟を重ねるのは良い。弟のように思って接するのも構わない。
しかし、面と向かって姉が欲しくないかと尋ねるのは、どう考えてもまともな発想ではない。
今まで敬語で接していたことを悔やむほど、湊は残念な相手から解放されて帰りたい気持ちで心が満たされた。
「……晩御飯の時間なので帰ります。さようなら」
「弟くんって電車通学だっけ? 帰るなら駅まで送って行くよ。一緒にいこ」
満面の笑み。死んだ弟を重ねた相手に、姉として世話を焼くのが楽しいらしい。
姉にしたい女子ナンバーワンが自ら姉になることを宣言するなど、今後まずないと言えるため、他の男子が聞けば妬ましさから血の涙を流すだろう。
ただでさえ、学校での湊の周囲は美しい女性で溢れている。
部活メンバーの四人、佐久間、櫛名田、本人は相手にしていないが付き纏っている美鶴。それだけで十分嫉妬の炎で焼かれて殺されるレベルだが、さらに、中・高等部女子の中にファンクラブが既に存在し、その規模は一年早く結成された真田のファンクラブに追い付きそうな勢いだ。
そこに姉にしたい女子ナンバーワンが、姉として加わる。返り討ちに遭う事が分かっていても、暴動を起こす男子も現れるに違いない。
そんな事に欠片も気付いていない亜夜は、飲み終わったジュースの缶を湊の分も捨ててから隣に立ち、ずっと楽しげに笑って湊が歩き出すのを待っていた。
だが、湊が動きだす前に、二人を見ていたらしいある人物の声が聞こえてくる。
「え……有里君、そういう趣味だったの? うっわぁ……今度、皆に教えてあげよ」
「別にいい。聞こえてたし、見えてたから」
声をした方に湊が視線を向ける。
そこには、CD屋から出てきたらしい弓道部の道具を持ったゆかりと、眞宵堂から出てきたばかりらしいチドリ・美紀・風花が、何やら微妙な表情で立っていた。
佐久間や櫛名田がいないことが救いだが、面倒なことには違いない。
不思議そうに四人を見ている亜夜と、湊が姉好きだと勘違いしたらしい四人、どちらに対して先に説明するか考え、
(……どうでもいい)
考える事を放棄した湊は、敢えて誰とも口を聞かずに駅に向かって歩き出した。
「え? 弟くん、友達とお話しないの?」
「お前……」
余計なことを、そう言いたげに湊が低い声で漏らす。全てが疑惑の状態で有耶無耶にする作戦が、亜夜の一言で失敗したためだ。
亜夜が“弟くん”と呼んだ際、チドリの視線が鋭くなったが、他の三人は佐久間にむけるような可哀想な人を見る目で湊を見ている。
自分が佐久間と同レベルに思われるなど、屈辱以外の何物でもない。
その原因を作った女を忌々しそうに睨むと、すぐに作戦を変更し、家でどうせ顔を合わせることになるチドリの誤解をまず解くことにした。
「チドリ、この先輩は頭が残念な人なんだ。人を殴っておきながら、勝手に俺を弟と呼称してくるほどにな」
「……そう。私に言わせれば、そんな相手を姉にする方も同じレベルだと思うけどね」
汚物を見るような、冷めきった軽蔑の眼差しで言ってくるチドリが、自身の言葉を欠片も信じていないことが湊には分かった。
(チドリの説得は難しい。なら、ここは別の人間を攻めるか……)
「あ、真田さん。こんばんは」
「え、ええ。こんばんは、先輩」
湊が別の作戦を考えている間に、真田経由で知り合いだったらしい亜夜と美紀が挨拶をしていた。
二人が知り合いならば、ここからなら誤解を解くことが出来るのではないだろうか。
そう思い、二人の会話の様子を見つつ、湊は切り出すタイミングを計ることにした。
「今日はお友達と遊んでいたの?」
「はい。時任先輩は有里君と知り合いだったんですか?」
「ううん。今日初めて一緒に遊んだのよ。ちょっと八つ当たりしちゃって、そのお詫びをしたかったのだけど、彼って自由な感じでしょう? だから、ついて行って何か出来ればーってね」
照れたように苦笑して、亜夜は「結局、まだ何も出来てないんだけど」と最後に付け加えた。
湊に言わせれば、付き纏うことを止めるのが最高のお返しなのだが、湊の周りに集まる人間は変なところでコントロールの利かない者が多かった。
この亜夜もその一人であり、当然ながら、現在進行形で湊の精神的な負担を増やしていることに気付いていない。
そんな相手に、他の者よりは自分の方が尋ねやすいだろうと思った美紀は、女子ら全員の抱いていた疑問を本人にぶつけた。
「あの、どうして有里君が弟なんですか?」
「弟くんはね、なんていうか、ちょっと死んだ弟に似ているの。だから、なんか構ってあげたいなって思って」
「湊を他人の代わりにしないで。死んだ人間に重ねるなんて、侮辱も良いところだわ」
亜夜の言葉にチドリが鋭く睨みながら返す。
今も生きている他人を、死者の代替えとして扱う。そんな事は、本人とその人物のまわりの者に失礼だと、チドリは真剣に怒っているのだ。
だが、それを聞いた亜夜は、少し儚げに笑って答えた。
「うん、そうだね。だけど、彼のご両親と私の弟が死んだ事故って同じ物なのよ。こういう偶然に、運命を感じちゃいけないかな?」
「っ……どういうこと?」
先ほどの湊を不審者扱いする視線は失せ、チドリは相手の言っていることが事実か湊に尋ねた。
他の者は、それを言葉のまま詳細を訊きたいのだろうと思ったようだが、付き合いの長い少年は瞳から意図を読み、相手の求めている答えを返す。
「六年前、この近くで起こった爆発事故。先輩の弟は建物の倒壊に巻き込まれ、俺の両親は爆発の余波で車が横転し炎上したことで死んだ。場所は離れているだろうが、原因を考えれば同じ事故と言っていい」
湊ら家族の乗った車の横転は、爆発の余波ではなく戦闘の衝撃が原因である。
もっとも、それを伝えたところで説明がややこしくなるだけだ。
よって、湊は多少内容をそれらしい理由にしつつ、両者の家族が死んだ事故は共通のものだという点を肯定した。
それで納得したのか、チドリは短く嘆息してから、普段のやる気のない半目に戻り、湊と亜夜の元に近付いて来る。
そして、亜夜の目の前に立つなり、よく通る声で真面目に言い放った。
「……その変な呼び方で湊を呼んでもいいけど。あなたのこと、これからブラコンって呼ぶから」
「ブラコン? じゃあ、弟くんはシスコンになるの?」
「シスコンはもういるから駄目よ。周辺という狭いコミュニティー内でキャラクターの重複は認めないわ」
「そうなんだ。それって真田くんの事かな?」
亜夜の問いにチドリはしっかりと頷いて返した。途端、顔を赤くした美紀が、隣に立っていたチドリの腕を掴んで首を振っている。
けれど、チドリは相手の抗議を受け付ける気がないため、そのまま無視し続けた。
そんな一同の様子を見て、湊は自分が誤解を解く必要はもうないと感じ。そろそろ帰ってもいいかと歩き出そうとする。
しかし、今日の湊はとことん邪魔をされる運命にあるのか、足を出しかけたところでゆかりに肩を掴まれた。
誰に邪魔をされるかまでは考えていなかったが、誰かに邪魔をされることは半ば予想していた。
それだけに、湊の方もわずかに諦めモードに入って、普段以上にアンニュイは表情で、肩を掴んだ者へと向き直って口を開く。
「……なんだ?」
「きみ、弓道やってたの?」
「訳が分からない」
「矢筒、袋から少し出てるよ」
にやにやと口元を歪めて、ゆかりは湊の持っていたスポーツショップの袋を指差す。
自分のまわりに弓道をやっている者がいた事が、そんなにも嬉しいのだろうか。
ゆかりの表情を不思議に思いつつ、これ以上ここで足止めを食うのは御免だと、湊はゆっくりとした動作で他の者の視線を集めながら、特に何もない方向を指でさした。
『……?』
全員の視線が湊に釣られてそちらに向いた瞬間、湊は一陣の風になった。
荷物をマフラーに収納しながら全力で駆ける。薄暗く狭い路地に入り、壁を蹴って屋根の上まで跳び上がる。ペルソナをカグヤに付け替え、感知の精度を上げて、ポロニアンモールの買い物客の視線に注意し、そのまま店の屋根伝いに敷地から脱出するため去って行った。
「んー? ねえ、有里君、何があったの……っていないしっ!?」
湊が何を指したのか訊こうとゆかりが振り返った頃には、時すでに遅し。
まるで初めから誰もいなかったかのように、忽然と湊の姿が、ここに居たという痕跡すら消えていた。
話しの途中で逃げられたゆかりは僅かに怒っていたが、他の者は湊がどこへ行ったかの方が気になったようで、不思議そうに首をかしげていたところ、携帯に「帰ります」とだけ書かれたメールが届いた事で、湊に続く様に他の者も解散という流れになった。
補足説明
時任亜夜は小説「オワリノカケラ」に登場する人物。原作が始まる一月ほど前が舞台の小説内では、影時間に保護され、影時間の適性があることからペルソナに目覚める可能性があるとして、巌戸台分寮の寮母のアルバイトとして住み込みで働いている。真田に恋心を抱いていることや、弟をポートアイランドインパクトで亡くしているなど、本文で書いた設定は小説の設定に準拠している。