――巌戸台分寮
また一つの扉を攻略した事で、時の狭間に残っている扉も最後の一つとなった。
七歌や三年生たちは自分たちが過去に囚われていた事を自覚し、自分を見つめ直してここから出た後の事を考えるようになった。
別にそれが正しいことだとは思っていないし、仲間の中に彼の事を諦めきれないと考える者がいても当然だと思っている。
可能であれば相談に乗って少しでも気持ちを前に向けられたらとも思うが、湊との関わり方が異なっていた以上、他人がゴチャゴチャと口を出して良いものかとも思ってしまう。
このままではいけない。過去に囚われて今に取り残されていては、命懸けで未来を守った彼に申し訳が立たない。
それはあくまで自分たちの意見であり、ゆかりを始めとした数人にとっては彼一人を犠牲にして手に入れた平和に何の意味があるんだという感じなのだろう。
「それで順平。八雲君はなんて言ってたの?」
四階の作戦室に一部のメンバーを集めた七歌は紅茶に手を伸ばしながら順平に声をかける。
今日は探索を終えた翌日で全員に休みを言い渡しており、新三年生の女子は七歌以外全員が過去の世界に出掛けている。
出来る事なら七歌も探索に出ていた翌日は身体を休めてのんびりと過したかったが、残る扉は一枚という状況もあって他のメンバーにも無理を言って集まって貰った。
順平などはゴネるかもしれないと思っていたものの、彼ものんびりしていられる状況ではないと分かっているのか素直に集まってくれた。
そして、先日湊と話した事について聞かせて欲しいと七歌は声をかけた訳だが、正面のソファーに座っていた順平はテーブルの上に置かれたチョコを一つ取って、それを口に放り込みつつ話し始めた。
「んー、なんかオレらの思ってた展開とは違う展開になりそうって話だったな。てか、あいつもゆかりっちやチドリンの事に気付いてたらしくて、対処法がないなら記憶いじって寮を出るまで自分の存在を忘れさせてもいいって言ってきたんだよ」
「……そうか。彼には魔眼があったな。その力に頼れば穏便に事を進められるだろう」
普通ならどうやって他者の記憶をいじるんだと考えるところだが、ここにいるメンバーは湊の持つ魔眼の中に暗示系の能力を持つ物があると知っていた。
修学旅行の時には幼児化した八雲がその力を使って、真田の妹である美紀が忘れていた影時間に関する記憶を取り戻していた。
湊の魔眼でどれだけの事が出来るかは分からないが、少なくとも世界が干渉して封じた記憶の蓋を開けられるほどの力はある。
その力を使えばゆかりたちも一時的に湊への未練を忘れ、七歌たちと協力して事件解決に取り組んでくれるに違いない。
順平の言葉で湊の魔眼について思い出していた美鶴は、それも選択肢の一つとしてはありなのだろうと認めつつ、しかし、それを選ぶ事は出来ないとすぐに反対意見を述べる。
「だが、記憶の改竄は無しだ。卒業式の時のような気持ちなど二度と味わいたくない」
テーブルの上に置かれた紅茶のカップに視線を落としながら美鶴はハッキリと答える。
美鶴たちは卒業式の途中で世界のかけた暗示に打ち勝ち、影時間に関する記憶と彼の事を思い出す事が出来た。
しかし、誰一人として記憶を取り戻した事を素直に喜びはしなかった。
大切な仲間の事を忘れてしまっていた罪悪感、最後の最後で彼一人に任せる結果になってしまった事への後悔、手助けする事も止める事も出来なかった己の無力に対する憤り、あそこまで複雑な感情で心が埋め尽くされた事はなかった。
その日一日では感情を処理することが出来ず、数日かかってようやくまともな受け答えが出来るようになったが、あくまで感情の波が落ち着いただけで心に折り合いがつけられた訳ではない。
自分の原点を思い出して前を向く切っ掛けを得た美鶴でも、記憶を取り戻したときの事を思い出すと心が不安定になりそうになるのだ。
いくら事件解決を望んでいるからと言って、あれをもう一度味わえなどと仲間に言える訳がない。
そうして美鶴がハッキリとその案は無しだと反対すれば、順平の隣に座っていた天田が笑顔で心配しなくて良いと告げた。
「安心してください。それに関しては順平さんもその場で却下してしますから」
「おう。オレっちもあれはキツかったからな。ただでさえメンタルぐちゃぐちゃになってるゆかりっち達にもう一回なんてさせられる訳がねぇよ」
特別課外活動部は因縁や使命感を持って所属しているメンバーが多い中で、順平は偶然にも適性を手に入れたから参加しただけの一般人枠だ。
だからこそ、彼の感性はある意味でメンバー内でも極めて常識的だと言える。
辛い事は辛いと、怖い事は怖いと、心を誤魔化さず当たり前に考える事が出来る。
そのおかげもあって彼は自分でも辛かったのだから、自分以上に悩んでいるゆかりたちにもう一度あれを経験させれば今度こそ心が持たないだろうと冷静に判断出来ていた。
自分が助かりたいだけなら湊の申し出を受け入れていただろうが、少年は仲間の事を思ってしっかりと彼の提案を断っていた。それを聞いた美鶴や七歌は嬉しそうに笑う。
他の者たちも彼の選択に賛同し、勝手に断ってしまっていた本人も安心したようにほっと胸をなで下ろす。
「だが、そうなるとどうするんだ? 岳羽はともかくアイギスたちまで現状維持を望んで敵に回れば厄介だぞ」
事件解決を優先するのではなく、全員が仲間の事をしっかりと考えながら行動するつもりだという意志を改めて確認する事が出来た。
ただ、彼女たちの事を思いやるばかりで身動きが取れなくなっては意味がない。
最終目標が事件の解決である事を忘れてはならず、それら二つを両立させるとなると何が出来るんだと真田が他の者に意見を求める。
湊の魔眼で問題を先送りする形で事件解決を優先する案は却下されたが、そうなるとゆかりたちをどうやって説得するのかという問題を避ける事は出来ない。
相手がゆかり一人ならばともかく、適性値基準だとメンバー内でも上位の強さを持つ者たちが現状維持を望みそうな状況だ。
今はこちらに参加してくれているコロマルも、チドリやラビリスが頼めば義理を果たすため向こうにつくに違いない。
事が事だけに組織が二つに割れる可能性もあり得るので、真田としてもここは慎重に行動しなければならないと思っているが、現状維持と事件解決は真っ向から対立する意見だ。
意見を求められた他の者たちも難しい表情で考え込み、彼女たちを説得出来そうな材料はないかと記憶を探る。
だが、皆が代案はないかと考え始めたタイミングで順平が手を挙げて伝え忘れていた事を告げた。
「あー、ちょっと待ってくれ。さっきの提案の他にもう一つ有里から聞いた事があるんだ。つか、オレ的にはこっちの方が重要で皆の意見を聞きたい」
「そうなの? 八雲君が何を言ってたか教えて」
本当ならば天田と共に湊から話を聞いてすぐに仲間たちに相談するつもりだった。
しかし、過去に通じる扉が現われてすぐのタイミングで、別れが辛くなるからと用事がなければ彼と接触するのは控えようと決めた事もあり、ゆかりたちも報告会や物資の補給以外では彼に会いに行くのを我慢している。
順平と天田が相談のため湊の許を訪れたのは、ゆかりやチドリにアイギスといった要警戒対象の少女たちが恒例の報告会を終えてからの事だったので、彼女たちがいないタイミングを狙っているうちにここまで報告が遅れてしまったのだ。
湊本人はあくまで自分の推測でしかないと言っていたが、彼女たちの思考については恐らく彼の方がよく理解している。
そのため、順平はかなり高い確率でその推測は当たっていると思っていた。
「オレらはゆかりっちが現状維持を望んでると思ってたけど、有里の予想じゃ違うらしい。話を聞いてる感じだと、ゆかりっちは過去改変の手段がないか探ってるみたいなんだよ」
「過去改変? 過去をやり直して八雲君が死なない世界を目指そうとしてるってこと?」
「ああ。桐条先輩のじぃさんがやろうとした事と同じか聞いたら頷いてた。んで、あいつが言うには過去一年くらいなら過去へ跳ぶエネルギーの問題をクリアすれば可能性はあるらしい」
突然齎された驚きの情報に他の者たちは何も言えなくなる。
ゆかりが過去改変を目指しているらしいと聞いた時には何を馬鹿なと思ったが、湊が可能性があると認めたなら実際にそれは可能なのだろう。
何せ今の自分たちも時の狭間の力を使って過去に干渉しているのだ。出来ないと否定する方が難しい。
顎に手を当てて考えていた荒垣は視線を上げて順平の方を向くと、その過去改変に何かデメリットはあるのかと尋ねた。
「伊織、あいつは過去改変の危険性やデメリットは話してたか?」
「いえ、そんな詳しく話した訳じゃないんで。オレらの考えてた前提が崩れたなら、仲間と相談して基本方針を練り直さないと相談も難しいって話を切り上げたんスよ」
あの時は、どうにか穏便にゆかりたちが現状維持を諦めるように出来ないかを相談しているつもりだった。
本人たちだって今の状況がいつまでも続くとは思っていない。自分たちが会っているのは“過去”の世界の人間だという自覚はあるはず。
律儀に報告会や物資の補給のタイミングで会いに行っている事もあり、丁寧に説明すれば彼女たちを説得出来るのではないかとも思っていた。
だが、自分たちの予想がはずれて前提が間違っていたとなれば、順平らも何を相談すれば良いか分からなくなった。
いくら相談中は時流操作で時間を作ってくれていると言っても、本来多忙なはずの彼がわざわざ相談に乗るため仕事を中断してくれたりもしていたのだ。
自分たちの意見をまとまっていない状態で相談することなど出来る訳がない。
順平からその時の流れを聞いた他の者たちも、確かにそれならば話を切り上げるのもしょうがないと納得する。
けれど、過去改変について彼から一切何も聞かなかった訳ではない。補足するように天田が唯一聞いた情報を荒垣に伝える。
「でも、有里さんが言うにはその時点で世界は分岐するそうです」
「その時点っつーと過去改変のために俺らが過去の世界に行った時点でって事か?」
「そうだと思います。僕たちの世界の有里さんは六月に未来から来た僕たちに会ってますが、それ以外には未来人に会っていない。となると、それ以外のタイミングで未来人に会ったら僕たちのいるこの世界には辿り着かないって事じゃないかと」
自分たちの身に起きている事も理解出来ていないので、あくまで予想ですがと天田は湊から聞いた話から想像した事を説明する。
過去の世界の湊が世界は簡単に分岐すると言っていた事もあり、話を聞いていた者たちも過去改変で起きる世界の分岐については天田の予想が正しいように思えた。
ただ、一応の確認も兼ねてメンバー内で最も湊に近い視点を持つ綾時に七歌が質問をぶつける。
「綾時君、過去改変は文字通り別の未来に行くって認識で良いの?」
「まぁ、そうなるね。ゲーム的に言えばセーブポイントからのやり直しって感じだよ」
ゲームに詳しくない美鶴だけは少し難しい表情をしているが、他の者たちはその説明で理解出来たのか成程と頷く。
セーブポイントから進めた記録と、セーブポイントからやり直した記録。仮にジャンルがRPGならば遭遇した敵の数や種類は勿論マップでの移動経路も違っている事だろう。
ストーリーの存在もあって大筋では似たような結末に向かっていたとしても、細かな部分がまるで違えばそれは同じ物だとは言えない。
それぞれが別のセーブデータであるように、それでは過去をやり直した事にはならないため、今いるこの世界で湊の死という結末を変えたいと思っている者たちの表情が暗くなった。
質問された事に答えただけで仲間の表情が暗くなった事を不思議に思った綾時は、その原因は何かと考えて彼らの辿った思考を理解して苦笑を浮かべる。
「なるほど、君たちが何に悩んでいるのか分かったよ。過去を変えてもこの世界の結末が変わる訳じゃないって気にしているんだね」
「もしかして、そうではないのか?」
「今みたいに現在と過去を行き来出来るなら気にするのも無理はないと思う。過去を変えたのに戻ってきても何も変わっていなかったって嘆く事になるからね。でも、過去改変は片道切符で、過去に移動したらそこから先はそちらの世界で生きていく事になるんだよ。つまり、元いたこの世界も主観で言えば過去になるのさ」
七歌たちが話している過去改変とは、今いるこの世界から過去に跳ぶだけのものだ。
戻ってくる事など出来ないし、跳んだ後はそちらの世界の住人として生きていくしかない。
ならば、もう戻れない過去を気にするのではなく、跳んだ先の未来をどう生きるかと気にするべきだと綾時は話す。
「過去は変えられない。変えられるのは未来だけって言うだろう。もし、過去改変を目指すなら今いる世界は諦めるしかない」
「じゃあ、岳羽たちの望みは叶わないのか?」
「そうなるね。まぁ、意識だけなのか、肉体ごとなのか、どういう形で過去に跳ぶのかも分からないし。そもそも、湊が言った過去改変を僕たちで実行可能なのかも不明なんだ。心構えだけして後はゆかりさんたちの説得に力を注いだ方が良いと思うよ」
湊には可能だったとしても他の者が同じようにそれを実行可能かは不明だ。
まだまだ分からない事が多い状況なので、それに振り回されるくらいなら素直にゆかりたちの行動を警戒し、その状態で事件解決を目指した方が建設的だと彼は言う。
確かに今は分からない事の方が多い。最後の扉の奥で待ち受けている“未練”とやらの存在も気になるし、要警戒対象の少女らがどこまで本気で過去改変を目指しているのかも分かっていない。
ゆかりだけが頑張ってそれを目指している可能性もあれば、普段は妹らのストッパー役になっているラビリスが妹たち以上にやる気を見せている事だって考えられる。
順平と天田がくれた情報のおかげで、現状維持を望む者がいなさそうだという事が分かったのは朗報だが、それ以上に話が難しくなったと七歌や美鶴は感じていた。
彼に頼るのは良くないが出来ればもう少し判断材料が欲しい。そのため、七歌と美鶴がゆかりたちとは時間をズラして彼に相談に行ってくると他の者たちに伝えた。
相談したところで解決策が浮かぶとは思わないが、ゆかりがどこまで過去改変について情報を得ているかも分かるかもしれない。
他の者たちも二人に情報収集を頼むと今日は解散という流れになり、報告会に行っている者たちが帰ってくる前に一同は作戦室を出て行くのだった。