――???
どこまでも闇が広がる空間。
太陽は勿論、月や星、人工の光も存在しない空間にアイギスは立っていた。
ここはどこだろうか。そう思って周りを見渡すも、そこには闇しか広がっていない。
だが、どういう訳だが自分の姿は見える。
月光館学園の制服姿でどうしてこんな場所にいるのか。
不思議に思いながらも、何も見えないためじっとその場に佇んでいれば、遠く離れた場所に光が差しているのが見えた。
「あれは……」
ここにいても意味はない。故に、現われた変化に近付いてみようと歩き出す。
遠く離れてはいるが数百メートル程度の距離だ。歩いて近付いても十分とかからない。
差している光が消えそうになれば走りもするが、アイギスが近付いても光はスポットライトのように一つの場所を照らしている。
光の差す場所を目指すアイギスだが、思えば歩いている地面も不思議だった。
立って歩けているため地面はあるのだろうが、地面を踏んでいるという実感が薄く、靴で歩いていても靴底が地面に当たる音が一切しないのだ。
素材が硬い物ではなく、ゴムやシリコンのような衝撃を吸収するようなものであったとしても、地面と靴の擦れる摩擦音はなるはず。
それすらもないため、本当にここはどこなのだろうかと考えながら歩いていると、ようやく光の差す場所が近付いてきた。
暗闇の中にいると自覚しながらも目が眩むほど明るい訳ではなく、客席から舞台を見ている時のような自然と視線が向くような丁度良い明るさ。
だからこそ、その光の中心に人影がある事にもすぐに気付き、それを見た瞬間にアイギスは背中を向ける人影に向かって駆け出していた。
「八雲さんっ!!」
月光館学園の制服を身に付け、首に黒いマフラーを巻いた長身の青年。
背中を向けていてもアイギスにはそれが誰かすぐに分かった。
最後の戦いで空へと向かう背中に手を伸ばす事しか出来ず、訳も分からぬまま消息を絶った青年がどうしてこんな場所にいるのか。
理由は分からないがアイギスはただひたすらに青年に向かって走った。
少女が駆け出すと同時に彼もゆっくりと歩き始めて離れて行ってしまう。
自分の声が聞こえていないのだろうか。そんな考えが頭を一瞬過ぎるも、だとしても走っている自分の方が圧倒的に速い。
彼が十メートルも移動しないうちに追い付ける。
そう考えていたのに、どれだけ走っても何故か距離が縮まらない。
「なんでっ!? お願いですっ、待ってください八雲さんっ!!」
アイギスの方が速く走っているのに、ただゆっくりと歩いているだけの青年に追い付けない。
むしろ、両者の距離は徐々に開いており、必死に走るアイギスは少しずつ小さくなってゆく背中に焦りを覚える。
嫌だ。何故追い付けない。彼に会って話したい事が沢山あるというのに、どうして離れて行ってしまうのか。
胸の中で渦巻く様々な感情が涙となって瞳から溢れるも、状況は変わらず追いかけている背中は遠くなるばかり。
「いやっ、お願いだからっ、もう一度八雲さんとっ!!」
息が切れて全身が酸素を求めだし、動かし続けている足の筋肉が悲鳴をあげそうになるも、アイギスはそれを無視して走り続ける。
また彼が遠くへ行ってしまう。手の届かない場所、声の届かない場所へと辿り着いてしまう。
そんなのは嫌だとどれだけ走っても距離は縮まらず、ついに彼の姿が闇の向こうへと消えてしまった。
彼の姿が光と共に消える瞬間、アイギスは最後の戦いでの光景がフラッシュバックし、無気力になってその場に座り込む。
どれだけ走っても追い付けず、まるで自分がこの場所から一歩も進んでいないかのような錯覚すら覚えた。
「どうして……なんで……折角、八雲さんとまた会えたのに…………」
あの後ろ姿は間違いなく彼のものだった。自分が彼の姿を見間違える訳がないという自負がある。
だからこそ、あれは間違いなく彼だったというのに、アイギスはついに追い付くことが出来ず彼を行かせてしまった。
最後の戦いの時と同じように、また自分は彼を引き止める事が出来なかった。
彼が蘇ってくれたとき、もう二度と彼を遠くへ行かせないと誓ったはずなのに、どうして何の役に立つことも出来ずに彼を一人行かせてしまったのかと自分への怒りが湧く。
そうして、暗闇の中で俯いたまま動かなくなったアイギスは、急な浮遊感を覚えてその世界での意識が途絶えた。
3月21日(日)
深夜――巌戸台分寮
朝日も昇らぬ深夜、アイギスは寮の自室に置かれたベッドの上で目を覚ました。
酷い動悸と全身にビッショリと汗を掻き、浅い呼吸を繰り返して先ほどの光景が全て夢だったことを徐々に認識していく。
過去には夢の中でこれは夢だと何度も認識出来ていたのだが、影時間という異常事態に慣れていたせいか、実戦感覚が鈍ってきた今では逆に目を覚ますまで夢だったことに気付けなかった。
しかし、夢ならせめて自分の望みに沿った楽しい内容であってくれたらと愚痴を言いたくなる。
一定の呼吸を繰り返して心臓を落ち着かせ、大量の汗を掻いた事で乾いた身体に水分を補給するべく部屋に備え付けられた小さな冷蔵庫から水のペットボトルを取り出す。
春も近づき最近は暖かくなってきたところだが、深夜で朝日もないとなるとまだまだ気温は低い。
しかし、悪夢でうなされていた身体には冷たい水の方が心地よく、ペットボトルの中身を半分ほど飲んで一息吐くと、ようやく少しは落ち着くことが出来たと冷静さを取り戻した。
(前に八雲さんが亡くなられた時にも同じように夢に見ましたが、今回は去って行ってしまうのですね。わたしが彼を拒んでいるのか、それとも役立たずの自分を責めているのか……)
チドリの蘇生のために命を使い果たして死んだ時には、ラビリスの世話になりながら一日中夢の中に逃げてそこでだけ会える彼と一緒にいた。
全ては妄想の産物でしかなく、自分にとって都合の良い彼を作り出していたに過ぎないが、それでもあの時はそうやって心の平穏を保つ事した出来なかった。
今回はあの時のように夢に逃げたりせず、心にぽっかりと穴が空いたような気持ちを抱えたまま日々を過している。
前回との違いはアイギス自身の心の成長によるものだと言いたいが、本当の理由は恐らく彼の死に対する認識によるものだと思われる。
前ははっきりと彼の死を感じられた。冷たくなった身体を前に、既にここに彼はいないのだと認識せざるを得なかった。
けれど、今回はそうではない。ニュクスと共に宙へと向かったまま彼は帰ってこなかったのだ。
(綾時さんの言葉の通りであれば、貴方は死んだ事になるのでしょう。あちら側の世界、この世を離れた魂の行き着く世界に貴方はいるのだから)
湊がどういった状況にいるのかは不明だが、綾時の話によれば恐らく死後の世界に相当する場所にいるという。
ニュクスを封印する場合、生命の存在する世界に置いておくことは出来ない。
死を司る存在、具現化した死その物。その近くにいれば命を吸われて生物は死んでしまう。
であれば、封印するには生命の存在しない魂のコミューン、心の海とも呼ばれるあの世につれて行くしかない。
湊も一度はそちらに堕ちた事で、ニュクスを封印するにはそこへ連れて行く必要があると認識していたはずだ。
彼は誰よりもニュクスの力を把握していた。神の眷属であった綾時よりも詳しかったのではないかと思えるほどに。
(ちゃんと生きなきゃいけないのに……ダメですね。本当に、わたしは……)
彼が救った世界。彼に救われた命。
自分もそこで生きる存在として、その事実を認識して生きていかなければならない。
共に戦った仲間たちや、彼の事を覚えている者たちは、以前ほど明るくはないが既に前を向いて動き始めている。
この世界でしっかりと生きていくため、より上の志望校を目指そうと予備校に通い始めたゆかり。
親に医学部へ進むように望まれながらも、自分が本当にやりたい事や好きな事と向き合って、どちらでも選べるよう親とも話し合っている風花。
進学には興味がなかったはずなのに、せっかく湊が選択肢を残してくれたのだからと、進学を考え進路指導に相談している順平。
彼らだけじゃない。七歌や姉のラビリスだって、湊の死を悲しむだけじゃなく前を向こうと動き始めている。
それなのに、アイギスは自分のやるべき事を見つけられず、その場から一歩も踏み出せずにいた。
記憶を取り戻してからも授業はしっかりと受けているし、今の自分の学力で行ける大学の資料なども貰っている。
アイギスは英語も話せるため、それに関連する資格やテストを受けて実績を作っておけば、推薦の要項を満たして受験する事も可能だろう。
勿論、それには三年生の授業もしっかりと受ける必要があるのだが、今の状態を維持するだけで進学先には困らない。
志望校やより良い環境を求めて受験勉強に精を出している者からすれば、随分と舐めた態度や考え方と思われるに違いない。
望みもなく、情熱も持っておらず、出来るからこなすだけ。
そんな風にただ日々を過して進学したとしても、前を向いて進んでいるとは決して言えないだろう。
持っていたペットボトルをベッドチェストに置き、ベッドに腰掛けながら今の自分の状態にアイギスは呆れたように苦笑する。
(せっかく八雲さんが未来を作ってくれたのに、それを無駄にするなんて最低ですね。あの人が残した物の研究でも引き継げれば良かったのですが、EP社の方もそれは望まないでしょうし。出来る事はなさそうです)
湊は影時間の戦いを終わらせるために、ただ戦うのではなく様々な研究にも取り組んでいた
その中でも大きな功績は医療関係で、公表出来ないものなら薬や特別な手術を必要とせずに腫瘍や癌細胞の除去に何度も成功した事が挙げられ。シャロンと共に進めた研究では、一般人でも使える機械義肢の試験も近いうちに行なわれるらしい。
遠い未来のSFのような技術だと思われていたものが、もう少しで現実のものとなるところまで来ているのだ。
自分の未来を諦めていながら、いなくなった後も人類の発展に貢献している。
そんな彼に対して今の自分はどうだろうか。
情けなくてこんな姿は彼に見せられそうにない。
それが分かっているのに、やはり心は奮えてくれそうになく、アイギスは自己嫌悪に陥りながらベッドから腰を上げると着替えを取りに移動する。
悪夢にうなされて掻いた汗でパジャマが濡れており、このままでは気持ちが悪いので新しいパジャマと下着を取り出した。
既に大浴場のお湯は抜けているだろうが、それでもシャワーを浴びる事は出来る。
それぞれの部屋で寝ている他の者たちを起こさぬよう静かに部屋を出ると、着替えを持ったアイギスは陰のある表情のまま大浴場へと向かうのだった。