2月21日(日)
午後――EP社
あの戦いから三週間が経った。影時間はなくなり、無気力症患者たちも徐々に回復して社会復帰を果たしている。
無気力症になっていた期間が数ヶ月に及んでいた者たちも、懸念されていた後遺症などは見られず、単純な筋力の衰えによるリハビリ治療程度で済んでいる。
社長室で病院からの報告書に目を通したソフィアは、これであの戦いも本当の意味で終わったと言えるのだろうと小さく笑みを溢す。
(……これで湊様の願いは叶ったと言えるでしょう。貴方の戦いは無駄ではなかった)
書類を確認済みのカゴに移すと、ソフィアは置かれていたカップに手を伸ばして紅茶に口をつける。
自分で淹れたものだが、味も香りも及第点、昔と比べて随分と上達したものだと自身の成長をこんなところで自覚する。
思えば昔の自分は才能があるせいで何でもそれなりにこなせてしまい。努力することや上達を目指すということがほとんどなかった。
湊の下についてからは彼の機嫌を伺うように進んで雑務を請け負い。それらを繰り返す内に自然と色々な事が出来るようになっていた。
紅茶の淹れ方もその一つで、湊はどちらかといえばコーヒー党だったが、仕事で使うスキルの一つだからと随分と淹れるのが上手だった。
部下としてお茶の用意もしていたソフィアにとって、主人よりも淹れるのが下手という状況は看過出来るものではなく、自分で淹れた方がマシだと言われるまでに改善せねばと必死になった。
(出来ればずっと隣でその役目を続けていたかったものですが、そう上手くはいかないものですね)
彼の隣で仕事を続ける内に、ソフィアも人並みの幸せというものがどういったものか理解出来るようになった。
以前は悪趣味な余興を楽しんで、それでも世界はつまらないと思っていたというのに、心をへし折られて彼の代わりにEP社の顔役として働くようになったらこれである。
EP社の仕事と並行して影時間や生体義肢の研究を行なってはいたものの、それ以外では会社の代表と湊の秘書として忙しく働いていただけ。
自分へのご褒美として湊と個人的な時間を過すこともあったが、出会いなどを別にすれば湊とソフィアはそれほど特別な事はせずに日々を過していたように思える。
それこそ以前のソフィアが平凡でつまらないと見下していた物であり、自分には一生縁がないものだと思い込んでいたものだっただけに、昔の自分は随分と狭い価値観で生きていたと自嘲せずにはいられない。
影時間がなければ恐らく彼には出会えず、今も自分こそが世界の中心かのように振る舞い続けていただろう。
けれど、自分と彼を出会わせてくれたその影時間が、今度は自分から彼を奪っていった。
これでは感謝などしてやれない。上げて落とすくらいなら以前のままで良かったとすら思ってしまう。
文句を言う相手がいないので愚痴はあくまで心の中で呟く程度だが、三週間経ってもその愚痴は減ってくれないため、これでは営業妨害だぞと会社の代表という立場で新たな愚痴をこぼす。
(あの方がこの場にいれば、恐らく真面目に仕事しろと仰るのでしょうね。でも、いないのだからこの愚痴もしょうがないのです。ええ、本当に)
紅茶を飲み終えたソフィアは、腕を上に上げながら背中を反らせて身体を伸ばす。
元からそれなりにサイズのあった胸は湊のおかげでさらに成長した。
そのため、男性がこの場にいれば目の毒だと気まずそうに視線を逸らすのだろうが、ソフィアがこんな風に無防備な姿を晒すのは一人の時か彼の前だけと決めている。
彼の学友である女子たちがその話を聞けば、あざといと批難してくる事は間違いないが、その時は自分と彼はお互いの初体験の相手なのでとジョーカーを切って挑発してみせるつもりだ。
もっとも、彼女たちの記憶が戻らない限りはそういった話をする機会はなく、彼がいないのであればライバルたちを牽制する意味もない。
そろそろ真面目に仕事をするかと席を立つと、ソフィアは社長室を出てEP社地下の研究区画へと向かう。
かつては影時間に関する研究を行なっていたが、影時間が消えた事で今はそのほとんどの研究を凍結している。
例外的に続けている研究は湊が残した生体義肢に関する研究で、黄昏の羽根というオーパーツを利用している事もあり、まだまだ表に出すことは出来ない。
だが、研究主任であるシャロンが引き続きそれらの研究は進めており、そう遠くない未来に本人の細胞から造った生体義肢の移植手術なども出来るようになっていくのではと期待が持たれている。
長い廊下を進んでさらにセキュリティの掛かったエレベーターで地下へと向かい。さらに幾つものセキュリティの掛かった扉を潜ってようやく研究区画に到着したソフィア。
部屋の中に入ると、今も白衣を着た研究員たちが真剣な表情で機械や書類に向き合っている。
この場では挨拶は不要だと事前に言っているため、ソフィアは目的の人物を見つけると彼女の許まで進んで声を掛けた。
「ごきげんよう」
「ハーイ、どうしたの急に? 何か連絡でもあったぁ?」
だらっとした姿勢でパソコンの前に座っていたシャロンに声を掛けると、シャロンはすぐにパソコンの画面から顔を上げて挨拶を返す。
彼女の研究は簡単には進まないものばかりなので、普段はそこまで気を張っていない事もあって声を掛けても大体は返事を返してくれる。
傍の空いていた椅子をソフィアに勧めつつ、彼女が席に腰を下ろして先ほどの問いに答えるのを待つ間もシャロンは笑顔を浮かべている。
この様子からすると研究の方で何か良いことでもあったのだろう。
そう思いながらソフィアは別に仕事で用事があった訳ではないと首を振る。
「別に仕事の用事ではありません。それぞれの部門の代表者に任せていますから、わたくしから直接個別の部門に話を通すことはほぼなくなりました」
「でもぉ、ここでやってるのは表に出せない研究でしょう? だから、そういうお話じゃないのかしらって思ったのよぉ」
世間向けの仕事もこの研究区画で密かにやっている仕事も、EP社の大事な仕事である事には違いない。
表のEP社で働いている社員たちは、久遠の安寧という裏組織の事は知らないし、湊をトップとして数世代先の医療研究を行なっている事なども知らない。
だが、その裏側の仕事をしている者たちは、湊の過去や影時間などについても知っているので、突然やって来た会社の代表がそれ関連で話をしに来たのではないかと予測することが出来た。
言われたソフィアはそんなに自分は分かり易いだろうかと顔を触り、特別表情には出ていないことを確認すると、改めてシャロンの指摘した裏の仕事に関わる話で合っていると頷く。
「そういう事でしたら仕事の話で合っています。特別課外活動部やあちらの記憶持ちの方の経過調査書はこちらに届くようになっていたはずですが、その後、何か変化はありましたか?」
「うーん。真田美紀って記憶持ちの子がアイギスちゃんに接触したみたい。でも、直接影時間について教えた訳じゃなくて、無くした記憶を思い出して欲しいって濁す形で頼んだみたいねぇ」
「それは……どういう意図ですか?」
ソフィアたちも美紀の事は知っているし、彼女が記憶を保持したままだという事も把握している。
まだ桐条グループはEP社の傘下に入っているため、桐条武治から桐条側で記憶の保持に成功した者たちの名簿を受け取っており、EP社はその者らが特別課外活動部のメンバーに接触しないか監視しているのだ。
EP社やソフィアたちにとって何よりも優先すべきは湊の意思であり、彼が自分の事を思い出さないように願っていた以上、それを阻もうとする者はソフィアたちの敵である。
勿論、彼女たちの保護者であったり美紀のような近い立場にいる者を四六時中監視する事は難しく、彼女たちの周りの大人たちは基本的に湊の望みを優先している様子のため、警戒しているのは美紀や桐条グループの人間に限られる。
しかし、つい先日の美紀とアイギスの偶然の邂逅のように、どうして妨害が難しいタイミングというものもある。
あれでハッキリと湊や影時間の事を告げようとすれば、強引な手段を取ってでも意識を逸らして話を中断させようと思ったが、美紀自身も湊の想いを優先するべきか、大切だからこそ彼の事を思い出させるべきか悩んでいる様子だった。
それが分かったから監視任務に就いていた者も敢えて妨害せず、今の美紀の様子を報告してきたらしい。
残念な事にソフィアには美紀の複雑な心境が理解出来なかったようで、シャロンに解説を求めれば、相手は少し笑ってから簡単な事だと説明した。
「別に難しく考えなくてもいいわよぉ。美紀ちゃんも悩んでるってだけの話だから。坊やの望み通りアイギスちゃんたちが影時間の記憶を取り戻さず平和に暮らし続けて欲しい。でも、あの子たちのために戦ったのにこれでは坊やが可哀想。そんな感情の板挟みにあったからヒントだけ出したってところでしょうね」
「……別に同情される覚えはないでしょう。あの方は自ら最善だと思う選択をして行動したのです。それをそんな風に同情するなど侮辱に他なりません」
不快そうに表情を歪めたソフィアが吐き捨てるように言う。
それを見たシャロンはコーヒーカップに手を伸ばし、冷めきった中身を一口飲んでから苦笑気味に返す。
「これが本当にハッピーエンドだと思ってるのぉ? 選べる選択肢の中では最善だったかもしれないけど、“一人殺して助かるか、十人殺して助かるか、百人殺して助かるか”みたいな選択肢しかなかったとすれば、最善だろうとビターエンドが関の山じゃないかしら?」
全員が無事で影時間の戦いが終わっていたなら、それは誰もが認めるハッピーエンドで最高の結果だったと言えるだろう。
だが、湊が選んだこの結末は最高ではなく最善。選択肢の中で最も犠牲が少なく、自身を犠牲だと思っていない青年が選んだ事で結果的に“犠牲者無し”になっただけの結末だ。
彼にとってはそうであっても、他の者から見ればしっかりと犠牲者が出ている。
実際にソフィア自身も納得しきれていない事から、いくら最善の結果でもこれを手放しで喜んで良いとは言えないだろう。
シャロンのその指摘に少女は少しだけ考える素振りを見せると、小さく溜息を吐いて今後の方針を指示する。
「今後、真田美紀が同じような行動を取ろうとした場合には妨害するよう徹底してください」
「りょうかーい。ま、貴女が直接言えば聞いてくれると思うけどねぇ。同じ痛みを抱える者同士で気も合うだろうしぃ」
同じ年頃で彼がいなくなった事に悲しみを覚えている。それならば友人にもなれるのではとシャロンは笑う。
しかし、言われた少女は、彼の裏の顔を本当の意味で理解出来ていない者とは分かり合えないと思っている。
故に、これ以上美紀の話題を続けるつもりはないようで、相手の話を無視すると別の話題を出した。
「話は変わりますが月の方はどうなっていますか?」
「んー、特に何も変化はないわね。今もリアルタイムで監視してるけど、時々小さな星が落ちて新しいクレーターを作ってるくらいかしら?」
EP社の人間は月がニュクスの本体だった事を知っている。
湊はそのニュクスと決着をつけるために身体を取り戻したニュクスに挑み、地球を飛び出して宇宙で消息を絶った。
今も世界が続いている事からニュクスとの戦いは無事に終わり、ニュクスの魂は消滅したか封印されたのだろうと考えられている。
であるならば、残った神の身体である月は中身の無い抜け殻。あれを監視したところで意味があるかどうかは怪しいところだ。
けれど、チドリを蘇生させて死んだ湊は、蘇ってくる時に月から出てきたと話していた。
死後の世界の出口がその場所になるのなら、再び彼がこの世に戻ってくる可能性はある。
そう思ってソフィアはEP社の監視衛星を使って月をリアルタイムで監視していたが、そちらの報告を聞いていたシャロンが変化はないと答えた。
これまでも同じ回答を聞いていたため、ソフィアはシャロンのその言葉に特に落胆は見せない。
あくまで湊が帰還する可能性があるとすれば月からと予想しているだけなのだから、彼女自身もそれほど期待してはいないのだろう。
だが、そんな少女の様子を見ていたシャロンは、少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべると言葉を続けた。
「坊やが消えた日から小さな星の衝突以外に変化はなし。でも、それは表側の話」
「表側の……というと?」
ここはそもそもが表に出せない研究を行なっている機関だ。
そんな研究所の調査資料に表向きのものなど存在しない。
シャロンが何の話をしているのか分からずソフィアが続きを促せば、シャロンは机の上に詰まれた書類の中から一冊のファイルを取りだして、何も言わずにそれを少女に渡した。
受け取ったソフィアはまずは中身を見ろという事だと判断し、ファイルを開くと中には数枚の書類と共に何かの扉らしき物が写った写真が入っていた。
「これは扉でしょうか?」
「うちの研究員たちもそう認識してる。で、それがどこの写真か分かる?」
「話の流れからして月にあるのですか?」
この流れで見せてきたという事は、写真に写っている扉は月にあるのだろう。
しかし、これまでソフィアが見た月の映像にこんな物は一度も映っていなかった。
仮にそれが見えていたなら、世界中に無数にある観測所や研究所で話題になっているはずだ。
けれど、世界ではそんな事は欠片も話題になっておらず、シャロンの話からすると扉の存在に気付いているのはEP社だけのようだ。
「さっき表側の話って言ったでしょう? つまり、それは裏側で観測されたものなの」
「影時間に観測されたという事ですか?」
「そういう事。傘下に入れた後に桐条側から提供された過去の研究試作品とかあったじゃない。その中に一定範囲に影時間を展開出来る装置があったのよ。まぁ、発動やら出力が不安定だったんだけど、こっちは坊やのおかげでそういう改良のノウハウがあったからねぇ」
桐条が倒れた事で一時的に不安定になりかけたグループをEP社は傘下に収めた。
現在はEP社側が用意した人間がトップになっているが、桐条の後任として高寺をトップにした新体制への移行が進みつつあるため、数年後には正式に高寺を代表にEP社傘下から抜けて独力でやっていく計画になっている。
だが、傘下に入った以上は一方的な援助を受けるだけとはいかない。
そこで桐条側から提出されたのが、過去の影時間の研究データと関連の試作品の現物や設計図である。
ほとんどはラビリスが保管されていた元研究所に残っていた物で、そんな物で良いのならと桐条側も素直にそれらを渡してきた。
今回の扉の撮影で使われたのはその中の一つで、起動すると一定の範囲に影時間が展開するという黄昏の羽根を搭載した装置だ。
設計図や装置の稼働データのコピーなどもあったため、シャロンたちはそれらを改良して安定した状態で影時間を展開出来る装置を月に向けて発射した。
「装置の大きさと搭載した黄昏の羽根を使い捨てる関係で、直径五十メートルに三十秒の展開しか出来ないんだけどねぇ」
「兵器としてはそれで十分でしょうに。ですが、月の近くで展開した結果、この扉の存在が明らかになったのですね?」
「そういうこと。多分、こっちが影時間対応型の衛星だったから撮れたけど、普通の衛星や望遠鏡じゃ見えないと思うわぁ」
影時間が消えたはずの世界で影時間を展開出来れば、色々と犯罪に使う事は出来る。
しかし、今はそれよりも写真の扉の方が重要だと、ソフィアは鎖が巻き付いた金色の扉の写真を注意深く見つめる。
少女が写真に注目しているのを眺めているシャロンは、一緒に入っていた書類に書かれている内容を簡単に説明する。
「それが現われたのは間違いなく影時間消滅後。ニュクスの監視中には存在しなかった。正確な発生タイミングは分からないけど、何度か影時間展開装置を撃ち込んで今も存在している事が確認出来ているわ」
「これは封印の扉なのでしょうか?」
「外に出さない物か、それとも内に入れないための物か。そこら辺は現状では分からないわねぇ。けど、その扉の発見によって一つ分かった事があるわ」
扉が何かを防ぐ結界のようなものだと推測出来るが、それが外と内のどちらに向けられたものかは分からない。
ただ、その扉が存在し続けている事から、湊がまだ生きて何かをしている事だけはソフィアにも分かった。
「……湊様の戦いはまだ終わっていない、という事ですわね」
「だいせーかい!」
シャロンたちも同じ結論に到ったらしく楽しそうに正解だと告げる。
現実世界は平和になろうと、彼が影時間に残って戦っていると分かった事実は大きい。
ならば、今後はその救出や援護のために準備を進めるべきだと、やる気に満ちたソフィアは頭脳を回転させる。
ここへ来た時よりも随分と良い表情になり、それを見たシャロンが笑みを深めれば、彼女も自分の仕事をするべく席を立って職員らに指示を飛ばした。
補足説明
今話の途中に出てくる『影時間を限定範囲に展開する装置』は、P4Uのストーリーで公安の人間が作動させてしまっていた装置と同一の物です。