影時間――タルタロス頂上
ベルベットルームからタルタロスの頂上へと出た湊は、視界を埋め尽くす不出来なシャドウを見て口元を歪める。
視界いっぱいに身体が黒い靄で出来た輪郭のぼやけた四足歩行の獣らしきシャドウが溢れていた。
そんなにも死を求めたいのか。ニュクスの重圧を受けながらも、シャドウたちは奈落の塔を登りここを目指し続けている。
おかげで頂上はシャドウたちで埋め尽くされており、場所によってはシャドウが積み重なっていたり、他の個体に押されて塔から落ちていくものもいる。
しかし、そんなシャドウたちも触れれば死ぬと分かっているのか、頂上の縁に立つ青年のことは綺麗に避けていた。
あれに触れたところで救いなどない。新しい世界になど行くことは出来ない。
この星で生きる者たちがニュクスに触れれば、恐らくはほとんどの者たちがそのまま意識ごと消え去ってしまうだろう。
一部の者だけは魂の欠片が心の海へと辿り着いて、過去にこの世界にあった魂の記録として残る。
だが、それは滅びを求めた者たちが本当に望んでいた結末とは違うものだ。
なのに、この世界では幸せになれないと感じた彼らは、タカヤたちの言葉によって夢を見た。希望をそこに見出してしまった。
今までは半信半疑だったのかもしれないが、ニュクスの降臨する姿をみれば、今の世界が滅ぶのだと確信してしまっても無理はない。
物事の本質も、相手の性質もまるで見抜けぬまま、起きた事象の結末を都合良く捉える能力だけは一級品だ。
そんな妄想だけでこんな不安定なシャドウを具現化させたのだから、湊もその点だけはニュクス教の者たちを認めようと思った。
「……だが、あいつらは返して貰うぞ」
言いながら青年は“世界”のカードを具現化し、掌の上に現われたそれを握り砕く。
直後、蛍火色の温かな光が彼を中心に渦巻き頭上で収束する。
その中から白銀の天使が現われ翼を広げれば蛍火色の波動が全方位に向けて拡散し、頂上を埋め尽くしていたシャドウだけでなく、この場所を目指していた周辺のシャドウたちまで消滅した。
シャドウたちが消滅した事で、敵の群れに呑まれていた七歌たちも自由を取り戻す。
頂上の床に倒れていた彼女たちは敵が突然消えたことに驚きつつも、湊の姿を見つけると納得したように身体を起こそうとする。
だが、ニュクスの放つ重力波は健在だ。湊は平気な顔をして立っているが、これまでの戦闘で消耗していた彼女たちがこれに抵抗するのは難しい。
何とか起き上がって床に腰を下ろした状態になっているものの、立ち上がって歩くことなどは出来ないようだ。
そんな他の者たちの動きを見ていた湊は、もう一枚の“世界”のカードを具現化すると、地上を見下ろす赤い瞳を睨みながらカードを握り砕き神鏡を出現させる。
タルタロスの頂上よりもさらに上空、宙と空の境界に街を覆うほどに巨大なレンズのような物が現われた。
それは神クラスのペルソナである无窮が変じた神鏡。
神門であれば現世と常世を繋いでしまうが、神鏡であれば具現化させただけでは盾のようなものだ。
もっとも、街一つを覆うほどに巨大な盾など過去にも未来にも存在しないだろうが、おかげでニュクスの放つ重力波は遮断された。
ようやく身体の自由を取り戻し立ち上がった者たちに向けて、湊はマフラーを変化させたコートから回復アイテムの宝玉輪を取り出して使用する。
宝玉輪から弾けた白い光はメンバーたちに飛んでいき。これまでの戦闘で負った傷を治療し、体力も僅かにだが回復させた。
疲労困憊状態から回復出来た者たちは、シャドウの群れに呑まれて何も出来なかった負い目があるからか、申し訳なさそうな表情で湊の許に集まってくる。
「すまない、八雲。我々ではあれに挑むことすら出来なかった……」
集まってくると最初に美鶴が謝罪してきた。
彼女たちもニュクスに挑もうとはしたのだろう。何とかペルソナを使って戦って、ニュクスを倒して平和を取り戻そうと思った。
だが、現実はそうならなかった。ニュクスに挑む前に重力波に沈み、集まってきたシャドウの群れに呑まれてどうすることも出来なかった。
シャドウたちを消し飛ばし、ニュクスの放つ重力波を完全に遮断して貰えたから立てているが、もし湊が来なければ今もシャドウの群れに呑まれたまま滅びの時を迎えていたかもしれない。
自分たちも一緒に戦うと言っておきながら、結局はこうやって彼に助けて貰ってしまった。
その悔しさと申し訳なさから美鶴が表情を歪めれば、湊は気にした様子もなく薄い笑みを浮かべた。
「気にしなくて良い。あれは最初から俺しか相手が出来ないと分かっていた。ペルソナの大元だからな。ニュクス由来のペルソナじゃ勝てない」
「なら、有里君の力ならあれとも戦えるって事?」
「……まぁな」
ゆかりの質問に頷いて返すと、他の者たちは自分たちでは彼の助けになれないと分かって表情を曇らせた。
ニュクスと戦えないのは別に他の者たちの責任ではない。単純に相性の問題だ。
ニュクスがバケツに入った水で、他の者たちのペルソナもそこから溢れた水の粒だと考えれば分かり易い。
ペルソナという水の粒をバケツの水にぶつけても、多少水面を揺らして取り込まれてしまうだけ。最初から勝負出来る土俵に上がれていないのだ。
一方、湊は異界の神であるベアトリーチェと魂ごと融合しているため、その力はベアトリーチェ由来の物に置き換わっている。
ニュクスのバケツの水にベアトリーチェの土をぶつける。これならばお互いに影響を受けずにはいられない。
だから、最初からこれは自分の役目だったのだと湊がそういって説明すれば、他の者たちも悔しそうにしながらも納得してくれた。
「さて……じゃあ、そろそろあれと戦いに行くとするか」
敵の力を遮断するために展開した神鏡越しに見える赤い瞳。湊はそれを見ながら時間だと言って敵の許へ向かおうとする。
頂上にいたシャドウたちを排除後、ずっと頭上で待機していたセイヴァーは呼び出してから力を溜めていた。
真の姿を解放していないにもかかわらず、セイヴァーの翼からは蛍火色の燐光が溢れている。
ただ宙に浮かんでいるだけだというのに、思わず気圧されそうになるその姿が他の者らの瞳には頼もしく映った。
「湊……きみは……」
「………………だめ」
だが、頂上の縁に近い場所にいた湊が中央へと歩き出したタイミングで、これまで俯いていた綾時が涙を流しながら青年の名を呼び。ほぼ同時に七歌も湊を呼び止める。
一体どうしたというのか。ニュクスと戦えるのは湊だけだ。
あとは彼に託すしかないというのに、どうして彼を止めようとするのか。
他の者たちは困惑し、様子がおかしい二人を心配して風花が声をかける。
「綾時君? 七歌ちゃん?」
「ダメ、八雲君!! 絶対に行っちゃダメ!!」
風花に呼ばれても七歌は何も返さず、頂上の中央に辿り着いた湊に向かって駆け出す。
「……悪いがそれは聞けない」
けれど、七歌が辿り着く前に湊は薄い笑みを浮かべて、セイヴァーと共にゆっくりと空へと昇ってゆく。
白銀の天使と共に、死を司る神の許へと向かう。
今の彼の状態を表わした言葉を意識した時、他の者たちも言いようのない悪寒を覚えた。
そして、七歌が何故彼を止めようとしたのか。その意味を無意識のうちに察した。
「待て、八雲! 君は何をするつもりだ!?」
「有里君、ちゃんと説明してよ!」
「お願いします。戻ってきてください!」
美鶴、ゆかり、風花が湊に呼びかけるが彼は止まらない。
しっかりとニュクスを見つめたまま空へと上がり続ける。
言葉だけではどうしようもない。そう思って真田が召喚器の引き金を引くも、気力が僅かに回復したというのにペルソナが呼び出せない。
「クソっ、おい待て。有里!!」
「有里っ、テメェまたこいつらを残して行くつもりか!?」
真田と同じようにペルソナを呼び出そうとした荒垣だったが、彼もまたペルソナを呼び出すことが出来なかった。
彼らは気付いていないが、湊はシャドウに呑まれた仲間たちを助ける際に命の波動を拡散させていた。
さらに、彼らが湊と話している間もセイヴァーは命の光を僅かに放出しながら待機していたのだ。
攻撃として放出した光線を数瞬浴びただけならともかく、原液とでも言える状態の光や波動を至近距離で浴びてしまえば、しばらくは死を意識出来なくなっても無理はない。
「アカン、湊君っ!!」
「ワンワン!」
ラビリスが何とか戦斧の推進器を使えないかと確かめながら彼を呼び、コロマルも声の限りに呼びかける。
彼女たちは湊と一緒に暮らしていた家族だ。他の者たちよりも彼に対する想いは強い。
ただ、だからこそ、彼女たちは湊がこんな事では考えを変えないとも分かっていた。
「待てって言ってんだろ! 行くならオレも連れてけ!」
「有里先輩、待ってくださいっ」
共に暮らして家族でダメならどうすればいいのか。順平は戦力として自分も連れて行くように叫んだ。
別に深く考えて言ったわけではない。こんな状況で頭を使えるほど彼は器用じゃない。
この一年で色々とあったが、順平は湊の事も大切な仲間だと思っているのだ。
だからこそ、仲間がたった独りで敵の許へと向かおうとすれば、盾としてでも良いから自分も連れて行けと口から出ていた。
その隣で湊を呼び止める天田は、十月の満月の影時間が明けた後の光景を思い出してしまっていた。
尊敬する先輩が、大切な仲間たちが、湊の死に涙を流していたあの光景を。
もう二度とあんな光景は見たくない。自分だって彼に死んで欲しくない。
だから、天田は必死に声を出して、小さくなってゆく彼の背に向かって呼びかけ続けた。
「八雲! 貴方もこの世界に居て良いの! お願い、戻ってきて!!」
「八雲さん、待って! お願いします! 戻ってきてください!」
そして、彼にとって最も大切な少女たちも湊を何とか呼び止めようとした。
分かっていた。他に手段が無ければ彼はこういう事を平気でする人間だと。
だが、もしかすれば、自分たちが呼びかければ一時的にでも止まってくれるのはないかと期待した。
結果から言えばその期待は裏切られた。振り返る事なくニュクスへと向かって行く湊は、タルタロスの頂上よりも遙か上空に展開した神鏡に辿り着こうとしている。
この距離ではもう声も届かない。それでも、彼女たちは涙を流しながら空に手を伸ばし続けた。
***
タルタロスの頂上とニュクスの中間地点に展開した神鏡に辿り着いた湊は、自分を止めようと仲間たちが必死に呼びかけてきた事に苦笑していた。
「……本当に、馬鹿なやつらだな。どうせ俺の事なんて忘れるってのに」
影時間の戦いが終わればペルソナ使いだろうと影時間に関する記憶を忘れてしまう。
影時間側の存在であるシャドウよりも適性が高い湊も、当然のようにそちら側の存在に含まれ皆の記憶から忘れ去られてしまうのだ。
どうせ忘れるというのに、そんな存在のために彼女たちは必死になってくれた。
湊一人が犠牲になれば世界は救われる。彼女たちが求めた平和な日常へと戻れる。
それを分かっていながら彼女たちは本気で湊を止めようとしていた。止めたところでその先には滅びしか待っていないというのに。
神鏡に辿り着いた湊は浮かべていた笑みを消し、徐々にセイヴァーの力を解放しながら呟く。
「だが、だからこそ俺は自分の選択が間違っていないと確信が持てる」
死後の世界で両親やイリスと会って、贖罪のためではなく自分が何のために何をして生きたいのかを考える機会を得た。
そして、他の者たちがニュクスと戦うと決めた年末から、湊は一人でずっとニュクスに勝つ方法を考えた。
どうしてニュクスに勝ちたいと思ったのか。そんな物は簡単だ。
死なせたくない。生きていて欲しい者がこの世界には大勢いるから。
ニュクスに勝つ方法を考えている途中でそれに気付き、そこからニュクスを倒さずに勝つ方法を思い付けば、マーガレットとの契約にあった“命のこたえ”に辿り着くのも速かった。
“未練はある。だから、後悔はない”
ただそれだけ。たったそれだけの事だが、湊のこれまで生きた証であり命を懸けるに十分な理由だ。
セイヴァーの力の解放に合わせて青年の持つ金色の瞳に変化が起きて虹の輝きが宿る。金色の上に極彩色に変化する光が乗ったかのような不思議な瞳。
魔眼でもなく、ベアトリーチェの力の発現で目覚める銀眼でも無い、彼自身の新たな輝きを宿す金色の瞳。
その瞳で未だ宙にいるニュクスを見ながら、湊は覚醒したセイヴァーの翼を広げてペルソナに持たせた銃の狙いを定める。
敵はこの星の命全てに力を分け与えた神だ。いくら“七熾天”を持った湊にエネルギー切れが存在しないと言っても、その身体は人と星で規格からして異なり、一度に出せる火力差で押し切られては勝ち目が無い。
そのため、湊はまず火力勝負で負けないように神クラスのペルソナ二体を使った戦闘の準備を進めていた。
相手はまだ自分の力を知らない。死後の世界での一戦はただ現世に復帰しようとする湊を相手が妨害しようとし、それを力尽くで振り払っただけの事なので戦いですら無い。
故に、いくら湊が敵の攻撃を防いでいようが、目覚めたニュクスにとって彼はまだ敵ですら無い存在だ。
存在の格が異なるからこその油断。その隙を突かせて貰うぞと青年は嗤いながら世界に呼びかけた。
《この滅びは人類の総意だとある者は言った。死を意識し、死を求め、死を知りたいという無自覚な心が集まり、その呼び声を聞き届けた神ニュクスによって世界は滅びようとしている。おめでとう。君たちの願い通りに世界は滅びに向かっている》
湊はペルソナの通信機能を使って、この現状はお前たち人類が招いた事だと改めて認識させる。
別に誰が悪いわけでもなく、人々が当たり前の日常を送っていて辿り着いてしまった事態。
それを責めるのはおかしいと言われようとも、死を理解していた湊はニュクスを呼んだ人類の中には含まれていない。
だから、皮肉を込めてこれがお前たちの望み通りの結末だと彼は言った。
すると、自分たちを救ってくれるはずの存在の言葉に、世界中から動揺する気配が返ってくる。
ニュクス教やそれに感化された者たちは、湊も諦めたと思ったのか喜んでいるようだが、本題はここからだと青年は言葉を続けた。
《……俺はお前たち人類が嫌いだ。求めるばかり、頼るばかりで、どこまでも強欲に都合良く人を利用しようとしてくる。そんなお前たちの事がずっと嫌いだった。だから、これは復讐だ。俺を都合良く利用してきたお前たちへ贈る復讐。死を求めるお前たちに、俺は“生きろ”と命じよう》
言って青年が不敵に笑えば、セイヴァーの構えた銃口に光が集まり始める。
黒いバイザーの奥に輝く七つの瞳、街を覆うほど巨大な神鏡とそう変わらぬ三十六対の巨大な光翼、頭上に輝く虹色の光輪、セイヴァーは既に覚醒を済ませている。
白銀の鎧を着た天使を見ていた者たちは、変化した天使の姿を見て何が始まるのかという不安が広がっていた。
オープンチャンネル状態で通信を繋いでいるため、相手からの声は届かないが感情だけは伝わってくる。
このような状況で少しそれを面白く感じた青年も、準備を終えると表情から笑みを消して真っ直ぐニュクスを見つめた。
《たかだか数十億、有象無象が集まった程度で粋がるな。人類が滅びを求めるというのなら、俺という個の意志でそれを阻もう。数多の予言にて記された人類史の敗北、その光景を記憶せよ!!》
直後、セイヴァーの持つ銃からタルタロスよりも巨大な光の柱が顕現し、神鏡に触れたそれがさらにワイドレンジに拡散されながらニュクスへと迫る。
敵の重力波を押し退けながら進む蛍火色の光は、空の境界を越えて宙に到達し、ついにニュクスへと直撃した。
神鏡によって拡散した光は、地上からはまるで空に咲いた巨大な花のように見える。
空に咲く巨大な花と宙に浮かぶ巨大な瞳、その衝突はどのような結果を生むのか。人々は祈るようにしてその結末を見守った。