7月22日(金)
午後――桔梗組本部
ホテルの地下での戦いから一夜明け、桔梗組の本部には大人たちが集まっていた。
湊は未だ目を覚まさず、チドリは湊の身を案じていたが学校へ行くように言われ、命に別条がない事を説明されると渋々登校して行った。
そして、その間に湊に関わりペルソナを知る者らを呼び出し、イリスの口から昨夜の顛末を話された。
組の談合にも使われる広い一室。いまそこにいるのは、この家に住む大人と栗原・五代・ロゼッタたち三人に、昨夜ここに泊まったイリスと力の管理者三人を加えた合計十名だ。
縦長のテーブルの上座に鵜飼が座り。鵜飼から見て右側、近い方から順に渡瀬・桜・ロゼッタ・五代が座っている。その反対には鵜飼に近い方から、テオドア・マーガレット・エリザベス・イリスが座り。下座に栗原が座っている。
イリスから彼女があの場を去るまでの話を聞き終えると、鵜飼が並んで座っている力の管理者たちに視線を送り、静かに口を開く。
「それで、今朝からニュースでやっていたホテル駐車場の崩落事故は、お前さんらと坊主がやりあったからってことかい?」
「正確に申せば、八雲様の呼びだそうとしたペルソナ……仮に蛇神と呼びますが、その顕現を阻止した為です。イリス様なら想像が付き易いかと思いますが、蛇神は頭部だけであの通路を埋め尽くす大きさでした。頭部でそれですと、全長がどれだけになるか及びもつきません」
マーガレットの言葉にイリスは目を大きく開いて絶句した。
正確な広さは分からないが、感覚としてコンビニがまるごと一つ納まるだけの広さは優にあったと思える。
頭部がその大きさならば、例えツチノコのような体型であっても全長は五十メートルでは済まないだろう。
直線距離で考えれば、地下駐車場の全て使えばそれだけの距離を稼げるだろうが、通路を埋め尽くす巨体が動けば周囲は火の海になっていたやもしれない。
それを、崩壊させたとはいえ、顕現を防いで被害を駐車場だけにとどめた事は、十分に称賛されるべき成果であった。
しかし、この中では唯一ペルソナに関する詳しい知識を有している栗原が、力の管理者に対し不可解に思った事を怪訝そうに尋ね返す。
「ちょっと待っとくれ。ペルソナの召喚には精神の安定が関係している。イリスさんやあんたたちの話を聞く限りじゃ、湊は人としての思考すら持っていなかったはずだ。それで召喚は無理があるんじゃないか?」
「何事にも例外が存在する、というのが答えになるかと」
湊は意識があれば暴走の有無を問わず召喚できる。薄っすらと笑いながら、マーガレットは栗原にそう返した。
ペルソナに関する知識は持っているが、確かに湊はチドリなど一般的なペルソナ使いとは異なっている。
ならば、相手の言う通り、精神状態は召喚になんの影響も及ぼさないのかもしれない。
栗原は話を進めるため、全てに納得は出来ずとも収めておこうとそれ以上の質問を控えた。
「それで、みーくんは起きても大丈夫なんですか? また、ファルロス君に蘇生して貰ったんですよね? 今までは、蘇生された後に戦ってなかったんですけど、今回はいっぱい戦ったみたいですし」
意識の戻らぬ湊の身を案じ、悲痛さと不安を表情に浮かべて桜は尋ねる。
彼女がファルロスの存在を知っているのは、湊の身体を使ってファルロスが名乗ったためで、その正体については、直接聞いた桜から他の者にも説明がなされたのでチドリ以外の全員が知っている。
力の管理者らには、昨日の夜に初めて会ったので話していないが、今までに湊が何度も名を口にしていたので、当然知っているという前提で話した。
すると、今度は長女に代わり、置かれた湯呑みに口をつけていたエリザベスが質問に答える。
「いいえ、八雲様は今回死んでおりません。死ぬ直前に意識を内なる獣に呑まれたため、ファルロス様の再生力を行使しながら、あの武術家の方と交戦に入られましたので」
「内なる獣?」
「分かり易く言えば、ナギリの血の業にして怨霊。八雲様の抱える殺人衝動の一因でもあります。八雲様はファルロス様に加えて黄昏の羽根を内蔵したことにより、シャドウに近い性質を有しておりますので、月が満ちるにつれ抑制が効き辛くなるのです」
分かり易くと言いながら、暴走が月の満ち欠けと関係していることしか、聞いている者は理解出来なかった。
そもそも、湊が殺人衝動を抱えていることすら初耳だ。
今まで一緒に過ごしてきたというのに、保護者にすら打ち明けていなかったことについて、渡瀬を除く一般人側の全員が深いため息を吐く。
一同が同じ反応を見せたことで、エリザベスは湊が話していなかったと気付いたようで、フフッ、と小さく笑みを漏らした。
「その様子ですと、どうやらご存じなかったようでございますね。実際は殺人衝動ではないのですが、今はご本人がそう勘違いされておりますので、同じように呼ばせていただきます。いつから、ということでしたら、五年ほど前に研究機関で殺戮の限りを尽くしてからになります」
「初めて人を殺した、っていうのがトリガーじゃなさそうだ。殺すために変質したという方が正しいかな?」
「ええ、概ねその通りでございます」
五代の予想は見事に当たった。
といっても、過去の湊は知らないが、普段からチドリに気を配っていることから、根は優しい少年だと思っていたため。その少年が殺人衝動を得る順路を考えたとき、殺したから変わったよりも、変わったから殺せるようになった、と考えた方が納得出来たのでそれを口にしただけだ。
初めて一緒に依頼の下見へ行ったとき、最初に人を殺したときにどう思ったか本人に尋ねたことのあるイリスも、当時の会話を思い出し、五代と同じことを考えていた。
そして、エリザベスがそれを肯定すると、そんな物を抱える事になった少年に同情してしまう。
ポートアイランドインパクトに巻き込まれていなければ、あの場でペルソナに覚醒していなければ、桐条が被害者の少年を研究しようとしなければ。そんな風に、過ぎてしまったことだが、やはり、あの事故から湊の人生は大きく狂わされたのだと実感した。
目の前のテーブルに置かれた湯呑みを見つめながら、少年のことを考えイリスは尋ねる。
「……アイツの眼。アレはいつからだ?」
「元々、そういった素質を持った肉体だったこともありますが、あの魔眼は、シャドウの王との戦いで死にかけ、身体の内に死を宿したことで得た力です。半年ほど意識不明のままでしたが、さらに一月ほど経った日に八雲様を庇ってチドリ様が怪我を負いました。そのとき、敵を殺そうとして魔眼の力を自覚されたようです」
「え? ちーちゃんがみーくんを庇ったんですか?」
そんな話は子どもたちから聞いていない。
出会った当初から湊の強さを知っているだけに、桜はチドリが彼を庇ったということが想像出来ず聞き返した。
すると、その質問には湊の事情を飛騨から直接聞いていた栗原が答える。
「湊が身体をいじる切っ掛けになった事故さ。半年も昏睡してたんだ。点滴やマッサージだけじゃ、普通に日常生活を送ることも出来ないほど衰えてもおかしくない。それを二週間で自立して歩けるようになっただけでも異常だ。まぁ、流石にタルタロスの探索は無茶だったみたいだけどね」
「じゃあ、みーくんがちーちゃんを守っているのって……」
もしも、湊が罪の意識や責任感だけでチドリを守っていたのなら、二人を見てきた保護者としてはとても悲しいと思った。
二人はお互いを想い合っているようだが、それは家族や異性というのとはどこか違っていると感じていた。
湊の方がそれは顕著だが、残念ながら湊は自分のことをほとんど話さない。
チドリはいくらか雑談にも付き合うので、淡い想いを抱いていることも感じられるのだが、湊の守る理由がそういったことなら成就されることは難しい。
さらに言うなら、聞いたチドリは深く傷つき湊に心を閉ざすかもしれない。自分が大切に想う相手の枷になるなど、誰が受け入れるだろうか。
そんな物になるくらいなら、自分はこの家を出ていくとまで言い出すかもしれない。
チドリがいないときを狙って一度しっかりと話し合うべきか、暗い表情で桜が悩んでいると、下座に座っていた栗原が声をかけた。
「罪の意識や贖罪の部分はあるのかもしれない。だけど、研究所で二人の面倒を見てたやつが言ってたが、その事故は決意の切っ掛けでしかないよ。あの子は自分の意思でチドリを守ってる。そもそも、あの子が変わったのは脱走後だ。決意の方が先なんだから、心配する事はないよ」
「あ……そう、ですよね。みーくんはちゃんと人の痛みが分かる、優しい子ですから」
栗原の言葉で桜に笑顔が戻る。
自分の見ていた湊が嘘だとは思えない。そこには確かに想いがあったし、二人だけの絆も確かに存在した。
だから、自分はちゃんと子どもたちを見ていてやればいい。困ったときに手助けをして、自分では駄目なときは、他の者を頼るように助言をすればいい。
そんな風に決意を改めると、桜は顔をあげて引き締めた表情でエリザベスに尋ねた。
「あの、みーくんの名前なんですが、ヤクモというのが本当の名前なんですか? それとナギリとは一体?」
「……あの方の本来の名は“
『っ!?』
エリザベスが二つのカードをテーブルの上に置いて見せる。そこには“百鬼八雲”の名で結ばれた、第一と第三の契約の内容が書かれていた。
湊がエリザベスとマーガレットと結んだ第二と第四の契約は、湊がアルファベットで署名していたが、こちらは口頭で契約したため、湊の本来の名前表記で自動記入されたらしい。
明かされた湊の本名を見たとき、桜と栗原以外の全員が少なからず驚きを見せる。
両者は何をそんなに驚いているのか不思議そうにしながら、話の続きを聞いた。
「家柄については、他の皆さまの方がお詳しいかと。私たちは八雲様のこと以外はあまり知りませんから。その様子ですと、皆さまそれなりにお詳しいと思って良いようですね?」
カードを手元に戻して仕舞い、エリザベスが涼しげな表情で他の動揺している者を見渡した。
その姉と弟は、表情を崩さずに視線を他の者に送っているので、エリザベス同様、他の者から説明させる気のようだ。
そして、皆が何やら難しい表情で考え込んでいると、自身を落ち着かせるように深く息を吐いた五代が口を開く。
「ナギリは名を切る一族。つまり、家系や組織を断絶させる殺しの一族だ。その強さや残忍さから、人々から鬼と呼ばれてね。一騎当千って訳じゃないけど、鬼の集団ってのと掛けて、苗字に存在した
「殺しの一族って、今のみーくんみたいに依頼を受けていたんですか?」
「いいや。鬼は龍を守っていたんだ。旧家として今も存続している“九頭龍”家の命令でしか、百鬼は動かせない。昔の権力者はこぞって百鬼を欲したようだけど、その鬼が龍を守っていたから手を出せなかったらしいよ」
先ほど驚いていた者は誰一人否定しない。その反応が、五代の言葉が真実であることを証明していた。
しかし、そことは別の部分で気になったことがあるのだろう。イリスがテーブルに肘を突いて向き直ると、五代に質問をぶつけた。
「なぁ、昨日、そっちの……エリザベスだったか? が、言ってたんだが、龍の御伽草子って知ってるか?」
「龍の……もしかして、九頭龍の出自についてのことかい? 九頭龍家は龍から生まれたっていう伝説なんだけど」
『龍から?』
少々考え込む様子を見せた五代が再び言葉を紡ぐと、それを聞いたイリスだけでなく、ロゼッタもどういうことだと怪訝そうにしている。
その反応も当然で、龍はそもそも架空の生物である。自然の象徴化により人々が勝手に想像から生み出した存在だ。
似たような話しで、世界各国にルーツに神を持つ一族や王家も数多あるが、龍から生まれた一族というのは珍しい部類に入るだろう。
一体それはどういった内容なのか。気になった他の者は、静かに注視して話を聞くことにすると、五代はゆっくりと語り出した。
その昔、
人の姿になることも出来るその龍が、あるとき一人の青年を愛し、二人の間に出来た子どもを地上のとある里で出産した。
生まれたのは光を纏ったとても美しい女の子。神に愛され導き手として人々を救う存在となる者だ。
だが、人間の中には悪意を持った者もいる。女の子のような存在が許せないと、亡き者にしようとする者が現れるのは分かりきっていた。
それ故、豊玉姫命は女の子が生まれて直ぐに、里近くの裏山の土から人型を作り。神力を用いて命を吹き込んだ。
命を吹きこまれ、意思を持った人型に豊玉姫命は言う。
――娘とその子孫を守れ。お前は人ではないが、目指し続ければいつか本当の人間になることができるやもしれぬ。だが、娘とその子孫である龍の一族を守り続けなければ、お前は元の土くれに戻るだろう。故に、お前とその一族は完全なるモノを目指しながら龍を守り続けなければならぬ――
言葉を聞き届けた人型は龍を守り、龍のために生きる一族となった。
龍の子は人々を導き国に繁栄を齎し、その裏で人型がより優れた者と交配し、人になることを夢見ながら龍の憂いを払う。
いつしか人型は鬼と呼ばれるようになったが、いつの日か人になれることを願い完全なるモノを目指しながら鬼は龍を守り続け。
そうして、己の治世により安寧の訪れた世で、龍たちは末永く幸せに暮らしたという。
五代が話し終えると、場には沈黙が下りて他の者は考え込む様子を見せる。
龍であり神でもあった豊玉姫命は、いくつか逸話が残っているが、それは鶴の恩返しのような“禁室型”や“見るなのタブー”と呼ばれるタイプのストーリーばかりだ。
無論、地域ごとに内容に違いやアレンジが加えられていることもあるが、九頭龍と百鬼のルーツの話だけは根本的に内容が違っている。
子を守るために土に命を与えるなど、全く別の権能であり、豊玉姫命の話とそもそもが繋がらない。
しかし、そんな不思議な祖先の逸話を持った九頭龍家は今も存在している。事の真相は何にせよ、そういった話として受け止めるしか無かった。
「さて、いま話したことで分かったと思うけど、百鬼のルーツは土から生まれた人型だ。まさか、本当に土からできたとは思わないけど、完全なるモノを目指すって部分は現実に行われたようだよ」
そこまで言って、五代は置かれた湯呑みに手を伸ばし、熱いお茶をすすって一息つく。
と、そこにロゼッタが内に湧いた疑問を困惑気味な表情のままぶつけた。
「その、“完全なるモノ”ってどういうこと? 小狼くんは既に人間だし、十分に他者より優れているわ。むしろ、九頭龍よりも上だと思うのだけど、どうして反乱を起こしたりしなかったのかしら?」
彼女の疑問は当然である。何代にも亘って優れた頭脳や肉体を持っていた者を掛け合わし、生まれた時点から
五感の鋭さは愚か、細胞の一つをとっても種として異なっている。
そんな超人の一族が、優れた才を持っているとはいえ、人類の枠組み内に存在する劣った者らに仕える。どう考えても立場は逆であるべきだと思った。
ロゼッタが問いかけ五代を見つめている。すると、今度は別の方向から答えが齎された。
「そりゃ、鬼は龍に危害を加えることが出来ねぇことになってるらしいからな。よく分からねえが、“そういう風”になってんだとさ」
「そういう風……暗示で逆らえないようにするとか、それに近い処置を受けていたってことですか?」
「詳しいことは知らねえよ。ただ、聞いた話では、鬼はどうやっても龍に手を上げることはできなかったそうだ。ま、昔話が本当なら、龍の神様が呪印でも刻んだんだろうさ」
不明な点は残るが、言われて成程と納得がいった。
どういった手段を使ったのかは分からないが、最初から反乱を起こされる心配がないのなら、龍は躊躇いなく鬼を使役出来ただろう。
今よりも身分に厳しかった時代なら尚のこと、大きな戦は本分ではないが、鬼と畏怖された者どもを戦に投入すれば、味方は鼓舞され、敵の士気は落ちる。
それによって、龍は自分たちの懐を一切傷めずに恩を売り、高い地位にあり続ける事が出来たという訳だ。
「あの……」
話が一段落したところで、桜が控えめに声を発した。
ここまで五代や鵜飼の話を聞いて、湊とそれに関わる一族のことは分かった。
しかし、まだ根本的な謎が残っている。それはエリザベスの語った“血の業”と“怨霊”とやらの話だ。
今までの話では、その部分に触れていない。むしろ、情報屋である五代も知らない様子だ。
ならば、知っている者に尋ねるしかない。桜は力の管理者たちに視線を向けた。
「みーくんの暴走の原因を教えてください。百鬼の血の業ってなんですか? 怨霊って、みーくんに取り憑いているんですか?」
尋ねながら真っ直ぐ見つめる瞳には力が宿っている。
子どもの事を心配し、その原因を取り除けるなら取り除いてやりたい。
相手の目を見ていると、そんな想いがひしひしと伝わってきた。
それを見てエリザベスは自分が話すべきか姉と視線を交わす。相手が頷いたことで桜の方へ身体ごと向き直すと、表情を消して緊張感を漂わせながら話しだした。
「八雲様の一族は細胞一つとっても異なっています。ですが、血は別の意味で特殊でして、八雲様を血液検査すれば一体どの生物の血だと医者は首を傾げるでしょう。これは何代にも亘って優れた遺伝子を取り入れたことにより、純粋な意味でホモ・サピエンス・サピエンスでは分類上なくなっていることを示しています」
「現代人類と別の種族? では、彼らには学名が別に存在するんですか?」
「いえ、これも百鬼の特性なのですが、百鬼は戦いの中や極限状態に置くことで肉体が真に活動を始めます。細胞や血の質に変化が起こるのもそれからなので、日常生活しか行っていない百鬼は常人よりヘモグロビンが多い程度の違いしかございません」
その証拠として、力の管理者たちは湊の母親が湊を普通の病院で出産し、さらに血液検査を受けさせていることを知っている。
母親と子ども、どちらも百鬼の直系ではあるが、検査結果は酸素の供給が常人よりも為され易いため、運動に向いている性質があるくらいのものだった。
もっとも、どうやって過去を調べたのか訊かれると面倒なので、その部分については聞かれない限り教えたりはしないが、相手は今の説明だけで信じているようだった。
「特殊な血ですが、成分と濃度以外にも異なった部分がございます。それは血に記憶や経験が宿っているということ。つまり、血を介して直系の先祖の情報を己の物としてフィードバックできるという訳でございます」
「……は? 血からフィードバックってどうやってだよ? シナプスやニューロンでも混じってるっていうのか?」
「さぁ? 私たちは医者や学者ではありませんから、八雲様がそういった血を持っているということしか知りません。ですが、その先祖の記憶や経験に強い影響を受け、一時的に自我を侵食されたことで暴走は引き起こされました。これが百鬼の怨霊の正体です」
再び“そういう物だから”という言葉で説明が終わってしまった。
実際は細胞記憶や記憶転移が起こっているのかもしれないが、確かに、エリザベスらはどう見ても医学や生物学には精通しているようには見えぬ風貌をしている。そもそも、純粋な人間であるかどうかも怪しい。
一応、湊を救うために現れたので信用もされているが、街中で出会っても余りお近づきにはなりたくない部類の印象だ。
長女らしい女性は比較的人間らしさも持ち合わせているが、他の二人は異質さの方が上回る。
初めに尋ねた桜が何も聞き返さないのであれば、自分もこれ以上は訊かないでおこうと、イリスは深く息を吐いて肩の力を抜いた。
――???
深い深い闇の中を湊は漂っていた。
闇以外は何もない空間で、何かの気配が近付いてくる。
《八雲、八雲……》
薄れていた過去の記憶の中に存在する母の声。
だが、不思議と懐かしさは全く感じなかった。
闇以外は見えない。しかし、何かの気配が近付いてくることは分かる。
声は確かに母のものだが、近付いてくる気配は母だけではないように感じた。
近付いてきた気配は年老いた男の声で云う。
《遂に為った。我らが悲願、完全なるモノよ》
完全なるモノ、その意味は分からない。我らというのが、誰の事をさしているのかも分からない。
しかし、男の声が聞こえると、気配は背後に移動して若い女の声で話しかけてくる。
《お前を千年以上も待っていた。嗚呼、素晴らしい完全なるモノよ》
自分はそんなものではない。耳慣れぬ言葉に苛立ちが募る。
けれど、振り返ったところで気配は自身の右側に移動し、先の戦いで潰れた肘の関節に触れてきた。
《私の可愛い八雲。お母さんが守ってあげる。あなたを傷付けるモノから、あなたがこれ以上自分の手を汚さなくていい様に》
気配はしっかりと触れて、母の声で語りかけてくる。
だが、感触はあるものの体温を一切感じない。ペルソナでもまだ人肌の温かさか、ひんやりとした冷たさを感じさせるというのに。
そこで湊は気付いた。この気配は自分の母親そのものではないと。
全身に力を入れて意識をより高いレベルに引き上げる。ここは自分の中だ。ファルロスがいないということは、また別の意識領域なのだろう。
それでも覚醒してしまえば、こんな訳の分からない気配に苛立ちを感じる必要もなくなる。
《八雲、どこへ行くの? お母さんが代わりにやってあげるから、あなたは眠っていて良いのよ?》
「俺は自分の意思で動いてる。お前らみたいな訳の分からない奴らに代わってもらう必要はない」
《何故拒むの? 私は、私たちはあなたの一部なのよ? 百鬼の血はあなたにも流れてる。血の記憶を受けいれて。そうすれば、あなたは人を超えられる》
「目障りだ。消え失せろ!」
蒼い瞳を開き、相手の手を振り払うと、解放された腕を薙いで気配を霧散させた。
悲しみと怨嗟の声が耳に届くが、そんなものは殺しの依頼で慣れている。
そして、もうここには用はないため、水面へ浮上して行くように意識を浮かび上がらせてゆき、目を覚まそうとする。
しかし、目が覚める直前、
《オマエハ、逃ゲラレナイ》
鬼の仮面を頭に付け、肩にかかる茜色の髪をした隻腕の女に凄まじい力で足を掴まれた。
瑠璃色の瞳の下には頬にかけて紫の模様が描かれ、袖のない服はどこかの民族や部族の物のようだ。
そんなことを把握しながら、湊は自由のきく足で女の綺麗な顔を踏みつけ、掴まれていた足から手を解かせると意識を現実へ戻していった。
***
夢から覚めた湊は、自分の部屋のベッドで全身に汗を掻いた状態で起床した。
服装はTシャツにハーフパンツのジャージというラフな姿。
時計に目をやると時刻は午後三時になるところで、誰がマフラーから取り出したのか、枕元にあったプライベート用の携帯にはメールの着信を告げるランプが点滅し、部員と担任の名前が送信者の欄に表示されていた。
内容は体調不良の自分を心配するものばかり。佐久間に至っては看病しに行こうかと尋ねてきている。
しかし、仕事をほっぽり出してこられても迷惑だ。何より、家には桜がいる。
看病してくれる保護者がちゃんといるというのに、担任がわざわざやってくる意味などまるでなかった。
「……馬鹿か」
呆れたように小さく呟き、全員に夏の暑さで少しやられただけだと返信しておいた。
そうして、ベッドから出ると、どことなく違和感を覚えながら自室を出た。
***
家の中を歩いていると、リビングには誰もおらず、別の部屋から大勢の人間の気配を感じた。
ペルソナは使っていない。それでも、隠れていない人間の気配を感知することくらいはできる。
そして、部屋の前まで行き襖を開けると、総勢十人の大人たちの視線が現れた湊に集中する。
その中に、本来ここにはいないはずの者の姿を確認した湊は、他の者が声をかけてくる前に口を開いた。
「……自分で出てきたのか?」
「いえ、主の
「……?」
エリザベスに言われて、初めて自分が直死の魔眼のままであることに気付いた。
先ほど感じた違和感の正体は、周囲に赤い光の傷のようなものが視えていることが原因だったのだ。
気付けばどうという事はない。そう思って眼を戻そうとするが、何故だかオフに出来ない。
湊が中々眼を戻さないことで、いまの状態に気付いたのか、栗原が声をかけてきた。
「もしかして、また戻せなくなったのかい?」
「いや、別に今回はなにも……」
戻せなくなったのはエルゴ研を脱走したときだけだ。
あれからはどれだけ人を殺し続けても、ちゃんと切り替えることが出来ていた。
ならば、何が原因で今は切り替えることが出来なくなっているのか?
原因にまるで心当たりがないため、疑問に思いつつも湊は右手を握りしめると、かなりの威力で眉間を殴りつけた。
部屋に鈍い打撃音が響き、鵜飼・渡瀬・力の管理者を除く他の者が息を呑む。殴りつけたところからは、血が顔を伝ってTシャツに垂れ、赤い染みを作ってゆく。
しかし、拳を顔から離した湊の瞳は、無事に金色へと戻っていた。
「……戻った」
「ば、馬鹿かオマエは!? 昨日もリットル単位で血流してんだぞ!」
慌てた様子で立ち上がったイリスは、ポケットから取り出したハンカチを湊の額に当て、血が流れることを防ぐ。
しかし、額は傷が浅くとも派手に出血する部位だ。血が顔を伝う事は防げても、ハンカチは直ぐに赤く染まった。
そんな急にやってきて騒ぎを起こす少年に鵜飼は嘆息し、おろおろとしている自分の娘に声をかける。
「あー……桜、お前は坊主の手当てしたら飯作ってやれ。食う物ちゃんと食わねえと血も作れねえからな」
「治療はこちらでやりましょう。ピクシー、八雲様にディアラマを」
鵜飼の言葉を聞いたエリザベスはペルソナ全書からカードを引くと、召喚したピクシーに湊の治療をさせた。
治療によってすぐ血が止まったのか、顔を血濡れにしつつも湊は普段通りのアンニュイな表情をしている。
そんな様子を見たエリザベスは、ピクシーを召喚したまま再び湊に問いかけた。
「それで八雲様、その右足はどうなされたんですか? 昨夜の時点では怪我は全て治したはずですが」
「右足……?」
言われて視線を向けると、確かに脛の辺りが浅黒く変色していた。
しかも、ただ変色しているだけでなく、注意して見ると人の左手の痕のように見える。
そこで気付いたのは夢の最後の出来事。茜色の髪をしたフェイスペイントの隻腕女に掴まれた部位が、いま変色している部位と丁度合致していた。
夢だけの出来事だと思っていたが、あそこもベルベットルームの中と同じように現実世界の肉体にダメージがフィードバックするのだな、と少しぼんやりした頭で考え。
顔を上げると湊は淡々と事実のみ簡潔に答えた。
「……女に掴まれた。逃げられない? だか、逃がさないだとか言ってた気がする」
「そ、そう。みーくん、格好良いもんね。でも、あんまり熱烈なアプローチかける子は、わたしとか大人の人に相談してね?」
「……? 多分、二度と会わない。顔面を踏みつけて手を離させてやったから」
引き攣った笑みで声をかけてくる保護者と、湊の間では大きな認識の齟齬が発生していた。
エリザベスが夜のうちに治療を施し、湊は怪我を完治した状態で眠っていたのだ。そのため、怪我を新たに負っていたのなら、自分たちが話している間に誰かがここに侵入したことになる。
そんなはずはないので、では、誰がいつ湊に接触して怪我を負わせたのか、桜や周囲の人間は尋ねるべきであった。
しかし、この場には積極的に両者にツッコミを入れようとする者はいない。
二人は聡いが、変に世間ずれしている。そこに巻き込まれれば精神的疲労を負う事は必至。
確かに気になる事は気になるのだが、そういった理由により積極的に会話に混ざる者はいなかった。
その後、傷は塞がったが顔と服を血だらけにした湊は寝汗を掻いていたこともあり、入浴して着替えを済ませ、桜の用意した食事を中途半端な時間だが取った。
集まっていた大人たちは湊の無事な姿を見て解散し、力の管理者らも後日ベルベットルームで蛇神についての説明を約束させると湊の鍵で扉を開いて帰って行った。
本作内の設定
男主人公の名前を百鬼八雲に設定。