【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第三十八話 佐久間文子

5月9日(月)

朝――1-D教室

 

 突然だが、佐久間文子は自覚ある人格破綻者である。

 

「やっほー、皆。ひっさしぶりー! 先生に会えなくて寂しかった?」

 

 ゴールデンウィーク明けの今日、自身の受け持つクラスの教室に入ってくると、教室内にいた生徒たちに挨拶をしながら教卓と黒板の間に立つ。

 服装はいつも通りの黒のリクルートスーツで、手には出席簿と朝のうちに配る必要のあるプリントがあり、出席簿を教卓に置くとプリントを各列の先頭の者に渡して、欠席者を確認しながら軽い調子で話しだす。

 

「先生も休みを満喫しちゃったよー。会えなくて寂しくても、メールとか電話で連絡できるし便利な時代になったものだよね。そうそう、有里くーん、先生ね? 今日は土曜日のサクランボでゼリー作ってきたんだ。お昼休みに一緒に食べようよ」

「センセー、有里君と土曜日に遊んだんですか?」

 

 連休中に海外にでも行ったのか、こんがりと肌の焼けた女子生徒の一人が軽い調子で佐久間に尋ねる。

 佐久間が湊を特別扱いしていることは周知の事実だ。男子生徒の何人かが湊に嫉妬のようなものを抱いていることや、先輩の教師陣からもやんわりと指摘を受けているため、佐久間も自分がどのような事をしているかは当然気付いている。

 だが、それを理解していても佐久間は態度を改める気は全くなかった。

 

「そうだよ。部活で日帰り旅行に行ってねー。サクランボ狩りしてきたんだ。温室のサクランボはシーズンが始まるころだからね。美味しかったよー」

「先生、お土産はないんすか?」

「あっりませーん。だけど、皆からのお土産は受け取るから、遠慮せずに持って来てね!」

 

 男子生徒に土産について尋ねられると、佐久間は手を胸の前で交差し、バツマークをつくって答えた。

 しかも、自分は土産を用意してないと言っておきながら、直後に自分への土産は受け取るという辺りに佐久間の図太さが伺える。

 言った本人も、クラスの生徒たちもお互いに笑っているが、佐久間は視界の端で外を眺めている青みがかった黒髪の男子に意識を向けていた。

 今日も世界をつまらなそうに見ている少年。それが佐久間の中での湊の印象。

 だが、だからこそ、佐久間は湊に執着するのだ。

 

「休み明けだけど、再来週には中間テストだからね。皆、ノートとプリントをちゃんと整理しておくんだよ?」

 

 彼女本来の性格は、今この場にいる中では湊が最も近いと言える。過去に親交のあった同級生に尋ねれば、教師としての姿を見ても昔と変わらないと答えるだろう。

 だが、それは昔から周囲に『お調子者の佐久間文子』という仮面で接していたからだ。

 仮面を外せば、いまのように明るい口調で話す事など一切なく、世界は色褪せていてつまらないと諦め、心の中でまわりの人間を冷めた思考でくだらないやつらだと見下していた。

 それが素の佐久間文子という人物。

 

「センセー、テストのときに課題ってありますか?」

「授業で配ったプリントを、ちゃんと番号順にファイルに挿んで提出してくれたらOKだよ。提出点が付くから、無くした人は貰いに来て、誰かに写させてもらってね」

 

 彼女には幼い頃から霊感があった。湊のように急に視えるようになったのではなく、桜のように気付いたときには視えるようになっていた。

 小学校に上がったばかりの幼い彼女がそれを両親に話すと、父は彼女の言葉を信じながらも彼女の身を案じてあまり人に喋らないようにと言った。

 だが、母親は娘の力を知って、テレビ局へと電話をかけていた。それも本人と夫には内緒にして。

 母親が電話をしてから数日後、当時は超能力や霊感がブームだったこともあり、テレビ局から霊感少女として番組に出ないかと依頼がやってきた。

 それを知った父親は娘を見世物にするのかと怒ったが、母親はそれを聞き入れず、娘を連れて言われていた収録場所へと向かった。

 結果、佐久間は『霊感少女』として話題となり、いくつもの番組へと引っ張りだこになった。

 急に環境の変わった佐久間はそれに戸惑ったが、母親がスケジュールの管理をしていたため、言われるままに番組に出演し、よく分からないままに仕事をこなす日々を送った。

 

***

 

「四大文明には、それぞれ大きな河が関係していまーす」

 

 カツカツとチョークの音をさせながら、黒板に四大文明という文字と、赤いチョークで大河という文字を書く。

 板書が終わると生徒の方を向き、教卓に置いた教科書やプリントに目を通すが、佐久間はこんなものを見なくとも授業を進める事が出来る。

 

 霊感少女として話題となった事が切っ掛けとなり、佐久間の両親はしばらくして離婚した。

 離婚後は母親が彼女を引き取り、メディアには父親側の姓を名乗ったまま出ていたので、母親の姓となった佐久間文子という名前を聞いたところで当時の霊感少女であると気付ける者はほとんどいない。

 

「チグリス川とユーフラテス川、この二つの川の傍で栄えたのがメソポタミア文明と言って――」

 

 離婚後も母親と共にテレビに出演していたが、ブームというのは移り替わるものである。

 佐久間の母親は子どもが注目されることで、まるで自身も注目されているように錯覚するような典型的な人物で、世間の関心が別の物へ逸れてゆくと、次第に出演の依頼もこなくなり、佐久間の稼いだギャラで生活していた母親は焦るようになっていった。

 そうして、最後には仕事が一切来なくなり、一時のブームで稼いだ金だったが、母と娘の二人で数年暮らしていくには十分に足りていたこともあって、二人は少し田舎の方に引っ越し普通に暮らすようになる。

 だが、佐久間の母は煌びやかで華々しい生活を忘れられず、密かに娘をもう一度芸能界へと復帰させることが出来ないかと画策していた。

 そして、中学三年生のある日、佐久間の別の才能が見つかった。

 いや、正確に言えば、霊感少女として仕事をしていたことで、いままで誰も気付くことが出来なかった才能が、ようやく発見されただけだ。

 

「メソポタミアの人たちは、私たちも使っている一週七日制を決めたと言われていて――」

 

 そう、佐久間文子は天才だった。

 初等教育時にまともに学校に行っていない人間は、学業における基盤がスカスカということである。

 にも拘わらず、佐久間はテストでは好成績を取り続け、中学校になると模試で満点を取るようになっていた。

 塾にも行かず、通信教育もしていない。学校から帰れば宿題はしていたが、日に決まった自習時間を設けてなどいなかった。

 どうしてそれで必死に勉強している者よりも成績が良いのか不明だったが、全ては才能の一言で済んでしまう。

 霊感のときと違い、彼女は自分の学習能力の高さを正確に認識し、それが周囲から見れば異端である事も分かっていた。

 試しに円周率を何ケタまで覚えることが出来るか試してみると、五分で五十ケタまで覚えられた。

 それ以上は特に覚える必要性を感じなかったため試していないが、彼女がその気なら百ケタだろうと覚えられたかもしれない。

 そうして、彼女は彼女の才能を理解した母親の勧めで超難関の女子進学校へと進学した。

 どうして『天才少女』として自分を売りに出さないかという疑問を持ったが、すぐに母親の思惑を理解することになる。

 佐久間が高校に入学したばかりだというのに、母親は次に進学する大学を決めていたのだ。

 

「彼らが使っていた文字は楔形文字という、こーんな不思議な図形っぽいものでね?」

 

 母親は学んだのだ。霊感少女も天才少女も一時のブームにしかなれず、ブームはいつか終わってしまうと。

 故に、ミスコンでグランプリを取れば、芸能界へ行けるという大学へ進学させる方法を考えた。

 しかし、母親が自分を金儲けの道具のように考えている部分を知っても、佐久間は今までの自分を演じ続けた。

 通学時間の暇つぶしに本を読み、様々な知識を手に入れたことで、国内でもトップクラスの偏差値を誇る学校の授業も簡単に思える欠伸の出るような毎日。

 必死になっている人間を笑うような趣味はなかったが、どうせ出来もしない事を夢として語っているのを聞いていると滑稽にしか思えなかった。

 それでも彼女が周囲を騙し、まわりの望む自分を演じ続けて、母親の言う通りに大学へと進んだのは理由があった。

 それは、母親の考えた計画へのささやかな反逆のため。

 彼女は大学に進学すると一年生の頃から教職科目の講義を受けた。

 母親は佐久間が教師になりたいと言い出すのではと心配したが、丁度良いタイミングで女子アナに教職の資格を持っている人間が大勢いるとバラエティ番組で言っていたため、資格を持っている方がウケも良いかと何も言ってこなかった。

 その後も順調に単位を取り続け、無事に中学・高校の社会科の教員資格を手に入れることが出来た。

 ここまでの準備は万端。

 さらに、四年時の学園祭でミスコンにエントリーした佐久間は、既に芸能事務所に所属している者らを押しのけ、見事グランプリに輝いた。

 新聞やテレビにも取り上げられ、どこにも所属していないと分かると、多数の芸能事務所から卒業後はうちへ来ないかと誘いがあった。

 高校受験の前からこの時を待っていた母親は歓喜した。誘いのあった事務所に所属している芸能人、その相手の活動内容、それらを細かく調べて事務所の売り出し方を知り、娘がどこへ所属すべきかを考えていた。

 だが、佐久間はその裏で教員採用試験を受けていた。母親は娘が働く上で最も好条件の事務所やテレビ局を探していたので気付いていない。

 そして、試験を受け続けた結果、佐久間は卒業を前に月光館学園に勤務する事を決めた。さらに、今まで住んでいた家を出て独り暮らしをすると母に告げて。

 

「そういえば、ハンムラビ法典ではね。お酒の量を誤魔化したら死刑になるんだよ? というわけで、先生はいくら泡の方がアルコール度数が高いと言っても。泡の多いビールは認めません!」

 

 当時の母親の表情を見たとき、佐久間はモノクロの世界に久しぶりに色が戻ったと感じ、悪戯の成功を子どものように喜んだ。

 母親はヒステリックを起こし、奇声を上げながら罵倒してきたが、佐久間はケタケタと笑い続けて家を出て契約していたアパートに向かった。

 ずっと従順なフリを続けていたが、自分はお前の夢を叶える道具ではない、そう言い残して。

 だが、ようやく自由になったというのに、すぐに世界は再び色を失ってしまう。

 新学期からの準備のために何度も学校へ足を運んだが、自分が採用されたのは、『桐条美鶴』という学校の出資者の娘で、テストで満点を取り続けている“天才”の娘に勉強を教えるためだと告げられたからだ。

 相手は新二年生だが生徒会副会長の役職に就いており、春休みにも学校へ来ていたので佐久間も面会する機会があった。

 しかし、実際に会って話してみたところで佐久間は察した。相手は泥臭い努力によって今の地位に存在する秀才だと。

 育ちが良く帝王学でも学んでいるのか、周囲の目を惹く気品とカリスマは確かに持っている。だが、頭の回転は速いが、視野は決して広くない。これならしっかりと学習内容を把握している者なら誰でも教えることが出来る。

 父親か学校かは知らないが、こんな人間一人のために自分はここへ呼ばれたのかと思うと虚しさが広がった。

 教えるのは良い。それが自分の選んだ教師という仕事だから。

 しかし、これならば母親の言う通りに芸能界にでも入っていた方が、まだ代わり映えのある毎日だったろう。

 自分の部屋に戻った佐久間は、気を紛らわすように毎夜酒を飲むようになった。

 

「先生はお酒がだーい好きです! お酒を飲むときにご飯を食べない人もいるけど、先生は丼でだって食べられます!」

 

 それから少ししてある転機が訪れる。新一年生に桐条美鶴級の天才が入ってくると、学校側が騒ぎ出したのだ。

 対象者は三名、有里湊・真田美紀・吉野千鳥。

 中学校の単元も僅かに含んだ『国・算・英・理・社』の五科目のテスト。それを小学校を卒業したばかりの生徒が、一人は満点、一人は482点、一人は476点と四位の生徒が446点だというのにかなりの差を開けて高得点を叩き出した。

 新二年生では美鶴だけが突出していたが、新入生は三人も同クラスが存在する。

 この事態を重く見た学校側は、天才は天才に任せれば良いと、急遽、佐久間を三人の担任にすると決定した。

 その知らせを聞いても佐久間の心は何も動かなかった。校長と教頭が揃って天才だと言っていた桐条美鶴が“普通の人間”だったのだ。

 ならば、人数が三人に増えたところで、どうせ今回も自分とは違う“普通の人間”だろうと思ってしまうのもしょうがない。

 笑顔で担任になることを了承するも、新入生代表の挨拶をしないかと一位の生徒の家へ訪問する車の中では暗い表情をしていた。

 だが、そこでの出会いにより佐久間の世界は再び色を取り戻す。

 

「はーい、有里君に問題です。“目には目を、歯には歯を”これはハンムラビ法典の中に存在する言葉ですが、これの意味するところを答えなさい!」

「罰則の制限。過剰な報復を防ぐため、罰則は同刑罰までにせよという意味」

「だーいせいかい! そうだよ。やられたらやり返せじゃないんだよー。やり返すときは、自分がやられた事までしかやり返しちゃ駄目って言ってるの」

 

 佐久間は湊に初めて会ったとき、思わず目を奪われた。相手は自分と同じ天才ではない、だが、他の“普通の人間”でもないと一目で分かった。

 このクラスだけでなく、学校全体でも天才は佐久間を除けばチドリしかいない。チドリよりも上の成績である湊も美紀も桐条美鶴と同じ秀才型なのだ。

 しかし、それでも佐久間は湊に何故か惹かれる物を感じた。才能という点では自分が遥かに勝っている。

 それでも、生物として、または人間という枠で比べたとき、自分は湊に勝つことが出来ない。本能でそれを悟ったとき、佐久間は“孤独な天才”から落とされ“普通の人間”の輪の中に組み込まれていた。

 

「だ・か・ら、先生は有里君にアイアンクローや背負い投げをする権利を有しているのです! ちゃんと、その日に受けたDVをメモ帳に書いてあるもんね!」

「……家庭なんて持ってないだろ」

「むむむ……じゃあアカハラ? あ、でも、この前の先生の舌を指で触ったのはセクハラで良いよね?」

「……自分が普段、俺に何しているか理解してるのか?」

 

 同じ才を持ったチドリの存在は認知しているが、チドリは佐久間と違って“普通の人間”として生活している。

 才能が開花している時期の早さを考えれば、チドリも自分と同じようになっていてもおかしくないはず。しかし、彼女もまた、人間のまま輪から外れている者を見ている限り、『天才』ではなく『個人』でいられるらしい。

 あの出会い以来、佐久間の世界から色が消える事はない。自分の能力は全く変わっておらず、今でも周囲を僅かに見下している自分がいることには気付いている。

 しかし、周囲と話すときは『お調子者の佐久間文子』を演じていたはずだというのに、いまの自分は素でその『佐久間文子』と同じことをしている。長くそれを演じ過ぎていて、素の自分というのを忘れてしまったようだ。

 だから、佐久間は今の自分を受け入れた。演技で始まった物でも、それは自分の一部である。境界が曖昧になったのなら、あの瞬間に新しい自分が生まれたと考えれば良い。

 それから、佐久間は付き纏うようになった。自分を人間でいさせてくれる存在、世界に再び色をくれた恩人へ。

 

「先生ね、生徒とのコミュニケーションは大切だと思うの。あ、でも、他の男子は駄目だよ? 皆はえっちぃ目をしてるからね。授業中にさ、胸にばっかり視線送るのってよくないよね? まぁ、気付いてても言わない優しさっていうの? それで許してるけど、先生は女子校育ちなので、えっちぃ人はNGでーす」

 

 佐久間が笑ってはっきりと男子からの想いを拒否すると、女子たちは軽蔑するような冷めた瞳で男子を見つめ、女子からそんな目で見られた男子らは慌てて首を振り否定しだす。

 そんな様子が面白かったのか、状況を作り出した張本人はわざと大仰な身振りでモデルのような立ち姿を見せる。

 

「あはははは! 思春期の諸君には、ミス荘厳(しょうごん)女学院のグランプリを取った先生の美貌は眩し過ぎたかなぁ?」

「え、マジ? 先生ってショジョガクの出身なの?」

「うっわー、その略し方はないよー。私たちはショゴジョって言ってるからね? 友近君はセクハラで減点決定!」

「おわっ、スミマセン! 先生の美しさに目を奪われ頭が回ってませんでした!」

「んー……ま、見え透いたおべっかで子どもに褒められてもね。先生もこれで大人なんで、流されたりはしないのですよ。という訳で、減点は取り消しまっせーん!」

 

 世界から色が消えているというのは、まともな状態を知っている者には緩やかに心を殺されていくようなものだ。

 湊に初めて会ったときから、その瞳が嘗ての自分と同じ物を見ていると気付いていた。

 そのため、佐久間は湊の世界に色を与えようとする。方法は分からない。しかし、正常に戻った今ならどれだけあれが苦しい事かはっきりと分かる。

 みっともないと陰口を叩かれても気にしない、周囲に自分の行動を咎められても必要なことだと言い返す、いまのこの職を失うのだって構わない。

 それでも、有里湊を一人の人間として愛し、助けてやりたいと心から想っているのだ。

 故に、佐久間文子は自覚を持ってかつてと同じ人格破綻者でいることにしている。常人のままでは助けられない、彼を助けるには常人と同じ接し方では不可能だと理解しているから。

 

夜――佐久間自宅

 

「座って待っててねー。今ちゃちゃっと作っちゃうから」

 

 そういって長い髪をゴムで一つにまとめた佐久間が、フリルのついたエプロンを付けながらキッチンへと入っていく。

 学校が終わった後、佐久間の自宅アパートに湊はいた。チドリや他の部活メンバーはおらず、完全に二人きりである。

 湊がここへやってきたのは、佐久間が作ったサクランボゼリーを自宅に忘れたからで、昼休みになって気付いた佐久間は、明日には駄目になっているからと夜の予定を聞いて湊を自宅へ招いた。

 他の者も来るかと聞いたが、チドリはバイトが入っており、他の者は寮や自宅の門限があるため、またの機会にとなった。

 

「有里君さぁ、ケチャップ派? デミグラ派? それとも渋めにソイソース?」

「……ホワイトソース」

「っ!? あ、有里君が冗談を言った? は、初めて聞いたから、びっくりしたー」

 

 自分のミスから家に呼んでおいて、ただゼリーだけを食べさせて帰らすのは申し訳ない。

 そうして、佐久間は夕食も食べていくようにと、湊にオムライスを振舞う事にしたのだ。

 断られると思っていた佐久間は、ゼリー一つで湊が自分の家へ来てくれることに大変喜んだが、相手の真意が分からず不安が心に残っている。

 今は料理が出来るのをリビングで待ってくれているが、次の瞬間にはいなくなっているかもしれない。

 湊は普通の人間よりも存在感を放っているが、それは燃え尽きてしまう直前の恒星の輝きのような印象も同居させていて、その点が佐久間の抱く不安の原因となっている。

 材料をテキパキと切って、チキンライスを作っていく。フライパンでご飯を混ぜながら、リビングの方に視線を向け、テレビを眺めている湊の背中を見て安心感を得る。

 

「実はね。この家に来たのって新聞とか宅配便とかの人以外だと、有里君が初めてなんだ。先生の家、どうかな?」

「……酒のゴミが多い。ここらへんは瓶と缶は一緒に出して良いんだから、さっさと捨てろ」

 

 湊がそのような事を言ったのは、部屋の端にボーリングのピンのように置かれた様々な種類の酒瓶を見つけたからだ。

 その隣には『燃えないゴミ』と書いた袋に、ビールやチューハイの缶が潰されて入れられている。

 アパートとは言えベランダがあるのだから、ゴミの日までは外にでも置いておけばいいものをと思いながら、湊が立ち上がり薄ピンクの花柄カーテンを開けると、ベランダには洗濯物が干されたままになっていた。

 

「……いま、七時半だぞ」

「にゃーっ!? あ、有里君のえっち! 下着も干してるんだから、洗濯物みないでよー!」

「取り込まないと湿るぞ」

「君が居るから、ご飯を優先したの! それに取り込んだ物は畳むまでソファーに積んでおく派なんだから、取り込んじゃったら君の座る場所がなくなっちゃうでしょ?」

 

 慌ててキッチンから出てきた佐久間は、カーテンを掴んでいた湊の手を離させると、すぐにカーテンを閉め切った。

 珍しく頬に朱がさしているため、抱き付くことには照れない佐久間も、干している下着などを見られるのは恥ずかしいようだ。

 そんな事実を知っても、湊は普段と変わらぬアンニュイな表情のままソファーに戻り、ぼーっとテレビを眺めている。

 先ほどは焦っていた佐久間も、普段通りの相手の様子を見ると落ち着きを取り戻し、キッチンに戻って料理の続きをする。

 

「それで、さっきの話に戻るけど、インテリアとか雰囲気とかはどうかな?」

「特に変だとも思わない」

「本当に? 落ち着く空間になってる?」

 

 佐久間はここまでしつこく聞くのは、彼女には“普通”の感覚がまだ分からないからだ。

 家具の配置は自身の動線を予測し、機能性を重視した数パターンの中から最も優れた物を選んだに過ぎない。

 インテリアも材質と値段を考慮し、無駄の少ない長期に亘って使えるものを選んだため、色や柄は二の次にしている。

 湊と関わるようになってからは、自分も女の子っぽくしなければと勉強するようになったが、部屋の中身は未だに引っ越してきた当初とあまり変わっていなかった。

 そうして、完成した料理をテーブルに置きながら答えを待っていると、湊はテレビの画面に向けられていた視線を佐久間へ移して口を開いた。

 

「俺に聞かれても答えようがない。こっちも普通の感覚なんて持っていない。そんな物は他のやつらに聞いてくれ」

「……こっち、も?」

 

 相手の言葉に引っ掛かるものを感じ、それと同時にある可能性に行きつく。

 初めて会ったあの日、佐久間は湊の瞳の奥に嘗ての自分と同じ物を見た。

 だが、自分だけがそれに気付いていたとは限らない。湊もまた佐久間の瞳の奥に存在した、彼女の心の内を読みとった可能性がある。

 

「……お前が、俺に構う理由なんて想像がついてる。自分よりも異常な者を見つけて安心したんだろ。俺に比べれば自分は人間だと、輪から外れてなどいなかったと、初めて会ったあの瞬間にお前は気付いたんだ」

「ち、違うよ、私、そんなつもりじゃ――――っ!?」

 

 座ったまま佐久間を見つめていた瞳の色が“蒼”に変わり、一瞬の驚きを感じて、直ぐに初めてあったときの事を思い出す。

 気のせいではなかった。少年の瞳は、あのときも今と同じ全てを見透かすような色をしていた。

 何が起こったのか分からないが、佐久間の脳は、本人の感情とは別に冷静に状況の把握を行おうとしている。

 現在の最優先事項は、自分の考えを見抜いた上で、“想い”の部分を全く読みとれていない相手の誤解を解くこと。

 脳が弾き出した答えを、佐久間は様々な感情が胸の内で渦巻いたまますぐに実行に移した。

 

「わ、私は、確かにあなたをみて、違いを思い知らされた。あなたは人なのに、違うんだって、私みたいに一般人とは違っている人間ともまた違ってる人なんだって気付いた」

 

 蒼い瞳で見られると怖くて逃げだしたくなる。

 先日、自分が霊を視える事を告白したとき、湊から拒絶の言葉を受けると想像したときよりも、ずっと心も身体も怖がっている。

 だが、ここで逃げ出せば自分は後悔する。逃げ出して、明日また普段と同じように教室で顔を合わせられる自信がない。

 自分を抱きしめるように震える肩に爪を食いこませ、一時的に痛みで感覚を呼び戻すと、佐久間は隣に座っている湊に抱き付き胸に顔を埋めて続けた。

 

「でも、私があなたに構っているのは、自分が安心したいためじゃない! 世界に色を戻してくれたあなたにお礼がしたくて、あなたがこっちに戻れるように方法を探しているの! つまらないなら楽しくすれば良い。何にか興味が湧くようにってあなたにいっぱい話しかけるし、好きな物があれば探して持ってくる」

 

 相手がどんな顔をしているか分からない。目を見ず、表情すら見ないまま話すのなんて逃げでしか無い。

 そう分かっていても、この場から逃げ出さずに話を続けるには、こんな方法しか思い浮かばなかった。

 

「出かけるなら付き合うから、遠くでも休みじゃなくても一緒に行くから! だから……だから……いなくならないでよぉ、傍にいさせてよぉ……わあぁぁぁぁんっ」

 

 堪え切れなくなったのか、最後は抱き付いたまま子どものように泣きだしてしまった。

 湊がどこにも行かないよう腕には力が籠められており、動くことの出来ない湊は、急な相手の変化に瞳の色を戻して手の置き場所に困っている。

 そして、とりあえず、自分と十歳ほど歳の離れた相手を泣き止ます事が先決だと、相手の頭を撫でながら背中を擦ると徐々にだが、泣き声が啜り泣きに変わってきた。

 もう大丈夫かと手を離そうとすると、腰をホールドしている腕に力が籠もるので、泣きながら催促するとは図々しいやつだと呆れつつ、湊は相手が完全に泣き止むまで撫でる手を離さなかった。

 

***

 

 佐久間が泣き止んだのはそれから二十分後で、テーブルに運ばれていた料理は完全に冷めていた。

 泣き止んだ後も、佐久間は仰向きで湊の膝を枕にし左手で制服のシャツの端を摘んでいるので、ホールドを解かれても湊は動くことが出来ない。

 だが、いつまでもこうしていられる訳ではないので、時折鼻をすすっている二十二歳児に声をかけることにした。

 

「……別にどこかに行くつもりはない。転校するつもりも特にないし、授業も部活も可能な限りは出る。お前への反応も今まで通りだ」

「……ぐす……ほんとぉ? 私といっぱいお話してくれる?」

「……元からそんなに話してない」

 

 今まで通りと言ったはずなのに、佐久間が頻繁に会話をしてくれるかと尋ねてきたので、湊は溜め息を吐きながら返す。

 それを聞いた佐久間の表情がわずかにくしゃりと歪むが、腹の上に置かれていた相手の右手に湊が手を重ねると、わずかにびくりと震えて掴んできた。

 そして、佐久間はそれを恋人繋ぎに持っていこうとしながら会話を続ける。

 

「ねぇ……私ね……有里君が好きなんだ。小さい頃から自由な時間がなかったから、恋愛とかよく分からないんだけど、有里君と一緒にいてお話したいし。こうやって触れたりしたいの」

「お前は教師だろ。それにこっちは二次性徴も始まったばかりだ。そんなガキに構うな」

「……うん。でもね、私は気にしないんだ。一目惚れしちゃったらしょうがないもん」

 

 言って、佐久間は制服のシャツを摘んでいた左手で湊の顔の輪郭を撫でる。

 右手は繋いだまま、手が喉に触れると菱形のアレキサンドライトのついたチョーカーに伸ばされ、泣いて充血した瞳で見つめ尋ねる。

 

「有里君さ。吉野さんと付き合わないの? いま、彼女いないんでしょ?」

「俺がチドリに抱いてる感情は異性に対するものじゃない」

「ふーん、でも吉野さんが告白してきたら?」

「付き合わない」

 

 すらすらと答えた湊の瞳を覗きこみ、佐久間はその真意を探ろうとする。だが、金色の瞳の奥には何の感情も籠もっておらず、言葉の真偽はまるで分からなかった。

 蒼い目で見られたときには、自分の全てを見透かされているように思えたというのに、不公平だなと頬を膨らませ拗ねる。

 急に相手がそんな態度をとったことに湊は不思議そうにしているが、その顔を見た佐久間は何かを思い付いたのか、悪戯っぽい笑みを浮かべ湊に顔を寄せた。

 そして、お互いの唇が触れあうと、湊の頭の中に謎の声が響く。

 

《我は汝、汝は我……》

 

 キスから始まるコミュニティーなど湊は初めて知ったが、これでまた新たな絆が開けてしまった。

 佐久間文子の対応するコミュニティーは『XVI・塔』。正位置ならば困難や破滅、逆位置ならば再生や解放など、正位置の時点で他のカードよりも負の意味合いを強く持つカードだ。

 カードの絵柄に描かれた塔は“神の家”以外に“バベルの塔”だとも言われており、本日の佐久間の授業で習ったメソポタミアにも深く関係するという説もある。

 彼女が“塔”に選ばれたのは、相手の内面だけでなく授業内容が頭に残っていたことも関係しているのだろうか、と湊が考えているとき佐久間が唇を離した。

 

「――――ハァ、えへへ、奪っちゃった」

 

 顔を離した佐久間は自分でやっておきながら、顔も耳も真っ赤に染めて、表情がだらしなく緩んでいる。

 対して、教師に唇を奪われた湊は、冷静に口を拭っていた。

 自身のファーストキスを捧げたというのに、まるで汚いもののように扱われ、憤りを感じた佐久間は身体を起こしソファーに座り直すと抗議した。

 

「あー! 先生のファーストキスだったのにー!」

「俺は別に初めてじゃない。気が済んだなら離れろ」

 

 怒って大きな声を出している相手の顔を掴むと、湊はそのまま押しやり佐久間をソファーから落とした。

 部屋着のズボンに着替えていたので、下着が見えるということはなかったが、本来の持ち主である自身がソファーから落とされ、佐久間は不満顔で睨んでいる。

 しかし、食事をしたら帰るという約束が、既にかなりの時間をオーバーしてしまっている。

 その事を指摘するように、湊が壁の高い位置に掛けられた時計を指差すと、佐久間も既に九時前になっていることに気付いたようで、慌てて立ち上がった。

 

「わわっ!? お、お腹空いてるのにごめんね。ご飯も冷めちゃったし。今から作り直してたら家に着くの夜中になっちゃうよね? そうだ、外に食べに行く? 駅前で食べてそのまま帰ったら少しは大丈夫だよね?」

「……夜中に用事があって、十一時半くらいまではここにいられる。帰るのは初めから深夜の予定だから問題ない」

「そうなの? じゃあ、ご飯作りなおしても良い?」

「……ああ」

 

 返事を聞いた佐久間は直前の怒りはどこへ消えたのか、鼻歌を歌いながら冷めた料理をキッチンに下げ。改めて料理を作り始めた。

 待っている間の湊は、相手が抱き付いてきた際にシャツについてしまったピンク色のルージュをどうするか考え、結局、マフラーの中にあった替えのシャツに着替えて、ルージュの付いた着ているシャツは帰る途中に捨てていく事にした。

 少ししてから作りなおしたオムライスが運ばれてくると、二人でそれを食べ、食後には当初の目的であったサクランボのゼリーも食べた。

 食事を終えても湊が出ていくまでまだ時間があったため、佐久間は生徒視点での授業の進め方などの感想を聞き、それらを参考にして新たな授業の進行計画を書きあげたところで時間が来た。

 帰るという湊をアパートの下まで送ると、部屋を出た湊はそのまま影時間のタルタロスでシャドウ狩りをしてから帰宅したのだった。

 

 


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