【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第二百三十話 お昼時

昼――巌戸台分寮

 

 痛む後頭部を手で押さえながらゆかりが目を覚ますと、自分がエントランスのソファーで寝ていることに気付いた。

 時間はあれから四十分ほどしか経っておらず、反対側のソファーの足下にコロマルが寝ていることで、まだ彼らが帰っていないことを理解する。

 では、その本人たちはどこにいるのかと周囲を見渡せば、キッチン側のテーブルに座って少女たちから説教を受けている青年の姿が映った。

 既に回復したらしい七歌と美鶴と風花はキッチンに面したカウンターテーブルの方にいるが、テーブル席では青年の正面にチドリ、隣にラビリス、チドリの隣でラビリスの正面にあたる席には美紀が座っている。

 男たちはどうやら上の自販機前の休憩スペースに行っているようだが、誰かがかけてくれたらしいタオルケットを畳んでから立ち上がると、ゆかりは叱られている青年の許へ近付いた。

 

「だから、いくら相手が本気で殴ってきても女の子やったら少しは手加減せなアカンの!」

「手加減はしてやっただろ。そこの莫迦はソファーに向けて蹴り飛ばしたし、どブスは謝りやすいようにもっと頭を下げさせただけだ」

 

 一人目は浮かせたところをソファーまで蹴り飛ばし、二人目は拘束されながらも自由な足で踵落としを繰り出し意識を刈り取った。

 女子相手にそんな容赦のない攻撃をした青年に対して、ラビリスは大層ご立腹のようだが、本人は自分が悪いとは全く思っていないようで手加減はしてやったぞと返す。

 確かに彼が全力で攻撃していれば七歌は一撃目で頭部が潰れたトマトになっていたし、ゆかりは首があらぬ方向に曲がって地に伏していたところだ。

 それを考えれば彼がかなりの手加減をしたことは間違いないのだが、他の者にすれば手加減した攻撃であってもやり過ぎたように見えたらしく、珍しく美紀も一緒になって湊を窘める。

 

「男性とは身体の丈夫さが違うんですよ? それで消えない傷が残ったらどうするんですか?」

「それはそっちの莫迦に言え。本気の金的で障害が残る可能性を考えなかったのかとな」

 

 七歌の蹴りは一般人なら睾丸破裂の危険もあった。湊が無事に済んだのは顔を殴られた時点でペルソナを打撃無効のベルゼブブに切り替えたためであり、いくら湊だろうとノーガードだったなら潰れたりもした。

 それほどの危険があっても湊は相手をソファーに向かって蹴り飛ばすという配慮を見せていたため、これでまだ文句があるなら先に七歌を傷害罪で警察に突き出してから話を聞こうと言えば、七歌の攻撃もやり過ぎだと思っていた美紀は黙らざるを得ない。

 だが、他の者がそうやって言いくるめられようと、彼と十年近く一緒にいて喧嘩もしてきた少女だけは一切怯まずネチネチと言葉で責め続ける。

 

「誤解に気付いて謝ってきた相手に仕返しして恥ずかしくないの?」

「誤解から殴っておきながら、一方的に謝って終わりなら警察はいらないな」

「男として器小さ過ぎ」

「別に自分から器がデカいなんて言った覚えもないしな。そうやって評価するのはチドリの自由だ」

 

 暖簾に腕押しとばかりに湊はチドリの言葉を意に介さず聞き流す。自分は悪くないという確信から何を言われても揺らがないが故の反応だが、そんな男に文句を言っている方にすれば開き直りやがってとストレスが溜まる一方だ。

 加害者である七歌や同じく誤解してしまった美鶴、そして止められなかった風花は気まずそうに黙って彼らのやり取りを眺めているけれど、流石にそろそろ止めないとチドリやラビリスが先に爆発しそうだった。

 近付いたゆかりは攻撃してしまった側である分気まずいのだが、チドリたちからすれば湊の被害者という微妙な立場であるため、自分が話しかけることで喧嘩を止めさせようと声をかけた。

 

「あー、私らのことで怒ってくれてるみたいだけど別にいいから。てか、先に洒落にならないレベルの攻撃したのはこっちだし」

「ほら、どブスもこう言ってる。お前らの気遣いは余計なお世話だとな」

「いや、どブス呼ばわりは聞き捨てならないけどね」

 

 悪いのはこっちだからとゆかりが湊側に立った瞬間、それ見ろと湊は自分を責めていた三人を馬鹿めと見下した。

 もっとも、蹴られたことは許すがどブス呼ばわりは別の問題なので認める気はない。それを指摘したとき湊は理解出来ないと不思議そうな表情を浮かべたが、本調子ではないゆかりがその反応を流せば、美鶴が起きてきたゆかりの体調を気遣って声をかけてくる。

 

「岳羽、気分はどうだ?」

「まぁ、少しまだ痛みますけど意識ははっきりしてるし大丈夫です」

「鍛え方が足りないぜ、ゆかり選手」

「うん。多分、あんたの方が重い怪我だったと思うんだけどね」

 

 顎と側頭部に蹴りを受け、自分が駆けつけたときには呂律も回っていなかった。

 そんな相手が普段通りの様子で笑顔を向けてくれば、気を失っていたゆかりとしてはどんな身体の構造をしているのだと突っ込みたい衝動にかられても無理はない。

 とはいえ、相手もどうやら無事な様なので、それはそれで良かったかなと思っているところへ椅子から立ち上がったラビリスが申し訳なさそうに謝罪してきた。

 

「ゆかりちゃん本当にゴメンな。また湊君にはキツく言っておくから」

「全然気にしてないからいいよ。さっきも言ったけど悪いのはこっちだし。てか、皆ずっと起きるの待ってくれてたの?」

 

 見たところ気を失う前と何も変わっておらず、本当にただここで待っていた様子だ。

 昼前にそれは申し訳なかったなと思うところだが、尋ねたゆかりに風花が待っていたのには理由があったのだと答える。

 

「うん。別に用事もなかったし、上での話の続きも伝えておかなきゃいけなかったから」

「あー。けど、そんなの後にしてお昼くらい食べてて良かったのに」

「まぁそうなんだけど、八雲君が三十七分後に目覚めるってエラく具体的に言うからさ。それなら待っておこうかなって」

 

 実際にゆかりが目覚めたのは三十七分後であり、その点については全員が驚かされた。

 まさか普段から他人の意識を刈り取っていることで、相手が目覚めるまでどれくらいかかるか分かるようになっているのかと疑うところだが、誰も怖くて尋ねられないので真相は謎のままだ。

 とはいえ、それはそれとして現在の時刻は昼過ぎで昼食には丁度いい頃合いである。他の者はともかく目覚めたばかりのゆかりは食べられるのかと美紀が体調と一緒に食欲についても尋ねた。

 

「ゆかりさんは食欲はどうですか?」

「うーん、普通かな。あ、お腹が空いてるから食べれるって意味ね」

「じゃあ、湊は責任取って何か作りなさいよ」

「……法治国家とか思えない理不尽さだな」

「司法はとっくの昔に権力の味方よ」

 

 他人の家とも言える場所で料理を作っていいものかと悩むところだが、別に寮生の誰からも反対意見が出なかったことで湊も諦めたのか嘆息すると席を立った。

 キッチンへと向かう際にラビリスが「コロマルさんの分もな」と言えば、背を向けたまま手を振って返したので話は聞こえたのだろう。

 これだけ女子が集まっていて男一人に昼を作らせるのもどうかという疑問が起きないのも不思議だが、それは全員が彼の料理の腕を信頼している証なのかもしれない。

 そして、湊がキッチンに向かって水の音や食器のぶつかる音が聞こえてくれば、空いた席にゆかりが座り、上で聞けなかった風花の話の続きを聞いた。

 聞いたときには思わずそれが初体験で良かったのかと同情したが、本人は残念な気持ちもなくはないが彼が相手で良かったとは思っていると答え、納得しているなら他人がとやかく言うべき事ではないとそれ以上は何も言わなかった。

 ただ、ゆかりたちが勘違いして湊に殴りかかっていくまでの経緯を聞いたチドリからは、いくら何でもそれは勘違いする方が悪いと先ほどとは一転して彼を擁護する声が飛んだ。

 

「……なんで本人に確認もせずに殴ることになるのよ。それ全く湊の事を信用してないって事じゃない」

「いやぁ、言い訳のしようもございませぬ」

「自分がどれだけ無礼な事をしたか分かってる? 貴女たちは湊を意識のない相手を強姦するような男って決めつけたのよ?」

 

 なんだかんだ少女も青年には甘い。本人を甘やかすような事はないけれど、他者が彼を馬鹿にしたりすれば、無言の圧力をかけたり反論したりする。

 それを指摘されれば彼女は家族だから当然だと答えるのだろうが、やはり湊本人には内緒なのでキッチンから彼が現れればシレッといつも通りのつまらなそうな顔に戻り、どうしてそうなったのかという一連の流れは伝えず結果だけを簡潔に告げた。

 

「湊、悪いのこっちの三人に決まったから」

「……最初からそうだったろ」

 

 三人とは七歌、ゆかり、美鶴のことである。実行犯の二人は勿論のこと、事情を話そうとしていた風花を引き止めて説明の妨害をしていた者も当然同罪だ。

 チドリから聞いた湊は言うまでもないと持ってきた皿をコロマルの前に置き、そのままキッチンに戻っていこうとする。

 そして、昼ご飯だと嬉しそうに皿の前まで来たコロマルが哀しそうな顔で耳と尻尾を垂らしたことにより、そこに乗っているのが皮を剥いただけのタマネギだと気付いたラビリスが怒って湊に殴りかかれば、青年はその手を掴んで背中側で捻り上げ、片手で相手を拘束すると他の者から見えない角度で空いている手で何やらしていた。

 二人のそんな小さなバトルを華麗にスルーしながらチドリたちの会話も続き、ムスッとした顔でチドリが言葉を発したときだった。

 

「いくら湊でもあり得ないから。非常識なりに強姦とかそういう卑怯な事はしないって分別はあるわよ」

「……いや、強姦したことはあるぞ」

『…………は?』

 

 背中側から抱きしめるような形でラビリスの服の中に手を入れていた男は、少女の拘束を解いて解放しながらとんでもない爆弾を落とした。

 その場にいる全員は彼がなんと言ったのか一瞬理解出来ず、理解出来てもどう反応していいのか分からず固まるしかない。

 頬を染めながら乱れた服を直したラビリスがコロマルの前からタマネギの乗った皿を回収し、それを無理矢理に渡された湊がキッチンに戻ろうとしたとき、待て待てと再起動を果たしたゆかりが青年にストップをかける。

 

「ちょっとタイム! いますっごい爆弾発言だったと思うんだけど、本気で言ってるの?」

「わざわざ嘘吐く理由がないだろ。というか、俺と相手の初体験はそのときだぞ」

 

 まさかの事実に少女たちは二度目の石化にかかる。経験豊富そうな彼の事だから、初体験は年上の美女とでも済ましたのだろうと勝手に思っていたが、強姦で済ませたとは誰も予想出来るはずがない。

 というより強姦など直球の犯罪行為なので、一般人の少女たちもいる前で暴露することなどなかっただろうとチドリは思わず責めたくなったが、それよりもまず先に彼を少しでも真っ当な道に戻さなければと罪を償わせることを第一に行動する。

 

「湊、謝罪しに行きましょう。今すぐに」

「謝罪は必要ないって既に和解済みだ。気にしなくていい」

 

 その謝罪が必要ないというのが会いたくもないという意味なのか、それとも本当に示談等が成立して形だけでも和解出来ているのかチドリたちでは判断が出来ない。

 湊本人はいつも通りだが、他の者からすれば大事だろうと彼は自分基準で考えるので参考にならず、どういった反応すればいいのか戸惑いつつ美紀が経緯を確認しておくべきだろうと、どうして基本的に女性に優しいはずの彼がそんな事をしてしまったのかを尋ねた。

 

「どうしてそんな事をしてしまったんですか?」

「……最初は殺すつもりだったんだけどな。直前になって相手に知り合いの姿が重なって出来なかったんだ。まぁ、それで殺せないなりに痛みを与えてやろうと、何度も殴りつけながら犯してやったんだ」

「殺すつもりだったって、どうしてそんな……」

「俺と一緒にいると邪魔だからという理由でイリスを殺された。だから今度はこっちが殺してやろうと思っただけだ」

 

 淡々と話していた彼の言葉に黒い炎が混じる。事情を知っているチドリとラビリスだけでなく、ゆかりや美紀たちも彼と一緒に海外へ行った女性が死んだことは聞いていた。

 裏にそんな陰謀めいたものがあったとは初耳だが、イリスを殺されたことに対して彼がまだ深い憎悪と激しい怒りを持っていることは分かった。

 相手を殺めるという最後の一線を越えなかったことは不幸中の幸いで、それを思えば相手のしたことに対する報復として彼の行為は正当性があることも理解が出来た。

 そう、一般人である少女たちでも彼が復讐に走ったことを“間違いだとは言えない”と認めてしまったのだ。

 湊が他人を鏡とすることで行動の善悪や評価を下す性格であることを利用し、理由があろうとダメなものはダメと否定することで、彼をどうにか真っ当な光の当たる世界に戻そうと思っている者たちにすれば、この場で彼が認められてしまったことは全てが無駄になったという点で非情に残念でならない。

 ただ、そうやって彼に一般的な価値観を教えようとしていた者たちも、心の中では彼の行動に理解を示してはいたので、遅かれ早かれ青年も自分は間違っていなかったと気付いていたはずである。

 ならば、今ここで話すべきはどうやって彼に改めて正しい善悪の価値観を教えるかではなく、彼が本当に万全なアフターフォローを出来ているか確認することだろう。

 色々と抜けたところのある青年のボケボケっぷりを知っていたラビリスは、ここをまず確認しておくかと他の者が尋ねづらい部分を彼に聞いた。

 

「湊君、赤ちゃんは? 赤ちゃんはどうなん?」

「赤ん坊? 誰のだ?」

「湊君と相手のに決まっとるやん。そんときは避妊してへんやろ」

 

 話の流れで青年と相手との間に子供が出来てしまったかを尋ねていると分かるはず。

 しかし、ここでも青年の天然スキルが発動してしまったことで、他の者たちは深く溜息を吐きつつ、ちゃんと確認しなさいと窘めれば、青年はマフラーから携帯を取り出して電話をかけようとした。

 その際、彼が誤魔化す可能性を疑ったチドリから、最初からスピーカーモードにして話せという指示が飛び、面倒臭そうにしつつ素直に聞いた湊がスピーカーモードに切り替えた携帯をテーブルに置いて相手との電話が繋がった。

 

《すみません、お待たせしました。何かご用でしょうか?》

「いや、今日は少し質問したくて電話したんだ。ソフィア、お前子供はいるか?」

 

 聞こえてきたのは鈴のように綺麗な女性の声。けれど、青年が呼んだ名前から外国人であることは明白で、連絡が取れるのは良かったが海外にいるなら事情は複雑になるなと全員が心配していると、彼の質問から少し間を置いて予想外の答えが返ってきた。

 

《あの、産んでもよろしいのですか?》

「……まぁ、ダメだと許可しない理由もないしな。腹を痛めるのはお前だし、お前が産みたいならこっちはサポートするくらいだ」

《そうですか。その、なんと言葉にしていいのやら。てっきりダメだと言われるばかり思っていたので、正直に申しますととても嬉しいです》

 

 産んでもいいか。それは既に妊娠して出産すべきかどうか考えているからこその思考だ。

 少女たちにすれば青年が本当に父親になっていたことが衝撃であり、さらに続けて犯されたはずの女性が出産に非常に乗り気であることが第二の驚きだった。

 自分が知らない男に襲われて妊娠したならば、腹の子に罪はなくとも忌み子として見てしまうことになりそうで、電話の向こうにいる女性がどうしてここまで嬉しそうに出来るのかまるで分からない。

 

《それでいつになさいますか? 名前も考えなくてはいけませんし、籍をどうするかというのも重要ですね。わたくしは姓が変わることは気にしませんので好きにお決めになってください。ああ、勿論、湊様が名を戻すというのであれば百鬼という姓になることも》

 

 その時、青年の手が一瞬ぶれてテーブルの上に置かれていた携帯の画面が自然に割れた。

 何が起きたのか分からない少女たちは、驚き目を見開いて携帯と青年の間を視線で何度も往復する。

 すると、どこから取り出したのか湊は二つ目の携帯を出すと、再び同じように設定変更してソフィアの番号にかけた。

 直前に電話していただけあって今度は出るのが速かったが、相手が話し始める前にこちらも伝えておかねばと、湊は事情を説明しつつ暗に察してくれと願った。

 

「……すまない、画面に虫が止まってな。それと、質問が悪かったようなので改めて聞き直すが、お前に妊娠や出産の経験はあるか? いま携帯は理由があってスピーカーモードなんだ。周囲には同じ学校のやつらがいるから、そういった者たちが聞いても大丈夫なよう全年齢対象向けの回答を期待する」

《そういう事ですか……。では簡潔に答えますがどちらも経験はありません。まぁ、両親が試験管ベビーですとやはり自然妊娠は難しいのだと思います》

 

 湊が察してくれと願えば聡いソフィアはその期待に応えた。まさか質問の意図まで理解しようとは思っていなかったが、相手はより優れた人間をと遺伝子操作を受けて作られた存在だ。

 その能力を持ってすれば湊の置かれた状況を推測することも容易いのか、どこか残念そうな色を声に混じらせつつ青年の求めた答えを無事に返した。

 しかし、歳の近い少女にするとソフィアの答えは素直に納得がいくものではなく。一生に一度の思い出を滅茶苦茶にされながら、どうして冷静でいられるのかと尋ねずにはいられなかった。

 

「ねえ、貴女って湊に無理矢理純潔を奪われたんでしょ。どうして普通に対応出来ているの?」

《その声はチドリさんでしたわね。貴女がどこまでわたくしたちの関係を聞いたかは知りませんが、最初からわたくしは湊様を好いていたのですよ。自分の物にして、最後は子を為そうと思うくらいに》

 

 普通に考えると恨んで当然だ。相手を殺してやりたいと思っても無理はない。

 けれど、その前提が間違っているとすればどうだと言いながらソフィアは続ける。

 

《ですので、抱かれること自体に抵抗感はそれほどありませんでした。最初は衣服を強引に破られて恐ろしくも感じましたし、暴力を振るわれながらという部分は確かに心に傷として残りましたが、その後に改めて優しく抱いて頂いたことで上書きも出来ましたし。他の方が心配されるような事は一切ありませんのよ》

 

 一般的にはチドリたちの想像する反応を取って当たり前。それでも自分たちはそうはならなかった。

 二度目に抱かれたときの事を思い出していたのか、どこか嬉しそうに話すソフィアの答えに嘘は感じられない。

 おかげで性犯罪者の称号を手に入れていた青年を警察に突き出さずに済み。他の者たちもようやく安堵の息を吐くことができた。

 聞きたい事も無事に聞けて電話も切られ、良かった良かったと一同を和やか空気が包みかけたとき、何かを忘れているようなと全員が小さな違和感を覚える。

 どうして自分がそんなものを感じるのかも分からず、そもそも何に対して違和感を覚えているのかも分からない。

 周りを見渡してもお昼ご飯を待つコロマルや、眼帯の位置を直しつつキッチンに戻っていく青年しかおらず。やはり何もおかしな点など見つからないまま、気のせいかなと思ったところで青年のいるキッチンの方から肉を焼く香ばしい香りが漂ってきた。

 お昼時だったことでお腹の空いていた少女たちは、その香りを嗅いだだけで意識が昼食に持って行かれて深く考えることが出来なくなってくる。

 あまりの空腹から先走って七歌がキッチンに入ろうとしたときには、調理していた湊の方からナイフが飛んできて壁に刺さり、素人が覚悟もなく入ってくるんじゃないと料理人たちの聖域への侵入を拒む一幕も見られた。

 だが、さらにしばらく待っているとようやく青年がキッチンから出てきて、それぞれの前に敷いたランチョンマットの上にオニオンスープとサラダ、そしてメインであるバター醤油で食べるローストビーフ丼を並べ、先ほどの匂いの正体がローストビーフの焼き目を作っていたのだと判明した。

 美容に気を遣う少女たちにとって、焼き色と薄ピンクのグラデーションが見事な肉の上に乗ったバターは気になるところではある。

 しかし、口にする前から絶対に美味しいと確信出来る料理を前にすれば、少女たちも今だけは純粋に美食の徒になれと葛藤を捨て本能に身を任せようと思うことが出来た。

 犬用に別に作られた料理もコロマルの前に置かれ、最後に自分の分を持ってやってきた青年が席に着けば、じっと待っていた少女たちは流れるような所作で手を合わせて食材と作ってくれた者への感謝の祈りを口にする。

 

『いただきます』

 

 祈りを捧げた少女たちは湊が用意した特製の醤油をバターにかけ、それを箸でゆっくりと溶かすように混ぜて肉にタレを馴染ませる。

 タレのかかったご飯だけで十分美味しいのだろうが、焼き目の部分にスパイスも利かせた柔らかな肉があれば相乗効果で料理の完成度は高まる。

 タレを馴染ませていた箸の先を舐めただけで、醤油とバターの濃厚な味と芳醇な香りが広がり唾液の分泌が増え。もう待てないと少女たちは丼を手に持って箸で摘まんだ肉を口へと運んだ。

 そして、口に入った途端に少女たちを襲ったのは、バター醤油のタレがかかった肉からジュンワリと溢れてきた凝縮された旨みだった。

 噛む度にスープのように溢れてくる肉汁は、肉本来の美味しさを少女たちに伝える。

 そこにタレの味が混ざって深みが増し、いつまでもこれを味わっていたいと少女たちの租借は止まらない。

 だが、柔らかい肉は噛んでいると解けていってしまい。最後には味の余韻を残しながら喉の奥へと呑み込まれてしまう。

 すると少女たちはまた味わいたいと肉を口に運んで味の染みたご飯も食し、間にサラダとスープを挟みながらもほとんど休みなく丼を平らげてしまった。

 食べ終わった少女たちは皆が一様に、ほぉ、と充足しきった顔をしているが、青年がさっぱりとしたチーズケーキをデザートに出してくれば、再び彼女たちの目には火が灯り、今度は姦しい女子会の体で食事は進むのだった。

 

 


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