第百九十三話 来訪者
4月6日(月)
夜――巌戸台
ガタンゴトンと揺れる電車の中、明るい茶髪を後ろで纏めた少女が一人窓の外を眺めていた。
星形レンズの趣味の悪いサングラスをかけ、大きなボストンバッグを昔の不良のように肩越しに持っている姿は異様の一言。
イヤホンを付けて音楽を聴いているので周囲の音は耳に入っていないだろうが、見るからに変わっている少女を軽く指さしてヒソヒソと話す者たちもいる。
しかし、本人はそんなことを気にせず、流れていく景色を眺め一人考え事をしていた。
(巌戸台よ、私は帰ってきた! ……まぁ、住んでたことないけど)
一人でくだらない事を考えている少女の名前は九頭龍七歌。本年度から従弟の青年が通っている月光館学園高等部に転入してきた者だ。
今も彼女は学生寮を目的地として移動をしているのだが、色々とトラブルが重なりこんな時間になってしまった訳である。
当初は愛車のドラッグスター400で華麗に登場しようと思っていた。けれど、バイクは後で送るから今日は電車で行けと両親に言われ、渋々電車に乗った結果が大幅な遅れであった。
(八雲君いないかなぁ。巌戸台駅周辺は出没スポットらしいけど)
けれど、少女はそのことをあまり深く考えず、高速で流れる景色に従弟の姿はないかなとのんびり寛いでいる。
深夜に近く外は暗い上に、サングラスをかけていてまともに見えるはずもないが、それでもサングラスを外さないのは彼女なりのこだわりなのだろう。全く無駄でしかないが。
《巌戸台、巌戸台です。この電車、辰巳ポートアイランド行き、本日の最終電車となっております。お乗り忘れの無いようご注意ください》
電車が駅に着いた事で少女も人の流れに乗って降りてゆく。もうすぐ日を跨ごうという時間にもかかわらず人は多く、それだけ電車の遅れの影響があったことが窺えた。
ホームを歩いて改札に向かい、切符を通して外に出ると、少女にとって見慣れぬ景色が広がっていた。しかし、すぐに見慣れたものになるのだろうと思っていたとき、時計の針が頂点を指し、世界が緑色で塗り潰された。
「……へぇ、他所は変な塔まであるんだ」
世界が一変し街から人の気配が消えようと、七歌は気にした様子もなく知らない街を観察していた。
人工島である辰巳ポートアイランドの方を見れば巨大な塔らしき建造物が建っていて、遠過ぎてしっかりとは見えないが、頂上は雲に達しているのではないかとサングラスを額に掛けて肉眼で見る。
彼女は毎夜零時に訪れるこの時間を以前から知っていたが、先日まで暮らしていた街でも旅行先でも、あんな異界産と思えるような塔は出現していなかった。
十年前の事故、桐条グループがこだわり続ける土地、公的には鬼籍に入った従弟が残り続けていることからきな臭い場所だとは思っていたが、異形の塔の出現によりやはり霊地とも呼べる特殊な場所なのだろうと少女は確信を持つ。
もっとも、何かあったとき用に実家からお守りは持ってきているが、鬼と違って龍は超人的な力は持っていない。せいぜいが守護龍憑きとして始祖の力の一部が宿っているくらいだった。
(この土地にくれば八雲君たちの事故についても分かるかなって思ったけど正解っぽいね。本人に訊ければ一番確実だけど、今は八雲君じゃなくて有里君らしいし、そもそも盟約から解かれた鬼だからなぁ。下手をすると九頭龍は皆殺しなんだよね)
鬼の始祖が龍の一族を守り傷つけられないよう子孫に呪を施したことで、自分たちが鬼の主であると勘違いした龍は鬼たちを奴隷のように使役してきた。
心優しい鬼たちは盟約に従って弱い龍を守り続けたが、その中で全く黒い感情を抱かなかった訳ではない。呪が施されていなければ皆殺しにしてやろうと思った者もいたほどだ。
しかし、それぞれの始祖が二つに分かれた神の力が再び一つになるよう願いを籠め、鬼が神の力に耐えうる肉体を手に入れたことで、二千年の時を越えようやく二つの一族の正統血統の間に子が生まれた。
二つに分かれていた古き神の力を統合し、願いの成就のために施されていた呪を破った鬼の子は、鬼たちが鍛え究め続けた力と技を自由に振るうことが出来る。そう、一族を虐げ続けていた龍に恨みを晴らすことが出来るのだ。
固有の力を持つ一級四爪である七歌はまだいいが、二級三爪である七歌の父と祖父は霊視と操気しか始祖の力を扱えない。より強い力を継いでいる七歌の方が二人より強いので、その七歌以上の龍の力に覚醒した八雲が相手では、仮に彼が鬼の力を一切使わなかったとしても勝ち目はなかった。
父親らと違って龍としての驕りを見せず、昔から鬼と仲良くしたいと思っていた七歌としては、先祖が撒いた種だろうが鬼が復讐を誓うのはしょうがないと思っている。けれど、人の気配が消えポツポツと棺桶のオブジェが立ち並ぶ街の中、やはり好きな人たちに恨まれ憎しみのままに殺されるのは悲しいなと思って歩いていれば、七歌は妙な胸騒ぎを感じて立ち止まった。
(……なんだろう。たまにいる迷い込んだ人の気配じゃない)
七歌がいるのは駅から商店街の方へ真っ直ぐ伸びる大通り。妙な胸騒ぎの正体は、少し行った先の細い路地へ曲がったところの方から感じる気配のようだが、今は周囲に人もおらず何かあったときに助けを求めることが出来ない。
ここは危険を冒すべきではないとシャツの中にしまっているペンダントを握りしめ、七歌は息を殺し出来る限り自分の気配を消して慎重に進んで行く。
通常、危険を冒すべきではないというのなら、その場に残るか隠れることを選ぶだろうが、いまは日常ではなく非日常の時間だ。先手必勝という訳ではないが、相手が移動して先に見つかるよりも、隠密行動で自分が先に相手の姿を確認した方が有利にことを運び易い。
七歌が目指している巌戸台分寮という建物も道を進んだ先にあるのだから、ここで彼女が先に動くことにもそれなりの意味があった。
そして、曲がり角にある雑居ビルまで進んだ七歌は、建物の影からそぉっと顔を出して気配の正体を目にした。
(何あれ? 手首に頭が乗っかったお化け?)
そこにいたのは身体が人間の手の形をした不思議な生物だった。いや、正確に言えば生物と呼んでいいのか分からないが、手首に当たる部分から頭が生えているソレは何をするでもなくゆっくり道路を歩いていた。
大きさは七歌の腰に届くかどうかで大きいとは言えない。けれど、その昔、祓魔師や陰陽師と呼ばれる職についていた一族でもあった龍の子孫として、七歌は悪霊の力は大きさでは判断できない事を知っていた。
故に、少女は相手が変な動きをした瞬間に逃げようと決め、一時的にその場に待機することを選んだ。
幸いなことに相手はただ歩いているだけで、何かを探している様子もなければ、出会った瞬間に危害を加えてきそうな気配もない。この時間が終われば一緒に消えてしまうだろうと思って観察を続けていれば、次の瞬間、相手に動きがあった。
(っ!? お、踊ってる。ラインダンスみたいに足を上げて一人で踊ってるっ)
何を思ったのか分からないが、七歌の視線の先にいたお化けは急にラインダンスのような動きで踊り始めた。音楽などなくたった一体しかいないというのに、急に動いたと思えばどうしてラインダンスなのかが分からない。
七歌は相手をお化けと呼んだが見た目がふざけているので、その動きも相まって相手の周囲だけ非常にコミカルな空間となっている。
見つかれば危険なのは分かっているため、最初はどうにか必死に耐えていた七歌も、相手がその場でジャンプして踵を当てるように両足と思われる指をぶつけて着地したところで、その動きは卑怯だろとついに耐えきれなくなった。
「くくっ、んふふ、あははははっ!」
これではバレてしまうと思いながらも笑いが止まらない。なぜ妙に慣れた動きなのか、振り付けを自分で考えているのか、そんな疑問も浮かんできて七歌は鞄を持っていない方の手で腹を押さえて笑う。
すると、案の定相手は七歌の存在に気付いたようで、振り返ると胴体である手で指ぱっちんの動きをして見せた。最初、その動きになんの意味があるのか分からなかった。
意味を分かったのはそう考えた直後、相手の頭上に火球が現われ、嫌な予感がした瞬間に七歌は鞄をビルの影に投げ込み、自分は荷物が巻き込まれぬよう反対側に跳びながら迫る火球を回避した。
受け身を取ってすぐに立ち上がった七歌の頬を、火球が通ったことで熱せられた空気が風となり撫でてくる。外れた火球は道路に当たって弾けて消えたが、一歩間違えれば自分が大火傷を負っていたかと思うと怒りが湧いた。
一気に頭に血が昇った少女は相手を敵だと認識し、近くに落ちていた石を拾うと、しっかりと両の足で地面を踏み締めスローイングモーションに移った。
「テメェ、ぶっ飛ばすぞ! なに他人様に火ぃ飛ばしてんだ!」
無意味に足を高く上げ、踏み出した足に体重移動しながら全身の力を指先に込める。ギリギリまで石を放さず、力を完璧に乗せきって放たれた石は剛速球となって敵の額を捉えた。
仮面になっている額に石が当たった敵は、その予想外の威力に踏ん張りきれず後ろに倒れ。かなり痛かったのか倒れたまま手足をバタバタしながらもがいている。その様子を見ていた少女は心の中でざまぁみろと笑いながらファイティングポーズを取った。
「やんのかコラ!」
お化けか何か知らないが敵だというならぶちのめす。一発で死ねそうな火球を飛ばしてきたのは相手だ。お返しに石を投げても誰も反対しないだろう。
そう思って相手が立ち上がる前に次の石を拾って準備していれば、駅の方から地面を蹴る足音が聞こえ、足音の主が慌てた様子で声を掛けてきた。
「馬鹿かテメェは! シャドウ相手に喧嘩売るやつがあるか!」
「お? 誰だテメェ? 私が可愛いからって舐めてんじゃねぇぞ!」
「うるせぇ! 襲ってきてる敵がいるのにふざけてる場合か!」
現われたのはニット帽にコート姿という季節感に欠けた一人の男。敵の次はナンパ野郎かと思って七歌の対応も敵意を含んだものになるが、相手の男にそんなつもりはないようで、七歌に逃げるように勧めてくる。
「危ねえからここから離れろ」
「よし、戦うぞー! ニット帽、あんたは武器になるもの取ってこい!」
この少女は人の話を聞かなかった。いや、言葉は理解しているのだ。ただ言うことを聞く気が無いだけで。
そんな少女の反応から、一瞬相手がなにを言っているのか分からなかった男は、数秒ポカンとした後、状況が分かっていないのかと思って、出来るだけ平時の調子に合わせて改めて話しかけた。
「は? いや、なんで逃げねえんだよ」
「喧嘩売られておきながら、背中を見せて逃げるなんて出来ないでしょ」
少女は状況を理解できていない訳ではない。単に異常な自尊心の高さから売られた喧嘩を買おうとしていただけだった。
男としてはそんな馬鹿は知り合いだけで十分だったが、ここで偶然見つけてしまった以上は放っておけない。そう思って動きそうにない相手の腕を取って走りだそうとすると、
「アホか! いいからこっちこい!」
「触んな変態!」
「あぐぅっ!?」
少女は男の手を振りほどき、いい加減にしろよと男が振り返ったタイミングで思い切り股間を蹴り上げてきた。
蹴られた男は思わず絶叫しかけるも、腹の底から迫り上がってくる痛みのせいで声が出せず、その場に倒れ込むように膝をついて前屈みに蹲る。
「あ、がっ、テメェ……そこ蹴るのは、無しだろうがっ……」
すぐ近くに敵がいる状態で男の魂を蹴るとは非常識にもほどがある。これでは少女を連れて逃げるどころか、まともに立って走ることも出来ない。
目に涙を滲ませ、しかし、ここはまだ戦場だからと男が敵の様子を見ていれば、蹲る男を冷めた瞳で見ていた少女がポツリと呟いた。
「ふぅ……しょうがない。ここは奥の手だ!」
言うなり七歌は男を追いて走り去っていった。
まさか自分を囮にして逃げたのか。もしここを無事に生き延びれば、次に会ったときは女でも殴ってやると男が必死に立ち上がろうとしていれば、逃げたはずの少女が何やら棒状の物を持って帰ってくるなり男にそれを渡してきた。
「ニット帽、これで時間稼いどいて」
「ふざ、けんな……股間蹴られてすぐ動けるかっ」
「無理なら死ぬだけだよ」
彼女が持ってきたのはなんとバス停の標識だった。根元の方が歪になっていて、その様子から察するにコンクリートの台座から引っこ抜いたのではなく、どこか道路に立てられていた物をへし折ってきたことになる。
この周辺で老朽化の進んだバス停など無かったため、彼女は強引にへし折って持ってきたようだが、平均的な女子と変わらぬ体型の相手がどうやって金属の棒を折れたのか気になるが、男は苦々しい表情でなんとか立ち上がるとバス停を受け取って言葉を吐いた。
「テメェ、おぼえてろよ」
男の視線の先では敵も起き上がって体勢を整えていた。先ほど七歌が攻撃を当てたことで、敵もすぐに接近して本格的に危害を加えてくるだろう。
それなら少女の近くにいるのは不味いはずなので、男はどこか頼りない足取りで駆けだし敵の注意を引きつけ始める。
敵が火球を飛ばせば避けながらバス停で叩き落とし、負傷しているというのに周囲への被害も減らそうとする立ち回りはどこか慣れた様子だ。
観察しながらそんな事を考えていた七歌は、相手が時間稼ぎをしてくれている間に自分も役目を果たさなければと集中を高め出す。
「来やれ――――来やれ――――来やれ」
足を肩幅に開き、目を閉じて合掌しながら詠唱する。
祓魔師としての血のおかげか、七歌にはああいった化け物を祓うための力が宿っていた。
この力に気付いたのは八雲たち一家の事故が起きて少し経ってから。そう、今まさに体験している非日常の存在をはっきりと認識した後だ。
「我が身を守り給え、我が望み叶え給え、我に仇なす者を滅し給え!」
額から汗を流し、全身の力が吸われていくような虚脱感を覚える。けれど、この力を発動させるにはまだ気を抜くわけにはいかない。
これまでの成功率は一割以下、詠唱はそれを少しでも高めようとイメージを固定化するために用意したものだ。
七歌がこうしている間も男が化け物を相手に頑張っている。どこの変態か分からないが、相手が役目を果たしている以上、自分もそれに応えるのが筋というものだった。
「お願い! エウリュディケ!」
彼女の呼びかけに呼応するようにガラスの割れるような音が響き、渦巻く水色の欠片と共に何かが現われる。
ウェーブがかった背中に届く長い髪、色とりどりの花で作られた冠、丈の長い白いキトンを身に着けた美しい女性の姿をした超常の存在。少女の頭上に現われたそれは敵に向けるよう手をかざすと、掌に力を集め烈風を巻き起こした。
男に気を取られていた化け物は超常の存在の攻撃をまともに喰らい。地面を転がりながら黒い靄になって消滅する。
脅威が去ったことを確認したことで、七歌は呼び出したエウリュディケに礼を言って彼女を消した。
バス停を持って戦っていた男は目の前で起きたことに驚いている様子だが、祓魔師の業など一般人が知るはずもないよねと七歌が考えていたとき、戻ってきた男が口を開き話しかけてきた。
「お前、ペルソナ使いだったのか……」
「ペルソナってなに? 今のは私の守護霊だけど?」
ペルソナとは仮面の事。心理学用語で言えば外界と向き合うための自分、といった物だったはずだと七歌は認識している。
男はエウリュディケをそう呼んだが、勝手に人の守護霊に名前を付けるなと切って捨て、七歌はビルの影に待避させておいた鞄を回収して大きく背伸びをした。
「はぁ……やっぱ守護霊を呼び出すと疲れるなぁ。あ、ねぇねぇ。巌戸台分寮って知ってる? ここらへんにあるらしいんだけど」
「あ? まぁ、知ってるが」
七歌も一応は地図で寮の場所は知っている。けれど、道案内がいればより確実だ。
ここで出会ったのも何かの縁。知っているのなら道案内しておくれと少女は男に笑顔で頼む。
「やぁ、それは良かった。じゃあ、案内よろしく!」
「なんで俺が案内しなきゃなんねえんだ」
「なんでって、今まさに助けてあげたじゃん」
道案内する理由も義理もない。そう言いたげな男に、七歌は誰が化け物を倒したか思い出してみろと真顔で返す。
男としては自分も時間稼ぎを手伝ったという気持ちだろうが、この人物の相手をする方が疲れると諦めたのか、深く溜息を吐きながらも早く解放されるためにしょうがなく道案内を引き受けることにした。
――巌戸台分寮
男と寮の前で別れた七歌が建物の中に入ると、中は明かりも点いておらず暗かった。
しかし、それは電子機器が使えないこの時間が原因であり、既に消灯時間になってしまっている訳ではない。
とはいえ、せっかく来たのに誰もいないのは寂しいなと思っていたところ、入り口のすぐ傍にホテルの受付のようなカウンターがあり、そこで暇そうに頬杖を突いていた少年が話しかけてきた。
《やぁ、こんばんは》
「おっすおっす、こんばんは」
この非日常の時間に人がいるとは珍しい。本日二人目の遭遇者を見ながら七歌はそんな事を考える。
もしかすると、この地には同じように非日常の時間に適応している者が大勢居るのかもしれない。不思議な塔があったことも含めて色々と裏がありそうだと思っていれば、少年は七歌に楽しげな笑顔を向けてきた。
《随分と遅かったね。少し待ちくたびれてしまったよ》
「うむ、文句は鉄道会社に言ってくれたまへ」
《ははっ、それは確かに。さて、早速だけどこれにサインしてくれるかな》
少年が指を鳴らすと一つの冊子が現われる。すごい手品だと思っている間に少年は表紙を開き、中に書かれている言葉を見せてきた。
――――“我、進みし道の先にある、いかなる結末も受け止めん”
書かれていたのはその一文だけ。他に何も書かれておらず、言葉の意味もはっきりとは分かりづらいため、読んだ七歌は思わず首を傾げる。
「んー? 悲しい現実を受け入れろ的な?」
《別に悲しい現実に限った話ではないけど、この先、もし嫌なことがあっても自分が選んで進んできた道の先にあるものから目を背けないでって約束だよ》
狭い範囲で考えれば、自分で入寮を決断したのだから隣人トラブルがあってもしばらくは我慢しろということになる。学生寮というのは部屋の調整がなかなか難しく、仮に何かあっても移動まで時間がかかるのだ。
とはいえ、本来はもっと深い意味が籠められているのだが、七歌はそれほど深くは考えなかったようで、自分の選択ならちゃんと受け止めるのは当然だと返した。
「嫌な事があれば反省も後悔もすると思うけど、まぁ、自分の選択した結果ならしょうがないよね」
漢字表記でいいのかという疑問もあったが、何も言われないと言うことは書き手の自由に違いない。
受け取ったペンを使い、七歌はサラサラと自分の名前をフルネームで書き込み。しっかりと書き終えると冊子を開いた状態のまま相手に返した。
《うん。それじゃあ改めて、“九頭龍七歌”さん。ようこそ、この街へ》
見届けた少年は返された冊子を満足気に手に取ると、そのまま歓迎の言葉を残して闇に溶けるようにその場から消えていった。
「おぉ……消えた」
恐怖はないが不思議ではある。彼もこの時間のみに存在する化生の類いなのか、それとも幼いながらも希有な才能によって人体消失マジックを習得しているのか、七歌は色々と興味が絶えなかった。
けれど、これで入寮の手続きは完了したはず。そう思って奥に向かおうとしたとき、七歌が向かおうとしていた奥から人の気配を感じ、相手も七歌に気付いたようで声を上げてきた。
「……誰っ」
「こんばんは、本年度から引っ越してきた者です!」
「ひ、引っ越し?」
声から震えを感じて七歌は先手を打ってすぐに自分の素性を話す。
この時間に人がいることは珍しい。それはこの特異な地でも例外ではなく、基本的には人は棺桶のオブジェになっているのだ。
階段を降りてきた少女もそれを知っているからこそ、何者かの気配を感じて来るまでに会った化け物の同類と疑ったのかもしれない。
それならすぐに自分が人間であると伝えればいらぬ警戒を避けられる。そう思っている間に非日常の時間が終わり、寮のロビーに明かりが灯った。
そして、ピンクのカーディガンを着た少女の後ろにある階段からまた人が降りてきて、相手が知っている顔だったことで七歌が手を挙げれば相手も笑顔で彼女を迎えてくれる。
「七歌か。随分と遅かったから心配していたんだぞ」
「やぁやぁ、美鶴さんお久しぶりです。実は電車がトラブって遅れたんですよ。あ、これつまらないものですがお土産です」
言いながら彼女が渡したのは先ほどの男が返してきたバス停。全力の跳び蹴りを数発ぶち込み、根元から曲げて折ったので溶接でもしなければ直せず、折った人間が責任を持って処理しろと返されてしまったのだ。
予想外の大きさのお土産に受け取った美鶴は戸惑い、それが何であるかを認識して余計に驚いている。
「臨海バス、巌戸台二丁目? 七歌、これは一体……」
「道案内役のニット帽がへし折ったんですよ。前屈みで股間を押さえてましたし、あのニット帽は危険ですね」
「ニット帽……もしかして、荒垣に会ったのか?」
「いえ、名前は知らないです。寮の場所を知ってるか聞いたら案内してくれました」
股間を押さえていたのは七歌に蹴られたから。バス停を折ったのも七歌。全てが彼女の責任であるというのに、ニコニコと笑って話すせいで美鶴は本当だと信じてしまい。状況はよく分からないが何をしているんだと、荒垣は本人の知らぬところで知り合いから評価を下げられていた。
「まぁいい。後で明彦に頼んで荒垣の部屋に運ばせておこう。それより、君の部屋は三階の一番奥だ。荷物は届いているが荷解きは明日にした方がいいな。岳羽、彼女を部屋まで案内してやってくれるか?」
「はい。あ、私は岳羽ゆかり。四月から高校二年です」
「お、いっしょいっしょ。私は九頭龍七歌。よろしくね!」
この地にやってきて初めての同級生。同じ寮なら同性だし仲良くなるかもしれない。そう思って七歌が満面の笑みで握手を求めれば、ゆかりも慣れぬ相手のテンションに面食らいつつ手を出し握手に応じた。
――巌戸台
影時間が明けた頃、人通りのないオフィス街に一人佇んで空を見上げている青年がいた。
長い髪を結い上げ、首に黒いマフラーを巻いた隻眼の青年・有里湊だ。
街中に現われたイレギュラーシャドウを退治しにここまでやってきた湊は、そろそろ待ち人が戻ってくる頃だろうかと振り返った。
すると、そこには囚人服にも見える白と黒のボーダー柄の服を着た少年が立っており、少年は戻ってきたタイミングで彼が振り返ったことに驚きつつも、待たせてしまって申し訳ないと謝罪を口にした。
《遅くなってゴメンね》
「いや、別にいい。それより会えたのか?」
《うん。ばっちりさ》
湊に尋ねられ頷いたファルロスは、嬉しそうにその場で手を返して何もなかった場所から冊子を取り出す。
それは先ほど七歌にサインしてもらった契約書であり、ファルロスに渡された湊は契約の内容を読んで興味なさげに口を開いた。
「よく分からない契約だな。最後まで戦いを見届けろってことか?」
《本当は“我、自ら選び取りし、いかなる結末も受け入れん”って内容にしようと思ったんだけどね。ただ、彼女の場合は君のこともあって巻き込まれた側の人間だから、どんな結末も受け入れろって契約じゃなくて、結末は結末として一度受け止めてって契約にしたんだ》
ニュアンス的には変わらないように思える。けれど、その契約を少女に持ちかけたファルロスにとっては全く別なようで、彼の意図をなんとなく察した湊は歩き出しながら返した。
「その二つは大して変わらないだろ。受け止めた後は否定しようが逃げようが自由ってだけでな」
《諦めろって意味を含めた話と一度状況を把握すれば自由にしていいって話じゃ違うよ。まぁ、彼女ならどっちでも受け止めて前に進むだろうけどね》
受け止めると受け入れる、二つの契約の違いはこの部分だ。前者は結果の把握までが契約だが、後者は結果は結果として素直に受け入れろと押しつけが入っている。
相手が少女であることもあり優しい契約に変えたらしいが、契約を持ちかけた少年は、どちらの契約でも七歌の行動は変わらないだろうと言った。
卒業していった時任亜夜の中にあった力の欠片を回収したことで、ファルロスも力を僅かに取り戻し、湊に力を分けてもらえばペルソナのように具現化出来るようになったわけだが、今日は七歌が引っ越してくるという情報を得たことで会いに行った。
話は湊から少し聞いていたが、実際に会ってみるとどことなく湊に似た雰囲気もあって、二人が従姉弟であることにも納得でき。フランクな調子と思い切りの良さから高評価だったらしく、ファルロスが彼女の内面を褒めれば、それを聞いていた青年は自分が持つ七歌の印象からすれば意外だと口を開いた。
「随分と評価しているんだな」
《そりゃあ、友達の従姉だからね。彼女も君と同じワイルドの力を持ってる。ってことは、君と同じように諦めの悪さは一級品の可能性が高いってことだ》
「あれには期待するだけ無駄だと思うがな」
《君は昔の知り合いに対する評価が低すぎるよ。彼女は優秀だよ。何よりとても魅力的だしね》
ファルロスが七歌に会いに行ったのには複数の理由が存在した。
一つは友人の従姉への挨拶、せっかく湊を追って転校してきてくれたのだから、友人として仲良くしておこうと考えるのは当然だ。
そして、二つ目は彼女もまた湊と同じワイルドの能力を所持している可能性が高いため、その見極めと必要ならばベルベットルームにたどり着く手助けが目的だった。
結果から言えば七歌もワイルドの素養を持っていて、ベルベットルームの協力があれば力もすぐに使いこなせそうなレベルで、後から力に目覚めたとはいえ現S.E.E.S.メンバーの中でもトップクラスの活躍が期待できた。
それら二つが主な理由だったが、最後にもう一つだけ残っていて、それが相手が魅力的な少女であるため是非お近づきになりたいという不純なもの。
性依存症と判明してから女子たちと会う頻度を減らしている青年は、自分が魅力的な女子に囲まれているせいで感覚が麻痺しているのか、あれはないだろうと呆れ気味にファルロスの女性の趣味を否定する。
「……女の趣味が悪いな」
《随分と酷いことを言うね。他の人に聞けばチドリさんやゆかりさんと同じくらいの美少女だと評価されるはずだよ?》
「そうか。世の中には物好きが多いんだな。俺は御免だ」
青年と少女は父親同士が兄弟であるため血が繋がっている。だからという訳ではないだろうが、七歌を女として見ることは自分には無理だとファルロスの言葉を切って捨てた。
そも、相手の経歴や魅力になど興味は無い。七歌もまた力を持っていてこの街にやってきた。彼女自身に影時間をどうこうする目的はないだろうが、それでも桐条側にいて影時間に関われば会うこともあるかもしれない。
会ったときにどうするかは互いの目的や立場で変わってくるが、それまではファルロスが契約させたことでベルベットルームの手助けを受けられるのだから、自分は特に何もしないでおこうと湊は放置を選んだ。
実際のところ、湊が力を分けなければファルロスは顕現できていないのだから、力を分けている時点で間接的に干渉したとも言えるが、この街に新たにやってきた者への彼らなりの歓迎を終えたことで青年らはその場を後にし帰路へとついた。