8月7日(木)
昼――ラボ
幾月にラボへの見学を伝えていた栗原は、その日のうちに日時を伝えられ二日後にはラボに来ていた。
場所は以前偵察しにきた湊に聞いていたが、湾岸部に近い場所で表向きは医療器具の開発と製造のための施設となっている。
こんなものは公安が踏み込んでくればすぐにばれてしまいそうだが、様々な方面から圧力をかけて動きを封じ、今日まで公安に一歩も踏み込ませず研究し続けていた。
湊が代表を務めているEP社の方も公安が密かに探っているらしいが、日本で様々な黒い噂のある桐条グループの方が優先順位は上で、さらにいえばEP社も着々と日本での地盤を強化して圧力をかけているため、公安の職員にしてみれば近い距離に二つの捜査対象がいながら手を出せない歯がゆい状態であることは間違いなかった。
元研究員だが現在はただの骨董品屋の主人である栗原には関係のない話だが、湊の話によれば一時期湊とチドリではなく栗原をマークしている者もいたという。
理由は元研究員である栗原経由で本丸の桐条グループに攻め込むため、栗原を引っ張って行く材料となるものがないかを探していたみたいだが、相手が適当な理由をでっちあげてくる前に湊が処理したので問題は解決したらしい。
殺したりしていないだろうなと尋ねると、湊は五体満足で生きていると答えた。ただ、公安として仕事を続けるのは難しくなったとのことで、恐ろしくなった栗原はそれ以上訊いたりしなかったが、ここでまた桐条グループと接触すれば再びマークがつくかもしれない。
そうなると色々と面倒なので、裏の仕事を辞めた湊が動くような事態にならないためにも、ここでの研究を少し見学すれば栗原はすぐに帰ろうと思っていた。
「やあ、いらっしゃい。今日は来てくれてありがとう」
「少し見学したらすぐに帰るさ。盆前は意外とモノが売れるんでね。午後からは店を開けるつもりだよ」
施設の入り口まで進むと以前と同じスーツに身を包んだ幾月が待っていた。
来てくれた元同僚を笑顔で出迎え、ゲスト用のIDを手渡すと早速中に入って長い廊下を進み、研究区画と思われる方へと連れていく。
協力するつもりはないと言い。現在は部外者である栗原に一部の職員しか知る事を許されない研究を見せていいのかという疑問はある。
グループのトップシークレットを見たのだから、対価として協力しろと言われたりしないだろうと考えていれば、大きな窓で研究室の中が見えるエリアについた。
中では白衣を着た職員たちが影時間に手に入れたであろうアイテムを調べていたり、召喚器や対シャドウ戦で使用する武器の設計などを行っていた。
「ここは調査部と開発部だ。タルタロスで手に入れた物を解析したり、グループの抱えるペルソナ使いたちのサポートアイテムの開発や改良を行っている」
「対シャドウ兵装シリーズはもう作ってないのかい? 九年前はペルソナの搭載に成功した七式まで作ってただろ?」
「対シャドウ兵装は核となる黄昏の羽根が必要になる。大規模な事故を二度経験し、グループに残っている羽根の数も少なくなっていてね。技術は今も残っているが、開発に費用と時間が掛かる上に羽根も必要となれば、そう贅沢に使っていられないグループとしては研究を凍結状態にするしかなかったんだ」
黄昏の羽根はニュクスの肉体である月の表面が剥がれ地球に落着したものだ。月まで行ければ取り放題だろうが、そんな事が出来る者は限られているため、偶然地球に落ちて来るのを待つしかない。
地球に来たとしても手に入れられるとは限らないので、桐条鴻悦が巨費を投じて集めた羽根も残り少なくなっている以上、羽根の節約はグループ全体に厳命されていた。
そんな理由もあり、大きな羽根を最低でも一枚は使用する対シャドウ兵装シリーズは、開発を進めるのが困難だと現在は凍結されていた。
もっとも、凍結されたと言っても完全に研究をやめた訳ではないと幾月は補足で説明をいれる。
「ああ、でも完全に凍結した訳ではないよ。屋久島にも研究所が置かれていたのは覚えているかな?」
「五式の試験場や七式の訓練に使用してたやつならね」
「ハハッ、試験場は五式封印後に封鎖され今は廃墟だよ。そっちではなく後者の方だね」
五式の試験場とはラビリスたち五式のテストベッドが戦っていた施設の事である。
そこは正式採用機となったテストベッド最後の一機であるラビリスが、姉妹たちがいた証である記憶を消去すると言われた怒りで一部破壊され、ラビリス自身も施設を破壊して脱走したのが危険と判断された事により使われなくなり破棄された。
実験が行われていた当時から既に十年ほど経っているので、雨風による劣化と老朽化が合わさって、今では近付く事も危険な廃墟になっていると思われる。
天下の桐条グループの管理下にある施設がそれでいいのかとも思うが、幾月は湊に会う以前にアイギスが訓練を行っていた施設について語った。
「七式の訓練に使用していた施設は今も残っている。ちょっとしたトラブルで起動しなくなった七式もそこに保管されていて、現在は七式用の強化武装なんかを開発しているね」
「起動しないのに開発しても意味ないだろ。それとも後継機を作る目処が立っているのかい?」
「いやぁ、他にやる事もないし。備えあればってやつだよ。今のメインはあくまでシャドウやタルタロスの研究だからね」
対シャドウ特別制圧兵装シリーズのラストナンバーはアイギスだ。けれど、それはポートアイランドインパクトによって、それ以降のシリーズを作っていられる状況ではなかっただけのこと。
事故以前に桐条を離れた栗原に真相を知る術はないが、まず間違いなくアイギスよりも後に開発する予定だった機体の設計図は存在するはずだ。
むしろ、人格データを入力した黄昏の羽根を搭載していないだけで、型式名称は異なっていたとしても、八式にあたる機体のボディは既に製作を終えているのではないかとすら思える。
アイギスのための武装とは言いながらも、どうせ他の機体にも流用できるようになっているのだから、幾月たちが再び人の心を持った機械を生み出し、青年の逆鱗に触れるのではないかと栗原は気が気ではなかった。
とはいえ、桐条から離れていた栗原にとっては興味を引かれる実験や、逆に湊やチドリの協力のおかげで自分の方が進んでいる分野の研究もあったりと、ただ軽い気持ちで見学に来て心惹かれるものがいくつもあった。
それだけで研究所への復帰を了承するほど馬鹿ではないが、研究の核心については上手く誤魔化し話さない幾月の説明を聞きながら先を進めば、ある扉の前に到着し幾月が先ほどよりも真面目な表情で声をかけてきた。
「実は君が来るのなら是非会いたいといった人物がいるんだ。僕は席を外しておくから、君だけで会って話をしてもらえるかな」
「……部屋に入ったら中からは開けられないってのは無しだよ。そのときは研究に協力せずに舌を噛み切って死ぬからね」
「信用されてないなぁ。大丈夫さ。本当にただ君と会いたいって人がいるだけだから」
見るからに胡散臭い男を信用しろという方が無理な話だ。早期に研究から離れた栗原よりも、直接手を汚して来たこの男は絶対に信用してはならないと本能が告げている。
シャドウの脅威から人々を守る手段として、同じ心の力であるペルソナの確保が挙げられるのは理解できるが、それで投薬と実験により犠牲を出してでも子どもたちにペルソナを獲得させるなど正気の沙汰ではない。
子どもたちの事を気に掛けている栗原にすれば、人々のためだろうとそんな悪魔のような研究をしていた者を信用する事など出来ず、最大限の警戒を見せながら彼女と話したいという人物のいる部屋へと入った。
「っ、まさか貴方がいるとは思いませんでした」
「久しぶりだな、栗原君。忙しい中、わざわざ時間を作ってもらいすまない」
部屋の中に入って栗原は驚いた。彼女と話したいと会議室の様な部屋で待っていたのは、グループ総帥である桐条武治だったのだ。
栗原が入ってきた事で席から立ち上がって出迎えた桐条は、彼女に適当な椅子に座る様に言ってから、内線でお茶の用意を持ってこさせると静かに話し出す。
「父の時代とは研究所の様子も随分変わっただろう」
「ええ、まぁ」
彼女がまだ研究所にいたとき二人は話した事があったが、ほとんどは主任だった岳羽詠一朗の傍にいて彼女にも声をかけて来ていただけだった。
知らない訳ではないが特別親しい訳でもなく、どうして桐条が自分と話したかったのか分からない栗原は、場に重い沈黙が降りてしまう前に尋ねた。
「どうして、私と話をしようと?」
「君の力が借りたいと思っているのは私も同じだ。ならば、組織の長として直接頼むのが筋というものだろう。純粋に古い知り合いと話をしたかったというのも勿論あるがね」
自分たちがお願いする立場なのだから、トップ自ら動く事で筋を通すのは当たり前。
そう話す桐条は本気でそう考えているようだが、いくら本気だとしても桐条の様な多忙な人間が彼女のために時間を割くなど普通はあり得ない。
せいぜい主任クラスが動く程度で、ラボに置いては幾月がその役職についているので責任や誠意については既に果たしていると言える。
だというのに、桐条は時間も気にせず彼女としっかり話そうと思っているらしく、持って来させた紅茶に口を付けていた。
彼のこういった妙な真面目さはとある青年に似ているようにも思える。彼もシスターに日本に来てもらうときなど自分でスカウトしに行っており。自分で行った方が確実だというのもあるのだろうが、彼もお願いする側なのだから直接赴き頼むのが礼儀だと考えていた。
世界のため、大切な少女のためと理由はそれぞれ異なるが、自分が泥を被って手を血で汚す覚悟を持った彼らは、根っこの部分では似ているのだろうなと思え、おかげで鋭い眼光の相手に感じていた緊張がいくらか和らいだような気がした。
そして、緊張が和らいで頭も回るようになってきた栗原は、これまで聞けずにいた率直な疑問をこの際無礼と知りつつ聞いてしまおうと考える。
「いくつか聞かせてください。何故、子どもたちを巻き込んだのですか?」
「それは誰の事を言っているのかね?」
「全員です。始まりの少年と人工ペルソナ使いたち。ご令嬢のように巻き込まれた者と違い、彼らは貴方たちが巻き込んだ者たちだ」
滅びを求めるという愚かな思想に取り憑かれた先代鴻悦と違い、桐条には良識と良心がしっかりと備わっている。
組織の長として冷酷にならなければいけないときもあるだろうが、ポートアイランドインパクトで彼の父をはじめとした研究者だけでなく、一般人である無関係な者も含めて大勢を犠牲にしながら、何故、事故の後また無関係な子どもたちを巻き込み多くを犠牲にしたのかが分からない。
いや、正確には分かっている。ただ、頭でそれを理解しながらも人であろうとする彼女の良心が納得出来ず、改めて研究を承認した本人に決定した理由を尋ねたかった。
各界の重鎮や様々なタイプの人間と関わってきた桐条は、彼女のそんな考えをしっかりと読み取った上で、紅茶を一口飲んで考えをまとめてから言葉を発する。
「事故から毎夜発生するようになった影時間を消すため我々は研究を進めている。しかし、方法は未だ見つかっていない。それでもシャドウという脅威は常に存在し、影時間に迷い込んだ者たちの中にはシャドウの犠牲となった者もいる」
犠牲となった者とは即ち無気力症となった者のこと。実際は違うが影時間が発生するようになってからシャドウが抜け出易くなっているので、無気力症患者たちもある意味でシャドウや影時間の被害者である事は間違いない。
「犠牲者が出ている以上、影時間が消す方法が見つかるまでシャドウを野放しにする事も出来ず。我々はシャドウに対抗するためペルソナの研究及びペルソナ覚醒者の捜索を始めた。事故から意識の戻らない少年を参考にしてな」
当時はまだ覚醒者がいなかったので統計が取れず、既に覚醒している湊と類似点を多く持っている者が覚醒し易いのかもしれないという仮説で捜索が始まった。
意識が戻って会話出来ればもっと別の方法もあっただろうが、目覚めるまでは他に方法もなかったため、旧エルゴ研には湊の身長と体重だけでなく脈拍など様々なデータが保管されていた。
もっとも、湊たちの脱走時にそういったデータは一部を除き建物ごと物理的に消滅したものの、最初はそんなつもりで彼を回収し研究所に連れて行った訳ではない。
「君のいう始まりの少年、つまりは百鬼八雲君の事だが。彼に関しては被害者の保護という目的もあった。後に解析されたアイギスのメモリから彼が一緒に戦っていた映像が見つかるまではの話だが」
「早急にペルソナ使いが必要だと考えるのは当然で、貴方がそれを急務として何よりも優先した事は理解出来ます。ですが、シャドウを用いた実験であれだけの被害を出した後です。根本が同じであるペルソナでも同様の被害が出ると慎重になるべきでした」
「アイギスのメモリに残っていた映像を見れば考え方は変わる。戦いを知らぬはずの少年が、対シャドウ兵器よりも高度にペルソナを使役していたのだから」
いくらシャドウの被害を食い止めるためにペルソナ使いを求めようと、自分たちだけでは制御しきれない異能を扱う以上は慎重になるべきであった。
議論に議論を重ねて、これ以上は実際に見てみないと分からないという段階になってからなら、犠牲となった子どもの人数も少なく済んでいただろう。
しかし、そう話す栗原に桐条は、湊の戦いぶりは研究者に夢を見させるには十分だったと答える。
数多の戦術をインストールされた戦闘のプロともいえるロボットよりも、素人である少年の方がシャドウを抑えていたのだから、子どもの能力を甘く見ていた研究者が“天然ペルソナ使い”の能力と見なしてしまうのも無理はない。
それについては一応理解出来るが、揃いも揃って思慮の足りない当時の研究員らに栗原は思わず頭を抱えて嘆息した。
「はぁ……それは天然のペルソナ使いだから出来たのではなく、あの子個人の資質によるものです。実際、昨年ご令嬢たちはペルソナの制御を誤って事故を起こしていたでしょう。天然の覚醒者だろうと暴走の危険は常に存在します」
「ああ、だが我々はそれに気付けなかった。目覚めぬ彼は私が素性を伏せた事でエヴィデンスと呼称され、美鶴が後にペルソナに目覚めた事も合わさり、研究者たちは同世代の子どもが力に目覚め易いと考えた。私もそうだと信じて、子どもたちを犠牲にするという愚かな選択をしてしまったのだ」
影時間に起きた事は現実世界に戻れば他の記憶として置き変わる。戦闘で建物の壁が壊れれば、飲酒運転の車が突っ込んだなど、適性を持たぬ者にはそれらしい記憶として認識されるのだ。
その代わり、適性を持っている者にはニュースの映像と事故の理由に大きな差がある事が違和感として残り、そこから影時間に何かあったのだろうと簡単に推測されてしまう。
そういった事もあって桐条は栗原が昨年の荒垣のペルソナ暴走事故を知っていても気にしなかったが、自分で気付いたのではなくチドリや湊から情報を仕入れている彼女は、僅かに申し訳なく思いながら紅茶に口を付けて顔を上げた。
「まぁ、貴方が当時何を思っていたのかは分かりました。それとは関係なく、純粋に私個人の意志としてグループに復帰するつもりはありません。骨董は趣味で集めた物ばかりですが、チームで研究してってやるより骨董品屋の店主の方が性にあってるんです」
元々、昔の想い人だった岳羽詠一朗に誘われて研究チームに入った身だ。彼がおらず既に様々な者を不幸にしている研究になど今さら参加したくない。
どちらかと言えばインドア派で人と話すのも億劫な栗原にとって、古傷を抉る事になるかも知れないそんな事をするくらいなら、客の来ない店でチドリやその友人にお茶を出すという子守りをしている方がマシだった。
「そうか。君の持つ知識や専門家の視点からの助言に期待していたのだが、そういう事なら無理に誘ったりはすまい。今日は忙しい中来てもらって悪かった。帰りの車はすぐに用意させよう」
栗原のそんな答えを聞いた桐条は残念そうな顔をしながらも、しつこく勧誘を続けたりはせずあっさり引き下がる。
深く研究に関わってはいたが、彼女は既に日常に居場所を作って平和に暮らしており、そんな相手の日常を壊したくないという想いからの決断だろう。
しかし、あまりにあっさり引き下がられた事で拍子抜けしてしまった栗原は、苦笑しながら話は最後まで聞いて欲しいと言葉を付け加える。
「ああ、いや、グループに復帰するつもりはないと言いましたが、店に持って来てもらいさえすれば鑑定の正式な仕事としてお受けしますよ。個人で行うので時間はかかるでしょうが、私も研究に関わっていましたから、後始末に最低限の責任は果たすつもりです」
「そうか。いや、十分過ぎるくらいだ。ありがとう。君の協力に感謝する。依頼の報酬等についてはまた後日連絡しよう。出来る限り君の要望に答えるので遠慮せず言ってくれ」
そう、栗原は研究所に戻るつもりはなかったが、鑑定の依頼くらいは最初から受けてやろうと思っていた。
現在前線で戦っているのは関係のない子どもたち。彼らの安全にも関わってくるのだから、責任の一部を担っている者として、子どもたちのためにも出来る範囲で協力するのは義務だと考えていたのだ。
ただし、協力するのはあくまで個人への依頼として持って来られた場合に限る。組織に組み込まれてしまえば、上層部の意向など大きな波に飲み込まれて身動きが取れなくなる。それではまた誤った方向に進んだとき何も出来ないので、彼女は協力者という輪の外からグループの情勢を見守る立場を取る事にした。
桐条は彼女のそんな考えを肯定し、協力して貰えるだけで十分だと大いに喜ぶと、部下たちに依頼の品に優先順位を付けておくよう指示を飛ばし。それを終えると栗原にゆっくり見学して言ってくれと別れを告げて去って行った。
――埼玉県・テニス場
女子の試合や男子の三位決定戦が終わり、残るは今年の覇者を決める男子シングルス決勝のみとなっている。
事前の下馬評通りに湊は決勝まで進み、対戦相手は今年の団体戦で優勝した学校の三年生エースが上がってきた。
足の速さと絶妙なボールタッチが武器の相手にすれば、厳しいコースで攻めて試合展開をコントロールする湊のスタイルとは相性が良い。
何より、最初はデータが少なく、スイッチフォアハンドという希少な才能を持っている湊に多くの選手が苦戦してきたが、インターハイ決勝までくればデータも集まり分析され、こうすればいいという対策も取られた。
サービスラインほぼギリギリでクロスに湊が打ち込めば、前に詰めていた相手が湊のバック側にドライブボレーを打って来る。
「……チッ」
スイッチフォアハンドはラケットを持ち替える事で、どちらでも力の強いフォアハンドで打てるという特徴がある。
しかし、それにはラケットを持ち替える時間が必要で、返って来るまでの時間が短く、ラケットを持ち替えていたら間に合わないと判断した湊は、面倒そうな顔をしてこれまでよりも力のないボールをバックで打ち返した。
湊にバックを打たせた相手は作戦が嵌まっている事で口元を歪め、打ち返されたボールに追い付くと回り込んで強烈なフォアを湊のいないクロスに打ち込んでくる。
「ゲーム4-2、工藤リード!」
打たれたボールに湊は追い付く事が出来ず、ゲームを取られ相手にさらに差を付けられてしまう。
まだ第一セットなのでこのまま落としても挽回の機会はあるが、二セット取った方が勝ちというルール上、後のない状態にはしたくはないし、出来ることなら作戦が嵌まって調子づいている相手から試合のコントロールを奪っておきたい。
ベンチに戻って汗を拭きながら、湊はこれまでのゲームを思い出して現状の打開策を考える。
自分の攻撃が通じないのは、相手が厳しい球にも対応出来るだけの足とテクニックを持っているから。相手の攻撃に対応出来ないのは、自分のプレースタイルが完璧に近い形で研究され弱所を突かれているから。相手の調子はどんどん上がっているが、自身の調子は悪くなっているという事はなく平坦なまま。
(……調子が悪くないなら何の問題もないな)
ゲームとゲームの間の僅かな休憩時間に現状の把握を終えた湊は、ひとつ前のゲームの時よりも落ち着いた様子でコートに戻る。
色々と考え過ぎたり、反対に相手を観察するのに夢中になって咄嗟の判断が疎かになるのは青年の悪い癖だ。
ただ、そういった情報を頭の中で整理してしまえば、彼はスイッチが切り替わったかのように動き出す。
今度は湊のサービスゲーム。これを落とせば後がなくなるので、ボールをコートにつきながら湊は相手をジッと見つめた。
(俺は母さんに教わったテニスでこれまで試合をしてきたが、自分に合ったテニスは別にある。勝つために試合をしてきたが、目的を邪魔する敵として立ち塞がるのなら容赦はしない。叩き潰させて貰おう)
バウンドさせたボールをキャッチすると、湊はそのままトスをあげてサーブ体勢に移る。
コートの右端から極端なクロスを狙ったフラットを打つためのポジション。相手もそれに合わせて対角寄りの場所でラケットを構えるが、今回の湊はこれまでのサーブよりも身体を捻り、大きく溜めを作った状態でラケットを振り抜いた。
「はぁっ!!」
全身のばねを使って生み出された力は、鞭のようにしなる長い腕の振りと連動し、これまでよりも格段に速くラケットを振り抜く。
傍から見てもこれまでよりも速いと一目で分かるラケットが叩いたボールは、相手のサービスコートに突き刺さると、そのまま一歩も身動きをさせず相手の横を通り過ぎていった。
「ふぃ、15-0!」
これまでの比ではない速さに動揺しつつ、再起動を果たした審判がコールする。
観客たちもコートの周りではガヤガヤと騒がしくしているが、プリミナの会員たちの持つボードには“時速二三七キロ”と書かれていた。
過去の試合では最高二〇八キロまでしか出していない者が、突然三〇キロも上げてくれば誰だって驚く。
一切反応出来なったのなら余計に動揺し、これまで得ていた精神的な優位性もほぼ消えたと言っていいだろう。
決勝までくるだけあって、そういった動揺を顔に出さないのは見事だが、次のサーブで湊が遅いスピンを打てば反応が一瞬遅れた事で動揺しているのは丸分かりだ。
返されたボールの元まで走りラケットを構えた湊は、これまではショートクロスや深い位置にロブで打っていたところを、相手の足元に向かって上から叩くような強打で返した。
「うおっ!?」
突然の足元への強襲に驚くも、相手は咄嗟にボレーで打ち上げる形になりながらも返す。
しかし、そのボールの落下地点には既に湊が待機しており、完全に狙いを定めた湊は、助走を付けて跳躍しながら渾身のスマッシュを叩きつけた。
効率的に力が伝わり先ほどのサーブと変わらぬ速度で飛んだボールは、真っ直ぐ相手のラケットに向かうとガットを直撃し、相手の手からラケットを吹き飛ばす。
今まで押されていたとは思えぬ怒涛の攻めに会場も湧き、観客の方からは黄色い声援が飛ぶ。
試合中の湊はそれには応えないが、次のサーブに移ろうと移動したところで、相手選手が手を上げて声をかけてきた。
「す、すみませんガットが切れたのでラケットを替えさせてください」
「ええ、どうぞ」
何かと思えば、先ほどラケットを直撃したボールのせいでガットが切れたので、予備のラケットと交換させて欲しいという話だった。
ガットなどそう簡単に切れるものではないが、テンションによっては相手の強打の負荷に耐えきれずに切れることもある。そのため選手は予備も含めて三本はラケットを持ってくるものだが、劣化していた訳ではなかったのなら、急にプレースタイルを変えてきた湊相手に残りの本数では心許ないに違いない。
それでも湊は叩き潰すと決めた相手への攻めを緩める気はないので、高校日本一を決める試合でありながら、選手のプレーとは別の部分で色々と気の抜けない試合になりそうであった。
***
少女たちの視線の先で跳躍した青年が再び相手のラケットを狙ったスマッシュを放つ。今度はフレームに当たったようだが、偶然返ったヒョロ球の向かう先には青年が両手でラケットを持って構えており、両手打ちのドライブボレーで易々と点を奪う。
これまでが精密なショットで厳しいコースを狙い点を取って勝ちに行く静の型だとすれば、現在の湊は力で捻じ伏せ相手を負かす攻撃的な動の型だ。
厳しいコースを狙っても追い付かれてしまうのなら、取れない球など最初から狙わず、相手が余裕で届く範囲であろうとまともに打てないようにしてやればいい。
相手の足元や深い場所を執拗に攻め、僅かでも隙を見せたとき相手コートで跳ればコート外へと飛んでいくボールを強打で叩きこむ。
「なんか、今の有里君怒ってるみたいに見えるね」
相手のサーブをそのまま相手の足に近い位置にライジングショットで返す湊を見て、風花は少し怖いと困った表情を浮かべる。
バスケのときは試合を楽しみ相手に勝とうとしていたが、今の湊は相手を潰して負かそうとしている。自分が上に行くのではなく、相手を地に伏せさせるという、その微妙な違いを風花も感じ取っているようだ。
「……別に怒ってはいないわよ。単純にスポーツから戦いに内容が変わっただけだもの」
「普通の人はそんな説明じゃ分からんやろ。まぁ、簡単に言えば今の湊君は試合に勝とうとしてるんやなくて、優勝するために相手を負かしてやろうとしてんねん。喧嘩でボコボコに殴っとるんをイメージしたら分かり易いやろか」
言葉で説明しようとすると中々難しいが、試合の勝利ではなく優勝という目的を果たすために戦っていると聞けば、微妙なニュアンスの違いを理解しきれていなかった面々も少しは理解出来たようで頷く。
彼女たちは美紀と一緒に真田の試合を観に行った事がある。そのときの真田と今の湊は確かに重なる部分があるため、湊が格闘技の試合をしていると考えれば怖さも和らいだ。
だが、湊のプレースタイルが変わろうと、相手も頂点まで後一歩というところまで来た猛者。湊優位に試合が進もうとリスクを冒して流れを引き戻そうとする。
レシーブで湊が再び足元へボールを打ってくると睨み、サーブと同時に前へと走る。見ていた湊はそれに気付くも、これまで通りサーバーの足元だったポイントを狙って直球で返す。
読みが当たった相手はチャンスだと内心で喜び、コートの中ほどで止まるとしっかりボレーで湊のバックサイドを狙った。
プレーの変わった湊は厳しいコースを狙わなくなった分、確実に入る範囲に強打を打ち込めばいいため一球一球の重さが増している。しかし、スイッチフォアハンドは継続して使用しており、それなら最初に使っていた作戦はまだ有効だと相手は判断したのだ。
だが、相手は一つ大きな勘違いしていた。
「ハァッ!!」
バックサイドに飛んだボールを湊は素直にバックハンドで打ち返す。ラケットを持ち替えようとする素振りも見せず、まるでそれが得意なショットかのように重心の移動から腰や肩の回転まで、全てが見事に調和したスイングは、フォアハンドと遜色ない打球を相手コートに返していた。
湊がバックハンドが苦手だと思っていた相手は、フォアハンドと同じ速球で返ってきたボールに反応しきれない。
一瞬反応が遅れた後にラケットを伸ばすが、ボールはフレームに当たってあらぬ方向へと飛んでいく。
「15-40!」
相手がしていた大きな勘違い。それは青年がバックハンドが苦手だと思い込んでいたこと。
どんな選手にも得意なショットと苦手なショットはあるが、バックハンドではまともなボールは返せませんという欠陥を抱えた選手がいたなら、常識で考えて大会の決勝まで上がって来れる訳がない。
湊のバックハンドがこれまで弱かったのは、ギリギリまで母のテニスの象徴であるスイッチフォアハンドでいけないか考えていたからだ。
最初からバックでいくと決めていたなら、余計な時間を割かずにしっかりとしたフォームで打球を返せる。
マッチポイント直前にその事実に気付いた相手選手は、最後の逆転の目が潰された事で気の抜けた様子のままサーブを打つ。
気は抜けていても身体は練習を覚えており、無駄な力が抜けた分とてもいいサーブだった。さらに、これまでと同じようにボールが来ると思ってその場でラケットも構える。
けれど、完全にコースを読んで助走を付けていた湊が打った打球は、サーブの威力を殺しネット前に落とすドロップショットだった。
「ゲームセットアンドマッチウォンバイ有里、カウント6-4、6-1!」
これまで強打に慣れていた相手は可能性を排除していたショットに反応出来ず、審判のコールを聞くと疲れが一気に出て座りこむ。
観客は今年の日本一が決まり両者の健闘を称える拍手を送るが、まさか本当に湊が優勝してしまうと思っていなかったゆかりや風花たちは、驚き過ぎてどう反応していいものやら分からず、手を繋いでピョンピョンと飛び跳ねた。
「本当に優勝しちゃった! 日本一だよ、ヤバくない?!」
「うん! とにかくすごかったね。皆でお祝いしてあげないと!」
一緒になって喜びながらお祝いを考える少女たち。ケーキでも作ってみようかなと笑う風花に、美紀やゆかりはそれなら料理は自分たちが担当しようかと返す。年下の少女たちの喜びようを美鶴とターニャが微笑ましそうに眺めるが、風花の料理の腕前を知る者がここにはいなかった。
調理実習では材料が全て必要な分用意されているのでミスしようがなく、これまで部活で何かを作るときは料理が得意な教師陣と湊と美紀が主導し、風花は基本的に運搬や配膳を担当していた事で彼女が作る場面がなかったのである。
いくら致死量の毒を喰らっても死なないとは言え、湊も好き好んで毒物を摂取しようとは思わない。善意のお祝いが悪意に満ちた呪いを生み出すとはこのとき誰も知る由もなかった。
「八尋さん、撮影は表彰式まで入れるように伝えて貰えるかしら。編集作業は後日やるから今日は撮影まででいいわ」
「かしこまりました」
後に息子が毒殺されかけるとも知らず、英恵は撮影スタッフとして来ている使用人たちに指示を出す。
親友の息子が母親と同じように全国制覇を成し遂げる瞬間を見れると思っていなかっただけに、その瞳には僅かに涙が滲んでいた。
けれど、大勢からの声援と拍手に応えている息子の姿を見ないと勿体ないので、ハンカチで目を拭うと自分も拍手で彼の健闘を称えた。
同じように隣で観戦していた桜も、とても興味深い言葉が聞こえてきた事で、惜しみない拍手を送りながら英恵に話しかけた。
「桐条さん、編集したものをダビングして貰う事は可能ですか?」
「データのコピーと一緒にDVDに焼いてお渡しします。パッケージも作れますがどうしますか?」
「サーブと普通のショットで悩みますね。格好良いのはサーブですが、こう躍動感や力強さは普通のショットの方が感じられそうで」
「では、入れ替え出来るように何種類かお作りしますね」
二人はママ友。歳は一回り以上違うが青年を大切に想う気持ちは同じで、皇子としてテレビに取り上げられる様になってから、そのことで電話やメールで情報交換もしている。
自分たちの親のそんなやり取りをチドリと美鶴は冷めた目で見ているが、試合後の礼を終えて湊がコートから出てこようというタイミングで、美鶴の傍で一緒に観戦していた七歌が湊を指差して騒ぎだす。
「お、出てきますよ美鶴さん! 出てきたと同時に喜びのダイビングハグをしなければ!」
「お気持ちは分かりますが、坊ちゃまは試合で疲労を感じております故、今回はご遠慮ください」
衝動に任せて走り出そうとする七歌を、誰よりも速く近付いた和邇が前に回り込んで止める。
武術の心得のある七歌は隙を突くためじりじりと動こうとするが、和邇は隙などどこにも存在しないとばかりに、構えも取らずプレッシャーのみで七歌の動きを封じる。
「一年生のインターハイ優勝は今回しかないんですよ?」
「重々承知しております」
そんな風に、気を駆使して見えない陣地を制圧するという、上級者同士の高度な戦いが無駄に繰り広げられる中、コートから出てきた湊は早速取材陣とファンに囲まれていた。
運営が用意したガードマンが選手に触れないよう身体を張って止めてくれているが、全員をガードする事など出来ずファンらしき女の子が湊に白いタオルを渡している。
一応、試合が終わってからもタオルで拭いたが、完全には拭けてなかったようで受け取った湊が汗を拭くと、それが隙だったとばかりにICレコーダーを持った男がファンの子を押し退けるように現れる。
「あ、取材記者に押し退けられたファンの子を助けてはるわ。今回から来た人か知らんけど注意されとるね」
「個別の取材とかは受けないけどマスコミ対応は丁寧だもの。それを知っているからこそ、顔見知りになった人はちゃんと待ってるのに、ああいうがっついた新参は他の取材陣からも叩かれて当然ね」
ラビリスとチドリが見つめる先で、男に押し退けられた女子がバランスを崩しかければ、湊はすぐに相手の手を掴んで助けた。お礼を言ってタオルを返すと、今度は無礼な記者を丁寧な口調で注意し、記者が湊と女子の両方に頭を下げて謝って大きな問題にはならなかったらしい。
青年の活躍は自分の事のように誇らしく嬉しい気持ちになるが、注目されるという事は今みたいな事が起き易くなるという事でもある。
生体義手の完成で研究は一気に進んだと聞いているが、自ら多忙さを引き上げている彼の難儀な性格に、彼をよく知る少女たちは本当に大丈夫だろうかと心配せずにはいられなかった。
そして、彼女たちの予想通り、スポーツ誌の一面を飾りニュースでも取り上げられた皇子のインターハイ優勝によって、翌日から彼は再びミーハーな一般人らの相手に頭を悩ませることになっていた。