8月7日(月)
夜――食堂
湊が幾月や沢永と話をして研究に協力を始めてから、約二週間経った頃、ついに新たな制御剤が完成した。
これは、被験体らが安定した召喚を行えるようになり、召喚器という補助媒体が量産されたことで、召喚面のサポートを薬で行う必要がなくなったため開発が始まったものだ。
純粋にペルソナの制御のためだけに調合したので、以前よりも副作用がぐんと弱くなり。このまま常用していても十年は生きられるだろうと見られている。
当初の薬ならば三年も持たないと言われていたので、これはとても大きな進歩だった。
勿論、いまだ研究段階の薬なので、今後、さらに副作用を抑えた新薬を開発することも考えられる。
しかし、
(とりあえずは今回ので良いだろう。薬の開発データをコピーして抜き出しておいたし。さらに改良した新薬は脱出後に何とか出来るところを探そう)
テーブルについて食事を取りながら、湊はそんな風に考えていた。
今日はこの後、影時間にタルタロスの探索がある。
以前、部屋に呼んだメンバーにはその時にでも話せばいい。ここで話しては、監視の研究員や黒服に聞かれる恐れがあり、いたる所にあるカメラやマイクに記録が残るかもしれない。
失敗が許されない以上、何事も慎重に行わなければならず。そんな些細なミスを湊は犯す気はなかった。
だが、湊と普段から一緒にいる少女は、どこかいつもと違う様子に気付き、心配そうに声をかける。
「……考え事?」
「え? ああ、いや。今日の探索メンバーについてちょっとね」
「今日は第二研とかの奴らと一緒でしょ。あんまり強くないから、私たちがメインになると思うけど」
苦笑して話を誤魔化した湊だが、メンバーの構成について事前に連絡が行われるようになったため、チドリは説明してからスープに口をつける。
別にメンバーに対し不満を口にしたりはしないが、チドリ自身も弱い者らと組むのはフォローが大変だと少し面倒に思っていたらしい。
なので、誤魔化しで言った湊の言葉も同意できる部分があり、素直に信じたようだ。
(ふぅ、結構危なかったかな。一緒にいる時間が長い分、俺の内面を読んでくるかもしれないから、今度から咄嗟でも仮面を被れるようにしておかなきゃ)
案外、大人よりも子どもの方が感情の機微に敏感であったりする。
その事を忘れていた湊は、内心ひやっとするが、今後のことも考えて、すぐに心の仮面を被れるようになろうと思った。
――第八研究室
被験体たちが食堂で夕食を食べている頃、飛騨は一人研究室に籠もってパソコンを操作していた。
画面には過去の制御剤についての情報と、各成分がどのような部位に反応して被験体がペルソナをコントロール出来るようになっているのかという詳しい説明が書かれている。
そうして、今までしていた作業に一区切りつくと椅子を引き、席を立って大きく伸びをする。
(んー……はぁ。ま、なんとか少年の出発には間に合いそうですねぇ)
伸びをしてからも、長時間の作業で固まった身体の筋肉を解すように、腕や腰をまわしてストレッチをする。
独り言を呟いた飛騨は、いつもの楽しげな笑みとは違った、どこか慈愛の含まれた微笑を浮かべていた。
飛騨は被験体を少年・少女と呼ぶが、基本的に少年は湊のことを指す。
その湊が出発すると言えば、今度の満月に計画している被験体全員によるエルゴ研からの脱走のことだ。
しかし、湊は飛騨にも計画について漏らしてはいない。
ならば、飛騨はどうやって計画について知り得たのか?
その答えは、先日のマリアの誕生日の一件が関係していた。
(んっふっふ、少女が制御剤が不要になったらすぐに出ていくと思いましたが、まだ動かないということは他の子どもたちも一緒に逃がすつもりなんですねぇ)
そう、飛騨は湊が改造を依頼してきた時点で、いつかチドリと共にここを出ていくつもりだと察していた。
被験体トップの三人を同時に相手しても戦えるほど実力を持っているのなら、逃げ出すこと自体は簡単だろうが、最もネックになるのはチドリが制御剤を必要としていた事だ。
制御剤について飛騨も度々相談を受けていたので、湊の脱走計画の日付設定に制御剤の完成が関係していることも分かっていた。
けれど、結局、それは天から降って来た蕾型の黄昏の羽根、『ペタル・デュ・クール』によって解決することになる。
自身の見ている目の前で、チドリとマリアが安定したペルソナ使いに変化したことで、これで二人ともお別れかと思ったのだが、それ以降も湊は他の研究室に顔を出して研究を手伝っていた。
飛騨が湊の思惑に気付いたのはその時で、その日から湊の旅立ちに必要なものを色々と集めるようにしていた。
いまパソコンで編集してまとめている薬のデータもその一つで、被験体らが無事に逃げられれば、そう遠くないうちに必要になるだろうと、一般の医者でも調合できるように詳しくデータを載せていたのだ。
(後は、住む場所ですが……そっちは頑張ってもらうしかありませんねぇ。まぁ、少年と少女くらいなら、預かってくれる当てもなくはないですが……)
そう心の中で呟くと、飛騨は机の引き出しを開けて、中にあった黒い革の表紙の手帳を手に取る。
そして、研究所の電話ではなく、自分が一般用に使っている携帯電話を白衣のポケットから取り出すと、とある番号に電話をかけた。
夜とはいえ、まだ八時前なので寝ていることはないだろうと数コールの間待っていると、ブツッ、と音をたてて電話が繋がり、電話の相手が声をかけてきた。
《はい、もしもし?》
「どうもお久しぶりです」
《確かに久しぶりだけど、何の用だい? とっくに研究所を離れた私に連絡してきたってことは、何かしら面倒な用があるんだろう?》
「んっふっふー。流石に鋭いですねぇ」
相手の言葉を聞いて、飛騨は楽しそうに笑って肯定する。
電話から聞こえてくる声は、飛騨より少し若いと思われる女性の声で、彼女の言葉から、相手も過去にエルゴ研に所属していたことが伺えた。
けれど、既にエルゴ研からは離れている。だから、余計な面倒は押し付けるなという意思が、言葉の端々から滲みでていた。
普段はふざけているが、飛騨も空気を読むことや、相手の言葉の裏にある感情を読みとることくらいは出来る。
なので、ここまでストレートに言われれば、当然、相手がこちらの頼みを嫌がっているのは分かるのだが、今回はそれを無視することにした。
「実は、いまウチでは人工ペルソナ使いの研究をしているんですがね。近々、その子供らが脱走するんで、その中の二人を預かって貰えないかと思いまして。ああ、ご心配なく。その子どものうち、一人は世界初の天然覚醒者ですし、もう一人も後天的に制御できるようになっているので、暴走の心配はありません」
《はぁ? 嫌だよ。なんで、見ず知らずの子どもなんて預からないといけないんだい。それなら、あんたのコネで学会の誰かに預ければいいだろう?》
「影時間に関わっていない相手には難しいんですよ。それに、多分、少年と貴女は面識があります。彼は学校で岳羽詠一朗と何度か話したことがあると言っていましたから」
《っ!?》
飛騨の告げた事実に、電話の向こうでは息を呑む音がした。
湊がその事を話してきたときには飛騨自身も驚いたが、ここに来る前まで湊は月光館学園の初等部に通っていたのだ。
エルゴ研の研究施設を置いていたのも、同じ月光館学園の高等部なので、少し敷地内を移動すれば出会うこともあり得ただろう。
そして、湊から聞いた相手の身体的特徴や人柄も、飛騨の知っている岳羽詠一朗と見事に一致していた。
研究と無関係と思われた少年が、密かにそうやって繋がっていた事で、世界の狭さを感じたものだが、電話で話している飛騨に感傷に浸っている暇はない。
「初等部の男子生徒で、前髪が目に少しかかるくらいの長さの子どもです。彼が話していた子どもなど、そう多くはいないでしょうし。休憩中の彼をよく呼びに行っていた貴女なら思い当たる節があるんじゃないですか?」
《……確かにいたよ。主任の娘さんと同い年だからって、よく構ってた子が一人ね。主任は八雲君って呼んでたけど、私は実際に話したことは殆どないよ》
反応するまで少しの間を開けてから、女性は湊の本名を呼んだ。
チドリが湊を『八雲』と呼んでいたのを聞いたことがあったため、相手がそれを答えたことで飛騨の中で話が繋がり。湊と岳羽詠一朗に交友があると分かってから疑問に思っていた適性についての謎が一つ解けた。
やはり、湊の適性は両親から受け継いだ物ではなかったのだ。
湊は人工的に適性を入手した岳羽詠一朗と接することで、知らず知らずのうちに感化され適性を入手していた。
そして、あの日の事故で死んだ両親は、適性を入手した湊と接していたことで、適性を入手したのであって、二人の適性が湊に遺伝した訳ではなかったのだ。
子どもは適性を入手しやすく、ペルソナも発現させやすいという当初の仮説は間違っていなかった。
誤った仮説で子ども等を集め、死なせてしまっていた訳ではないと分かり、飛騨は僅かに安堵する。
現場で話を聞いたアイギスが勘違いするのも無理はない。どう考えても、普通の子どもが研究主任と実は知り合いだったと思う筈がないのだから。
「その子が天然覚醒者です。あの、彼が死んだ日に、少年とその家族がアイギスとデスの戦闘に巻き込まれました。両親は乗っていた車の爆発で亡くなりましたが、車外に投げ出されていた少年をアイギスが回収し、その場でペルソナを発現させたのです」
《ま、待っとくれ。あの事故の日に戦いに巻き込まれて覚醒した? それに両親は死んだって、家族全員が適性持ちだったのかい?》
「ええ。ですが、少年と彼の繋がりでやっと理解できました。少年は純粋な自然適合者ではありません。素質はあったのでしょうが、彼と接しているうちに適性が目覚めたんです。両親は、その目覚めた少年と接していてうつったんでしょうね」
《私らが、あんな場所で研究してたから……?》
既に離れたといっても、湊が適性を得ることになった時期には、まだエルゴ研に所属していた。
正確にいえば、研究主任であった岳羽詠一朗が、素質を持っていた湊と話をしていたから起こった事態なのだが、無関係とは言い切れない。
そもそも、あんな子どもの多い場所で研究していたこと自体が間違いなのだから。
研究場所を決めたのは桐条グループなので、一研究員だった女性に非はないのだが、それでも真面目な性格なのだろう。
自分もその一因を担っていたとして、女性は贖罪のために飛騨の頼みを受けることに決めた。
《……わかったよ。八雲って子と、もう一人だね? その二人だけなら、少しの間、預かってやる》
「ご当主も少年の素性を知っているようですが、私たちに隠しているのでね。追手は出さないと命じると思いますが、室長の中には独断で動く者もいます。なので、十分に気をつけてください」
《ご当主が? 確かにご令嬢も通っている学校の生徒だったから、簡単に調べられるだろうし、知っていてもおかしくはないけど。なんで隠してるんだい?》
二人の話す当主とは、このエルゴ研の母体である桐条グループ総帥の
その娘は、
なので、湊と美鶴は同じ学校の先輩後輩だが、面識は特になかったので、娘が他所の街にいて学校自体とは無関係でありながら岳羽詠一朗と湊が出会ったというのはある意味奇跡だった。
「わかりません。前にプライベートラインで連絡したら、少年の怒りに触れぬよう注意しろとは言われたんですがね。ペルソナ持ちとはいえ、何をそこまで恐れるのかさらに聞くと、少年は“名切り”だと言っていたんです」
《“名切り”って、どういう意味だい? 別に普通の子なんだろ?》
「普通とはちょっと言えませんが、常識は理解してますよ。それで、名切りというのは、ご当主も言葉を濁していたのではっきりとは分かりませんが、どうも家系断絶を担っていた者って意味らしいです。分かりやすくいうと殺し屋、暗殺者ってとこですかね」
《あ、暗殺者?》
これから預かることになる子どもが人殺しのプロフェッショナルと聞いて、流石の女性も声が引いている。
飛騨もその心情は大いに理解出来るので、預ける前から脅すような事になり申し訳なく思うが、湊について自身もよく分かっている訳ではない。
分かっているのは、ここに来てからの湊のことだけで、過去や家系のことなど、知らない部分の方がむしろ多いのだ。
けれど、このままだと相手が言葉を撤回しかねないので、しっかりとフォローを入れることにする。
「いまの少年なら人も殺せるでしょうが、性格はいたってまともですよ。もう一人の少女を守ることを絶対としていますが、精神鑑定も正常の値が出てます。彼がご当主のいう“名切り”だったとしても、それは生まれた家が過去にそういった一族だったという事でしょう。桐条家は古くから続く名家ですし、そういった不吉なことには敏感なんですよ、きっと」
《あー……まぁ、確かに今のご時世に暗殺者一族って言われても、普通はピンとこないね。あっても、身体能力が高いとかってくらいだろうし》
「よっく分かりましたねぇ。色々と身体をいじってるんでー、見た目は小学生ですが、スピードに関しては普通に成人男性以上の身体能力はありまーすよ? 反射神経なんて野生動物超えてますから、はい。ああ、データとかは、後で送っておきますからご心配なさらずにぃ」
女性が湊の身体能力について話すと、途端に飛騨がいつものふざけた調子で湊のスペックを自慢げに説明し出す。
湊は自分の生み出した最高傑作だが、それをいままで自慢することが出来なかった。
しかし、今回はこうやって初めて自慢する機会を得た。
すると、今まで抑えていたものを発散させるかのように、楽しそうに満面の笑みで相手に説明するのだが、相手の女性も飛騨とはそれなりに古い付き合いだ。
こうなったときの飛騨の対処法くらいは知っていた。
《はいはい、後でちゃんと読んでおいてあげるよ。……ん? 身体をいじった?》
「ええ、事故から半年意識を失っていたので、筋力や体力がかなり低下していたんですよ。ですが、少年は戦える身体にして欲しいと、改造を依頼してきたのでその話しを受けた訳です」
《なっ!? アンタ、依頼されたからって子どもになにしてるんだいっ! それでも一応医者だろ!》
飛騨の話が本当ならば、ただの子どもが部分的にでも成人男性以上の身体能力を持つなど異常事態である。
改造といっても、スポーツ選手のように徹底的に身体を鍛え上げる『肉体改造』ならば、子どもの身体でそこまでの能力を得るのは不可能。
そうして、考えられるのは、違法な手段によって無理矢理に能力を引き上げたという事だが、仮にも医者である人物が、頼まれたからと言ってそのような事をしたとは、完全に正気だと思えなかった。
そんな風に、女性があまりに大きな声で怒鳴って来たことで、受話器を当てていた耳がキーンとなりながら、飛騨も自嘲的な笑みを僅かに浮かべると、当時のことを少し話す。
「私も本当に良かったのかと悩まない日はありませんよ。ですが、少年は、私を頼って来たんです。自分の寿命を削ってもいいから、少女を守れるようになりたいとね。あんな風に言われて断ることは出来ませんでした」
《寿命を削る? まさか、本当にそんな事をしたのかい?》
「正確な時期は分かりません。ですが、そう遠くないうちに、無理な改造でガタが来ると断言できます。一度始まったら崩壊まで一気に進むでしょう。よって、医者としての見立てでは彼の寿命は二十歳前後かと」
飛騨が湊の寿命について述べると、電話の向こうから再び息を呑む音が聞こえた。
実際はもっと短くなるはずだった。けれど、エールクロイツが適合した事で、僅かに肉体の変異が起こり、初期の見立てよりも寿命が延びたのだ。
その時には飛騨も非常に喜んだが、湊が短命である事は変わらない。
依頼を受けて改造を施したのは自分だが、いまの医療技術ではエールクロイツ以上の寿命を回復させる延命措置は出来ないと分かっているだけに、声に後悔の色が混じる。
「彼の命を削った私が頼むことが間違っているのは分かっています。ですが、彼らをお願いします。少年の願いは、少女が明るい温かな日常の世界で生きることなんです。私ではそれを叶えてやることは出来ない。ですから、どうか、どうかお願いします! 人類のために家族を失ったあの子の、たった一つ願いを叶えてやってください!」
心からの叫び。目の前に相手がいれば、きっと飛騨は地面に頭をこすりつけて土下座していただろう。
それほどまでに、湊とチドリの幸せを願い。もっとも信頼できる相手に今回電話をかけたのだ。
湊が顔見知りであることや、岳羽詠一朗と知り合いであったことなど、色好い返事を貰えるために練った姑息な策でしか無い。
既に幾人もの子ども等の血に濡れた手では、湊の想う明るい温かな日常に二人を連れていく事は出来ないと思ったからこそ、研究には参加していたが、人を殺してはいない彼女に託そうと決めた。
それが子ども等には隠していた飛騨の本心だった。
《……あんたがそこまで言うなんてね。本当は自分が一番傍にいてやりたいんだろう?》
「私にはその資格がありません。明るい温かな日常、そこへ行くには、私の手は血に濡れ過ぎている」
《きっと、子どもらは気にしないよ。八雲って子はあんたに感謝すらしてるだろうさ》
「それでもです。私は彼らに危険が及ばぬよう残って研究を続けます。そして、いつか影時間を消す事が出来たら。その時に一目会って謝罪をさせてもらえれば結構です」
女性の言う事は、確かにそうだろうと飛騨も確信に近いものをもっていた。
実験や研究員に対し、湊もチドリも敵意のようなものを持っているが、自身に対してそれを感じたのは会ったばかりの頃だけだ。
今では、普通に知り合いのおじさんといった風に話しかけてきて、たまにトランプで遊んだりもしている。
お茶やお菓子を準備してやった後は、子どもたちの世界にいるべきではないとして、パソコンの前で作業しがてら、ばれないように遊んでいる様子を眺めていたが、そんなときでも遊びに誘ってくることもあった。
家族を持たぬ飛騨にとって、その温かさは、他の自分の全てを犠牲にしてでも守りたいと思えるものだった。
かつての同僚である岳羽詠一朗が、前当主の思惑を知って必死に阻止しようとしていたのも、きっと今の自分と同じ気持ちを持っていたからなのだろう。
今になって、ようやく飛騨はそれを理解出来た。
「……決行日は聞いていませんが、私の予測では次の満月の日だと思っています。満月の影時間はシャドウが活発化しますから、戦う力のない我々は影時間が明けるまで追う事ができません」
《なら、二人が来るまでに諸々を送ってこれるようにちゃんとしておくんだよ。まぁ、ご当主が情報隠蔽してるなら、八雲の方は経歴不明だろうけど、女の子の方は分かってるだろ?》
「実は、被験体は全員戸籍を抹消しています。ですが、ちょっとコネを使って新しい戸籍を用意しました。少年も改造後に名を有里湊に改めたのですが、そちらも用意してあります。ですから、普通に学校へ通ったりも出来るでしょう」
《また無茶を……。まぁ、それであんたがどれだけ本気なのかが余計に分かったけどね。子どもらにはこっちの素性とかも先に伝えておくんだよ。それにタダ飯食らいは置いてやらないからね。そっちが落ち着くまではいいが、少ししたら店の手伝いをさせるよ》
「……はい、ありがとうございます」
打算もなにもない、相手の善意に感謝し、飛騨は静かに通話を切った。
通話を終え、ポケットに携帯をしまうと、ソファーまで進んでそこに腰を下ろす。
飛騨はだらけた様子で座り、天井を見上げながら疲れたがどこか満足そうに息を吐いた。
「……ふぅ」
湊の望む未来。
そこへと続く道を作る手助けが出来ることが何よりも嬉しい。
本当は湊はそれを必要としていないかもしれない。
なにせ、湊の背後には自分たち以外のペルソナについて詳しく知っている者たちがいるようだから。
だが、湊は自分の用意した物を笑顔で受け取ってくれる気がする。
それだけで飛騨は、ここ最近の準備に追われて溜まった疲労を忘れられるほどの喜びを感じられた。
(本当は八雲の方で準備してあげたかったんですがねぇ。名字を調べるために、私が初等部の名簿を漁って他の研究員に君の素性がばれても困りますから。有里湊で我慢してくださいね)
独り心の中で呟いた飛騨は、湊に対し僅かに申し訳なさそうにする。
飛騨が依頼して作ってもらったのは、有里湊と吉野千鳥の戸籍だ。
チドリの方は過去のデータを漁れば、削除されたものを発見できたので、それを基に作りなおせば良かっただけだった。
しかし、湊はチドリに対しても八雲としか名乗っていない。
あのムーンライトブリッジの事故以降で、名字を名乗ったのはベルベットルームの契約の署名のときのみ。
それも、英語の筆記体で『Nagiri』と書いただけなので、正確に湊の本名を把握しているのは、今のところ桐条武治だけだろう。
(まぁ、名切りの一族だったなら、読みはナギリで、それに別の漢字を当てはめて名字にしたんでしょうねぇ)
そんな風に湊の本名を予想しながら、飛騨は席を立つと、冷めたコーヒーを淹れなおし。再び作業に取り掛かり始めたのだった。