5月18日(金)
昼休み――月光館学園
湊を会長として新たに発足された生徒会は、毎月何かしらのテーマを設定して学校全体で取り組むようにしていた。
今月のテーマは書記である西園寺円が適当にいった『いじめ撲滅』であり、生徒会のメンバーは相談窓口の開設と共に昼休みや放課後に見回りも行っていた。
別にこの見回りでいじめ現場を発見しようとしている訳ではない。これはあくまで人の目が存在すると印象付けているだけだ。
いじめというのはやる側は人目を避けようとする。直接的な暴力だけでなく、窃盗やら所持品に細工をするなど、加害者の行うことには種類があるが、それらは無関係な人間に見られて自分の行為が露呈することを何よりも嫌がる。
故に、湊は見回りをすることで学内に死角はないのだと印象付け、強化月間の間だけでもそういった犯行を自粛するように仕向けているのだ。
憎しみやストレスの捌け口など強い感情で行っている者はこの程度で止めはしないが、遊び半分でやっている者は期間が開くと飽きて勝手に止めていく。
そういった消極的な事態の収拾も狙いつつ、湊らは昼休みの十分間の見回りを終えて生徒会室に戻ってきた。
「……それぞれの報告を聞いておこうか」
ホワイトボードの前に立った湊はメンバーに視線を向けて発言を促す。校内の見回りは二人一組の三チームに分かれて行われていた。
一班は湊と会計の宇津木、二班は男子副会長の渡邊と書記の西園寺、三班は女子副会長の高千穂と庶務の木戸。渡邊や西園寺などは湊と同じ班になりたがっていたが、湊の班以外は生徒会に入る前から知り合いだったようなので、そういった相手との方が気持ち的に楽だろうと判断して湊が独断でチーム分けを行った。
それぞれが分かれた後はちゃんと見回りをしていたようで、渡邊が笑顔で手を挙げて報告をしてくる。
「はいはーい、二班は体育館の方を見回ったんですけど何もなかったッス」
「三班は職員室のある別館の方を見回ったけど何もなかったわ」
渡邊に続いて高千穂も自分たちがそれらしきものは見ていないと答える。湊も別に現場遭遇を考えていた訳ではないので、各班の報告を聞いて日誌に簡単に書きとめると解散する事にした。
「それじゃあ今日の見回りは終了だ。後は好きに昼休みを過ごしてくれ」
「りょうかーい。ミッチー、一緒にクラスに帰ろ!」
「俺は少し仕事があるから昼食は生徒会室で取る」
解散を告げると早速湊と同じクラスの西園寺が一緒に帰ろうと腕を絡ませ組んでくる。
湊はそれを真顔のまま外して置いていた鞄から昼食を取り出し、他の者は湊のいう仕事が何か気になったようで尋ねているが、特に他の者が手伝うような物ではないと聞いて宇津木は「失礼します」と言って生徒会室を後にした。
***
生徒会室を後にした宇津木は自分の教室に向かって歩いてゆく。見回りは集合と報告を含めれば昼休みの開始十五分だけだ。約一時間あるので十五分くらいならば使っても問題ないと他のメンバーからも文句は出ていない。
宇津木は中等部から入った生徒なので、去年一年間の留学でいなかった湊の事はよく知らない。
しかし、面倒そうにしながらも仕事はしっかりとこなし、何かさせるにも他の者から不平不満が出ないように調整しているところを見ると優秀な人間ではあるのだろうと思っていた。
もっとも、いじめ撲滅を掲げていながらも、直轄の部下が受けている行為に気付いていない事を考えれば少し滑稽に映る。
助けて欲しいと自分から言った覚えもなければ、そんな周囲が気付くレベルで目立つ被害を受けている訳でもないので気付けなくとも無理はない。
それでも、実際はすぐ近くの事も気付けない普通の人間でしかないのに、天才だ優秀だと大勢に持て囃されていることが、離れた場所から見ている宇津木には不思議でならなかった。
(今日は移動教室だったから、多分お弁当はない)
移動教室だったので、そのまま生徒会室に向かった宇津木は自分の弁当が既に捨てられているだろうと読んでいた。
昼休み前の四時限が移動教室の科目なのは月曜日と金曜日の二日だけ。月光館学園は土曜日まで授業があるので金曜日を週末とは言えないかもしれないが、週初めと週末の二日を我慢すれば、それ以外は教科書や机への落書き程度で済む。
そんな風に考えながら四時限で使った教科書や筆記具を持って教室に戻った彼女は、入ってすぐ窓際最後尾の自分の席に視線を送って驚愕した。
「なに……これ……」
いつもなら弁当の中身が捨てられているだけのはず。それなのに、教室に戻った宇津木が目にしたのは、図書室から借りていた本のページが無惨に破かれ自分の席周辺に散乱する光景だった。
目を見開いてゆっくりと自分の席に向かう宇津木を、他の生徒たちはちらちらと見てきている。
こんなのは普通ではない。明らかに嫌がらせを越えた悪質な行為であるというのに、誰一人して近付かないようにしていたというのか。
誰かに助けて貰おうとは思っていなかった。ただ我慢していれば飽きて自然になくなっていくと考えていた。
だが、いじめを行っている者らはこういった周囲にもはっきりと分かるレベルで手を出してくる人間で、他の者は異変に気付いても見て見ぬふりをする者しかいない事が今日で分かった。
“敵がいる”という認識が、今日この瞬間に“味方がいない”という認識に切り替わったのだ。
自分の席に到着し、ボロボロになった本の表紙に触れながら宇津木は虚ろな目で机の天板を眺める。そこには“調子に乗るなブス”と書かれていた。
どんどんと思考が暗く沈んでいっていた宇津木は、それを見て自分のどこが調子に乗っているように見えたのだと思わず笑いたくなった。
もしかすると、生徒会の見回りで有名人である有里湊と一緒に歩いていた事が犯人には調子に乗っているように映ったのかもしれない。
だが、彼女を生徒会に推薦したのは犯人たちだ。所信表明演説で恥を掻かせてやろうと仕組んだ事は分かっている。
それで対抗馬の生徒が一年だったことで、学年が上の宇津木が偶然にも通ってしまい。所属することが決まってからは、仕事で彼と一緒に居ただけだというのに逆恨みもいいところである。
(本当に……くだらない……)
持っていた物を机に置いて、散らばっている本の残骸を集め始める。他の者は見てきているがやはり誰も手を貸そうとはしない。
床に座り込んで必死に掃除をしている宇津木を犯人たちのグループはニヤニヤと笑って眺めているので、他の者も誰がこんな事をしたのかは気付いているはずだ。
相手は明るく学年でも目立つ生徒たち。そういった輩に目を付けられると今度は自分たちが被害に遭う。それが分かっているので他の者は何もしないのだろう。
今まではただ面倒だと思っていたが、味方がいないことに気付いてしまった宇津木は、どんどんと暗い気持ちが膨れ上がり自分が酷く惨めに思えてきた。
別に彼らに何かをした覚えはないし、暗いのだって人とのコミュニケーションが少しばかり苦手なだけだ。
それなのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。大学教授を務める親の薦めで進学校であるここへと来たが、こんな事なら小学校の友人らと同じ普通の公立に進めば良かったと、今さらな後悔を感じて視界が徐々に歪んでゆく。
(もう嫌……だれか、助けて……)
溢れてきた涙は集めていた紙片に落ちていき、今まで耐えてきた彼女もそれが切っ掛けとなってついに限界が訪れる。
友達も作れずに孤独な学校生活を送ってきた彼女は、人に助けを求める事が出来なかった。
そもそも、誰かが味方であると考えたこともなかったので、助けを求めるという事に頭がいかなかったのだ。
だが、彼女が初めて助けを求めたとき、その心の声を聞き届けた者がいた。
「ああ、任せろ」
よく通る低い声が教室中に響く。その声を聞いてハッとして顔をあげれば、宇津木が入ってきた教室の後ろ側の扉の所に生徒会のメンバーがいた。
最初に教室に入ってきた湊はハンカチを取り出すとそれを宇津木に渡して立ち上がらせる。
「貴重品は持っているか?」
「え、あの……持ってますけど……」
「高千穂、宇津木を連れて廊下に出ていてくれ。気分が悪いようなら保健室へ連れていっていい。渡邊と木戸は持ってきた手袋をはめて、散らばっている本のページを袋に回収」
『了解』
湊の指示を聞いたメンバーはそれぞれ動き出す。木戸はどこか不満そうにしているが、学校の備品が傷付けられた事に怒っているのか細かい欠片も逃さず集めている。
対して、渡邊は笑みを浮かべており、一人の生徒が泣いていたというのに少々愉しげだ。
そんな二人の男子の横を通って高千穂は宇津木に寄り添うと、優しい口調で「もう大丈夫よ」と言いながら廊下へと連れだした。
廊下に出た彼女は突然のことに涙が止まっていたが、どうして急に生徒会のメンバーが現れたのか分からず、保健室に行くか聞かれたが拒否して何が始まるのかと聞き返した。
すると、高千穂は普段通りのどこか冷たく見える美しい顔に苦笑を浮かべ、作業中の男子二人を眺めている会長に視線を送り静かに答えた。
「なんというか。まぁ、公開処刑よ」
***
他の役員に指示を飛ばした湊は、ポケットに手を入れながら破かれた本が回収されるのを待っていた。
本の値段は既に調べているので弁償させる事は可能だ。今は会計の宇津木が席を外しているので、領収書の発行は書記の西園寺に代行させるが、そんな事は後回しでいいので湊は静かに作業の終了を待つ。
そして、しばらくして作業が終わったのか、渡邊と木戸が立ち上がると二人は手に持った袋に集められた本だった物を掲げて見せてくる。
「会長、本の回収終わったッス」
「ああ、それは証拠品だから無くさないように持っていろ。木戸は袋を渡邊に預けて、宇津木の机と同じサイズの机を屋上前の踊り場から一つ持ってきてくれ。ちゃんと雑巾で拭いて綺麗にした状態でな」
「なっ……分かりました。ですが、庶務って雑用という意味ではないので、それは覚えておいてください」
「すまないな」
新たに用事を申しつけられた木戸は、少し面倒そうにしながらも落書きされた机を見て察したのか、渋々新しい机を取りに向かった。
それを見届けた湊はポケットから手を出すと、普段以上に冷たい瞳をしながら結ってある髪を掻き上げて口を開く。
「最初に言っておくがお前らに拒否権はない。出席番号八、十一、十七、二五、三一の生徒はこっちへ来い。丁度そこにかたまっているお前らだ」
湊が口にした出席番号と指した生徒らは、まさしく宇津木をいじめていたメンバーであった。
彼らは湊にばれていることに驚愕しているようだが、有無を言わせぬ気配に黙って言う通りにやってきて少し怯えた様子で話しかけてくる。
「あ、あの、私たちに何かご用でしょうか?」
「ああ、お前ら二千円は持っているか?」
言われた生徒らは頭の上に疑問符を浮かべる。てっきりばれて怒られると思っていたのだが、急に何で金の話になるのかが分からなかったのだ。
しかし、二千円なら持っていたので、全員がポケットから財布を取り出すと札入れのところから二千円だけ取り出し、それを湊に見せた。
直後、湊は素早くそれらを奪って懐から出した封筒に収めてしまう。突然のことに抗議しようとしかけたところで、湊が先に話し出したのでそれらは不発に終わる。
「西園寺、彼らに領収書を」
「はいはーい。それじゃあ、これ貴方たちがビリビリにした本の代金を受け取ったって証明ね。よりにもよって一万円する本を破くだなんて頭悪いんだねー」
二千円を奪われた直後に領収書を渡され、さらに綺麗な先輩から満面の笑みで罵倒されたことで再起動した生徒らは、一体何のつもりだと改めて抗議をしてくる。
「ちょ、急になんなんですか。お金返してくださいよ。本を破いたとか俺ら知りませんよ」
「そうです。移動教室から帰ってきたらああなっていて、私らもどうしたのかなって話してたんですから」
「……最初に拒否権はないって言っただろ。お前らが宇津木の弁当を捨てていた事も、教科書や机に落書きしていた事もこっちは分かっているんだ。証拠もしっかり存在するし、何より回収した本からお前らの指紋が出てくれば一発でアウトだ。何せお前らは一年時の学校案内でしか図書室を利用していないんだからな。大事にしたくないなら黙っていろ」
湊は上着のポケットから何枚かの写真を取り出し、それを加害者の生徒らに見せる。そこに写っていたのは、宇津木の鞄から彼女の弁当箱を取り出している加害者たちの姿であった。
教室どころか廊下にも誰もいない事を確認して犯行に及んでいたというのに、どうしてそんな写真があるのか分からず、加害者たちは顔面を蒼白にさせる。
彼らが犯行に及んだとき、確かに教室や廊下には誰もいなかったが、残念なことに湊には索敵能力があり、その知覚した情報はEデヴァイスを使えば動画や写真として保存しておく事が出来た。
湊の索敵範囲は首都圏全域を余裕でカバーできる。そんな規格外の存在にマークされれば、一般人である彼らにプライバシーなど存在しないのだ。
仮に本を破いていないと言ったところで、他人の鞄から弁当を取り出している時点で問題行為になるため、その証拠を押さえられている加害者らは言う通りに口をつぐむ。
領収書を持ったまま黙る相手の様子を見つめながら、続けて湊は上着の内側から四百文字詰めの原稿用紙を複数枚取り出して彼らに渡した。
「それじゃあ、一人最低千文字で一人の女生徒を複数名でいじめていた事に対する反省文を書いて来い。提出は五月二十一日、来週の月曜日だ」
「……へ? あの、退学とかじゃないんですか?」
取り出した原稿用紙を一人三枚ずつ渡され、加害者の生徒の一人がキョトンとした顔で聞き返す。
それも当然で湊は先ほどまで人を殺せそうな冷たい表情をしていたのだ。ピリピリと空気を張り詰めさせるほどの怒りを発してそんな表情をしていれば、加害者らも半殺しや退学を覚悟するというものだ。
けれど、問われた湊はマフラーから取り出した煙管を咥えると、聞き返して来た生徒にどこか呆れた様子で答える。
「なんだ。退学にして欲しかったのか? だが、残念な事に生徒会にそんな権限はない。何より、生徒の更生を促すのも仕事の内だ。もう二度とするなよ」
「は、はい。どうもすみませんでしたっ」
『すみませんでした』
一人の生徒が謝ると他の者も同じように頭を下げる。顔では申し訳なさそうにして反省しているようだが、実際はこの程度の処分で済んで良かったと安堵しているらしい。
そんな相手の内面を読み取りながら呆れた顔をしていた湊は、とりあえず生徒会としての処分は下したとして、木戸が持ってきた机へ落書きされていた机の中身を移しかえると、証拠品の机を木戸に運ばせながら教室を去る事にした。
***
高千穂に寄り添われながら廊下に出ていた宇津木は、湊がしっかりと証拠を固めた上で相手を裁きに来ていた事に驚いた。
だが、公開処刑という割には事務的な処分を下したのみで、随分と目立つ人間だがやはり一生徒の権限ではこれが限界なのだと、助けに現れたときに感じた不思議な胸の高鳴りは静かに治まっていった。
彼と一緒にいた生徒会のメンバーも廊下に出てきて、湊が教室を出ようとしていたことで解放されたと思った加害者たちも自分たちの席に戻ってゆく。
弁当を捨てられた事で代わりの昼食を買うはめになったり、教科書に落書きされたことで勉強に僅かな支障が出たが、やはり被害者の救済よりも事態の収束を学校側は重要視するようだ。
助けて貰ったことは非常にありがたいが、どこかやり場のない気持ちを胸中に残しながら宇津木がやってくる湊を見つめていたとき、彼は教室から出る直前で立ち止まり席に戻りかけていた加害者の一人に向かって口を開いた。
「……話は変わるんだが、君の父親は警察官らしいな。警察官の子どもが女子を集団でいじめて泣かせたのか。そんな事が周りに知れればさぞ肩身の狭い思いをするだろうな」
その言葉を聞いても宇津木は意味がよく分からなかった。しかし、男子の一人が驚愕に目を見開いていることで、彼の父親が警察官なのは真実らしい。
人を助ける仕事である警察官の息子がそれと対極な行為をしていたとすれば、確かに普通のサラリーマンの子どもが人をいじめていたというより問題になるかもしれない。
けれど、何故そんな事を湊が知っているのか分からず不思議に思っていると、湊は加害者の女子の一人を見つめて言葉を続けた。
「君の父親は今年の四月から部長に昇進したらしいな。おめでとう。しかし、娘が野球部の男子複数名を使って一人の女子をいじめたとなれば、その後の昇進は絶望的かもしれないな」
再び相手の家庭事情を湊は芝居がかった仕草と口調で話し、そこに脅すような言葉を付け加えた。
野球部の男子複数名を使って一人の女子をいじめたと聞くと、どことなく襲われて性的暴行を受けたように聞こえてしまうのは気のせいだろうか。
言っている事は事実かもしれないが、意図的に第三者が受け取る印象を捻じ曲げているように感じながら見続ければ、湊は瞳だけ冷たい色のまま顔には薄い笑みを浮かべ別の加害者に声をかける。
「君のお兄さんは大学四年で就活生らしいな。今は本命の第二面接までいっているとか。あと二つの面接で無事に内定だ。生徒会の長として生徒のご家族には是非とも夢を掴んで貰いたいと願っているよ。まぁ、身内に集団で一人をいじめていた者がいると分かれば、内定が取れても取り消される可能性はあるがな」
それを言われた女子はガチガチと歯を鳴らしながら震えている。他の加害者たちも同じように怯えており、どちらが加害者なのか分からなくなりそうなほどだ。
残っていた二人の生徒も似たような内容を告げられ、加害者一同は湊に駆け寄り頭を下げて懇願する。
「お、お願いします。どうかお父さんの会社だけにはっ」
「何がお願いしますなんだ? 生徒がいじめを行っていて反省文を書くとなれば、その事はご両親に説明するのは当然だろう。そのとき、務め先に電話をして取り次いで貰うには“御社にお勤めの誰々さんのお子さんが女生徒を複数人でいじめていた件でお電話させていただいたのですが”って説明しなきゃならないじゃないか」
「父の携帯番号を教えます。ですから、連絡する際にはそっちに直接っ」
「いや、学校として電話するからには相手側も会社から取り次いで貰う方がいいんだ。君の気遣いはありがたいが番号を聞くのは遠慮しておこう」
相手の言葉をあっさりと聞き流した湊の顔に浮かぶのは、怖ろしく冷たい氷の微笑。明らかに中学生が浮かべられる表情ではない。
傍らで見ている宇津木は、既に彼が自分と同じ中学生だと思えなくなっていた。
「すみません、自分が悪かったですっ。だから、どうかお願いします。父の会社には連絡しないでください!」
「断る。反省するのは結構だが、俺は何も悪くないからな。別に後ろ暗い事なんかないのに、どうして連絡一つにコソコソとしなければならないのか理解出来ない」
「そんな事されたら、父は職を失って家の家族はっ」
先ほどとは別の生徒が涙と鼻水で顔面をぐちゃぐちゃにしながら土下座をして謝っている。だが、またしても湊は相手の言葉をばっさりと切り捨てて要求を拒否した。
自分をいじめていた者たちが、人前だというのにあんなにも無様な姿を晒している事に宇津木は驚く。
しかし、それよりも言葉だけで簡単に恐怖のどん底まで叩き落とした、生徒会長“有里湊”という人間に強い興味を抱いた。
どこで生徒らの個人情報を掴んできたのかは分からない。それでも、同じ情報を持っていても自分ではここまで相手にダメージを与える事が出来ないと、宇津木ははっきり理解している。
彼がどうして圧倒的な票を獲得して生徒会長に推薦されたのか分かっていなかったが、こういった他者の心に干渉する話術や仕草によって、他の者の記憶に強烈な印象を残して来たのだろう。
「やれやれ、まるで俺が酷い事をするような言い方だな。勘違いしているようだが、俺は事実を伝えるだけだ。じゃあ、その伝えるべき事を実際に行ったのは誰だ? そう、お前たちだ」
純然たる事実を突きつける湊を前に、許しを請う者たちは一切反抗しようとしていない。普段は多少の無茶も強引さで押し通して来た者たちなのに、ここまで従順だと少し違和感すら覚える。
野球部レギュラーである男子二人はそれなりにいい体格をしているのだが、湊はそれよりも十センチ近く長身で、手足の長さから細く見えるようで実際は武道系の部活をしている者よりしっかりとした身体をしている。
加えて、宇津木は噂で聞いただけだが、湊は一年生の頃にボクシングチャンプだった上級生を非公式の試合で破ったらしい。そんな者が相手では力技でどうにか黙らせる事も出来ず、今のように大人しく許して貰おうとするしかないのかもしれない。
「お前らが余計な事をしなければこんな事にはならなかったんだ。父親が職を失い、兄がどこにも就職出来なくなったとしても、全部自分たちのせいなんだよ。覚えておけ、お前らが罪を犯したとき、その報いを受けるのは自分だけとは限らないことを」
どこか実感の籠ったその言葉には恐ろしいほどの重みがあった。彼の事をよく知らない者であっても、その言葉は彼がどこかで身を持って知った事なのだと理解出来てしまうほどだ。
心の中で呟いた“助けて”という言葉を聞き届けた青年の姿を見て、宇津木は治まっていったはずの不思議な胸の高鳴りを再び感じる。
加害者や他の者には彼の姿が悪魔や魔王のように映っているかもしれない。しかし、教室の窓から差し込む光を背にした圧倒的な存在感と絶対的な強者としての姿を目にした事で、宇津木は彼が自分たちとは異なる天上の存在なのだと思った。
「というか、そもそも俺に言うのが間違いなんだ。謝る相手は俺じゃなくて被害者だろ? もしも、宇津木がお前らを赦すのであれば俺は何もしないさ」
その言葉で加害者たちは宇津木に向き直ると、即座に廊下までやってきて彼女の足元で土下座をしてくる。
「ごめんなさい、宇津木さん! もう二度こんな事はしません、赦して貰えるのなら何でも貴女の言う通りにします。だから、どうか会長に連絡しないようにいってください!」
彼の一言で力関係が完全に逆転してしまった。相手の謝罪は反省よりも自己保身ばかりに走っているように感じられたが、今の宇津木は自分がいじめられていた事も含め、彼らの事などどうでも良かった。
土下座する者らを避けながら隣にやってきた青年が「どうするんだ?」と尋ねてきたことで、宇津木は前髪で隠れた瞳を潤ませ、頬を上気させながらぽつりと呟く。
「――神」
「……ん?」
「いえっ、あの……会長に全てお任せします。この人たちに興味はないので、近付いて来なければ後はどうでもいいです」
普通に返事をしようと思っていたのに、つい心の中で思っていた呼び名で相手を呼んでしまった事で、宇津木は少し慌てながら言葉を返した。
今までの人生の中で神仏に対する信仰心などあまり持っていなかったが、人の姿を借りて現れ自分を救ってくれた存在を崇めずにはいられない。彼女は自分が崇めるべき存在を見つけたのだ。
そんな心境の変化を起こし、今までよりも饒舌になった上に“先輩”から“会長”呼びになった彼女の姿は、嬉しそうにブンブンと振られる尻尾と犬耳を幻視してしまうような従順な態度にまわりには映った。
そのとき読心能力を展開していた湊も、急に自分を神と呼んで熱視線を送ってきた宇津木に若干驚きつつ、それでも彼女の負った心の傷が自分に対する信仰心とやらで埋まっていくのなら別にいいかと好きにさせる事にした。
「そうか。お前ら宇津木に感謝しろよ。お前らとその家族の命が首の皮一枚で繋がったのは、宇津木の優しさのおかげなんだからな。ちゃんと月曜日に反省文を出せば、自宅への電話連絡による事情説明だけで済ませてやる」
「あ、ありがとうございます! 本当にすみませんでした!」
『すみませんでした!』
本気の涙を流して赦しを請うてきていた者たちは、安堵から腰が抜けて立てずにいる。だが、昼休みの終了まではまだ時間があるので、証拠品やらの移動のために生徒会メンバーは加害者をそのままに生徒会室へと移動した。
――生徒会室
生徒会室に移動する際、捨てられた弁当の代わりを買って来いと湊に言われ素直に従った宇津木は、席について総菜パンの袋を開けつつ、それぞれ昼食を食べ始めていた他のメンバーや報告書を書いている湊に感じていた疑問を尋ねていた。
「あの、どうして来てくださったんですか?」
「んー? ああ、あれは会長の指示でな。生徒会活動をしに行くぞーって袋やら手袋やら領収書やらを準備させて、自ら先陣をきって君のいる教室へと向かわれたのだよ」
「ってか、いじめ撲滅キャンペーンやってるんだから、宇津木ちゃんもわたしいじめられてますって言えば良かったのにー」
笑いながら弁当を食べつつ事情を説明する渡邊に対し、西園寺はドーナツを頬張りながら中々の無茶を言ってくる。
宇津木は他人に助けを求めるという発想がなかったパターンだが、そうでなくても被害者が他の者に助けを求めるのは勇気がいるものだ。
いじめられている事を知られるのが恥ずかしい、助けて貰えなかったときの事を想像すると恐い、理由など様々だが難しい上に気力と体力が必要な行動ではある。
その事をいじめに関する知識として知っていた高千穂は、無茶な事を軽いノリで口にした西園寺をジトっとした視線で見つめて諌めた。
「西園寺さん、少しは宇津木さんの事も考えてあげるべきよ。誰しもが貴女のように強くはいられないのだから」
「えー、まどかの心はガラス製だよ? 可愛さに嫉妬した他の子にもよくいじめられてるし。ミッチーみたいなイケメンに守って貰う必要のあるか弱い乙女だよー」
「会長、そいつの心は強化ガラス製なんで助ける必要ないっスよ」
諌められても飄々としながらちゃっかり湊にすり寄る西園寺、そんな彼女と以前から知り合いだった渡邊がばっさりと切り捨てて相手をしなくていいと湊に進言する。
それに頬を膨らませて西園寺は反論し、上級生二人がふざけあっているのをスルーしながら行儀よく弁当を食べていた木戸も、眉を寄らせて呆れた表情で宇津木に話しかけて来た。
「西園寺先輩じゃないけど、お前ももっとサイン出すとかしろよ。匿名で意見箱にどこどこのクラスでいじめがあるって投書することも出来ただろうに」
彼の言う事はある意味もっともだ。いじめというのは加害者か被害者が大きなアクションを起こさない限りは周囲も気付く事が出来ない。
故に、直接言うことが出来ないのなら、周囲の目が向き易くするなど自分で出来る範囲で小さなアクションを起こした方が解決する可能性も高まる。
指摘されたことでそんな方法がある事に気付いた宇津木が僅かに顔を俯かせたとき、報告書を書き終えて提出用ファイルに挿んでいた湊が会話に参加してきた。
「……サインなら出してたぞ。五月のテーマを決める時点でな。だから、俺はいじめ撲滅をそのままテーマとして採用した。それで加害者がやめればそのままにするつもりだったが、部下を泣かせた莫迦をすんなり赦せるほど俺は大人じゃない。抑止のための周囲へのアピールも含んでいたとはいえ、お前らまで付き合わせて悪かったな」
湊が今回動いたのは宇津木の限界を感じ取ったからだ。ここで止めておかねばエスカレートして彼女に直接危害が及ぶ可能性もあり、証拠も揃っていたので動いたのだが、教室に到着した時点で彼女が泣いていた事で湊はキレた。
本当は生徒会で動く事で学園中に目が届いている事をアピールし、大勢の前で反省させた上で謝らせることにより別件の加害者らもやめていくように仕向けるつもりだった。しかし、大勢でか弱い女子をいじめて泣かせたとなれば、弱者を救う事を義務として考えている湊がそんな真似をしたクズを許しはしない。
「マジで? うわ、オレ気付いてなかったわ。ゴメンな宇津木ちゃん。てか、部下のために怒るとか会長カッケーっすね!」
「うんうん、まどかが泣いたときは抱きしめて慰めてねミッチー!」
湊が怒った理由を聞いて渡邊たちが笑みを浮かべる。彼は条件が揃えば他の者が被害にあったときにも今日と同じように他の者たちも助けてくれる。それが分かっているからこそ、渡邊たちは安心感を覚え嬉しくて笑っているのだ。
それを見ていた宇津木は、他者に慕われていてやはり神様はすごいと尊敬の眼差しを送り、これまで見せた事のない熱の籠った視線で湊を見ながら昼食を取っていた。
加害者たちも今日の事がトラウマとなり二度と他者をいじめたりはしないだろう。被害者の宇津木も少々特殊だが別のことで心の傷が塞がっていっているようなので、この件はとりあえず解決と判断していいはずだ。
そうして、初めて大々的に行われた生徒会活動は無事に終了し、いじめ案件という非常に難しいものを解決した事で教師からの信頼を得る事も出来た。今まで消極的にしか参加していなかった宇津木も本格的に参加するようになったことにより、生徒会はようやく全員が揃った形でのスタートを切ることが出来たのだった。