1月13日(土)
影時間――タルタロス
手に持った斧に繋がる鎖を揺らしながら、チドリは独りタルタロスの中を進む。
動き易い私服の腰にはダークブラウンのガンベルトが巻かれ、その中には
メーディアを召喚せずとも探知能力でおおよその敵の場所は分かっている。
静かな空間にいることで研ぎ澄まされた神経が、世界にとっての異物である心の化生たちの気配を感じ取り、敵まで随分と近いことを知らせていた。
戦闘にすぐ移れるようチドリは武器を握り直すと、地面を蹴って駆け出し、曲がり角の向こうにいる敵まで一気に距離を縮める。
《グララッ》
そこにいたのは二体の魔術師“マジックハンド”。火炎属性を得意とするメーディアとは相性が悪いが、チドリは相手が突然現れた自分に驚いている間に、持っていた斧の片方を投げつけ仮面を叩き割った。
強襲からのクリティカルで大ダメージを負った敵は、そのまま黒い靄となって霧散する。
もう一体もまだ完全には戦闘態勢に移っていないため、チャンスだとばかりにチドリは誕生日に湊から貰った新しい召喚器を頭にあてて引き金を引いた。
「メーディア、ムド!」
《ルルゥ!》
水色の光と共に現れたメーディアが手をかざすと、敵を囲うように闇の魔法陣が発生する。
命を奪う呪殺の魔法。それは心の化生であるシャドウにも効果を発揮し、魔法陣の黒い輝きが最高潮まで高まると敵は黒い靄となって消えていった。
目の前の敵を倒したチドリは思考を戦闘状態のままにして周囲の気配を窺う。
別のシャドウがまだどこかに隠れているかもしれず、一人のときにそんな不意討ちを喰らってしまえば死は免れない。
故に、チドリは最も近い敵でも数十メートル離れていることを確認してから、ようやく一息ついて召喚器をガンベルトに戻した。
(……これで今日は十四体目。でも、体力も精神力も十分残ってる。まだいける)
自己判断だが冷静に状態を把握し、チドリは探索をこのまま続行すると決めて歩き出す。
彼女は今までもタルタロスを探索することはあったが、それは基本的に湊が付き添っており、このように一人で訪れたことは一度もなかった。
しかし、英恵の暮らしている桐条別邸から帰って来た桜に湊の状態を聞き、その日からチドリは何かに取り憑かれたようにタルタロスに通うようになった。
原因は実に単純だ。今までの無理がたたって心が壊れて戦えなくなった湊に代わり、自分がシャドウと戦うことでその被害を減らそうと考えたのである。
湊は裏の仕事をしながらでもほとんど毎日のようにシャドウを狩っていた。全てのシャドウがそうという訳ではないが、敵として現れるシャドウは誰かの心から抜け出てしまったものだ。
ならば、当然その持ち主は影人間になっており、長く放置すると倒されたシャドウが戻ってきても完全には治らなくなる。
チドリも街中で影人間と呼ばれる無気力症患者を見たことがあるが、夜中に暗い路地にいればゾンビそのものだと思うほど、“生きた屍”という言葉が当てはまる酷い有様だった。
ペルソナごと能力を失った湊もああなっていた可能性もあったと思うと、チドリは以前のように他人事とは考えられなくなり、湊の代わりという理由が最も強いが真剣にシャドウとの戦いに臨むようになった。
(……もう八雲は戦えない。だから、私が代わりに戦う。今まで守って貰ったお返しに、今度は私が八雲の守ってきた世界を守る)
進む先に新たな敵の姿が見えてきた。相手はまだこちらに気付いていない。ここからならば魔法での先制が有効だろうと、チドリは召喚器を頭にあててペルソナを呼ぶ。
「おねがい、メーディア。アギラオ!」
現れたメーディアが手に持つ杯から巨大な火球を飛ばす。
ごうごうと音を立てながら直進したそれは、迫り来る攻撃に気付きながらも逃げ損なった法王“トランスツインズ”を呑み込み、そのまま燃やし尽くした。
いくら湊に守って貰っていたと言っても、チドリとて何もせずに過ごしていた訳ではない。
学習能力と身体能力は湊も認めるほどであり、本人のやる気が伴えば数多の分野で一流になるだけの素質を持つ天才だ。
その彼女は天災と比喩され恐れられた一族の生まれである湊の隣に立つため、相手が裏の仕事に行っている影で密かに努力を続けていた。
二次性徴を迎えて身体が出来上がってきたこともあり、渡瀬からは八極拳を、鵜飼からは剣術を本格的に学び今でも鍛錬を積んでいる。
並びたい人物が遥か遠くにいるため、チドリの目指す場所も自然と高くなり、非力な少女の身でありながらその実力は人を殺められる域に達している。
だが、チドリはそれを自覚していることで、力を振るう量と時をしっかりと見極めることが出来るので、鍛錬を見てきた者以外に彼女の本当の実力を知る者はいない。
(……宝箱。一応、中身は確認しておくべきかしらね)
敵を倒して進み続けると、分岐した通路の奥に宝箱が置かれているのが目に入った。
エルゴ研時代や湊と二人で来たときには中身を確認していたので、奥に宝箱しかない行き止まりだと理解しつつ、今までの習慣からわざわざ向かってその蓋を開けた。
(長い刀。分類的には大太刀でしょうけど、八雲が欲しがるかどうか……)
中に入っていたのは黒い柄糸と鞘の大太刀が一振り。
手に取って鞘から抜いてみると、長い上に反りが強めでそれほど身長の高くない自分では扱いづらいだろうが、中々に切れ味が良さそうな業物であると眞宵堂のバイトで鍛えられた審美眼で見抜く。
タルタロスでは度々このような武器を手に入れることがあるため、今回のシャドウ狩りにも斜め掛けで背中に背負うタイプの刀入れは持ってきていた。
手に持った感じからすると一キロ以上はあるようだが、持って振り回しでもしなければ学校の鞄の方が重いくらいだ。
いまの湊に武器は不要だが、相手は幼い頃から刃物を集めるのが趣味だったので、退行していても欲しがるかもしれないと持ってゆくことにした。
(余計な荷物があると戦いづらい。今日はここまでね)
そして、体力等々はまだ余裕があるが、大太刀を背負っていては動き辛いので、安全を考えて本日のシャドウ狩りを終了する事に決める。
本当の実力を持つ者は目的のために引く事も出来るものだ。チドリは湊の代わりに連日シャドウを狩っているが、多少の無理はすれども限界までは戦おうとはせず、しっかりと明日以降に繋がる様に引き際も見極めている。
その見極めに関しては正直に言って湊よりもチドリの方が上だ。
湊は大概の事は出来る上に、目的のために自分が犠牲になる事を厭わない。
本人の肉体の性能があるからこそ百体以上のシャドウを狩った次の日でも戦いに赴けるが、性能頼りの戦い方など本来は褒められた物ではない。
エルゴ研時代に被験体らでチームを組んで探索していた状況を考えれば、湊には集団を指揮した上で生存させる能力が備えられている。
その日の探索で湊はまったく戦闘を行わずとも、指揮をしたチームが討伐数で他を圧倒的に引き離す結果を出しているのだから、彼が十分な指揮官としての才を備えている事は確実だ。
しかし、指揮官として天賦の才を持っていながら、引き際を見極める能力が自身よりも劣っている事がチドリは腑に落ちない。チームの人間という能力的に劣る枷を付けなければ才能が発揮されないなどあるはずがないのだ。
彼が引き際を見極められないのは、やはり単純に己のことを全く考えていないからだろう。
何度自分のことを大切にしてと言っても聞かない馬鹿な相手に少々の怒りを感じつつ。刀をしっかりと背負ったチドリは敵の位置と脱出装置の場所を把握し、途中にいる敵を屠りながら進むと脱出装置を起動してエントランスへと戻った。
***
不思議な光に包まれ一瞬の浮遊感を味わうと、辺りの風景が変化して転送が無事に済んだ事を確認する。
エルゴ研時代から何度も利用しているが、誰も上ってすらいない階層にどうしてこういった人工物があるのかは不明だという。
解体してでも装置を持ってくることは出来ないかと言った研究員もいたが、マッサージチェアを抱えて歩くようなものだぞ、と湊が返すと相手は黙った。
もっとも、後で本人にそんなに重いのか尋ねれば、面倒だから適当なことを言っただけだと答えていたので、実際にどれだけの重さになるのかは分からない。
けれど、この装置に使われている技術はシャドウらの時空間に干渉する能力と同じ物らしい。
どうして湊がそんな事を知っているのかは分からないが、訊いても答えなかったので現在も真相は謎のままである。
そうして、転送の余韻も消えたことでチドリが歩き出すと、顔を上げた先に珍しい人物を発見したことで足を止めた。
「……何か用?」
彼女から十数メートル離れた視線の先にいたのは、分厚い本を脇に抱えた青いエレベーターガールだった。
視線が合っても相手は薄い笑みを浮かべており、その笑みが癇に障ったチドリは言葉に棘を含ませて声を掛けた。
すると、立ったままでいた相手はチドリの方へと近付きながら、静かに口を開き言葉を返してくる。
「いえ、ことさら何か用があって参った訳ではないのですが、ここ連日、随分とシャドウとの戦いに精をお出しになっていると思い。少々興味を抱いたので待っておりました」
何故相手が自分の行動を把握しているのかは分からない。
だが、相手は普通の人間とは違う理で生きる存在だ。異質さという意味では湊の上をゆく。
これといって嫌いになる要素はないが、だからといって湊と無関係のところで会っていたとしても交友は持っていなかったと断言できる。
それゆえ、距離感が少々掴み辛いが、相手は湊が力を得るのに協力してくれていた人物の一人なので、多少の面倒臭さを感じながら相手をすることにした。
「別に……ただ、八雲が戦えないから私がやってるだけよ」
「なるほど。いつ力が戻るかも分からなければ、シャドウ討伐には他の方が出向くしかありませんものね」
「……力を取り戻す方法を知ってるの?」
「いえ、存じません。私どもはお客人の様子を視ることが出来なくなりましたから、そもそもどのような状態かも詳しくは分かっておりませんので」
相手の言葉に僅かな期待を感じるも、即座に否定されてチドリは苦い表情を浮かべる。
現実世界の理の外にいるエリザベスたちならばもしやと思ったのだが、湊の状態をしっかりと把握していなければ確かに解決法も分からないだろう。
だが、直前の相手の言葉に引っ掛かるものを感じたチドリは、顔を上げて相手に尋ねた。
「様子を視ることが出来なくなったってどういう意味? 今まではしっかり視えてたの?」
「完全に視ることは出来ませんが、以前はおおよその流れと申しましょうか、八雲様の置かれた状況を中心に大局を視ることが出来ておりました。しかし、戦いの終わった日、影時間が明けてからは八雲様の存在を感知出来なくなってしまったのです」
戦いの終わった日とは、湊が久遠の安寧と決着を付けた日のこと。その影時間が明けたときに何かあったかと考えると、湊がペルソナを失ったのと同時期だとチドリは気付く。
エリザベスたちがどのような手法で現実世界の様子を見ていたのかは不明だが、仮に湊のペルソナを通じて現実の様子を窺っていたとすれば、能力消失が一応の原因だと見る事も出来た。
とはいえ、チドリはその推測が間違いだと分かっている。なぜなら、湊のペルソナを通じて状況を理解していたとすれば、海外にいる間は離れた場所にある日本のことまでは分からないはずだからだ。
以前、お互いに探知型の能力を持ったペルソナを有している事で、どこまで遠くを探る事が出来るのか湊と二人で話したことがある。
そのとき、細かい部分まで見るなら集中力の関係で街一つくらいが限度だが、ただ風景を眺めるだけなら隣の県までいけるかもしれないとチドリは語った。
対して湊は、その発言にどういう意図があったのかは当時分からなかったものの、
「まぁ、屋久島くらいまでなら少し集中すればいける」
と信じられない事を言ってのけた。
アイギスという少女と知り合った今はその言葉の意味を理解したけれど、理由が女だったとしても湊の索敵範囲は少しの集中でそれくらい。かなり集中して沖縄県辺りまでといったところだろう。
東京から沖縄まではおよそ一五〇〇キロ離れている。
細かい索敵ではなく、あくまでただの望遠能力としてだが、湊の索敵範囲がそれくらいだと仮定すれば、三〇〇〇キロ以上も離れた場所にいる湊を介して日本の様子を視る事は不可能といえた。
そんな風に、湊の能力の消失と相手が湊の様子を視れなくなった関係性について、チドリが顎に手を当てて考察していると、正面に立って薄い笑みを浮かべていたエリザベスが言葉を続けてくる。
「そちらの原因は分かっておりますので、チドリ様が気にされる必要はございません。それより、八雲様が力を取り戻す方法ですが、もしかすればという考えはあります」
言ってチドリの前から離れるなり、エリザベスは上階への階段向かって右側まで進み。何やら本を開いて小さな声で呟いている。
相手が何を言っているのかは聞き取れないが、少しすると本が光を放ち、彼女の前方の地面に魔法陣が展開した。
光は段々と強さを増し、あまりの眩しさに目を開けていられなくなると、腹の底に響くような、ゴゴゴッ、という音が聞こえて光はいつの間にか治まっていた。
相手は一体何をしていたのか、先ほどの音は何だったのか、そんな風に考えながら目を開けた先には、大きな白銀の扉が現れていた。
「この扉は“ヘブンズ・ドア”。タルタロスの地下階層である“深層モナド”への入り口です」
扉から離れて戻ってきたエリザベスは、先ほどよりも笑みを深めて話しかけてくる。
「中には強力なシャドウたちがおりまして、適性値“88000sp”、レベルという言い方をすればレベル88以上の者たちが彷徨いている危険なエリアです。現在のチドリ様は“7840sp”、四捨五入してもレベル14と言ったところですから、その差から強さを読み取って頂けると思います」
どうして相手が自分の適性値を知っているのかは今さら聞かない。桐条側に適性値を計測する機械があるのなら、湊にEデヴァイスというオーバーテクノロジーの塊を授けた者らが、それと同じ機能を有した何かを持っていても不思議ではない。
ただ、今の自分では勝てないような強力なシャドウらのいる階層への入り口を、何故このタイミングで作ったのかが分からず、扉に数秒視線を送った後、チドリは訝しむようにエリザベスへ尋ねた。
「それで、そんな危ない場所のことを何で教えてくるの?」
「この中に八雲様の力を取り戻す効果を持ったアイテムが存在するかもしれないのです」
「っ!?」
相手の言葉にチドリは目を見開き驚愕する。
ベルベットルームの住人は湊を観察することが出来なくなった。故に、現在の状態もよく分かっていないとのことだが、原因が分からずとも治療出来るような魔法の品が存在するというのか。
流石にその言葉を素直に信じられるほどチドリは単純ではない。
そもそも、湊が失ったものを取り戻せればいいとは思っているが、それとは別にもう戦って欲しくないという想いもある。
湊はずっと頑張っていた。彼は自分の願いのためだからと、他者から見れば苦行に近いものを苦労ですらないと言ってこなしていた。
血と硝煙の臭いをさせて帰ってきたことや、実際に上着に穴が開いて血に染まっていたこともある。
彼は一見不死身だが、実際には痛覚もあれば死にもする。ただファルロスによって蘇生されているから現在も生きているだけだ。
そして、相手は己の身に何があっても弱音を吐いたりしない。
切られても、撃たれても、肉が炭化するほど焼けても、それ以上に辛い目を知っているから我慢出来ると、全てを自分の中に押し込めて外に出さないのだ。
身体の傷は治るから我慢するのはまだいい。もっとも、眼と腕を失って帰ってきたことから、ファルロスの蘇生や治療も万能ではないと判明したが今は置いておく。
問題は心の傷の方で、そちらは身体の傷と違って目に見えないので、本人が黙っていると誰も気付けない。
一緒に暮らす様になって六年近くになるが、湊が自分の過去や家族について話した事はほとんどない。
ベルベットルームの住人らから“名切り”という特殊な家の生まれと聞いたことで、だから何も話さなかったのかと思ったが、当時の湊は自分の生まれた家について何も知らなかったという。
では、どうして何も話さないのかと考えたとき、チドリは過去に言っていた湊の言葉を思い出した。
曰く、苦労話は誰の得にもならない。
確かに苦労話をしたところで、聞いた側は相手を労うなり同情するのが限度で、それ以上に生産的な話しには普通ならない。
しかし、本人は誰かに吐き出すことで楽になることもある。
チドリたち湊の周囲にいる人間は、そういった彼の抱える想いを理解したいと思っているし、共有することで負担を減らしたいと思っている。
けれど、自分の抱える負の感情を伝えるのは、相手の重荷になると本人は考えているらしく、未だに素直な相手の弱音を聞いた者はいなかった。
今回の退行も本当はそういった負の感情を溜めこみ過ぎた事で、湊の心がついに折れてしまったのではないかとチドリは思っている。
敵を滅ぼすまではイリスの敵討ちの復讐を原動力に動けていた。それが終わったことで、緊張の糸が切れるように、今まで溜め込んでいたものやイリスの死という哀しい現実に対する想いが溢れてきたのかもしれない。
普段は誰よりも強いように見えるが、本当の湊は誰よりも甘くて優しい戦いに向かない人間なのである。
ならば、湊が戦わずに済む現状はむしろ維持されるべきではないかとチドリは思った。
「……そのアイテムを手に入れて八雲が回復したとする。でも、それって八雲を戦う道具として見るのと同じことよね。八雲は本当は戦いたくないのに、無理矢理に戦場に戻すんですから」
「私はあの方に戦いを強要したことは一度もありませんが? 力がなければ何も守れない。失ってから悔やんでも遅い。そう考え、私どものところで鍛錬を積む様になったのは彼の意志です」
最初に湊にペルソナの扱いを教えようとしたのはイゴールたちだが、それはあまりに幼い年齢でペルソナに覚醒した湊を想ってのことだ。
そして、その後の戦い方の指導や実戦形式の鍛錬は本人から頼んできたことであり、客人が強くなる手助けをする者として、エリザベスたちも了承して行っていたのである。
本人が強く希望して始めたというのに、まるで自分たちが湊を使って何かしようとしていると思われるのは心外だ。
表情は薄い笑みのままだが、エリザベスははっきりと相手の言葉に反論した。
「じゃあ、貴女は八雲に何も望んでいないのね?」
けれど、反論を受けてもチドリは正面から相手を見据えて言葉を返す。
「私たちは八雲に頼りきりよ。自分たちでは出来ないから、最終的に八雲に頼る事しか出来ないの。どれだけ綺麗な言葉で繕っても、私たちが八雲を戦う道具として利用している事実は揺るがない。愛想を尽かされてもしょうがないって思ってる」
湊が桔梗組を去って行った日は、裏切られたと思って彼を責める言葉を吐いた。
幼い頃にしたといっても、相手が言ってきたことであり、彼からしてきた約束だったのだ。それを反故にされれば恨み言の一つでも言いたくなる。
だが、それ以前に自分が相手にしてきた事を思えば、愛想を尽かして出て行っても無理はないと思った。
大人たちは彼に技術を教えていたが、チドリは守られてばかりで自分からは何も与えていない。
自分が平和に暮らせることが彼にとっての幸せらしいが、それは相手の犠牲の上になりたっていることだ。
無関係の人間が巻き込まれることを嫌ってシャドウを倒し無気力症の拡大を防ぐ。これには、無気力症の人間が増えて社会機能が麻痺し、チドリたちの生活に影響が出る可能性の排除という裏の目的もある。
結局はチドリやアイギスのためであり、人々のためにやっていることで、そこに本人の幸せは含まれていない。
それらを分かっていても、チドリや事情を知る大人たちは湊を頼らねばならないのだから、重荷に感じてもう嫌だと湊が投げ出しても誰も責めることは出来ないし、無理に連れ戻すのは自分たちのエゴでしかない。
湊に対する想いは違っていても、そこに利己的な理由は絶対に含まれないと断言できるか。チドリは相手を見つめて問いかけた。
「……そうですね。八雲様に何も望んでいないと言えば嘘になります」
真剣な相手の視線を受け止め、エリザベスも少し考え込んでから静かに口を開く。
「私は、あの方が私を倒し得るほどまで成長することを望んでおります。そして、いつの日か敗北を齎し、自分が何者なのかという問いの答えを教えていただきたいのです」
「負けても答えは出ないかもしれないわよ」
「ええ。ですが、その敗北で何かを得られる予感がするのです」
敗北から何かを得ようとしているというよりは、湊に敗北することに意味があるようにエリザベスは語る。
確かに、相手は普通では絶対に勝てないほどの実力を持っているとチドリでも分かる。
ペルソナを失う直前の湊の実力を把握していないため、どちらが優れているのかは分からないが、それでも普通の人間では対抗し得ないことは確実だ。
そんな相手が“普通ではない”湊に目を付けるのはある意味当然で、純粋に相手を心配する想いもあるのだろうが、それと同時に自分の望みを叶えてくれる存在の復活も願っているのだろう。
エリザベスの話しを聞いて色々と思うところはある。けれど、過去に湊を利用しようとしていた汚い大人たちとは種類が違っていたので、願いを持つのは自由だとチドリはそれを否定したりはしなかった。
そして、しばらく考えた後、静かに口を開く。
「……貴女の話しはわかった。けど、自分では取りにいかないの?」
「色々と制限がございますので残念ながら」
「自分が何者か知りたいなら、自分の意思で規則や法則を無視した方がいいんじゃない?」
「そうですね。いつかはしてみたいものです」
ここで“いつかは”と言った事から、相手は今回の件で自分が動くつもりはないのだろう。
超常の存在でありながら、相手もまた何かに縛られているとは面倒なものだとチドリは溜め息を小さく吐く。
「はぁ……まぁ、話しはわかったわ。行くかどうかは分からないけど、覚えておく」
「向かわれる際はシャドウの力が最も弱まる新月をお選びください。それ以外の月齢では実力の不足している者では扉を開けられませんのでご注意を。また、目的のアイテムは金色の宝箱に入っている宝玉とのことですので、その点もご注意ください」
「ええ。それじゃあね」
簡単に挨拶を済ませるとチドリは背中を向けて去ってゆく。
エリザベスはその後ろ姿に礼をするが、元の姿勢に戻った彼女の顔には先ほどよりもどこか含みのある笑みが浮かんでいた。
1月19日(金)
影時間――タルタロス・エントランス
それから約一週間後の新月の夜。どこかやる気のないような態度を取っていたチドリは、今日もまた背中に刀入れの袋を装備した姿でタルタロスにやってきていた。
両手には鎖付きの手斧、腰には白い召喚器、応急処置のための道具が入ったポーチも持ってきているが、それがどれだけの役に立つのか疑問に思いながら、彼女は目の前に佇む白銀の扉の前にいた。
(色々と考えたけど、一度でも手に入れた力は八雲のものだから……)
力を取り戻せば彼を戦いに駆り出すことになるかもしれない。それでも、様々な犠牲を払い。苦労して手に入れてきた力は彼自身のものだ。
自ら望んで力を捨てるのならともかく、如何なる理由であっても本人以外の何かが彼の努力の結晶を奪う事は許されない。
だからこそ、チドリは彼の力を取り戻すためにやってきた。今まで受けてきた恩に報いるために。
(出てくるシャドウは海外に行く前の湊に近いレベル。戦闘になれば確実に勝てない以上、索敵で敵を避けて宝箱を狙っていくしかない)
冷たい扉に手を触れてチドリは心を落ち着かせる。
エリザベスから聞いた話しが真実であれば、出てくるシャドウに自分の攻撃はほとんど効かないと見ていい。
海外に行く前の湊の適性値は“98,000sp”。ここにさらにワイルドや魔眼が加わるので湊の強さは数値通りとはいかないだろうが、モナドのシャドウはそれに近い強さを有していると思われ、チドリは遭遇すらも避けるべきだと考える。
強い敵は気配察知も得意な場合が多い。刈り取る者という最強のシャドウをチドリも知っているが、あいつは的確に自分たちの居場所を目指して進んで来るのだ。
メーディアの力で敵の居場所が分かるといっても、相手も同じようにチドリの居場所を感知できるとすれば、それのみでは何の優位性も得られない可能性すらあった。
(……それでも、少しでも可能性があるのなら)
タカヤたちに応援を頼もうかとも考えたが、大勢でいけばその分敵に気付かれる危険性も増す。
また、集団行動ではどうしても動きが鈍くなるので、チドリは生存率を十分考慮して敢えて単独で向かう事に決めた。
そうして、改めて決意を固めたチドリは重い扉を開き、強力なシャドウの蠢く迷宮へと足を踏み入れるのだった。