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「カオリ
住宅街の中、周辺の建物より数階層分高いマンションの屋上で、両目を包帯で覆う代わりに額に大きく一つ目のマークを描いた男が、跪いて言った。
「案内致しましょうか?」
「いらねェよ」
跪いた男よりも高い場所、受水槽の上に仁王立ちした島鉄雄が言った。数時間前まで、隊長が身に付けていたジャケットをまとっている。
「付いて来なくていい。お前は『スタジアム』に戻れ。ホーズキにも声をかけろ。
「御意」
「皆に思い知らせなきゃならねェ」
受水槽の上から跳んだ鉄雄は、水中を沈むかのようにゆっくりと目玉模様の男の隣へ降り立った。
「『帝国』のボスが誰かってことをな―――分かるよな、鳥男」
鉄雄は、横で跪く男に向かって顔を向けた。
「仰せの通りです」
鳥男が小さく口を動かして答えた。
「隊長―――いえ、
「フン、よく言うぜ」
異様な風体の男に向かって鼻を鳴らし、鉄雄は言った。
そして、タン、という地を蹴る音を弾かせると、鉄雄は姿を消した。
鳥男は、裸足でひとり立ち上がり、目の前の風景の一点をじっと額の目で見つめた。
遮られることなく吹く風が、彼が纏う大正期のバンカラの様な外套をはためかせた。
午後 ―――第七学区、南の外れの学生寮近く
「じゃあ、あのでこっぱち野郎が『帝国』の関係者かもしれないってこと?」
「関係者も何も、頭目的存在かもしれぬと」
御坂美琴と白井黒子は、陽が僅かに傾き始めた集合住宅街を歩きながら、その日あった出来事について声を潜めて話していた。碧々とした桜並木の葉が揺れ、歩く一行の頭上に時折刺さるような陽光を浴びせている。
「
「でも、それなら、何で『鉄雄様』は、あのメガネが爆発を起こそうとした所を邪魔したの?」
「あの」
2人の会話に割って入ったのは、前から振り向いた佐天涙子だった。堪えていたのを吐き出すような声だった。
「やめませんか……今、その話題は」
「あっ」
美琴も黒子も、前を向き同じようにハッとした顔をした。
涙子の隣には、俯きがちに歩くカオリの姿がある。
「あの、カオリ先輩……」
カオリの傍に付き添う初春飾利が、そっと声をかけた。
カオリは、ふと思い出したように顔を上げ、立ち止まった。
他の4人の視線が自分に集まる。それを感じたカオリは、落ち込んだ気持ちそのままに、更に深く俯いた。
「……えっと、ごめんなさい。気を使わせてしまってばかりで」
開かれたカオリの口から、蚊の鳴くような言葉が零れ出す。
「いえ、謝るのはこっち……あなたの気も知らないで、ベラベラ喋って」
美琴が心から申し訳なさそうに言ったが、カオリは首を小さく振り、「そんなことないです」と言った。
「彼とは久しぶりに会いました……でも、思っていた彼と違いました。皆さんに助けてもらってばかりで、私……」
「カオリさん……」
初春が、俯くカオリの顔を覗き込むようにして心配する。
カオリはしばらくずっとこの調子だった。セブンスミストで、虚空爆破事件の犯人に人質に取られたことに加え、交際相手の島鉄雄が、予想だにしない能力を行使して、周りの者に危害を加えたこと。アンチスキルや、美琴や黒子の助けによって無事に済んだが、心の面では相当なショックを受けたようだった。
その日はとにかくもう帰ろうということになり、心配した初春と佐天が帰路を付き添い、加えて美琴や黒子も同行することになった。鉄雄が、アンチスキルやアーミーの目をかいくぐって、再びカオリに接触してくることが予想されたからだ。
帝国に対して明確な敵対心をもっていた美琴や黒子にとって、カオリが鉄雄と交際関係にあったというのは驚きだった。しかし、久しぶりに再会したボーイフレンドの姿に悲しみを募らせるカオリを、2人とも気遣った。それと共に、帝国というグループに対する評価とは別に、島鉄雄という人物のことを悪人と決めつけてよいのか、測りかねてもいた。
「あの……ここまででいいです」
古びた学生寮の建物の前で、カオリは立ち止まり、僅かに顔を持ち上げて言った。
その視線は地面に落とされていた。
「本当に、今日は、ありがとう―――いえ、違いますね。何と言っていいか……」
カオリの心の中には、4人に対し、危険から救ってくれたことへの感謝の気持ちがある。
しかし、それ以上に、自分にとっての想い人である鉄雄が豹変し、自分も知らない高度な能力で牙を剥いたこと。それによって、4人を危険に巻き込んだこと。
その事実が重くのしかかり、申し訳なさや、悲しみが晴れなかった。
暫くの間、重たい沈黙が、少女達を囲んだ。
「―――また、行きましょう」
口を開いたのは、佐天涙子だった。
「えっ」
カオリが顔を上げた。予想外の言葉だった。
「ほら、今日は結局、色々あって、服とか買えなかったけど―――私、先輩とああやってお出かけできて、楽しかったですよ!ね、初春?」
「も、もちろんですよ!」
初春が何度も頷いた。
「もう少し、落ち着いたら―――今度こそ、先輩に似合う服、ちゃーんとモノにしましょうよ!」
「先輩、今日合わせた服、かわいかったですよ!だから、お金はしっかり、とっとかなきゃダメですよ!」
涙子が快活な声で笑顔を浮かべて言う。ちょうどこの日の晴天のようだ。
しかし、そんな努めて明るく振舞ってくれる2人の様子を見て、尚更カオリの顔は曇った。
「2人とも、私を避けないの?」
「え?」
佐天と初春が目を丸くする。
「だって、私の彼は……あんな悪い人だったんだよ?」
カオリは両手をぐっと握り締め、震わせた。
「そりゃ、今までだってバイク走らせて騒ぐようなことはしてたけど……私にも、何でか分からない、あんな風に、周りの人に襲い掛かるような人じゃなかった。それで今、鉄雄君は、悪いグループのメンバーなんでしょ?」
カオリの視線が、僅かに黒子と美琴の方へ向けられた。
「やっぱり、私と関わると、みんな良くないことばかり起きるんだ……だから、もう……」
「そんなことありませんわ!」
黒子が力強く言った。言葉に詰まっていたカオリは、黒子の方を見た。
「人が傷つけられるのを見て、悲しむことができる。カオリさん、あなたのその思いは、正しいものですの。ですから、あなたを疑うことなど、あり得ませぬわ」
「でも!」
カオリは泣きそうな声で言った。
「初春ちゃんから聞きました。白井さん、あなたは、帝国ってそのグループの人に、ひどいことをされたんでしょう?私の彼が、鉄雄君が、そのグループのメンバーだっていうなら、私、あなたに恨まれたって、仕方がない!」
「カオリさん」
黒子が微笑んで名を呼んだ。優しい笑みだった。その笑顔を見て、頬を紅潮させていたカオリは少し落ち着いた。
「
「え?なんで」
「あなたこそ、お辛い目に遭ったことは、私もちろん、存じ上げています。きっと生半可ではない出来事だった……けれども今日は、こうして信頼される友を得ておられるではないですか」
黒子が顔を初春と涙子に向ける。
「友……ともだち?」
カオリも顔を向けたので、初春と涙子は少し照れくさそうに視線を泳がせた。
「特に初春は、ジャッジメントとしての私の後輩ですが……見てくれはまあ、ちっこくて少し頼りが無いですが」
それ、白井さんもヒトのこと言えます?と初春が頬を膨らませて言ったが、黒子は咳払いして続けた。
「……何が正しいか、正しくないのか、物事を真っ直ぐ見つめることのできる子なのですよ。そんな初春が、あなたのことを信頼している。私にとってみれば、それがカオリさんを疑わず、信ずるに足ると考える証ですわ」
初春が、今度は顔を少し赤くした。
「わ、私もですよ!白井さん!私も、人を見る目はあります!その、人並みには……」
佐天がやや尻すぼみに、しかし胸を張って言うと、黒子は頷いた。
「ですから、私はあなたを信じます。何かこの先困ったことがあれば、いつでも頼ってくださいまし。私は、ジャッジメントなのですから」
「白井さん……」
カオリが目を潤ませて言った。
「私も、あなたのことをもちろん信じてるよ」
美琴がカオリに向かって言った。
「むしろ、今日の様子見てたら、あなたこそ、この先危ない目にまた遭うかもしれない。その島ってヤツのことはよく知らないけど……でも、私たちが手にしている能力って、絶対に、自分勝手な都合で人を傷つけるためにある訳じゃない。あなたは、きっとその事をよく理解している。だから、私だってあなたを信じるし、力になるよ」
「御坂さん。みなさん―――」
カオリは周りの4人の顔を見まわし、目元を一度手で拭うと、頭を下げた。
「本当に、みんな優しい人……こんな私に、ありがとうございます」
少女達のもとを、一陣の風が吹いた。
重苦しかった空気が、ほんの少し和らいだようだった。
そんな中、美琴はふと背後を振り返る。
「……お姉様?」
美琴の、先ほどまでと異なる厳しい表情に気付いた黒子が、声をかけた。
「……やっぱり、現れる気がした」
美琴の言葉に、その場の全員が振り向いた。
カオリは、口元に手を当てた。
「鉄雄君……!」
「言ったろ。必ずまた会いに来るって」
ズボンのポケットに両手を突っ込み、不敵な笑みを浮かべて、島鉄雄が立っていた。
カオリの前に立ち塞がるように、美琴が立った。
黒子も、涙子も初春も、カオリを守るようにして立ち、現れた鉄雄をじっと見据えた。
「島……鉄雄!」
美琴が名を呼び、口元をきゅっと結んだ。
「常盤台のお嬢に用はねェよ。暗くなんねェ内にお迎え呼びなって」
鉄雄がせせら笑うと、美琴の髪の毛が俄かに逆立った。
「言ってくれンじゃないの……!」
鉄雄は首を上げて、一番後ろで張り詰めた表情をしているカオリを見た。
「カオリ」
鉄雄が名を呼ぶと、カオリが肩をぶるっと震わせた。
鉄雄は掌をポケットから徐に取り出した。赤い火傷の跡が生々しい手だった。その指に摘んでいた物を、鉄雄が空中に投げ出した。
小さな物体が美琴たちの頭上を飛び越え、ふわりとカオリの前に浮かんで静止する。
「受け取ってほしい……お前も、
カオリが恐る恐る両の掌を差し出すと、ぽとりと浮かんでいた物が落ちる。
携帯電話に挿入できる、メモリーカードだ。
「俺と一緒に来い。カオリ」
片手を差し出す鉄雄に、カオリの前に立つ少女たちがじっと相対した。