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7月17日 ―――第七学区、
「一体何事だってんだ」
「いや……とにかく、早く中に入れてくれって言うもので」
日付が変わって間もない深夜。宿直を務めている2人の警備員が慌ただしく玄関へ向かう。
「こんな火曜日の丑三つ時に、まさか酔っ払いのお守りじゃねえよなあ」
「どうでしょう、呼んでるのは女性です。センサーカメラの映像には、白衣を着た人間が映ってましたが」
二重扉の内扉を開錠した一方のアンチスキルは、相方に向かって怪訝な顔をした。
「……白衣?女だと?胡散臭いな」
二人は内扉を抜け、ガラス張りの外扉の方へと歩み寄った。
支部の周辺は、深夜でも街明かりが少なくなく、ガラスの向こうには、確かに髪の長い白衣の女の姿が見えた。
「はいはい、どうしましたか……えっ」
二人は外扉を開けようとした所で、ピタリと足を止めた。
バン、と女が掌をガラスに打ち付けた。そして、ずるずると、ゆっくりと掌をガラスに押し付けながら、蹲った。
血の痕が、掌の形に、墨汁の足りない毛筆のように、ガラスにくっきり残った。
「わっ、わっ」
「何ビビッてやがる!バカ!!」
足が竦んでいる若手の相方を叱咤し、先輩の男が急いで扉を開けた。
「大丈夫かいアンタ!」
助け起こされた白衣の女は、蒼白な唇を震わせて何事か喋ろうとする。
「おい!すぐに救急車!肩に負傷!多量に出血している!」
先輩からの指示に、相方は上擦った声で返事をし、慌てて携帯電話を手に取る。
「……?なんだって、今は喋るな―――」
「……たのむ、たすけてくれ」
傷口に止血処理を施されている間、白衣の女は虚ろな目をしてうわごとのように呟いた。
「アーミーに、おわれて……ほご、してくれ」
背後の通りでは、輸送トラックが唸りながら深夜の街を駆け抜けていく。けたたましい走行音の中、木山春生の声が辛うじてアンチスキルの耳に届いた。
朝 ―――
「駆け込んできた人物の名は、
火曜日。通常であれば、教師は間もなく始業を迎える時間だが、臨時で招集された会議の参加者たちは今、警備員として着座している。会議室は空席が目立ち、参加している人数はまばらだった。
数少ない参加者の中から、屈強そうな体格の男が手を挙げる。
「その……会社ってのは?」
「水穂医科大学の卒業生を中心に立ち上げられたベンチャー企業です。大脳生理学を専門とする研究を行っており、
「大脳生理学……」
緑色を基調としたジャージ姿の黄泉川愛穂は、寝言のように小さく呟き、ペンを指で挟んだままの片手で鉄紺色の髪をがしゃがしゃと掻いた。昨晩も日付が変わる間際まで業務があり、それからの早朝ミーティングとあって、充分な睡眠はとれていない。髪は潤いがなく、指で梳く度に引っかかりを感じた。
「銃弾は?この資料によると、肩甲骨で止まっていたとあるが」
タブレットの画面から視線を上げた工示が、早口に言った。
年長者からの質問とあって、説明者の若手の警備員は、僅かに肩を震わせてから答えた。
「先ほど摘出が無事済んだと連絡がありました。詳細な解析はこれからですが……送られてきた画像をAIの簡易分析に掛けた結果、P8.5の可能性が高いと」
「新首都工業が製造している拳銃か」
「はい。で、このモデルですが、昨年に本格生産が始まったばかりで、国内では限られた卸先にしか流通してません。それが―――」
テレビモニターに、トリガーの部分にチェーンが付けられた一つの拳銃の写真が示される。恐らく、展示用の物だろう。そのグリップ部分には、2つの盾に添えられた桜の紋章があしらわれていた。
「アーミー!」
何人かの同僚がざわめく中、黄泉川は急に視線を鋭くし、モニターを睨んだ。
「そういえば……この人、俺達宿直が救急車呼ぶ間にうわ言みたいに言ってたんだ。『アーミーに追われてる』って」
目の下に濃い隈をつくっている、中年の男性警備員が思い出したように言った。
すると、工示がはっきりと眉間に皺を寄せた。
「……厄介だ。まさか、ゲリラ絡みじゃないだろうな」
「アーミーがもし実弾を発砲したとすれば、明らかに規定違反じゃん」
黄泉川が静かに、しかしはっきりと言ったことで、工示は顰め面を黄泉川に向けた。
「支部長。先日の連続発火強盗の犯人を強奪された件といい、アーミーの横暴は目に余ります。中央へ進言の上、協定内容の厳守と再発防止、責任者の処罰を求めるべきでは?」
「……善処する」
「もっと強いお言葉が頂きたいところですね、仮にも我々のリーダーとしてのお立場ならば」
「何だと?」
棘のある工示からの返事があり、直後に、黄泉川の隣に座る男性警備員が、「黄泉川さん!」と窘めるように小声で言った。
黄泉川は机に手をついて立ち上がり、怖気ずに言う。
「この第七学区は、学生の街です。市民の、子どもたちの安全を守るため、我々とアーミーは手を組んだ筈。ゴム弾の規定もその一つです。世闇に紛れたヒットマン紛いのことをさせるために結んだ協定ではない。支部長もお分かりでしょう?我々の思いが踏みにじられているんです!」
工示は、黄泉川の鋭い目を避けるかのように顔を落とし、片手で眼鏡の位置を直した。
「アーミーの仕業と決まった訳ではない。現時点で、君の言うことは全て、憶測に過ぎない」
「ならば、使用された銃の特定を早急に進め、線条痕の照会を、理事会を通してアーミーに―――」
その時、バンというやかましい音が室内に響き、何人かの参加者が肩を震わせた。
工示が、苛立ちを露わに、掌を机に押し付けて、黄泉川を睨んでいた。
「なあ黄泉川……誰が、いつ、やるんだ?そんな暇人が、この支部にいるのか?うん?」
黄泉川は、黙って工示へ視線を返している。隣の同僚が、「勘弁してくれ」とでも言いたげに頭を抱えている。
工示は、腕時計を見て舌打ちすると、神経質そうに指先で机をトン、トンと叩き始めた。
「この学期末の、火曜日の朝っぱらから、管理職に頭を下げて自習計画を組んでだな、緊急にミーティングをしてる当初の目的は何だ?忘れた訳ではないだろうな」
「……
「ああ。それで?その本題は済んだか?」
「……いえ、まだ」
「なあ、必要なことを、今やるべきことを、さっさと片づけて、効率よく行くべきだろう。我々は!」
工示は両手を広げて、まばらな参加者相手に訴えかけた。目立った反応は無い。
「寺に駆け込んできた女のことなど後回しだ!今は病院に預けている、詳しい話はその後でいいだろう!それよりも、我々が共有すべきは、この少年のことだ!」
工示が乱暴にポインターを操作すると、銃の画像に代わって、一人の男子学生の顔写真がアップで映し出された。眼鏡をかけ、頬のこけた、茶髪がかった少年だった。見るからに気弱で、陰険な印象を受ける。
「―――当初の容疑者であった女子学生が候補から外れたため、残り3人の『
「子どもを巻き込む気!?」
一斉にメモをとる音でざわめく中、黄泉川が信じられないという口調で声を上げた。
「あの一連の爆破事件は、明らかにジャッジメントを狙っていると理解してんじゃん?」
工示が、黄泉川に向かってせせら笑った。
「敵を知らずに、どうやって身を守れと言うつもりかね」
「今はジャッジメントの活動に制限をかけている。もしや、人手が足りないからって、校外での警備活動に手を借りるような、矛盾する真似はしませんよね?」
「話は終いだ」
工示が黄泉川の問いを無視し、忙しなく立ち上がった。
「各自、本日の警備行動を通して、この介旅という学生の目撃情報を当たれ。ああ、もちろん、アーミーの落とし物の解析結果などは、サーバーにアップして、回覧で済ませとけ、それで十分だろうが」
工示が早口でまくし立て、先回りするように黄泉川の方を指差した。抗議するような素振りを見せた黄泉川は、口を噤まざるを得なかった。
「以上だ、解散!皆、2時間目まで無駄にしたくはないだろう……俺は
「あのクソ支部長。体面ばっか気にしやがって……」
顰めっ面で廊下を歩く黄泉川の横を、先ほどの会議でも隣に座っていた同僚が並んで歩いている。
「まあまあ、黄泉川さん。支部長の言う事にも一理ありますよ」
「ほう?潮騒、あんたはホトケだねえ。あたしは今、腹ン中の閻魔大王が、そこら中釜茹でにして煮えくり返ってんじゃん」
「ほら、実際黄泉川さんも俺も、みんな忙しすぎるんスよ。人手不足は全くその通りで……吸うなら喫煙スペース行ってください、仮にも教師でしょ?」
潮騒に窘められて、黄泉川は渋々、ジャージのポケットから取り出しかけていた小箱を再び仕舞い込む。
「仮は余計だぞ、潮騒」
「すんません……まあ、黄泉川さんの提案しようとした議題、あからさまにスルーされちゃいましたね。あれは良くないと思いますよ、俺も」
「……見逃してはならない情報だと思うじゃん」
先ほどまで煙草を摘んでいた指で、寂しさを紛らわすように頬をつつきながら、黄泉川は言った。
「アーミーが今月の2日に、あの住宅街の騒ぎの時に落としたカプセルさ……成分を解析して、同じものを複数のマウスに投与したら、そいつらはある時を境に、昏睡状態に陥った。それらの異なる個体間の脳波は、不定期に、特徴的な短い棘波を示す……昏睡中の具体的行動としては、痙攣したり、鳴き声を上げたりとかな」
「でも、それが今回の騒ぎと、何の関係があるんです?」
「帝国の連中は、逮捕後に昏睡状態に陥るのが相次いでいるじゃん?」
エレベーターに乗り込んで、一階へのボタンを押し、黄泉川は才郷に答えた。
「それに、聞いたか?噂じゃ、ある同じ『うわ言』を何度も繰り返す症状が現れているって」
「集団パニックみたいな?けれどそりゃあ……帝国の連中がばら撒いているっていう、ドラッグの幻覚作用で説明はつかないスかね」
「私は」
降下するエレベーターの中、言葉を区切って、黄泉川が言った。
「あの『帝国』って奴らと、アーミーは無関係じゃないと踏んでいる」
「昏睡状態に陥った連中と、そのアーミーの落とした薬物の動物実験の結果が、似てるってことスか?」
「それもあるけど」
黄泉川と潮騒の乗るエレベーターの扉が開いた。
「アーミーのラボで開発を受けた、島て―――ん?」
エレベーターから外へ何歩か踏み出したところで、黄泉川の携帯電話が着信を告げた。
「ごめん、先に行ってて」
潮騒に促すと、黄泉川は着信に応答する。
「ああ、牧子ちゃん。ごめん、折角作ってくれた解析資料だけど、やっぱりウチの支部長、アタマ固くて―――」
『黄泉川先生!アーミーが!』
切羽詰まった若い女の声が電話口から響き、黄泉川は表情を引き締めた。
「どうしたんじゃん!?」
『アーミーの黒服たち―――特務警察が、今ここに……職業訓練校に、強制捜査に来てます!目的は、恐らくあのカプセルです!!』
(10/8)後半に登場する男性警備員を「才郷」としていましたが、彼は七三支部ではなく、八四支部の所属でしたので、黄泉川と同じ七三支部所属の人物として、「潮騒」に差し替え、訂正します。